90景 猿わか町よるの景 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  90景 
 題名  猿わか町よるの景 
 改印  安政3年9月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政2年12月15日 

猿わか町よるの景

 安政地震では、猿若町にあった芝居小屋はすべて焼失してしまい、この絵は地震後の復興を描いた絵とされている。

 天保の改革で二町丁(堺町と葺屋町)から、浅草裏の猿若町に芝居小屋が移されたのは、天保12年(1841年)で、改印である安政3年のおよそ15年前のことである。
 天保12年(1841)の十月の火事によって一帯が消失したのをきっかけに、天保の改革を断行中であった水野忠邦は、芝居小屋を江戸の中心地から郊外へ移すことで、その衰退を狙ってのことだが、浅草寺、吉原、芝居小屋と浅草周辺に娯楽が集中したことから、却って繁盛したという。
 その繁栄ぶりを、この絵は北側から猿若町を描いており、右手前から森田座(河原崎座)、市村座、中村座と続いている。森田座だけはっきり読める絵になっていることから、森田座の入銀ものと考えられている。

 森田座は地震後、安政2年12月に興業を再開している。しかし地震の影響あってか、このときは
「引き続き天災にて芝居不入。三座とも顔見世できず」(歌舞伎年表)とあり、実際はこの浮世絵のようにはいかず、顔見世興業ができないほど入りが悪かった。

 最後にこの絵の描かれた日を推測してみよう。地震後、森田屋は安政2年12月に開業を再開している。また改印の安政3年9月より前の満月(15日)に描かれたものである。原信田実氏の謎解き広重「江戸百」によると、森田屋の宣伝をしているということと、服装が冬物であることから、森田屋開業直後に描かれたものと推測している。以上から、安政2年12月15日に描かれたものと推測する。

この記事で参考にした本
謎解き 広重「江戸百」 (集英社新書ヴィジュアル版)
歌舞伎年表


広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))


広重 名所江戸百景

斎藤月岑日記6

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