薄々気が付いていたことがある。

 新しい家には、庭があること。
 その庭が、広いこと。
 植木の植え込みがいくつかあること。
 みかんの木(何みかんかは知らない、大きな実が冬のうちからごろごろ生っている)が実を落としつつあること。
 そして何より、植木ではなさそうなナニカ(いわゆる雑草と呼ばれるものたち)が、日に日に大きくなっていること。

 いわばこれは十代のオンナノコのぱやぱやにおける、忌避もしくは回避すべき事態にも似ている。
 そんなはずはないと信じたいが、日に日に育っている気がする。
 しかしそもそもこれがいいものなのか、悪いものなのかが分からない。
 それを尋ねる相手もいない。
 どうすればいいのか、経験もないか分からない。
 そうこうするうちに、日々は無常かつ無情に過ぎてしまう。
 考えあぐねいているうちに、それは育ってしまう。

 そして庭の雑草が、腰より高くなってしまってから僕は気がつく。
「少なくともコイツはヤバいやつだぜ」と。

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 溢れる緊迫感(金箔感ではないからゴージャスにはならない)と相変わらず不謹慎な導入であるものの、そのようなわけで、急遽、雑草処理にいそしむ必要が出てきた。
 もちろん、以前には納屋(農用トラクタが2台くらい収まっていた納屋がある)から、謎の薬剤(納屋の一角に大量の農薬がある)を出し、テキトーに(説明書を読んである程度以上、正しく使いましょう)散布した。

 一部は枯れたが、一部は枯れなかった。
 一部の薬剤は除草剤で、一部の薬剤は殺菌剤(稲作用)だった。
 一部の薬剤は無臭だったが、一部の薬剤はひどい臭いがしていて、近所から訴えられるのではないかと日々怯えることになった。
(まだ1ダース残っているのだが)

 そこで本日、昼頃に目覚めたワタクシは、先週購入した振動型除草機を使って、セコセコと除草(女装ではない)にいそしんだわけである。

>>>

 ただ僕には、いわゆる「雑草」と、それ以外の区別が付かない。
 植樹の連中も、横に伸びた根を地下茎のようにして新芽を出したりしている。
 ケバケバした謎の葉は毒々しいし、謎の虫の死骸なんてわらわら出てくるし、ミミズをちょん切ってしまったりもする(申し訳ありません、とそのたび謝る羽目に)。
 魑魅魍魎、阿鼻叫喚の地獄絵巻。

 そもそもこの、いわゆる「雑草」たちって、放っておけば、それはそれで生長して、なかなかの賑わいをみせてくれるのではないのかしらん、と思ってみたり。

 しかし世俗のヒトビトは、除草、こと雑草を駆逐することに執拗なまでの執念を傾けているようにも感じられる。

 死んだ伯母もそのタイプの人であり、なおかつ道具や薬品の使用を基本的に認めない人であった(軍手とマスクと鎌とシャベルの使用は認められていた)から、伯母の存命中はなるべく避けて通ろうとした作業のひとつである。
 努力根性論。大日本帝国か。

 ちょっとした空き地、荒地のような中自然の模倣(大自然というほどではないし、小自然というには僕よりも大きい)ということで、放置してもいいような気はする。
 しかし草陰からヘビがでたり、そのくらいならまだしも、体長数十センチもの多足類が出てきたら、僕はその場で失神しかねない。
 猫の神様というのも、こういうところにはなんのご利益も発揮してくれないのである。

 ゆえに「見たくないものが繁殖しない程度」には、庭の環境を整える必要があると考えてもいいのかもしれないと判断しても許してもらえるかな(誰に?)、と思った次第。
 そもそも、いわゆる雑草も、そうでない草木のヒトたちも、基本は緑と茶である。
 中には赤い葉のものもあるが、草木の名前も知らない僕には関係がない。
 紅いのは紅いもので、綺麗な気もするのだ。
(ただ、無駄に大きい気がしたので排除したが)
 花を付けるものもあるし、実を付けるものもある。
 地中やその周辺に、生態系のコロニィを作るなんて(まじまじ覗き込んだりしなければ)微笑ましいし、素敵ではないか。

 それに僕は、この家や庭に対しての所有欲もない。
(持てば持った、売れば売ったで、オトナのジジョーが面倒である)
 所有し、管理していることを誰かに誇示したいわけでもない。
 ゆえに、いわゆる雑草伸び放題で、近所の人が進入することを躊躇うくらいになってもいいのではないか、むしろその方が都合がいいのではないかと思うフシもある。

 ただまぁ、いずれ地下室や秘密基地を作るとなれば(庭なので家の玄関に至る前にあるわけだが、それは秘密基地としてどうなの?)ある程度の整備もやむなしか、と思うもやはりそれでも躊躇はするのである。

 一層のこと、せめて植え込み以外はコンクリートやアスファルトで舗装してあればよいのだが、古い農家の名残なのか、薄く砂利が敷かれているだけである。

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 およそ40年ほど前、やはり大きな庭のある、とても大きな家に暮らしていた。
 庭には大きな砂利が敷かれていたが、それでも裏庭にフキやミョウガが生えたり、謎の多足類が繁殖し、鳥が煙突のいくつかに巣を作ったりした。

 ただ、僕はまだ小学生にもなっていなかったし、自分をオンナノコだと思っていたので、虫を捕まえるとか、庭を駆け回るような遊びはしなかったし、庭の除草もしたことがなかった。
 多分、両親か従業員がしていたのだろうと思う。

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 そこから40年経った僕の最初の疑問。
 それが「雑草ってなんやろね」である。

 人間の都合で排除すべき植物の総称なのかもしれないけれど、タンポポやナズナのような、愛らしいものくらいはそっとしておいても良さそうな気はする。きっと秋には枯れるのだろうし。
 名も知らぬものの総称として雑草と考えるなら、僕はこの家のほとんどすべての草花の名前なんて知らないし、聞いても覚えないだろう。
 名のない草花なんて(おそらく)ないだろうから、すべては名のある、親もいれば、子もできる草花である(たまたま僕は、そのいずれの方も存じ上げておりませんが)。

 なんとなく、ガリガリと機械で痛めつけるのは、ジャブジャブと除草剤を撒くのは気が引けるのだ(今日は風が強かっただけだが)。

 それにいわゆる雑草たちの種々相!
 太くてたくましいのに、簡単に折れてしまったり、その割に根が強くて切れなかったり。
 深くまで根を張る者、地下茎をめぐらす者、根がねじれた形状になっている者、触れると種の房が弾けて周囲に種を撒く者。

 茎や葉、花も新芽も種もなにもかも。

 本当に見ていて飽きない。
 敵ながら天晴れといったところもあるし、単純に生きるために淘汰されたメカニズムを感じもする。

 もとよりすべてなければ、その方がスッキリとはするし、死の概念の想い人たる私には無こそが相応しいのではないか。
 それにいかんせん、この世は経済という巨大なヘビがとぐろを巻いているので、上納金を用意しないと庭木も片付かない。
(少なくとも、最後はユンボが必要なはずだ)

 必要最低限の手持ち道具を揃えながら、思案に暮れる日々である。

>>>

 作業を終えて、休憩してから入浴。
 アパートで書いた文書が、またも文字数制限に引っかかってリリースできない事態になった。

 ネット環境と新しいPCを、猫の神様、僕にください。
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200403
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
量子的実在論的わたくし的仮想論
SUBTITLE:
~ Schrodinger's cat. ~
Written by SilverCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 久しぶりにアパートにやってきた。
 もはやどちらが別宅でどちらが別荘でどこが僕の棲み家なのかが分からない。
 時間に縛られるわけでもないし、さほどの予定があるわけでもない。
 月に1、2回、外部からのアクセスによって30分ほどを要する予定が設定されるけれど、その程度だ。
 あとは自由にしている。まるで公園生活だ。
 
 ある程度、お腹が引っ込んできたものの、筋肉がついたぶんだけ脂肪を押し出している。
 お腹を引っ込めるために腹筋するのは、僕は基本的にはおすすめしない。
 一番簡単なのは、背筋や大臀筋をつけることだろう。勝手にお腹が引き締まって見える。
 おそらく皮膚が引き上げられるからで、大臀筋よりは背筋の方が効果が高いのだろうと想像する。
 
 長らく自転車にも乗っていないから、大臀筋と太腿の裏側の筋肉がとても衰えていたので、そこを今はトレーニングしている。
 あとよくよく考えると、5年ほどもぱやぱやしていない。
 ぱやぱやで使う筋肉を、まったく使っていなかったことに気が付いた。
 ぱやぱやなんてしなくても何とかなるのが僕という(性風俗も必要としない)イキモノではあるのだが、なるほど姿勢の制御に不安定なことがあって、理由に合点がいった。
 仕方がないので、ぱやぱやを重点的にしている、という前提でぱやぱやに使いそうな筋肉のトレーニングもすることにした。
 
>>>
 
 エスプレッソマシンがアパートの方にしかなくて、先月くらいまではなんだかんだと事務手続きがあったので(税理士だの銀行だのとの打ち合わせがあり)気ぜわしく、今日、久しぶりにカプチーノを嘗めながら、葉巻を喫んだ。
 WHOの教育の成果もあってだろう、世俗は喫煙を低俗で醜悪な中毒習慣としての地位に固定しつつある。
 個人的には、WHOという謎組織には懐疑的なのだ、なんとか協会とか、なんとか推進委員会とか、だいたいろくなものではないように肌が感覚する。
 タバコは本来、祈りのための道具だ。
 たしかインディアンが儀式に使っていた。ファミリィと父霊を結ぶための、大事なエッセンス。仏教でいえば線香のようなものか。
 それを侵略者どもが横取りし、経済に乗せたように記憶している。
 そして侵略者どもが奴隷の健康を守るために、今度は禁止しつつあるというわけだろう。
 次いで、アルコール、カフェインと続いてゆく気がする。モルモン教徒か。
 
 きっと祈りのカタチは様々なのだろう。
 僕は煙草を味わうたび、シャーマンたちの祈りを想像する。
 母体は肉体を遺し、父親は父霊となって部族を見守る。
 僕の燃やしたケムリは換気扇に吸い込まれたりすることも多いが、それでもどこかに繋がっているような錯覚と、ニコチン酔いを覚える。
 
>>>
 
 僕は結構、書いたことが実現するタイプである。
 
 たとえば「モテである(モテたい、ではない)」と書いたらモテになった。
「のんびりぼんやり過ごしている」と書いたら、のんびりぼんやりな人間になった。
「オカネモチーになりたい」と書いたら一年間無職で過ごせるくらいのささやかなオカネモチーを味わうことができた。
 
 目下の野望は「秘密基地を作っている」こと、「秘密基地に地下室ができあがっている」こと、「地熱実験をする」こと、「居住空間における水冷実験を深める(以前、アパートでしていた)」こと、「モテである(再び)」こと、「もうちょっと贅沢なオカネモチーである」こと、「猫を3匹飼っている」ことであるが、これらは流石に無理だろうか。
 いや、猫がどこかに跳ぼうと思ったとき、猫はその場所に跳ぶ。
 
 僕が呪うと相手が死ぬので、弟子は僕の呪いを(僕本人のことは差し置いて)恐れている。
 嘘のように聞こえると思う。僕自身も、あまり信じているわけではない。
 
>>>
 
 僕をして生きていると認識し、あるいはさせているこの世界は、僕の知らないことや理解していないこと、場合によっては知ることもできず理解することもできないことに満ちあふれている。
 僕はそれを理解していて、肌で体感している。
 
 僕は僕以外の他者が、おそらく(あるいはもしかしたら)実在しているという前提で日々を過ごしているが、他者の存在とその実在を(たとえそれが目の前にいようとも)完全に信じているわけではない。
 ただ、もし「本当に他者を含めて客観的に実在していた場合」を重視して思考し行動した方が、僕自身の実在を維持する上では安全である。
 なにより実在を維持するか放棄するかは、僕自身の意思で決めているし、決めていたい。
 生殺与奪の権を誰かに握られるなんてまっぴらごめんだし、そういう意味で考えればなおさらのこと「経済というイキモノ」ごときにこの9つの尻尾のうちのそのひとつでも握られてたまるかとは思っている。
 眼鏡でショートヘアのキュートなガールにおかれましては、撫でるくらいまでは許してさしあげるものの、掴むような相手は威嚇もせず囓るのがねこ社会の掟である。
 
 だから僕自身の意識と、そのよりどころである肉体とをそれなりの状態に維持することが、維持と放棄の選択の上では優先されることになる。
 希死念慮がいつもあるにもかかわらず(一般に言うところの「しあわせな気分」であろうと「不幸な気分」であろうと)僕がまじめに死ぬことを実行しないのは、死んだら選択肢が失われるからでもあるし、死ぬまでに知っておきたいことが多分まだあるからだろう。
 
 僕の中では、基本的に僕と僕以外を「等しいもの」として扱うことが当然になっている。
 人は生と死を分けて考えるし、自分と他人を異なるものとして扱う。
 僕は生と死を同じものの異なる状態(たとえば沸騰した水蒸気と氷でもいいし、伸びたゴムと縮んだゴムに喩えてもいい)あるいは同じものの同じ状態を特定の点(時間や視点)で観察したときに僕というスクリーンに投影された情報として認識している。
 つまり僕は生の本質も死の本質も知らない。もっといえば人の本質も、生命の本質も、自分自身の本質も、これらを考える自分自身の意識の本質も知らない。この一文の「本質」を「実在」に置き換えても、同じことがいえる。
 にもかかわらず、僕はこのように記述していて、記述したことだけが、自身と他者に明確な投影情報として認識可能になる。
 
 他者も、基本的には僕と同じ組成によって実在すると僕は仮定している。
 彼ら/彼女たちは、同じ組成で同じ宇宙(あるいはシミュレート系)に存在し、あるいはさせられている。
 ただ、僕以外のほとんどの知性は ── それがヒトのカタチをしていて、知性と呼べそうなものを保有していて、さらにその知性が一定以上の客観性や整合性を利用して、自身の中で自身と他者の存在する系をシミュレートできるレベルのものであると想定しても ── 一意的であることが多くて、それが僕を悩ませる。
 どうして彼ら/彼女たちは、不確定性をまるっと体現できないのか、と。
 いろいろなものが重なっている状態を、そのまま認識できないのか、と。
 
 おそらくここまでに書いていることを理解できるひとがいないのではないかと、僕は時々恐れる。
 そう、こんなことを考えても考えなくても、ヒトは生きることができる。猫もきっとそうだろう。
 
 僕の存在する系を僕の中でシミュレートするとき、それがいかなるカタチを与えられていようと、仮にそれがオカネモチーだろうがモテだろうか、美形だろうか醜男醜女であろうが、考えていない時点でそれは死んでいるのと同じか、それ以下と見なされる。
 ために僕はアタマワルいイキモノを嫌うのだ。
 それらは対等に扱うには程度が悪く、ないがしろにするには人道(あるいは猫道だっていい)にもとる。
 
 ために僕は、僕以外のイキモノ(特に哺乳網サル目ヒト科ヒト属ヒト)を、「自分と少なくとも同等の処理能力を有する」という前提で僕を生きる。滅多に呪わない。
 それは僕の認識するシミュレート系において(宗教観を抜きにした科学法則として)自身を呪うことに等しいからだ。
 
 多くの場合、僕は他者をうまく理解できていないことが多いように感じるし、僕自身のことも等しく理解していないように感じることが多い。
 なにより僕は、僕が僕であると仮定して、その前提で思考しているだけで、前提を無視して考える ── ぼくはこれをよくおこなう ── とき、僕は「ただのねこ」になってしまう。
 それは種類も血統も性別ももちろんのこと、やわらかな肉球もぴんと伸びたヒゲもしなやかに踊る尻尾すらもない「ねこ」という概念だ。
 
>>>
 
 僕はその場所で、ねこである。
 僕は種族同一性障害としての猫を演じる人間のふりをしたねこである。
 
 僕はその場所で、この系の中で演じる僕が「こうだったら面白いな」と思う。
 すると僕の思考は、僕をその場所に移動させる。そのための適切な運動を、僕に思い出させる。
 
 もしかしたら、そういったメカニズムで、僕は僕の思い描いた僕になるのかもしれない。
 その仮定が面白くて、まだ死ねない。
 
 もしかしたら、そのメカニズムは、僕が僕に利用するようにして、他者にも応用できるかもしれない。
 
 たとえば、ヒトビトのシアワセのカタチはマチマチだけれど。
 どうか彼ら/彼女たち/あるいは無性別なるあなたが、本来的に ── この「系」をより健全に保つために ── 持つべき健全な望みを持ち、そのうえでその望みが叶いますように、と願うように。
 
 そう。
 みんながしあわせになりますようになんて、僕は祈らない。願わない。
 しあわせな祈りと願いを持つものだけが、しあわせになるならばそれがいい。
 
 祈りや願いや誓いなんて、基本的には非科学的なものだ。僕はそう思う。
 そして僕は祈るだろう。ねこの神様がそこにいるような気がして。
 しあわせな祈りと願いを持つものだけが、しあわせになります。と。
 
 あと、ねこの神様がいるなら、ひとつお願いがあって。
 僕の言葉が、ただしく、ある人に届きますようにと、もうかれこれ何年も祈っているのでいい加減叶えてください。
 だから僕は祈るだろう。
 ねこの神様がそこにいるような気がして。
 
 あとえーと目下のお願いは「秘密基地を作っていること」と「秘密基地に地下室があること」と……
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
 
[ Cross Link ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Diary-Eternal-Life-Link-Love-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-JunctionBox-
 
[Object]
  -Cat-Human-Koban-Poison-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-衛星軌道でランデヴー-:-いのちあるものたち-:-ひとになったゆめをみる-
:-夢見の猫の額の奥に-:-月夜の井戸端会議-
 
 
 
 
 
 
 
//EOF
♪陽性たちが胸を刺激する
 熱だし咳出しまぁ冥土

 ……はい。不謹慎ですね。

>>>

 個人経営の店にゆくことが多い。

 酒屋、煙草屋、金物屋。
 飲食店も、チェーン店には進んで行きたいと思わない方だ。
 数店舗展開しているようなお店は、肌に合えばたびたび行くようになる。
 ちなみに「利用する」とか「使う」という言葉を、僕は道具以外に使わないようだ。

 余談(ばかり)だが概念は道具と一緒なので、TPOで使い分ける(多くの人は単一概念ですべての場面を乗り切ろうとするが、ドライバで魚を切ったり、パジャマで人前に出てはいけないと僕は思う)。

「お願いする」「依頼する」「注文する」。
 このあたりが適切だと思ってよく利用する言葉である。
 店というのはある種の人格があると認識しているのかもしれない。

>>>

 個人経営の単一店舗であれば、オーナのスタイルはとてもわかりやすい。
「ああ、この店主はちょっと小太ってるな」とかいうことではない。
 良いか悪いか、ではなく、あるかないか、の方のスタイルだ(僕はその意味でしか、スタイルという言葉を使わないが)。

(おなじみの余談だが、スタイル、フォーム、シルエットとかいう言葉、意味を理解して使っていない人も多いように思える。
「クラブシーンでこそ体感できるアーティストのヴァイブレーションは、パッションをグルーヴに乗せて伝播する」とかいう日本語(笑)。
 僕は面白くて好きだ。
 弟子と電話するときなどは「なんかそれっぽい言葉を使って会話する」とか妙なテーマができあがることもしばしば。
 まぁ、小馬鹿にしているフシがないとは言えないが)

 分かりやすいスタイルなら、それが肌に合うかどうかもすぐに分かる。

 ことほど左様、誰にお金を払うかというのは、それそのものが投資活動であり、とても大事なことだと思っている。

 人間が相手だ。
 だから「使う」とか「利用する」とはならない。
 きっと使われたり利用されるのが嫌なのか、それで嫌な思いをしたことがあるのだろう。

>>>

 大型店舗の駐車場というのは、ちょっとした住宅街のような構成になっているところが多い。
 一時停止(様のもの)があり、横断歩道(様のもの、ちなみに「さまのもの」と読むと擬似人格化しているようで面白い)があり、中には歩道や信号機(様のもの)まで備えているところもある。

 僕は昔から、駐車場内でも一時停止を守り、方向指示器(いわゆるウィンカ)を使用し、可能な限りの徐行をしている。
 空いていて、、見通しの良い状況なら、駐車スペースをナナメに縦断するくらいはするが、周囲の安全のためにも基本的に通路を使う。

 一方で、ここが地方だからなのか、未だにかなりの速度で構内を走行したり、ウィンカを使わず急停止したりする車もいる。
 いつか人を轢くのではないかと他人事ながら心配しているフリもしたくなる。

 法的に、あれら駐車場は私有地であり、住宅街ではないし道路でもない。
 歩道も一時停止も信号も、すべて無視してかまわないとみなすこともできる。
 おそらくそういうキモチなのだろう。
(もしくは本当に何も考えていないか)

 しかし大規模な駐車場にもなれば、その通路を「公共の道路」とみなせる(一般認識が可能である)から、裁判で争うと面白い展開もあるだろう。
 ちなみに保険会社は駐車場を、道交法適用外の場所として過失割合を算出する。
 べつに賠償問題になったら裁判したほうがいいよ、ということではない。
 事故など起こさないように普段から気をつけた方がいいのである。

>>>

 先日、こだわりについてちょっと思ったことを書いた(あれでちょっとか! と驚く人もいるかもしれないが、内容、あるいは意味を要約するとほんの数行で書き記せると分かるだろう)が、じつのところ、僕は自分の使う言葉の音に、こだわりのようなものがあるように感じる。

 無論、他者に押し付ける気はないから、誰かに言ったことはない。
 ただ、ずっと前に書いたことはある。
 音読した時の音を感覚しながら書いていて、濁音にはとくに神経を尖らせる、と。

 読む人がいる前提だと、このあたりで僕は悩むことになる。
 勝手に書いて、僕は自身の認識を(アタマの中がウスラボンヤリなので)明文化したいだけなのだが、読者に「猫氏はそうなのか、私はせめて猫氏の前では気をつけなきゃ」なんて気を遣われてしまうことがあるからだ。

 僕の怒りや憎しみや慕情や物事に対する向き合い方のひとつひとつは、僕固有の、僕のためのものであって、他者が同意する必要はないし、理解する必要もない。当然、同調する必要なんてない。
 散歩の道すがら、出会った近所の人に挨拶するかのように「反対意見なんですよー」「そうですか、反対意見なのですねー」というのでいいと思うのである。

 政治家であるとか、会議をして一定の解決を導きたい、という場合ならコンセンサスというゴールは必要だろうけれど、そもそも自身の抽象的な定義の明文化作業(僕が「書く」作業のほとんどはこれである)においては、他者間のコンセンサスなんてものは目的ではない。
 むしろ自分の中の猫たちが、僕の感覚に対して正しく姿勢(スタンス)を決められることが大切だ。
(横文字多用はわざと、ではない)

 自分の意見や感覚に同意を求めたり、反対意見相手でも自分の見地に理解を求めるとなると、相手に反応を求めることだから、これは相手に対する押し付けのような気がして、僕はそれをしたくない。
(同時通訳ふう)

 そういう感覚が根底にあって、そのうえでいつも断定的に(あるいは積極的かつ過剰に濁してぼかして)書いているのではある。

 僕が日記を読まれることに対する恐怖もこれに似ている。「お前のために書いてるわけじゃねぇ」というものを勝手に読んで解釈して疑問をぷつける(いま、面白いかな、と思って半濁音にしてみました)のは、強姦されて「これがいいんでしょう?」と言われるようなものです。
 散歩の道すがらに人をレイプしてんじゃねえ、ということ。

 見やすい場所に置いてあった。
 読んでいいのだと思った。
 むしろ読むために置いてあるのだと思った。
 というのは、
「薄着だった」
「誘っているのだと思った」
「合意したと思った」
 という言い訳と一緒である。
 他人の日記や携帯端末を陵辱するな。
 その上、知った内容をあちこち吹聴して情報共有するな。
 もはやそれは輪姦だぞ犯罪者どもめ。
 そういう行いが当たり前みたいな日常を構築するための「常識」を使って言いくるめるな犯罪者め。
 とまぁ、僕は個人的にそんなふうに思うこともあるわけですが、これをどこまでも僕に固有の感覚として僕自身は取り扱う。

 おそらく一定以上の規模のコミュニティに、子供の頃から長く属している人ほど、周囲の同意というか、合意が必要だろうとは思う。
 それは組織の必然だから。
 ゆえに僕のような、子供の頃からほとんどのコミュニティに属していない人間は希少種であり、まぁ淘汰されるだろうな、とは思っている。
(必然、他者に同意を求めないし、世間に広める意義も感じない)
 ただ、水の中にふつふつと水泡が湧くように、不連続ながらもより大規模な集合の中で、乱数的にこうした個体や発想は発生しているようには感じられる。
 環境によって誘導される因子なのかもしれない。
 ちょうど川などの流れが似ているだろうか。
 淀んどり、渦を作ったり、ミクロな逆流を含みながらも全体は進んでゆく。

 集団にそもそもから属していないというのは、個体の存在やその意義に連続性を持たないことになる。
(無職でも、牛乳を買ったり、ささやかに経済活動はしているが)

 連続性といえば、最近、弟子が超絶的に婚活している。
 これが傍で眺めていてとても楽しく微笑ましい。
 人間たちとその社会は、一定以上の結合力や連続性を、本能的に求めているのだろう。
 え? 当たり前なの?

>>>

 午後に妹(と姪)と食事。
 最近は週一回、一緒に食事をするのが何かのお決まりのようになっていて、そこに見られる調和を、ときどき乱したい気持ち(悪戯ココロ)になることがある。
 社会不適合というのは、僕の本能なのかもしれない。


 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200321
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
こだわりと向き合い。
SUBTITLE:
~ Mirroring on my edge. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 こんな辺鄙な田舎町でも、ティシュとトイレットペーパが買い占められていたのはもうどれくらい前のことだろう。
 最初は唖然としたものだ。
 どれほど恥知らずの阿呆が多いのかと、呆れ、思わずひとり笑ってしまった。
 まったく情けない話ではないか。

 他人のことなんてどうだっていい。
 自分のことだけ考えていれば、それでいい。

 海外の人たちがいわゆる爆買いをしていたときはネット上で「民度」という単語をよく目にしたものだが、今回はほとんど見ない。
 これは勝手な憶測だが、他人の民度とやらにビンカンな人たちほど、己の中の獣性に関してはひどく鈍感なのやもしれぬ。

 いやなに皆それどころではなくパルプ製品と不織布製品を求めて、野獣のように街から街を、店から店を、血眼になって走り回っているのかもしれないが。

>>>

 電気炊飯器を、およそ20年ぶりに使っている。

 一人暮らしを始めて1年後の夏の終わりに、僕はそれを捨てた。
 炊飯器は僕を堕落させた。
 炊いたご飯をいつまでも保温したり、スイッチを切ってもそのまま放置したりした。
 その結果、ごはんは「ごはんであったはずのナニカ」に変わる。
 それを数回繰り返すうち、自分が情けなくなって捨てることにしたのだ。

 放っておけば炊ける。
 そのまま放っておけば適温に保つ。
 数日置いてもなんとかなる。
 それが僕を自堕落にさせた。

 おそらく数ヶ月後、僕は初めての圧力鍋を購入した。
 両手持ちの5L。大きな、そして重い、古式ゆかしい、蓋の上で重りがくるくる回る鍋だった。
 そしてわずか半年でその鍋を捨てた。
 最初の圧力鍋を買って3ヵ月後に新しい片手用圧力鍋を買ったのが大きな理由だ。

 最初の反省は「圧力鍋の場合、大は小を兼ねるが、適切なサイズでないと使いづらい」ということ。
 立方体の1辺あたりの長さを2倍にすると体積は8倍になる。中空でない物質なら、当然重量も8倍。
 鍋の場合は容積ベースだが、表面積は厚みを無視しても概算4倍。
(実際は、大きくすれば強度を保つために厚みも増すだろう)

 もちろん、1辺の長さ(鍋の高さや直径)が2倍になるのではない。
 容量2倍なのでそんな大げさにはならない。
 体積2倍と考えると1辺あたりおよそ1.26倍だったか。
 面積は2乗になるから、およそ1.6倍程度なので重量も1.6倍程度ということになる。
 3kgの鍋なら乾燥重量で5kg近くなる。
 3Lの具材を入れたら8kg近い。
 カセットコンロが壊れそうだよ。
(集合住宅のガスは高めなので、カセットコンロを愛用している)
 
 よって片手用の2.5L程度のものを買って使い始めた。
 弁も樹脂製で最初は不安だったが、圧力を2段階に切り替えられる優れもので、しかも安かった。
 これは実に使い勝手が良かったが、あるとき火加減を間違えて盛大に焦がした。
 普通の鍋の焦げとは次元の違う焦げ付きで、薬品も2、3試したが、最終的に諦めて、同型のものを買い直した。
 しかしこれも1年足らずで焦がす。
 今度は時間を間違えたせいだ。

 それでも懲りずに同型の圧力鍋を買っては使い、今使っているのは4代目。
 キッチンタイマーも2つ常備するようになったので、焦がすことなく5年以上使っている。

>>>

 カランダ(ザル)は、一人暮らしの最初に、長持ちしそうなものをちょっと奮発して買った。
 網が破れたり、骨が歪んだりもせず、長く付き合っている。

 まな板は下駄足。
 かつおぶしは削り器で削る。
 鉄瓶や鉄鍋で湯を沸かす。
 フライパンも鉄製。
 食器洗いは基本的に石鹸。

 と、ここまでを客観的に見た自分を思うのだ。

「めんどくせぇオトコだなぁ」と。

>>>

 一般的に、こういうイキモノは「拘(こだわ)ってる奴」に分類される。
 あなたの周囲にもいないだろうか、
「これはこうでなくてはダメ」
「これはこうであってはダメ」
 と自説と拘りを振りかざして周辺諸国を制圧していく、好戦国家のようなような人が。

 とにかくそやつの目につく範囲においては、そやつの拘り抜かれたセンスと理屈に従ったありようを体現しない限り蹂躙される。
 布教といってもいいから、十字軍のようなものか。
 異教徒は斬られる。
 改宗しなければ斬られる。
 そこにあるのは神の説く全き愛の姿ではなく、妄執と狂気に歪んだ自己愛の体現である。

 ほら、ラーメン屋でも(コショウを最初からそんなドバドバ入れるな)(長髪者は髪を結えるものくらい持ってこい)(レンゲを使って食うな)とかいう変な店主がいたりするというではないか(今勝手に思いついたので、いないかもしれません)。
 蕎麦屋でも(音を立ててすすれ)(最初は何もつけずに味わえ)(蕎麦をつゆに浸すな)(薬味は少しずつ加えてゆけ)(蕎麦湯は必ず飲め)とかうるさい奴、いない?

 こういうのをして、やってみると確かに効能というか、違いが多少はあったりするものだから(なるほどこれは!)なんて崇めたてる奴が出てきて、本人はますます天狗になって(よろしいますます余を崇め奉るがよい下民どもよ)となって狂気度合いが加速する。
 まさに正義は我にあり。
「正しさの病」もこれと同源だから(芸能人の不倫は許さない〜!)だの(マスク転売屋は死して地獄に堕ちろ〜)だのと正義を振りかざしては己の自己愛の穴を埋めるためにやかましい。
 ラーメンも蕎麦も不倫も転売も好きにさせとけよ。

 放っておけよ、それで淘汰されるなら、それが不要なものであり、浸透してゆくならそれが必要なものなのだから。
 いいじゃないか蕎麦をつゆへだぶだぶのめためたのびたびたな具合に浸して、つゆごと飲んだっていいじゃないか! がぶがぶ飲ませてやれよ。
 買うお金がある人になら1枚10万円でマスク買わせてやれよ(僕は売るマスクも着けるマスクも持っていませんが)。
 と僕は思うのである。

 ちなみにあとになって非難されないために、誤解のないように言っておくと、僕は蕎麦を、最初はつゆもつけずに食べるタイプではあるのだけれども。
 ラーメンも、コショウをまったく入れないタイプなのではあるのだけれど。
 そして他の食事はだいたい食べるのが遅いのに、麺類だけは食べるのが早いのだけれど。

 それとて特に拘っているわけではない。
 単にその方が自分の好みだからそうしているだけだ。
 そうだこれこそが正義だだから世俗のアタマワルイ下民どもは我を崇め奉れ我に従え我が正義を褒め称えよ!
 と言ってしまったら、これが狂気の始まりなわけであってね諸君。

>>>

 確かにごはんは圧力鍋で炊く。
(今は炊飯器しかない家があるから、その家では炊飯器で炊く)
 玄米食を好む。
 鉄器で湯を沸かす。
 まな板は下駄足だ。
 かつぶしはなるべく都度削る。
 砂糖はきび砂糖か黒砂糖ばかり使う。

 でもこれは正しいとかそういうことじゃない。
 これが正解だから皆これに従えなんて思ってない。
 いやいやこのあたりはモノ相手だから仕方ないけれど、たとえば恋人が27人いるとかについてもものすごく噛み付いてくる人はいるわけです。無職で365日過ぎましたとかいうと噛み付いてくる狂犬どもがいるわけです。

 彼らの中には「正しさの病」があって、その正しさに従わない者は全て斬捨て御免の正当防衛なのである。
 だってぇ、あいつがぁ、最初に仕掛けてきてぇ、それにぃ、せんせぇだってぇ、そぉゆぅのはよくないってぇ、いってるんだもん! だからぁ、ボクはわるくないんだもん!
 ゆえに礼を失したのはその方であろう。
 赦さん。刀の錆にしてくれる。
 我は神の御使、十字軍なり。
 というわけ。

 どんなわけやねん(唐突な関西弁)。

 極論、殺人すら「あなた直接の被害者じゃないでしょう?」というお立場の場合や「あなたが裁きをなさるお役目ではないでしょう」という場合、その身勝手な怒りはどこから来るのか半年間そこの海辺の洞窟で考えなさい、それが正義ですゆえに私が正しいので下民たるうぬらは我を崇め奉るがよいわかったか?わかりましたね?わからないやつは死刑です! みたいな感じになってしまいかねないわけで、だから普段からこういう馬鹿馬鹿しい「正しさについての拘り」なんて持ちたくないし、いっそのこといつでも間違っていたい。

 たとえば僕が殺人を犯さないのは、それが正しいからではなくて、殺人をする必要がなくてしたくないからです。
 たとえば僕に恋人が27人いるのは、ガールが好きで増えちゃったものを減らさないからです。
 所有している本が数百冊にも満たないのは、増えたら減らしているからです。
 正しいからするとかしないではなくて、それをしたいから/したくないから、選択して行動するわけです。

 一方で、殺人をすることが正しく思えちゃう人や状況もあるわけで、ではそれはどのようにあることが望ましくて、その望ましい状況を作るためにはどうするのがよいのか、というのがアタマの使い方なのではなくて? と思うのですが、それとて「正しい」とは思っていない。

 マクロ的に、不要なものは淘汰され、必要なものは存続する。
 弱者を守る余裕がなくなれば、社会は弱者を不要と考えたり、いいように餌にしようとするわけです。
 強者が必要だから、ぽっと出の、得体の知れない代議士には投票しないで、他にいないからとか消極的な言い訳で、自分が(先の理屈の「強者」に当てはまらないから)立候補するわけでもなく、二世政治家とかに投票するわけでしょう。
 弱者を守れる仕組みは、弱者に力を与えることかもしれない、ってそれまでとちょっと違う政党が与党になったらやっぱり失敗だったとか言い訳するわけでしょう。
 一回失敗しただけでやめてしまうあたりが中学生の部活レベルで、だから選挙権の年齢を引き下げたのかと冗談まじりに思ってしまうほど、プロ意識の日本国民というか投票者がいないような気がしないでもない。オマエら世界を目指すなら、一度の失敗くらいでくじけるな! と言いたい。ほかならぬ政治家にではなく投票者に。
(とくに何も考えていないので、投票には基本的に行かない人がこれを書いています)

 マスクが必要だから買い占めたり転売したり高額で買っちゃったりするアホウがいて、もうみんな同罪ってことにしてしまって、だったらいっそのことマスクメーカも犯罪者扱いしてしまえばいいし、マスクを考えることは姦淫にふけることと同じ神への冒涜だということでマスクを禁制品にして全員逮捕してしまえばいい。麻薬扱いしちゃえばいい。持ってても使ってもアウト。
 マスクもティシュもトイレットペーパも生理用品も一律禁制で免許を受けた人だけの配給制にすればいい。

 僕が正しさについてなるべく軸をずらしたり、触れないようにしているのは、それを語ることが時に人に押し付けることになるからで、それはとても恥ずかしいことだから。

 呑み屋に行くと、よくわからん蘊蓄(うんちく)や自慢、説教、泣き言、管巻きを展開する人間は昔からいて、それと同じ感覚を振りまきたくないから。
(嫌される、という新しい言葉を思いついたが、こんなのは流行らないし流行らせない)

>>>

 ここからが本題なので、疲れた人は休むがよいぞ私は優しいであろう正しいであろうゆえに我を崇め奉るがよいぞ下民どもよ。
(この言い回しが、ちょっと気に入ってしまった)

>>>

 拘るということの本質的な恥ずかしさというか、醜さというのは、他者がいないと成り立たないこと、なのだ。
「うちのラーメンは、スープのガラに拘っていてね」というセリフは、それを語る相手がいないと成り立たないということ「ではない」。

 拘りに正邪の基準が含まれていて、ために「正しさ」と拘りが混同してしまっているとき、それはどうしても他者に向かって発露してしまう。
 スープにだけ、スープのガラに「だけ」拘っているのなら、それは単に美味しいスープを作ることに真剣に取り組んでいる、ということだから問題はない。
 素晴らしいことだと思う。そのまま邁進していただきたい。

 ただ「このガラだけ」「このスープだけ」が正しいと「思ったら」どうなるだろう。
 その「思い」が拘りで、すなわち「正しさのビョーキ」で、つまりは狂気なのだ。

「このやり方だけ」「このあり方だけ」「この考え方だけ」が正しいなんて、いやいや恐ろしくて私には言えない。
 殺しは絶対しません! なんて、毎日イワシ焼いたり、肉を塩漬けにしたりしているワタクシが申し上げるわけには参りません。
 不倫はしません! なんて、非生命や自然現象や動物や同性にも恋してしまうワタクシには恐れ多くて申せません。
「適正価格のマスク」って、そもそもマスクがどの程度の原価なのか知らないので、語れません。
 本当は原価9万円で、メーカのたゆまぬ努力と政府の陰ながらの援助の結果、店頭販売価格が1枚あたり100円なのかもしれないし。

 鉄器で沸かしたお湯が美味しい気がするのは、どこかのアヤシイ集団から100万円で買った壺に汲んだ水を飲むと幸せになると思っているのと変わらないかもしれないし。
 玄米を食べていると体調がいいのも錯覚かもしれない。
 下駄足のまな板は物理的な理由があるので錯覚ではないにせよ、他人様に(金物屋さんで買った下駄足まな板がコスパも含めてサイコー!リピ確定!)とか恥ずかしくて言えません。

 これらはすべて、向きの問題なのではあります。

 つまりモノと向き合ったり、自分の感覚や感情に正しく向き合っていれば、それは観察上「拘り」なのかもしれないけれど、自己完結してゆく。
 27人恋人がいても、自己完結しちゃってる人にはどうしようもありません。
 不倫して自己完結しちゃってるなら、外の人が何を言っても通じません。
(わざわざ謝罪会見とかしたりさせたり放送したり観たり論じたりする人がいるあたりが、ヒトビトの狂気を感じるのではありますが)

 ちなみに先の「正しく向き合う」の「正しく」は「軸を逸らさず/正面から」の意味であり「ヒャッハー!十字軍だオラー!コッチ向けやオラー!首の曲げ方をこのオレ様が指導してくれるぁー!」ということではありません。

 自分の感覚で対象を感覚しながら「このほうがいいかな」「こっちのほうが合うのかな」と試行錯誤するわけです。
 スープのガラも「こうしたほうがいいかな?」
 蕎麦の食べ方も「こうしたらどうかな?」

 そういうのをひとつひとつ、自分で確かめてゆくことで分かるのは「自分の好み」であって「正しさ」などではない。
 それを正しさなどと錯覚し、吹聴し、あまつさえ強要してしまいたくなる己の身の程を僕は考える。
 己に向き合って反省する。

 他人のことなんてどうだっていい。
 自分のことだけ考えていれば、それでいい。

 なるほど、私もケダモノなわけである。

>>>

 炊飯器にだって罪はない。
 そこにあるのは僕の自堕落であり、炊飯器が僕を堕落させたなんて、言い訳がましいにも程があろう。

「拘り」と「向き合うこと」の違いは「働かざるもの食うべからず」と「一日為さざるは一日食わず」にも似ている。

 他人をとやかく言いたくなる気持ちは、とにかく恥ずかしい。幼稚だと感じる。
 赤の他人であろうとそうだし、どんなに親密な間柄でも、僕はしない。







// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
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[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Transistor-

[Object]
  -Human-Koban-
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[Cat-Ego-Lies]
-おこと教室-:-夢見の猫の額の奥に-:-Webストリートを見おろして-





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200320
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
風見鶏の視線の先に。
SUBTITLE:
~ Rooter’s eye. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 風が強い。

 3時に眠ったのに6時半に目覚めてしまった。
「いや〜、昨日も寝てなくてさぁ」「寝かせてもらえなかったんだよぉ」などという馬鹿のアピールをするつもりはない。
 僕はほとんどのSNSをしていないし、ブログもこのとおり、あまりSNSしていない。
 社交性ネットサービスですか。IRL(in real life)でいいじゃん! と思っているが、コメントにはなるべくリプライしている。
 これは単なるお人柄でしょうね。
 一方、仕事もしていないから、職場があって同僚がいる、というわけでもない。
(私のIRLどこいった)
 ついでに今は就職活動をするタイミングではないから、ハローワークにも行っていない。いつか行くのだろうか。
 だいたい目覚めて軽く掃除や洗濯をして、気が向けば少し運動をして、ゲームをしている。
 ひどいときは午後に起きてゲームをして、夜中にお風呂に入って眠る。入浴中に文書を書くこともある。PCが防水ならいいのだけれど、そもそも僕はデスクトップ信奉派なので、どうだろう。
 とにかくそろそろキーボードに触れたいし、ネット環境にも接続したい。なにより大きなモニタでコンピュータを操作していたい。
 まぁいいや。いずれにしてもダメ人間生活を送っている。
 気分まかせであるが、その開放感はひと月くらいしか味わっていない。
 おそらく、これからもっと開放的な気分になるだろう。
 その日の気ままな風見鶏生活である。
 定見を持たない? 多いに結構。
 それこそ僕をして考える行為の目的だといっても過言ではない。
 定見なんか持ったら最後、何も考えないイキモノに成り下がってしまう。
 どうせなら成り上がろう。
 定見なんか持たずに。
 毎日毎回、少しずつ違う同じような問題を悩めばいいじゃないか。

「考えない芦はただの芦だ」
とどこかの豚が言ったとか言わないとか。
 少なくとも、猫はそういうことを言わない。

>>>

 この数年、まともな休日などなかったから、振替出勤分の休暇を消化しているようなものだ。
 数年分のヴァケイション! それはまさに今始まったばかり!
 そんな言い訳を用意して引きこもっているうちに、世間は大騒ぎ、というわけで。

>>>

 もしも就活生がまかり間違ってこのブログのこの文書を、たまたま見てしまっていたら言いたい。
 真面目に働きたい人は働けばいいし、働きたくない人は働かなくてもいいんでねぇの? と簡単に他人に言ってしまうようなオトナになってもいいんじゃないのぉ? と。

 なぜなら「真面目に働かなくてはダメだ」という人は100人中70人以上はいるわけで、オトナになると自分の立場やお気持ちをうやむやにする人も少なからずいるわけだけれど(よってそうした人たちから、冷ややかな視線を浴びることもあるわけだけれど)、それでもたくさんの人がすでに根拠のない(あるいは正しい根拠に基づいて)正論を述べているなら、僕くらいは間違ったことを言ってもいいんじゃないか、そのほうが物事を選択するという行為において正しい状況が生まれるんじゃないか、とうっすら思い浮かべつつ、半分以上は「面白いから好き勝手言ってやれ」と思ってテキトーなことを言っている。
 ちなみに僕には両親もいないし養ってくれるステディなガールやメンがいるわけでもないから、経済活動の隅々まで自己責任で背負って引きこもっている。嫁と子供がいなくてよかった。
 食事事情だって自己管理である。
 たとえるなら、魚の獲れる湖のほとりでキャンプ生活をしているようなものだろうか、ちょっとカッコつけすぎではあるが。
 引きこもりの道は、かように長く険しいのである。
 諸君がもし、真面目に、働かないで自律した生活を送りたいなぁ、とぼんやりとでも考えているなら、世俗を知り、計画し、試行錯誤を繰り返すしかない。
 あと、夜更かしはダメだぞっ、めっ。
 少なくとも、会社員として生活を安定させたり、誰かに「うまい話」を聞いているようでは、自律した引きこもりにはなれないだろう。
 え? なりたくないの。あそう……。

 さて就活生へのアドバイスはこのくらいだ、ガキの読むものじゃねいんだから、帰れ帰れ!
 といった感じに街角のひなびた一杯呑み屋に昼間からたむろしている赤ら顔のダメ人間のような気分で僕は書き進めるのである。

 というわけで、ワタクシの浮き草生活についてちょっと吐露したついでに、思ったことをいくつか。

 世俗は経済が回らないらしい。
 先日、人のすなる経済といふものの正体をつかむべくあれこれ思索していたわけだけれど、いっそうの深掘りであるとかをしないうちに経済がアヤシイ、となってしまった。

 おかしい。
 経済とは、自浄作用をもち、恒常性を持っているからこそ、ある程度の範囲でのゆらぎを伴いながらも右肩上がりに成長してゆく(あるいはそのように設計されている)ものではなかったか。

 要するに「人が起きて、飲んで食べて運動して歌って踊って遊んで風呂入って眠る」だけでは経済は回らないらしいのだ。
 そんなものはほんの底流、あるいはかすかな上澄みでしかなくて、そこには莫大な上積みであるとか、基礎が存在しているようなのである。

 あれぇ? 経済って、半分以上の無駄でできてるのでしょうか、というのが僕の感想。
 巨大なビル群や交通機関、通信網といったインフラ、人がましい顔をして後ろ指を差されても気にせず政治活動を続けちゃうナニカや、法治国家の仮面を被った人治国家を作り上げようとしてついでにその中心に身を潜めちゃおうとしているかのようなナニカなどは、無駄なのでしょうか。
 たとえば呼吸するだけで酸化していって成長とともに抗酸化作用が弱くなるように、必要悪すら内包して、それを前提として成長するのが生命の定めだと直感しているからこそ、経済という生命の悪性を「それも必要悪かな」とか、アヤシイ議員も「他に選択肢がないんだろうな」と思って眺めているのにもかかわらず、もしかして、全部無駄なのぉ? といった気持ちにはなる。

 もちろん通信インフラは、人間の物理的移動を仮想化することが可能で(まぁ、ようやく僕が子供の頃に思い描いていた社会認識に近付いたか)くらいには感じていたから、物理的交通手段というのは、仮想化(電子化)される以前の機械化(電機化)なのだろうし、そう考えれば無駄ではないだろう。

 政治については基本的に僕はノータッチ/ノースタンスである。
 僕に代わって面倒な仕事をしている人が沢山いるなぁ、と思って見ているだけだ。
 直近の選挙には行ったが、基本的には選挙に行かない。
 僕はケダモノで、社会不適合者かもしれないし、その場合を考えると多数決社会に無駄な波風を立てたくないとか高尚なことを考えているわけではない。
 多数決原理を信頼して成り立っている仕組みの中で、常識的な人間が過半数いて(だからみんな選挙に行く)、それらが個々として考えればだいたい信頼に値する要素と見なされる、あるいはそう信じることができる(みな横並びなのも決して貶されるものではないのです)場合において僕は社会を信頼できると思えるからだ。
 あと移動の手間や時間がもったいないから。
 ゲームをしたりガールとぱやぱやするのに忙しいから。
 最後のほうでぶち壊しだ。

>>>

「株をしているのですか」と問われることがある、というのは以前どこかで書いた気がする。
(いまだにリリースしない文書のほうが多い、あとゲームとぱやぱやが忙しい)
 株はしない。
 経済という仕組みが、どうにも僕には理解できていないのだ。
 子供の頃からそうだった。
 いやそんなことを言ったら、僕は箸の使い方くらいしか、まともに親から教わっていないのではないか(おそらくそんなはずはないが)。
 2歳半の頃にはオムツをしていなかったので、排泄についてはその後も失敗した覚えがほとんどない(神経性急性胃炎のときはダメだったが)。

 脱線しそうなので本題に戻すが、経済というのは、他の多くの仕組みと同様に複数のレベルというかレイヤというか階層というか段階というかクラスタというかがあって、個々のレイヤにおける各クラスタの働きなども含めて全体を把握できないと僕は理解したとは思えないのである。
(なので昨今、経済書やら経営学書を読んだりしているのですが、いかんせんゲームとぱやぱやに忙しい)

 僕にとって、大半の仕組みは生態系のように循環(サーキュレイション)する系か、その中で部分的に直線的(シーケンシャル)に扱うほうがいい系かに二分される。
 経済は時間軸を無視したマクロな全体像は循環型だけれど、時間軸でとらえた成長から窒息までのスパンは直線型だ。

 水の流れで考えた場合(今回は循環型の中で機能する直線型モデル)、ひとつの大きな流れは、個々の箇所の障害物をふくむ環境によって、淀みを作ったり、うねったりして各所の動きを作りつつも、全体の流れはそれに関係なく加速する。あるいは加速を「求められて」いる。
 そこでは勾配を与えたり、障害をあえて作るなどの「工作」もあるだろうとは思う。それが必要悪かどうかは僕の考えることではない。
 ただ、ここで作用する運動機能がよく分からない。
 水であれば、位置エナジィ(potential energy)と運動エナジィ(kinetic energy)を交換しながら、途中で運動エナジィを消耗してゆく。
 小さな流れから大きな流れになって、やがて海のような巨大なうねりになるし、それは川と海のように独立した存在ではなく、海の中に川があったり、川の中で海があるような感覚で捉えている。

 経済の場合、どうも無駄に見えるプロセスがあったり不可思議な運動が見えるから、できればそのブラックボックスが理解できるまでは手を触れたくないのだ。

 ために株はしない。
 株をしている多くの人は、投資活動ではなくて投機活動をしているように観察される。
 むろん株という仕組みがそういう方向に動くのは仕方ないけれど、投機活動が投資活動を上回っている場合、ギャンブラーばかりでは場の信頼性が損なわれる。
 おそらくそれを防ぐ仕組みが株式市場には明文化されているものとは思う(あまり僕の記憶にない)が、投機活動をする者たちが働かずにゲームやぱやぱやをして過ごすには、自分の持つチップを増やす必要がある。
(ここで僕の言っている「働く」とは、経済を動かすことではなくて、手足を動かして、直接的に誰かを助け、その役に立つことです)
 ために市場をマクロで見た場合、一定の範囲で不安定かつ自分本位な「投機」が横行し、それがほぼ飽和状態になるだろうということが予測できる。
(経済の勉強なんてしていないので、あくまでニンゲンの特性による概説です、就活生が読むものではない)

 つまるところ「投機」は「投資」の基礎をベースにしたハリボテのようなものになりかねない。
 でも誰も「自分は投機者です」なんて名乗りを上げない。みんな暖炉の前でパイプを咥えてブランディグラスを片手に「ん〜、まぁ『投資』を少々、ね」みたいに気取ってやがるに決まっているのである。
 気取ってんじゃねーぞこのクサレギャンブラー風情が! とついついアナーキストなラケンローであるワタクシなどは口汚く罵ってしまいそうになるのだけれど、そんな人、本当にいるのかなぁ。
 はいはい、脱線、脱線。
 ゆえに投機者同士は、お互いの動きや世相の顔色を窺って、気遣いしなくてはならないことになる。
「こういう状況だから、世相はこう動くだろう、という読みを多くの投機者がして、こう動くだろう」程度の読みはしているはずで、そうした仕組みやゲーム理論の帰結をみんな適当にごまかして説明しているように観察される。
 だから、数多ある情報をひと通り飲み込んで、自分で消化して学ぶしかないのである。
(オカネモチーになったら大学受験でもするけどよ)

 顔色を窺うというのは、本来はあまりよい意味では使われないかもしれない。
 風見鶏、というのも同様である。
 しかし周囲を見回すとどうだろう。

 皆が皆、周りの人の顔色ばかりを窺っているように観察される。
 やれ不祥事だ、不適切発言だ、不倫だ、偽装だと騒ぐのも、他人の動向がそんなに気になるのかと問いたくなるほどである。
 SNSで誰かに評価されて楽しい人を否定するつもりはないが、不特定多数の他人に自分の感覚さえ左右される価値観でいいのだろうか。
 それを利用し、あるいは怯える人たちがいるのは分かる。
 彼らはそうした発言/発信をする庶民を食い物にしているから、顔色を窺わざるを得ない。
 共有/拡散文化は脳の高次機能の外部化であるが、周囲の顔色を窺ってばかりいるのは結局のところ、単純で無能の証ですらある。

>>>

 しかしである。
 そうはいうものの、どうだろう。
 冒頭で書いたが、多数決によって正当性を信用できる社会の、その信頼のよりどころは、風が吹いたらその方向に向くことではないだろうか。
 みなが同じであることを嫌う風潮は分かるし、自分がオリジナルでユニークであることを主張したい気持ちも結構である。
 それでも社会の安全性を信頼できるのは、そうした「みんな同じものを基礎にしてるよね」という安心感ではないだろうか。
 単民族特有の平和ボケ発想といえばその通り。しかしそれこそ、人間が理想とする状態ではないだろうか。
 そして理想に向かって歩むこと、進むこと、模索すること、そういう気持ちをくじけずに持ち続けることが、人間が人間でいるための技術ではないのだろうか。

 風が吹いたらどこに飛んでいくか分からない僕のような人間ばかりで社会が構成されていたら、みんなが家に引きこもってゲームとぱやぱやに明け暮れてしまう。生産性などどこ吹く風である。

 そう考えると、波風を立てているのは多数派にして少数派の食い物にされている愚にもつかないエラソーな庶民であって、風見鶏はその風の方を向いて頭を下げておべっかを使っていればいいのである。どのみちエサだから。
 そんな穿った考え方だってできるだろう。

>>>

 何を考えるかは自由だ。

 多くの人は、自分の経験だけをもとに、それだけが正しいとばかりに、吹聴する。
 1人分の、しかもその途中までの人生しか送っていない人間の言葉を、僕は今までさんざん聞いて、ときにそれに従ってきた。

 結論をいえば、自分で考えて、自分で選択して、自分の手足で動いたことがすべてだ。
 誰かの正解が自分の正解だなんていうのは、カンニングがまかり通るテストの世界だけだ。
 実戦に、そんな公式は存在しない。
 自分で式を作るしかないのだ。
 そしてそのためには、自分で問題を見つける必要がある。
 与えられた缶詰のやわらかいエサしか食べたことのない子猫ちゃんたちには無理だろう。

 骨ごと齧り付くのが、下品だとか野蛮だというならそれはそれで「正しい」だろう。
 ただ、骨を齧ったことのない者に、骨の味は分からない。

>>>

 かれこれ3時間ほど風呂に入っているのだが(僕は長風呂である)、風は弱まるふうでもない。

 子供の頃(だいたい8歳の春の夜だったと記憶している)、1人分の人生しか送れないことを、僕はとても残念に、寂しく思った。
 ゲームのようにセーブして、分岐点からやり直せるなら、どんなに豊かだろうかと。
(当時はゲームにセーブ機能なんてなかったが)

 もちろん楽しいことばかりではない。
 ただ大変なことを楽しむという能力は、きっと誰でも備えていると思うし、それを教えてくれる人は、少なくとも僕の場合にはいなかった。

 みんな同じ「常識人」の皮を被っていて、だから僕は、たくさんの人間ぶん生きるには、どうすればいいだろうかと、いつも考えていた。

 もう何人分の僕だろう。
 今は何人目の僕だろう。

 風呂から上がったら、ゲームの続きをしよう。

 僕には、したいことがある。







// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
  


// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-/-青猫β-

[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Color-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Kidding-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Technology-

[Module]
  -Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Resistor-

[Object]
  -Camouflage-Cat-Computer-Game-Human-Koban-Memory-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に-






//EOF



スマートフォンだけで編集するとか無理だ〜。
無理じゃないけどちょう苦痛だ〜。
オレだオヤブン、なんとかしろ〜!
 20代の頃から、自分のカラダを撫ぜるようになった。
 それも、普通に腕をさするとか、そういうレベルではなく、全身できるだけ隈なく撫ぜるようにして。

 ことの発端はマッサージだったと思う。
 筋肉痛だったか、疲労蓄積だったか、冷え性だったか。
 多分、冷え性だろう。僕のカラダはいつも冷たかった。
 代謝が悪い。内臓機能が悪い。姿勢が悪い。
 ゆえの冷え性。
 しかし僕のカラダはどういうわけか、まるでオトナになることを拒否するように、いくら運動しても筋肉の発達はほとんどしなかった。
 一方で、骨格だけは上に伸びた。ひどいときは体重37kg、身長163cm(BMIにして15を下回るはず)であり、片親のこともあって、教師が家庭訪問でもないのに家に来ることがあった。
 もしかしたら虐待を疑われていたのかもしれないが、父上は僕を大切に育ててくれた。
 もちろん離婚は親の都合であり、そのぶんを差し引いて、子供の頃は感謝などしたことはない。
 中学入学にあたって、貧乏一家には分不相応な8bit マシン(NECの8801である)を買ってもらって、僕はますます機械類が好きになる。
 しかしこれといって感謝した覚えはない。

 父上は、僕が食事をほとんど摂らないことを心配していて、ときに叱られた。
 けれども無理に食べさせることはしなかった。
 そのかわり、たまにたくさん食べるとそれは喜んで、そのときのおかずが食卓に上がる頻度が上がった。
 僕が魚を好きな一方で、妹は魚が大嫌いだったから、父上は苦労しただろう。

 とにかく子供の頃から、ごはんを食べなかった。
 食べすぎると体調を崩すから、食べないでちょうどよかった。
 クラクラしたときに何かを食べたり飲んだりすれば、だいたいは乗り越えられた。
 学校で何度か貧血を起こして倒れたこともあるが、満腹まで食べて体調を崩すよりはましだった。

 家では白米を好まず、おかずや味噌汁を中心に食事をして、朝はだいたい抜いていた(高校からは昼も抜いた)。
 
 空腹というのを、それでもほとんど感じなかった。
 食べ物の味や香りも、ほとんど分からなかったのではないかと思う。
 母乳アレルギィが原因だったのかな、とときどき思う。
 母乳によって得られるはずの抗体も得らなかったようで、僕は頻繁に体調を崩した。

 僕が世界の感覚の仕方を覚えたのは17歳からだ。
 恋人が増えるたび(往々にして、減ることもあったが)僕は感覚を覚えた。

 花の好きなガールからは、色や香りの微かな違いを学んだ。
 季節の光、風のにおい、動物たちの動き方を学んだ。
 料理が好きなガールからは、味わうときは箸を置いて、目を閉じて、考えずに味わうことを学んだ。
 同じものなのに、感覚はこうも変わるのかと思い知った。

 猫たちも、僕にいろいろ教えてくれた。
 速い動きとゆっくりの動きの使い方。
 音や気配を消す方法も猫から学んだ。
 出産の処置や、妊娠中の注意事項も、猫から学んだ(じつに9歳の頃には、何度か飼い猫の出産に立ち会って、一緒に世話をしていた)。

 ガールの多くは、僕のカラダを気に入って(あるいはそのフリをして)くれた。
 そして僕は、自分の身体がどの程度のサイズで、どんな作りになっているかを教わった。
 女ばかりに囲まれて育ったためなのか、女性のカラダはそれなりに教えてもらって理解していたつもりだったが、男性のカラダについて、自分のカラダについて、僕は無知だった。

>>>

 20代はじめの頃、肌にひどい蕁麻疹ができた。
 血液検査までしてもらったが、原因は不明。
 全身を蚊に刺されたようなふくらみに覆われ、しかもそれが痒くて、その上掻くと広がる。
 2週間ほど続いたそれが去ってみると、僕の皮膚はボロボロになっていて、感覚も、なんだかひどい状態だった。

 もしかしたらその頃だろうか。

 それとも20代後半になって、やっと筋肉が付くようになったときだろうか。

>>>

 まるで撫ぜられることが食事であるかのように、僕のカラダは接触欲求を持つ。
 男友達と腕を組んだり、手を繋いだりするのに(抵抗されることはあってもこちらは)抵抗がない。バイクの後ろに乗って抱きつくのとかも好きである(タンデムバーを持てと叱られたことはある)。
 妹や姉の頭を撫でたり、背中を撫でたりするのも、普通にする。子供の頃より多いかもしれない(子供の頃は向こうから近づいてきて、蹴られていた)。

 まるで皮膚を使って、ものごとを知ろうとしているかのようだ。
 あるいは相貌失認の傾向が、これに拍車を掛けているのだろうか。

>>>

 身体は、その部分部分で温度が異なる。
 おしりはたいていひんやりしている。
 身体が過熱しているときは、僕は脇腹が熱を持つ(脇の下ではなく、脇腹が熱いと感じる)。
 疲れているときはだいたい関節が冷えて固くなっている。

 様々な骨を、皮膚の上から探り、その骨に近い部分の温度や感覚を探る。
 筋肉が疲れていたり、冷えているときは、たいていそこから心臓寄りの関節が冷えている。
 ふくらはぎなら膝。膝だけではなく腰骨のときもある。尾てい骨が冷えるとなかなか身体は温まらない。
 肩が凝ったことはほとんどないが、凝っている人は首か肩の関節が冷たい。こめかみや肘が冷えているのが原因の人もいる。

 僕は自分であろうと他人であろうと、骨からマッサージする。
 温めるのに必要なのは、骨を撫でることだ。

 皮膚を撫でても、外から温めても、僕の場合はそれなりにしか効果はなかった。
 数年前、巷で見かけるリラクゼーションマッサージの店で数ヶ月研修を受けたが、あれらの店は「筋肉をほぐす」ことに重点を置いているから、男性相手には力が必要だったり、接触箇所も増える。

 骨を撫でるのに必要なのは、親指と人差し指、多くても中指までだ。
 ために、ある人はリラクゼーションマッサージで揉み返しを起こし、肩凝りは直らなかったらしい(施術所には、ちゃんと言い訳が決まっている)が、僕が小一時間関節をマッサージしたところ「関節を押すだけ(実は、だけではないが)で、こんなに肩がラクになるの?」と言われていた。
 筋肉なんか押したって痛いだけである、少なくとも僕は。

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 カラダを撫ぜて、骨を探り、骨を指で掴む、骨を撫ぜる。
 心臓に遠い場所からスタートして、しばらくすると、次に撫ぜるべき場所が、冷えたり温かくなったり、かゆくなったりする。
 カラダが満足するまで、僕はカラダを撫ぜる。
 時間がかかるし、シングルサイズのベッドや布団では役に立たない。
(ためにシングルサイズしかない伯母の家では、現在かなり苦労している)

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 背中の肩甲骨の裏や、臀部の奥(臀部からの骨は遠い)、鼠径部のさらに内側など、普段ほとんど触れない場所も、触れられる限り撫ぜる。
 骨を撫ぜ、肌を撫ぜる。

 知らない傷がある。
 気付かなかった膨らみがある。
 まさかの角質がある。
 思わぬ贅肉がある。
 肌触りを確かめる。
 僕は僕のカラダを発見してゆく。
 皮と筋肉と骨をなぞって、古代の化石を掘り出そうとするかのように。

 骨を手で曲げる。逆向きも、そっと曲げる。
 必要な箇所以外、力を入れないように注意して、呼吸に気をつけて、撫ぜる。

 押す、つまむ、撫ぜる。
 弱く押して、強く押して、その箇所を力ませて、脱力する。
 そのうち、僕は安心して眠る。

 カラダは昔から、僕とは違うイキモノみたいで、まったく制御が効かない。
 だからそうやって、僕は自分のカラダと交信する。
 あるいは、自分のカラダに耳を澄ます。

 長らくそんな余裕もなかったと思い出しながら、昨日はそんなふうに、自分を撫ぜ回していた。
 自慰行為と呼んで差し支えないかもしれないが、性感があるわけではない。
 背中を撫ぜるのは少々手間だが、そのためだけに人を雇うわけにもいかないのは悩ましいことである。

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 思い出した。
 不眠症のときにもしていたんだ。

 眠れなくなっている人の多くは、アタマの中で迷子になっているのだろう。
 カラダに帰ってくればいいし、帰ってこられないときは、そろそろ出発の準備をしてはどうだろう。
 自分のカラダと手を繋げなくなったら、もう死ぬしかないのだから。


 浮き世は感染症ブームらしく、先日考えていた経済主体の世界認識モデルに、早くも特殊な因子を考慮する段階に突入した。
 突入しただけで、べつに認識モデルを刷新したところで、何がどうなるわけではない。
 僕は世界の支配者というよりは傍観者であり、世界経済における重要人物というよりは日本経済にさえ希薄に関与している程度だ。
 というわけでトイレットロールが残り2ロールなのですが、とくに買い急ぐ気はありません。

 観察者の存在によって初めて世界はそのありようを決定するので、傍観者である僕がフタを開けて観察するまでは、そのありようは二つ以上の状態が重なって存在しているのである。
 すなわちトイレットロールの存在しているトイレと、そうでないトイレと。

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 無職で暮らしているので、税理士や銀行員などに「株か何かをされているのですか」と尋ねられることがある。
 株はしていない。
 株をしている方からすると、あれは投資行為であり、社会貢献であり、経済活動であり、ギャンブルではないらしいのだけれど、僕にはどうしてもギャンブルに見える。
 データを集めれば動向が読めるというけれど、そうした特性は競馬や競艇にだって存在するし、パチンコだってあるだろう。ないのかな。

 ことほど左様、僕はギャンブルをしない。
 たまに人に誘われたときに、馬やボートをしたことはある。
 でも小銭しか賭けないし、勝っても負けても、あまり熱が入らない。
 僕の熱量は、リアルマネーでは発生しないらしい。

 僕は20年くらいTVをほとんど見ていないからCMも見ない。
 モノを買うことが1番の投資活動だと思っているので、良いと思った会社の、良いと思ったものを買う。
 僕がとくに力を入れているのは純石鹸だ。
 あれがなくなると、毎月石鹸を作る生活になってしまうだろう。
 食器も石鹸で洗うし、お風呂も石鹸ひとつで足りる。
 ボディソープやシャンプー、食器洗剤は肌が荒れるのでダメなのだ。
 一時期は洗濯洗剤も液体石鹸にしていた。
 最近は、マグネシウムと少なめの洗剤で驚くほど落ちることを(遠い街の、金物屋のおかみさんに)教えてもらったので、そのようにしている。

 ただ、洗濯洗剤は困ったもので、成分を見ても分からない成分が多く、時系列による変化も乏しいので、見ただけでは化学作用が理解しがたくなってきている。
 容器や名前やパッケージばかりが刷新されていくが、明らかに前のバージョンのほうが良い製品だったこともある(どの銘柄とは言わないが)。

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 定職に就いていないと、時折、世間の目が冷ややかである。
 定食にライスが付いていないかのような冷ややかな視線を感じることがある。僕はライスなのか。
 いっそ「専業主夫なんですぅ、おほほ」とか言ってその場を切り抜けてやろうかとも思うが、銀行や税理士、司法書士は僕の素性を知っているから「配偶者いねーだろ!」と叱られるかもしれない。
 かろうじて僕がまともに人間のフリをしていられる(周囲からの冷遇が耐えられる範囲に収まる)のはスーツしか服がないからという極めて消極的な理由に起因しているとしか思えない。
 スーツを着ている人を「この無職が!」と罵る人は少ないように観察される。言わないだけかもしれないが。

 先日も、おこづかい稼ぎの飲食店に出かけたとき「猫氏、どこに住んでいるんですか」と尋ねられ、住民票住所と実住所が一致しない時がある、と答えたところでハッとした。
 僕は現在、住所不定無職なのである。

 経済活動にあまり積極的に携わっていなくて、居所不明瞭なのである。
 これで車両一時不停止だとか、シートベルト非装着などでお巡りさんに捕まったら、完全に重犯罪者扱いされかねない。
「住所不定無職」には、そのくらいの重みがある(ような気がしている)。

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 とはいえ先日、司法書士さんから連絡があって土地建物の名義変更が終わったので、火災保険の変更手続きをしてくれと言われた。
 至極ごもっともであるが、僕は、僕の介護対象者の家にあまり馴染んでいない。

 名義が変わったとか言われても、他人の家にお邪魔している感は否めない。
 だいいち、未だに何がどこにあるのか分からないことも多い。
 数ヶ月、介護のために住んだ(転職までして住んだ)ことがあったが、私のややこしい介護対象者から追放された。
 介護は継続せざるを得ないが、数時間掛けて通勤し、帰宅し、休日は介護の往復に数時間掛けているうち、身体を壊した。

 住民票は、介護対象者であった伯母と伯父の家に移してある。
 これは(実子でもなく、介護事業者でもない自分が)介護をするのに、手続き上、便利だったからであるが、郵便物に「〜様方」が付いていないということだけでも何度となく嫌みを言われ、説教された。
 できる限り手は打ったが、市役所などからの文書はどうしようもなかった。
「〜様方」という住所は存在せず、ために僕の住所は「〜様方」で終わるものではなく、ゆえに「〜様方」と表記されず。
(同一世帯として住民票を移せば違うのかもしれないが、そんなことをしたらしたでややこしい展開になることは容易に予測できた)
「〜様方」という姓でもないから、僕の住所氏名に「〜様方」という表記は一切存在せず「我が物顔で家に住み着こうとしているようで気分が悪い」とまで言われたこともある。

 住所が違うと、介護施設や病院の手続きで、少々手間が掛かる。
 何より救急搬送されたとき(何度かあるが)に、実子でもなく、姓も違って、住所も違うと、本人に代わっての意思決定がほとんどなにもできない。
 本人の意識がしっかりしていれば問題はないが、意識不明で昏倒しているところを発見されたなんてとき(1度あるが)にはどうしようもない。

 しかし、そんなことはお構いなしに嫌疑を掛けられたので、こちらも気分が悪いから(そして自分の住む場所は引き払っていなかったから)元の家に戻ったというわけだ。
 私も大人気ない(著しく「にんきがない」のでも「ひとけがない」のでもない)のかもしれないが、伯母と伯父も相当だったとは思う。

 そのようなわけだから、死後も諸般の手続きは(自分の貯金を切り崩して)進めたものの「はい、あなたの名義になりました」と言われたところで最初に思ったのは(キャンプファイアでもしようかな)である。物騒だし、犯罪なのでしないけれど。

 しかし問題は、無職であっても不動産を持てば税金が掛かるというシンプルかつ切実な現実に直面することである。
 考えたくないから布団にもぐって寝て過ごしてしまおうかと考えているうちに車が壊れた。
 17万キロも走っている軽自動車であるから、いつ壊れてもおかしくなかったのだが、さすがにこのタイミングはまずいのではないか。
 少なくとも、車を買い替えるタイミングとしてはあまりオススメできないのではないか、と考えている。
 それに僕は無職だ。このタイミングで何か大きな買い物をしようものなら、それがたとえ自分の貯金であったとしても(あれぇ?)と言われる気がしないでもない。
(まぁ、貯金は葬式でほとんど使ってしまったが)

 ゆえにブログで「新しい車を買ってしまった。買わざるを得なかった」という文言があった場合はお察しである。
 また「住む場所がひとつになった」の文言も意味深である。様々な可能性が考えられるが、今はあまり考えたくない。
(住む場所がひとつもなくなった、よりはいいかもしれないが)
 引越しをする気力が、今の僕にはないのだ。
 あの家この家を渡り歩いて往復して、そのうち車が壊れて、法的なあるいは事務的な手続きをしているだけで疲弊しているのだ。
 その上、墓仕舞いまで頼まれている。

 死人に口無しとはいっても、伯父が寺の檀家の総代の役員だったので、墓を放置しようものなら他の誰かに追い回される気がする。
 人間の社会は本当に面倒である。

 全部片付いたら、公園生活者になろう。
 住所不定無職。
 ネコとハトだけが友達だ。
 野生の生き物はすべて、住所不定無職なのだ。
 さほど珍しいものでもあるまい。

 あと週に数回電話を掛けてくる弟子と、たまに連絡が来る大学生の飲み友達と、月に数回食事に誘ってくる妹や姉が面倒だ。

 電源コンセントの付いたトイレのある公園を探そうそうしよう。

 そんなことを考えていたら弟子から電話があった。
「1年無職なのに、そのうえ住宅を入手して税金に頭を悩ませてる人を見たのは初めてです」と会計士見習いの彼は言う。
 私もこんな経験は初めてだし2度としたくはないのだ。

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 なるべく家から出ないで生活している(そしてそれが容易である)ので、花粉症の症状も軽かった(コルカタの旧名ではない)。
 しかしここ数日の気温と風で、少しずつ症状が重くなってきた。
 そうはいっても、いまの僕は以前ほどストレスの高い状態ではない。
 このまま無職を続けていたら、計らずも長生きしてしまう可能性だってある(多分ない)。

 経済ベースの社会モデルは、すでに人の手による恒常性の限界を越えようとしているのかもしれない、特にこの国では限界すれすれの手法を使ってきたわけだから。
 純国営の銀行ではないところが大きな権限を持ってあれこれするという(少なくとも今の僕には)不透明なメカニズムは、官民の間を泳いでいられるうちはよくても、両方から圧力の掛かる状況になると弱いのかもしれないし、そもそも自律的恒常性なんてものが経済という仕組みにも存在するという前提が崩れることを恐れている人も少なくはないのだろう。

 こういうとき、株をしている人を「それ見たことか」といじめる人がいるが、あれもよく分からない。何かやっかむところがあるのだろうか。
 相対的に得をしている、と考えるもよし、株をしている人ならば「タイムセールだ!」と株を買い足すもよしだろう。
 乱高下を繰り返すタイミングでうまく振る舞えば、きっと儲かるのでしょう。どうにもギャンブルっぽいけれど。

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 そろそろ真面目にPCの買い替えを考えなくてはいけない。
 嫁である Mac Pro はOSのアップデートなどとうにできなくなっているし、もうあちこち壊れていて「beatless」(SF小説です)の終盤のレイシアみたいになっている。

 Macのほうが馴染みはあるけれど、現行のMac Pro は高いし正直オーパスペックではある。
 といってミドルクラスのタワーマシンが存在しないので、マルチモニタを活かすには、複数の Mac mini を買って並列化するしかないかもしれない。
 iMac だとモニタがさらに増えることになるので対象外にしている。
 何よりメーカーが計画的パワーダウンを行なっていたのが明らかになったわけ(米国の訴訟のことです)で、そういう企業は信頼しないというのが僕の基本方針なのではある。

 しかしお眼鏡にかなう商品はなかなか見つからない気もする。
 もともと僕はPCを持ち歩きたくない性格なので、どうしてもデスクトップになりがちだ。
 Windows も視野に入れて考えようかなぁ。

 公園生活者になる予定なのになぁ。

 ちなみに「新しいPCを買いました」という文言がこのブログに出てきたときも「お察し」いただければ幸いです。

 そう。
 公園のトイレの電源にコンピュータを繋いでいるに違いないので。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200308
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
死は無慈悲な僕の恋人。
SUBTITLE:
~ The death is a harsh my lover. ~
Written by 銀猫

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 死が好きなのである。
 10歳の夏から、いやなんとなればそれ以前、初めて死に触れたそのときから、驚き、興味を持ち、ときに畏れ、ときに悲嘆し、ときに憎んだそれは。
 
 まるで恋のようだった。
 それは性別を持たず、それは実体を持たず、問うても返事はなく、概念的であり、にもかかわらず絶対的に現象するそれに。
 
 最初は陶酔した。
 それはしたたかだった。
 たとえようもなかった。
 比類なく、比肩するものもなかった。
 
 それは美しかった。
 絶対であることの美。
 他のいかなるものにも、真似さえできない無二。
 完璧であることの具現。
 究極であることの神々しさ。
 
 そして己という生命を体感し、少しずつの僥倖に歓び酔いはじめたとき、不意に恐怖した。
 絶望した。
 私は死をもたらす者でも、死を使役する者でもなく、死のよき理解者でもなかった。
 私は死をもたらされる側であり、支配される者であり、死は私を理解などするはずもなく。
 それは恋と呼ぶにはあまりに一方的で、あまりに幼稚だった。
(もちろん、恋のすべては一方的で幼稚なのかもしれないが、そうならば、とても原型的な恋だったといえる)
 
>>>
 
 10歳の夏の出来事だ。(忘れているとき以外は)忘れもしない。
 ある日突然、僕は死にフラれたのだ。
「え? 私たち、恋人じゃないよ?」
「そもそも、付き合ってもいないよね?」
 
 まったくもってそのとおり、僕の想いは一途だったかもしれないけれど独善的で、情の熱量は高かったかもしれないけれどそのぶん思いやりなんてなかった。
 恋というより憧れだったのだそれは。
 
 それから数年、僕は打ちひしがれていた。
 10歳にして打ちひしがれてしまった。
 打ちひしがれてしまっていたのだ。(強調三段跳び)
 自らの死の運命と、死に対する失恋に。
 
 しかし10代の絶望なんて、そうそう長くは続かない(2年くらいは続いたから、それまでの人生の20%に相当するが)。
 そもそも何を諦める必要があろうか、いや、ない。(反語)
 そうして僕は、彼女との恋を実らせるべく、血のにじむような努力をしたのである。
 たとえば(中略)そのようなわけで、僕は彼女との恋を成就させたのである。
 
 以来、僕は真面目に死に恋をしている。
 ちょう真面目なお付き合いである。
 みだりに人前で手を繋いだり(意味深)しないし、一度も身体を重ねたこと(危険)もない、清く正しいお付き合いである。
 
 将来のこと(切実)も考えて真剣にお付き合いしています!
 おとうさん(誰?)彼女をボクにください!
 第一印象(いつ?)から決めてました!
 絶対、幸せにします!(?)
 
 かくして(事実隠していたが)僕たちは将来を約束(意味深)し合った恋人同士であり、彼女(?)は僕の13番目の恋人なのである。
 
>>>
 
 まぁ、こんなことを書いたって、多くの人は(めでたい人がいるなぁ)くらいにしか思わないだろう。猫だけれど。
 そもそも想像もつかないだろう、非生命や自然現象に恋する気持ちなど。
 
 僕はこう見えて(どう見えて?)恋多きオトコだったのである(かつては)。
 
 月にも夜にも雪にも恋するのである。
 海と川なら川の方が好き! とか、
 イワシと花崗岩ならイワシの方が好き! とか、
 ホワイトチョコよりイチゴチョコが好き! とか。
 まぁ、最後はちょこっとニュアンスが違うけれど、くだらない駄洒落を挟むようになったあたり、猫氏も老化現象がはなはだしいな! と笑うがいいさ。
 
>>>
 
 そのようなわけで、僕は死が好きである。
 そして、周囲の人の一部もそれを知っている。
 ただ、今まで自殺をしたことはない。
 未遂もないから、しようとしたことがないのかもしれない。
 死にかねない怪我や病気は、あったかもしれないけれど、生憎生きている。
 
 それでも死と生を並列して取り扱ってしまうので、人によっては僕に対して不謹慎だと感じたり、あるいは僕が突然自殺するのではないかと心配しているようだ。
 
 まあ、気持ちは分かる。
 僕は他の人に比べると、生命を軽んじているように観察されることもあるだろうとは予測している。
 たとえば飼っていたペットが死んで、庭にも裏庭にも穴を掘る場所がないと、燃えるゴミに出してしまう。
 でもそれは「食べよう!」と思ってかたまり肉を買ったにもかかわらず、仕事やデートが忙しくて、腐敗させてしまってゴミに出すのと、僕の中では大差がない。
(否、デートで忙しくて食材をダメにしたことだけはないと断言できる。なぜなら僕は食事を作って食べてもらうのが好きだからだ。しかし話が逸れてしまったから元に戻そう)
 ペットを愛していないのではない。
 ただ、ペットの死体まで愛することはできないのだ。
 その亡骸は、たとえるなら大好きだったおもちゃの入っていた箱のようなものだ。
 だから箱まで愛している、という人の気持ちも、僕は十分わかる。
 たとえば大好きな本を「普段用/保存用/布教用」と買ったり、あるいは大事にコレクションしているおもちゃは、開封しないで保存したりするようなものだろう。
 
 もっとも僕は、本に線を引いたり、折ったり、メモ書きしたり、ページを破いてまでコンテンツを吸収しようとするタイプなので、帯も(ひどい場合は表紙も)すぐに捨ててしまう。もちろんブックカバーなんてかけないし、しおりも持たない。
 おそらく僕がペットと接するときも、同じようなのかもしれない。
 飼っている間は家族なのだから、世話を(できる限り)きちんとするのは当たり前だろうし、躾もする。
 けれども、死んでしまえばそれはただの屍なのだ。
 
 ペットを愛していればこそ、その亡骸にはなんの意味もないと僕は感じてしまう。
「そこに私はいません、眠ってなんかいません」なのである。
 思い出も、思い入れも、肉体というカタチがあればこそのものなのかもしれない。
 でもその、思い出とか愛情とかは、カタチに依存していたわけではなくて、関係性に由来していたのではないだろうか。
 
 家に帰ると座って(あるいはどこかで寝そべって)待っている。あるいはこちらに駆けてくる。
 食事の支度をしていると(ごはんくれ〜)と鳴いて頭をこすりつけてくる。
 人がゲームに熱中していると足元で人の顔色を窺っていて、ひと息入れるタイミングで(膝に乗せろ〜、ナデナデしろ〜)と訴える。
 トイレの砂を綺麗にしていないと(なんとかしろ〜)と訴えにくる。
 ベッドの中でねんごろなガールと身体を重ねようとしていたりすると(寒いからオイラも仲間に入れろ〜)と間に割って入ってくる。
 
 これは僕と僕の飼っていた猫との記憶の一部だけれど、僕には彼の亡骸との思い出はない。
 亡骸をも大切にする人と比較して、僕には何かが欠如しているのだろうとは思う。
 ただ、その「欠けているもの」はどれくらい大切な、重要な、あるいは必須のものだろうか。
 
 もちろん僕だって埋葬できるときはする。
 剥製にできるなら、するかもしれないし、しないかもしれない。
 捌いて食べることが可能なら、食べるかもしれない(僕にとって、それはひとつの、自然な供養のカタチだ)。
 ただ遺影を飾るとか、墓を用意するとか、人に可愛さアピールして回るとか、そういうことで愛情を表現することに価値を見出さないのだ。
 
 そういうところで僕はときどき誤解を受けるし、その自覚もある。
 彼ら彼女たちのいう「ペットを大事にすること」の概念には、死体とその取り扱いが含まれていることも分かる。アタマで分かるだけではなくキモチも理解できる。
 
 ただそれでも、死体はもう鳴かない。
 玄関にお迎えになんか来てくれない。
 オヤブン、エサくれよぉ〜! オヤブンいっしょに遊ぼうぜ〜! なんてわがままも言わないし、部屋の隅で僕がうなだれている時に(どしたの? ねぇねぇ、どしたの? オヤブンおなか痛いの?)なんて具合に様子を見に来てくれたりしない。
 寒い夜に(オレだ入れろ〜! オレを布団の中に入れろ〜! オヤブン、オレだよオレオレ!)と騒いだり、夜中に不意に野生の呼び声に目覚めて狩りごっこを始めたりもしない。
 椅子の足元にちょこんと座って(ご主人、遊ぼうよぅ)とこちらの顔を窺ったりはしないのだ、死体は。
 
 ペットがいなくなれば、それは悲しいし寂しい。でもそれは僕の勝手な感覚で感情だ。
 そして当のペットはといえば、もはや何も感覚しない。
 だからそこから先は、飼い主のエゴでしかないと僕には思えてしまう。
 動物霊園に弔って、当のペットが(ご主人、嬉しいぜ)とかなんとか言うならともかく、言わない。少なくとも僕は聞いたことがない。
 それなら新しいペットと一緒に暮らして、餌をあげたり叱ったり噛まれたりする関係をまた作ればいいじゃないか。
 
 ペットの死体を燃えるゴミに出すのは、生命を軽んじている訳ではない。
 むしろ死を軽んじているといっていいだろう。
 確かに僕は、死んだ人に対しても平気で悪口を言う。
「死のうがなんだろうがクズはクズだ」と言い放つ。
 生きている人の判断や考え方は常に尊重するが、たとえば死ぬことによって何かを他人に強要するようなことがあれば「クズだなぁ」と思うし、それは生きている人間が行っても同様だろう。
 むしろ生きている人間が相手であれば手も打てるし改善もできる。それができないぶん、死人はタチが悪いともいえる。
 
>>>
 
 ゲームなどでも、死んだ(プレイを継続できない)キャラクタを執拗に攻撃し続けることを「死体蹴り」といって、基本的にはあまり良いこととはされていない。
 死人に口なし、ともいう。
 相手は反撃できないのに、一方的に攻撃できる状況が道義的によろしくない、というのは確かに分かる。
 
 一方で、死んだというただそれだけで、生きている間はその人をないがしろにしていた人たちが「家族思いのいい人」を演じる場面もたびたび見てきた。
 介護サービスを受けていて、サービス中の不慮の事故で亡くなった方の遺族が、事業者を訴える、なんて今でもあることだろう。
 
 これらは人が死という境界にバイアスを掛けている可能性を十分に証明している。
 生きている人間と死んでいる人間を比べると、死んだ人間のほうがちょっと「いい奴で尊重されるべき」存在になっているのだ。
 それを逆手にとって自殺をすることで周囲との人間関係をコントロールしようとする人もいる。
 
 なんらかの痛みや苦しみから逃れるために自死を選択する人がいることは、たしかに悲しい、というより嫌なことだ。
 それでも自分の感覚や記憶を一切遮断できるという意味で、有効な手段であるとは思う。
 しかし自死を選択する人の多くは、自分以外の人のこと、特に自分の葬儀や埋葬をする人のことを考えているのだろうか。辛いのは分かるが、独善にすぎないだろうか。
 少なくとも僕は、希死念慮があるにもかかわらず、他の人のことを考えてしまってみだりに自死ができない。
 
 身勝手な自殺よりもやっかいなのが、必ず未遂に終わる自殺を演じるタイプの人だろう。
 オトナの仮病の重症版みたいなものだ。
 盛大に目立つ自殺未遂をして(方法について書くつもりはない)、怪我や体調不良を起こした人間に「なんでちゃんと死なないの?」と言う人はたぶんいない(僕なら言うかもしれないが)。
 その人は自殺未遂をしたことで周囲から大切にちやほやされて、場合によっては悩みなどの問題が改善されることもあるだろう。
 しかし問題解決の方法としては子どもの嘘泣きや仮病とおなじくらい、幼稚でみっともない行為だ。
 大人がするべきではない。
 自分の健康と引き換えに周囲をコントロールしようという浅ましさはある種のファシズムでもあるから、社会から排除されてもいいようにさえ思える。
 
 死を普段から意識しないゆえ、すぐそばにあると考えないから「その人が死んでしまう」ということを特殊だと思ってしまうのだろう。
 その特殊さがバイアスを生むのだろう。
 
 結果として、明日も明後日も永遠に生きているという前提で他人と接する。
 生きている人間をないがしろにする人を僕はたくさん知っている。
 そういう人たちが、死んだ人に対しても同じようにしていれば、僕は特に何も思わない。
 ただ、死んだ途端に「いい人だった」とか「仲良くしていたのに」とかいうのはどういうことなのだろう。
 
 生産終了するお菓子や、閉店するお店に対しても同じである。
 普段からその商品を買い、その店に通っていれば、その商品は、お店はなくならないのだ。
 終わると聞いた途端に「いい店なのに」「大好きなのに」と言い出す神経が偽善に感じられるる。
「ある時期から飽きていた」とか「昔は良かったけどそれほどでもないから役目は果たしたんじゃないか」という意見がもっとあってもいいと思う。正直に言ってもらいたいと思う。
 おそらく社会が醸成している「常識的な善人」の像を気づかず演じているのだろう。
 
「常識的な善人」は、普段は購入しなくなったものがなくなるときだけ過剰に惜しんで、親の介護を公共事業にまかせて、死んだらその事業者のせいにする。
 生きている人間はそれほど大事ではないが、死んだら大事だった人にすり替わる。
 その偽善が鼻持ちならない。
 仮にそういう偽善の人が周囲で死んだ場合「こいつは生きている時から本当にロクデナシだった」と僕なら言うだろう。もちろん生きているときにも言うだろう。
 死んだくらいで善人に昇華されてたまるものか。
 
 死体蹴りをしたところで痛い思いをするのは自分だけだが、生きている人間を蹴れば、まず相手が怪我をする。
 当たり前の事だ。
 
 だから死人を悪く言っても、生きている人には「何か事情や考えがあるのだ」と考えるようにする。
 たしかに僕の持っているバイアスは、他の善人どもとは逆方向に向かっているのだろう。
 どちらが正しいとは思わない。それぞれが好きにすればいいことだ。
 
>>>
 
 とにかく僕には死と生の境界が曖昧というか、そこに連続性の分断を感じないというか、その分断に高低差を感じないというか、そもそも生きていることを連続性のあるものと認識していない。
 
 生きていることは、連続していると錯覚できる程度には長いのかもしれないが、死ぬことは分かっている。その連続性が必ず失われることは明白である。
 自分でも他人でもそれは変わらないから、毎朝、僕はおはようのキスを恋人とするように「今日も生きているのか」と自分の意識を思う。
 
>>>
 
 生と死に境界はなく、虹のようにグラデーションして連続しているという概念がなかなか浸透しないのは、人間の意識や思考が、中途半端にデジタルになっているからなのかなぁ、と思ったりもする。
 
 以前、ある華道の先生に教えて頂いたのだ。
「花器に活け、萎(しお)れ散ってもその様の侘び寂びさえをも愛でてこそぞ」と。
 
 実際に、新芽を活けることも枯れ枝を活けることもあるわけで、そこには単なる花ではなく、誕生から死に至る生命のサイクルが表現されているのでもある。
 
 先生の言っていた「愛でる」は「かわいいかわいい」「綺麗きれい」と褒めそやすことではないのだろう。
 ただ見て、ただ感じる。
 綺麗と感じるかもしれないし、哀れを感じるかもしれない、醜いと思う人もあるかもしれない。
 
 少なくとも、ただただ綺麗に咲いている、咲こうとしている瞬間だけを見せる切り花よりも、感じることに奥行きが生まれる。
 萎れた茎も、散って変色した花びらも、その花の姿には変わらない。
 
 散ることを美しいとするのは、日本に固有の文化かもしれないが、現代社会に発展した綺麗なもの、いいことばかりをもてはやす風潮には、少々食傷気味で白けてしまう。
 
 無常であることの味わいは、だから、そこに断絶や無価値を見出さない。
 無から誕生したように、無に還ってゆく一連の流れは、断絶なく連続しているものだと感じられる。
 生きていることばかりにフォーカスするから、生は変化という不連続な断絶をもたらす。
 無にはじまり死に終わる課程を生と考えれば、生は連続性を持った変化であり、美しく成長するときと同じように、衰え散る姿もまたその成長の姿なのだ。
 
 散った花びらは、猫の死体と同じように僕は捨ててしまうだろう。
 それでも散る様や死そのものは、特別なものではなく単純に、いつもそこにあるものなのだ。
 死も生も特別ではないからこそ、そこにあるものをできるだけ先入観なく、ありのまま感じられればと思うようになった。
 
>>>
 
 死は、少なくとも僕にとってはいつもそばにいるものだ。
 
 そして無常のなかのうつろいすべてにある美しさであるとか、今というものの儚さを「愛でる」視点を知ったとき、僕は初めて死に愛されているのだと知った。
 思い知った。
 
 そうなのだ。
 最初から。僕が彼女を好きになるよりはるかに以前から、僕は死に愛されていて、静かに見守られているのである。
 
 最後、彼女にカラダを重ねてしまえば僕は死んでしまうだろう。
 それさえもいとおしく、僕は僕と僕の周囲の生と死を見つめる。
 
 死がそこにあるとき。それは彼女の優しい吐息のような気がして。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Ecology-Eternal-Kidding-Life-Love-Memory-Rhythm-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Transistor-
 
[Object]
  -Cat-Night-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  -暗闇エトランジェ-:-いのちあるものたち-
 
 
 
 
 
//EOF

 一年ほど前、おかゆすら消化できずに眠っていた期間がひと月ほどあった。

 少量のビタミン剤(規定量では戻してしまう)と白湯で乗り切り、運動機能も回復させ(まっすぐ歩くのがしばらくはむつかしかった)、少しずつ食事も摂れるようになり、一度は大きく減った体重も少しずつ増えていった。
 そして気がついたら、また腹が出てきた。
 
 お腹の贅肉が気になったのは、およそ10年ぶりである。
 30代になったばかりのある日、お風呂で足首を洗おうとして膝を胸に寄せた際に「うぐ!」となって、その日から腹筋をし、3年くらいかけて戻した。
 
 つまりあれからさらに8年前後をかけて、僕は私腹を肥やしたことになる。
 慣用句的な意味とは異なるので私腹(物理)を肥やしたと表記すればよいのだろうか。
 
>>>
 
 僕は基本的に、他人に自分の身体を見せることを忌避する。
 とはいえ温泉などに行くとパブリックスペースであるにもかかわらず、真っ裸で歩くことには抵抗がない。
 混浴であってもあまり気にしない性質である。
(もっとも、混浴の浴場でやけに気色ばんでソワソワしているのは男性ばかりであるように観察されるが)
 
 僕にとっては、単にお風呂やサウナは皆が裸でいる場所だからという認識なのだけれど。
 
 一方で夏場の一般的なパブリックスペースで、膝から下を露出したり、肩から先を剥き出しにしたり、おへそを出すのは嫌なのである。
 恥を知れ、と思うのである。
 男性でも女性でも、恥ずかしいなぁ、と思うし、見苦しいとも思う。
 
 説明するとちょっと長いかもしれないが、成人がみだりに肌を見せて歩くのは、幼稚なのか、白痴なのかのいずれかであるような気がして仕方ない。
 ムダ毛があるというのはある種の獣性を放置しているということでもあり、体毛が比較的濃い方でもないのに、すね毛などを隠したいと思ってしまう。
 ゆえにスニーカーソックスなんていうのはガキの履くものだと思っている。
 最低でも膝下まで、できれば膝まで隠したいし、膝から上の肌はヌードっぽいセンシティビティを発露する気がして、やはり隠したくなる。
 
 あれを平気で露出している成人というのは、他人の感覚に無神経なケモノか、自意識過剰に若さを見せびらかしたいガキなのではないか、と疑ってしまうのだ。
 
 無論、そういう「プレイ」を楽しみたいという人もいるだろうし、(気候のせいだろう)肌の露出に無頓着な東洋人は多いから、あくまで自律として行なっているだけで、たとえ恋人であろうと、身近な人に注意をしたりしたことはない。好きにすればいいと思っている。
 
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 たるんで出張ったお腹も同様である。
 恋人が27人いた頃は見る者もいたし撫でる者もいたが、今、僕のお腹を撫でることができるのは僕だけである。医者も撫でない。
 それでも僕は、腹が過剰にたるむと不安になる。
 かといって「これでもか〜!」と鍛える精神力もないし美学もないし自己顕示欲も自意識過剰さもない。ナルシストのくせに。
 
 要はなるべく目立たないことによってナルシシズムが満たされるのね(口調が変)。
 変に目立たないことは、美しいことだと思っているから、SNSで目立ちたくないし、日常生活でも人目を引きたくない。
 一方で、レストランとかに(友達もいね〜からよ)1人で出かけて、フロアのど真ん中の席を案内されると「待て〜、俺を主役席に連れてくな〜。どっかにもっと見映えするカポーとかいるだろ〜」と内心毒づきつつも、すました顔で着席するわけです。やっぱりあまり気にしない。
(和式の上座/下座の概念の方が僕は苦手)
 
 見せるものではないけれど、その人の筋肉のつき方とか、神経の細やかさというのは立ち居振る舞いに出るものだから、速すぎず遅すぎず、強すぎずガサツではない居ずまいを保ちたいわけです。
 そんなにしゃちほこばることはないのだけれど、お酒を出す店でナナメになって、肘をついて、よろめいて、他の人の靴を間違えて履いて、トイレを汚してそのままにして、帰り際に人やドアにぶつかって、当たり前の顔をしている成人(オトナかどうかは永遠の謎)もいるわけです。
 
 その店が価格的に高かろうと安かろうと、そういう人は一定の割合でいて、それこそだらしないなぁ、と、部屋の掃除を3ヶ月していなかった僕は思うのです。家の中がゴミだらけになっている僕は思うのです。
 だらしない人たちが家族連れの場合、まぁだいたい全員がひどいものなので、観察しているととても楽しい。
 
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 見せるわけでもないのに体型をコントロールするのは、20代の頃、アルバイトをしていた飲食店の店長の言葉があったからだ。
 
「青猫くんは、体型が綺麗だから安心して信頼できる」
 初めて聞いたときは耳を疑ったものだ。
 当時の僕はまだ入って未経験から2ヶ月くらいしか経っていないひよっこ。安心も信頼も、そもそも1から仕事を教わっている身の上なのである。
 
 それに当時はいくら食べても太らない体質だったので、その旨を説明したところ、
「病的に太ることと病的に痩せることは同じだから、バランスがよければいいんだ」と言われた次第。
 当時は僕も若かったので、イマイチ理解できなくて(なんで? なんで? 痩せてるのと太ってるのは真逆やーん!)と質問したところ、
 
「病気でもないのに病的に痩せていたり太っている人間は、自制ができないというのが一点。
 ついで、自意識過剰で自分の欲求や自分の理屈ばかり考えがちなのが一点。
 周りが見えないから美的センスも自己認識も歪んでるのが一点。
 
 僕らの仕事は、お客様に心地よく過ごしてもらうことだ。
 コモンセンスが分からない人間には務まらない。
 
 一方でお客様にはいろんな人がいる。
 短い昼休みに来てくださるサラリーマンもいれば、近所のお母さん友達(今でいうママ友)と子供を連れてゆっくりしたい人も来る。
 お金をやりくりして頑張ってやってくる学生のカップルもいる。
 それぞれの人の個別の事情を理解できなきゃならない。
 
 個性はあったほうがいいけれど、個性しかない人間は少なくともこの業界には不要なんだ。
 自制がきかない人間は、そもそも社会人として失格だ。
 僕らは一般のランチタイムやディナータイムに、美味しそうな料理を美味しそうに提供するんだ。心のこもったサービスで、もう一度来ようって思ってもらうのが目標だ。
 自分のことしか興味のない人間は、マナーの悪い客になるのがせいぜいだ。
 
 身体と立ち居振る舞いで、そのくらいは分かるよ」
と。
 
 その店長は、たしか僕の3、4歳上ではあったけれど、(5年経ってもこんな風になれる気がしねい)と戦慄した。
 
 ファストフード店はおろか、ファミリーレストランでも、下手な個人店でも学べないくらいたくさんのことをその人には教わった。
 
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 ために病気でもないのに体型が崩れると、見せるわけでもないのに慌てる。
 背筋がない人間は、背筋が曲がっている。
 飲み屋で椅子の背もたれやテーブル、カウンターに身を任せている人間は、こんにゃくだから人間ではないと思ってしまう。
(オレは猫だけどよ)
 
 おなかの皮が服をだらしなく膨らませている人を見ると「オトナってなんだろう……」と考えてしまう。
 
 汚れたトイレを見ると「これを汚したオマエにも、家族がいるんだろう?」と質問したくなる(黙って掃除するが)。
 
 齢を重ねるうち、以前はまったく必要を感じなかった大胸筋や腹筋、大臀筋、ハムストリングスまで「貧相でない程度の見た目」を保つために必要だと思うようになった。
 ギターを弾くには握力も必要だ(そしてなにより第6弦が必要だ)。
 
 かの人とは、15年ほど音信不通である。
 それでもあの日々に学んだことを、僕は忘れずにいて、体型が崩れるたび、いい加減な所作をするたび、激しく焦る。
 
 引きこもりで週休6日以上の日々なのに、自分の自制度合いをモニタして、筋トレをする。
 
 
 
 緊張感のある良い日々だったことを、幸せに思う。
 
 運動が終わって、お風呂に入ってこれを書いている。
 風呂から出たら、料理を作って酒を飲むだろう。
 
 1人でいて、毎日が本当に楽しいと感じる。
 
 
 
 
 

 と、そんなに大げさなことを考えているわけではないのだけれど。

 

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「ブログはオワコンだ」という風潮が一部にはあるらしい。まぁそれ自体はどうでもいい。

 そもそもブログはコンテンツなのか、メディアなのかという疑問がある。

 Webという仮想空間上にHTMLによって構築されるすべてがコンテンツであるとするならば、<body>タグをもつすべてのWebページはコンテンツであると考えることもできる。

 

 じゃあコンテンツ集約型サイトに、まともなコンテンツが集約されていない場合(たとえば動画や配信者が一切存在しないYoutubeや、商品ページや出品者ページの存在しないamazon、ユーザやノートの存在しないブログ)がどれだけコンテンツかと尋ねられると、ちょっと首をひねってしまう。

 

 コンテンツ集約型サイトの場合、それ自体もさることながら、大切なのは「集約されたコンテンツ」のほうであろう。

 そちらを主眼に捉えた場合、コンテンツ集約型サイトは(情報媒体として)メディアであり、「オワコン」ではなく「オワメディ」と表現した方が適切なのではないかと、日本人の言語崩壊をきょうもおじさんは心配してしまうのである。

 

 個人的には、集約型サイトなどはメディア/コンテンツ両義のメディアコンテンツであり、ミドルメディアとか、ミドルコンテンツといったように(ミドルウェア的な言葉を使って)表現できればよいのだけれど、「ハード」と「ソフト」の中間であるところの「ミドル」ウェアと異なり、「中身」と「媒体」を区分けする中間地点を指し示す言葉はないようだし、必要ないのかもしれない。

 

 ちょうどamazonから届く箱に「箱in箱」になる商品があるから、箱入りの箱を注文すると「箱in箱in箱」になるかもしれない。まぁ、そんなことはどうでもいいのだけれど。

 

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 Y!ブログが閉鎖されると聞いて、僕がCMSに求める機能についてあらためて考えた。

(※CMS(Contents Management System):テキストや画像・動画などのWebコンテンツを作成・編集・保管・閲覧するためのシステム。「コンテンツ集約型サイト」の多くは、閲覧用ページを作成するためのページを持っていることがほとんどである。CMSありきのWebサイトはもはや常識であり「阿部寛さんのホームページ」などはきわめて稀なケースだと考えられる)

 

○カテゴライズによる分類機能があり、可能であれば枝を作れること。

○公開レベル指定ができること。

○サイト内検索機能を持つこと。(これにより独自タグ機能を実現できる)

○検索結果を特定の要素でソート(逆ソート)できること。

○日時を含むメタデータを可能な限り編集可能であること。

 

 これくらいの機能があれば、だいたいのことは好きなようにカスタマイズできると思っていた時期が僕にもありました。

(過去形)

 

 Year. まいったッス。

(ちょっとポップにキメてみました)

 L社とS社は、そこに集まっている発信者にあまりにも古式ゆかしい「業者」っぽいものが多かったので避けました。

 H社とこのAmebaに併設したわけです、旧コンテンツはこのAmebaに移設しましたけれど。

 H社は(エンジニア系という潜在的位置づけが確立しているフシがあるので期待したものの)サーバが不安定なのかシステム構築が下手なのか、私のMacが古すぎるのか「カッコイイことを実現しようとしているせいで動作がひたすら重いExcelで作ったVBのソフト」みたいなことになっている。

 正直なところ、どれもこれも使いづらいのだ。

 

 Y!ブログがすべてよしとは思っていないし、コンテンツ集約型サイトの宿命として、さまざまなユーザの要望に優先度を付けて実現する必要があるのはしごく当然のことと思う。ましてこちらはCMSをタダで使ってなんらかの情報を引き抜かれる運命にあるわけだからとくに文句も言えないだろう。タダでメタデータを引き抜かれているにしても僕などは少数派の人間だから、メタデータの有効性を引き下げる役割しかしないような気さえしてくる。

 

 ただY!ブログの面白かったところは、アクセスするユーザの権限レベルがIDごとに設定されていて、ブログ管理者(青猫工場であれば私自身)さえも例外ではなく、パーミッションにもとづいて動的ページが構築される。

 しかもその上、トップページに特定カテゴリ専用の表示スペースがあったので、トップページを表示させるだけで(つまり誰もが最初にアクセスできるページで)、ゲスト用のページとリーダ用のページと、作者用のページを表示することができた。

 

 この「作者用のページ」に、たとえば「記事の作成/編集」「タグ集約した特定文書の抽出とソート」「外部リンク」などを用意すれば、そのまま別タブで該当ページを表示することができた。

 

 しかし現在利用しているCMSは、

「読んでいて誤字などを発見してから訂正するのがすごく面倒」

(リーダ画面に、権限を参照した上で編集ボタンが表示されてもいいと思う)

「読んでいて新しい文書を書きたくなったときの手間が面倒」

(ブログトップに作者用のメニューがあってもいいと思う)

「ちょっとしたメモ書きをしておいて、それを確認するのが面倒」

(パーミッション基準で、特定ページを常に表示できてもいいと思う)

「下書きした大量の文書を探すのが面倒」

(いつ書いたか分からない、タイトルも思い出せない。そんな文書を探し出すことが、作者にも困難なシステムなのです)

「過去の文書と現在の文書を紐付けする機能に乏しい」

(私のように手動でしたい人もいるわけですよ。希有でしょうけれど)

 

 これらは僕からすると、CMSとしては非常に不完全。

 不完全オブ不完全。すなわち完全? いいえ違います。

 

 少し困っているから、どうするか考えている。

 Evernoteによる公開ノートでもよいのだろうけれど、ブログのコメントのように一つのページに個別にテキストと日時が集約されるようなメモがあると便利なわけで、ちょっと悩むのである。

 まぁ、こういったことまでいちいち書いてしまうのが、露悪趣味なことなのかもしれないが。