明治45年1月 浪花座 松竹の直営開始 | 栢莚の徒然なるままに

栢莚の徒然なるままに

戦前の歌舞伎の筋書収集家。
所有する戦前の歌舞伎の筋書を週に1回のペースで紹介しています。
他にも歌舞伎関連の本の紹介及び自分の同人サークル立華屋の宣伝も書きます。
※ブログ内の画像は無断転載禁止です。
使用する場合はコメント欄やtwitterにご一報ください。

今回は久しぶりに大阪の劇場の筋書を紹介したいと思います。

 

明治45年1月 浪花座

 

演目:

一、聚楽物語        
二、封印切        
三、不破数右衛門        
四、当子歳乄たぞ乄たぞ        
 

浪花座と言えば帝国劇場の杮落し公演でも少し触れましたが明治37年4月の火事により焼失した後、掘っ立て小屋状態で再建されて細々と映画興行などを続けていましたが明治43年11月に道頓堀で勢力を拡大する松竹に対抗すべく秋山儀四郎から角座と浪花座を譲り受けた高木徳兵衛が経営する大阪演芸会社によって華々しく新築開場したばかりでした。

 

しかし、杮落し公演には田村の力を借りて歌舞伎座の主要メンバーを呼べた事で大入りになったものの、彼らの巨額の出演料に加えて浪花座を当時最新鋭の設備を備えた劇場にする為に金をかけ過ぎた結果、巨額の負債を抱えてしまいしかも続く芝居が不入りの為支えきれず僅か半年余りで敵であるはずの松竹に経営を委託せざるを得なくなるという本末転倒な態を成していました。

その後明治44年末までは名義上高木が座主になっていましたが、買収が済んだ事で今回の興行から正式に松竹の直営公演となりました。

それまで明治39年に借り受けて以来ずっと松竹と鴈治郎の道頓堀における常打ちの劇場であったのは中座でしたが、最新鋭の設備なんだし古い中座よりこっちでいいやと今回の買収を機に鴈治郎は浪花座を常打ちの劇場にして大正8年まで過ごす事になりました。

因みに中座は改修する前まで主に延若が常打ちの劇場として使用する事になります。

 

主な配役一覧

聚楽物語

関白秀次…四代目片岡我童(十二代目片岡仁左衛門)

淀君…芝雀

豊臣秀吉・香蔵主…嵐橘三郎

石田三成…嵐吉三郎

木村常陸之助…嵐厳笑

黒田如水…中村伝五郎(十三代目中村勘三郎の弟子)

増田長盛…四代目市川市蔵

萬関彌…堀越福三郎

増田左門…尾上多見之助

江島…成太郎

不破伴作…嵐徳三郎

富田知信…箱登羅

 

封印切

亀屋忠兵衛…鴈治郎

槌屋梅川…芝雀             
丹波屋八右衛門…市蔵

おゑん…我童

槌屋治右衛門……吉三郎

判人吉兵衛…箱登羅

 
不破数右衛門

不破数右衛門…鴈治郎

お仮名…芝雀

おつま…我童

萱野三平…成太郎

浅野長矩・片岡源右衛門…厳笑

原惣右衛門…市蔵

神崎与五郎…福三郎

大野郡右衛門・良雪…吉三郎

杉浦順左衛門…箱登羅

下僕六助…多見之助

        
当子歳乄たぞ乄たぞ

権兵衛…徳三郎

おまつ…我童

布袋…扇雀

小杉…芝雀

小菊…多見之助

秀二…成太郎

吉三…福三郎

楠松…市蔵

繁二…巖笑

成駒…鴈治郎

 

いきなり知らない名前が出てきたと思われる方もいるので順を追って説明したいと思います。

まずは一番目の聚楽物語です。

この作品は大正時代に六代目鶴屋南北を名乗った事がある食満南北が前年の南座の顔見世の為に僅か3日間で書き下ろした史劇物の新作で10月に市村座で上演された関白秀次を意識したのか内容だけなら同一ですがこちらの作品は17世紀のスペインの劇作家ロペ・デ・ベガの未発表作品であるセビーリャの星をヒントに作品を書いている為、三幕目にまんまセビーリャの星をコピペしたような場面があります。

 

主役の秀次を演じているのは四代目片岡我童でかつて五代目尾上菊五郎が角座に出演していた時に共演していた三代目片岡我童の養子になります。あの公演の後、明治28年4月に三代目我童は亡父の名跡片岡仁左衛門を襲名する予定でしたが、出演予定の親戚筋の初代市川右團次と実弟の三代目片岡我當を当時所属していた座主が出演を認めなかった事から発狂してしまい狂死してしまうという悲惨な最期を迎えました。

突然後ろ盾を失った彼は暫くは叔父の我當と共に行動を共にしてましたが養父の七回忌に片岡我童を襲名すると叔父の一座から独立し活動を始めました。我童と言えば昭和に入り十五代目市村羽左衛門の相手役を務める事が多くなった事から女形としてのイメージが強いですが生前最後に演じたのが弁天小僧であるなど実際は立役も数多く務められる役者であり、その点では中村魁車や二代目實川延若と似た様な部分がありました。ただ、この人の芸風は色々な人が口を揃えて言うのが「芸も台詞廻しも顔も美しいけどどこか冷たい雰囲気がある」という欠点がある事でした。女形としてはこれによって役の向き不向きがあったようですが、今回に関しては関白まで上り詰めたものの秀吉の後継者が生まれた事で疎まれ始め次第に性格が荒み運命の歯車が狂っていく秀次にはニンがぴったしだった事もあってかなり好評でした。

その後の我童についてですが、立役としては鴈治郎という絶対的存在がいる上に延若という強力なライバルもいる事、女形としても福助、魁車、芝雀と鴈治郎や延若の相手役がいて過剰気味ですらあった事から大阪では中々活躍の場を見つけ出す事が難しかしかった事もあり上述の様に叔父仁左衛門同様に昭和6年頃から活動の場を東京に移してしまい以後亡くなるまで東京で活動をする事になります。

 

次に紹介したいのは萬関彌を演じている堀越福三郎です。堀越と聞いてピーンと来る方もいるかと思いますがこの人は九代目市川團十郎の娘実子(市川翠扇)の夫でした。何故大阪の舞台に出演しているかというとこの人は元々銀行員で実子とは恋愛結婚した関係であり役者志望で何でもありませんでした。しかし、九代目没後斜陽著しい市川宗家の現状を見かねて役者を目指す決意をしました。

ところがこの時点で29歳という役者を目指すには高齢すぎる事もあって妻を始め一家は全員反対状態でした。それでも諦めきれない福三郎は東京の市川宗家を出奔し中村鴈治郎の元を頼りました。鴈治郎にとっても九代目は3度に渡り共演し崇拝していた人物だけにその娘婿の頼みを無視することが出来ず明治43年7月1日、地方巡業中の小倉常盤座で初舞台を踏ませて以降鴈治郎一門で修行を続けていました。

東京にいる田村成義や市川宗家の人間は鴈治郎と入魂の松竹がこの福三郎を神輿に担ぎ上げて東京に進出する事を極度に恐れていた関係もあって彼が初めて東京の舞台に出演するのは初舞台から4年後の大正2年11月になってからでした。

流石に演技経験も無いだけに演技は固く大成はしませんでしたが、本人も自覚していたのか東京に活動の場を移した後も至って真面目に演じていたらしく松竹もそのまま本名で活動させておくわけにもいかず市川宗家と協議の上、大正6年11月に五代目市川三升を襲名する事になります。

 

封印切

 

続いて鴈治郎の十八番中の一つである恋飛脚大和往来の封印切です。

配役一覧をよく見ると鴈治郎の脇を務める二代目中村梅玉と本来なら梅川を演じていてもおかしくない高砂屋四代目中村福助の名前がありませんが2人はこの時東京の新富座の舞台に出演していて代わりに四代目中村芝雀が梅川を務めています。彼の大まかな経歴については明治座の回で触れたので気になる方はこちらをお読みいただけたらと思いますが悪声と舌足らずで語尾が「ぱっ、ぱっ」と聞こえる癖のある台詞廻しにも関わらず芸の力でうぶな娘役を演じさせたらピカ一と言われる程の実力者でした。基本一匹狼でどこの一門にも入らず活動を続けていた彼ですが明治44年から大正3年ごろまで鴈治郎一座と行動を共にしていた為、福助がいない事もあって相手役に抜擢されました。

 

梅玉芸談でも触れられている様に初代中村鴈治郎は写実重視で本気で演じないと気が済まない上に毎日演出を変えたりするという共演者にとっては非常に共演しにくい役者でした。鴈治郎の指示を全く気にしない魁車向上心が皆無な故に不満一つ言わず指示に従う福助と違って腕一本で這い上がってきた芝雀にとっては鉛毒の影響もあって元々体調が優れない所にきて無理な注文が毎日来る鴈治郎との共演はかなり心身に負担をかけたらしく鴈治郎と共演する時に限ってはいつも緊張のあまり血圧200と異常な高血圧になり体調不良になる事も珍しくなかった様です。

 
そして芝雀の次に注目なのは八右衛門を演じている屋号が何故か「播磨屋」だった為、はり市と通称で呼ばれてた四代目市川市蔵です。

今では跡を継ぐ人がいなく廃絶した名跡ですが渋い脇役で活躍した役者です。とはいえこれはあくまで道頓堀での話で地方巡業に行けば主役を務めれるだけの実力がある人でした。この封印切では八右衛門と忠兵衛の梅川を巡る口論は全部アドリブで行う事が通例になっており、中でもこの市蔵は鴈治郎との相性が抜群で漫才の様にポンポンアドリブが飛び出すので鴈治郎に何度も相手役に指名された程の得意役でした。鴈治郎亡き後も昭和19年に亡くなるまで上方歌舞伎の長老として活躍し後に東宝歌舞伎に参加した懲罰で大阪に島流し状態にされていた四代目中村もしほ(十七代目中村勘三郎)もこの人にかなり変わった型や化粧を教わったと自伝で触れていています。

因みに鴈治郎と同じく封印切を得意役とした二代目實川延若の場合は八右衛門役は團蔵の角座出演の回で触れた二代目尾上卯三郎が一番のお気に入りだったと延若芸話で書いていてそれぞれ役者によって脇役の好みも様々だったのが分かります。

こうした芸達者な脇役の人材に恵まれていたお蔭で鴈治郎は自分の思う存分にアドリブ込みの演技が出来た事が彼の強みといえます。

 

 

正月公演に加えて新作や鴈治郎の封印切もあってか高砂屋親子がいなくても大入りだったそうです。

鴈治郎はこの興行が終わると休む間もなく東京へ移動し新富座に出演する事になります。

この明治45年時点で道頓堀五座と呼ばれた中座、角座、浪花座、弁天座、朝日座の内、朝日座は既に松竹傘下で映画館に転向していて

残りも四座も弁天座を除いて全て松竹の支配下にありました。弁天座を手に入れるのは大正6年に入ってからですが、この時点で上方歌舞伎界は実質上松竹が制覇しかけている状態でした。そうなると残すは東京の歌舞伎界のみとなり大正にはいると松竹は東京への攻勢を強める事になります。

 

さて、最後に余談ですが実はこの筋書、出所が明確に分かる珍しい筋書の一つです。

ページを捲るとこんな感じで印判が押してあります。

 

印判には「市川箱登羅」と彫られていてこの興行にも出演してる鴈治郎一座の右腕で活躍した二代目市川箱登羅から出た事が分かります。

彼は五代目市川寿美蔵の弟子で明治23年に大阪に移って以降亡くなるまで上方歌舞伎で活動した名優であり同時に非常に筆まめで「市川箱登羅日記」という明治から昭和における自身の出来事を綴った日記を演劇博物館に残しており、歌舞伎発行所の「歌舞伎 研究と批評」で大正時代の途中まで復刻されていますので上方歌舞伎に興味のある方は一読をお勧めします。

この箱登羅シリーズの筋書は幾つか持ってますのでおいおい紹介していきたいと思います。