薄々気が付いていたことがある。

 新しい家には、庭があること。
 その庭が、広いこと。
 植木の植え込みがいくつかあること。
 みかんの木(何みかんかは知らない、大きな実が冬のうちからごろごろ生っている)が実を落としつつあること。
 そして何より、植木ではなさそうなナニカ(いわゆる雑草と呼ばれるものたち)が、日に日に大きくなっていること。

 いわばこれは十代のオンナノコのぱやぱやにおける、忌避もしくは回避すべき事態にも似ている。
 そんなはずはないと信じたいが、日に日に育っている気がする。
 しかしそもそもこれがいいものなのか、悪いものなのかが分からない。
 それを尋ねる相手もいない。
 どうすればいいのか、経験もないか分からない。
 そうこうするうちに、日々は無常かつ無情に過ぎてしまう。
 考えあぐねいているうちに、それは育ってしまう。

 そして庭の雑草が、腰より高くなってしまってから僕は気がつく。
「少なくともコイツはヤバいやつだぜ」と。

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 溢れる緊迫感(金箔感ではないからゴージャスにはならない)と相変わらず不謹慎な導入であるものの、そのようなわけで、急遽、雑草処理にいそしむ必要が出てきた。
 もちろん、以前には納屋(農用トラクタが2台くらい収まっていた納屋がある)から、謎の薬剤(納屋の一角に大量の農薬がある)を出し、テキトーに(説明書を読んである程度以上、正しく使いましょう)散布した。

 一部は枯れたが、一部は枯れなかった。
 一部の薬剤は除草剤で、一部の薬剤は殺菌剤(稲作用)だった。
 一部の薬剤は無臭だったが、一部の薬剤はひどい臭いがしていて、近所から訴えられるのではないかと日々怯えることになった。
(まだ1ダース残っているのだが)

 そこで本日、昼頃に目覚めたワタクシは、先週購入した振動型除草機を使って、セコセコと除草(女装ではない)にいそしんだわけである。

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 ただ僕には、いわゆる「雑草」と、それ以外の区別が付かない。
 植樹の連中も、横に伸びた根を地下茎のようにして新芽を出したりしている。
 ケバケバした謎の葉は毒々しいし、謎の虫の死骸なんてわらわら出てくるし、ミミズをちょん切ってしまったりもする(申し訳ありません、とそのたび謝る羽目に)。
 魑魅魍魎、阿鼻叫喚の地獄絵巻。

 そもそもこの、いわゆる「雑草」たちって、放っておけば、それはそれで生長して、なかなかの賑わいをみせてくれるのではないのかしらん、と思ってみたり。

 しかし世俗のヒトビトは、除草、こと雑草を駆逐することに執拗なまでの執念を傾けているようにも感じられる。

 死んだ伯母もそのタイプの人であり、なおかつ道具や薬品の使用を基本的に認めない人であった(軍手とマスクと鎌とシャベルの使用は認められていた)から、伯母の存命中はなるべく避けて通ろうとした作業のひとつである。
 努力根性論。大日本帝国か。

 ちょっとした空き地、荒地のような中自然の模倣(大自然というほどではないし、小自然というには僕よりも大きい)ということで、放置してもいいような気はする。
 しかし草陰からヘビがでたり、そのくらいならまだしも、体長数十センチもの多足類が出てきたら、僕はその場で失神しかねない。
 猫の神様というのも、こういうところにはなんのご利益も発揮してくれないのである。

 ゆえに「見たくないものが繁殖しない程度」には、庭の環境を整える必要があると考えてもいいのかもしれないと判断しても許してもらえるかな(誰に?)、と思った次第。
 そもそも、いわゆる雑草も、そうでない草木のヒトたちも、基本は緑と茶である。
 中には赤い葉のものもあるが、草木の名前も知らない僕には関係がない。
 紅いのは紅いもので、綺麗な気もするのだ。
(ただ、無駄に大きい気がしたので排除したが)
 花を付けるものもあるし、実を付けるものもある。
 地中やその周辺に、生態系のコロニィを作るなんて(まじまじ覗き込んだりしなければ)微笑ましいし、素敵ではないか。

 それに僕は、この家や庭に対しての所有欲もない。
(持てば持った、売れば売ったで、オトナのジジョーが面倒である)
 所有し、管理していることを誰かに誇示したいわけでもない。
 ゆえに、いわゆる雑草伸び放題で、近所の人が進入することを躊躇うくらいになってもいいのではないか、むしろその方が都合がいいのではないかと思うフシもある。

 ただまぁ、いずれ地下室や秘密基地を作るとなれば(庭なので家の玄関に至る前にあるわけだが、それは秘密基地としてどうなの?)ある程度の整備もやむなしか、と思うもやはりそれでも躊躇はするのである。

 一層のこと、せめて植え込み以外はコンクリートやアスファルトで舗装してあればよいのだが、古い農家の名残なのか、薄く砂利が敷かれているだけである。

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 およそ40年ほど前、やはり大きな庭のある、とても大きな家に暮らしていた。
 庭には大きな砂利が敷かれていたが、それでも裏庭にフキやミョウガが生えたり、謎の多足類が繁殖し、鳥が煙突のいくつかに巣を作ったりした。

 ただ、僕はまだ小学生にもなっていなかったし、自分をオンナノコだと思っていたので、虫を捕まえるとか、庭を駆け回るような遊びはしなかったし、庭の除草もしたことがなかった。
 多分、両親か従業員がしていたのだろうと思う。

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 そこから40年経った僕の最初の疑問。
 それが「雑草ってなんやろね」である。

 人間の都合で排除すべき植物の総称なのかもしれないけれど、タンポポやナズナのような、愛らしいものくらいはそっとしておいても良さそうな気はする。きっと秋には枯れるのだろうし。
 名も知らぬものの総称として雑草と考えるなら、僕はこの家のほとんどすべての草花の名前なんて知らないし、聞いても覚えないだろう。
 名のない草花なんて(おそらく)ないだろうから、すべては名のある、親もいれば、子もできる草花である(たまたま僕は、そのいずれの方も存じ上げておりませんが)。

 なんとなく、ガリガリと機械で痛めつけるのは、ジャブジャブと除草剤を撒くのは気が引けるのだ(今日は風が強かっただけだが)。

 それにいわゆる雑草たちの種々相!
 太くてたくましいのに、簡単に折れてしまったり、その割に根が強くて切れなかったり。
 深くまで根を張る者、地下茎をめぐらす者、根がねじれた形状になっている者、触れると種の房が弾けて周囲に種を撒く者。

 茎や葉、花も新芽も種もなにもかも。

 本当に見ていて飽きない。
 敵ながら天晴れといったところもあるし、単純に生きるために淘汰されたメカニズムを感じもする。

 もとよりすべてなければ、その方がスッキリとはするし、死の概念の想い人たる私には無こそが相応しいのではないか。
 それにいかんせん、この世は経済という巨大なヘビがとぐろを巻いているので、上納金を用意しないと庭木も片付かない。
(少なくとも、最後はユンボが必要なはずだ)

 必要最低限の手持ち道具を揃えながら、思案に暮れる日々である。

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 作業を終えて、休憩してから入浴。
 アパートで書いた文書が、またも文字数制限に引っかかってリリースできない事態になった。

 ネット環境と新しいPCを、猫の神様、僕にください。