名所江戸百景 18景 王子稲荷の社 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  18景 
 題名  王子稲荷の社 
 改印  安政4年9月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政4年2月17日 

広重アナリーゼ-王子稲荷の社


 江戸に多いものとして、「伊勢屋、稲荷、犬の糞」と言われる。伊勢屋が多いのは、7景「大てんま町木綿店」でも少し述べたが、江戸の商人は伊勢や近江出身の者が多く、屋号に伊勢屋を名乗っていたからである。犬の糞が多いのは、元禄時代の生類あわれみの令の影響で江戸には犬の数が多いのだが、犬のフンは畑の肥料にならないからそれを集めるものがいないで放置されてしまう。これが馬だと率先して集められるのであった。
 稲荷信仰の説明は話せば長いのであるが、商業神、農業神、火除け、疫病除け信仰が混ざり合い、かつ身近な神として、大名旗本の屋敷内や、市中各所に稲荷が創られた。王子稲荷は、それら稲荷社の関八州総司であり、特定の氏子を持たないが参詣者は後を絶たなかった。

 王子稲荷には、毎月午の日には参詣者が群衆するが、特に2月の初午の日は殊更すごかったそうだ。どこの稲荷でも「正一位稲荷大明神」の幟を立てるが、王子稲荷は「正一位王子稲荷大明神」の幟が参道の方から林立していた。またこの日は火除けの凧を売る習慣になっていて現在でもそれは続くが、東都歳事記の挿絵では凧を持っている人が見当たらず、江戸の当時にどれくらいの習慣だったのかわからない。
 この絵では参詣者が多いが、「正一位王子稲荷大明神」の幟が見られないため、初午の日ではないことは確かである。

 この絵の王子稲荷を描いた構図は、過去の広重の作品にはなく、斬新なものであると思う。従来王子稲荷を描く絵といえば、東都歳事記の挿絵のように鳥居がわから本堂を描くのが普通で、この絵の方向から描くことはなかった。右に朱塗の建物を配置する構図は、百景の中にはいくつか見られ、改印順で並べたときにこの絵を描くまでに、11景「上野清水堂不忍ノ池」、53景「増上寺塔赤羽根」を描いていた。広重自信の構図と言える。

広重アナリーゼ-東都歳事記 王子稲荷社初午詣
東都歳事記 王子稲荷社初午詣


 従来の著者の主張では、「広重は王子方面に百景のために取材に来ていない」としているが、この絵の存在は悩ましい。広重を含めて王子稲荷をこの構図で描いたものがないこと、そして「今とむかし広重名所江戸百景帖」にも載っている大正年間に撮られた古写真と構図が一致することから、写真を撮った位置から写生したものと考えられる。

広重アナリーゼ-大正年間の王子稲荷の境内
大正年間の王子稲荷の境内


 このことから、百景のシリーズ初期、つまり安政3年5月ころは嘉永年間に描いた絵本江戸土産の王子周辺を多数引用したが、安政4年になってから王子稲荷に一度訪れてこの絵を描いたと考えられる。
 それでは、それはいつか。絵を見ると後方で梅が咲いているのがわかる。梅は場所によって咲く時期がずれるが、ここから近い谷中の梅は立春より34日ころに咲く(東都歳事記)。安政4年の立春は1月10日で、34日目だと2月14日となる。一方、安政4年の初午は2月5日、次の午の日は2月17日である。梅の咲き具合と参詣の混雑ぶりから、2月の2回目の午の日を描いた可能性が高い。
 広重は百景で、その場所の最も込み合う日を避けて描く傾向があった。10景「神田明神曙之景」や99景「浅草金龍山」がいい例である。この絵も初午を避けながらも、王子稲荷らしい日を選んで描いたのではないか。

この記事で参考にした本
江戸文学地名辞典
江戸東京 はやり信仰事典
新訂 東都歳事記〈上〉 (ちくま学芸文庫)
新訂 東都歳事記〈下〉巻之三 秋之部・巻之四 冬之部 (ちくま学芸文庫)
和洋暦換算事典
今とむかし広重名所江戸百景帖
広重―江戸風景版画大聚成

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