名所江戸百景 4景 永代橋佃しま 白魚漁の疑問 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

テーマ:

 景数  4景 
 題名  永代橋佃しま 
 改印  安政4年2月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政4年1月11日 

広重アナリーゼ-4景永代橋佃しま


 この絵は、大川(隅田川)に架かる橋で最も下流にあった永代橋の橋げたから、佃島を望んだ構図になっている。過去の広重は佃島を何度も描いているが、概ね北側から佃島を描く場合が多い。
 佃島の北側は大船の係留所になっていた。過去の絵と異なるところは、夜であることと、永代橋の橋げたから除いた構図になっているところである。

 かがり火をたいている舟は、白魚漁をしている舟である。白魚漁は毎年11月から3月の間で行われ、冬の夜の風物詩になっていた。白魚は大川河口から徐々に遡上して、千住大橋あたりまでが魚場であった。このあたりになると、味が落ちると言われる。佃島の漁師は、家康が伊賀越えをしたときに助けたことから、開府後家康に召喚され、漁業権と佃島を与えられた。そのお礼に、ここでとれた白魚は幕府に献上された。ここまでは、佃島を説明している本にはたいてい書いてあることである。

 ここから先は、あまり知られていないことを書いてみよう。ここで白魚漁をしているのは、佃島の漁師ではなく、将軍家に白魚を納入する白魚役人の手のものなのである。都史紀要26巻に詳しく説明されているが、佃島漁師とは別に(しかも明らかに格が上の)白魚役人という人たちがいた。この役人は小網町に住み(俗に漁師が「小網町」と言うと白魚役人をさす)、千住大橋から隅田川河口一帯の白魚漁の漁業権を持っていた。先に説明したように佃島漁師も白魚を将軍に献上していたが、それだけでは江戸城をまかなえなかったのか、江戸時代の早い時期にすでに白魚役が存在し、幕府に白魚を供給していたのである。
 佃島漁師と白魚役は、しばしば訴訟にも発展したことがあるが、佃島漁師は白魚役に負けて、もっとも白魚のおいしい千住から河口では漁ができなかった。代わりに中川や江戸川で白魚漁をしていた。佃島漁師も白魚を納める義務があったので、他の場所から調達したのだが、島の目の前で漁が出来なかったのはかなりつらかっただろう。享保6年に大岡越前によって、千住大橋の上流では白魚漁が許可され、佃島漁師は大変喜んだとある。味が落ちているのを知っているのに、喜んだのはヒトエに面子が立ったからであった。
 白魚役の話は、中央区史にも少し載っている。訴訟の史料は、奉行所から引用しているので、信憑性は高い。

 それを踏まえてこの絵の白魚漁を見てみると、漁の仕方が奇妙である。都史紀要26巻には、白魚役の白魚漁は建網で獲っていたとあるが、絵は四手網である。建網とは、網を海中に固定させる漁法のことである。この絵では、漁をしている所がほんの一部しか見えないのであるが、網を固定している感じではない。 廣重は嘉永3年出版の「絵本江戸土産」2編の中で「佃白魚網夜景」という四手網で白魚を獲っている絵を描いている。その説明には、「永代橋の向ひを佃島といふ。ここに住吉明神を祀る。この辺冬より初春に至り,四ツ手綱をはりて白魚を漁(すなど)る。終夜(よもすがら)簿火(かがりび)をたきて,風景詩歌に詠ずることも余りあるべし」とある。しかしよく見ると大船は佃島の後ろになっているので、江戸土産で描いた場所は佃島の南側ということになる。
 一方、白魚役が建網漁をしていたことは、延享3年(1746年)の「白魚屋敷建網と佃嶋四ッ手網ト白魚漁場争論之事」の訴訟でわかる。
 これらから、広重は自ら描いた江戸土産の絵を参考にしたが、佃島の南側の漁を、絵の構図のために北側に置き換えて描いたものと思われる。

広重アナリーゼ-江戸名所図会佃島白魚漁
江戸名所図会 佃島白魚漁



広重アナリーゼ-絵本江戸土産 佃白魚網夜景
絵本江戸土産2編 佃白魚網夜景



このブログで参考にした本
佃島と白魚漁業―その魚場紛争史 (1978年) (都史紀要〈26〉)
広重―江戸風景版画大聚成
広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
中央区史
江戸名所図会

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