名所江戸百景 10景 神田明神曙之景 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  10景 
 題名  神田明神曙之景 
 改印  安政4年9月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政4年1月1日 

広重アナリーゼ-神田明神曙之景


 広重は過去にも同じ位置から描いたと思われる江戸名所 神田明神(山田屋嘉7年4月改印)があり、それには左側に廻り縁のある建物が描かれている。これは本殿だろう。「謎解き 広重「江戸百」」には、神田明神曙之景の絵は末広稲荷社の脇から描いたと断定している。江戸名所図会には、末広稲荷社は単に稲荷とあるだけであるが、確かに東の茶屋のそばにある。ただ杉の木は図会にはない。

広重アナリーゼ-江戸名所(山田屋)神田明神
江戸名所(山田屋)神田明神

広重アナリーゼ-江戸名所図会神田明神社
江戸名所図会 神田明神社



 「広重の大江戸名所百景散歩」によると、この絵は元旦の若水汲みの儀式後の絵とされ、中央の杉の木の後ろには初日の出が見え、巫女たちがしばし手を休めて、それを見ているのだとされている。神社の若水汲みの儀式がどのようなものだったか詳しく知らないが、武家の場合は、その家の主人自らが井戸から水を汲み家のものに分け与える。この絵で水桶を持っているのは仕丁だが、これは片づけをしていると考えて説明がつく。仕丁が素足で真冬の朝なのにずいぶんと薄着だが、江戸名所と比べると茶屋のよしずや提灯が完全に外されており、夕涼みををする時期ではないことが伺え、元旦の若水汲み儀式後の初日の出という説は改めて有力である。念のため斎藤月岑日記で天気も調べたが安政3年1月1日は快晴、安政4年は朝少し曇りのち晴れとなっている。
 初日の出を見ているということは東を向いており、眼下に広がる江戸市中は下谷や向柳原と呼ばれる武家屋敷の多いところということになる。

 安政江戸地震の神田明神の被害は、中央区史によると、「末社の末広稲荷の社殿・土蔵が潰れ、猿田彦明神と塩土神社が潰れ、石鳥居二つがゆがんだだけで、本社・拝段・楼門などは異常がなかった」とある。神田明神は地形的に本郷台地の南端に位置するので、地震の揺れも少なく被害は軽微であったが、この絵の近くにあった末広稲荷は倒壊していたのだった。それでは眼下に広がる下谷、向柳原はどうだったのであろうか。
 
 安政地震では、向柳原武家屋敷はいずれも大破または類焼し、大被害を被った。さらに安政3年2月15日、下谷広徳寺付近から出火して立花侯、佐竹侯、柳沢侯、松平総州侯、松浦侯、小笠原侯両家、加藤侯、前田侯、曲淵侯など類焼してしまった。短期間に大被害に合うとは、まったく踏んだり蹴ったりの状態であった。(江戸の町屋に詳しい読者のみなさんでも、武家屋敷についてはおぼつかないことでしょう。江戸の地図の定番である「江戸東京散歩」の尾張屋版切絵図の東都下谷絵図40ページでどのあたりか、確認してほしい。)
 しかし安政4年9月の改印があるこの絵では、下谷や向柳原の街並みはすっかり元通りになっていることがわかる。この絵が元旦であることは有力だが、安政3年では地震から3ヵ月後なので完全復興は期待できず、安政4年では天気が一致しない。

 ところで、神田明神といえば天下祭である神田祭があるが、改印の安政4年9月といえば、隔年の本祭があった年月と一致する。なぜ神田祭を選ばずにこの絵にしたのであろうか。理由はいくつか推測できる。1つはもう1つの天下祭である山王祭を百景ではすでに描いてしまったため、内容がかぶることを避けたのではないか。もう1つはこの年の神田祭の天候にある。武江年表には「九月十五日、神田明神祭礼。神輿車楽等御城内へ入る。附祭伎踊ねり物ほ出さず(御雇大神楽、こま廻しも不出。婦女の警固一切なし。十六日礼参り、雨にて淋し)」とある。附祭とは景気づけの余興のようなもので、文化文政のころはともかく、嘉永安政になると、派手になりすぎるのを抑えるために事前に町年寄に禁止を通告している。少し淋しい気もするが、地震の前の安政2年9月の神田祭では山車も入れなかったことを考えると、この年は少し進展している。問題は天候にあり、雨にて淋しかったとある。例年ほど盛り上がらなかったことがわかる。実際はどうなのかわからないが、神田祭を百景に取り上げることに何か不都合があったのだろう。

 この絵の描かれた日の結論としては、何らかの理由で神田祭の代わりに初日の出の様子にしたのであるが、それは末広稲荷が既に復興していて(たぶん)、眼下の向柳原の町並みも復興した安政4年を想定しているのだと思う。ただし天気が一致しないことから、実際にその日に描きに行ったのではなく、安政4年9月の改印ごろに思いついて描いたのだと思われる。

このブログで参考にした本
定本 武江年表〈上〉 (ちくま学芸文庫)
定本 武江年表〈中〉 (ちくま学芸文庫)
定本武江年表 下 (ちくま学芸文庫)
新収日本地震史料〈第5巻 別巻2〉安政二年十月二日 (1985年)
広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
斎藤月岑日記第6巻
広重―江戸風景版画大聚成
謎解き 広重「江戸百」 (集英社新書ヴィジュアル版)
大江戸復元図鑑 武士編
江戸風俗 東都歳事記を読む

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