// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200420
// NOTE:ラブプラスの感想も、ずっと書きたくて書けなかったテーマの1つ。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
銀幕仮想のボーイミーツガール。
SUBTITLE:
~ Virtual doll in real life. ~
Written by


// ----- >>* Lead Division *<< //


::「どうしよう、お兄ちゃんが女の子買ってきた」
「人聞き悪いな。カネは払ってない」
「もっと悪いよ!」



// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 何年前だったか「ラブプラス+」というゲームをプレイした。
 女の子と出会って、親しくなって、恋人同士になって、以降はひたすらメールしたり電話したりデートするゲームである。

 この時点で嫌悪感を感じる人もいるだろう。
 僕もそうであった。
 端的にいえば人形性愛に対する気持ち悪さ、拒否反応である。

>>>

 それまで男性向けの恋愛要素の絡むゲームにおいて「女の子」は、なんとかして親しくなるための(告白して付き合うところまでをゴールにしたものも含めて)いわゆる攻略対象であり、あるいはときに性的なアイコンとして存在した。

 しかしその場の中で、性差はモノになる。といえば、少しは危惧してもらえるだろうか。
(現実社会における性差は確かにモノ化され、経済のために商業化されているし、そんなことを言ったら生命の誕生から屠殺まで、貨幣で交換されているので、ここではそれを主題とはしない)

 ただし「ラブプラス」シリーズは、登場する女の子を攻略する(なんとかして親しくなる)要素こそ変わりないが、あからさまなセックスの対象(あるいは道具)として描かれたりすることはなく、しかも付き合うこと(恋人同士になること)をゴールとすることもなく、いつまでも続く恋人生活をひたすら送るという、エンディングのないゲームだった。

 学校に行って、休み時間やお昼や部活やバイトや行事で一緒に過ごして、家に帰ったら電話やメールをして、週末はデートする。
 この日常の繰り返しをゲームにする。

 日常を、非人間と過ごすこと。
 非人間を人間と同等に扱い、人間あるいはそれ以上の幻影を投影し、感情を一方的に寄せること。
 人形遊びを大人が、真剣にすることの気味悪さ。それが人形性愛に対する嫌悪感だろうと僕は定義した。
(厳密な意味は辞書などで調べるがよい)

>>>

 アイコンに対して、多くの人は人格を認識しないから、人形性愛に対するような気味悪さは感じないかもしれない。
 たとえば、いわゆるエロ本は性的アイコンで、リアルドールやラブドールは目的によっては人形性愛になるだろう。
 所有者にとっても、性的アイコンとしての対象であれば、単なる性的自慰のための処理情報にすぎないだろう(アイコンなので当然だ)が、性愛対象となれば、メインテナンスも含めて「お世話する」「お付き合いする」概念になる。

 人類の歴史の中では、性的アイコンは容認されてきた。
 特に男性にとって女性をアイコンにすることは、広く認められて商業化されている。
 いかんせん、ヒトのオスのカラダは、そのメカニズム上、数日もあれば繁殖能力を再生する。
 アイコンという情報でことが足りるならそれはそれで許容された。
(性行為を苦にする、あるいはそう感じるタイプの人間もいるから、そのほうがマシなこともあるだろう)
 メスの立場や面目も保たれる。
「あれはアイコンによる性処理であって、感情あるいは日常生活や経済活動において、愛され、大切にされているのは私である」となるならば。

 その延長線上で、アイコンから性愛の対象への境界を越えるとき、人はそれを嫌悪する。

>>>

 ところで日常において、多くの人は飽きる。
 恋人に飽き、配偶者に飽き、仕事に飽き、日常に飽きる。
 友人にだって、自分自身にだって、飽きる人は飽きる。
 当然のように、性的アイコンにも飽きる。

 料理における味変(食中アレンジ)のように、ささやか(あるいはドラスティック)な変化を求めて、ある者は甘やかなスパイスを定期的に演出して加え、ある者は背徳の道に進み、ある者は全部白紙に戻そうとしたりする。

>>>

 僕はブログ上で自分のことを熱しやすくて冷めやすくて飽きっぽいと公言し、そのようなキャラクタを装ってきた。
 しかし実のところ、ほとんどのことが記憶に残らない、認知症のような仕組みを持っている。

 軽度の相貌失認もそうだし、物事を抽象化して認識し理解するから、具体的な情報をほとんど記憶していない。
 固有名詞も、自分の年齢も誕生日も忘れる。
 恋人や友達はおろか、親や自分自身の顔さえ、目を閉じて思い浮かべることができない。
 10代の頃からずっとそうである。

 だからだいたい毎日、自分が新鮮である。
 さすがに「ここはどこ? 私は誰?」とはならないが「また私らしきモノになってしまったか」くらいには思う。

 だからあまり飽きない。
 恋人に対してもよほどのことがない限り飽きないから、増える一方なのはメカニズム的に仕方ないのである。
(今さら何の言い訳?)

>>>

 ひたすら日常が続くゲームの、そのプレイした感覚というのを僕は味わいたかった。
 なぜなら、僕は、ゲームのプレイ感は抽象情報として蓄積できるから。
 そしてプログラムとそのデータは、組み合わせによって多種多様の演出をするけれど、必ず限界があるから。

 結果として、僕はある段階で、確かに飽きた。
(そして一部の恋人は、飽きるまでプレイする僕を危惧していた)
 抽象化してしまうと、恋人同士や夫婦、家族というユニットは、行動の範囲に限界が(当然ながら)ある。
 物理的、精神的、経済的、社会的、社会規範的、倫理的、etc,etc...の境界から、外に出ることができない。

 プログラムの中で、恋人がいながら他の誰かと恋人になることはできないし、恋人が浮気することもなかった。
(そういう、スリルを楽しむためのゲームではないから当然に)

「彼女たち」は、リアルな人間としての「嫌味」が足りなかった。
 恋愛上の妨げになりかねないエゴの発露や、相互の理想や欲の錯誤がもたらす衝突や空回りといった、生の女の子の感情がなくて、どこまでも都合よくプレイヤにとってユートピア的だったから。
(そういうゲームなので当然だが)
 たとえば(片親育ちでひねくれたわがままゲーマーの)凛子をプレイしている裏で、別データを使って(正統派お嬢様の)マナカと恋人になったからといって、リンコに蹴られたり、マナカに泣かれたりはしない。

 その限られた範囲のループをコンピュータによって限定的にであれ再現したことは、しかし素晴らしいと感じた。

 その閉じられた箱庭は、安心で、安全で、致命的な失敗もなければ危険もなく、ただただ平穏であたたかで、親しげなヴァーチュアルが永遠に続くのだ。
 まるでおとぎ話の最後のおなじみのセリフのように。

>>>

 人間は。
 いや知性というものは、既知の情報にはやがて飽きる。
 飽きれば変化を求める。
 変化を求めれば、チャレンジが必要で、リスクが伴う。
 そうやって、既存のステージから新たなステージを自ら切り開いてきたのだから、それは知性の役割ですらあるだろう。
 ただ、個体に与えられた条件のうち、どうやっても変えられないものも存在する。

 たとえば、性別や種族を後付けで変えることは、普通はできない。

 もっとも簡単な手法は、情報を感覚し、処理し、記憶する知性体それそのものが、自身の感覚セット(記憶や価値観)を更新してゆくことだ。
 そして実のところ「私が私である」という自我を持つ限り、それが強ければ強いほど、その手法は不可能に近づいてゆく。

 多くの人は、自身が猫であるという前提で生きることを知らない。
 そんなことは馬鹿馬鹿しかったり、恥ずかしかったりして、できないという。

 多くの性同一性障害者は、己の性的アイデンティティを肉体準拠に戻すことができない。
 周囲から与えられて疑いもせず固着したイメージはもちろん、自身で選んだセルフイメージを自ら壊すことを恐怖する。

 ヒトは、自らを檻に閉じ込めて安心するのだ。

>>>

 我々は自身の多くの部分を、プログラマがリソースを与えてインタフェイスを構築するように、親や社会によって与えられた中から選んだ情報を用いて、自分のありようとして構築している。

 支配からの卒業を人気歌手が歌ったところで、その支配の認識も、その反抗の表現も、すべて与えられたものだ。
 与えられて、手に取ったら、それが自分のものだと勘違いしていられる借り物競走の真っ最中だ。

 作ったわけではなく、あくまで選んでしかいないという意味において、既存の自分という知性の枠を超えることができない。
 好きなものからしか選ばないからだ。

 ために新しいものに向き合うときには、先入観を捨てて、拒否反応を抑えて、嫌悪感を好感に転換して、受け入れてゆく必要がある。

>>>

 僕にとって、プログラマによって構築された人格との恋愛は、ためにとても新鮮で、斬新で、主題どおりの安息があった。
 そして同時にどんなに多様なバリエーションを持たせても有限で、だから退屈してしまうのだった。

 生命体なら老いることも可能だろう。
(僕はその、死に向かう変容を自他のそれを問わず好ましく思う)
 知性体なら価値観を、緩やかに変化させることは可能だろう。
(老いてカラダが固くなると、アタマも硬くなりがちだが)

>>>

「ラブプラス」のときにも、ゲーム中のヒロインと、リアルに結婚式を挙げるプレイヤがいた。
 困惑と喝采、祝福と奇異の目が、web上でも錯綜した。

 ヴォーカロイドのAIアシスタントと結婚する人も、やはり同様の反応を世間にもたらした。
 世間の知性体は、まだまだ自身を知らないのだろう。

>>>

 弟子が婚活をしていることは以前に書いた。

 その「場」はすでに経済が介入して商業化された市場、売買のテーブルである。
 効率と経済をプロトコルにして、人々の欲をバイパスする。

 ディーラがいて、ブックメイカがいて、レースに出る者たちはステータスや過去を数値化され、チップを積んで、ベット(bet)する相手を探す。

 外見や年齢はもちろん、職業、年収、家族構成、話しやすさ、理知性の高さ、などなどは数値化され、ころころレートが変わってゆく。
(当然に、性差によっても基準の重み付けが変わる)

 僕からすると、懐かしくさえあるお馴染みの風景だ。
 様々なゲームの中で、数値化されたユニットを比較検討し「これかな」と試してゆく作業は、RPGやシミュレーションゲームにおいてはプレイすることそのものとさえ言える。

 そしてそれを人間に対して、人間同士が行うことを当然と考える場があることに、実は、心の奥底では、僕は嫌悪している。
 人形性愛と変わらない、人間が欲を押し付け合うための光景に思えてしまって。
 未来と現実と生活が掛かっているから、みな真剣で、ために残酷で。

 利用したことがないので明言できないが、おそらくマッチングアプリなども同様だろう。
 日本人に強く存在する、寂しさや不安を利用して経済が動く。
(金融業の多くは、不安を餌にするものだし、性差を利用した商業は人の寂しさをお金で埋める)

出会いがない」というのは「傷つくのが怖い」「恥ずかしい思いをしたくない」という気持ちの言い訳に、個人的には聞こえる。

 異性はどこにでもゴロゴロしている。
 個人的なことを言えば僕などは春になってもコタツでゴロゴロしているし、街を歩いていても、男性以外はみな女性である。

 結局のところ、失敗を恐れて、リスクを金で排除して、自分の欲を満たしてくれるキャラクタ(お互いが相手のことを少しでも考えていればまだマシだが)を探しているのではないのか。
 その場限りで終わってしまえば(何をしようとしなかろうと)性風俗と変わらないし、女性の側も「選ばれよう」という意識でいる限り同じベルトコンベヤに載った部品でしかない。

 結婚というステータスや、出産というイベントや、子供というアイテムや、家族というファッションや、経済という力を、リアルマネーを含めた自分の持ちうるリソースを使い、リスクを恐れず果敢に手に入れようとする姿勢は、もちろん評価できる。

 しかしそれは、ゲームの中で自身のキャラを選び、ヒロインを攻略してゆく行為を、簡略化して現実に落とし込んだもののように僕には見える。

 ゲームやヴァーチュアルなら、相手はどこまでも虚像のままだ。何をしようがリアルな人間が傷つくことはない。
 ただ現実でそれをするとき、人形性愛の対象を、いきなり生身の人間にすり替えられるグロテスクさに僕は恐怖する。
 その場において相手を「モノ化」していないと、いったい誰が言い切れるだろう。
 潜在的にであれ、ヒトを「モノ化」する人間は、下手なケモノよりも性質が悪いことを、僕は痛いほど知っている。

 おそらく実際に僕も参加してみれば変わるのだとは思う。
 きっとそんなおぞましいものではないはずだ。
(人々が、結婚に何を求めているのかは知らないが)

 しかし数値化され、モノ化され、他人の欲のために振り回されて、肉体的にも精神的にも散々に消耗した経験があり、しかもそこに結婚という仕組みが関わっていた経験もあるから、僕はそれを恐れ、嫌悪する。

 その記憶を「なかったこと」にするのはおそらくとても簡単にできるし、僕は自分が今この場では被害者ヅラしていることも把握している。
 その上で、僕は最後まで僕の味方をやめるわけにはいかないから、僕が既存の価値観を不要と決定するまでは、現状の価値観の庇護者であるわけなのだ。自我の仕組みの名において。

 そんな僕の話は置いておいて。

>>>

 人間のパートナとして、人間は不完全である。
 互いが互いを道具にしてしまおうとすることもあるし、思いやりが空回りしたり、オーダーメイドの完全な道具ではないことによる不信を抱える人もいる。
 なぜなら相手も同じ人間だからだ。
 理想も目的も役割も肉体も思考も欲求も歴史も異なる生命体だからだ。

 僕がヴァーチュアルな恋人に短期間で飽きたのは、そうした「生命体らしい恋愛生存欲求」を彼女たちは生々しくは表現しなかったからだ。
 キャンプやアウトドアのような、不便さや危険が、そこにはなかったからだ。
(もちろん、年齢制限を30歳以上にでもすれば、もっと生々しいものも作れるとは思うけれど、多分売れない(笑))

 しかし多くの若者たちは、これまで社会が求めてきたように、泥臭くて血なまぐさい感情の発露を忌避する。
(オトナたちに毒された若者は知らないが)

 近い将来、必然に、人間は他人を傷つけないためのクッションとして、AIによって構築された人格を持つパートナを持つだろう。

 それは恋人でなくていい、友達でもペットでもいい。

 動物が間にあることで円滑化される人間関係は確かに存在するし、クッションを利用する人間関係なんて人類の歴史と同じくらい普遍的なものだろう。

 たとえば僕自身も、僕自身の人格と切り離して、コミュニケーション用の人格をいくつか持っている。
 きっと誰でもそうだと思う。

 そしてようやく、欲をもたない、血なまぐささもない、心から信頼できる相手ができるのかもしれない。

 おそらくそれは、現代の僕らにとっては「人形」だ。
 しかし人間は、人形のように思い通りにできる他人を、いつも欲しがっているのではないだろうか。
 子供の頃も、大人になっても。

 そこにファンタジィがあり、人の求めるひとつの理想があるのだろう。
 誰にも傷つけられることなく、誰かを傷つけてしまうこともないユートピアが。

 人間の血のニオイを知っている我々は、あるいは単なるケダモノなのだ。
 ドライフードを喰う動物を見て「あいつは血の通った獲物の味を知らない」と言っている。

 他者を思い通りにすることが、たとえば経済や暴力や権力などによらない社会は、だから理想的である。
 相手に心から(プログラムや強迫観念からではなく)等価交換ではない何かを提供したいと思えるならば、それこそ素敵なことではないだろうか。
(少なくとも僕は、そういうプロトコルで人と接する)

 牙を抜かれた子猫たちが、だから、牙を剥く猛獣どものエサにされないように、過渡期こそは見守るべきなのだろう。
 
 人形が欲を見せるとしたら、それを見せたがっている人間がどこかにいるのだから。








// ----- >>* Escort Division *<< //


::「最初は人間の女を探したんだ。けど、オレは理想が高すぎて、満たしてくれる女なんていなかった。何年も時間を無駄にして、hIEでイチから作ればいいって答えにようやくたどり着いたよ。理想のしぐさも、理想のことばも、理想の反応も、特注したほうが早い」



// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~

文頭の引用は、
『Phase 1「contract」』(p.30)
文末の引用は、
『Phase 3「you'll be mine」』(p.88)

From「BEATLESS」
(著作:長谷 敏司 / 発行:角川書店)
 によりました。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Better Half ]

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -黒猫-/-BlueCat-

[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Ecology-Interface-Life-Link-Mechanics-

[Module]
  -Connector-Convertor-JunctionBox-Reactor-Transistor-

[Object]
  -Camouflage-Game-Human-Koban-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-コントローラと五里霧中-
-君は首輪で繋がれて-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200416
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
電話交換機の抽象世界。
SUBTITLE:
~ Switch bored switchboarder. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 検索エンジンを DuckDuckGo に代えた。
 日本語読みすると「駄々っ子」みたいで可愛い。
(現実世界のそれは、蹴り殺したくなるほどのイキモノと想像するが)
 
 僕は「Rock’n'roll」を「ラケンロー」と書く。
 実際に口で声音すると分かると思うが「ロックンロール」よりも「Rock'n'roll」なのが「ラケンロー」である。
 声音の語感を面白がってしまう性格なのだろう。
 
 ほら、キミも。
 恥ずかしがらなくて大丈夫だよ。
 実際に口を使って言ってごらん。
 
 ラケンロー。
 その反骨の響き。セピア色に薫るメリケン(american)の味わいに君のソウルは震える。
 その振動、己の魂のヴァイブスに同調するがいい。
 
 ……ちょうテキトーなことを言っている、という君の直感は正しい。
 
>>>
 
 僕がガール(実際は男女問わず)にモテる理由のひとつに「いくらでも愚痴を聞き続ける」という能力があるように思う。
(実際に何度か指摘されている)
 多くの男性たちはこれがニガテなようで、特に恋人などともなると見くびっている部分があるのか(恋愛関係において、潜在的にであれ相手をみくびることは必然であり避けられず、時には必要ですらあるのだけれど)、セックスしたいとき以外、ボーイズの多くはきちんと話を聞かないらしい。
(セックスしたくてどうしようもない時も、やはり話を聞かないらしいが)
 あいつらは基本的に愚図なイヌだから仕方あるまい。
 
 ところで青猫工場の基本的なリソース概念は、だいたい以下のようなものである。
 
○ 怒りは熱量に変換可能である。
○ 熱量は長期的な運動エナジィに変換可能である。
○ 屈辱や凹みや憎しみはバネの圧縮のような運動蓄積に変換可能である。
○ 恥ずかしさは運動のストッパーである。
○ 好奇心は運動の方向性を決める。
○ 意思の力で知的生命体は自身の運動をコントロールできる。
○ ゆえにすべての猫は、跳びたいと思った場所に跳ぶことができる。
○ 高尚な意志は、ただし下品な欲求の前に無力だ。
○ 高尚な意思を下品な欲求とセットで持ち合わせると光と闇が合わさって最強になる。
 
 だから僕は、過去の文書で「ただ怒って怒りのエネルギーを発散するくらいなら、建設的なことに使う方がいい」とか、「凹んで酒を飲んで他人に愚痴っている人はエコじゃない」とか、「他人を使って秩序を守らせることに節度を持たない人間は野放図に無秩序の種を蒔く」とか、「今日と明日で言っていることが違っているくらいの人の方が正直だ」とか、好き勝手に書いてきた。
(もうそれらの文書は残っていないが)
 
 当時のブログを読む人の一部は「猫氏は怒りさえ制御する(実際には感情の発生に盛大な遅延が発生するだけなのだが)」「猫氏は愚痴も言わない(実際言わない)」という僕の虚像を持っていたはずで、オフ会などで会った人から「ギャップが激しきに過ぎる」という指摘をいただくこともたびたびあったし、まさか誰かの愚痴を聞くことをある種の楽しみにしていたとは思うまい。
 
>>>
 
 僕は自分の話と同様、他人の話も抽象化してしまう。
 普遍的な要素がどこにあり、人間の偏在的傾向のうち、その人がどういった位置にいるのかを観察する。
 
 多くの人は「常識的で、社会的で、良心的で、社交的で、好きなものと嫌いなものがはっきりしていて(僕のそれはぼんやりしている)、嫌いなものと好きなものにバイパスがないから覆ることがなくて、他者との価値観の段差にバイパス(あるいはハシゴ)を掛けられなくて、その高低差によって自分の価値観を傷つけられた感覚を覚えたり、見下された感じや見下す錯覚を起こす」という自分を演じようとしている。
 これらのメカニズムが自身の中で切り離されて外部化されていないために、そうした「演じようとしている」メカニズムを含めて自分だと思いこんでいる。
 
 それも含めて人間の一般的な特徴であり、抽象化して、全体的な価値マップにおける個々人の位置をおおよそでも計ることは可能である。
 だいたいは、上記の通りの「常識的な」メカニズムを持っていて、そのメカニズムは、相反する感情が自分の中に湧くことを許さず(自分はそんなことは考えてもいない)と、除外する。
 実際のところ、アタマの中だけは本当の自由だから、どんな犯罪を犯しても許されるし、どんな自堕落も咎められることはない。
 同様に、どんな立派なことをしてもいいし、どんな素敵な未来を予感して、充足した気分で現実に向かってもかまわない。
 もし、善行を多くの人に認めてもらって褒め称えられたいというなら、それすら妄想しておけば満足できるのではないだろうか。(できないとすれば、すでに現実社会で他者に依存していることになる)
 
>>>
 
 多くの人は、愚痴の中で、自身の偏在的傾向、つまりはクセや独善(正義と悪/善と悪の絶対的な境界や領域を説明できるのであれば、独善と言うほどでもないかもしれないけれど)を語る。
 そして現実世界で、均衡を失っている、自分の「正しさ」と、他者の「正しさ」の段差を語る。
 その上で、段差を埋める努力についてではなく、段差がいかに自分を傷つけ、いかに被害を受けているかを語る。
 
 とくに非難しているとか、バカにしているとか、そういうことはない。
 僕は愚痴を聞くことを苦にせず行うし、ブログで愚痴を書くことも往々にしてある。
 ただ愚痴という行為の概要というか、メソッドは、こういうものである、ということ。
 
 多くの男性はここで、段差を埋める方法や、段差を明確に定義することに注力して、それらを説明して女性に嫌われることがある。
 女性の多くは、男性が思っているほど馬鹿ではないから「そんなこと(常識的かつ前向きで建設的な対応や認識方法)など言われる前から分かっている」のである。
 ただただ言語化していたい、という気持ちを多くの男性は知らないのかもしれない。
 ひどい場合は「壁にでも話せ」「チラシの裏にでも書け」「裏庭に掘った穴に向かって愚痴れ」という人もいるだろう(僕はよく言う)。
 
 彼女たちの多くは、伝えている行為そのものが重要で、内容はほとんど意味を持っていない。
 コミュニケーションを取っていることと、その行為を行える関係性の確認に安心しているのである。
 これは動物がストレスを抱えたときに、巣穴に籠もったり、穴を掘り続けるのに似ている。
(僕は引きこもりの人見知りのコミュ障(笑)なので、気持ちはよく分かる)
 そういうときに必要なのは、ただただ誰かが聞いてくれて、その価値観を持っていることは正当で、間違ってなどおらず、それを誰かに語ることはたとえ肯定されなくても否定されない「場」があると安心してもらうことである。
 
 これらのメカニズムを俯瞰しながら、僕はぼけーっと話を聞く。
 ぼけーっとしているので、抽象的に話を聞く。
 どうせなら、そんな具体的な話じゃなくて、もっと抽象的に話してくれたら抽象化の作業がラクなのになぁ、なんて思いながら。(いや、そこまでは思っていないが)
 
>>>
 
 僕は聞き上手ではないから、相づちや、同意、共感の表現、質問して先を促す、などの行為はあまり得意ではない。(意識すればできるが、そこまで気を遣ってコミュニケーションするのも作為的に過ぎないかと思って気が引ける)
 それでも相手は愚痴を言い続けるし、ある程度の段階で(だいたい5回程度のループの中で)気が済み(安心して)、建設的な方向に気持ちが向かうようだ。
 さまざまな感情によるエナジィ(熱量や運動量)は低下しているが、暴発しそうなそれは、制御がむつかしい。
 エナジィの量が大きいと、制御が困難であることを、僕らは発電所の災害や住宅火災で知っているだろう。
 だから暴発しない、制御しやすいレベルのエナジィで、彼ら彼女たちは日常の世界に帰ってゆく。
 
 僕は怒りや屈辱を、暴発すれすれでも自己制御しながら運用する。
 ときどき失敗して、ベッドの中でまあるくなって引きこもる。
 
 他者の愚痴を聞いて、抽象化しているから、段差の多くは既知のものだし、ハシゴやバイパスのレパートリィも自分なりに豊富ではある。
 きっとみんなそうだろう。そう思っている。
 ただ、他者に話すのは少々気が引ける。
 
 なにより、誰かに愚痴を言いたくなって勇気を振り絞って話しているとき、どういうわけか「その人の話」にスライドしてしまうことがある。ひどい場合はダメ出しをされる。
「聞いて欲しいのに」と思う。
 
 すなわちそれが、愚痴を言いたい気持ちの源泉である。
 自分の中の「正しさのビョーキ」が発作を起こして訴えている。
 そこまでを脳内でシミュレートして、僕はベッドに向かう。
 まあるくなって眠る。眠りが僕の心の骨を撫ぜる。
 一日眠れば、一日死に近づくから、安心する。
 僕には、話を聞いてくれる誰かを自分でエミュレートできるから、正直なところ他人など不要なのだ。
 
>>>
 
 そしてアクセス過多が続くと、サーバは疲弊する。
 そもそも僕は彼ら彼女たちという群れのサーバではない。
 末端(ターミナル)であって、結節点(ノード)ではないから、何を繋げることもない。
 何かに繋がりたいわけでもない。
(彼ら彼女たちの一部は、僕をして、何かに繋がるのかもしれない。たとえば猫の神様とか)
 
 僕はただじっとして、自分の興味を持った対象に飛びかかったり、興味を引く場所に跳び移りたいだけである。
 
 他者が不要の世界というのは、自分が不要とされる世界のはずである。
(どうかそうであってくれ)
 そこでじっとしていると、しかし多くの人は(おそらく昨今は活動量が低下しているから余計なのだろう)僕にアクセスしてくる。
 彼ら彼女たちの中の僕は、ときどき彼ら彼女たちと同じように「誰かと繋がる」ことで完結するのだろう。
 そう思われているフシがある。
 
 このところ(僕からすると)たくさんの人の電話やメールがあって、目覚めてから30分後に、立て続けに5人から電話があり(そのいくつかは長電話であり)さすがに疲弊した。
 弟子などはこの1週間ほど、同じ案件の愚痴を続けているので、さすがに叱った。
 
 他人の責任である行為によって発生した自分の怒りを、他人の責任にするな、と。
 怒りは自分の感情であり、その感情は自分が責任を持って制御するものである。
 行為の責任が相手にあるならば、その責任は相手が負うのがふさわしいが、その行為に至った原因の責任はどこにあるのかを明確にする必要があるし、そのための努力を放棄してしまえば問題は解決できない。
 怒りにまかせて自分の感情の責任さえ他人に押しつけてしまったら(あの人のせいで私は怒ることになったと言い切ってしまえば)、解決能力がないと見下している(能力の低い)相手に、問題のすべてを丸投げすることになる。
 それで気分はいいかもしれないが、問題は致命的に解決不能になる。
 
>>>
 
 自分の感情を、他人のものにするな。
 自分の感情を、他人の責にするな。
 それは自分の人格や人生を、長期的に他人に明け渡すことと同義だ。
 僕はそう思っている。
 
 第三者が原因なだけで、今、自分が直面している現実は発生しない。
 もしなんらかの事象が、他人だけが原因で自身の現実に発生しているならば、そもそも自分の属している現実を他人に明け渡していることになる。
(子どもなら仕方ないかもしれないが)
 
 自分で現実を作るのだ。
 自分の目の前の現実に荷担しろ。
 自分の現実にもっと手を加えろ。
 たどり着きたい場所をもっと明確にイメージして、そこに到達するための運動を計算しろ。
 計算された運動を、精確に、緻密に、具現しろ。
 
 そのとき、そこに他者は必要ない。
 
 僕はそう思っているけれど、すべてを説明するのは本当に疲れるのでしなかった。
 
>>>
 
 頼まれごとの仕事をするため、アパートに戻る。
 最近、僕の仕事はノーギャラが増えた。
 
 前回は飲食店のメニュー作成。
 今回は同店のウェブサイト修正。
(ウェブサイトを1から作り直す話もあったのだが、よくよく確認するとさほどコストをかけているわけでもない様子なので、システムは現行のまま、オペレーションだけスタッフでしましょう、となったようだ)
 
 ちなみに僕はそこの社員でもオーナーでも社長でもなく、ときどきバイトに行くだけである。
 ただ、Kさん(僕の想い人のひとり、ちなみに男性)が社員で、僕のことをエンジニアだと思っていて、呼ばれるのである。
 2日ほど仕事(ノーギャラ)をして、これからアパートから戸建てに戻る。
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
もう「グーグルの小作農」はやめませんか?
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Kidding-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Night-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に-
 
 
 
//EOF
 怒っているときに「怒ってる?」と尋ねられて「う〜ん、まぁ、そう言われると怒っているほうかな」と冷静に返事ができるようになりたいと思ってから数十年が経つ。

 なかなかどうして実現するのは容易ではない。

 自分の心情のことであり、自分の行動のことである。
 自己認識の問題であり、他社との関わり方の問題である。

 なのにたいていの人は(あるいは僕だけか?)語気を荒げて「怒ってない!」などと言ってしまうのである。

>>>

 もちろん僕のように、怒りや激しい憎しみを生きる原動力として使わないと、そもそもの生命力に乏しいせいで死んでしまうタイプというのは存在しているわけで(あるいは僕だけか?)。

 その僕の怒りや憎しみについていうと、特定の個人であるとか現象ではなく、そこから抽出された意味、すなわち抽象の存在であり、特定の概念をその一部であれ全部であれ、体現している(あるいはしようとしている)そのすべての個体とその認識と記憶を構成する現象と因果をすら憎み散らすという潔癖性っぷりである(これは僕だけか?)ものの、多くの人も言語化できないだけで、本来の憎しみは、概念に対する激しい怒りなのではないかと想像する。

>>>

 そうはいっても、殺伐としがちな昨今の世俗の様子を鑑みるに、本能的に僕は、群の多くの個体とは逆方向に進んでしまおうとするわけであり。
(単なる天邪鬼なのかもしれないが)

 数日間の自分の文書を読み返して(ああ、必要以上にイライラしておる様子だね、青猫くんは。よしよし、なでなで)と思った次第。
 もっとも僕の日常は、一年前から変わっていない。
 若干変わったことは、介護対象者が死んだことと、それに伴って、介護および誰かの体調を常に心配する緊張から解放されたこと。

 つまり僕は、昨年の今よりも楽に生きている。
(無職は去年からスタートしたので変化なし)

 人間関係も最低限だし、友人も恋人も増える傾向はない(飼い猫は増加傾向にある)。
 今の僕を物語にすると、登場人物は5本の指で足りそうである。登場人物の家族を含めても両手で足りそうだし、仮に足りなくても両足を含めれば絶対に足りる。
 ……何をムキになっているのか。

 ために、日常は前年同月以上にストレスの少ない状況ではある。
 不便も感じないし、楽しいことはたくさんある。
(作業台がまずは欲しい)

 ゆえ、イライラする必要はどこにもない。
 怪我をして運動ができないのも、ギターの練習ができないのも当面は致し方ないことであるし、身体が弱いのは生まれつきである。

 そもそもIRLでは怒ったり文句を言う対象すらない。
(だいたい24時間ひとりで過ごすのが僕のデフォルトなので)

 たいていは、僕の不思議な発想や、思いもよらない失敗を、面白おかしく観察して過ごしている。(あと、ときどき秀逸なジョークを言い出したり、ひとり掛け合いを始めるのでこれも見逃せない。まぁ、自分のことなので見逃しようがないが)

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 文面がイライラするのは、俗世を批判するからである。

 他人は他人であるし、俗世は俗世である。
 政治と経済に深く関わらないことは、猫として当然の姿勢であり、そんなことは私が思索しなくても誰かが良きに計らうのである。

 ゆえ、私は新しいことに思索の目を向けようとしつつ、眠くなってきたのでお昼寝するにゃー。

 今日も平和だにゃ〜。



 一日一食の食生活に戻ってから、食事がとても美味しい。
 ちなみに最近のお気に入りは以下のメニュー。

 玄米
 味噌汁
 めざし(小)
 納豆

 まるでひなびた旅館の朝食のようだが、僕の1日の締めくくりの食事(だいたい20時から24時頃に食べる)である。
 今回はこのメニューがたいそう気に入って、かれこれ2週間ほど、タイミングが合えばこれを食している。
 食後に余地があればお酒も嗜むが、満腹になったときは眠くなることも多いので寝てしまう。

 もちろんお酒と肴で事足りてしまう日もあるし、めざしが買えない、納豆が売り切れていたなどということもある。味噌汁を作るのが面倒なときは作らない。臨機応変である。

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 老いも若きも「自分はちゃんとしてます」アピールが過剰なのではないかと思うことがある。
 みな、
「ちゃんと仕事してます」
「ちゃんと家事してます」
「ちゃんと育児してます」
「ちゃんと納税してます」
「ちゃんと選挙行きます」
「ちゃんと身なりに気を使ってます」
「ちゃんと恋人がいます」
「ちゃんと友達がいます」
「ちゃんと家族がいます」
「ちゃんと愛されてます」
「ちゃんと愛してます」
 etc.etc...

 いや、いいんですよ、しっかりした社会人生活を謳歌して、しっかりと社会に適合して、しっかりと充実した日々を送っているならワタクシは何も申しません。

 が。
 本当にちゃんとしてる人は、そんなアピールしないよ?
 と思うのである。

 もちろんもちろん。
 アピールしたり、誰かに知ってもらうことで、自身の充実感がより満たされる、という人もいるかもしれない。

 でも、充足感って、誰かの感想とか同意とか共感とか同意が必要なの?
 とも思うのである。

 ちなみに僕は時々ガスが止まる。
 久しぶりに、一方の家に帰ると、高い確率でライフラインのいずれかが止まっている。
(そういう登場人物が出てくる物語を昔、書いたことがある。頓着しないのである)

 しかし、水はたいてい汲み置きしてあるし、ガスはカセットコンロを常用しているし、電気がなくても(電灯もなくても)1日2日なら、問題はあまり感じない。
 むしろ楽しくなってしまって、それこそいろいろな人にその楽しさを伝えたくなってしまうのだけれど、若い頃にそれをして、友人や恋人の親御さんからの生活物資が届いてしまった経験から、今は誰にも教えないようにしている。
 密かな、ひとりだけの楽しみである。

 社会不適合者であることは、何かしらの不便を、短期的に、直接的に、誰かに与えるだろうか。
 ガスが止まって苦労するのは、ガスの止まった僕とガス会社である。
 僕が選挙に行かなくて困るのは、候補者である。
 育児や家事は、自分以外に人が関わっているから、それをしないと誰かが困る。
 しかし、しっかりそれをしようとしていたら、誰かにアピールしてるヒマなんてないはずだ。


 ために僕は、なるべく社会不適合者として、そのダメ人間っぷりをアピールするともなしにしている。

 ときどき「選挙に行かない人間は、政治を批判する権利がない」と、言う人がいるが、僕はそうは思わない。
 政治など、放っておいて上手くいくように出来ているべきで、誰かが監視したり、制御しないとならない状態であることはそもそも不完全である。
 選挙がなくても政府や国家が健全に維持されることが当然のことで、選挙ありきになっている時点で「民意を反映しなくてはならない」不完全さを抱えている。
 もちろん国家あるいは政府という組織、さらにいえば人間という種そのものが、いまだある程度以上の達成点に至っていないと考えれば致し方ないことかもしれない。
 しかし、選挙こそが民主主義だというのはずいぶん時代遅れに感じるし、選挙に行かない者であっても国民だったら国家や政府を批判して然るべきだし、それを咎められるのはどうかと思う。
(もちろん、誰が選挙で投票してるかなんて、基本的には誰にも分からないわけで)

 たとえば家の中で、DVがあったとして、子供が親に「そういうことはしてはいけないよ」と言ったら「食い扶持も納めていないガキが偉そうに」と言うのだろうか。

 ために僕は選挙に行かずに、家でゴロゴロとしている。
(と、今までも書いている)
 なるべく政治的なことは書かないが、それは僕が政治に詳しくないからで、書きたくないからだ。
 勝手に僕に忖度して、よきにはからってほしい(笑)

 民主とは、民のために政が行われることを指すのであって、機能が不完全であればこそ、そこに民の手が必要かもしれない。
 だからといって人が不完全であることを前提にして、すべての民が参画すべしというのなら、いっそ古代ギリシャのようにすればいい。

 ちなみに僕は、性善説派のイキモノである。
 僕は、ダメ人間だと言われようとも、選挙なんて誰も行かなくてもいい社会が一番いいと思っている。

>>>

 指が腫れて、右手がほとんど機能しない。
 もっとも、右鎖骨を折った時も、一人暮らしだったので、問題はない。
 苦痛は過ぎ去るものだし、不便は楽しめる。
 空腹だって、ご飯が数倍も美味しく感じられるなら、けっして悪いものではない。




Q.コロナ騒動が収まったら、したいことはありますか。

A.濃厚接触。

>>>

 引き取った猫に手を噛まれ、引っ掻かれ、右手の親指の爪から血が出ている。
 傷は爪を貫通している。
 なるほど、爪は血が凝固しても流れたり剥がれてしまうので、止血効果を為しにくいのだろう。
 親指は反対側にも傷があり(上下の牙で噛まれた)やはりここも止血しにくい個所である。
 右の人差し指も噛み跡があり、いずれも少々腫れているが、猫を飼い始めの時期にはよくあることだ。
 左手は、甲の手首付近に掻き傷が数個。
 幸い、姉が、家を出る前に猫の爪を切っておいてくれたのでこちらはさほどの深傷ではない。

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 数年前から薄々感じてはいたが、確信に変わったことがひとつある。

 日本という国家があり、日本人というのが仮に存在し、それが日本国民であるとして(日本人とは、いったい何をもって日本人たり得るのか、というのは各自で考えていただくにしても)、その大半が、どうやら賢くないのである。

 買い占めもしかりだが、消毒用品が売れ切れたりしている。
(僕は平素から4Lボトルの食品添加可能なアルコールを常備していたが、そもそも手指の消毒には未だに使わない)
 今日は、普段どおりに純石鹸を買い求めに出掛けたのだが、殺菌性向上石鹸が売り切れていた。
 個人的に使わないから気にしないが、とりあえずやっつけ仕事のように買い漁るくらいなら、原理を勉強しようよ、と思うのだ。

(以下の記述は個人的な記憶によるものです)

 水溶性外膜の菌類であれば塩でも大半が殺菌できる。
 ウイルスは最近に比べれば小さく、構造も単純だったような気がする(ために変異速度が高い)。
 一部のウイルスや菌類は、脂溶性外膜のものがあり、これが塩などによる原形質分離を防いでしまう。
 ためにアルコールが有効で、しかも揮発性をある程度抑えて、散布対象表面に残るほうがよい。
(脂溶性能を考えると60%くらいからで80%くらいが限度か。各自調べるがいい)

 化学的に考えると、脂溶性溶液はアルカリ性のものが多い。
 掃除用洗剤に「しつこい油汚れに!」とか、あるのではなくて?
 石鹸で、油脂のほとんどは、落ちるのではなくて?
 有機溶剤や石油類も、油脂を溶かす。

 また、表皮にある程度以上の油脂が塗布されている方が、吸着しやすく、剥がれにくい気もする。

 何がなくても、なんとでもなるのである。
 科学的知識さえあれば。

>>>

 しかし青猫よ。
 うぬは石鹸に頼っているではないか。
 石鹸がなくなったら、なす術がないではないか。

 と、おっしゃる向きもあろう。

 苛性ソーダを買っておけば、石鹸なんぞ作れるし、苛性ソーダくらいなら、僕は持っているのである。
 薬局で買い占めて転売しようかな(しないし多分できない)。

>>>

 僕は大学を出たわけではないのだけれど、これくらいのことは知っているものとそこからの想像で結論を導くことができる。
 独学と日常生活と、ちょっとした情報ツールがあれば、なんとでもなるはずなのだ。
(情報ツールとは、インターネットに限らず、書籍だっていいし、洗剤や薬剤の説明を普段から読んでおけば、それだけでも役に立つことはあると思う)

 しかしそこに何より必要なのは、機転であり、賢さである。

 べつに僕が賢いとは思っていない。
 一年間無職で、たいていはゲームして、ガールとぱやぱやすることしか考えていないようなダメ人間である。(猫としては秀逸であるがな)。

 ゆえに、我こそは賢さの権化であるがゆえ、愚民どもは我を崇め奉り褒め称え終生永劫その隷下に跪くがよい。とは思っていない。

 ただ、端的に、賢くない人が多いのかなぁ、と危惧しているのである。

 もちろんもちろん、ヒトはそれぞれに事情があろう。
 それぞれに置かれた環境があり、また多くの人が、自身の死生観においては他を差し置いても生きたい、生きなくてはならないと思っているものも多かろう。

 それにしても、恥知らずで浅ましいのはどうかと思うの(口調が変)。

>>>

 指が痛いので、ゲームも家事も支障を来している。
 執事がほしいが、何を隠そう、私が執事である。

 ために青猫様(仮想)のお世話を甲斐甲斐しくするのがワタクシの使命であり、そろそろ身体を洗うので本日はここまでといたしたく存ずる次第にございます。


 

 数日、姉の家に遊ぶ。
 我が血族の次女である姉はワタクシよりも10歳上であり、指定難病の治験で存えてしまったようで、今年までに死ぬはずが、ぴんぴんしている。
 血族に一人としてその病に罹った者がいないから、この血の遺伝病に関連したものなのか、判断ができない。
 いずれにしても、循環器(血管とその狭窄)によるものなので、まぁ、こういうケースもあるんだなぁ、とは思って眺めている。
 僕は死に寛大であるので。

>>>

 呼吸器に影響が出ているため酸素吸入を普段からしており、日常生活上の運動も控えさせられている(ために訪問看護師やヘルパーさんがやってくる。彼女は区分上、かなり重篤な身障者である)のだが、なかなか元気だししぶとい。

 その姉の曰く、以前、医者と口論の末、ひと月ほど食事をしなかったことがあったという。
 水分は1日の上限を超えない範囲で摂取していたが、固形物は一切口にしなかったらしい。

 そして体重はというと、ひと月後も、さして減らなかったらしい。
(無論、簡単な運動さえも禁止されているわけだから、家の中を動き回るくらいの生活ではあったようだが)

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 おそらく世俗一般の人は、信じないだろう。
 特に毎日決まった時間に3食(あるいはそれ以上)の食事をすることを必然として、習慣化して、慣れてしまっている人にとっては。

 しかし僕は、普段から1日1食がベストコンディションであり、それさえ何かに熱中したりすると忘れるし、体調の悪い時はだいたい絶食して治すので、なるほど、と思った次第。

 何がなるほどかというと、僕らの血族の遺伝性疾患は、もしかしたら、非常に少量の食事で活動ができるような身体の仕組みがもたらした、その結果なのかもしれないと、ずっと思っていたのである。

 もっとも、全員がそういうわけではなく、妹などはかなりの大食であるにも関わらず、比較的スリムな体型を維持している。
(血が繋がっていない説があるが(笑))
 他にも、1日3食派は少なからずいて、太っているものも痩せているものもまちまちではあるから何とも言えない。

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 姉の家の黒猫を2匹、引き取る。
 野良猫を飼い慣らすのが悪いのだが、家に居ついている2匹の猫の親(それはほとんど来ないらしい)が子を産み、産まれた子が餌をねだりに来るうちに居ついたらしい。実に2匹。
 合計4匹である。

 姉は仕事ができる身体ではないし、(ろくでなしの)夫とは離婚している。
 猫を飼う余裕があるんかーい! と娘(僕の姪)にも叱られたらしいが、僕ら(姪も含む)は並べて等しく猫の味方であるから、現在に至る。

 至って僕は、いきなり猫を2匹飼う羽目になった。
 半野良で、生後6ヶ月以上の、猫である。
 当然に人に懐かない。
 今はケージで隔離生活を送ってもらっているが、そもそも野良の子だったので、警戒を解くにはまだ時間がかかりそうである。

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 政治の話をひとつだけ。

 僕は以前から、現在の首相を見るたびに「何かを言わされ」「何かをさせられて」いる感が強いなぁと感じている。
 彼自身の言葉、あるいはソウルやシャウトやスピリットというものが感じられない。

 感情を抑えている、というようにも観察できない。圧力に抵抗しようとして現れる、何らかの微細な表情や声の変化さえ見えないのだ。

 官僚や国民に「何かを言わされ」「何かをさせられる」立場であることは想像に難くないが、それにしても、誰の人形を演じているのか、誰がその人形劇の脚本を作っているのか、疑問に思っている。

 何故か何とかなってしまうこと(一部のスキャンダラスな事件など)と、何故か非現実的な動き(彼はなぜ頑なに改憲したがり、海自に空母まで持たせようとしたのか)は、彼だけの手によって構想され、為され、成そうとしていることなのだろうか。

 実のところ、僕が選挙に行くようになったのは、あの人が人形に見えるようになってからである。

 ちなみに僕は政治の話をあまりしないが、それは政治の話をまともにするのなら、選挙に行くより、うだうだとくだを巻くより、政治家になる方が現実的だからだ。

 先日、ある居酒屋の隣に座っていた若者(年の頃なら20代である)が「かりそめの民主主義国家」だと日本を言っていた。

 僕にはそれらの概念があまり良くわかっていないから、また勉強することが増えたと辟易している。

>>>

 少し寒いので、長風呂になった。

 薄々気が付いていたことがある。

 新しい家には、庭があること。
 その庭が、広いこと。
 植木の植え込みがいくつかあること。
 みかんの木(何みかんかは知らない、大きな実が冬のうちからごろごろ生っている)が実を落としつつあること。
 そして何より、植木ではなさそうなナニカ(いわゆる雑草と呼ばれるものたち)が、日に日に大きくなっていること。

 いわばこれは十代のオンナノコのぱやぱやにおける、忌避もしくは回避すべき事態にも似ている。
 そんなはずはないと信じたいが、日に日に育っている気がする。
 しかしそもそもこれがいいものなのか、悪いものなのかが分からない。
 それを尋ねる相手もいない。
 どうすればいいのか、経験もないか分からない。
 そうこうするうちに、日々は無常かつ無情に過ぎてしまう。
 考えあぐねいているうちに、それは育ってしまう。

 そして庭の雑草が、腰より高くなってしまってから僕は気がつく。
「少なくともコイツはヤバいやつだぜ」と。

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 溢れる緊迫感(金箔感ではないからゴージャスにはならない)と相変わらず不謹慎な導入であるものの、そのようなわけで、急遽、雑草処理にいそしむ必要が出てきた。
 もちろん、以前には納屋(農用トラクタが2台くらい収まっていた納屋がある)から、謎の薬剤(納屋の一角に大量の農薬がある)を出し、テキトーに(説明書を読んである程度以上、正しく使いましょう)散布した。

 一部は枯れたが、一部は枯れなかった。
 一部の薬剤は除草剤で、一部の薬剤は殺菌剤(稲作用)だった。
 一部の薬剤は無臭だったが、一部の薬剤はひどい臭いがしていて、近所から訴えられるのではないかと日々怯えることになった。
(まだ1ダース残っているのだが)

 そこで本日、昼頃に目覚めたワタクシは、先週購入した振動型除草機を使って、セコセコと除草(女装ではない)にいそしんだわけである。

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 ただ僕には、いわゆる「雑草」と、それ以外の区別が付かない。
 植樹の連中も、横に伸びた根を地下茎のようにして新芽を出したりしている。
 ケバケバした謎の葉は毒々しいし、謎の虫の死骸なんてわらわら出てくるし、ミミズをちょん切ってしまったりもする(申し訳ありません、とそのたび謝る羽目に)。
 魑魅魍魎、阿鼻叫喚の地獄絵巻。

 そもそもこの、いわゆる「雑草」たちって、放っておけば、それはそれで生長して、なかなかの賑わいをみせてくれるのではないのかしらん、と思ってみたり。

 しかし世俗のヒトビトは、除草、こと雑草を駆逐することに執拗なまでの執念を傾けているようにも感じられる。

 死んだ伯母もそのタイプの人であり、なおかつ道具や薬品の使用を基本的に認めない人であった(軍手とマスクと鎌とシャベルの使用は認められていた)から、伯母の存命中はなるべく避けて通ろうとした作業のひとつである。
 努力根性論。大日本帝国か。

 ちょっとした空き地、荒地のような中自然の模倣(大自然というほどではないし、小自然というには僕よりも大きい)ということで、放置してもいいような気はする。
 しかし草陰からヘビがでたり、そのくらいならまだしも、体長数十センチもの多足類が出てきたら、僕はその場で失神しかねない。
 猫の神様というのも、こういうところにはなんのご利益も発揮してくれないのである。

 ゆえに「見たくないものが繁殖しない程度」には、庭の環境を整える必要があると考えてもいいのかもしれないと判断しても許してもらえるかな(誰に?)、と思った次第。
 そもそも、いわゆる雑草も、そうでない草木のヒトたちも、基本は緑と茶である。
 中には赤い葉のものもあるが、草木の名前も知らない僕には関係がない。
 紅いのは紅いもので、綺麗な気もするのだ。
(ただ、無駄に大きい気がしたので排除したが)
 花を付けるものもあるし、実を付けるものもある。
 地中やその周辺に、生態系のコロニィを作るなんて(まじまじ覗き込んだりしなければ)微笑ましいし、素敵ではないか。

 それに僕は、この家や庭に対しての所有欲もない。
(持てば持った、売れば売ったで、オトナのジジョーが面倒である)
 所有し、管理していることを誰かに誇示したいわけでもない。
 ゆえに、いわゆる雑草伸び放題で、近所の人が進入することを躊躇うくらいになってもいいのではないか、むしろその方が都合がいいのではないかと思うフシもある。

 ただまぁ、いずれ地下室や秘密基地を作るとなれば(庭なので家の玄関に至る前にあるわけだが、それは秘密基地としてどうなの?)ある程度の整備もやむなしか、と思うもやはりそれでも躊躇はするのである。

 一層のこと、せめて植え込み以外はコンクリートやアスファルトで舗装してあればよいのだが、古い農家の名残なのか、薄く砂利が敷かれているだけである。

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 およそ40年ほど前、やはり大きな庭のある、とても大きな家に暮らしていた。
 庭には大きな砂利が敷かれていたが、それでも裏庭にフキやミョウガが生えたり、謎の多足類が繁殖し、鳥が煙突のいくつかに巣を作ったりした。

 ただ、僕はまだ小学生にもなっていなかったし、自分をオンナノコだと思っていたので、虫を捕まえるとか、庭を駆け回るような遊びはしなかったし、庭の除草もしたことがなかった。
 多分、両親か従業員がしていたのだろうと思う。

>>>

 そこから40年経った僕の最初の疑問。
 それが「雑草ってなんやろね」である。

 人間の都合で排除すべき植物の総称なのかもしれないけれど、タンポポやナズナのような、愛らしいものくらいはそっとしておいても良さそうな気はする。きっと秋には枯れるのだろうし。
 名も知らぬものの総称として雑草と考えるなら、僕はこの家のほとんどすべての草花の名前なんて知らないし、聞いても覚えないだろう。
 名のない草花なんて(おそらく)ないだろうから、すべては名のある、親もいれば、子もできる草花である(たまたま僕は、そのいずれの方も存じ上げておりませんが)。

 なんとなく、ガリガリと機械で痛めつけるのは、ジャブジャブと除草剤を撒くのは気が引けるのだ(今日は風が強かっただけだが)。

 それにいわゆる雑草たちの種々相!
 太くてたくましいのに、簡単に折れてしまったり、その割に根が強くて切れなかったり。
 深くまで根を張る者、地下茎をめぐらす者、根がねじれた形状になっている者、触れると種の房が弾けて周囲に種を撒く者。

 茎や葉、花も新芽も種もなにもかも。

 本当に見ていて飽きない。
 敵ながら天晴れといったところもあるし、単純に生きるために淘汰されたメカニズムを感じもする。

 もとよりすべてなければ、その方がスッキリとはするし、死の概念の想い人たる私には無こそが相応しいのではないか。
 それにいかんせん、この世は経済という巨大なヘビがとぐろを巻いているので、上納金を用意しないと庭木も片付かない。
(少なくとも、最後はユンボが必要なはずだ)

 必要最低限の手持ち道具を揃えながら、思案に暮れる日々である。

>>>

 作業を終えて、休憩してから入浴。
 アパートで書いた文書が、またも文字数制限に引っかかってリリースできない事態になった。

 ネット環境と新しいPCを、猫の神様、僕にください。
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200403
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
量子的実在論的わたくし的仮想論
SUBTITLE:
~ Schrodinger's cat. ~
Written by SilverCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 久しぶりにアパートにやってきた。
 もはやどちらが別宅でどちらが別荘でどこが僕の棲み家なのかが分からない。
 時間に縛られるわけでもないし、さほどの予定があるわけでもない。
 月に1、2回、外部からのアクセスによって30分ほどを要する予定が設定されるけれど、その程度だ。
 あとは自由にしている。まるで公園生活だ。
 
 ある程度、お腹が引っ込んできたものの、筋肉がついたぶんだけ脂肪を押し出している。
 お腹を引っ込めるために腹筋するのは、僕は基本的にはおすすめしない。
 一番簡単なのは、背筋や大臀筋をつけることだろう。勝手にお腹が引き締まって見える。
 おそらく皮膚が引き上げられるからで、大臀筋よりは背筋の方が効果が高いのだろうと想像する。
 
 長らく自転車にも乗っていないから、大臀筋と太腿の裏側の筋肉がとても衰えていたので、そこを今はトレーニングしている。
 あとよくよく考えると、5年ほどもぱやぱやしていない。
 ぱやぱやで使う筋肉を、まったく使っていなかったことに気が付いた。
 ぱやぱやなんてしなくても何とかなるのが僕という(性風俗も必要としない)イキモノではあるのだが、なるほど姿勢の制御に不安定なことがあって、理由に合点がいった。
 仕方がないので、ぱやぱやを重点的にしている、という前提でぱやぱやに使いそうな筋肉のトレーニングもすることにした。
 
>>>
 
 エスプレッソマシンがアパートの方にしかなくて、先月くらいまではなんだかんだと事務手続きがあったので(税理士だの銀行だのとの打ち合わせがあり)気ぜわしく、今日、久しぶりにカプチーノを嘗めながら、葉巻を喫んだ。
 WHOの教育の成果もあってだろう、世俗は喫煙を低俗で醜悪な中毒習慣としての地位に固定しつつある。
 個人的には、WHOという謎組織には懐疑的なのだ、なんとか協会とか、なんとか推進委員会とか、だいたいろくなものではないように肌が感覚する。
 タバコは本来、祈りのための道具だ。
 たしかインディアンが儀式に使っていた。ファミリィと父霊を結ぶための、大事なエッセンス。仏教でいえば線香のようなものか。
 それを侵略者どもが横取りし、経済に乗せたように記憶している。
 そして侵略者どもが奴隷の健康を守るために、今度は禁止しつつあるというわけだろう。
 次いで、アルコール、カフェインと続いてゆく気がする。モルモン教徒か。
 
 きっと祈りのカタチは様々なのだろう。
 僕は煙草を味わうたび、シャーマンたちの祈りを想像する。
 母体は肉体を遺し、父親は父霊となって部族を見守る。
 僕の燃やしたケムリは換気扇に吸い込まれたりすることも多いが、それでもどこかに繋がっているような錯覚と、ニコチン酔いを覚える。
 
>>>
 
 僕は結構、書いたことが実現するタイプである。
 
 たとえば「モテである(モテたい、ではない)」と書いたらモテになった。
「のんびりぼんやり過ごしている」と書いたら、のんびりぼんやりな人間になった。
「オカネモチーになりたい」と書いたら一年間無職で過ごせるくらいのささやかなオカネモチーを味わうことができた。
 
 目下の野望は「秘密基地を作っている」こと、「秘密基地に地下室ができあがっている」こと、「地熱実験をする」こと、「居住空間における水冷実験を深める(以前、アパートでしていた)」こと、「モテである(再び)」こと、「もうちょっと贅沢なオカネモチーである」こと、「猫を3匹飼っている」ことであるが、これらは流石に無理だろうか。
 いや、猫がどこかに跳ぼうと思ったとき、猫はその場所に跳ぶ。
 
 僕が呪うと相手が死ぬので、弟子は僕の呪いを(僕本人のことは差し置いて)恐れている。
 嘘のように聞こえると思う。僕自身も、あまり信じているわけではない。
 
>>>
 
 僕をして生きていると認識し、あるいはさせているこの世界は、僕の知らないことや理解していないこと、場合によっては知ることもできず理解することもできないことに満ちあふれている。
 僕はそれを理解していて、肌で体感している。
 
 僕は僕以外の他者が、おそらく(あるいはもしかしたら)実在しているという前提で日々を過ごしているが、他者の存在とその実在を(たとえそれが目の前にいようとも)完全に信じているわけではない。
 ただ、もし「本当に他者を含めて客観的に実在していた場合」を重視して思考し行動した方が、僕自身の実在を維持する上では安全である。
 なにより実在を維持するか放棄するかは、僕自身の意思で決めているし、決めていたい。
 生殺与奪の権を誰かに握られるなんてまっぴらごめんだし、そういう意味で考えればなおさらのこと「経済というイキモノ」ごときにこの9つの尻尾のうちのそのひとつでも握られてたまるかとは思っている。
 眼鏡でショートヘアのキュートなガールにおかれましては、撫でるくらいまでは許してさしあげるものの、掴むような相手は威嚇もせず囓るのがねこ社会の掟である。
 
 だから僕自身の意識と、そのよりどころである肉体とをそれなりの状態に維持することが、維持と放棄の選択の上では優先されることになる。
 希死念慮がいつもあるにもかかわらず(一般に言うところの「しあわせな気分」であろうと「不幸な気分」であろうと)僕がまじめに死ぬことを実行しないのは、死んだら選択肢が失われるからでもあるし、死ぬまでに知っておきたいことが多分まだあるからだろう。
 
 僕の中では、基本的に僕と僕以外を「等しいもの」として扱うことが当然になっている。
 人は生と死を分けて考えるし、自分と他人を異なるものとして扱う。
 僕は生と死を同じものの異なる状態(たとえば沸騰した水蒸気と氷でもいいし、伸びたゴムと縮んだゴムに喩えてもいい)あるいは同じものの同じ状態を特定の点(時間や視点)で観察したときに僕というスクリーンに投影された情報として認識している。
 つまり僕は生の本質も死の本質も知らない。もっといえば人の本質も、生命の本質も、自分自身の本質も、これらを考える自分自身の意識の本質も知らない。この一文の「本質」を「実在」に置き換えても、同じことがいえる。
 にもかかわらず、僕はこのように記述していて、記述したことだけが、自身と他者に明確な投影情報として認識可能になる。
 
 他者も、基本的には僕と同じ組成によって実在すると僕は仮定している。
 彼ら/彼女たちは、同じ組成で同じ宇宙(あるいはシミュレート系)に存在し、あるいはさせられている。
 ただ、僕以外のほとんどの知性は ── それがヒトのカタチをしていて、知性と呼べそうなものを保有していて、さらにその知性が一定以上の客観性や整合性を利用して、自身の中で自身と他者の存在する系をシミュレートできるレベルのものであると想定しても ── 一意的であることが多くて、それが僕を悩ませる。
 どうして彼ら/彼女たちは、不確定性をまるっと体現できないのか、と。
 いろいろなものが重なっている状態を、そのまま認識できないのか、と。
 
 おそらくここまでに書いていることを理解できるひとがいないのではないかと、僕は時々恐れる。
 そう、こんなことを考えても考えなくても、ヒトは生きることができる。猫もきっとそうだろう。
 
 僕の存在する系を僕の中でシミュレートするとき、それがいかなるカタチを与えられていようと、仮にそれがオカネモチーだろうがモテだろうか、美形だろうか醜男醜女であろうが、考えていない時点でそれは死んでいるのと同じか、それ以下と見なされる。
 ために僕はアタマワルいイキモノを嫌うのだ。
 それらは対等に扱うには程度が悪く、ないがしろにするには人道(あるいは猫道だっていい)にもとる。
 
 ために僕は、僕以外のイキモノ(特に哺乳網サル目ヒト科ヒト属ヒト)を、「自分と少なくとも同等の処理能力を有する」という前提で僕を生きる。滅多に呪わない。
 それは僕の認識するシミュレート系において(宗教観を抜きにした科学法則として)自身を呪うことに等しいからだ。
 
 多くの場合、僕は他者をうまく理解できていないことが多いように感じるし、僕自身のことも等しく理解していないように感じることが多い。
 なにより僕は、僕が僕であると仮定して、その前提で思考しているだけで、前提を無視して考える ── ぼくはこれをよくおこなう ── とき、僕は「ただのねこ」になってしまう。
 それは種類も血統も性別ももちろんのこと、やわらかな肉球もぴんと伸びたヒゲもしなやかに踊る尻尾すらもない「ねこ」という概念だ。
 
>>>
 
 僕はその場所で、ねこである。
 僕は種族同一性障害としての猫を演じる人間のふりをしたねこである。
 
 僕はその場所で、この系の中で演じる僕が「こうだったら面白いな」と思う。
 すると僕の思考は、僕をその場所に移動させる。そのための適切な運動を、僕に思い出させる。
 
 もしかしたら、そういったメカニズムで、僕は僕の思い描いた僕になるのかもしれない。
 その仮定が面白くて、まだ死ねない。
 
 もしかしたら、そのメカニズムは、僕が僕に利用するようにして、他者にも応用できるかもしれない。
 
 たとえば、ヒトビトのシアワセのカタチはマチマチだけれど。
 どうか彼ら/彼女たち/あるいは無性別なるあなたが、本来的に ── この「系」をより健全に保つために ── 持つべき健全な望みを持ち、そのうえでその望みが叶いますように、と願うように。
 
 そう。
 みんながしあわせになりますようになんて、僕は祈らない。願わない。
 しあわせな祈りと願いを持つものだけが、しあわせになるならばそれがいい。
 
 祈りや願いや誓いなんて、基本的には非科学的なものだ。僕はそう思う。
 そして僕は祈るだろう。ねこの神様がそこにいるような気がして。
 しあわせな祈りと願いを持つものだけが、しあわせになります。と。
 
 あと、ねこの神様がいるなら、ひとつお願いがあって。
 僕の言葉が、ただしく、ある人に届きますようにと、もうかれこれ何年も祈っているのでいい加減叶えてください。
 だから僕は祈るだろう。
 ねこの神様がそこにいるような気がして。
 
 あとえーと目下のお願いは「秘密基地を作っていること」と「秘密基地に地下室があること」と……
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
 
[ Cross Link ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Diary-Eternal-Life-Link-Love-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-JunctionBox-
 
[Object]
  -Cat-Human-Koban-Poison-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-衛星軌道でランデヴー-:-いのちあるものたち-:-ひとになったゆめをみる-
:-夢見の猫の額の奥に-:-月夜の井戸端会議-
 
 
 
 
 
 
 
//EOF
♪陽性たちが胸を刺激する
 熱だし咳出しまぁ冥土

 ……はい。不謹慎ですね。

>>>

 個人経営の店にゆくことが多い。

 酒屋、煙草屋、金物屋。
 飲食店も、チェーン店には進んで行きたいと思わない方だ。
 数店舗展開しているようなお店は、肌に合えばたびたび行くようになる。
 ちなみに「利用する」とか「使う」という言葉を、僕は道具以外に使わないようだ。

 余談(ばかり)だが概念は道具と一緒なので、TPOで使い分ける(多くの人は単一概念ですべての場面を乗り切ろうとするが、ドライバで魚を切ったり、パジャマで人前に出てはいけないと僕は思う)。

「お願いする」「依頼する」「注文する」。
 このあたりが適切だと思ってよく利用する言葉である。
 店というのはある種の人格があると認識しているのかもしれない。

>>>

 個人経営の単一店舗であれば、オーナのスタイルはとてもわかりやすい。
「ああ、この店主はちょっと小太ってるな」とかいうことではない。
 良いか悪いか、ではなく、あるかないか、の方のスタイルだ(僕はその意味でしか、スタイルという言葉を使わないが)。

(おなじみの余談だが、スタイル、フォーム、シルエットとかいう言葉、意味を理解して使っていない人も多いように思える。
「クラブシーンでこそ体感できるアーティストのヴァイブレーションは、パッションをグルーヴに乗せて伝播する」とかいう日本語(笑)。
 僕は面白くて好きだ。
 弟子と電話するときなどは「なんかそれっぽい言葉を使って会話する」とか妙なテーマができあがることもしばしば。
 まぁ、小馬鹿にしているフシがないとは言えないが)

 分かりやすいスタイルなら、それが肌に合うかどうかもすぐに分かる。

 ことほど左様、誰にお金を払うかというのは、それそのものが投資活動であり、とても大事なことだと思っている。

 人間が相手だ。
 だから「使う」とか「利用する」とはならない。
 きっと使われたり利用されるのが嫌なのか、それで嫌な思いをしたことがあるのだろう。

>>>

 大型店舗の駐車場というのは、ちょっとした住宅街のような構成になっているところが多い。
 一時停止(様のもの)があり、横断歩道(様のもの、ちなみに「さまのもの」と読むと擬似人格化しているようで面白い)があり、中には歩道や信号機(様のもの)まで備えているところもある。

 僕は昔から、駐車場内でも一時停止を守り、方向指示器(いわゆるウィンカ)を使用し、可能な限りの徐行をしている。
 空いていて、、見通しの良い状況なら、駐車スペースをナナメに縦断するくらいはするが、周囲の安全のためにも基本的に通路を使う。

 一方で、ここが地方だからなのか、未だにかなりの速度で構内を走行したり、ウィンカを使わず急停止したりする車もいる。
 いつか人を轢くのではないかと他人事ながら心配しているフリもしたくなる。

 法的に、あれら駐車場は私有地であり、住宅街ではないし道路でもない。
 歩道も一時停止も信号も、すべて無視してかまわないとみなすこともできる。
 おそらくそういうキモチなのだろう。
(もしくは本当に何も考えていないか)

 しかし大規模な駐車場にもなれば、その通路を「公共の道路」とみなせる(一般認識が可能である)から、裁判で争うと面白い展開もあるだろう。
 ちなみに保険会社は駐車場を、道交法適用外の場所として過失割合を算出する。
 べつに賠償問題になったら裁判したほうがいいよ、ということではない。
 事故など起こさないように普段から気をつけた方がいいのである。

>>>

 先日、こだわりについてちょっと思ったことを書いた(あれでちょっとか! と驚く人もいるかもしれないが、内容、あるいは意味を要約するとほんの数行で書き記せると分かるだろう)が、じつのところ、僕は自分の使う言葉の音に、こだわりのようなものがあるように感じる。

 無論、他者に押し付ける気はないから、誰かに言ったことはない。
 ただ、ずっと前に書いたことはある。
 音読した時の音を感覚しながら書いていて、濁音にはとくに神経を尖らせる、と。

 読む人がいる前提だと、このあたりで僕は悩むことになる。
 勝手に書いて、僕は自身の認識を(アタマの中がウスラボンヤリなので)明文化したいだけなのだが、読者に「猫氏はそうなのか、私はせめて猫氏の前では気をつけなきゃ」なんて気を遣われてしまうことがあるからだ。

 僕の怒りや憎しみや慕情や物事に対する向き合い方のひとつひとつは、僕固有の、僕のためのものであって、他者が同意する必要はないし、理解する必要もない。当然、同調する必要なんてない。
 散歩の道すがら、出会った近所の人に挨拶するかのように「反対意見なんですよー」「そうですか、反対意見なのですねー」というのでいいと思うのである。

 政治家であるとか、会議をして一定の解決を導きたい、という場合ならコンセンサスというゴールは必要だろうけれど、そもそも自身の抽象的な定義の明文化作業(僕が「書く」作業のほとんどはこれである)においては、他者間のコンセンサスなんてものは目的ではない。
 むしろ自分の中の猫たちが、僕の感覚に対して正しく姿勢(スタンス)を決められることが大切だ。
(横文字多用はわざと、ではない)

 自分の意見や感覚に同意を求めたり、反対意見相手でも自分の見地に理解を求めるとなると、相手に反応を求めることだから、これは相手に対する押し付けのような気がして、僕はそれをしたくない。
(同時通訳ふう)

 そういう感覚が根底にあって、そのうえでいつも断定的に(あるいは積極的かつ過剰に濁してぼかして)書いているのではある。

 僕が日記を読まれることに対する恐怖もこれに似ている。「お前のために書いてるわけじゃねぇ」というものを勝手に読んで解釈して疑問をぷつける(いま、面白いかな、と思って半濁音にしてみました)のは、強姦されて「これがいいんでしょう?」と言われるようなものです。
 散歩の道すがらに人をレイプしてんじゃねえ、ということ。

 見やすい場所に置いてあった。
 読んでいいのだと思った。
 むしろ読むために置いてあるのだと思った。
 というのは、
「薄着だった」
「誘っているのだと思った」
「合意したと思った」
 という言い訳と一緒である。
 他人の日記や携帯端末を陵辱するな。
 その上、知った内容をあちこち吹聴して情報共有するな。
 もはやそれは輪姦だぞ犯罪者どもめ。
 そういう行いが当たり前みたいな日常を構築するための「常識」を使って言いくるめるな犯罪者め。
 とまぁ、僕は個人的にそんなふうに思うこともあるわけですが、これをどこまでも僕に固有の感覚として僕自身は取り扱う。

 おそらく一定以上の規模のコミュニティに、子供の頃から長く属している人ほど、周囲の同意というか、合意が必要だろうとは思う。
 それは組織の必然だから。
 ゆえに僕のような、子供の頃からほとんどのコミュニティに属していない人間は希少種であり、まぁ淘汰されるだろうな、とは思っている。
(必然、他者に同意を求めないし、世間に広める意義も感じない)
 ただ、水の中にふつふつと水泡が湧くように、不連続ながらもより大規模な集合の中で、乱数的にこうした個体や発想は発生しているようには感じられる。
 環境によって誘導される因子なのかもしれない。
 ちょうど川などの流れが似ているだろうか。
 淀んどり、渦を作ったり、ミクロな逆流を含みながらも全体は進んでゆく。

 集団にそもそもから属していないというのは、個体の存在やその意義に連続性を持たないことになる。
(無職でも、牛乳を買ったり、ささやかに経済活動はしているが)

 連続性といえば、最近、弟子が超絶的に婚活している。
 これが傍で眺めていてとても楽しく微笑ましい。
 人間たちとその社会は、一定以上の結合力や連続性を、本能的に求めているのだろう。
 え? 当たり前なの?

>>>

 午後に妹(と姪)と食事。
 最近は週一回、一緒に食事をするのが何かのお決まりのようになっていて、そこに見られる調和を、ときどき乱したい気持ち(悪戯ココロ)になることがある。
 社会不適合というのは、僕の本能なのかもしれない。


 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200321
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
こだわりと向き合い。
SUBTITLE:
~ Mirroring on my edge. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 こんな辺鄙な田舎町でも、ティシュとトイレットペーパが買い占められていたのはもうどれくらい前のことだろう。
 最初は唖然としたものだ。
 どれほど恥知らずの阿呆が多いのかと、呆れ、思わずひとり笑ってしまった。
 まったく情けない話ではないか。

 他人のことなんてどうだっていい。
 自分のことだけ考えていれば、それでいい。

 海外の人たちがいわゆる爆買いをしていたときはネット上で「民度」という単語をよく目にしたものだが、今回はほとんど見ない。
 これは勝手な憶測だが、他人の民度とやらにビンカンな人たちほど、己の中の獣性に関してはひどく鈍感なのやもしれぬ。

 いやなに皆それどころではなくパルプ製品と不織布製品を求めて、野獣のように街から街を、店から店を、血眼になって走り回っているのかもしれないが。

>>>

 電気炊飯器を、およそ20年ぶりに使っている。

 一人暮らしを始めて1年後の夏の終わりに、僕はそれを捨てた。
 炊飯器は僕を堕落させた。
 炊いたご飯をいつまでも保温したり、スイッチを切ってもそのまま放置したりした。
 その結果、ごはんは「ごはんであったはずのナニカ」に変わる。
 それを数回繰り返すうち、自分が情けなくなって捨てることにしたのだ。

 放っておけば炊ける。
 そのまま放っておけば適温に保つ。
 数日置いてもなんとかなる。
 それが僕を自堕落にさせた。

 おそらく数ヶ月後、僕は初めての圧力鍋を購入した。
 両手持ちの5L。大きな、そして重い、古式ゆかしい、蓋の上で重りがくるくる回る鍋だった。
 そしてわずか半年でその鍋を捨てた。
 最初の圧力鍋を買って3ヵ月後に新しい片手用圧力鍋を買ったのが大きな理由だ。

 最初の反省は「圧力鍋の場合、大は小を兼ねるが、適切なサイズでないと使いづらい」ということ。
 立方体の1辺あたりの長さを2倍にすると体積は8倍になる。中空でない物質なら、当然重量も8倍。
 鍋の場合は容積ベースだが、表面積は厚みを無視しても概算4倍。
(実際は、大きくすれば強度を保つために厚みも増すだろう)

 もちろん、1辺の長さ(鍋の高さや直径)が2倍になるのではない。
 容量2倍なのでそんな大げさにはならない。
 体積2倍と考えると1辺あたりおよそ1.26倍だったか。
 面積は2乗になるから、およそ1.6倍程度なので重量も1.6倍程度ということになる。
 3kgの鍋なら乾燥重量で5kg近くなる。
 3Lの具材を入れたら8kg近い。
 カセットコンロが壊れそうだよ。
(集合住宅のガスは高めなので、カセットコンロを愛用している)
 
 よって片手用の2.5L程度のものを買って使い始めた。
 弁も樹脂製で最初は不安だったが、圧力を2段階に切り替えられる優れもので、しかも安かった。
 これは実に使い勝手が良かったが、あるとき火加減を間違えて盛大に焦がした。
 普通の鍋の焦げとは次元の違う焦げ付きで、薬品も2、3試したが、最終的に諦めて、同型のものを買い直した。
 しかしこれも1年足らずで焦がす。
 今度は時間を間違えたせいだ。

 それでも懲りずに同型の圧力鍋を買っては使い、今使っているのは4代目。
 キッチンタイマーも2つ常備するようになったので、焦がすことなく5年以上使っている。

>>>

 カランダ(ザル)は、一人暮らしの最初に、長持ちしそうなものをちょっと奮発して買った。
 網が破れたり、骨が歪んだりもせず、長く付き合っている。

 まな板は下駄足。
 かつおぶしは削り器で削る。
 鉄瓶や鉄鍋で湯を沸かす。
 フライパンも鉄製。
 食器洗いは基本的に石鹸。

 と、ここまでを客観的に見た自分を思うのだ。

「めんどくせぇオトコだなぁ」と。

>>>

 一般的に、こういうイキモノは「拘(こだわ)ってる奴」に分類される。
 あなたの周囲にもいないだろうか、
「これはこうでなくてはダメ」
「これはこうであってはダメ」
 と自説と拘りを振りかざして周辺諸国を制圧していく、好戦国家のようなような人が。

 とにかくそやつの目につく範囲においては、そやつの拘り抜かれたセンスと理屈に従ったありようを体現しない限り蹂躙される。
 布教といってもいいから、十字軍のようなものか。
 異教徒は斬られる。
 改宗しなければ斬られる。
 そこにあるのは神の説く全き愛の姿ではなく、妄執と狂気に歪んだ自己愛の体現である。

 ほら、ラーメン屋でも(コショウを最初からそんなドバドバ入れるな)(長髪者は髪を結えるものくらい持ってこい)(レンゲを使って食うな)とかいう変な店主がいたりするというではないか(今勝手に思いついたので、いないかもしれません)。
 蕎麦屋でも(音を立ててすすれ)(最初は何もつけずに味わえ)(蕎麦をつゆに浸すな)(薬味は少しずつ加えてゆけ)(蕎麦湯は必ず飲め)とかうるさい奴、いない?

 こういうのをして、やってみると確かに効能というか、違いが多少はあったりするものだから(なるほどこれは!)なんて崇めたてる奴が出てきて、本人はますます天狗になって(よろしいますます余を崇め奉るがよい下民どもよ)となって狂気度合いが加速する。
 まさに正義は我にあり。
「正しさの病」もこれと同源だから(芸能人の不倫は許さない〜!)だの(マスク転売屋は死して地獄に堕ちろ〜)だのと正義を振りかざしては己の自己愛の穴を埋めるためにやかましい。
 ラーメンも蕎麦も不倫も転売も好きにさせとけよ。

 放っておけよ、それで淘汰されるなら、それが不要なものであり、浸透してゆくならそれが必要なものなのだから。
 いいじゃないか蕎麦をつゆへだぶだぶのめためたのびたびたな具合に浸して、つゆごと飲んだっていいじゃないか! がぶがぶ飲ませてやれよ。
 買うお金がある人になら1枚10万円でマスク買わせてやれよ(僕は売るマスクも着けるマスクも持っていませんが)。
 と僕は思うのである。

 ちなみにあとになって非難されないために、誤解のないように言っておくと、僕は蕎麦を、最初はつゆもつけずに食べるタイプではあるのだけれども。
 ラーメンも、コショウをまったく入れないタイプなのではあるのだけれど。
 そして他の食事はだいたい食べるのが遅いのに、麺類だけは食べるのが早いのだけれど。

 それとて特に拘っているわけではない。
 単にその方が自分の好みだからそうしているだけだ。
 そうだこれこそが正義だだから世俗のアタマワルイ下民どもは我を崇め奉れ我に従え我が正義を褒め称えよ!
 と言ってしまったら、これが狂気の始まりなわけであってね諸君。

>>>

 確かにごはんは圧力鍋で炊く。
(今は炊飯器しかない家があるから、その家では炊飯器で炊く)
 玄米食を好む。
 鉄器で湯を沸かす。
 まな板は下駄足だ。
 かつぶしはなるべく都度削る。
 砂糖はきび砂糖か黒砂糖ばかり使う。

 でもこれは正しいとかそういうことじゃない。
 これが正解だから皆これに従えなんて思ってない。
 いやいやこのあたりはモノ相手だから仕方ないけれど、たとえば恋人が27人いるとかについてもものすごく噛み付いてくる人はいるわけです。無職で365日過ぎましたとかいうと噛み付いてくる狂犬どもがいるわけです。

 彼らの中には「正しさの病」があって、その正しさに従わない者は全て斬捨て御免の正当防衛なのである。
 だってぇ、あいつがぁ、最初に仕掛けてきてぇ、それにぃ、せんせぇだってぇ、そぉゆぅのはよくないってぇ、いってるんだもん! だからぁ、ボクはわるくないんだもん!
 ゆえに礼を失したのはその方であろう。
 赦さん。刀の錆にしてくれる。
 我は神の御使、十字軍なり。
 というわけ。

 どんなわけやねん(唐突な関西弁)。

 極論、殺人すら「あなた直接の被害者じゃないでしょう?」というお立場の場合や「あなたが裁きをなさるお役目ではないでしょう」という場合、その身勝手な怒りはどこから来るのか半年間そこの海辺の洞窟で考えなさい、それが正義ですゆえに私が正しいので下民たるうぬらは我を崇め奉るがよいわかったか?わかりましたね?わからないやつは死刑です! みたいな感じになってしまいかねないわけで、だから普段からこういう馬鹿馬鹿しい「正しさについての拘り」なんて持ちたくないし、いっそのこといつでも間違っていたい。

 たとえば僕が殺人を犯さないのは、それが正しいからではなくて、殺人をする必要がなくてしたくないからです。
 たとえば僕に恋人が27人いるのは、ガールが好きで増えちゃったものを減らさないからです。
 所有している本が数百冊にも満たないのは、増えたら減らしているからです。
 正しいからするとかしないではなくて、それをしたいから/したくないから、選択して行動するわけです。

 一方で、殺人をすることが正しく思えちゃう人や状況もあるわけで、ではそれはどのようにあることが望ましくて、その望ましい状況を作るためにはどうするのがよいのか、というのがアタマの使い方なのではなくて? と思うのですが、それとて「正しい」とは思っていない。

 マクロ的に、不要なものは淘汰され、必要なものは存続する。
 弱者を守る余裕がなくなれば、社会は弱者を不要と考えたり、いいように餌にしようとするわけです。
 強者が必要だから、ぽっと出の、得体の知れない代議士には投票しないで、他にいないからとか消極的な言い訳で、自分が(先の理屈の「強者」に当てはまらないから)立候補するわけでもなく、二世政治家とかに投票するわけでしょう。
 弱者を守れる仕組みは、弱者に力を与えることかもしれない、ってそれまでとちょっと違う政党が与党になったらやっぱり失敗だったとか言い訳するわけでしょう。
 一回失敗しただけでやめてしまうあたりが中学生の部活レベルで、だから選挙権の年齢を引き下げたのかと冗談まじりに思ってしまうほど、プロ意識の日本国民というか投票者がいないような気がしないでもない。オマエら世界を目指すなら、一度の失敗くらいでくじけるな! と言いたい。ほかならぬ政治家にではなく投票者に。
(とくに何も考えていないので、投票には基本的に行かない人がこれを書いています)

 マスクが必要だから買い占めたり転売したり高額で買っちゃったりするアホウがいて、もうみんな同罪ってことにしてしまって、だったらいっそのことマスクメーカも犯罪者扱いしてしまえばいいし、マスクを考えることは姦淫にふけることと同じ神への冒涜だということでマスクを禁制品にして全員逮捕してしまえばいい。麻薬扱いしちゃえばいい。持ってても使ってもアウト。
 マスクもティシュもトイレットペーパも生理用品も一律禁制で免許を受けた人だけの配給制にすればいい。

 僕が正しさについてなるべく軸をずらしたり、触れないようにしているのは、それを語ることが時に人に押し付けることになるからで、それはとても恥ずかしいことだから。

 呑み屋に行くと、よくわからん蘊蓄(うんちく)や自慢、説教、泣き言、管巻きを展開する人間は昔からいて、それと同じ感覚を振りまきたくないから。
(嫌される、という新しい言葉を思いついたが、こんなのは流行らないし流行らせない)

>>>

 ここからが本題なので、疲れた人は休むがよいぞ私は優しいであろう正しいであろうゆえに我を崇め奉るがよいぞ下民どもよ。
(この言い回しが、ちょっと気に入ってしまった)

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 拘るということの本質的な恥ずかしさというか、醜さというのは、他者がいないと成り立たないこと、なのだ。
「うちのラーメンは、スープのガラに拘っていてね」というセリフは、それを語る相手がいないと成り立たないということ「ではない」。

 拘りに正邪の基準が含まれていて、ために「正しさ」と拘りが混同してしまっているとき、それはどうしても他者に向かって発露してしまう。
 スープにだけ、スープのガラに「だけ」拘っているのなら、それは単に美味しいスープを作ることに真剣に取り組んでいる、ということだから問題はない。
 素晴らしいことだと思う。そのまま邁進していただきたい。

 ただ「このガラだけ」「このスープだけ」が正しいと「思ったら」どうなるだろう。
 その「思い」が拘りで、すなわち「正しさのビョーキ」で、つまりは狂気なのだ。

「このやり方だけ」「このあり方だけ」「この考え方だけ」が正しいなんて、いやいや恐ろしくて私には言えない。
 殺しは絶対しません! なんて、毎日イワシ焼いたり、肉を塩漬けにしたりしているワタクシが申し上げるわけには参りません。
 不倫はしません! なんて、非生命や自然現象や動物や同性にも恋してしまうワタクシには恐れ多くて申せません。
「適正価格のマスク」って、そもそもマスクがどの程度の原価なのか知らないので、語れません。
 本当は原価9万円で、メーカのたゆまぬ努力と政府の陰ながらの援助の結果、店頭販売価格が1枚あたり100円なのかもしれないし。

 鉄器で沸かしたお湯が美味しい気がするのは、どこかのアヤシイ集団から100万円で買った壺に汲んだ水を飲むと幸せになると思っているのと変わらないかもしれないし。
 玄米を食べていると体調がいいのも錯覚かもしれない。
 下駄足のまな板は物理的な理由があるので錯覚ではないにせよ、他人様に(金物屋さんで買った下駄足まな板がコスパも含めてサイコー!リピ確定!)とか恥ずかしくて言えません。

 これらはすべて、向きの問題なのではあります。

 つまりモノと向き合ったり、自分の感覚や感情に正しく向き合っていれば、それは観察上「拘り」なのかもしれないけれど、自己完結してゆく。
 27人恋人がいても、自己完結しちゃってる人にはどうしようもありません。
 不倫して自己完結しちゃってるなら、外の人が何を言っても通じません。
(わざわざ謝罪会見とかしたりさせたり放送したり観たり論じたりする人がいるあたりが、ヒトビトの狂気を感じるのではありますが)

 ちなみに先の「正しく向き合う」の「正しく」は「軸を逸らさず/正面から」の意味であり「ヒャッハー!十字軍だオラー!コッチ向けやオラー!首の曲げ方をこのオレ様が指導してくれるぁー!」ということではありません。

 自分の感覚で対象を感覚しながら「このほうがいいかな」「こっちのほうが合うのかな」と試行錯誤するわけです。
 スープのガラも「こうしたほうがいいかな?」
 蕎麦の食べ方も「こうしたらどうかな?」

 そういうのをひとつひとつ、自分で確かめてゆくことで分かるのは「自分の好み」であって「正しさ」などではない。
 それを正しさなどと錯覚し、吹聴し、あまつさえ強要してしまいたくなる己の身の程を僕は考える。
 己に向き合って反省する。

 他人のことなんてどうだっていい。
 自分のことだけ考えていれば、それでいい。

 なるほど、私もケダモノなわけである。

>>>

 炊飯器にだって罪はない。
 そこにあるのは僕の自堕落であり、炊飯器が僕を堕落させたなんて、言い訳がましいにも程があろう。

「拘り」と「向き合うこと」の違いは「働かざるもの食うべからず」と「一日為さざるは一日食わず」にも似ている。

 他人をとやかく言いたくなる気持ちは、とにかく恥ずかしい。幼稚だと感じる。
 赤の他人であろうとそうだし、どんなに親密な間柄でも、僕はしない。







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[NEXUS]
~ Junction Box ~

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[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Darkness-Diary-Ecology-Form-Interface-Kidding-Link-Mechanics-Memory-Stand_Alone-Style-

[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Transistor-

[Object]
  -Human-Koban-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-おこと教室-:-夢見の猫の額の奥に-:-Webストリートを見おろして-





//EOF