大正10年5月 市村座 四代目尾上丑之助初舞台と勘彌2年ぶりの出演 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は久しぶりに市村座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正10年5月 市村座

 

演目:

一、長恨歌
二、嫩草足柄育
三、一つ家

四、文ひろげ

五、奇蹟

六、粟田口鑑定折紙

 

前回紹介した市村座の筋書

 

前回の筋書にも書いた通り二枚看板である吉右衛門の脱退が起きた事により市村座は以前からは想像もつかない程の苦境に陥っていました。

 

吉右衛門が脱退した時の帝国劇場の筋書

 

また菊次郎と国太郎亡き後一座の立女形の地位に就いた二代目市川米升もこの頃体調を崩して休演するなど弱り目に祟り目と言わんばかりに不幸が重なった中で4月公演を迎えました。

流石に当時の世論は脇役の息子というポジションから立役として長年に渡り育ててもらった恩顧が有りながら脱退の決断を下した吉右衛門への非難が集中しその反動で残された菊五郎を始めとする市村座への同情が集まった事もあり、4月公演はそれなりに入りはあったようですがかつての様な全日満員大入りといった状態からは程遠く、歌舞伎座や帝国劇場に大きく水を開けられる結果となり、ここに来て大正3年から始まった三座体制は大きく変化し始めていました。

そんな中で市村座が迎えたのが今回の公演で集客面で何とか挽回しようと打ち出したのが6歳になる菊五郎の養子である寺嶋誠三の初舞台でした。

 

6歳の四代目尾上丑之助と幟が立ち上る市村座

 

彼は養子とある様に鹿児島出身の実業家で橫濱正金銀行(現在の三菱UFJ銀行とPHYLLITEの前身)の副支配人も務めた鍋倉直と東京で赤坂の料亭「金林」を営む寺田きんとの間に生まれた私生児でした。

彼は実業家としても優秀である事に加えて浮世絵や狩野探幽、川合玉堂の絵も所有するなど文化人としての側面もありました。

そんな彼の子であった事や母が営む金林を菊五郎が贔屓していたという縁もあり、まだ子供のいなかった菊五郎夫妻に生まれて直ぐ養子として引き取られる事となりました。

しかし、菊五郎の大切な後継者でありながら初御目見えもなく6歳になるまで1度も舞台に出た事が無い事を訝しがる人もいるかと思いますが本人に言わせると鹿児島人の血を引くとは思えない程幼少期は病弱だったらしく、生後半年で中耳炎と肺炎を併発してしまい菊五郎が大金を払ってわざわざ大阪から酸素吸入器を取り寄せる程の重体となり、菊五郎は同時期に腎盂炎を患い寝込んでいた妻家寿子に息子の逆縁を告げなければならないと覚悟して妻に内緒で葬式の段取りまで組んだ程だったそうです。

幸いにも酸素吸入器のお陰で回復し、菊五郎は大切な後継者として可愛がり5歳になるまでは芸事を覚えさせず健康第一に育てたそうですが彼も健康に育った事で役者としての資質があると見込んだのかそこから猛スピードで舞踊や三味線、鼓などをスパルタで仕込まれて僅か1年で初舞台を迎える事になりました。

大切な音羽屋宗家の後継者の初舞台とあって市村座も盛大にプロデュースを計画したらしく、わざわざ初舞台の月を5月公演にしたのも帝国劇場が女優劇公演となり幹部役者が自由になる為、義兄である梅幸一門を出演させて花を添える為だったそうです。

 

主な配役一覧

 

因みにタイトルに書きましたがもう1つのサプライズとして大正7年12月公演を最後に脱退した守田勘彌が帝国劇場側のゲストとして2年半ぶりに出演したのも注目を浴びました。

 

脱退の経緯についてはこちらをご覧ください

 

表面上は円満脱退とはなっていますが実質的ば後ろ足で砂を蹴って去っていたのも同然である勘彌が古巣に出演する事についてはかなり物議を醸しだしそうな物ですが幸いにも当時の市村座の見物のヘイトは専ら松竹の劇場である新富座に出演する事が発表されていた吉右衛門に向いていた事もあり、勘彌の出演はそこまで否定的な物にはならず受け止められた様です。

しかし、裏を返せば梅幸を出演させる為とはいえ、一度は一座に後ろ足で砂を蹴って去っていた人物を頭を下げて迎え入れなければならないという市村座の苦しい経済事情が窺える物があります。

 

長恨歌

 
一番目の長恨歌は岡本綺堂が明治45年に演芸倶楽部で発表した作品を歌舞伎化した新歌舞伎の演目となります。
内容としては白楽天の漢詩を元とし中国の唐王朝中期の皇帝玄宗の皇妃である楊貴妃を主人公に傲慢極まる彼女の絶頂期から始まり安禄山の乱により都を追われ零落し絞殺されるまでの最期を導師である李子明や猛将長春、百姓劉英とその妻蓮子といった人物たちを絡めて唐王朝の没落と戦乱による市井の民に起こる悲劇を描いています。
今回は楊貴妃を菊五郎、皇帝玄宗を三津五郎、李子明を勘彌、劉英を男女蔵、蓮子を榮三郎、長春を友右衛門がそれぞれ務めています。
劉永夫妻に起こる話などは後年に書いた戦の後にも少し似た部分がありますが中国史に立脚した描写と市井の人の活躍もある綺堂らしさがある演目でもあります。それは兎も角、それまで専ら黙阿弥物や古典演目ばかり上演してきた市村座がいきなり180度違う綺堂物をやったのはかなりの変化ですがどうもこれは左團次を私淑する勘彌の熱烈な希望によって決まった物だそうです。
勘彌からすれば市村座在籍時代からこういった新作演目の上演に熱意を燃やしていた事もあり、古巣での上演は正に本願成就だったに違いありません。
さて、そんな異色な演目の出来はどうだったかと言うと劇評はまず大道具について評して
 
序幕の長生殿は絢爛目を奪ふ大道具だが、次の馬嵬駅の背景は南方支那の風物とは思へない。
 
と山場となる馬嵬駅の場の背景や劉永夫妻の家が在来の芝居の大道具からは脱却出来ておらず、こうした大道具にも予算が付く帝国劇場とは異なる欠点を指摘されています。
そして感じの作品の内容についてはというと
 
何といふ下らない作だ
 
そこには余りといへば余りに「内容」がない
 
とかなり痛烈過ぎる酷評を喰らっています。
 
しかし、役者についてはまず1人ヤル気満々の勘彌は
 
勘彌の導士李子明が一番すぐれてゐた。
 
勘彌の李子明は、サロメのヨナカンといったやうな役で、唐の末路を予言して、(楊)貴妃の怒りに遭ひ、生燈台となる幕切や、蜀に落る貴妃に相対した感慨無量の科など、この優一流の味がある
 
と占い師という古典歌舞伎には中々ない役柄も西洋劇に鍛えられた勘彌にとってはお手の物で楽々と演じながらも評価されています。
ただ劇評では続けて
 
何も必ずしも、あの勘彌氏を煩らはす必要はあるまい
 
と新作物においては百戦錬磨の勘彌にしてみれば少々役不足の感は否めない部分があったそうです。
そして勘彌以外にとっては未知の演目となる綺堂物を演じた役者については
 
菊五郎の楊貴妃は柳腰楚々(柳の様な細い腰付きで可憐な美しさ)たる原詩の俤はないが、理智の勝た勝ち気の女が、蜀を指して落行く處は哀れであった。
 
菊五郎の楊貴妃。これは思ったよりよかった。豊かな肉体と、あの丸ほちゃな顔とが、自分の趣味とは、従って、自分の想像に描くそれとは全く異なったものではあるが、ともかく或る点まで楊貴妃その人らしく見えた
 
三津五郎の玄宗と友右衛門の長春は、位置の上から役處で色取した男女蔵の劉永が苦役に捕はれて榮三郎のその妻蓮子と別れる處も、さらりとした中に情があった
 
と菊五郎はその体型から傾国の美女と謳われた美しさは皆無だったものの、持ち前の写実で国を追われ零落する様は流石に上手いと評価され、三津五郎、友右衛門の他に男女蔵までもが綺堂物初体験とは思えない適性を見出して好評でした。
 
三津五郎の玄宗と菊五郎の楊貴妃、友右衛門の長張

 
吉右衛門が抜けた事で一番目の時代物の演目がどうしても弱体化してしまうのは否めない事実でしたがそこで敢えて無理して古典物を手掛けず大胆に綺堂物にした事が功を奏して見物にも新鮮に感じれたのかかなり好評だったそうです。
 

嫩草足柄育

 
続いて中幕…ではなく「丑之助御目見得狂言」と銘打たれて行われたのが嫩草足柄育となります。
今回は山賤実は三田の仕を菊五郎、足柄の山姥を梅幸、源頼光を三津五郎、平井保昌を友右衛門、ト部季重を男女蔵、臼井貞武を菊三郎、五条兼行を新十郎、由良家重を翫助、大野義俊を伊三郎、岩田兵馬を鯉三郎、山藤右門を菊十郎、渡邉小金丸を榮三郎、猪熊玄潤を幸蔵、怪童丸後に坂田金時を丑之助がそれぞれ務めています。
さて、内容としては初舞台とあって当代丑之助が前年の5月に歌舞伎座で披露した時とは異なり源頼光が夢のお告げに従って足柄山に赴きそこで怪童丸を見つけ敵方である猪熊玄潤を怪力で押し倒す立廻りの後に金太郎が上洛の命を受けて熊に乗っかり兎と猿を従えて花道を悠々と歩いて引込む10分程度の寸劇だったそうです。
 
凛々しい丑之助の金太郎

 
その割には錚々たる面子に囲まれての初舞台となりましたが、この演目について当の丑之助本人の記憶によれば
 
私の金太郎の隈は團十郎直門の名ワキ役市川新十郎が描いてくれ、祝いの引幕きは後援会の音羽会、魚河岸、大根河岸から十枚近く贈られ、さらに後援会の音羽会から畳一畳くらいのおもちゃの自動車を贈られ、大喜びしたものである。」(梅と菊より抜粋)
 
と贔屓から贈られたおもちゃが一番印象に残っていたと如何にも無邪気な子供らしい記憶ですが顔を新十郎が担当した他に演目の後には口上もついたらしく梅幸と菊五郎が述べる等、流石は音羽屋の御曹司の初舞台とあってかなり恵まれた初舞台となりました。
 
口上での梅幸と丑之助

 
 
一つ家

文ひろげ

 
続いて正式な中幕である一つ家と文ひろげは梅幸の出し物であり新古演劇十種の1つでもある舞踊演目となります。因みに続けて上演された文ひろげは大正4年10月に帝国劇場でこの演目が上演された際に右田寅彦が新たに書き加えた演目で今回もセットでの上演となりました。
今一つピンと来ない方も多いかと思いますがそれもその筈で、この演目は下記の画像にもある様に瘦せこけた老婆の志女茨が片肌を脱いでの所作がある為に痩身だった六代目梅幸の存命時は時々上演されましたが梅幸の死後は肥満体の六代目菊五郎には志女茨が到底演じられない為か演じられる機会が皆無となり戦後間もない1946年に三代目中村時蔵が演じたのを最後に75年以上も上演された事ない幻の演目となっています。
内容としてはシンプルな物で武蔵国浅茅原(台東区橋場付近、少し前に奥浅草という呼称が物議を醸した観音裏の更に北の辺り)に住んでいた母娘が寝る所に困った旅人を泊めるフリをして襲って殺し金品を奪っていた所に観世音が美しい美少年に姿を変えて現れその美貌に一目ぼれしたショタコンの娘の浅茅が殺すのは忍びないと逃がした所、母の志女茨が娘に怒り襲い掛かる所で観世音が正体を現しその崇高な姿を見て己が所業を悔い改め姥ヶ池に身を投げるという物になっています。
そして文ひろげはというと文売りの与作が茶筅売幸阿弥と一悶着の末に五条橋の上から川に投げられてしまいそこに現れた狂女千代と川から上がってきた与作が勘違いが原因で繰り広げるドタバタを描いた面白い所作事となります。
言うまでもなくこの文ひろげは後味があまり良くない一つ家の口直しを兼ねて書かれている物であり、陰惨な人殺しである志女茨と真反対のコミカルな狂女千代を梅幸が一人二役で演じる所に妙味があります。
今回は志女茨と狂女千代を梅幸、浅茅を榮三郎、野育の馬蔵を新十郎、原中の平六を翫助、文売与作を勘彌、旅の子実は観世音を三津五郎、茶筅売幸阿弥を菊五郎がそれぞれ務めています。
こちらの出来はどうだったかと言うとまず一つ家の方から見ると
 
片肌脱ぎで月光を浴び大鉈を研ぐ處が、凄味があった
 
と流石はお家芸とあって梅幸の志女茨の怖さが引き立っていた評価されています。
対して浅茅を演じた榮三郎についても
 
榮三郎の娘浅茅が三津五郎の観世音に恋する處は、初心な科がよく適してゐた
 
と若女形として売り出していた彼だけに初心な娘役が正にハマり役だとこちらも評価されています。
歴史にIFは禁物ですがもし榮三郎が長命していれば新古演劇十種の戻り橋や今回の一つ家、少し前に紹介した岡崎の化猫などこれら音羽屋の妖怪物を受け継げた可能性はあるだけに芸の継承の難しさをつくづく感じます。
 
梅幸の志女茨と榮三郎の浅茅

 
そして打って変わって喜劇テイストの文ひろげの方についても
 
梅幸の狂女が一寸妖艶な味を見せたが、舞台装置にもう少し光線の工夫が欲しかった
 
と梅幸の演技には問題なかったものの、一番目の長恨歌と同じく舞台装置の方には幾分改善の余地があると指摘されています。
 
梅幸の千代と勘彌の与作

 
 

奇蹟

 
そしてもう1つの中幕の奇跡は菊五郎の出し物でこれまた市村座とは無縁の存在であった作家の菊池寛が大正5年に書下ろした新作の演目となります。いくら一番目の演目が勘彌のリクエストだったとは言え、この中幕も新作とこれまでの市村座が歩んできた古典漬けの13年間からすると考えられない位の変化ですがこの背景には吉右衛門に去られた事による市村座の立て直しが関係していたそうです。
というのも田村壽二郎は市村座の改革の一環として父親が推し進めた晩年の團菊を見ていた見物相手に若手の菊吉で再現するという手法で支持層を確立したのに対して壽二郎は初期の市村座では関白秀次などで先んじて手掛けていたにも関わらず結局、帝国劇場や左團次一派に美味しい所を持っていかれてしまった古典と新作の両立、つまり新進気鋭の作家による新作上演による新たな若手層へのアプローチを模索してしたらしく、1月公演での菊吉の出し物パートの変更や2月公演での小磯ヶ原の上演など既に片鱗は見せていましたが吉右衛門の脱退により危機感を覚えて改革を急ピッチで推し進めたらしく少し先のネタバレも含みますが
 
・4月「高松城水攻」(長田秀雄作)
 
・6月「飢渇」(長田秀雄作)
 
・8月「髑髏舞」(吉井勇作)
 
・9月「坂崎出羽守」(山本有三作)
 
とこれまで堰き止めていた流れを開放するかの様に毎月新作を手掛ける様になっていました。
この内現代にまで残った演目は坂崎出羽守だけですが、菊五郎自身も吉右衛門脱退とその理由に挙げていた演目の硬直化について考え対策を練っていたのが分かります。
さて、話を戻すと内容は一幕物だけに至ってシンプルで仏を全く信じず破戒に耽る3人の若僧と1人の少女に起こる閻魔様のちょっと怖い(?)出来事を受けてそれまでの悪行を悔い改めて仏への信仰を取り戻すというほんわかコメディな物になっています。
今回は秀寛を菊五、おべんを男女蔵、甲の僧を勘彌、乙の僧を友右衛門、丁の僧を伊三郎、丙の僧を三津五郎がそれぞれ務めています。
下記の画像でも分かる様に舞台上には大きな閻魔像1体があるのみという非常にシンプルな舞台設定でどちらかというと人間側の台詞廻しだけで舞台が構成されているといっても過言ではない演目だけに演者の技量が問われる芝居でもありますが劇評ではこのシンプル極まりない舞台装置について
 
大道具も光線も先づ成功した中に、閻魔の像は殊に大出来である
 
と先程の文ひろげとは正反対に光線量も適量で且つちょっと狭い市村座の舞台上に安置された閻魔像も相まってお寺の堂宇らしさが出ていると出来栄えを高く評価されました。
そして役者についても享和政談延命袋の日当以来の破戒僧役となった菊五郎ですが
 
菊五郎の秀寛と男女蔵の町の娘おべんとここで忍び逢ひ、閻魔の像を散々愚弄したが、娘は気味悪がって逃げ出し、自分も段々怖気附いて来る處が一番味があった
 
とコメディタッチであるが故に普段の複雑巧緻な演技でこそないですが、棒しばりや太刀盗人で鍛えたコミカルな演技の経験も役立ったのか無難にこなしたらしく
 
菊五郎が軈て新しい劇に進まうとする、道程と見えて興味を擦った
 
と新たに新作物を手掛ける決意をした菊五郎に対して好意的なエールを送っています。
しかし、別の劇評では全く正反対の評価となっており
 
菊五郎はどうしてあんなに下手なのであらう。あの黙阿弥などの世話物をあれ程情深く演出し得る彼が、一度こういふ「新しいもの」になると、どうしてあんなに下手になるのであらう。それは実際見てゐても不思議な位だ。
 
と彼の本役と言える世話物での演技と比べると出来は雲泥の差であったと厳しく批判されています。
これに関してはやはり経験の差による物が大きく影響しているのは否めず、新作物へのアプローチを始めて2ヶ月ばかりの彼に対して言うのは少々酷な気がしてなりません。
 
菊五郎の秀寛と男女蔵のおべん

 
対して脇を務める役者も三津五郎、友右衛門、勘彌と市村座メンバー勢揃いとあってか
 
堂内で堕落した勘彌や友右衛門、三津五郎などの若僧が盗み出した仏像の置處が変わったのに恐怖して一人一人逃げ出す處がヤマであり、成功でもあった。
 
と信仰心を忘れて仏像を盗み出す悪行三昧をしておきながらおべんのした何気ない事を勘違いして勝手に恐れふためく姿が喜劇味を出していたと高く評価しています。
この様に優れた技芸を持つ役者が演じさえすれば新作でも問題ないというのが改めて証明されましたが、残念ながらこれまでの市村座においては岡村柿紅により幾つかの舞踊演目では新作も掛けられましたが舞踊以外において新作物を出せる機会が無かったのが欠点でした。
これは田村成義が歌舞伎座で團菊がやった新作での数々の失敗の眼の前で見てきた故の反面教師の部分もあり、確実に人気と儲けが見込めるという点で古典物を重視せざるを得ないのは興行師としては当たり前のリスクヘッジであったのは理解出来ます。
ただ、その反動で新作物も平気で上演する歌舞伎座や帝国劇場と比べて演目の選択幅が少ないと役者の不満が蓄積して行く事となり大正中期の市村座は彼のカリスマ性頼りの劇場運営になってしまった部分があるのは否めず、その結果として彼の死により崩壊が起きてしまったのも紛れもない事実でもあります。もし彼の存命中にこうした新作物を定期的に出せる下地が出来て役者の不満を解消する場を設けていれば、或いは歌舞伎座における明治座や本郷座、帝国劇場における有楽座といった別演目をやれる二部制の劇場があれば勘彌や吉右衛門も脱退を思い止まる等して崩壊をもう少し先延ばしに出来た可能性もあるだけに経験豊富であるが故に新作を軽視し過ぎた田村成義の興行師としての欠点が浮き彫りになります。
 

粟田口鑑定折紙

 
二番目の粟田口鑑定折紙は以前に市村座で上演した時にも紹介した初代三遊亭圓朝の落語を原作とした世話物の演目となります。
 

7年前に吉右衛門が大野惣兵衛を演じた時の筋書

 

今回は稲垣小者丈助を菊五郎、荷足の仙太と甥の泰太を三津五郎、大野惣兵衛とかしのを友右衛門、手代十三郎を男女蔵、巡礼十助を菊三郎、刀屋宗七を新十郎、おゆきを榮三郎、おみよを粂三郎、喜代松を幸蔵、稲垣小三郎を勘彌、小栗新之丞を梅幸がそれぞれ務めています。

さて、7年ぶりの再演となるこの演目ですが7年前にいた彦三郎と吉右衛門が座を去り菊次郎も亡くなった為、配役も変化し彦三郎の受け持っていた荷足の仙太を三津五郎が掛け持ちし、菊次郎の持ち役だったおみよを粂三郎が、そして吉右衛門が車輪に演じて好評だった大野惣兵衛を友右衛門が受け継いで本役であるかしのとの掛け持ちで演じているのが大きなポイントでもあります。

ここで紹介していない4月公演でも高松城水攻めや敵討護持院ヶ原で立役を務めた友右衛門ですがここにきて吉右衛門の持ち役を継承する事で菊五郎に次ぐ市村座のNo.2のポジションにまで昇格したのを示していて以降昭和2年の市村座を脱退する迄菊五郎を支えていく事になります。

 

 
菊五郎の稲垣小者丈助と友右衛門のかしの

 
それはさておき、二番目にも関わらず五幕十一場の通しで上演したこの演目ですが既に丑之助の初舞台に新作2つ、梅幸の一つ家と話題てんこ盛りだった為なのか折角の長丁場の舞台に対しても素っ気なく
 
菊五郎の丈助が例の小悪党で得意な技巧を見せ、梅幸の新之丞、友右衛門の大野惣兵衛など活躍
 
と僅か1行で片付けられてしまっており、菊五郎以外の役者が具体的にどんな活躍をしていたのかが今一つ分からない状態でした。
 
この様に一番目から二番目まで大車輪の働きで夜11時までノンストップの市村座でしたが、前月は厳しかった入りも丑之助の初舞台と言う御祝儀に加えて勘彌の2年ぶりの出演と話題には事欠かず、内容もこれまでの市村座にはない斬新な演目選定も功を奏したのと歌舞伎座では羽左衛門が途中病気休演などをした事で入りが伸び悩み、帝国劇場はいつもの女優劇とライバルの劇場も4月も過ぎて入りが悪い閑散月(当時)の5月ではそこまで入りが好くなかった事も幸いし久しぶりに市村座が頭一つ抜ける程の入りとなりました。
この先また暫く筋書を持っていいないので軽くネタバレすると折角の5月の好調も長続きはせず6月公演は再び厳しい状態を余儀なくされて一座は久しぶりに7月公演を休んで巡業に出かけ8月は恒例の帝国劇場への引越公演を行いました。そして3ヶ月ぶりに開いた9月公演では新作の坂崎出羽守が大当たりし起死回生の一発となり、折しも歌舞伎座が新派公演だった事も助けとなり再び大入りとなり吉右衛門が去ったショックにもめげず立て直しが一見順調に進んでいる様に思えました
しかし、次なる悲劇は既に目前にまで迫っていました。次回の市村座の筋書はそんな公演となった10月公演を紹介する予定です。