86景 四ツ谷内藤新宿 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  86景 
 題名  四ツ谷内藤新宿 
 改印  安政4年11月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政4年10月 


四ツ谷内藤新宿


 馬のお尻を全面に描いた印象的な浮世絵で、広重得意の近像型構図の1つである。

 題名には四ツ谷、内藤新宿とあるが、実際描かれているのは内藤新宿の旅籠で、大木戸の外側にあたる。そのため四ツ谷は実質描かれてない。
 絵の右側は馬の尻で、馬が草鞋を履いているのが特徴的である。

 「馬の尻」については、内田実の「広重」に逸話が一つのっているので紹介する。

△馬の尻
  これも、「江戸から東京へ」の「紺青の廣重」と題する一項にあつた。
 廣重が或る時、京橋鞘町の髪結床へ行つて自分の順番を待つてゐると、先番の若い衆達が口々に」廣重ッて奴は堪まらねエな.今度出た内藤新宿の馬の見なんざあ巧めえもんだぜ」と絵双紙屋へ最近に現はれた江戸百景の月旦をして居た。髪結床の亭主は目配せで以て其の所に居るのが廣重だと知らせても芸術評に夢中になつて居る若い衆の耳には一向入らない。余り褒め方が激しいので廣重も居堪らず「又来るよ」と云つて逃げるやうに床屋を出た。

 このように「広重」には内田実が広重と親しかった人などから取材し、生の声を幾つか集めて載せており、このような逸話から広重の人格が伺えるのである。この絵は、好意的に評価されているように思う。
 髪結に広重がいるとあるが、このときすでに剃髪している。しかし有名人である広重も、どのような風貌であるのか、一般町民は知らなかった。現在、広重の風貌が良く知れるようになったのは死後に、死に絵が幾つか出て、現在では3世豊国の死に絵が一般的に広重として世に伝わっている。

 名所江戸百景での広重の取り組みには、近像型構図の導入と、無名地域の取り上げの2ツがあると思う。この絵はその両方を持ち合わせている。今まで江戸名所図会で、大木戸、あるいはその内側が描かれることはあったが、大木戸の外側の旅籠を描くのはめずらしい。
 良くみると旅籠の名前が読めるところがあるので、入銀物であるかもしれない。手前から「すおくや」「市川」に見える。旅籠の造りは、土蔵造りではないが、当時はやりの黒塗りにしており、それなりにの高級感がある。
 
 安政地震の被害は、内藤新宿にはほとんどなかった。大木戸から近い内藤家下屋敷とその往来にについて以下のような記録がある。

内藤新宿内藤駿河守様御下屋敷新宿往還都而此辺格別之痛無御座侯

 さて最後にこの絵の描かれた日の推測であるが、残念ながら確証となるものがない。人の服装が冬の服装であるので、改印近くで描いたものと推測できるため、安政4年10月ころの絵であろう。
 
この記事で参考にした本

広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
斎藤月岑日記6
京都造形芸術大学 紀要 縦絵の時代より
広重 (1978年)

復刻 日本地震史料 第四巻 嘉永元年より慶応三年まで 及び年表


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