大正3年3月 帝国劇場 幸四郎の吃又と春の宵 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は少し時代が遡りますが、帝国劇場の筋書を手に入れたので紹介したいと思います。
 

大正3年3月 帝国劇場

 
演目:
三、竹生島
四、春の宵
 
今回紹介するのは以前に紹介した勧進帳の三座競演の前月に当たる3月公演です。
4月公演でも書いた様にこの頃は既に専属女優による単独公演も成功し収益も挙げていて、また市村座との提携も無かった事から専属の歌舞伎役者と専属女優による混合公演が行われていました。
余談ですがこの2年後には帝国劇場は市村座と提携し毎年3月公演は大正12年まで市村座の引越公演、その後は新国劇や新派の公演が行われる枠になり帝劇の役者による公演が開かれる事は昭和4年の松竹による買収まで1度もありませんでした。
 
参考までに翌月の勧進帳三座競演の筋書
 
序幕の紀国文左大尽舞は実在した豪商である初代紀伊国屋文左衛門の息子で家を没落させたと言われる二代目紀伊国屋文左衛門を元ネタに右田寅彦が書いた新作で家を傾け引越せざるを得なく程にまで落ちぶれながらもかつての恬淡な性格は変わらない文左衛門と妻のお染が病で苦しむ中薬代の金策の為にかつて身請けしてくれた文左衛門への恩に報いようと再び遊女となるお種と甚兵衛父娘や、お染を狙い金で文左衛門から買おうとするもアッサリ拒否される白子屋庄三郎など様々な人物が入り乱れる世話物テイストの演目となっています。
今回、同じ紀伊国屋繋がりなのかはたまたその鷹揚な性格が文左衛門ぴったりと当て込んで書かれたのか文左衛門を宗十郎、妻のお染を梅幸、かつて文左衛門とお染を取り合った旗本の貝賀三郎兵衛を幸四郎、恩に報いるべく再び苦界に身を沈めるお種を宗之助、お種の父甚兵衛を松助、文左衛門に恩がありながら没落するや掌を返しお染を狙う白子屋庄三郎を幸蔵がそれぞれ務めています。
劇評ではまず宗十郎について
 
百万長者より紙子姿に落ちぶれても尚その活達な気を失はず
 
この優の為に出来し狂言ともいふべきもの、白子屋の座敷にて大尽舞のところも、日本堤の朽木に腰を掛けて吉原の騒ぎを遥に聞いて昔を偲ぶ独言に、我は男の卒塔婆小町かとかこつところ大儲け
 
この狂言はこの優の持芸となるべし
 
とそのニンがピッたしなだけにやる事なす事に不自然さがなかったのか落ちぶれてもその心だけは昔と変わらない豪商役を演じて絶賛されています。宗十郎はこの時の好評に気を良くしたのか後年に自信の得意役をまとめた高賀十種の中にこの演目を入れる程でした。
 
宗十郎の紀伊国屋文左衛門
 
そして文左衛門の妻のお染を演じた梅幸も
 
梅幸の几帳(お染)、苫船で香を焚く艶麗さを見せて詫住居の場で寒さを凌ぐ夜着もなく介抱する者もなく野垂死の様に落入る状態(さまかわり)にて大によし
 
と豪商の妻から乞食同然まで身をやつしながらも夫への情愛が変わらない賢妻を演じきり評価されている他、文左衛門の為に再び遊女となるお種を演じた宗之助もまた
 
宗之助の新造誰袖(お種)、再び身を売って紀文の恩に報い姉女郎(お染)を助けんとする情合(情愛)も大によし
 
とそれぞれ好評でした。
 
梅幸のお染
 
この様に主だった役者が皆好演した事により、新作にも関わらず当たり演目となりました。
 
名筆吃又平
 
続く名筆吃又平はご存知傾城反魂香です。
絵を描く事以外はからっきし駄目な吃音持ちの絵師又平が師である土佐将監に免許皆伝を認められず夜を儚み夫婦そろって自害する前に最後に描いた絵が奇跡を起こし、無事免許皆伝を認められるという内容です。
この演目と言えば当代の勘九郎と猿之助が昨年歌舞伎座で上演して好評を博しましたが、戦前は前に紹介した梅玉芸談 にもある様に初代中村鴈治郎と六代目尾上菊五郎が得意役にした他、鴈治郎のライバルである十一代目片岡仁左衛門も得意として自身の当たり芸を集めた片岡十二集にも入れた程でした。
それだけに幸四郎の吃又は非常に珍しく明治39年9月に東京座で初演して以降、巡業では大正4年5月に九州で1回、大正5年8月に浜松で1回、それぞれ演じているのが確認されているものの、大劇場ではこの演目を掛けた事はこの後は僅かに昭和11年6月の東京劇場で1回、昭和17年3月の大阪歌舞伎座で1回の計2回上演したのみでした。その為かこの時もわざわざ夫人による解説が付く程でした。
今回又平を幸四郎、女房のお徳を梅幸、土佐将監を松助、狩野雅楽之助を宗十郎が務めた他、又平の娘のお梅を専属女優4人が日替わりで務めるという帝劇ならではの配役となっています。
 
高麗屋三兄弟の実母である幸四郎夫人直々の解説
 
さて気になる劇評はというと
 
幸四郎の又平と梅幸のお徳が互いに引立て引立てして近ごろ実のある見物
 
と非常に好評でした。
特に梅幸のお徳が非常に優れていたらしく
 
梅幸のお徳、膝を打って覚悟を極め茫然自失絶望たる夫の傍に悄然と寄り、「さあ又平どの、覚悟しゃんせ」と自害を勧め石の手水鉢へ画像を残せと励まして硯をさしつけ墨を摺る間など全く又平の死んだあとその座(即座)に共に死ぬといふ決心が見えて芝居事とは思われず、又平が画像を書く間に羽織を敷いて自害の座を拵え脇差をその傍において涙に暮るるところ、真情なり
 
と五代目譲りの腹芸で絵以外の事に関しては社会不適合者である又平を支える苦労女房になりきって演じたらしく高く評価されています。
 
梅幸のお徳
 
そして幸四郎はというとかつて又平を演じた師匠團十郎の型を参考に演じたらしく、
 
幸四郎の又平、失神したれど筆を持てば精神ありて書く間の形はしっかりしていて筆を捨てるとグダグダになって女房が教えるままになり自害せんとする間、いかにも絵には魂あれど他事には鈍にして女房まかせの名人らしく将監に名字を許されての悦びから大頭の舞まで勢ひづいて勇気も迸るほどのうちにまた吃の気持ちが抜けぬのは大によし
 
とこちらも又平を等身大で演じて好評でした。
尤も全てが良かったわけではなく、團十郎の型を参考にするあまり吃音で話す事の部分に拘り過ぎてしまったらしく、
 
師匠写しの引吃にて、大苦しみなれどそれは團十郎にしての好み、もともと浄瑠璃で産まれしもの、床の浄瑠璃と調和する程度で吃りてよかるべし、畢竟吃を写実にして見せるのが主意ではなし、吃の絵師を見せさへすればよきなれば青くなってまで吃に凝るには及ばず
 
と劇評では猛烈に突っ込まれていますが、それを考慮しても同じ写実風な鴈治郎や仁左衛門とも違う又平像を作り上げた様です。
 
幸四郎の又平
 
また脇でも下女を演じた宗之助について
 
又平の衣装の立派になりしを褒めて松本幸四郎に似ているの、いよ高麗屋などといふは昔芝居の当てこみにて今芸術がる舞台にはいふべからず(中略)こんな事でもいはなければ役になりません、ならば御馳走らしく出ぬが宜し
 
と折角の梅幸と幸四郎の迫真の演技を白けさせるような当て込みを言う宗之助に対して出なければ良いとまで批判されています。
 
しかし、宗之助以外は
 
松助の将監、宗十郎の雅楽之助勿論よし
 
と良かったらしく総体的には梅幸、幸四郎の熱演もあってこちらも当たり演目となった様です。
 
竹生島
 
久しく病中にあった杵屋勘五郎の快気祝いを兼ねて上演された演目だそうです。
その為か幹部俳優が総出で彼を祝うかのような舞踊となったらしく、
 
気も麗々としたり
 
と劇評も演技云々評価抜きに勘五郎の快気祝いと割り切って評価しています。
 
春の宵
 
大切の春の宵は帝国劇場の専属女優と洋楽部員によるダンス&オーケストラという斬新な演目でした。
奇しくもこの公演の翌月に初公演が行われた宝塚歌劇団の先駆けとも言える様な斬新な演目が行われたかというと背景には帝国劇場歌劇部の誤算がありました。

明治44年に開場以降破竹の勢いで公演を続け田村成義率いる歌舞伎座に勝ち続けていた帝国劇場は当初の歌舞伎劇と女優劇に加えて第3の路線であるオペラ公演の実現に着手し始めました。これには明治44年5月公演での文芸協会によるハムレット完全上演が成功するなど日本人による西洋劇が上手く行った事から十分に採算性が見込めると判断しての決断でした。そして大正元年8月にイタリア人の振付師、演出家であるジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーを指導者として招いて歌劇部を創設しました。そしてその年の10月公演から早くも彼の監修で西洋劇の上演が始まり大正2年6月公演ではサルドのオスカとあのモーツァルトの魔笛を、大正3年10月にはジャック・オッフェンバックの天国と地獄をオペラ劇として上演するなど大胆な試みが行われました。しかし、この勢いに反して本来なら3本柱になる予定だったこの歌劇部は興行収益において苦戦し利益を上げられていませんでした。

理由は簡単でオペラ公演の際に一応筋書で略筋は書いてあるものの台詞の日本語の訳を殆どイタリア語のままで直訳し上演をしていたからでした。

他の劇場の見物に比べて一定以上の教養がある帝国劇場の見物と言えども流石に原語直訳の台詞では技量や世界観を理解出来る人は少なく、本格的なオペラ上演という理想が日本人に受け入れられる土壌が出来てないというという現実にぶつかってしまった結果でした。

そこでローシーは専属女優を使っての見物に受け入れやすい今回の様な演目の上演に到りました。

 

さて肝心の出来についてですが、

 

大変きらびやかなダンス無かるべからず(大変きらびやかなダンスな事だ)」

 

と書かれていて珍しい物を見れた様な評価となっています。

余談ですがローシーは何とかオペラを根付かせようと理解の難しい海外作品の上演を諦め日本人向けに新派物を改良した様な演目の上演を続けましたが、歌劇部はオーケストラ部との合併を余儀なくされ洋劇部となりますがそれでも収益は一向に低調のまま、ローシーの契約満了を待って大正5年に遂に解散の憂き目に会いました。

その後ローシーは洋劇部の面々と共に赤坂に移りローヤル館というオペラ専用の劇場を作りそこで帝国劇場時代に出来なかったオペラ劇を盛んに上演しましたがここも赤字に耐えられず僅か2年で潰れてしまい彼は失意の内に山本久三郎の援助を受けてアメリカへと渡る事になりました。

 

しかし、ローシーの7年間は決して無駄であったとは言い難く、後に浅草オペラの主力となる清水金太郎(清水金一の師であり聖飢魔Ⅱのギターリストであるエース清水の祖父)を始め田谷力三、原信子など多くの人材を育て上げ日本のオペラ界に大きな影響を及ぼしました。

また、見物の受けこそ悪かったものの同業者は必ずしもそうではなく、彼のオペラ劇にもよく出演した七代目松本幸四郎は自著の「芸談 一世一代」の中で

 

私はこの(洋劇部解散前最後に上演した古城の鐘の)稽古で、ローシー先生の真面目な態度には感心させられました。実に厳格な稽古ぶりで、びしびし𠮟言をいふのですが、さて稽古が終わると、先生の方から一同に向かって「ありがとう、ありがとう」と礼を述べて引き上げていくのです。(中略)この立派な態度には学ぶべきものがあると思ひます。

一時大衆娯楽はオペラに風靡されてしまったものですが、さういふ全盛時代を迎えるやうになった陰に、帝劇洋劇部の払った犠牲、ローシー先生の血と涙の捨石のあったことを見過ごしてはならないと思ひます。(中略)オペラ時代の生みの親はローシー氏であるといってもよいと思はれますから、日本の音楽史上にもこの人の名を見落としてはならないと存じます。」(芸談 一世一代)

 

と彼の事を高く評価している事が伺えます。

さて、話が大分脱線してしまいましたが元に戻すと興行的には一番目、二番目共に当たった事から入りの厳しい3月にも関わらず入りは良かった様です。そして以前紹介したように歌舞伎座が勧進帳を上演すると聞き帝国劇場も勧進帳の上演に踏み切る事になりました。