大正3年4月 帝国劇場 勧進帳三座競演 ②帝国劇場編 | 栢莚の徒然なるままに

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歌舞伎座に続いて今回は勧進帳三座競演の第2弾で帝国劇場の筋書を紹介したいと思います。

 

大正3年4月 帝国劇場

 

演目:

一、鏡山旧錦絵
二、勧進帳        
三、吾妻踊

 

前回の歌舞伎座編でも少し触れましたが、歌舞伎座の勧進帳上演に触発されて「それなら自分の所に幸四郎という立派な弁慶役者がある」という自信から同じく勧進帳を上演して競演する形となりました。

上述の様に専属俳優に弁慶役者である幸四郎に五代目菊五郎の養子である梅幸、そして和事が得意な宗十郎という勧進帳に適役な役者が揃っていた事や前にも書いたように大正東京博覧会で全日程で大勢の見物が見込める故の試みでした。

 

筋書の中にもある大正東京博覧会の観客向けの案内

 

主な配役一覧

 

鏡山旧錦絵

岩藤…梅幸

尾上…宗之助

お初…宗十郎

劔沢弾正/奴伊達平…幸四郎

仲間可内…松助

牛島主税…幸蔵

花房求女…長十郎

大姫…初瀬浪子、河村菊枝、村田嘉久子、佐藤はま子、森律子、花岡蝶子、音羽かね子、小原小春、月岡静枝、小林延子、東日出子、水野早苗、橘富美子、木村重子(1日日替わり)


勧進帳        

武蔵坊弁慶…幸四郎

富樫…梅幸

義経…宗十郎

常陸坊海尊…幸蔵

伊勢三郎…菊四郎

亀井六郎…宗五郎

片岡八郎…小治郎

太刀持ち…丑之助

士卒…宗之助、松助

 

吾妻踊

猿田彦…長十郎

おかめ…丑之助

潮吹…由次郎

猿曳…高丸

 

参考までに歌舞伎座と市村座の記事

 

歌舞伎座

 


市村座

 

 

 

何といっても一番の目玉である勧進帳から紹介したいと思います。

 

幸四郎の弁慶

 

最初は弁慶から紹介したいと思います。

弁慶を演じたのは明治39年の初演以来、余興公演も含めると既に10回以上演じている七代目松本幸四郎でした。

持って生まれたその豊かな肉体と恰幅の良さも相まって「弁慶役者」の名を欲しいままにしていました。

そして、大正2年9月以来2年振りに演じるとあってか今回に関しても演じる2ヶ月前の2月には巡業先の九州と神戸で16日間に渡って弁慶を演じるなど準備には余念がありませんでした。

そんな彼だけに期待値が高かったのは言うまでもないですが、10回目とあって慣れと慢心があったのか劇評では

 

柄と形で優る

余裕と貫目がある

顔と言い形と言い実に立派(中略)重みと余裕がある

幸四郎(の弁慶)は柄が立派なのが何より徳であった。顔の輪郭から体の格好、それから、あの太い肉声、踊りの素養、何から何まで殆ど完全した資格を備へてゐた。

 

という好意的な評価も多い一方で

 

押し出した処、立派に相違ないがゆとりがない

という批判もあれば逆に

 

余裕もありすぎて間延びしている

という批判もあり、中でも小宮豊隆は尤も手厳しく

 

あの白痴らしい気つ抜けた所のあるのが第一の欠点である

如何にも気が這入る様に粧(よそお)うという事が第二の欠点である

まざまざと虚偽と意識せざる内容の貧弱な表現に過ぎなかった

幸四郎の台詞廻しに至っては(中略)無意味且つ無価値

 

と写実的な演技描写を好む小宮とは言え取り付く島もない酷評ぶりです。

総体的に見ると他2人に比べると体格面、舞踊面では文句のつけようの無い優れた弁慶であった既に二けたの場数を踏んだが故の余裕が裏目に出てしまったのは間違いないようです。

とは言え、幸四郎は今回の事でめげる事無く誰もが認める長所である柄の形を活かして昭和4年の松竹買収まで帝国劇場で今回含めて計8回も演じるなど名実ともに弁慶役者として活動して昭和時代には辛口の批評で知られるあの岡鬼太郎をして

 

風貌音声の堂々たる、先づ当代での随一。誰がどの件で立ち向はうと、此の金城鉄壁には矢も立たぬ

 

と言わしめる程の自身の当たり役へと持って行きました。

 

梅幸の富樫

 

続いては富樫です。

富樫を演じたのは明治32年に持ち役の義経ではなくあえて意表を突く富樫を演じて大喝采を浴びた五代目尾上菊五郎の養子である六代目尾上梅幸です。言うまでもなく父が大当たりした過去の実績と座頭という現在のポジションもあって選ばれたのですが、評価はというと賛否両論であった幸四郎とは異なりかなりの批判を受ける事になってしまいました。

劇評でも

 

押し出しは左團次より立派で品位もあり、山伏との押し合いの意気と形や引っ込みの前の表情が良かった

 

という高評価もあるにはありましたが殆どが

 

上品なだけで台詞が落ち着かず息が続かない

 

一言にして云へば失敗である

 

大切な台詞をぬかすは言語道断

 

(人の)富樫の中で、もっとも見劣りのする富樫である

 

と容赦ない批評が並びます。

原因としては梅幸のニンと柄にありました。父五代目菊五郎は立役、女形両方を演じる芸幅を持っていましたが本役はあくまで立役でした。それに対して梅幸は若衆役は演じれるものの本役は女形でした。富樫は歌舞伎座で演じた左團次、市村座で演じた吉右衛門の様にニンとしては立役が適役であり、女形である梅幸が演じるとどうしても所作や台詞回しなどの所々に女形らしい弱さが生じてしまう弱点がありました。それだけに歌舞伎座で演じた二代目左團次同様に好評であった父と比較されてしまう運命にあり、更に父とニンが同じであった左團次とは違って梅幸は父菊五郎とニンも異なるだけに余計に損をしているきらいはあったと言えると思います。

これに関して上述の小宮は「帝劇において富樫に扮し得るもの宗之助を除いて外はいない」と同じ本役が女形でありながらも立役も多く手掛けている澤村宗之助の方が向いていると書かれている様にそもそも義経が適役であるはずの梅幸に富樫を演じさせるという配役そのものに無理があったと言えると思います。

因みに弁慶の所で帝国劇場で合計8回勧進帳が上演されたと書きましたが、富樫役を演じたのは

 

尾上梅幸:3回

守田勘彌:2回

市村羽左衛門:1回

澤村長十郎:1回

市川左團次:1回

 

となっていて不向きと言われながらも梅幸は3回も演じる一方で宗之助は小宮の意見も虚しく1度も富樫を演じる事はありませんでした。

 

宗十郎の義経

 

最後に義経です。演じたのは七代目澤村宗十郎です。和事役を本役とするだけに梅幸の富樫と比べればまだニンに合っていますが、経験豊富な歌右衛門の義経と比べるとやはり見劣りしたらしく劇評でも

 

悪いというわけではないのだが「安珍(道成寺)」の見立てが今も動かず気の毒

 

と梅幸の富樫に比べれば悪くないものの、幸四郎の弁慶の様に称賛される部分の無く可もなく不可もなくといった評価になっています。

この様に帝国劇場の勧進帳は一長一短がある弁慶、失敗の富樫、まあまあの義経といった所で歌舞伎座には劣るものの、幸四郎の弁慶もあって市村座よりは良かったという評価になっています。

 

勧進帳の舞台写真

 

伊坂梅雪による演目解説

この興行に賭ける意気込みが伝わってきます

 

さて、勧進帳についてはここまでにして他の演目についても紹介したいと思います。

 

まず最初に上演された鏡山旧錦絵です。この演目は梅幸にとって非常に因縁深い演目でもあります。

 

それは明治36年2月の東京座でこの演目で尾上を演じた際に、役が決まった後に父五代目菊五郎が梅幸を自宅に招いて五代目の義兄で尾上の役を得意とした五代目坂東彦三郎の型を教えた後に

 

俺もこういういい年であるし、殊にこんな病気にかかっている上はいつ何時倒れるかもしれないから跡の子供達の事を何分頼む

 

と遺言めいた話をしたそうです。そしてこれが梅幸と菊五郎の最後の別れとなり、2月15日に菊五郎は再び倒れて意識不明になりそのまま帰らぬ人となりました。

それ以来、梅幸はこの話の続編である加賀見山再岩藤は五代目の七回忌に演じたものの、この演目に関しては上記の話もあって再び演じるのを断り続けていました。それを11年ぶりに解禁するとあって非常に期待を寄せられる事になりました。

今回梅幸は尾上ではなく岩藤を務め、尾上を宗之助、お初を宗十郎がそれぞれ務めました。

そして、専属女優が多くいる帝国劇場ならではの強みを生かしてこの演目は御殿の場面は多い事から腰元の役と大姫に専属女優に演じさせ、大姫に至っては14人の女優を1日日替わりで演じさせるという帝国劇場にしかできないユニークな配役をしています。

 

劇評でも

 

梅幸の岩藤は極付で尖り声が役に適り、憎々しく見えた

 

宗之助の尾上は自害の場を含めて一等の出来

 

とそれぞれ高評価でしたが、唯一お初の宗十郎だけは

 

場当たりを狙って(あざとい)芝居をする

 

と古風な演技が裏目に出たのか不評でした。

とは言え、梅幸の勧進帳の不評を補って余りある好演もあって演目全体としては上々の出来だったそうです。

 

鏡山旧錦絵の岩藤(梅幸、奥)とお初(宗十郎、手前)

 

大切の吾妻踊は珍しく長十郎以外の幹部役者が一人も出演せず主に名題下役者、専属女優が中心に出演している舞踊演目です。

出演しているのは幹部役者の子息が中心に周りを腕のある脇役を固めていて重苦しい前2つの演目の清涼剤的役目もあってか肩肘張らず楽しめる演目だったそうです。

 

目玉である勧進帳こそ歌舞伎座に比べて評価は低かったものの、鏡山旧錦絵の好演や劇評とは裏腹に幸四郎の弁慶目当てで見に来たという地方の見物も多かった事から全日程大入りとなりました。

 

この様に歌舞伎公演は依然根強い人気を誇っていたものの、本来帝国劇場の三本柱の一つになるはずだったオペラ公演を担当する文芸部が不評と赤字に耐え切れず解散に追い込まれるなど会場から4年が経過し当初の目算と徐々に齟齬が生じ始めていました。

そして好調な歌舞伎公演も4年が経過してきてじわりじわりと演目と配役のマンネリ化が進みつつありました。

そんな現状を打破すべく大正4年に入りこれまで他の劇場との交流を絶っていた帝国劇場にも徐々に変化が生じ始める事になります。

次の帝国劇場の筋書はそんな大正4年の物になりますのでまた暫くの間お待ちください。