名所江戸百景 11景 上野清水堂不忍ノ池 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  11景 
 題名  上野清水堂不忍ノ池 
 改印  安政3年4月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政3年3月8日ころ 

広重アナリーゼ-上野清水堂不忍ノ池


 上野清水堂は、江戸時代、寛永寺の境内にあり下谷広小路から黒門をくぐり、すぐ左の小高い山にある。清水堂は数々の天災、戦争をくぐり抜けて現存し、重要文化財の指定を受けている。この絵では、清水堂の南側にある桜は江戸名所図会や東都名所坂つくし之内 上野清水坂によると、枝垂桜と彼岸桜(と思われる)が混在していたが、この絵ではすべて彼岸桜に置き換わっている。百景で枝垂桜が出てくるのは、14景日暮里寺院の林泉だけであるが、この絵の初摺は趣向を凝らしている。日暮里寺院の林泉の改印は安政4年2月、この絵は安政3年4月であるので、摺り師の問題で枝垂桜を絵に入れなかったか、あるいは枝垂桜を単純な摺りにしたくなかったのか、何かの理由で枝垂桜を置き換えたのだと思われる。

広重アナリーゼ-江戸名所図会 清水堂花見図
江戸名所図会 清水堂花見図



 寛永寺境内の桜について、斎藤月岑「東都歳事記」に詳しく書かれているが長いのでまとめると、彼岸桜は立春より54、5日目より咲き、寛永寺随所、上野山中に多く、その昔台命(天海僧正)によって吉野桜を植えた。江戸名所花暦や江戸の日暦などその他の文献を見ると、吉野桜=彼岸桜のようである。枝垂桜は咲き初め彼岸桜と同じで、寛永寺坊中に多い。一重桜は立春より60日目で、寛永寺髄所にある。また清水堂の一重桜は立春より65日目頃より咲く。八重桜は立春より70日目で寛永寺中堂後ろにある。遅桜は65日目頃、寛永寺清水石坂の上にある云々、とあり寛永寺では2月末から3月中ごろまで、さまざまな桜が順次咲くように各所に植えられていることがわかる。また江戸の人はこれだけの桜の種類と咲く時期を正確に認識していたことに驚かされる。

 先ほど、この絵の桜は彼岸桜と書いたが、東都歳事記では清水堂の前は一重桜が多いとある。一重桜は桜の分類上何に当たるのかわからないが、吉野桜が彼岸桜とすると、おそらく山桜の一種ではないか。一方、広重が挿絵を描いている絵本江戸土産には「この傍、彼岸桜の大木数十株ありて,春時の一奇観更に雲のごとく,雪に似たり」とあり、東都歳事記と内容が一致しない。ここでは結論できないが、一応ここでの桜は彼岸桜としておく。

 桜についてはこれくらいにして、その他の説明をしてみよう。清水堂が左側にあるが、絵画的には構図の中心となる対象が左側にあると心理的に安定した絵になるという。他に53景「増上寺塔赤羽根」で、この構図を選んでいる。この時代に構図と心理について江戸末期の町人絵師が知っていたとは考えにくいので、広重は経験的に会得して安定した構図を選んだのだと思われる。
 右側にある月の松は、89景でアップにした絵が別にあるので解説はそのときにしたい。
 背後には不忍池があり、弁天島に続く道の一部が描かれている。ここに広重の意図が感じられる。

 安政地震のこの辺りの被害は、「東叡山諸堂別段なし」、弁天島付近は、「不忍池石橋崩れ落ち、境内茶屋残らず焼くる。」と武江年表にある。石橋というのは、絵の右側でちょうど切れている先にあった小道と弁天島を渡す橋である。江戸府内で石橋は非常に珍しく、私の知っている限りでは目黒の太鼓橋とこの橋しかない。もっともこの石橋が描かれてる他の絵を見ると、太鼓橋のように本格的なつくりではないようだが。
 改印が安政3年4月ということで、おそらく右側に描かれたいない道の先は、まだ復興していないのだろう。景気よく桜木をたくさん描いているが、実情は暗い部分もあったわけである。117景「湯しま天神坂上眺望(改印安政3年4月)」でも、弁天島を描いているわけだが、同じように石橋の直前で絵が切れていることからも、石橋を描かない理由が伺える。

 以上から、描かれた日を推測してみる。藤岡屋日記をよく読むと、毎年将軍や御三家が桜が咲くと外遊するので、その毎年その記録が残っている。安政3年は、3月13日に高田、雑司が谷、王子、道灌山、千駄木などを家定公が御成している。立春から数えて61日目で、東都歳時記で彼岸桜は54、5日の咲きはじめが満開になるにはちょうどいい時期である。もっとも寛永寺の桜は、王子方面よりは早く咲き始めるようで、「絵本風俗往来」では上野の桜が散ると王子、飛鳥山の桜が見ごろになるという。だいたい7日くらい差があるのではないか。
 結論としては、安政3年3月13日の7日前、すなわち3月8日ころの上野清水堂を、地震で被害が残った部分がうまく入らないように、右側に対象物がある安定した構図で、桜を実際よりも派手に景気づけして、桜の名所上野山内を描いたということになる。


このブログで参考にした本
日本名所図会全集〈〔6〕〉東海道名所図会・東都歳時記 (1975年)
広重―江戸風景版画大聚成
定本武江年表 下 (ちくま学芸文庫)
広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
和洋暦換算事典
近世庶民生活史料 藤岡屋日記〈第7巻〉
江戸府内絵本風俗往来
江戸の日暦〈上〉 (1977年) (有楽選書〈14〉)
斎藤月岑日記6
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