新演芸 大正10年5月号 新劇と写真特集 | 栢莚の徒然なるままに

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今回はうっかり順番が前後しましたが久しぶりに新演芸を紹介したいと思います。

 

新演芸 大正10年5月号

 

前回の新演芸はこちら 

 

 さて、まずは恒例の各座の様子についてですが歌舞伎座は大一番の4月公演に対して専属一座に我童を加えた座組で仮名手本忠臣蔵の通しを目玉に

 

仮名手本忠臣蔵

明治第一年

鴉舞鷺娘

 

を上演しました。

 

前回の仮名手本忠臣蔵の通し公演はこちら

 

 

前回と大きな違いとしては前回は塩冶判官とおかるを演じた歌右衛門が今回はおかるのみとなり塩冶判官を羽左衛門が演じ、羽左衛門が演じてた桃井若狭之助を我童が演じるなどして配役を一部変更した他、大序をカットして進物場から始まるという変則的な上演で臨みました。

 

我童の桃井若狭之助
 
仁左衛門の高師直と羽左衛門の塩冶判官
 
左團次の斧定九郎と羽左衛門の勘平
 
仁左衛門の大星由良助と傳九郎の斧九郎兵衛
 
結論から言うと歌右衛門のおかると羽左衛門の勘平の道行が評価された他、仁左衛門がいつもの反骨ぶりを久々に発揮して九代目の作り上げた型を一切無視して在来の型で演じながらもその巧みさで劇評を押し黙らせるなど芸達者な一面を見せるなどして残る明治第一年と鴉舞鷺娘の不評を差し引いてもおつりが来る位の出来栄えだったらしく入りとしては大入りとなったそうです。
次に歌舞伎座との掛け持ち出演となった左團次は一座に雀右衛門、壽三郎、多見蔵ら上方勢と成駒屋、高砂屋の両福助を加えた座組で明治座に立て籠り
 
桐一葉
順番
阿蘭陀船
嫗山姥
其姿団七縞
三件茶屋
 
を上演しました。
桐一葉に福助と聞くとてっきり淀殿役を福助が演じたとばかり思われすがそんな親への忖度は働かずそもそも今回は帝国劇場で上演されて以来毎回カットされる様になった蜻蛉と銀之丞の件のみを演じる変則的な上演となり彼は蜻蛉を、銀之丞を猿之助がそれぞれ務めました。
 
福助の蜻蛉
 
いくら歌右衛門と仁左衛門には敵わないとはいえ、大胆にも淀君と且元の出番を全カットするというかなり思い切った上演となりましたがどうやらこれは初めて親と離れて単独で出演した福助のたっての希望で実現したものらしく銀之丞を演じた猿之助と共に綿密に役の肚を豊臣家の滅亡と言う壮大なテーマから叶わぬ少年少女の悲恋の方に軸を置いた事もあり、心配の余り自分の持ち役の稽古を差し置いて彼の稽古場の様子を見に来た親バカ歌右衛門の心配をよそに予想以上の好演を見せたらしく、福助も掛け持ちで出ている歌舞伎座の入りには無関心なのに明治座の入りが良い話になると珍しく饒舌になり喜んだそうです。
 
そして残る演目の内、唯一の古典演目である嫗山姥と岡鬼太郎が左團次の為に夏祭浪花鑑を実録風に書き替えた其姿団七縞の出来が良かったらしく左團次贔屓の支持に支えられてこちらも入りの方は満員大入りの日も出る等そこそこ良かったそうです。
 
雀右衛門の八重桐
 
一方、新富座は3月から上京している中村鴈治郎一座が珍しく2ヶ月続けて公演を開き一座に中車、雀右衛門、右團次を新たに加えて
 
根元草摺曳
近江源氏先陣館
安宅関
土屋主税
藤十郎の恋
初音の旅路
 
を上演しました。
前月の3月公演が東京初上演となる藤十郎の恋の前評判もあって大入り満員になった事もあり、今回も引き続き上演された他、唯一中車の出し物として安宅関が上演されました。
 
中車の弁慶
 
そして鴈治郎は2ヶ月連続公演とあってか上述の藤十郎の恋に加えて東京では明治42年10月の歌舞伎座公演以来12年ぶりとなる盛綱陣屋を出すなど万全の体制で臨んだ事もあり歌舞伎座にも劣らぬ大入りとなり、終始上機嫌で公演を終えて帰阪しました。
 
鴈治郎の盛綱
 
梅玉の微妙、雀右衛門の篝火、銀之助の小四郎
 
余談ですが二代目中村梅玉はこの年の6月に急逝してしまい今回の新富座公演が彼にとって最後の東京出演となりました。 
さて、この様に三座共に独自色を打ち出して好評だった松竹勢に対して帝国劇場は勧進帳を目玉に堀部妙海尼などを並べて健闘したのは前回紹介した通りです。
 
 
一方、前月に一座の二枚看板の1人である吉右衛門に脱退されてしまった市村座は吉右衛門に後釜を補填する時間もなく止む無く友右衛門を吉右衛門の後釜に据えて菊五郎、三津五郎との二枚看板で公演を開き
 
高松城水攻
棒しばり
敵討護持院ヶ原
勢獅子
 
を上演しました。
演目をよく見ると棒しばりと勢獅子は舞踊、敵討護持院ヶ原は福地桜痴の書いた活歴物、高松城水攻は新作で菊五郎が柄にもなく時代物系統の新作に出るなど吉右衛門の抜けた穴を何とかして埋めようとしているのが如実に分かります。
 
菊五郎の清水宗治と三津五郎の月清入道
 
これに対して熱狂的な市村座贔屓は衰運の市村座を守り立てようと熱心に足を運んで応援したそうですが、劇評には
 
これは宗治の無駄骨を書いたものか、秀吉の奇計を書いたものか、恵瓊法師の骨折りを書いたものか、一寸主題が分からぬ所もあるやうに思はれます。
 
と書かれる様に新作物を幾つもこなしてすっかり慣れている左團次、勘彌、猿之助達に比べて演目の詰めの甘さや新作慣れしていない市村座連中の不慣れもあって本水を使った豪華な舞台装置も栄えず、二番目の活歴物のつまらなさも相まって吉右衛門在籍時の勢いを取り戻すまでには至らず現実をまじまじと見せつけられる結果となりました。ここから松竹に買収されるまでの足掛け7年に渡る菊五郎の苦境時代が幕を開ける事となります。
 
一方大阪では、鴈治郎が上京中と言う事もあって延若を座頭に卯三郎と巌笑、それに片岡一門の残り連中という無人の一座で久しぶりに浪花座で舞台を開けて
 
三日月

御所桜堀川夜討
新版歌祭文
 
を上演しました。
 
延若の三日月治良吉
 
無人の一座となると大暴れするのが延若とあって全演目出ずっぱりで立役、女形、三枚目と兼ねるぶりを遺憾なく発揮したらしくその活躍ぶりがグラビアページにもかなり割かれています。
グラビアページの紹介はここまでにして本文の紹介に入りますとタイトルにも書いた通りこの号は新劇と写真の2つが特集の目玉となっています。
 

小山内薫の序文

 
新劇と言うと先程挙げた左團次、勘彌、猿之助等既に一定の成績を収めた人ばかり頭に浮かびますが今回は彼等3人に加えて
 
・中村吉右衛門
 
・尾上菊五郎
 
・松本幸四郎
 
・澤村宗之助
 
・片岡我童
 
の5人を足した計8人について触れています。
この8人の内、先ず完全に頭2つくらい飛び抜けて新劇物においてパイオニア的存在であった左團次について永井荷風が担当していて彼については既に確固たる実績もある為か
 
「(森鴎外の)「仮面」風の社会劇より古典的叙事詩風の新戯曲に成功し易い人かと考へて居ります
 
と定義した上で
 
高橋君は既に天下一般の知る通り現代の役者とは全く累を異にした人であります品性学識は勿論の事文学美術園(演)芸骨董等の鑑識も立派に具備してゐる人であります。(中略)吾々高島屋崇拝家の希望する處は劇場興行者が誠実に日本演劇の前途を思ふならば高島屋を極点まで尊敬し優遇して貰ひたい事であります。
 
と永井荷風をしてこの当時左團次の人気を当てにして事あるごとに歌舞伎座と明治座を掛け持ちさせたり地方巡業に行かせるのを止めさせて新作演目に割く時間を与えて優遇しろとまで書かれる程の称賛を受けています。
 
左團次のページ

 
しかし、次に市村座を脱退したばかりの吉右衛門については親交がある小宮豊隆が担当しこの当時彼が望んでいたとする「新作を演りたい」という彼の希望について
 
吉右衛門が約束しでもしたものの様に考へるのは少々忖度に過ぎた解釈ではないかと思います。
 
と安易に期待するのは止した方が良いとした上で彼が吉右衛門自身と会話した内容について語り
 
彼は御能から偏倚して発達して来た歌舞伎芝居でなく御能を自然に必然に現実化し民衆化した様な芝居が演って見たいといふ様な意味の事を私に話した事があります。(中略)含蓄の多い簡素な言葉を或特殊な節奏と或特殊な旋律との中に鋳込んだ様な芝居が演って見たいといふ様な意味の事も、云ってゐました。(中略)唯困る事は、彼の其欲求に応じて適当な脚本を彼に提供する事の出来る作者が一人もゐない事です。
 
と彼の新作に関する願望とそれに応えられるだけの原作者がいないという欠点を指摘しています。
因みにこの吉右衛門の「御能を自然に必然に現実化し民衆化した様な芝居」についての願望は決して嘘ではなく晩年に能の舟弁慶に観劇してその演技に感激し従来の歌舞伎化された物ではない能に忠実な上演を熱望していた事が千谷道雄が記しており晩年の古典一筋のイメージから若手などに「新作嫌い」とさえ言われていた彼の新作への価値観が窺えます。
そんな吉右衛門ですがこの小宮の不安を他所に翌月新富座で久しぶりとなる新作である新樹を上演する事になります。
 
吉右衛門のページ

 
そんな吉右衛門に対してライバルである菊五郎については数少ない彼が演じた時代物系統の新作である伊達安藝盡忠録や浜松城の家康について触れ
 
先づ菊五郎の新作は緻密である。繊細である。すべて前後に照応がある。そして多くの場合技巧的である。而もそれがくすんでゐる。いぶしがかかってゐる。(中略)写実に根ざしながら、その効果は写実が与へる以上の感銘と余韻を生む手法を用ゐる。具体的に云ふと、一つの閃きを濃く鮮やかに印象させて、他の閃きの多くを暗示する手段である。半面だけを示して他の半面を偲ばせる手段である。
 
と彼の緩急に富んだ心理描写の演技の長所を褒めつつも
 
あれだけ器用な菊五郎が、新作になると殆どその器用を発揮してゐない点である。(中略)作風が全く相違した今月の「高松城水攻」の如き脚本では新しい手法であらう。が、既に演じた新作では、私など僭越な批評ではあるが、多く前述の如き手法を用ゐてゐるだけではないかと思ふ。
 
と丁度この時上演されていた高松城水攻ではその長所が充分に発揮されていない点を指摘しています。
しかし、最後にはその発揮されていない実力が発揮されれば素晴らしい傑作を生み出せる可能性があるとも指摘されており、吉右衛門に脱退された事で人生でも初と言っていい苦境に陥り始めていた彼にとって古典に逃げるという選択肢はなくこの後も果敢に新作物に挑み続けやがて坂崎出羽守と一本刀土俵入いう現代でも時折上演される優れた2つの傑作を生みだす事となります。
そういう意味ではこの指摘は中々に正鵠を得ている指摘と言えます。
 
そして新作物では女優を起用する事も出来る為にどうしても影が薄くなるがちな女形についても宗之助と我童について取り上げています。
まず宗之助についてですが彼は古典でこそ女形が本役ですが意外にも新作では
 
イプセンのジョン、ガブリエル、ボルクマンでグンヒルドをやり、シェイクスピアでシャイロック
 
と専ら立役に回ることが多く、その特異点について
 
ちゃんと自分の本当の領分があって、この領分を守って、他の領分へ攻め込んで行った様に思はれます。
 
と分析して固定観念的に古典も女形だから新作も女形…と安直に考えておらず、キチンと作品のニンに合った役を演じる点を評価しています。
無論、この配役には左團次一座の立女形であった松蔦の存在や他の女優がいた事も無関係ではありませんがこの新作での立役経験が古典での二枚目役においても活かされているとして左團次、勘彌、猿之助に次ぐ若手のホープと高く評価しています。
彼はこの3年後に急逝してしまいますが、もし長命していれば勘彌亡き後の猿之助の孤軍奮闘状態になった新作物畑で良いライバルとなっていたのは容易に想像つくだけに彼の死が歌舞伎における新作物のおいて手痛い損失であった事が分かります。
 
宗之助のページ

 
対して上方の我童に関しては新朝顔日記など自身の得意役のリメイクなどでは定評を得ていたものの、完全な新作に関しては新作大好きな鴈治郎の元で相手役を務めていた高砂屋福助の方が適任では?という疑問に対して
 
福助は近年滅切り腕を上げた
 
と技芸については評価していますが続けて
 
けれども福助は新機運の機軸となるべく余に引込み思案である「もう役者は止めさして貰ひます」以前は頻りに止めさして貰ふべく苦心した。今でもそんな考へを持ってはゐないかと思はれるほど覇気に欠けてゐる。
 
と彼自身のヤル気から来る物で無く、鴈治郎一座で否応なくやっている経験値からくる物だと看破して話にならないと却下した理由を説明しています。
また、福助のライバルと目され一時期左團次一座に身を寄せて新作物にも果敢に挑戦していた魁車についても
 
嘗ては事実上「謀反者」(善い意味に於ける)であったのだ(中略)嘗て時々鴈梅から離れた時分には彼の演出には随分潑剌たるものがあった。卯三郎等と一座で新派畑を荒らしたりした際にも、脚本はつまらぬ物でも彼の演出は或は今猿之助や勘彌が煽てられてゐる以上に人間味の横溢した物であった
 
と一時期は確かに上方における新作物のホープであった事やその技量や熱意を買っていたと評価していますがこちらも
 
鴈梅一座で落着き出してから彼の演ることは追々生気を欠いて来た。演ることまで妥協的になった
 
と鴈治郎一座で彼が女形のNo.2のポジションを確保した途端にその意欲が目に見えて衰えたとして彼の意欲は所詮自分の立ち位置確保の為の手段に過ぎなかったとこれまた厳しく糾弾しています。
 
この様に本来ならば東京の猿之助、勘彌に位置すべき2名がヤル気が無いとした上で曲がりなりにも前年に自主公演の「邦劇座」を開いて新作を演じた我童を
 
黴臭い道頓堀の真中で兎も角も「邦劇座」の新運動を起した「わが危なっかしい」我童は最も豪いといはなければならぬ。勘彌や猿之助の真似だと一口にいって仕舞ふべきものではない。
 
と技量面では遥かに劣るものの評価せざるを得ないと我童個人というより保守的な上方歌舞伎全体を総括しての評価をしています。
 
我童のページ

 
この様にかなり辛口評価が並ぶ結果になりましたが、当時隆盛になりつつあった新劇界隈と歌舞伎役者の距離感が分かると同時に、宗之助、勘彌の相次ぐ急逝により次世代が育たず戦後に猿之助のみが1人残り、戦後の新作歌舞伎との断絶が分かる他、一見多くの新作物を演じていると思いがちの上方歌舞伎が実質的には既にこの時期から硬直状態であったという指摘は中々に鋭い考察であると言えます。
 
鹿島清兵衛の寄稿文

 
さてもう1つの特集が写真特集でこの鹿島清兵衛の寄稿文は村島氏が著書「演劇写真と役者・写真師」で触れた鹿島清兵衛の出自に関する部分で取り上げられている文章となります。
 
村島氏の著書についてはこちら

 

この著書では鹿島が何時頃から團十郎の写真を撮影し始めたのか?という部分で使用されていましたがそこでもかなり曖昧な記憶力で答えていましたが全文を通しで見ると彼が写真販売に関わる様になった内田九一の話に関しても

 

猿若町一丁目で五人男を演って居た時で。役割は覚えていませぬが、何れも故人となった、阪(坂)東彦三郎、中村芝翫、市川左團次、尾上菊五郎、岩井半四郎、此の五人を別々に写して売り出しました。

 

と述べていますが、内田の存命中に猿若町一丁目(中村座)で白浪五人男が上演された事は無く、この事に該当しそうなのは明治7年11月に新富座での白浪五人男ですがこの時5人の中に半四郎は入っておらず正しくは中村翫雀が入っており、彼の記憶力には全般的にかなり怪しい物があるのが見受けられます。

そんな記憶があやふやな鹿島清兵衛のグダグダな文書に対して対照的なのが自身も写真撮影が趣味だという左團次の寄稿文です。

こちらは自身の写真に対する考え方、役者として被写体の立場も踏まえて語っており

 

日本のは、なんと云って好いか、どうも平べったいのです。

 

日本の俳優が常時撮影するのは、幕間の実にニ分か三分の間に大急ぎ三昧で撮るのですから、写す人がかうして貰ひたいと俳優に云ひ出さず、云ひ出さうと思っても俳優の方が差当って何かの事情の為には思ふやうに写せない場合もあらうと思ひます。

 

どうしても旨い人は巧い人だけ、写すのが長いと云ふのは、云ふまでもなく、年を入れる訳で、佳作の写真を拵へるのには、どうしても時間がなければ行けない事に違ひないと思ひます。

 

帝劇は大抵初日前日の舞台浚ひで写すことが出来る訳でせうが、然しこれとて今迄のの習慣もあって、西洋の如くには行かないだろうと思ひます。

 

左團次の寄稿文

 
この様に今では事前撮影が当たり前である写真撮影も大正時代時代当時は幕間の僅かな間に撮影していた事やこれも今では常識である長時間かけての撮影が当時は行われていなかった事、更には帝国劇場はその気になれば事前撮影が可能な環境である事など当時の撮影方法を述べていて演劇研究の造詣が深い彼ですが写真においても確かな見識を持っていて日本の役者の写真撮影方法に疑問を持っていたのが窺える大変貴重な資料と言えます。
 
この様に新演芸は役者の時事情報を果たす役目としての機能は元より当時の演劇界隈の学術面における探求というもう1つの側面を有しており、次に紹介する予定ですが他ならぬ本家演芸画報もこの路線に引きずられて一時期紙面を新演芸寄りにシフトしていた事からもこの姿勢は当時かなり影響があったと言えます。
新演芸についてはまだ少し持っていますのでその内また紹介したいと思います。