96景 堀江ねこざね | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  96景 
 題名  堀江ねこざね
 改印  安政3年2月 
 落款  廣重画
 描かれた日(推定)  嘉永5年(1852年)2~3月

堀江ねこざね

 百景シリーズで改印が安政3年(1856年)2月と最も古い5枚のうちの一枚である。

 絵に描かれているものを見てみよう。
 中央を流れる川は、利根川(現在の江戸川)で、前景の「鴻の台とね川風景」で崖の下を流れていた川の河口付近にあたる。川の左側が堀江村、右側が猫実(ねこざね)村である。猫実とは変わった呼び名の地名であるが、その由来は古くから津波の被害を受けていたこの地は、津波のための堤防を作りその上に松を植えた。それ以後、津波はこの堤防を越えることがなかったのである。松の根を越さぬ、がなまって「ね、こさぬ」が「ねこざね」となった。

 ねこざねは、あおやぎ(ばか貝)の産地でもあった。ばか貝はカラが薄く、剥き身を作る剥ぎ子泣かせの貝であった。カラが薄いことから破家蛤と名づけられ、それがいつしか馬鹿扱いになってしまった。味はアサリより上である。

 絵の手前に鳥を捕っている人がいる。砂浜の鳥は大膳(だいぜん)という千鳥の一種。それを千鳥無双網と称する網で捕ろうとしている。
 猫実村の林の中の神社は、豊受神社、川にかかる橋は境橋である。(船橋市ホームページより)

 安政地震では堀江村、猫実村とも被害の記述はないが、安政3年8月の台風では大きな被害が出た。堀江・猫実のあたりは潰れ家がおびただしかった。(安政風聞集)

 広重が猫実を描いた意味を考察してみよう。広重は後にも先にも猫実の地を描いたことはなく、江戸から遠く離れた名所とは言い難い猫実を百景に、しかも最初の5枚に入れたということは、この揃物がそれまでの多くの江戸名所絵シリーズのように、もっぱら江戸土産として他国の出身者のみを購買層としているのではなく、江戸の町に長く住み、この町の伝統性に強い関心を寄せる人々をも視野に入れて制作されたのではないかという想像である。(広重と浮世絵風景画)


 最後にこの絵が描かれた日の推測をしてみよう。千鳥のだいぜんは、冬毛と夏毛があるので時期を特定できればと思ったが、あまりにも小さすぎて無理。人々の服装から冬の服装であることが分かる。広重は、嘉永5年(1852年)2~3月に房総方面へ旅をしているので、そのときに通りかかった猫実をスケッチしたと予測される。

この記事で参考にした本

江戸文学地名辞典


広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))

江戸・町づくし稿〈下巻〉

実録・大江戸壊滅の日 (1982年)


高橋誠一郎コレクション浮世絵〈第5巻〉広重 (1975年)
江戸東京湾事典
絵本江戸土産