85景 紀の国坂赤坂溜池遠景 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  85景 
 題名  紀の国坂赤坂溜池遠景 
 改印  安政4年9月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政4年5月15日 


紀の国坂赤坂溜池遠景


 左側に堀、右側には大名行列を描き、堀の遠景に町屋を配置して奥行きを出している。百景の中では俯瞰でもなく近像型構図でもないが、登り坂を下り坂のように描いているちょっとめずらしい構図である。また広重が赤坂辺りを描くことも珍しい。

 大名行列や大奥の行列(例えば 9景「筋違内八ツ小路」とか)を遠景から描いたものは比較的多いが、この絵では大きく描いている。
 それでも本来は2列の行列の1列分しか描かないとか、先頭の槍持ちの槍の先端を描かないようにする(槍の形で大名が特定できてしまう)など描き方に配慮があるが、この行列は御三家紀州家の行列と特定できる。
 堀晃明氏「広重の大江戸名所百景散歩」によると、紀州公の行列と特定している。

 大名行列は1列しか描かれていないが2列の筈であり、先頭に2人の供が飾鞘を被せた長い槍を持ち、後方にも2人の供が長い槍を持って従っていた。このように4本もの槍を持つことを許されたのは徳川御三家のみ。場所から紀州家の上屋敷があることから、紀州公のものである。

 広重の浮世絵の中で武士の姿が、どの絵も気品あるように描かれているのは、彼が武士の出身であり、広重自身も最後まで武士の礼節を捨てなかったことによると、ヘンリースミス氏が指摘している。この絵の大名行列も服装、足並、顔つきなどで敬意を払っている描き方であることがわかる。

 その他に描かれてるものを見てみよう。左側の堀は弁慶堀、堀割工事を請負った弁慶小左衛門から名づけられた。その後ろの町屋は赤坂の町並みである。右側の行列の右には広大は紀州家の中屋敷があった。屋敷の火見櫓が見える。
 弁慶堀は、内堀の外桜田門から半蔵門までと、ここに描かれている外堀の食違門から赤坂門までの堀と2か所で同じ名前となっている。どちらも請負人が同じで同じ名前が付いたのであるが、当時混乱はなかったのだろうか?
 現在は内堀を桜田濠、この堀を弁慶堀と呼ばれている。

 弁慶堀の前に掲げられている高札は、宮尾しげを氏は堀での釣を禁じた「魚捕禁止の札」であろうと推測しているが、森川和夫氏の考察では、上水に対する注意書きと指摘している。上水は通常四ツ谷の大木戸から伏樋だが、この辺りで一部地表に表れていたとされる。そのため、釣り、水浴びを禁じた高札があった。

 その他、弁慶堀後ろに見える左側の森は、山王権現社の森、中央にある火の見櫓は溜池の横にあった定火消のもの、右の森は広島藩下屋敷の森である。
 この辺りの安政地震の被害であるが、山の手にあったため赤坂、紀州家上屋敷に大きな被害はなく、火災も起こらなかった。


 さて最後にこの絵の描かれた日の推測であるが、改印近くの紀州公の登城を調べて候補を挙げてみた。続徳川実紀によると、紀州藩はこの年は国許へ帰る年で、出府は不明だが安政4年6月7日には、国許到着の御礼がされている。そのため、この絵はそれよりも前と想定される。
 その前は、4月27日(天気 雨)、5月10日(天気 曇りのち雨)に登城している。この年は5月が閏月であった。それ以外にも朔日と15日の総登城があるが、武士でごったがえすこの日だと堀端で絵を描くどころではなかっただろう。また4月27日は雨であることから、絵の内容に適さない。
 5月10日は、今まで通り来年5月まで引き続き火盗改メを勤めることを、御先手の坂井右近に申し渡している。それからほどなく閏5月を使って紀州に帰ったのだろう。

 よってこの絵は安政4年5月10日、坂井右近へ火盗改メの任期延長を任命した後の帰路の絵であると推定する。
 
この記事で参考にした本

広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
広重 名所江戸百景
斎藤月岑日記6
続徳川実紀50

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