大正10年4月 帝国劇場 4度目の勧進帳と澤村恵之助初舞台 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は再び帝国劇場の筋書を紹介したいと思います。
 
大正10年4月 帝国劇場

 
演目:
ニ、勧進帳
四、乗合船
 
前月に劇界を揺るがした吉右衛門の市村座脱退事件が起きた東京の劇界は吉右衛門が歌舞伎座か帝国劇場かどちらかに所属をするのか明言しないまま雲隠れしその余韻を引きずったまま4月公演を迎えました。
(吉右衛門が6月の新富座出演を発表したのは4月中旬)
そして吉右衛門を失った事で判官贔屓的に同情と注目を集めた市村座、再び仮名手本忠臣蔵の通しと新作2つの折衷路線の採用した歌舞伎座に対して帝国劇場は歌舞伎座とは正反対に新作1つ、古典演目3つと攻めの姿勢で知られる帝国劇場らしくない守りの姿勢に入った演目選定となりました。
 
余談ですが筋書の持ち主は11日に観劇したようです。
 
そしてタイトルにも書きましたが今回の公演では一番目の堀部妙海尼での梶浦兵馬の子供役で澤村宗之助の長男である伊藤恵之助が本名そのままの澤村恵之助を名乗り初舞台を踏みました。
舞台口上等のイベントこそ無かったものの紀伊国屋にとっては宗十郎の息子達に続く慶事となり、彼が出てくると見物達も微笑ましい顔で見ていたそうです。
しかし、この初舞台から僅か3年後に父宗之助の急逝により彼を取り巻く環境は一変しました。最初は幼くして父を失った同情もあり父の名跡を継いで二代目澤村宗之助を襲名しましたが僅か6歳とあってまだ子役の域を出ず、弟2人も相次いで役者になりましたが大正15年には頼みの綱であった祖父の七代目澤村訥子も亡くなり文字通り劇界の孤児となってしまいました。
(一応肉親である叔父の澤村長十郎と澤村傳次郎は健在でしたが2人共に小芝居を活動拠点にしていた関係もあったのか三兄弟が叔父達を頼る事はありませんでした)
更に悪い事は重なり何とか子役として活動していた昭和4年には所属先である帝国劇場が松竹に買収されてしまい大所帯である松竹には子役もわんさかいる事から彼ら3人は修行の場となる出る舞台さえも失う羽目となりました。
そんな薄幸な彼ら三兄弟についてはまた紹介しますがそんな過酷な運命が待ち構えているとはこの時は思いもしない幸せな初舞台でした。
 
堀部妙海尼
 
一番目の堀部妙海尼は右田寅彦が梅幸の為に書き下ろした新歌舞伎の演目です。
新歌舞伎と言っても中身は忠臣蔵の外伝的位置付けの作品で赤穂浪士の1人である堀部安兵衛の妻お幸を主人公として仮名手本忠臣蔵に登場する悪臣、斧九太夫のモデルとなった大野九郎兵衛の娘と孫が吉良邸討ち入り後に周囲から不忠者の汚名を着て家を離縁して流浪する身になったのを恩讐を超えて助け娘の富江の死を以て家名回復に動く様子を描いています。
今回はお幸後に堀部妙海尼を梅幸、富江を宗十郎、浜路を泰次郎、堀部弥兵衛を松助、堀部安兵衛と長治を勘彌、寺坂吉右衛門を幸蔵、大高源吾を高助、美作屋善兵衛実は神崎与五郎を長十郎、お艶の方を榮三郎、武林唯七を宗之助、大石内蔵助と梶浦兵馬を幸四郎がそれぞれ務めています。
平家蟹と同じく珍しく梅幸の為に書き下ろされた演目であり、しかも梅幸自身もかなり気に入って本公演でも大正元年11月に演じた他に地方巡業でも度々掛けていただけに大分自信があったらしく、その自信は舞台上でも遺憾なく発揮され
 
梅幸の妙海尼が泉岳寺墓地と備前侯邸とで勝ち気な中にも、女性の優しい處を自在に現したのは最も勝れてゐた。
 
と父と夫を失うも義士の遺族としての誇りを全うする力強さとそれ故に敵前逃亡した憎き大野九郎兵衛の家族である富江親子の苦境に見て同じ女として助けてやろうとする慈悲深さという相反する性根を腹に収めたからこその活殺自在な演技ぶりを絶賛されました。
 
梅幸の堀部妙海尼、松助の堀部弥兵衛、幸蔵の寺坂吉右衛門
 
 
梅幸の堀部妙海尼、宗十郎の富江、泰次郎の浜路
 
そして彼にしては珍しく大野九郎兵衛の娘というだけで周囲から白い目で見られ、止む無く夫と離縁して最終的には自害してしまう薄幸な女性である富江を演じた宗十郎も
 
二幕目の幸四郎の兵馬と宗十郎の妻富江との別れは、子役二人を絡ませて、見物に半巾(ハンカチ)を絞らせたが、ここへ出る勘彌の棟梁長治が、又よくこれを助けて泣かせた。
 
と一家離散の悲劇を描いた二幕目の梶浦住居の場での情愛深い演技が涙を誘ったと妻子を愛してはいるものの武士の対面上泣く泣く離縁を申し渡す夫の梶浦兵馬を演じた幸四郎やその様子を見て泣く子供を見て離縁を取りやめるべきだと意見する人間味溢れる大工の棟梁長治を演じた勘彌と共に評価されています。
この様に梅幸を筆頭とする幹部役者の好調な演技に支えられた事もあり、再演となった今回も好評でした。
 
勧進帳
 
中幕の勧進帳は説明不要の歌舞伎十八番を代表する松羽目物の演目です。
 
大正3年の三座競演の時の帝国劇場の筋書 

  

大正6年の再演時の筋書 

 

今回は過去3回との大きな違いとしてそれまで富樫が持ち役であった梅幸が出し物である堀部妙海尼と次幕の碁太平記白石噺の兼ね合いから抜けて代わりに義経を持ち役としていた宗十郎が2度目となる富樫を演じ、空いた義経役を勘彌が務めているのが挙げられます。

さて、勘彌が加わった事で実現したこの配役変更ですが先ず過去4回で唯一変更がない幸四郎はというと

 

幸四郎の弁慶が、重みと意気と洗練とが愈加はって、今日では殆どこの優の右に出づるものがない程になったからで、この役に対するこの優の態度は、実に敬虔に値するものである

 

と大正3年の時は仇になって初役の羽左衛門に足元を掬われる原因にもなった場数を踏んだ経験もこの時で300回を突破した事で大正6年の再演時に比べて更に磨きがかかり、

 

問答の意気、祈りや物語りの形、延年の舞の型、引込の六法その他内容外観一糸乱れぬ至芸にある

 

と演技にも自信も付いた弁慶ぶりをかなり高評価されました。

因みにそれまでライバルでもあった段四郎は加齢による衰えにより大正7年を最後に演じ納め、羽左衛門も以前紹介した大正8年の再演が不評だった事でやらなくなった事でこの時期は弁慶は幸四郎だけの持ち役となっていました。

彼以外に戦前に弁慶を手掛けた役者は他に六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、二代目市川猿之助等がいましたが菊五郎が再び弁慶を手掛けるのは大正13年、吉右衛門と猿之助が初役で演じるのは昭和初期と何れも少し後の話であり、この僅かな期間の役を独占した事や翌年に帝国劇場で行われたエドワード皇太子と裕仁摂政の台覧でも演じる栄誉を得た事でいよいよ幸四郎=弁慶というイメージが歌舞伎好きの中で強固な物へとなって行く事となります。

 
幸四郎の弁慶
 
そして過去2回の義経役では揃いも揃って「安珍みたい」と酷い評価を受けていた宗十郎は大正6年1月公演以来4年ぶり2回目となる富樫役となりましたが出来の方はと言うと
 
宗十郎の富樫は、小粒ではあるが顔も錦絵のやうに立派で、問答の意気も「九字の真言」を除いては皆よく、「疑へばこそ」に腹も瞭(はっき)りと見せて結構であった
 
と問答の台詞の一部に問題が散見された以外は思いの外、富樫に適性があったらしく過去2回の義経の時の酷評とは比べ物にならない程評価されています。
この様に思わぬ高評を得た富樫の宗十郎ですが、帝国劇場における彼の立ち位置や帝劇買収後の松竹に移籍後は富樫役に於て彼よりも遥かに適正がある羽左衛門や左團次がいた事もあり、彼に廻って来る勧進帳の配役は専ら義経役のみであり、彼が再び幸四郎の弁慶で富樫を演じるのは大正11年4月17日に行われたエドワード皇太子台覧劇を例外とすれば僅かに昭和9年と同18年の地方巡業のみとなりました。偶然にも2回ともその時の筋書を所有していますのでまたその時になりましたら紹介したいと思います。
 
宗十郎の富樫
 
この様に幸四郎の弁慶は無論の事、宗十郎の富樫も概ね好評でしたが唯一今回初役で義経を務めた勘彌だけは
 
唯惜しいのは勘彌の義経で、利智の勝ったあの眼と調子とには、品と丸味とおっとりした處を出し得なかったのが、少なからぬ損失であった。
 
とかつて三座競演の際に義経を演じたは良いものの、歌右衛門と宗十郎に完敗してしまった異母兄三津五郎との違いはある程度打ち出せたものの、勘彌の持つアグレッシブさやエネルギッシュさが完全に裏目に出てしまい落ち着いて気品ある義経に似合わぬとかなり厳しめな評価となりました。
因みに勘彌は今回の不評が響いたのか6年後の昭和2年に配役を宗十郎と逆にして富樫は演じましたが再び義経を演じる事はありませんでした。
 
勘彌の義経
 
この様に三役の中では義経こそミソが付く形になりましたが、劇評は何も義経だけが悪いだけではいとして番卒と四天王の面々についても
 
四天王では長十郎、番卒では小治郎と幸蔵の外、他の若手に意気の乏しいのが難である
 
と幸蔵、小治郎、長十郎以外の猿蔵、高助、田之助、榮三郎等については役を理解してないと厳しい批判をしています。
よくよく見ると批判を喰らったのは猿蔵を除けば皆幹部の子息ばかりであり、昨今の歌舞伎における御曹司の体たらくに厳しい意見が寄せられているのは有名ですがそれは100年前においても変わらない辺りに因果を感じるものがあります。
 
とはいえ、無敵状態の幸四郎に加えて宗十郎の富樫が思わぬ良さを発揮した事から劇評も
 
「勧進帳」は又かと思ふものの見れば矢張り面白い
 
とその良さを認めざるを得ないと書く程充実した出来になったそうです。
 
碁太平記白石噺
 
二番目の碁太平記白石噺は安永9年に紀上太郎等によって書き下ろされ外記座で初演された時代世話物の演目となります。
初演された場所からお分かりいただけると思いますが元々は文楽の演目であったのを歌舞伎に移植した物で姉宮城野と妹信夫が殺された父の仇討の為に廓を抜ける決心をするも大黒屋惣六に短慮を戒められ、廓を抜けるのに必要な宮城野の年季証文と切手(道中の費え)を与えて逃がしてやるという七段目の新吉原揚屋が見取演目としてよく上演されます。こちらは再び梅幸の出し物となり、宮城野を梅幸、信夫を宗之助、お政を柳蔵、大黒屋惣六を幸四郎がそれぞれ務めています。
富樫役を降りてまでして挑んだ梅幸の宮城野役でしたが評価はどうだったかと言うと
 
梅幸の宮城野と宗之助の信夫の、あの情の細かな技巧の優れた、名乗り合ひは隙間もなく、見物を惹着ける力があった
 
と宗之助共々女形を本役とする2人だけにする事成す事に批判を付け入る隙間もない程の完璧な演技だったらしく、高評価となりました。
 
梅幸の宮城野、宗之助の信夫
 
対して姉妹の仇討の覚悟を聴いて短慮を諫めつつも仇討の助力をする廓の主人である大黒屋惣六を演じた幸四郎は
 
幸四郎の惣六も貫目のある立派な男で、大道具の立派さと伴った
 
と曽我の対面の工藤祐経を本歌取りした役であるこの役を骨太に大きく演じて豪華絢爛な帝国劇場の大道具と比較しても遜色ない出来栄えだとこちらも無事評価されています。
この演目は分かりやすい筋だけに割りかし出しやすい演目だけに見飽きて食傷気味になっていたという劇評も上記3人の優れた演技もあってか総評として
 
うんざりする出し物だが、流石に大きな俳優達とて、これも予想以上の見物であった
 
と大歌舞伎の演目として今回のは見応えがあったと評価しました。
 
乗合船
 
大切の乗合船は以前に新富座の筋書でも紹介した常磐津の舞踊演目となります。
 
鴈治郎と歌右衛門の共演が実現した新富座の筋書

 

 

今回は萬歳鶴太夫を梅幸、才蔵亀松を宗十郎、お賎を榮三郎、紅勘仙太夫を長十郎、角兵衛獅子を竹三郎と一鶴、三角を宗之助、梅次を勘彌、喜太を幸四郎がそれぞれ務めています。

追い出し舞踊としては珍しく若手だけではなく松助を除く幹部役者も勢揃いしての演目となり、何時もだと「見ずに帰った」の一言で終わらせてしまう劇評もきちんと観劇したらしく
 
幸四郎の田舎侍に長十郎の紅勘の出るのも珍しく、梅幸と宗十郎の萬歳が車輪であった
 
と1行足らずですが出し物を終えて一刻も早く借りたいにも関わらず労を惜しまずに出演した幹部役者の活躍ぶりを評価しています。
 
榮三郎のお賎、勘彌の梅次、長十郎の紅勘仙太夫、一鶴と竹三郎の角兵衛獅子、宗之助の三角、梅幸の萬歳鶴太夫、宗十郎の才蔵亀松、幸四郎の喜太

 
この様にいつもらしくない守りに入った様な演目を並べた帝国劇場でしたが、蓋を開ければ
 
狂言の取合わせがよい故か、予想以上の面白味があった
 
と個々の演目の配役や演技が上手く嵌まって大変充実した内容の公演となり、その結果入りの方にも貢献したらしく仮名手本忠臣蔵の通しで連日大入りとなった歌舞伎座に比べると流石に負けた様ですが新聞にも初日を筆頭に大入り広告も出た事から少なくとも菊五郎への同情票が入ったものの吉右衛門の抜けた事による観客動員の穴を埋めきれず苦戦していた市村座よりかは十分に健闘しこれまで拮抗状態が続いて来た三座の争いもここに来て市村座の独り負けの様相を呈してきました。
この後の5月公演の筋書も持っていますので歌舞伎座の5月公演の後にまた紹介したいと思います。