梅と菊 | 栢莚の徒然なるままに

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戦前の歌舞伎の筋書収集家。
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今回は前回紹介した市村座の筋書に因んで久しぶりに本の紹介をしたいと思います。

 

梅と菊

 

 

大正時代から平成時代初期まで活躍した名女形である七代目尾上梅幸の自伝となります。

七代目尾上梅幸の本といえば1989年に刊行された「拍手は幕が降りてから」がありますがこちらはその20年前の1979年に日本経済新聞に連載された私の履歴書を1冊に纏めて出した物であり、芸談中心の拍手は幕が降りてからに対してこちらは連載の主旨もあって自伝的要素が強めの内容となっています。

 

表装は斧琴菊をあしらったお洒落な物

 

本人の写真

 

今でこそ公になっていますが梅幸が鍋倉直の子供で菊五郎夫妻の養子になった事を公表したのがこの時であり、彼が思春期真っ只中の15歳の古くからいる弟子達から噂話として聞いた際に苦悩した事やそれを終生語らなかった両親との関係も赤裸々に書いており、後に本人が兵役の関係で戸籍を取り寄せた時に養子だと知った後の考え方の変化や義弟に当たる尾上九朗右衛門や2人の義妹との関係なども包み隠さず率直に書いていてその点でも自身の出生(俗説を除いても養子である事)について一切語らなかった六代目中村歌右衛門とは対照的と言えます。

それはさておき、内容としては上記の出自の件から始まり両親や音羽屋についての紹介があり、私の履歴書らしく幼少期から現在まで時系列的に書かれいる第一部と得意役などについて触れた第二部、最後に単行本化に際して加筆された諸先輩の俳優について触れた第三部から成っています。

まず第一部についてですが彼の記憶の関係から初舞台から市村座買収の頃までの記述は少なく、僅かに初舞台の様子や子役時代の稽古事などかなり断片的となっていますが、そんな中でも亀三郎(十七代目市村羽左衛門)と楽屋で関東大震災の被災した話に関してはあわや梁の下敷きになる所を弟子である音平がすんでの所で救出し迫りくる火災流の中から何とか難を逃れた話はかなり生々しく歌舞伎云々の話を抜きにしても震災の記録として一読の価値があると言えます。

そしてメインの記述は昭和に入った辺りから戦後が中心となっています。

菊五郎の後継者という立場からか大切な御曹子として蝶と花よと育てられたイメージがありますが、確かに他の弟子達、例えば配役の不満から父親の元を飛び出した七曜座の役者達とかに比べれば世界恐慌の吹き荒れる中、役が付かなく明日の飯の心配が…の様な話はなく菊五郎が様々な趣味に明け暮れ奢侈を尽くして高価な物を次々買っていた為に当時の金額で百万単位の借金があったという実家の赤裸々な台所事情も書いたりもしていますし、同世代の松緑、又五郎、雀右衛門らが経験した兵役についても病気の為に免除されていて従軍による人生観の変化も無いなど比較的恵まれた生活を送っていたのは事実です。

しかし、そんな幸せな環境下で戦前を過ごした梅幸も芸の面では菊五郎のスパルタ教育もあり、他の御曹子の様に腑抜ける事はなく過ごし、終戦後になると頑強に思えた父菊五郎の衰えを間近に見た事で稼ぎ頭が休む事で生計が立たなくなる一座の生活を考えて父親抜きでの公演を開いたり松竹に給金値上げの交渉を始めて菊五郎との衝突した事や六代目梅幸未亡人の願いもあり七代目尾上梅幸を襲名するなどして音羽屋の後継者としての自覚と行動が芽生え始め、後ろ盾であった菊五郎の死を受けて生まれて初めて直面した逆風を受けて一癖も二癖のある役者が多い菊五郎劇団を纏める座頭としての映画出演や巡業を行って仕事を見つけてくる苦労などを経て一座の客演となった九代目市川海老蔵の人気によって経営が安定するまでの日々を綴り最後は息子の四代目菊之助が1973年菊五郎を襲名した所で終わっています。

七代目梅幸と言えばリアルタイムで見ている方は勿論ご存知ですが温厚篤実の紳士な人柄で知れ渡っていますが、その背景を知る上では実にコンパクトに分かり易くまとまっており、知っている方も若い方でも「安心して」読む事が出来る内容となっています。

 

そして、この本を刊行するに当たって新たに書き下ろした第二部の芸談のページに入ると梅幸が印象に残る役々について50P以上に渡って触れています。彼が選んだ役を列挙してみると

 

・摂州合邦辻の玉手御前

 

・熊谷陣屋の相模

 

・仮名手本忠臣蔵のおかると塩谷判官

 

・妹背山婦女庭訓のお三輪

 

・新版歌祭文のお光

 

・与話情浮世横櫛のお富

 

・新皿屋舗月雨暈のお浜

 

・花街模様薊色縫の十六夜

 

・雪降夜入谷畔道の三千歳

 

・勧進帳の義経

 

・青砥稿花紅彩画の弁天小僧菊之助

 

・京鹿子娘道成寺の白拍子花子

 

・春興鏡獅子の小姓弥生と獅子

 

と時代物、世話物、舞踊に立役、女形と多種多様な16役を取り上げています。

この内お家芸である世話物や舞踊が8役、その他が7役と綺麗に分かれており、この内塩谷判官とお光を除くと何れもがライバルと目された六代目歌右衛門も得意とした役であり、彼の役作りや衣装との違い(玉手御前の俊徳丸への恋心や道成寺の道行など)もあれば梅幸が成駒屋の型(勧進帳の判官御手の中啓について)の方が良いと賛同したり、かと思えばお三輪の役の大切な所の着眼点が異なる(恋心を持つ娘役の性根の大切さを説く歌右衛門に対して梅幸は脇が務めるいじめの官女の大切さを説く)など2人の役に対する見方の比較が楽しめます。

また、どちらかと言えば立役が豊富に入る菊五郎劇団では支える側に回る事が多かった彼だけに本の中でも

 

六段目のおかるは勘平を立てて控え目に演じるので自然、内攻するから、七段目のおかるより皮肉な役でむずかしい。」(本文より抜粋)

 

と一歩下がる女形の心得の大切さを話す一方で熊谷陣屋については性根の難しさと説く傍ら端場をカットする事で相模の出が印象的になる=栄えると女形としては引き立つのは理解できるなど女形ならではユニークな視点での解説があるのが特徴でもあります。

一方でお家芸である弁天小僧や宗五郎女房お浜、お富などについては性根についても触れつつも緻密な構成を考えた五代目菊五郎、その芸にさらに写実味を加える変更を施した六代目菊五郎、あるいは相方の身長に合わせて適宜小道具の工夫で女らしく見えるようにした六代目梅幸の性根ばかりではない細かな技巧の役作りの例を触れつつ、自身の工夫も解説するなど音羽屋らしい芝居の奥深さが堪能できます。

 

そして第三部は梅幸自身が知っている戦前の名優についての思い出話となっています。

正直この本の中でも一番面白いのがこの第三部で第一部でも菊五郎は無論の事、十五代目市村羽左衛門の無邪気なエピソードを書いていますが、ここでは伯父六代目梅幸、叔父六代目彦三郎を筆頭に音羽屋一門は元より父親のライバルである初代吉右衛門や七代目三津五郎、七代目幸四郎、七代目中車といった大幹部に加えて十一代目仁左衛門や二代目延若、三代目梅玉といった上方の大御所、更には本人が一度も共演した事がない二代目左團次や子役時代に会った市村座の三階役者の人までも紹介していて加筆とは思えない位のボリューミーな内容になっています。

折角なので幾つか紹介するとまず一番面白いのが梅幸の叔父である六代目彦三郎です。彼は「大時計」とあだ名された位の大の時計好きでその時計にまつわる話もありますが実は兄菊五郎に引けを取らない悪戯好き且つ天然の一面があり、

 

・家に遊びに来ていた四代目澤村源之助をからかおうと弟子に命じてマイクロフォンを使ってラジオ放送のフリをして「源之助の自宅から火が出て火事になっている」という嘘をニュース風に伝えて源之助を青ざめさせて慌てて帰らせる

 

・刎頚之友とさえ言われた松竹の創業者である白井松次郎でさえ、容易に入る事を憚れた初代中村鴈治郎の楽屋に「成駒屋のおじさん、いるかい」と言って顔だけ拵えたふんどし一丁の姿で平然と入っていき置いてあるお菓子をそのまま口に入れて食べながら帰る

 

・その初代中村鴈治郎と南座の顔見世で共演した時(昭和4年12月)に礼儀正しく衣服を整えきちんと膝をついて正座して挨拶した兄梅幸の横で「おじさん、よろしく」と立ったまま一言だけ挨拶しそのまま帰る

(何れも出来事も初代鴈治郎はあまりの図々しさに怒る事も出来なかったとの事)

 

と一歩間違えれば半殺しか干されかねない傍若無人を絵に描いたような振舞をしながらもその愛嬌さで怒れないので許されるという叔父の一面を記しています。

また七代目幸四郎は写実に真面目一途な性格故に力を一切抜かずに演じる為、仮名手本忠臣蔵で共演した際に小突かれただけなのにあまりの怪力で油断して突き飛ばされてしまった話や二代目延若が若手にアドリブで下ネタを振って来て対応に困ったという他愛のない話もあれば共演こそないものの直に舞台を見た二代目左團次の音羽屋にはないそのカリスマ性だけで成立させる骨太な芸の偉大さや菊五郎と息の合った踊りを見せた七代目三津五郎が体格差を埋める為に秘かに行っていた工夫など立派な芸談になりそうな話まで多種多様に溢れており歌舞伎好きな人にとっては必見の内容と言えます。

 

拍手は幕が下りてからも確かに名著ではありますが、こちらの本も合わせて読む事で七代目梅幸の芸や見識の深さでより知る事が出来る本ですので古本屋なので見つけたら音羽屋贔屓でなくともお買い求めされる事をお勧めいたします。

 

また近々音羽屋に関する著書を紹介する予定なので楽しみにお待ちください。