♪陽性たちが胸を刺激する
 熱だし咳出しまぁ冥土

 ……はい。不謹慎ですね。

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 個人経営の店にゆくことが多い。

 酒屋、煙草屋、金物屋。
 飲食店も、チェーン店には進んで行きたいと思わない方だ。
 数店舗展開しているようなお店は、肌に合えばたびたび行くようになる。
 ちなみに「利用する」とか「使う」という言葉を、僕は道具以外に使わないようだ。

 余談(ばかり)だが概念は道具と一緒なので、TPOで使い分ける(多くの人は単一概念ですべての場面を乗り切ろうとするが、ドライバで魚を切ったり、パジャマで人前に出てはいけないと僕は思う)。

「お願いする」「依頼する」「注文する」。
 このあたりが適切だと思ってよく利用する言葉である。
 店というのはある種の人格があると認識しているのかもしれない。

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 個人経営の単一店舗であれば、オーナのスタイルはとてもわかりやすい。
「ああ、この店主はちょっと小太ってるな」とかいうことではない。
 良いか悪いか、ではなく、あるかないか、の方のスタイルだ(僕はその意味でしか、スタイルという言葉を使わないが)。

(おなじみの余談だが、スタイル、フォーム、シルエットとかいう言葉、意味を理解して使っていない人も多いように思える。
「クラブシーンでこそ体感できるアーティストのヴァイブレーションは、パッションをグルーヴに乗せて伝播する」とかいう日本語(笑)。
 僕は面白くて好きだ。
 弟子と電話するときなどは「なんかそれっぽい言葉を使って会話する」とか妙なテーマができあがることもしばしば。
 まぁ、小馬鹿にしているフシがないとは言えないが)

 分かりやすいスタイルなら、それが肌に合うかどうかもすぐに分かる。

 ことほど左様、誰にお金を払うかというのは、それそのものが投資活動であり、とても大事なことだと思っている。

 人間が相手だ。
 だから「使う」とか「利用する」とはならない。
 きっと使われたり利用されるのが嫌なのか、それで嫌な思いをしたことがあるのだろう。

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 大型店舗の駐車場というのは、ちょっとした住宅街のような構成になっているところが多い。
 一時停止(様のもの)があり、横断歩道(様のもの、ちなみに「さまのもの」と読むと擬似人格化しているようで面白い)があり、中には歩道や信号機(様のもの)まで備えているところもある。

 僕は昔から、駐車場内でも一時停止を守り、方向指示器(いわゆるウィンカ)を使用し、可能な限りの徐行をしている。
 空いていて、、見通しの良い状況なら、駐車スペースをナナメに縦断するくらいはするが、周囲の安全のためにも基本的に通路を使う。

 一方で、ここが地方だからなのか、未だにかなりの速度で構内を走行したり、ウィンカを使わず急停止したりする車もいる。
 いつか人を轢くのではないかと他人事ながら心配しているフリもしたくなる。

 法的に、あれら駐車場は私有地であり、住宅街ではないし道路でもない。
 歩道も一時停止も信号も、すべて無視してかまわないとみなすこともできる。
 おそらくそういうキモチなのだろう。
(もしくは本当に何も考えていないか)

 しかし大規模な駐車場にもなれば、その通路を「公共の道路」とみなせる(一般認識が可能である)から、裁判で争うと面白い展開もあるだろう。
 ちなみに保険会社は駐車場を、道交法適用外の場所として過失割合を算出する。
 べつに賠償問題になったら裁判したほうがいいよ、ということではない。
 事故など起こさないように普段から気をつけた方がいいのである。

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 先日、こだわりについてちょっと思ったことを書いた(あれでちょっとか! と驚く人もいるかもしれないが、内容、あるいは意味を要約するとほんの数行で書き記せると分かるだろう)が、じつのところ、僕は自分の使う言葉の音に、こだわりのようなものがあるように感じる。

 無論、他者に押し付ける気はないから、誰かに言ったことはない。
 ただ、ずっと前に書いたことはある。
 音読した時の音を感覚しながら書いていて、濁音にはとくに神経を尖らせる、と。

 読む人がいる前提だと、このあたりで僕は悩むことになる。
 勝手に書いて、僕は自身の認識を(アタマの中がウスラボンヤリなので)明文化したいだけなのだが、読者に「猫氏はそうなのか、私はせめて猫氏の前では気をつけなきゃ」なんて気を遣われてしまうことがあるからだ。

 僕の怒りや憎しみや慕情や物事に対する向き合い方のひとつひとつは、僕固有の、僕のためのものであって、他者が同意する必要はないし、理解する必要もない。当然、同調する必要なんてない。
 散歩の道すがら、出会った近所の人に挨拶するかのように「反対意見なんですよー」「そうですか、反対意見なのですねー」というのでいいと思うのである。

 政治家であるとか、会議をして一定の解決を導きたい、という場合ならコンセンサスというゴールは必要だろうけれど、そもそも自身の抽象的な定義の明文化作業(僕が「書く」作業のほとんどはこれである)においては、他者間のコンセンサスなんてものは目的ではない。
 むしろ自分の中の猫たちが、僕の感覚に対して正しく姿勢(スタンス)を決められることが大切だ。
(横文字多用はわざと、ではない)

 自分の意見や感覚に同意を求めたり、反対意見相手でも自分の見地に理解を求めるとなると、相手に反応を求めることだから、これは相手に対する押し付けのような気がして、僕はそれをしたくない。
(同時通訳ふう)

 そういう感覚が根底にあって、そのうえでいつも断定的に(あるいは積極的かつ過剰に濁してぼかして)書いているのではある。

 僕が日記を読まれることに対する恐怖もこれに似ている。「お前のために書いてるわけじゃねぇ」というものを勝手に読んで解釈して疑問をぷつける(いま、面白いかな、と思って半濁音にしてみました)のは、強姦されて「これがいいんでしょう?」と言われるようなものです。
 散歩の道すがらに人をレイプしてんじゃねえ、ということ。

 見やすい場所に置いてあった。
 読んでいいのだと思った。
 むしろ読むために置いてあるのだと思った。
 というのは、
「薄着だった」
「誘っているのだと思った」
「合意したと思った」
 という言い訳と一緒である。
 他人の日記や携帯端末を陵辱するな。
 その上、知った内容をあちこち吹聴して情報共有するな。
 もはやそれは輪姦だぞ犯罪者どもめ。
 そういう行いが当たり前みたいな日常を構築するための「常識」を使って言いくるめるな犯罪者め。
 とまぁ、僕は個人的にそんなふうに思うこともあるわけですが、これをどこまでも僕に固有の感覚として僕自身は取り扱う。

 おそらく一定以上の規模のコミュニティに、子供の頃から長く属している人ほど、周囲の同意というか、合意が必要だろうとは思う。
 それは組織の必然だから。
 ゆえに僕のような、子供の頃からほとんどのコミュニティに属していない人間は希少種であり、まぁ淘汰されるだろうな、とは思っている。
(必然、他者に同意を求めないし、世間に広める意義も感じない)
 ただ、水の中にふつふつと水泡が湧くように、不連続ながらもより大規模な集合の中で、乱数的にこうした個体や発想は発生しているようには感じられる。
 環境によって誘導される因子なのかもしれない。
 ちょうど川などの流れが似ているだろうか。
 淀んどり、渦を作ったり、ミクロな逆流を含みながらも全体は進んでゆく。

 集団にそもそもから属していないというのは、個体の存在やその意義に連続性を持たないことになる。
(無職でも、牛乳を買ったり、ささやかに経済活動はしているが)

 連続性といえば、最近、弟子が超絶的に婚活している。
 これが傍で眺めていてとても楽しく微笑ましい。
 人間たちとその社会は、一定以上の結合力や連続性を、本能的に求めているのだろう。
 え? 当たり前なの?

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 午後に妹(と姪)と食事。
 最近は週一回、一緒に食事をするのが何かのお決まりのようになっていて、そこに見られる調和を、ときどき乱したい気持ち(悪戯ココロ)になることがある。
 社会不適合というのは、僕の本能なのかもしれない。