88景 王子瀧の川 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  88景 
 題名  王子瀧の川 
 改印  安政3年4月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政2年秋 

瀧の川

 百景で王子周辺を描いた絵は多く、18景「王子稲荷の社」19景「王子音無川堰せき世俗大瀧ト唱」49景「王子不動の滝」、118景「王子装束ゑの木大晦日の狐火」とこの絵を含めて5つに及ぶ。 なぜ王子周辺が多いかというと理由は2つある。

 1つは、王子は江戸から1泊しないと観光ができため武士が少なく(在府の武士は外泊が許されないため)庶民の行楽地であること、
 もう1つは広重が過去に描いた構図をそのまま百景に流用するケースが多かったことがあげられ、今回はそのケースの1つである。下図は天保後期に描かれた滝の川である。さらに、天保後期のこの絵も、ももともとは江戸名所図会の構図そのものである。
東都名所佐野喜_王子滝の川(天保後期)
東都名所佐野喜_王子滝の川(天保後期)

 この絵に描かれたものを見てみよう。右側に滝があり、過去の絵には描かれていなかった。 形は不動の滝に似ているが、不動の滝はもっと下流に当たる。この滝は、安政年間に造られた名主の滝のようである。現在の岩屋弁天跡(さくら緑地)と名主の滝公園は500mくらい離れているので、当時としても1つの絵で収まる距離ではないのだが、広重が創作して描いたようだ。19景「王子音無川堰せき世俗大瀧ト唱」でも説明したが、広重は王子周辺を多く描いているのに、この時期王子に来た形跡がない。そのため、人づてに聞いた内容を絵にしたと考えられる。

 この滝から流れ出ている石神井川をここでは「瀧の川」と呼び、絵ではUの字にその流れを描いている。滝に打たれている人や、近くで休憩する人などがいて、絵は秋の分類がされているが、夏の避暑地を描いている。
 中央の洞窟の前に鳥居があるが、ここが岩屋弁天である。その岩場の上方に屋根だけ見えるのが金剛寺である。岩屋弁天の前の橋が松橋と呼ばれ、松で造った橋であったからだという。
 山々は幾つかの木が紅葉に染まっている。ここは金剛寺周辺は紅葉の名所でもあった。

 さて最後にいつものように、この絵の描かれた日を推測してみたいのだが、過去に描いた構図に、実際に名主の滝を見に行ったわけでもないのに想像して付け足した絵がいつ描かれたかを推測するのはもはや意味がない。名主の滝は、安政年間に王子村の名主「畑野孫八」が庭内造ったのだが、詳細な年号までは不明だ。広重がわざわざ過去の絵に付け足していることから、改印より前の安政3年4月より前には観光地として有名になっていたのだろう。以上から、改印より前の秋、すなわち安政2年秋に描かれたと想定される。


この記事で参考にした本

広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))


広重 名所江戸百景


江戸・町づくし稿〈別巻〉


新訂 江戸名所図会 全6巻別巻2セット

斎藤月岑日記6

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