景数 | 89景 |
題名 | 上野山内月のまつ |
改印 | 安政4年8月 |
落款 | 廣重畫 |
描かれた日(推定) | 安政4年7~8月 |
描かれているものを詳細に見てみよう。まずは月の松。月の松を描いた浮世絵は過去になく、また植えられた日もわかっていない。
最近になって、清水堂の脇に月の松を復元したらしく、見に行ってみた。自然に枝が丸くなったわけではなく、復元松はテープをぐるぐるにしてなんとか輪の形をしているのだが、痛々しかった。輪にする技法は現在に伝わっておらず、思考錯誤の末復元したと担当の方は語っていた。過去に描かれた絵がないことや、江戸名所花暦や各種の名木番付にも載っていないため、おそらく安政年間になって、新たに移植された松ではないかと思う。
輪の右下には不忍池の弁財天の赤い屋根が描かれている。その周辺には料亭や水茶屋が多いところであった。京都の比叡山にならって江戸では、東叡山寛永寺を置き、不忍池は琵琶湖を模して、竹生島のように中島を築き、さらに竹生島弁天を勧請して、中島弁財天と称した。
輪から見える不忍池の対岸は、茅町の町並みで、絵の右側の森が心行寺の森、輪の中に見える火見櫓は加賀藩の支藩富山藩松平家の上屋敷、輪の左側側の火見櫓は越後高田藩榊原家の中屋敷のものと思われる。
次に絵に見える所の安政地震の被害を見てみよう。この辺りは安政地震の揺れが大きく、推定で震度6強だった。そのため被害が大きい。
中島は地震で島に行く途中の石橋が倒壊し、さらに境内の茶屋は全て焼けてしまった。また対岸の茅町は建物がほとんど倒れ、その上茅町2丁目と、近くの七軒町から出火して付近が延焼した(武江年表)。せっかく地震と延焼を免れた茅町の家屋も、安政3年8月25日の未曽有の台風によってほとんどが倒壊してしまった(安政風聞集)。
榊原家下屋敷も類焼し、この辺りは死亡者が計り知れないほどあった(武江地動之記)。
さて最後にいつものように、この絵の描かれた日を推測してみよう。対岸の茅町が地震と火事で壊滅し、さらにそのあとの台風からの復興を描いたものと思われる。おそらく復興には半年以上かかり、改印より前の秋と考えると、安政4年の7~8月に描かれたものと推測する。
この記事で参考にした本
広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
実録・大江戸壊滅の日 (1982年)
武江年表 1 (東洋文庫)
武江年表 (2) (東洋文庫 (118))
武江地動之記
斎藤月岑日記6
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