明治34年5月 歌舞伎座 五代目中村芝翫襲名披露 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は再び歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。

 

明治34年5月 歌舞伎座


絵本筋書はこちら

 

演目:

一、世響太鼓功        
二、山門五三桐        
三、箱書附魚屋茶碗        
四、六歌仙        
 

團菊没後の明治後期から、昭和15年に死去するまでのおよそ半世紀に渡り歌舞伎界の頂点に君臨した五代目中村歌右衛門(当時四代目中村福助)が養父の名跡である五代目中村芝翫を襲名した時の筋書です。

 

主な配役一覧

 

歌右衛門といえば後の襲名で披露した京鹿子娘道成寺の白拍子花子や三姫、伽羅先代萩の政岡、助六所縁江戸桜の揚巻など女形として数々の当たり役が多い為、それらの演目での襲名をしても一見おかしくない様に思えますが、これにはきちんとした理由があり

 

・一幕目の世響太鼓功は明治14年5月の新富座で彼が四代目中村福助を襲名した時にも上演された所縁のある演目

 

・中幕は2年前に亡くなった養父四代目中村芝翫の三回忌追善もあり養父が得意とした演目の山門五三桐

 

・大切は49年前に亡くなった養祖父四代目中村歌右衛門の五十回忌追善とあって養祖父が最後に演じた六歌仙

 

での襲名披露狂言に選んだと言われています。

 

四代目芝翫の追善公演もあってかこの頃後述する理由で関係が悪化し滅多に共演しなくなっていた市川團十郎や尾上菊五郎も出演しています。

團十郎と芝翫の関係悪化について近年半可通で有名なN川こと室田君が著書で「書かれている事より書かれていない事の方が重要だ」半可通らしい世迷言を言って明治33年7月の春木座の「処女勧進帳」という演目を巡って両者の関係が悪化したと書いていますが、この事について伊原敏郎氏の著書「明治演劇史」には

 

「(明治31年5月の歌舞伎座の鏡山故郷錦で)福助(当時)に尾上を演じさせようとしたが、彼が給金を増額するよう要求したので歌舞伎座の重役や團菊の不興を買ってしまい彼は休み、尾上役は二代目坂東秀調が務める事になった(意訳)」

 

とはっきり書いています。

 

それに対して歌右衛門は後年出した自伝で給金の増額要求の話は否定した上で

 

3月の歌舞伎座の役の政岡に続いてまた同じような片はずし(武家の女役の事)の役を務めるのは嫌だったから

 

と断った理由を示し反論しています。

後の四人同盟の一件もそうですが、歌右衛門は自身にとって都合の悪い話に関しては「一応触れた上で自身の主張を書いて反論する」という方針を貫いていています。

それに加えて歌右衛門が出演している処女勧進帳には触れていない=何か不都合があったという主張もよくよく歌右衛門の自伝を見てみると自身が出演している演目でさえ書く事が無ければしばしば省略しており、今回の襲名に関しても出演しているはずの世響太鼓功については何も書いていません。

書いてない=何かあったから書いてないという主張があまりに牽強付会の主張であると言えます。

因みにこの給金の話の真偽に関しては田村成義も「続々歌舞伎年代記 乾」で福助側から不当な要求があったと書いている事からも事実と見ていいかと思われます。

 

推測ですが室田君が「処女勧進帳」を担ぎ出してきたのは同じく田村成義が後年第一次歌舞伎に掲載した「芸界通信無線電話」の中で三木竹二を登場させてきた際に文中で

 

あの時芝翫が女勧進帳をしたというので堀越の鼻つまみになるしーもっとも他から茶々を入れた者もあったそうだがー」(芸界通信無線電話)

 

 

と語らせているこのたった1行の事を持ち出して語っているにすぎないと思われます。因みにこの文章が連載されたのは明治42年3月の事ではるか後年の田村没後(大正11年)に出した「続々歌舞伎年代記 乾」には書かれていない事からも確実に裏を取った内容ではなく、歌右衛門も特に釈明や抗議の文章を載せず僅かに女暫の時に「他人を介さないと上手く行く」とこの事に関連していそうな内容をちらりと書いているのみで歌右衛門からすれば特に團十郎を怒らせたという認識もなく、関係者を間に挟んだ事で上手く行かず行き違いがあったのでは?ぐらいにしか推察できません。

なので上記の鏡山の一件をわざわざ無視してまで不仲の原因だと取り上げるのはナンセンスで鏡山の一件からギクシャクし始めた2人の間の中でそういった事があった(かも)ぐらいに留めておくのが無難と言えます。

 

話が大分脱線しましたので元に戻しますとこの時の芝翫は既に鉛毒の影響で歩行がおぼつかないのに加えて風邪をひいて肺炎になりかけるなど体調も頗る悪かったのか、演技においても影響を及ぼしたらしく観劇した人によると

 

「(世響太鼓功の)家康は(戦で負けて)働いて帰ってきたとは思えない。(芝翫が動かないので)まるで初陣でこれから初めて戦に行くようだ

 

とかなり辛辣な評価をされています。

当時の人は例え役者が病気であろうが容赦ないですね(笑)

一方で歩行を伴わない役であれば立役でも全く問題は無かった様で山門五三桐の石川五右衛門は「立派だった」と絶賛されています。

 

芝翫の石川五右衛門

 

肝心の成績はというと團菊が揃った上に芝翫襲名のご祝儀もあってか連日満員の大入りだったそうです。

 

…とここからは私見ですがこの公演は重要な意味合いを持っていると思います。

というのも既に團菊の2人には老いの影が忍び寄っており菊五郎はこの年の12月に脳卒中で倒れ後遺症が残ったまま舞台に復帰するも36年2月に亡くなり、團十郎も後を追うように36年9月に亡くなってしまいます。

その為この公演の後に團菊が同じ舞台に立てたのは明治34年、35年の10月、11月の4公演のみに過ぎず菊五郎の体調を考慮すれば2人が満足に舞台に出演できたのはこの公演と10月公演の2公演だけになります。

10月公演は不入りで公演途中で打ち切った事を考えるとこの公演は明治歌舞伎の中心となった團菊の最後の大舞台だった言えます。

当時飛ぶ鳥を落とす勢いであった芝翫と既に落日に入りつつあった團菊…

そんな歌舞伎界の世代交代を象徴する重要な公演だったと言えると思います。