広重研究の歴史 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 歌川広重の研究の歴史について、ちょっと書いてみる。

 広重を研究対象とした人は大勢いるが、まず第一に挙げられるのは内田實氏である。その著書「広重」は、古い本で神保町の古本屋でたまに売られているが、本屋さんで予約して買うことはできない。この本は広重の生い立ちや、作品の評価などありきたりの内容のほか、広重を良く知る人物にインタビューして、いくつかの逸話を載せている。これは現代の研究者がどんなに優秀でも、もはやできない事である。この「広重」が、その後の広重関係の本のほとんどで、底本となっている。
 次に上げられるのが、鈴木重三氏である。著書の「広重」は、内田實氏の「広重」の真贋を考証している。それまでの定説のいくつかが覆っている。この本も入手困難で、私はどうしても手に入らなくて国会図書館で読んだ。
 このブログでよく引用させてもらっているのは、ヘンリースミス氏の「広重江戸名所百景」、大久保純一氏の「広重と浮世絵風景画」、堀晃明氏の「広重の大江戸名所百景散歩」などである。堀晃明氏の「広重の大江戸名所百景散歩」は、ちょっと大きい本屋に置いてあり、入手しやすいが、今となっては解説の根拠が弱かったり、私とは解釈がことなるところがある。ヘンリースミス氏の「広重江戸名所百景」は、絵もきれいで解説も素晴らしいが、本屋に置いてあることはまずない。ネットでは入手可能である。少し大きい本なので保存場所の確保には注意が必要である。大久保純一氏の「広重と浮世絵風景画」は、百景に限った解説本ではないが、完全に学術研究の対象とした解説があり、いままでの本の中では一番内容が濃かった。いままで上げた本の解説が物足りなくなったら、入手してみてはどうか。

 さて、入手可能な本の内容をブログでしても、あまりおもしろくないので、入手しにくい内田實「広重」からいくつか取り上げてみたい。

 以下の話は、内田氏が生前の広重を知っている人物から直接取材した内容で、広重の遺品が散失してしまったり、洪水や火事で殆どが失われてしまった今、この話を底本として一般化してしまった内容もいくつかあるが、のちに幾つかは当時の広重の状況から否定的な話もある。

広重の住居について
 晩年に大鋸町に住んでいたころの話について、那須みね氏と高田ウタ氏の話がある。
 「廣重さんの家は、一軒立ちの二階家で、私の子供心には、家も庭も廣い善い宅だと思つてゐました。廣重さんは、平生二階の居間に居られ、私達が遊びに行つても、廣重さんの在宅の時は二階へ上がれませんでした。廣重さんは、あまり口数は利かれなかつたやうに思ひますが、何時もニコヽして居られて、私達は善いお爺さんだと思つてゐました。外出の時は、常に道行(みちゆき)を着て居られたことを覚えてゐます。お弟子さんがよく来られましたが、内弟子も少しはあつたではないかと思ひます。お辰さん(廣重の養女)は、私よりは年が上でしたが、温順しい、極く人柄なお娘で-私は可愛がつて貰ひました。その後、お婿さんを貰はれたと聞きましたけれども、その時分は、私の家が他へ移つてゐましたから、知りませんでした。お辰さんの阿母さん(お安)は、なかヽ利かぬ気の人であつたと云ふことを、親共から聞かされて居りました。」

 「廣重さんの中橋の宅は八畳六畳四畳半、それに二階が一間あつて、手狭ではありましたが、階下は廻り縁になつてゐてアッサリした善い普請でした。庭も廣く取つてありました。八畳の間は、何時も御弟子の稽古場になつてゐました。此家は自分の好みで新築されたもので、その費用に越前屋から金子百両借りられたと聞きました。表の入口には、たしか「廣重」と書いた札が懸けてあつたやうに思ひます。」

 入口の札については、内田氏自らが所有していた。
 「廣重の居宅が其の所有であつたことは、遺言状の一通の分に「居宅を売払ひ云々」とあるのを見ても、間違ひはない。尚、「入口の札」と云ふのは、今、自分(内田氏のこと)の手に有つてゐる。」

安政江戸地震について、内田氏は次のように書いている。
 「安政二年十月二日の夜(亥の刻、即ち午後十時)に襲来した研謂る安政大地震の時は、廣重は五十九歳で、中橋の狩野新造に住んでゐたわけであるが、辛うじて火災の厄は免れた。「武江年表」で京橋辺の被害を記るした條に、「南鍛冶町一丁日より出火、同二丁目狩野屋敷(狩野探淵のあったところで「狩野新道」狩野屋敷とは異なる)五郎兵衛町ヽ畳町、北紺屋町、白魚屋敷、南伝馬町、南大工町、松川町、鈴木町、因幡町、常盤町、具足町、柳町、炭町、本材木町等へ焼込」とあつて、前に掲出した地図を見ても判る通り廣重の住居は南塗師町と南鞘町の通り二つを隔てゝ無事であつたのである。」

次に広重の後妻であるお安についての話。

 「廣重の後妻お安のことに就て、先年前田武四郎氏から手記して自分に寄せられたものがあるが、晩年の家庭の一面が窺はれて面白いと思ふから、左に共内容を摘録する。
自分(前田氏)の妻の実家は、神田旭町で下野屋(本姓、和久井)と称した旧家で、旧幕時代には感下の十人衆の一に数へられてゐた。妻の母は、本年(大正五年)八十一歳の高齢だが、廣重の後妻お安に就て、よく記憶してゐる。お安は、和久井家に長年仲働きをしてゐた人で、同家を下がつても始終出入りしてゐた。お安は、女としては至つて元気の善い方で、物の言ひ様もハキハキして、俗に男勝りと云はれる例の人であつた。
来る時は、何時も廣重の描いた新しい錦絵を持つて来て、そして困るヽと云つては金を借りて行くのだつた。妻の母は姑から、「お安も酒がいけるし、廣重は飲み手だし、二人で飲めるものだからネエ。廣重も精出してやりさへすれば、不自由せんでも良いのに」と云ひ聞かされたことが度々あつた。お安は妻の母に向つて、所大鶴は気億ものでヽ気の向いて発た時は相應にやりますが、気の向かない時と来たら幾日でもプラヽ遊んで居つて何もしませんので - 」と訴へたことがある。又、「鎮平と云ふ弟子を直して娘の養子にしましたが、絵が下手で困ります。もつと一生懸命になつてくれねばと思つて居ります」と愚痴を云つたこともあつた。著者云鎮平の話は廣重没後のことで、鎮平は二代廣重の本名である。

 廣重の家族は、妻お安・娘お辰との三人であつたやうである。内弟子はあつたかどうか判らない。若しあつたとすれば、それは鎮平-即ち二代廣重となつた重宜であつたらう。廣重の遺言書の一通の中にも、「鎮平は久しく随身いたし候事ゆへ云々」とある。ずつと晩年には、狂歌の友としてゐた其道の宗匠の天明老人が火事で焼出されて困つてゐたのを寄寓させて、暇さへあれば、共に狂歌を作つて楽しんでゐたと、「歌川列伝」に載せてある。

 廣重の家計が豊かでなかつたことは、前の前田氏の手記でも判るが、娘お辰の実父了信から廣重宛に来てゐる手紙を見ても、了信との間に貸借の出入りがあつたことが判る。又、その手紙の一通には「先便に金子壱両弐歩御送被下御物入萬端御暮方御不如意之所云々」などとも書いてある。尚、前にも引証した廣重の遺言書の一通の中に-この方の借りは少し大きいらしいが-「居宅を売払ひ住久殿の金子を返済いたし候やふ頼入候」とあり、又、本類や諸道具を全部売払つて金に代へるやうにと認ためてあるところから見ても、廣重には少しの貯へも無かつたことが明らかである。
 では非常に貧乏に苦しんだかと云へば必すしもさうではあるまい。金は無くとも心は豊かで、そんなことは、深く気にしてゐなかつたであらう。食道楽で、行楽が好き」父際(つきあい)が好き、人に振舞ふことが好き-加ふるに、和久井刀自の所謂る「お安もいけるし、廣重は飲み手だし」である点から云つても、又、後に記るす遺品の中には、随分と贅澤な品もあるところから見ると、つまり江戸ッ子持ちまへの、宵越しの銭は使はぬ方であつたらしい。
 廣重が無頓着であつた代りに、お安は所謂る手八丁口八丁の女であつたことは、間違ひがないやうである。これも伊東夫人の伝聞であるが、お安が時として廣重に口争ひすると、廣重は相手にならずに外に出て行つたまゝ、二日も三日も帰らぬことなどがあつたさうだ。それでは、家庭が不和であつたかと云へば、さうではなかつた。「お安もいけるし、廣更は飲み手だし」は、家庭の調和ともなつたであらう。叉、手八丁口八丁のお安であつたればこそ、無頓着な廣重の家計が切り廻して行けたのだ。
 之を要するに呑気な絵師、八釜しい妻おとなしい娘- この三者の結合が廣重の晩年の家庭だつたのである。」

 文字数が多くなってしまったので、今回はここらで止めておく。また機会があったら、引用してみたいと思う。ここであげた話は、だいたい後世の研究家たちにも肯定的で、このまま信用されている。


このブログで参考にした本
広重と浮世絵風景画
広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
広重 (1978年)
広重 (1970年)