文字数オーバーのために2つに分割しました。
(まさかの計算違い)
 前編はこちら
 
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 さて。話をフリダシに戻して。
 
 当時の僕には単純に、その「なんでも他人のせいにする」という様式が面白かった。
 なぜといって僕は他人を支配するなんて、非現実的で不合理で不条理で不自然だと思っていたので、そのことについてそれ以上、まともに考えたこともなかった。
 
 あるいは仮に他人を支配することが可能だとして、ペットを育てることと何の違いがあるだろう。
 ペットって、基本的に生かすも殺すも飼い主次第なわけだけれど(殺す意図を僕が持っている、ということではなく)、その支配の中で、ペットに「ちゃんとみんなに愛されるいいペット」を演じてもらうのは(つまりそういう存在でいてもらうのは)、存外むつかしいものではないだろうか。
 
 優しくしすぎるとわがままになって、最悪の場合、誰かを怪我させたりもするだろうし、厳しすぎれば人間に怯えて、やはり誰かが怪我をするかもしれない。
 
 状況や環境を支配したとしても、自分の理想や幸せを作ることって、その先の制御と維持にあるわけで。
 その「未来と理想を制御すること」をできる器の持ち主でなければ、どんな環境も状況も、活かしきれずに殺してしまうように思える。
 
 そんな制御なら、普段からしていることではないか。
 ならば「なんでも他人のせいにする」なんて不条理なことをして支配を実現するのはバカの骨頂。
 馬鹿馬鹿しくて、しようとも思わなかったからこそ、とても斬新に思えたのである。
 
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 とにかく僕はひたすら他人のせいにし続けたし、自分は悪くないと思い込み続けた(もちろん単にそれが面白いアプローチだったからで、それが正しいとはこれっぽっちも思っていなかったけれど、どうせデートで自宅についてきたガールを玄関で押し倒しちゃうようなオトコですから、自分が正しくなかったり悪かったりするのはへっちゃらです)。
 
 そして同時に「他人を信じられない病」に罹った。
 
 驚くなかれ(いや僕は驚いたのだけれど)なんでも他責にすることと、他人を支配したい欲求と、他人を信じられないことはイコールで繋がっている。
 そのことにさっき(これを書き始めるだいたい10分前)に気が付いて愕然とした。
 
 僕は育った環境に、自分以外の人間が(親も含めて)あまりに少なかったから、他人のせいにする余地が他の人に比べるとおそらく少なかった。
 それは同時に、支配しようと思う対象がほとんどいない状況を作ってもいた。
 僕は「ほとんど自分だけで構成される環境」で育っていたので、ほとんどの失敗も、たいていの成功も、自分の責任として考えるしかなかった。
 
 ところが他人のせいにするようになってからは、
「この人が悪いから△△できない」と思うようになった。
「あの人のせいで△△できない」といった具合に、誰彼かまわず吹聴しかねない精神状態になった。
 
 以前なら「△△したいけれど、実現にあたって、あの人の〇〇の要素が障害なのだ。では、どのようにすればクリアできるだろう」と考えていたのだ。
 それが相手を非難して、対策を考えるでもなく終わってしまうようになった。
 人間のせいであって、要素のせいではないと考えるようになっていたから、その人間を排除する以外に方法がないかのように思考の枠が狭まるのである。
 
 狭まった思考フレームの中で、物事がうまくいかない原因は「事」ではなく「人」に集約される。
 実際に誰かが目的達成の障害になる場合は、その人の価値観に起因することもあるのだけれど(行動も、感覚も、習慣も、その人の記憶と価値観に大きく縛られていて、その人の「個人」を形成しているのは、肉体と記憶の集約である価値観だ)、その人の考え方なり、身体機能なりを分析して改善策を練るのではなく、単に「あいつが悪いからうまくいかない」と言い切ってしまうのは、視野が狭い上に、物事に対する分解能が低いと言わざるを得ない。
 しかし単純に人を批判して終わりにしてしまえば、狭量な範囲であっても自分だけはいつも正しくいられるし、労力もほとんどない。
 そして同時に「正しさ」に酔えるから心地は良いけれど、他人を理解することは(そもそもしようとしていないから)できない。
 
 未知の価値観を消化して、理解して、自分の肌でわかる感覚にして、その上で自分の本来の価値観を保持するのはむつかしいことではないのだけれど、そんなものは理解しない方がラクだから、自分の価値観に執着している人は少なからずいるように思える。
 
 結果的に完全他責の人間は、ますます浅はかで、愚かになっていく。
 だから自分以外の誰も彼もが悪者で、自分を理解してくれないと考える。
 そりゃそうだ。
 自分が誰かを理解しようとしないのだから、誰かが自分を理解しようとしていても、その行為の意味や動機が分からないのだ。
「この人は余計な口を挟んでくるばかりだ」
とか、
「この人は私のことを知りもしないのに勝手なことを言う」
とか。
 そんなふうに、理解しようとしている他者をも敵対視して排除する。
 その挙句に出てくるのが「私には味方がいない」という言葉なのではないだろうか。
(僕は過去に何度か、この言葉を投げかけられている)
 
 自分だけが主人公で正しくて立派で、だから他人は私の正しさにひれ伏して付き従うがいい!
 という自己イメージがあるから「間違っている他人は自分の正しさに従えばいい」と思うのである。
 ちょう支配的。
 でもそんな独裁者チックなイメージを振りかざすのはいかにも「悪」だから、それを自分自身にさえひた隠しにするのである。
(自分が)(正しい)にマイナス1を掛けると、(他人が)(間違っている)になる。
 つねに(自分が)(正しい)は、反転すると、いつも(他人が)(間違っている)になる。
 そのままなんでも他責になり、支配的になり、当然に他人を理解しなくなり、だから他人を信じられなくなり、理解もされなくなる。
 
 いやー、すごい発見だった。
 ここまで到達するのにだいたい5年くらい掛かったわけだけれど、あの鬱屈した不運な(というと大袈裟なのだが)日々を忘れたくない。
 ちなみに「僕の至近距離にいた人物」は、僕を悪者にするために(絶対に死なない方法で)自殺未遂をした。
 何かの目的のために命がけだった、というのではなくて(そうなら別の行動を取るはずで)、死ぬことも目的ではなくて、単に「あなたのせいで私は死ぬほど厭な思いをさせられている」という現実を僕の棲んでいる部屋に構築したわけです。
 どう考えたって、相手が被害者じゃあないですか。
 僕は直接の加害者ではないけれど、間接的に、相手をいたわって、いうことをきかないわけにはいかなくなるではないですか。
 人の家で自殺未遂をするって、そういうことですよ。
 
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 そして僕は思った。
 彼ら彼女たちは、きっと、同じことを誰かにされ続けていたのだと。
 どう理知的に考えても自分に責はない(おめーの席ねーから! ということではない)、あるいは自分に責があったとしてもそれだけではないことが、世の中にはごまんとある。
 むしろ、完全他責なんて存在しないとさえ僕は思っている。
 
 たとえば交通事故の過失割合の判例で、追突、飛び石、停止車両への衝突、信号無視などは、100:0で、一方に完全無責が成り立つことになっている(あくまで賠償責任上は)。
 僕はそういった業界にしばらくいたことがあるのだけれど、その考え方にはなかなか馴染めなかった。
 
 だって、そもそもそんなところにいなきゃいいじゃん、と思ってしまうから。
 確かに賠償上の責任はないだろうけれど、それでも責める相手がいるのをいいことに好き勝手にいう人間がいたり、賠償上の責任を100%負って責める筋合いでもないのに「自分は悪くない」と言い張る人間もいたりで「どっちでもいいけど、そんなに自分が悪くないって言いたいならそもそも家から出るなよ」と思うタイプの人間だということ。
 
 袖すり合うも多生の縁ではないけれど、被害に遭うことを本当に避けるなら、何もせず、誰にも会わなければいいのだ。
「大事な車が傷ついた」とか騒ぐほど大事な車なら自宅に車の入る金庫を買って大事にしまって外に出すな、と思っている。
 
 それでも生きるから寝て起きるだけでも多少なりリスクはあるわけで、そのリスクと責任を負うのは、誰かじゃなくて自分でしょう、と私は思うのね。
 
 そしてもし仮に、自分は本当は正しいのに、本当に正しいのに、たとえば子どもから見た親や、周囲の人間が多数決的に自分のことを悪者だとした場合。
 それが何度も何度も何度も何度もなんどもなんども繰り返された場合。
 
 その人は果たして、客観的に正しさや過ちを、責任の割合や所在を、正しく精確に認識できるだろうか。
 まわりからただただ意味不明な「正しさ」を押しつけられて、その「正しさ」の中で自分は常に間違えている悪者にされて。
 理屈が意味をなさない世界で「正しさ」を支配しているのは「何か」ではなく単純に「誰か」で。
 
 なにかの拍子で、そうした支配者から自由になれたとき。
 あるいは誰かを自分の思うようにしたいという欲求を持ったとき。
 
 その人は、客観的な理屈に基づいた正しさを、それでも覚えていられるのだろうか。
 子どもの頃に折れてしまった「自分は正しいのに」という感情が暴走したりはしないだろうか。
「私は正しかったのに、みんなが間違えているから私が悪者になってしまった」と、そうくすぶる火種が、どこかで息を潜めたりはしないだろうか。
 
 そう考えると、とても悲しくて、苦しくなって、僕は誰が正しかろうが悪かろうが、やはり興味が持てないな、と思ってお風呂に入ることにした。
 
「僕の至近距離にいた人物」を、少なからず、僕は嫌ってはいなかったはずだから。
 
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 僕に限っていえば、正邪や善悪という意味での「正しさ」というものさしを僕は持っていない。
 僕にとって正しさはいつも「精確さ」のものさしだ。
 それが原因で他者との摩擦が発生することもあるけれど、それは「正しさ」が病気になっている人のひとつの特徴なのだと僕は思ってしまう。
 だからついつい誰にも会わずに、独りで過ごしてしまう。
 
 僕が悪だろうと独善だろうとかまわない。
 ただ精確に、自分を測れたら、それでいい。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。羊の皮をむいてみれば、心の奥の狼はすぐにその歯をあらわすであろう。世間で、人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人といっている。たぶん人間はいつまでも禽獣を脱しないから罪人となるのであろう。飢渇のほか何物もわれわれに対して真実なものはなく、われらみずからの煩悩のほか何物も神聖なものはない。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 
 文頭文末の引用は、
「第六章 花」(p.78-79)
       From「茶の本」
(著作:岡倉 覚三 / 訳:岡村 博 / 発行:岩波文庫)
 によりました。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
 
[ Randomizer ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Convergence-Darkness-Ecology-Engineering-Interface-Kidding-Life-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Memory-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-暗闇エトランジェ-
:-いのちあるものたち-:-夢見の猫の額の奥に-
 
 
 
 
 
 
 
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200301
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
他責世界の完全善行
SUBTITLE:
~ Sad ruler. ~
Written by BlueCat
 

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::神社仏閣は、次から次へとわれらのまのあたり崩壊してきたが、ただ一つの祭壇、すなわちその上で至高の神へ香を焚く「おのれ」という祭壇は永遠に保存せられている。われらの神は偉いものだ。金銭がその予言者だ! われらは神へ奉納するために自然を荒らしている物質を征服したと誇っているが、物質こそわれわれを奴隷にしたものであるということは忘れている。われらは教養や風流に名をかりて、なんという残忍非道を行なっているのであろう!
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 数年前、とあることをきっかけに、ほとんどすべてのことを他人のせいにすることにした。
 まず最初に、その動機すら他人のせいにするが、当時、僕の至近距離にそういう人物がいたのである。
 その人は僕が自責の念に駆られる必要のないレベル(たとえば、僕にとって「自分ではない」という意味で他人であるはずの、その人自身の感覚や行動)まで僕に責任を押し付け(あるいは責任を感じるように現実を操作し)、僕個人の日常や過去や人格の根底に至るまでを否定することで僕とそれを含む現実を支配しようとしていたようなのである。
 
 たとえば「今日は数学の勉強が進まない。やる気にならないのはあなたのせいだ」といった具合。
 たとえば「天気が悪くて気分が晴れやかでない。あなたのせいだ」といった具合。
 たとえば「先日、私が決裁をもらった案件はやっぱりやるべきではなかったと思う。そもそもあなたがやろうと言い出したことでしょう(初耳です)」といった具合。
 
 コトの異常さはご理解いただけて?
 
 認知症ではないのかと疑いたくなるレベルだけれど、強迫観念かもしれない。
 いずれにしても僕は悪者としてターゲティングされ、僕を含めた周囲の物事が悪い方向に進むことを食い止めることができなかった。
 
>>>
 
 当人にそのような(至近距離にいる人間を自分の思う未来を引き寄せるために利用しようという)意図がなかったのだとしたら、悪意があるよりさらに悪質である。
 致命的に悪質である。
 
 ゆえに僕は「当人にそのような(悪質な結果を招く)意図がなかったのだと信じたい」とは書かないし、そのように信じていない。
 信じたくもない。
 
 意図がある場合は、たとえその意図に悪意が含まれるとしても、目的が達成されれば欲求が満たされ、満足が生まれ、物事はサイクルをより良く維持するよう機能することを目的に再設計されるだろう。
 一方で、明確な意図もなく他人を支配するために(あるいは支配することで現実を操作するために)無意識的に悲観的になり問題行動を起こすような場合、人格が未熟であるか、論理的思考力が欠けているか、他人の気持ちが分からないか、現実の認識が不完全か、それらのいくつかが重複している可能性がある。
 自覚のない悪意は、過食のメカニズムと同じで、ある欲求を、本来関係のない異なる認識や手法、現実の操作によって満たそうとすることになりかねない。
 たとえば人間関係に不満があって、人間関係の中に潜在している問題(多くはコミュニケーション)を解決すれば満足するのに、食べること(満腹感)で満たそうと思っても満たされるはずがない。
 
 個々人の欲求や意図が、他人を利用する(あるいは協力してもらう)ことでしか解決できないことも確かにあるし、その意図が独善的であったり、一方的であったりすることもあるだろう。
 それが必ずしも悪いことだとは思わない。
 たとえば野球をしたいとなれば、ある程度の他人を必要とする。
 昭和の時代には、どうしても「息子とキャッチボールをしたい」とか「娘にお酌をしてもらいたい」というタイプの「おとうさん」がいたようであるが、今ならパワハラやセクハラで訴えられるのだろうか。
 もちろん相手もそれを喜んでしてくれるなら問題はないし、嫌々だとしても、相手が満足するなら多少は譲歩するというのが人間関係だと思う。
 それが行き過ぎれば、客観的に悪意があると見なされることはあるだろうし、強要しているならばたしかに人権侵害でもあるだろう。
 
 ただ自分が何らかの損をしても、相手が満足することで、損失を補って余りある嬉しさを感じる人はいるし、それができるのが人間の(あるいは知的生命体の)能力である。
 しかし状況はときに複雑化する。
 
 たとえばデート中に「僕が相手のガールとぱやぱや(セックスのことです)したいと思って」いて、しかも「僕だけが」「一方的に」したいと思っている状況がとにかく嬉しいという(ちょっとアタマオカシイ)ガールも世の中にはいるのである。
 しかもそういうガールは、仮に自分自身もぱやぱやしたいと思っていたとしても、ぱやぱやしてしまったら妄想世界が終わってしまう(僕が、一方的に、ぱやぱやしたいと思っていなくてはいけない)ので、二人がぱやぱやする現実は当然にやってこない。
 この場合、僕は彼女に満足してもらうために「僕だけが」「一方的に」「ぱやぱやしたい」現実を作って認識してもらう必要があるのである。
 もはや目的と手段なんて宇宙の彼方。
(そんなガールはごくごく少数派であることを心から願う。じゃないと安心してガールにごはんを作ってふるまうこともできない)
 
 それでも相手が自身の目的や欲求を正しく知っているなら(可能ならちゃんと全部、隠さず教えてほしいとは思うが)その目標は実現に近づくのである。
 どちらか一方でも、目的地を知っているから。
 
 ところが本人すら自分の本当の目的や、美化しないところのナマの欲求をきちんと理解していない場合。
 上記のケースだとおそらく僕は何もしないままデートが終わるので、陰で「退屈な男なんだよ」なんて吹聴されてフラれるのである。
 あるいは仮に僕がナニカを強行してしまった場合、完全犯罪(完全に犯罪、という意味で)が成立してしまうのである。オソロシイ。
 
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 ちなみにこの「完全犯罪」という言葉を調べてもらうと分かるが(ちゃんと辞書くらい引けよな)「完全に犯罪」ということではない。なぜなのだろう。
「完全隠蔽犯罪」とか「完全未認知犯罪」とか「完全未確認犯罪」とかそれらしい名前にしてほしい。
 
 あれか。
 若者特有のあれか。
 省略語文化か。
 なんちゃって若ぶってるアホウな中年どもも使っているあれか。
「オレっち、ちょいワルだからぁ、むつかしい言葉とかぁ、省略しちゃうしぃ」とかいって省略するのか。
 省略文化、略して省文、とか言っちゃうのか?
 
 かくいう私も「準確定申告」という単語を何度も連呼するのが面倒で「準確が」って、シロートのくせに知ったふうを装って言ってみたりしました。
 面倒くさいですよね、準確定申告、いろんな意味で。
 
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 そのようなわけで(どのようなわけで?)仮に悪質であっても、その意図が自覚されている方が、相手のことも、そこに働くメカニズムも、まだ信頼できるのだ。
 たとえ相手が自分のことをいいように利用した(ごはん食べさせてお酒飲ませてぱやぱやされちゃうようなことがあった)としても、そのうえ相手が(あれは酔っていたのを介抱しただけなんだ)(あれは君から誘ってきたんだ)なんて詭弁を並べるようなクズであったとしても、それでもなお、相手が自身の明確な悪意を自覚していれば、再発は防げるのではないだろうか。
 少なくとも、再発率は減るんじゃないだろうか。
 まぁ最低でも、相手が悪意を自覚していることを、こちらが知っているということになれば、当然互いに慎重にならざるを得ないはずで。
 もっともそういう経験がないので、完全予想で書いているのだけれど。
 
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 完全予想という言葉を、たとえば天気予報で使ったならば、おそらく「完全に当たる予想」の略ではないかと、僕が視聴者なら思うだろう。
 なんといっても「完全予想」だ。
「完全」の響きが、予想に含まれる不完全さを払拭する。さながらそれはまるで予知。
 未来予想図よりも確実で、現実的で、ユリ・ゲラーも驚くくらい自然な感じがする。
 完全予想。
 当たりそうだ。むしろハズれる気がしない。
 
 ところが、競馬場で予想屋がこの言葉を使った場合、とたんに雲行きが怪しくなる。天気予報でもないのにどうしたことか。
 完全予想。
「これは完全予想であり、実在する人物、組織、団体等とは一切の関係がありません。」というテロップまで見えてくる。むしろちゃんと予想してくれ、という気持ちになる。
 
 僕の使った完全予想は、後者である。
 僕はお酒が大好きなので、お酒を好きでない人に無理に飲ませたりするのは(お酒がもったいない上、強要する行為をみっともないと感じるので)しないし、ガールもぱやぱやも大好きなので、(いろんな意味で)好きでもない人とはしないわけです。説明終わり。
 
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 こんな調子で書いているから本題にたどり着かない。
 読んでいる人は、本題が何だったかなんて覚えてもいないだろうからまぁいいか。
 
 とにかく、意図を自覚している人間が相手なら、状況を自発的に改善できる。あるいはある種の恒常性すら期待できるだろう。
 お互いが理知的な人間であればあるほど、最適な改善が望めるだろう。
(まぁ、相手が不快になることくらいあらかじめ完全予想して振る舞うのがジェントルマンなんじゃないですか、と僕などは思うわけですが。)
 ところが己の意図(悪意)を自覚していない人間だったらどうなるだろう。
 
 まさに「私が何をしたというのか!」と憤ってくるだろう。
「あなたがそういう状況を作った」と、責任を押し付けるだろう。
「あなたがそういう状態だったから、自分は不本意だけど、それに追随した」と弁解するだろう。
 それをどこまでも、押し付けてくるだろう。
 相手にも、第三者にも。
 だって自分の意図なんて、知らないんだも〜ん。
 自分の悪意なんて、認めたくないんだも〜ん。
 自分はいつもキレイで汚れていなくて完璧で間違いなくて、みだりに他人に「死ね」とか「クズが!」なんて罵ったりしないし、まして下半身の赴くままにむりやりぱやぱやできちゃう状況を構築したりなんてしないも〜ん。
 という自己像ができあがってるのね(口調が変)。
 
 ゆえに、たとえそれが悪意でなかったとしても、自分の欲求や意図を自覚していない人間は、行動が悪質になる。
 事態はどんどん悪化する。
 本人は周りのせいにする。
 環境や、他人のせいにする。
 
 善意による行為さえ、意図を自覚していない場合、ふとしたきっかけで相手を悪者にできるのだ。これは強力な武器だ。
「あの人は(困っているようだったから)手を差し伸べてあげたのに、ろくに感謝もしない」なんて言ってくるのだ。
 いや、言わなかったとしてもそういうことができる。
 さらに、もっとひどいようにも言える。
 
 相手に与える行為(まぁ、好意や善意によるものだろう)の意図や動機を(それがたとえ売名や自己満足であったとしてもそれをきちんと)自覚していれば「困っていると感じていたあの人が、元気になった」というところで「ああ、よかった」となるはずである。
 その後、仮に相手との関係が悪化したとしても(まぁ、あのときはそうしたかったし、それで自分は満足した)と考えられる。
 
 ところが意図を自覚していなければ、善行さえ他責になって「相手は一生アタマが上がらない」という状況が出来上がらないと(「作らないと」ではないことが恐ろしい)気が済まなくなる。
 これが恐怖政治的支配の人間関係といわずに何というのか。
 
 あれか。
「完全善行」か。
「あのときは私、咄嗟のことで、ついつい、やっぱりね、人間って、誰かのためにならなきゃ、みたいに思う部分とかが、その意識してない無意識のところにどこかあると思うのよ。うんうんうんうん、そうそそうそ、わかるわかる、それでね、だから私、それはいいことだしむしろなんて言うの? 常識じゃない? だから、咄嗟にね、そうしたのよ」(そしたらねぇ〜、それなのにさぁ〜……。と続く)
 
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 本人は無害なフリをしているだけに、自覚のないすべての意図と欲求と行為は、どんなものであっても悪い方向に向かう可能性が、自覚していた場合と比較して、格段に高いであろうと予測されるのである。
(もう完全とか言わないからね)
 
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(まさかの計算違いで全文が文字数オーバしたので、ここまでの序文(笑)で一度、区切っています)
 
 つづきはこちら
 
 
 まだカタチになっていない、曖昧な、抽象的な、感覚によったことを書く。

 かれこれ1年ほど、会社員をしていない。
 それまで勤務していた会社は解散してしまったし、介護もあった。

 経済という潮流があるとすれば、僕は漂流者になったのかもしれない。
 いや、流れにさえ乗っていないのだから、沈没した格好だろうか。

 経済というのは不思議なもので、それそのものから自由になるためには経済を必要とする。
 たとえば日本の税金から全力で逃れたい、と思ったら、財産を捨て、社会保障も捨て、国外に行かなくてはならない。
 経済活動を抑えるために、自給自足を目指したとしても、結局、土地は必要になる。
 畑を耕したり木を育てたり、魚のいる川や池まで所有しようと思ったら、文字通りタダではすまない。
 そして税金はかかる。

 物事の大半は、その対象から自由になる方法が比較的明確である。
 まず、その対象に捕われないこと。
 不自由というのは、相手がこちらを捕えて、あるいはこちらから進んで囚われることによって発生する。
 中には、不自由というのは絶対的な必要悪だと信じて疑わない人もいる。
 確かに何かから自由になれば、何かが不自由になる。
 しかしその選択をする根本的な自由はどこにあって、誰が持っているのだろう。
 それを考えない人が多いようで、与えられた範囲、認識できる範囲の中で勝手に不自由に囚われて、他人を批判して生きているように観察される。

 何者にもとらわれず生きるのは簡単ではない「かも」しれない。
 少なくとも、家庭/家族という関係性の中で育った人が多い以上、そうした関係性の中からの視点しか持たない人が多くなるのは仕方ないことかもしれない。
 つまり人間は、子供のうちはどうしても環境にとらわれるのだ。そうしないと大人になれないといってもいい。
 最初から、捕われているし、囚われてもいる。

 では大人になったら、その囚われを客観的に認識できるだろうか。
 もしも比較するべき価値観や物的存在に対する認識を白紙化して、現在の認識と照らし合わせることができるなら(多くの人間は矛盾を嫌うロジックを持ちやすいため、ここでも拒否反応を示すことが多いが)自分自身のとらわれから、自由になれるかもしれない。

 このように「とらわれないこと」と「とらわれていた場合、距離を置くこと」が、対象から自由になる上では重要な技術になる。
 物理であっても、たとえば火傷をしたくないなら、火には必要以上に近づかなければよい。
 ただし寒い屋外で焚火をしているなら、ある程度の距離にいないと利便を受けられない。
 これをコントロールすることが自由であり、焚火をしないで別の方法(たとえばベッドで誰かとくっついていてもいい)で暖を取れるならそれでもいい。
 熊に遭遇した時も、そのまま捕らえられるのを待たず、距離を置けばいい。
 最初から距離が近くならないように予防するのも非常に有効だろう。

 ところが経済は、そうではない。
 経済から離れ、自由になり、あるいは独立するには、経済にどっぷり浸かって、経済そのものに対してみかじめ料を払うしかない。

 喩えていうなら、もはや空気や水のようなものである。
 逃れると、自然の摂理で死にかねないといった具合に。
(少なくとも通常は、そういった暗黙の忌避感を植え付けられていると思う)

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 ところで僕は「経済から自由になりましょう」なんてプロパガンダをしたいわけではない。
 単純に(人間が作ったもののくせに)仕組みが複雑化し、不明瞭になりつつあるから整理しているだけである。
 だから僕自身も含めた誰かがこれを読んで「ふーん、なるほど」なんて発見はないかもしれない。
 ここは自分でも、さっぱり予測できないところである。

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 経済は、人工的な産物であるがゆえに、不自然な存在である。
 自然言語も不自然な存在ではあるが、そこから自由になるために「オレは今から言葉を使わないけんね」と宣言することもできる。
 人間の作ったほとんどすべての道具について、それは人工的であるがゆえに不自然な産物であり(「自動車のなる木」とかがあったら面白いが)、その道具と距離をどう保つかは各個人に任せられている。

 経済はどうだろう。
 もちろん、自身の意思でどっぷり経済活動に浸っている人はいいのだけれど、僕のように「いや、それほどでもないッスよ」と思っている人もいるはずで、その傾向は以前より広い範囲で確認されるようになってきている気がする(主にネットの作用で)。

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 僕個人に限っていえば、お金そのものは嫌いではない。
 だからといって、偏執するほどのものでもないとは感じている。
 欲しいモノのほとんどが、お金で交換できるから便利なのであって(大量に持っていても腐らないし)、お金そのものは焚き付けやメモ、オモリにしか使えない。

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 社会としては、経済ありきで動いている。
 つまり社会は完全に人工的なものになったということだ。
 旧来、自然発生した人間の社会は(ある程度以上、人工的ではあったと思うが)、物理的な国土を完全に埋め尽くすほどの実態を持つには至らなかったはずだ。
 だからその社会に属さないものは自然に存在していた。

 しかし人工的な機関に置き換えられた社会では、自然な(社会に属していない)個を不自然とみなす。
 ベン図的にも論理式的にも分かりやすいだろう。
 A = not ( not A ) である。

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 人口の減少に伴って、経済は本来、個々人にとって飽和しうるものだろう。
 たとえば先の、水や空気のようなものだとしたら、池の中の生き物の総数が緩やかに減少するとき、水や空気は(循環作用を度外視して、単純な容積内の飽和量を考えた場合)、各個体にあり余ることになる。

 不思議なことは、社会(あるいはそれを先導する役の人たち)が、そうは思っていないことだ。

 社会というイキモノにとって、細胞が多いほうがよいのはわかるし、細胞が多ければ器官が増えるのも自然である。
 では、社会を生かすための経済であり、経済を生かすための個人なのだろうか。

 個々人にとってのリソース(経済や、それを消費して作られたインフラ、社会そのものなど)が飽和に向かうとき、社会そのものは酸欠に向かう。

 なぜなら人間社会は人工的で、放っておいても恒常性によって苔の量が保たれたり、水の汚染度が一定の範囲に収まったりはしないからだ。

 池の苔の呼吸する二酸化炭素を一定以上にするためには二酸化炭素を吐き出すイキモノが必要で、イキモノが減って二酸化炭素が減っているから、苔は酸欠してしまう(実際の苔は、しないだろうが)。

 二酸化炭素が経済で、イキモノを人間と考えれば、酸欠しているのは経済そのものかもしれないとも考えられる。

 人口減少はどうあっても免れないだろうし、これまでが多かったのだとも考えられる。

 細胞たちは O2 を CO2 に変える。
 運動して経済を生む。
 社会というイキモノは、その運動によって動く。
 CO2 の飽和は、細胞とイキモノを殺す。

 どうなんだろう。
 まだよくわからない。

 いずれにしても人工的なものだから、恒常性は人の手を介して保たれている(これまでもそうだったし、これからもそうだろう)。
 代替できる呼吸系や代謝系を、社会は獲得するだろうか。できるだろうか。


// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200209
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
愛されなかった道具について
SUBTITLE:
~ Artifacts spirit. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 ちびた木べらがある。
 黒ずんで、べたべたしていて、すり減ったへらの部分は、半分以下しか残っていない。
 
 持ち主は、私の介護対象者だった人だ。
 血縁関係上は僕の伯母にあたるが、戸籍を調べると僕の伯母はそれなり以上に人数がいるし、僕は彼女を単なる介護対象者としてしか見ていなかったので、ときどき、機械的にそう呼ぶ。
 
 あるいはそれ以前は、伯母と甥という関係だったのかもしれない。
 でもどうだろう、年に数回、お茶を飲んで世間話をするだけの関係が、甥と伯母の関係だというのなら、僕にとっての伯母は実際の数より数倍も多いことになる。
 
 戸籍上の血縁関係に限っていうのなら、伯母であるかどうかなんていうことは、少なくとも僕にとってはどうでもよいことだったし、事実、僕は親戚づきあいというものをほとんどしない。
 する価値を見出さないからで、いずれこの国でもそれが自然になるだろう。
 もしかしたら、すでになっているかもしれない。
 
 自然界の他の動物を見ると分かるが、関係性を重視するのは、せいぜいが親子と兄弟くらいである。
 祖父/祖母の代まで同時に存える種は限られているし、伯父/伯母と甥/姪で関係性を持つ人間以外の種族を僕は知らない。
 家系図なども含めて、親戚という存在を意識して行動することが、本来は不自然なのだと思う。
 血族というものは単なるメディアであって、その中に位置する個々人とその人格をコンテンツと考えれば、重視すべきはどちらか明白だと思う。
 個人の属する社会や、その視野が狭ければ、すなわち考えが古ければ、メディアが重視される。
 人間の社会は、中身を見定めなくてはいけない段階をとうに過ぎている。
 
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 木べらに限らず、伯母たちの(伯母と、その夫が暮らしていた家の)台所は、ほとんどの道具がひどい状態になっている。
 ざる(カランダ)は、なんだかよく分からない皮膜によっていくつかの穴が塞がれ、ステンレスの輝きは完全にくすんでいる。
 まな板(おそらく素麺などの化粧箱のフタだったもの)は、反り返り、漂白剤で灼かれたのか、白い模様を浮かべている。
 僕が持っていった足つきのまな板は、謎の金属腐食で色が染みてしまって、果たしてどこまで削れば消えるのかが分からない。
 ステンの包丁は、塩によってか酸によってか塩素によってか腐食したようで、刃は緑がかった茶褐色になり、その腐食は「なかご」にまで達して膨張させてしまったのか、柄が大きく割れているものばかりだ。
 それ以外にも、いくつかの包丁が、台所の開き戸の箱に、乱雑に放り込まれている。
 おそらく、使わないのに、使えるから捨てずに仕舞っておいたのだろう。
 鍋の多くも、くすんで、あるいは腐食している。
 冷蔵庫の中は、彼女が介護を必要とする数年前から、掃除されたことがない。
 お皿やカップ、アイスペールやカトラリィも多数あるのだけれど、どれもこれもひどい扱いを受けている。
 綺麗に磨かれることなく、塩や酸や塩基(あるいは硫黄によるものもあるかもしれない)によって、赤錆や黒ずみが発生し、陶器や箸もくすんだ汚れが残っている。
 そしてそれでも、伯母は使い続けていた。
 
 死人をとやかく言うつもりはない、しかしその使い方はどうみても「モノを大切にしている」人のそれとは思えない。
 伯母が昔からそういう「道具の使い方」をする人だと知っていたから、僕は彼女の料理には箸をつけたくなかった。
 それどころか箸さえ信用できない状態であったから、割り箸を使わせてもらえる時はせめてもの救いのように感じた。
 
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「モノを大事にする」というのは便利な言葉で、ろくに手入れさえしなくても、使い潰れるところまで使えば自動的に壊れるから「最後まで」使い切ったことになる。
 この「使い潰す」ことを「モノを大事にする」ことと勘違いしている人は、仮に使わないものでも「使えるから」という理由で、はしたなく仕舞い込む。少なくともその様子は、僕にとっては「はしたない」行為だ。
 僕の思うところの「モノを大事にする」というのは、正しく使って、きちんと手入れをして、それでも役目を果たせなくなったものは感謝して捨てることだ。
 
 ちびた木べらは、たしかにその小ささが便利なこともあっただろう。
 けれど、それしかない状況を考えるに、より大きなへらが必要な場面からは不便なモノだったはずだ。
 それに気づかない、あるいは気づいていても放置する鈍感さを、僕は哀れに思う。
 使われもせず、研がれもしない、ナイフや包丁たち。柄を直してもらえない刃物たち。
 使うたび、水を切るだけで放置されるカランダやボウル。
 
 彼女にいいように道具にされた道具たちが、僕は不憫でならない。
 だからといって、僕には、もっと手になじんで、ずっと使っている道具たちがあるのだ。
(足つきまな板に関しては、本当に、彼女の家に預けるべきではなかったと今でも後悔している)
 ゆえに、僕は彼ら(あるいは彼女たち)を次々処分する。
 
 おそらく、彼女は自分が「モノを大事にしている」と自負し、あるいは自慢さえしただろう。していたような気もする。
 私の鉄瓶をして「貴方やけにいいモノを持っているけれど、それは分不相応ではないの?」といった意味のことを言ってきたこともある。
 僕はペットボトルで水を買うことをやめ、浄水器を使うこともやめたのだ。
 水をボトルに詰めて輸送したり、浄水ユニットを製造するコストの代わりに、湯沸かしするコストを使っているだけだ。
 でも、伯母はそういう視点では、モノを見られないから、僕は鉄瓶を彼女の家から引き上げた。
 
 クローゼットを含めた広いスペースにぱんぱんに詰められた大量の衣服をして彼女は「それほど持っていない」と言っていたけれど、実際、そのうち数着しか身に着けなくなっていたようではある。
 パジャマと数着のスーツしか服を持たない僕にとっては、ちょっと異常な光景ではある。
 
 彼女に使われていたすべての道具を見て思う。
 いずれも、愛されなかった道具なのだと。
 だから僕は彼ら(あるいは彼女たち)を哀れに思う。
 彼女は、彼女自身や彼女にまつわるナニか(少なくとも伴侶ではないと推測する)を大事にするために、道具をないがしろにし続けた。
 どこから付喪神が現れてもおかしくないほど、彼女の家には「愛されなかったモノ」がある。
 裏庭の御稲荷様の社は朽ち始め、中の稲荷様の人形は倒れ、鏡は泥と埃にまみれている。
 屋内に2カ所ある神棚にある札さえ、いつ替えられたものか分からないほど汚れている。
(いずれの鏡も、開かれていないことを祈るばかりであるが、祈ってばかりいるわけにもいかないから、いずれ閉じる予定ではある)
 
>>>
 
 分からない。
 僕には、モノを大事にするという定義が、分からない。
 僕はモノを大事にしているつもりだけれど(たとえばデスクトップコンピュータは、2008年から12年も使い続けている)そのメインテナンスには過度に手を掛けているのかもしれない。
 
 しかし手入れをしなければ、靴も、服も、ナイフも、まな板も、ざるだって、傷んで早くに朽ちてしまう。
 使い潰れるまで使うのも愛情だろう。そして同時に、手入れをするのも愛情だろう。
 
 僕はいくつかの料理店の厨房で、やはりすり減った木べらや、刃が短くなり、あるいは(使いやすく研ぐうちに)変形したナイフや包丁を見てきた。
 それらは削られて、カタチを変えてはいたけれど、あるいは(仕事の道具だから)愛されてはいなかったかもしれないけれど、きちんと手入れをされていた。
 料理人が自分専用のナイフや包丁を持っていれば、それは愛されている道具だと、それでも僕は思ってしまう。
 
 一生使える道具というものを知らず、手入れをしながら共に育て合える道具を知らないことを、僕は貧しいことだと思う。
 そういう意味でいえば、伯母は貧しいまま死んだように思う。
 
 あるいは僕は豊かなのだろうか。
 手入れを許してくれる道具たちを見て思う。
 貧しいか、豊かか、それは分からない。
 でも彼ら(あるいは彼女たち)と共にいられることは、下手な人間といることよりもずっと安心する。
 なにせ道具を使い潰すしか知らない人間は、他人さえ使い潰そうとするからだ。
 それを愛情とは、僕にはとうてい定義できそうにない。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
  残り続けるカタチ[要修正]
[ Cross Link ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Derailleur-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Form-Interface-Link-Love-Maintenance-Mechanics-Memory-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Poison-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
 -青猫のひとりごと-:-ひとになったゆめをみる-
 
 
 
 
//EOF

 自分を性同一性障害だと思っていたことがある。

 なにぶん、自分のまわりには女性しかいなくて、男性のサンプルはわずかに父上だけだった。
 僕の子供時代の世界は、女ばかりで構成されていて、見るもの聞くもの話すこと、すべてが女性というフィルタを通さざるを得なかったのである。
 
 僕が自我を持ち始めたのがだいたい3歳の頃だったと思うのだが、このときの僕の世界は人間の女性10人ほど、男性2〜3人(すべて成人男性)、犬2匹、猫4〜6匹、鳥1〜2羽という、家族とペット、家にやって来ている従業員によって構成されていた。
 実に人間と動物はほぼ同数、人間に限れば女性が男性よりもはるかに多いということになる。
 親族や従姉妹も、女性が多い。
 おそらく、そういう家系(ラーメンの話ではないので、ここでは「かけい」と読もう)であると想像する。
 
 当然そうした環境において、男性というのはマイノリティだった。
(女性が男性に対して支配的である、ということではないが、場の雰囲気は大きく異なると僕は思う)
 それに僕の両親や姉は「男らしくなさい」とか「女の子なんだからこうしなさい」という教育や指導、しつけをしなかった。
 姉たちはよく、僕に女物の服や下着を着せて遊んでいたし、妹は僕をママゴトの相手に重用し、気に入らなければ階段から蹴落としたり、背中を噛んだりしてきた。いずれも僕は無抵抗だったし、とくに悪いことをしたわけではない。
(当時のことをきちんと記憶している彼女によれば、無抵抗の僕に暴虐をしたのは、理由があってのことなのだが、いずれも自他共に認める理不尽な動機である)
 
 姉たちは僕が小学生になる頃には月経と生理用品などについて教えてくれた。そういうものが当たり前の環境だった。
 TV番組や本、家事や生活、人間関係にいたるまで、さまざまな「女の子文化」がそこにはあって、それと並列して、たとえば機械いじりであるとか、プラモデル作りであるとか、その他の木工や鉄工工作が(主に長女と父親の趣味として)存在していた。
 
 両親は、姉妹間やよその家の子と我が子とを比較することで競争させもしなかった。
 もちろん当事者同士の心の中には、不公平感があったようだが、僕は3歳で自分の要求を最優先にしてもらうことについては諦めていたから、妹がどれだけ可愛がられていても(そして彼女がどれほどの悪魔っぷりを発揮しようとも)それを微笑ましく眺めていた。
 
 僕は小学生になるまで幼なじみの女の子や姉妹といつも遊んでいたのだけれど、両親はとくに気に留めていなかったようだし、たまに男の子の遊びに混じって、競争やケンカで負けて泣いていても「うるさいから/男の子なんだから、泣きやみなさい」とか「負けたら勝つまでやり返せ」なんてことも言わなかった。
 僕は気が済むまで泣くことを許されていた。
 おそらく両親には、特段の教育方針などがあったわけではなく、単に忙しくてかまけていられなかったのだとは今にして思う。
 
 いずれにしても僕は、てっきりその環境の中のマジョリティ、すなわち主流かつ多数側たる女の子であろうと思っていた。
 いつかは身体も成長して、月経が始まって、仕事をしたり、結婚して子どもを産むかもしれない、と考えていたのである。
 もちろんときには(たとえば温泉や公衆トイレなど、公共で性別が明確な施設などで)「男の子だからそっちに行ってね」と言われることはあったが、それでも自分は女であり、あるいは女に「なる」ものだとてっきり思い込んでいたのではある。
 
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 ところで自我とは何だろう。
 簡単に言ってしまうと「自分が自分であるという感覚」のことだ。
 こだわりや自意識、欲なども強く関わるのではないかと僕は思っている。
 それにしてもこの「自分が自分であるという感覚」は不思議なものである。
 
 こんな意識はなくても、自分は自分なのである。
 どこかで僕以外の誰かが「私が青猫工場の工場長、青猫です」なんて言い出したりすることはまずないだろうし、生年月日や住所といったパーソナルデータを複写記憶しても、僕という個人のコピーにはなり得ない。
 仮にそういう個体が現れたとしても、僕は僕の肉体に呪縛されている限り、僕でしかないのである。
 
 自認しようとしなかろうと、他者がどのように評価しようと、自分の肉体に宿る意識がある限り、それはその肉体に紐付けられた、その人の人格なのではある。
 たとえ自覚のない人格があろうとも、自我に意識のある限り(あるいは意識に自我が宿る限り)現象としての自我の実在を視認できなくても、それは水晶振動子のように、もれなく内在してパルスを発振している。
 
 ところで自我は何に備わっているのだろう。
 おそらく、この身体だろう。
 少なくとも、この身体の外にはないように感じる。
 肉体の死後に、仮に意識がどこかにあれば、その意識は自我を持つかもしれない。
 しかし意識しかない存在というのは、流れる導体を持たない電気のようなものではないだろうか。
 まして「自我しかない」存在なんて、なかなか想像できるものではない。
 彼ら(その、自我だけのナニカ)は、肉体もないのに自我だけがあることになる。
 もしかしたら、意識もないのに自我だけが残っているのかもしれない。
 そんなことを言い出したら、草木どころか石や川のせせらぎにさえ自我があるかもしれないと疑う必要が出てくる。
 いや彼ら非生命的物質や運動体(せせらぎは、川ですらないから水ではない。音であり、空気の振動だ)は、意識があって自我もあるのにそれを表現し、疎通する手段を持たないのかもしれない。
 これはよく考える必要がありそうだ。
 自我は、意識という基盤の上に流れる弱電のようにも思える。
「自分が自分だ」というのが感覚であれば、その感覚を受容する意識が必要なのではないだろうか。(肉体なしの意識なんてものが存在するからどうかは別問題として)
 
 意識があるならば、自我は自律的に発生する可能性が高いといえるだろう。
 
 しかし彼我の差そのものが存在しない領域で、意識は芽生えるだろうか。自我は自我を自認するだろうか。
 そもそも非生命と考えられているものたち(先の石や川や、そのせせらぎなど)は他者を感覚することができるだろうか。
 外界を認識しうるセンサのないところに、他者を認識する可能性があるだろうか。
 おそらく、ない。
 他者を認識できない領域で、自己を認識できるだろうか。
 仮に意識があり、自我が発生したとしても、他者を認識できないそれは、おそらく我々が通常に認知している自我とは異なるものにはならないだろうか。
 
 仮に、非視覚的存在(放射線や重力、音波などのほか、たとえば定型的/定量的に完全な再現性を持って測定しうる類のオカルティックな存在)が、光学的にも熱量的にもかなり限定的なスペクトルにしか存在しない(宇宙的には控えめに言っても)比較的ミクロで、(素粒子的には控えめに表現しても)比較的マクロな我々人間を、どのように感覚しうるのだろう。
 
 仮にあったとしても、量子力学的な領域にならないと、彼らは意思を表現する手段を持たないだろう。
(箱の中の猫が、もしかしたら生きていたり死んでいたりする、アレである)
 仮に意識があり、量子力学的にでも意志を表現しているとして、いったい今まで誰かが、そこから意志を汲み取って、疎通したことがあるだろうか。
 あるいはこの先数千年後に、可能になるだろうか。
 可能になったとして、我々は、いったい何を疎通するのだろう。
 明日の天気? ガン細胞組織の発達の兆候? 遠い星での出来事? 
 
 そんな奇想天外な予測を立てるよりは、彼ら非生命(物質やエネルギィその他もろもろ)に仮に意識があったとしても、私たちのような「中途半端にミクロでマクロ」な存在と意識のありようや価値観そのものが異なっていて、意志が疎通できないと考える方が自然だろう(今まで基本的にはいないことになっていることだし)。
 
 ゆえに意識は「他者の存在を知覚しえて、かつ、意識を持つに足る肉体」にのみ発生するのではないだろうか。
 さらにいえば、その意識の存在を他者たる我々が認知するために「他者に対して知覚できる表現/体現能力を有すること」が必要だろう。
 だから生きていて、指先だけでも動く人には意識があることが想定できるし、死んでいる人には意識がないと判断せざるを得ない。
 
 そしてこれらの事実から、自我は意識の流れが発生する場所に自発的に自覚として発生し、意識は肉体が一定以上の生命活動を行っている場合に、その肉体にのみ発生すると考えるのが合理的だろう。
 ゆえに、自我は肉体に存在するとここでは結論する。
 
 そのため学校に遅刻しそうになって、トーストを咥えて走っていた美少女が曲がり角でぶつかった転校生(♂)と自我人格が入れ替わったりはしない。
 目が覚めたら違う体に納まっていましたイモムシだなんていやだどうしよう、とかいうこともない。
 
 意識は、固有の肉体という地形に流れる川のようなもので、自我はその流れという運動そのもの、位置エナジィや運動エナジィに等しいものだから。
 川の水だけを取り出して、他の地形に流しても、違う川になってしまうし、川が流れなければ、水の位置/運動ポテンシャルは発生しない。
 
 自我は、もしかしたら幽体やら霊体やらエーテル体やらなんやらといったいわゆるスピリチュアルな、あるいはオカルトなものに起因して、付随して、発生するのかもしれない。
 しかし、そうしたものが仮に実在するとしても、再現性はいまのところさほど高くない。
 誰でもが霊的な自己を自覚し、認識し、コントロールできるわけではない、にもかかわらず自我については一定以上の理知性と、その基盤となる肉体の持ち主ならば当たり前に持っているように感じられる。
「自分は」「自分が」というのがあまりに当たり前で、その前置詞を省略するのがもはや当然になる程度には。
 
 だから、肉体があって(貧弱でも)理知性を備えていれば、その意識の主体には「自己がここにある」という主体的主観が発生するのだろう。
 
 そして「向こうに見える誰か」と「ここにいる自分」は明らかに違うものだと判断できることになる。
 そう。自我が濃ければ濃いほど、自他の区別は明確になる。
 そして自我が薄ければ薄いほど、彼我の差は、さほど認められないことになる。
 そして自我の濃度は、本来任意に変更が可能だと僕は思っている。
 古典的心理学者の作り出した心理モデルでは、なんやかやややこしいものが付随して登場する。
 やれ超自我だのEsだのえるしっているかだのがそれだが、それは考案者の主観が大幅に作用していると僕は思う。
 無意識まではまぁ分かるし体感できるけれど、超自我ともなると、単なる躾や学習の結果として発生する人格作用でしかないように思われる。
 
 もちろん何もないところから人間は倫理観や道徳観、協調性を発生させたのかもしれない。
 けれどもそれは「他者と協力したほうが有利である」とか「弱者を守らないと自分のコミュニティが崩壊して不利益を被る」という損得勘定からも導き出せる。
 一定以上の理知性を備えれば、他者を生かしておいたほうが自分にとっても有利であると理解できるのである。
 社会性を持つ一部の動物でも、その程度の思考能力は持っているようだから、これは本能そのものではないようにさえ思える。
(実際、躾をしていない動物は、きちんと躾けた動物に比べて「超自我」的には劣っている)
 
 ゆえに超自我なんてものは最初からは存在せず、たまたまそこ(考案者の経験や感覚)にある現象に名前を付けただけだろうと想像する。
 たとえば川が流れていて、その川に名前をつけるようなものだ。
 最初からその名前があって、名前があるから川を流しましょう、ということにはならない。
 地形という環境があり、水という物質があり、流れという運動があって初めて川になる。
 
 その川が、どのような水質であったり、流れのカタチを持つかは、環境にも、流れそのものにもよる。
 うねりの大きな川もあれば、小さな川もある。
 うねりや名前が先にあるなんて川は、人工的に設計されたものだけだろう。
 
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[Edit this note]

 稀有な人生、であるらしい。

 私のことである。
 弟子にそう言われる。
 
 とくに自覚はない。
 なぜといって、僕は僕の人生しか知らないから。
 もっと精確にいうなら、僕は、僕自身の人生さえ、その一部しか知らないから。
 
 なぜといって、僕は母親の身体の中で意識を持った記憶をすでに失っている。
 最初の記憶は母親に抱かれて、授乳されていたときのことだ。
 胎内のことなど、まったく覚えていない。
 最初の記憶にある部屋は暗くて、隣の部屋の蛍光灯が眩しく差し込んでいた。
 授乳を終えたのだろうか、彼女は顔を上げた僕をひょいと胸元から抱き上げた。
 頬を寄せたのか、何か話しかけられたのか、よく分からないけれど、彼女の肩越しに、部屋の様子が見てとれた。
 
 もしそれが実の母親で、本当に授乳のときの記憶だとするならば、母乳アレルギィだった僕の、数少ない授乳の記憶ではある。
 それに、そのときの僕の目は視界がぼんやりしていたし、向かい合わせに抱かれていたので抱いている人の顔は判然としない。
 乳母役という説もあるのだが、生まれて間もない乳飲み子に授乳が可能だったかどうかも分からないし、乳母役の女性に直接聞くのもなんだか変な話だ。だから聞いていない。
 ただ、肌の感触は覚えている。
 どうも昔から、触覚が敏感であったらしい。
 
 両親がいなくなっても、5年ほど前までは仕事の関係で、なんだかんだとその女性とは行き来があったのだが
「私は赤子の頃、あなたに授乳されたことがあったでしょうか?」
 と改めて尋ねるのはどうも気恥ずかしいし、なんだか変な感じがする。
 僕は母親よりも、父の会社の従業員であったその女性にひどく懐いていたらしい。
 しかし視界もはっきりしない乳飲み子が、周囲からはっきりと分かるほど人の好き嫌いを発揮するとも思えない。
 
 いや、記憶があるくらいだから、何らか感じたりはしていたのだろうか。
 
 とにかく世界はいつも騒がしくて、眩しくて、不安だった。
 ちょうどいい加減の光と音のある、ほどよい狭さと温度の空間というのがあまりなくて、僕はよく体調を崩した。
 
 とにかくそのようなわけで、僕は僕の乳児の頃の記憶に始まり、あとは都合よくところどころの記憶を抹消したり復元して生きてきたから、飛び飛びの、ツギハギだらけの記憶しか持っていない。
 虚構の記憶を書き込むことだけは禁忌としていた(多重化して自分が困るから)けれど、何が災いしたのか、僕は、いまだに自分が何者なのか、よく分からないでいる。
 
 よく分からなくても「自分さがし」という旅行をしたことはない。
 お金もなかったし、時間もなかった。
 何より「そんなものは何をしても見つからない」と、なんとなく知っていたのだろう。
 
 それが僕であり、僕の人生であり、僕の主要な人格である。
 
 こうした特殊性は僕自身では判断がつかない。
 なぜなら僕はこれしか知らないからだ。
 この僕の、この人生しか知らない。
 
 他人の人生に、あまり興味を持たないようにしてきた、なんて書くと村上春樹さんの小説の登場人物のようだけれど、実際に、興味を持たないようにはしてきた。
 
 おそらく、誰しもすべての人は、その人特有のユニークさを持っていて、その意味で特殊なのだとは思う。
 ただ僕は、僕の人生や、家庭環境を説明するたび、面倒くさい気持ちになった。
 
 たとえば父親が事業に失敗したことや、多額の負債を抱えながら身障者になったこと、姉妹しかいないこと(5人中4人が女である)、両親が離婚して父親のもとで義務教育以前の3人は育てられ、上の2人の姉には空白の歴史があること、などなどだ。
 
 いずれも他者は反応に困るらしく、中には尋ねたことを謝るものもいる。
 謝るくらいなら最初から聞かないでほしい、とは思う。
 聞きたいことが聞けたのだから「教えてくれてありがとう」が正しいのではないかと、僕は今でも思っている。
 
 謝られたところで、僕は何の無礼を受けた覚えもない。
 痛みもないし、損失もない。
 とりあえず謝る、という文化はいかがなものかと、小学生の頃から首をかしげたり、頭をひねったりしていた。
 なんだか頸椎骨折しそうな勢いで。
 
 個人的には、姉妹と母親に囲まれて、女性ばかりで育った環境は、とても居心地が良かった。
 ときどき滑り台から妹に蹴り落とされたり、階段の上から妹に突き落とされたり、昼寝の最中に背中を思い切り妹に噛まれたりすることはあったが、だいたいみんな和やかで、休日の午後には集まってお茶を飲んだり、夕方には姉と母が集まって夕餉の支度をしたりしていた。台所の隣の部屋でTVのチャンネルが気に入らないからという理由で(まだ争いも始まらないうちから)リモコンで叩かれて泣いたりすることはあったけれど。
 いつものとおり加害者は妹である。
 
 父親しかいない生活も、楽しかった。
 昼も夜も働いて、不在がちだったから、門限もないし、眠る時間も決まっていなかった。
 オトナの為の深夜番組も見放題である。
 宿題を強制する人もいない。
 ただ夕食を作る人員も不足していたから、小学生の低学年から、僕は料理の作り方を(多少は教えてもらって、あとは本を読んで)学んだ。
 
 さんざんな失敗も多かったけれど、それさえ楽しかった。
 
 そのようなわけで、憐まれたり、謝られたりしても困るのだ。
 僕は僕の境遇の中で、楽しんで生きてきた。
 辛いこと(からいこと、ではない)がまったくなかったわけではない。
 1年間、宿題を1度もしなかったせいで、午前中ずっと立たされたりしたし、
 遠方にばかりいる親戚がまったく来なくなったせいでお年玉が存外少なかったりするのは本当につらかった。年明け、友達と買い物に出かけても、たいしたものが買えないのだ。
 それから、たしかに、甘えることのできる大人がどこにも、誰も居ないことを、寂しく感じた時期もあった。
 けれども、それはお年玉と一緒だから、ないものを悔やんでも仕方ないのだ。
 もしモノが相手でお金がない、ということなら、最悪万引きすることもできる。
(万引きは犯罪です。手元にないものは、手元の材料を使って作りましょう)
 が、母親がいないからといって、母親になってほしい感じの女性をどこからか適当に見繕って拉致してくるわけにもゆくまい。
(拉致も犯罪です。異性をユーワクするときは、節度をもって礼儀正しくしましょう)
 
 とにかく憐みの目で見られる覚えはないし、謝罪を受ける立場にもない。
 僕が宿題を全くしなかったのは、僕が片親の元で育てられたからではなくて、僕が宿題をしたくなくて、する意味を感じなかったからだ。
 実に、小学生の頃から授業中に寝ていたが、成績だけはトップクラスだった。欧米のような飛び級制度が日本にも欲しいと、7歳の頃から思っていたことよ(遠い目)。
 
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 ひるがえって、僕は、他者を哀れむこともできるのではある。
 やれ両親がそろっていては、さぞ家族関係がうるさかろう、とか、深夜にムフフなTVプログラムを観られなかったなんて可哀想、とか、自分好みの料理を完成させるヨロコビを知らないなんて、とか、道端に捨てられている猫を親の許可なしには飼えないとはなんと非人道的なのか、と。
 
 ちなみに僕は、学校に子猫を連れていって、担任に許可をもらって育てていた。
 大丈夫、子猫を連れて通学して、道中のクラスメイトに「家には誰もいないから、放っておけないんだ」と言えば、みんな猫の味方になって、僕より先に先生に報告に行く奴が出てくる。
 
 今になって振り返るに、あの頃、たくさんの猫を育てた。
 学校の生徒たちの間でも「青猫のところに捨て猫を持っていけば助けてもらえる」という噂があったようだし、事実、僕は親も教師も説き伏せることすらなく猫を育てることができた。
 
 ただ、病気に罹っていたり、すでに衰弱している子たちの一部は助けられなかった。
 でも悔やんでも仕方ないから、そういう子は、ときにみんなで、ときに1人で、どこかに埋葬したし、預かって数時間で死んでしまった子は、ビニル袋に入れて燃えるゴミに出したりもした。
 家の中でゴミ出しの係は、僕だった。
 
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 僕は自分を哀れんだことがない。
 だから、哀れまれても困る。
 だから、他人を哀れむこともない。
 ほら「同情するならカネをくれ」という名言もあるではないか。
 哀れみなんて、それを求めている人の役にしか立たない。
 もちろん勝手に哀れむのは構わない。
 哀れまれることを求めている人もいるだろう。
 けれど、そこに当然のように同調を求められるのは困る。
 私などは自分を哀れんでいなくて、哀れみを求めてもいないのだから。
 
 かくして(隠したわけではありません)僕は誰かの人生を根掘り葉掘り尋ねない。
 友人だろうと、恋人だろうと、親だろうと姉妹だろうと、関係なく尋ねない。
 もちろん、気になることがあれば尋ねるだろうけれど、僕はその人の「今」を知りたいし、なにより「感じ取りたい」と感じているようだ。
 
 知りたいと思って説明を受けるにしても、先に話したとおり、人それぞれの生い立ちはユニークで、こちらの感じ方だって独自であると理解している。
 両親がそろっている人は、片親の家庭に育った人を「哀れまなくてはならないもの」と思っているかもしれない。
 それと同じように、片親の家庭に育った人が、両親がそろっている人を哀れむことはおかしいのだろうか。
 羨むべきだろうか。哀れむべきだろうか。ワクワクして楽しいだろうか。しんみりして悲しいだろうか。
 感じ方に「あるべき姿」なんてあるだろうか。
 それぞれの理由で、感じたいように感じていてもよいではないか、よいではないか。
 
 知らされる情報は、どこまで客観的で精確だろうか。
 僕がここまでに書いた僕の記憶のすべてが、本当にほんとうのことだと、誰かの歓心を買うための茶番ではないと、誰に言えるだろうか。
 
 
 
>>>
 
 昨年の11月から、立て続けに身の回りの人が死んだ。
 最初に伯父が、ついで会社の社長が(そのまま会社が解散して、僕は無職になった)、9月に遠方の伯母が、10月に介護をしていた伯母が。
 
 刑事ドラマや推理小説なら、間違いなく僕が捜査線上に浮かんできそうな勢いである。
 あるいは温泉旅館の歓迎看板に「江戸川コナン御一行様」と書かれているかのような。
 
 一年で、そんなにたくさんの身近な人が死ぬなんて、と、災害の少ないこの地方で暮らす弟子はいう。
 それも含めて稀なことで、希有な人生では、と。
 
 災害で、家業を辞めざるを得なくなった人や、一族郎党、あるいは自身さえ重篤な損害や障害を負うことになった人もいるかもしれない。
 そんな一年だった。
 
 望むものには与えられない。
 僕は死者がちょっとだけ、羨ましい。
 
 替われるものなら代わってやりたいくらいだけれど、僕は僕をしか生きられない。
 彼ら彼女たちが、己を生きて死ぬしかなかったように。
 
 同情も、哀れみも、必要だろうか?
 どんなカタチであれ、死は避けられない。
 せめても気高く、生きて死ねば、それでよいのではないだろうか。
 
 もっとも僕は、生まれも育ちも悪いので、ガールをたくさんたぶらかしたり、ついでに隠し子が出来ちゃったとか噂されたりするような、気高さのカケラもないような生き方で邁進しているわけですが。
 
 自力で材料から調達して、組み上げていかなければならないものが、たとえば教養だったり、品格だったり、矜持であったりするのかなぁ、と考えたりもするけれど、むつかしい話をすると背中がかゆくなってしまうので今日はやめておきたい。
 
 それに、昨日の続きではないが、そんなものを持っていたところで一円にもならない。
 一円にでもなる方が経済的で社会的だとされる世なのだから、まずは衣食が足りないといけないのだろうか。
 
::人を知るものは知あるなり、自ら知るものは明らかなり。
 人に勝つものは力有るなり、自ら勝つものは強きなり。
 足るを知るものは富み、強めて行うものは志有るなり。
 その所を失わざるものは久し。死してしかも亡びざるものは寿し。
 
>>>
 
 10月に看取った伯母は、昨年からか「いずれまもなく死んでしまうのだし、ケセラセラで生きているの」なんて格好のいいことを言っていたが、カタチばかりで、他者を支配したいという欲求を最後まで手放せなかった人だった。
 死者を悪く言うのは(死人に口無しだから)人間社会では禁忌とされているようだが、あえて言おう。
 死んでもクズはクズだ。
 
 あるいはヒトはすべからく、そんな幼稚な欲さえもをいつまでもどこまでも捨てられないものなのだろうか。
(「も」をたくさん使ってみました、てへ♪)
 
 ならばワタシは、ヒト成分を捨ててしまったのだろうか。
 
>>>
 
 はやくこの呪われた我が身が滅びますように。
 と思いつつも、放っておけばいずれ死ぬから気にしなくてもいいか、と思って今宵も日本酒など飲んでしまうのである。
 
 周囲の人が次々に死んで、僕は無職のまま、時折、人に呼ばれて仕事を手伝ってお小遣いを貰う。
 
 個人的には、もう当面は働かなくてもいいんじゃないかとは思っている。
 そう思うに至った経緯もそれなりに説明が面倒なので、今回はしない。多分、一生しないかもしれない。
 気がつけば僕は、分不相応な(むしろ不必要な)家で月の半分くらいを過ごし、数年前から住んでいるアパートで残りを過ごしている。
 
 弟子が「稀有な人ですよ、そんな人、僕の周りにはいません」という。
 僕も、僕以外に、こんなにぼんやりと生きている人を知らない。
 けれども僕は全知全能ではないし、全治前納でもない。
 だから、どこかにいて、知らないだけかもしれない。
 僕の知っているのは、僕の人生の、半分くらいのことだ。
 
 親のこともたいして知らないし、叔父や叔母のことだって、たいして知らない。
 他人のことは、知りたいと思う時もあったけれど、知ることはできないと思った。
 ただ、相手が伝えたいように伝えることを、なんとなく聞くくらいだ。
 自分から、根掘り葉掘りと身の上を尋ねるのはどうしても、僕にはできそうにない。
 父や母に対してすらそうだった。
 だから僕は、彼らがどこで生まれ、なぜ結婚して、僕を産み、離婚し、死んだのか、あまりよく知らない。
 
 僕は尋ねられれば答えるけれど、その答えをどれくらいの人が本当だと信じるか分からない。
 何せ僕は余命が20年を切っていることになっているし、隠し子がいる設定で、そのうえ種族同一性障害(実は猫だにゃー)を持っている設定になっている。
 さらに、この世界のシミュレート系の負荷を軽減するために与えられた属性として、ショートヘアで眼鏡を掛ける女性を好むという傾向まである。
 
 これが僕にとっての普通、なのだ。
 週休だいたい7日が僕の平凡、なのだ。
 
 もしも僕を狂人だと思う人がいても、僕はその人を非難できない。
 僕の感覚している僕の人生の、どこからどこまでが本当なのかなんて、当の僕自身にも分からないし、多くの人が自分の人生や自我の存在を信じられているとしたら、それはたいそうめでたい事だね、としか思えないのだから。
 
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20191212
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TITLE:
三角系から面積を有します。
SUBTITLE:
~ Triangle little star. ~
Written by 青猫α

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 
星と星とを繋いで結んで
糸は途切れて人は迷って
流れ落ちても無重力
するりするりすり抜けてゆくよ幾光年

行きつ戻りつの夢物語は
遠く遠くに時々見えても
一人ひとりでひとたびひらりと
囲い過去見てゆるりと飛び交うの

キミのバランス平行棒から
ふわりふらりと肩より偏り
ボクのバランス床の上から
爪先立ちしてくるりと跳んでも
 
みるみる見る間に次の金平糖
黄黒ロープで囲って結んで
太陽風にも捕まらないまま
果ての果てしない場所へたどり着く

 

 
夜のむこうで朝にはなるけど
朝は無効で真っ暗闇
星と星とを繋いで結んで
結び目からほどけてゆく物語

寄せて返して貸して課しても
夢の中ではゆらりとつかめず
ひとり一人で火取り集めても
暗いくらいはむしろ心地よい

キミのヒトミの真っ暗闇から
トゲトゲしっぽの悪魔が出てきて
ボクの手のひらで伸びてみたなら
夜空を眺めて昼寝をしちゃうよ

くるくる来るなら白い雪の中
ふるふる降るなら黒い夜の中
すりすりするならキミの指の先
ねむねむ眠れる暗い朝の中で
 
 
 
重力井戸の底にまで降りて
汲んだ水を花壇に撒いて
いちばん星のまたたきを変えて
君のあこがれ刹那の白昼夢
 
ふわり積もった星屑も
ゆるくゆるく結び合った六角形
二人ふたりでふたたびふらりと
昨日見た夢ぽつりと語らうの
 
君の寝息は遠くゆらめく
聞こえるくらいの消え入る波から
僕のささやき遠くかすんで
闇の速さで夢に忍び込む
 
行きつ戻りつのうつつの世界は
近く近くにさわがしくても
二人ふたりでふたたびふらりと
見ない未来をゆるりと飛び交うの
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 工場内検索結果へのリンク。
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[Engineer]
 
[InterMethod]
 
[Module]
 
[Object]
  -Cat-Memory-Night-
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[Cat-Ego-Lies]
 
 
// NOTE:
 クリスマスであったことを、24日の夕刻、妹から届いたメールで知りました。
 年々、日ごと、ものごとがどうでもよくなってしまって、無力で無気力な自分に閉口してしまいます。
 並行しているどこかの僕は、お元気でしょうか。と、そんな気持ちにすらなってしまいます。
 この街はとても冬が寒くて、そして人々は山から吹き降りる風のように乾燥しています。
 きっと乾かしてしまうのでしょう。パサパサしています。パサパサです。
 それでも、もしも神様がいるなら、僕は少しだけお礼を言っておきたい。
 ただなかなかそれっぽいものを見ることがないので、いつも言いそびれてしまうのです。
 神様、今までありがとう。来年もよろしくね。
//EOF
 年末である。
 かれこれ9ヵ月ほど、働いていない。
 正確には「生活を維持するために、自分の意思が向かないときに経済活動に加担すること」をしていない。
 弟子には相変わらず心配されているが、今日も生きている。
 それに、気が向いたら経済活動に加担している。
 何ならお酒を飲んだりゲームをしたり、ガールとぱやぱやしたり、背中を撫でてもらったりしているかもしれない。
 いかんせん、天然モテ気質である。
 外見は衰えたから、むしろありがたいところか。

>>>

 経済活動を基準にした社会が、傾いているのは周囲のとおりだろう。
 経済、エコノミー、理財、マネー、キャッシュ、なんでもいい。
 単一の、唯一の、万能の、絶対的なリソース。
 その絶対的なリソースを血液にして稼働する永久機関。
 オソロシイことに、時間を買える。
 つまり。
 オソロシイことに、寿命を買える。
 つまり。
 オソロシイことに、人間を買える。

 オソロシイことに、秘匿されるべき情報も買える。もちろん、秘匿そのものさえ買えるかもしれない。秘匿されたなら、発見できるはずもないからワタクシのような朴念仁にいったい何を知ることができるだろう。

 たとえば私が畑を耕して、イモを作る。
 イモで家賃は払えない。
 イモで米と交換できない(ことも多い)。
 イモで寿命や他人の時間は買えない。
 イモは、いちど換金しないといけない。

 イモを作るのに、ボクが命がけになる機会があったとしたら、それはボクの寿命を削って交換することに等しい。
 ボクの寿命を削って、経済活動のループに上手に投げ込むと、コバンが手に入る。

 よいだろうか。
 つまり経済は、人命に等しい、のではない。
 もう、人命を超える価値を持ってしまった。
 最低賃金に法定最大勤務時間を掛けて、定年とされるまでの年数を掛けて240くらい(=2/3*365)を掛けると、だいたい私の減価償却価額が算出される。
 そしてそれは案外安くない。
 ボクはボクの命に、さほどの価値を見出していないから「僕が身も心も差し出す構えでタマシイを売り払った経済」が、驚くほど高く思える。
(実際のところ、悪魔にでも売った方がましだが)

 人間の命はカネではない?
 人間のタマシイは売ることができない?

 本当に?
 ねぇ。
 本当に、そう思ってるの?

 本当に、どんな金額のお金よりも人の命は価値があると、本当に、思ってるの?

>>>

 そんな言い訳を用意してキミの部屋に急ぐようにして、ボクは経済活動のレールを踏み外すことにした。大脱線。かまうもんかの大脱線。

 声の大きなヒトたちは、どういうわけか、フォロワを探している。
 自分の話を聞いて、同意して、納得して、評価して、感銘を受けて、吹聴して欲しいらしい。
 情報遺伝子としてのミームを拡散して、受精して胚になりうるナニカを探しているらしい。
 ついでにそれは「誰でもいい」らしい。

 受容体が反応するならば、それでミーム的にはオッケーである。
 大丈夫。痛くしないから。
 それに月経が止まったりもしない。
 先生やご両親にも叱られない。

 なぜならそれは情報遺伝子だから。

>>>

 声高に、強い調子で、あたかもそれが摂理であるかのごとく、ときに事実をねじ曲げてでも胚さえ作ることさえできるならそれでいい。
(べつに政治的なことを申し上げているわけではない)
「ほら、みんなしてることだから」的な感じで暗黙にそそのかす。

 たとえばそれが、常識として、私を凌辱する。
 あるいはしてきた。
 私が凌辱されるようにして、私が誰かを凌辱する。

「大丈夫、痛くしないから」
「ほら、みんなしてることだよ」
「当たり前のことすぎて、誰も気付かないよ」

>>>

 だいたいこのあたりで、僕のカラダはリアルに吐き気をもよおし始める。

 ワタシを道具に仕立てようとするもの。
 ワタシを捌け口に使おうとするもの。
 ワタシを凌辱して、膿んだミームを射ち撒けようとするもの。

 オソロシイ。
 なあにが正義だ。
 なあにが常識だ。

 そのようなことを、眠り続ける2ヵ月のうちに思ったのだったか。

>>>

 ゲームをしていると、多くのリソースがそこに登場する。
 いや、ソフトウェア的な意味ではない。
 ゲームとして構築されたプレイヤーキャラクタの存在する世界に、多くのリソースが存在していることが多い。

 そしてプレイヤは、なんとかして生きてゆく。
 そこにはさまざまなリソースが存在する。
 全てのものが、単一のリソースに支配されるような世界ではない。

 たとえばゴールドで村人が復活することがあるとしても。
 ゴールドだけでは手に入らないモノがある。

 ゴールドに交換可能な代替リソースも多く存在する。
 その方が、複雑にはなるが安定する。
 けれどもこの世は、それをしていない。
 単純で、一元化されたリソースのほうが、有利だったから。

>>>

 もちろん、もちろん。
 世の中はカネじゃない!
 なんてことが言いたいのではない。
 むしろ逆であることは自明なのに、キレイゴトで修飾して、謎の永久機関を動かそうとしているのはなぜ? と私は言っている。

 お金が嫌いなわけでもない。むしろ好きである。(だから、お金に支配されないようになりたい、と願って実行しているのだ)

 ただ、経済という永久機関を動かすためのリソースは、結局のところ、多数のニンゲンなのである。
 キカイノカラダ欲しさに機械惑星に行くようにして、タマシイをキカイに置き換える星なのである。
「キカイノカラダなんていらないよ!」鉄郎ならばかくも言ったであろうところで、私は言いたい。
「ボクはねこです」と。

 永久機関を動かすために、アレコレして、ミームを拡散して、胚を作って、歯車を育てて「君には生きる権利と義務があるんだ」と流布する。
 あるいはゴーカンする。

>>>

 ゆえにワタクシはゴーカンされることに疲れたので、ドロップアウトすることにしたのである。
 ゴーカンされるのもうんざりだし、ゴーカンするのもまっぴらゴメンであるから、基本的に口をつぐんでいる。

 もちろん。
 日々は楽しく過ぎてゆく。
 うつろう景色は毎日同じようであっても、ちょっとした観察眼を持とうとすれば、不思議と驚きに満ちている。

 それでもワタシはときどき疲れて死にたくなってしまうし、けれども妹が生きている限りは自殺できない様子だし(彼女はちょっとしたブラコンである)、仕方ないので生きているのである。

 特定の組織に属してはいないのだが、仕事を依頼されることがあって、煙草くらいは買える。
 なあに、フリーターのようなものである。

>>>

 余命は20年と踏んでいる。
 猫にしては長生きしすぎた。

 いわばセクシャルマイノリティならぬ、レイシャルマイノリティ。
 どうしてヒトビトは「私のカラダ(あるいは他者認識的性差)はコレジャナイ!」とは言うのに、
「私のカラダ(あるいは他者認識的種族)は人間じゃなくてねこだ! ねこなんだ!」と言わないのだろう。

 ボクはずっと長いあいだ、思っている。
「僕は、ねこのハズなんだけど……」と。

 なるほど。
 僕が「ねこ」として認められるには、ミームを拡散して、従者を増やして、そうした下僕どもに崇め奉られるしかないのである。

「嗚呼! 青猫様こそが真の猫的レイシャルマイノリティの始祖!」みたいに。

 猫的レイシャルマイノリティってなんだろうね。
 ボクにはよぐわがんにゃいのである。


// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20191210
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
トイレ掃除の話
SUBTITLE:
~ our rest room. ~
Written by 黒猫

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 飲食店で働いていた頃の名残だろう。
 汚れたトイレを見ると耐えられない。汚れたトイレで用を足すなんて考えたくない。
 結果、僕はトイレを掃除するのである。
 
 移動中に訪れたコンビニであろうと。
 オフ会の2次会くらいに寄ったカラオケ屋であろうと。
 最近恋人と同棲を始めたという友人の家であろうと。
 行きつけの吞み屋であろうと。
 僕はトイレを掃除する。
 
 結果として、僕がトイレから出るのは(「大」をしてたの?)というレベルに3を掛けたくらいの時間を要する。
 なぜといって、僕がこうした「アウェイのトイレ」を借用する場合、かなりの頻度で僕はトイレを掃除しているから。
 床が汚れていれば床も、洗面台が汚れていれば洗面台も、掃除しているから。
 
 水、トイレットペーパー、ペーパータオル、ハンディソープ、ラバーカップ、洗浄ブラシ、洗剤。
 だいたいこの程度があれば、完璧に綺麗にすることができる。
 そしてこれらはだいたい、目に付くところに備え付けられている。
 
 たいていひどく汚れているのは、コンビニとカラオケ、それに呑み屋である。
 定期的にトイレ掃除をするスタッフがあまりいないことが多いし、トイレ掃除をしたこともない人間もトイレを利用すると想像する。
 正直これを書いて想像を絶しているのだが、世の中にはトイレ掃除なんてしたことがない(汚しても綺麗にするなんて考えもしない)というオトナが、一定数はいるのである。
 しかしまぁ、そういう人たちはそういう人たちで、僕にとってはどうでもいい。
 トイレ掃除をしたことがあろうとなかろうと、公衆のトイレを掃除する意識のない人が利用し続ける限り、誰かが掃除をするそのときまでトイレは汚くなりつづけるのだ。
 そこには思想も、啓蒙も、理想も、観念も、意識も必要ない。
 他者を非難する必要も、己の行いを得意になって吹聴する必要もない。
 そこにあるのは汚れたトイレと清掃道具、そして自分だ。
 
 密室という小宇宙。
 何者の視線も監視も(多分)ないその空間で、己の心と向き合うのである(座禅か)。
 
>>>
 
 そのようなわけで(どのようなわけで?)僕はトイレを掃除してしまう。
 そこにはさまざまな汚れが付着していることが多いのではあるが、実際に掃除をしてみれば「汚したらすぐに落とせば一番ラクだ」という真理に気が付くだろう。
 換気扇掃除もそうだし、水回りの排水溝掃除もそうだ。
 汚れる前に掃除する。汚れたらすぐ掃除する。
 なんと簡単な事実を、僕は無視して生きているのかと、自問自答する。
 
 もちろん、ここだけの話、恥ずかしながらも(ポッ)、正直に言うと、文句を言いながら掃除をしている。
「汚したらすぐに落とせ(真理)」とか、
「なぜ俺が掃除をしなくてはならないのか(そこに汚れたトイレがあるからだ)」とか、
「トイレを汚してそのままで平気だなんて信じられない(と言うほどでもない)」とか。
 
 そして文句を言いながら(ああ、なんて心が狭いのだろう自分は)と思ったりする。
 だってしたくないなら掃除などしなければいいのだ。
 したくて掃除をしておいて、掃除をしない他人に文句を言っているのは、たいそう滑稽で狭量だとは思わないだろうか。
 
 たしかにたかだか排泄の問題である。
 用を足せればそれでいいのだ。
 道具の良し悪しなんて関係ない、といえばそのとおりかもしれない。
 汚れたトイレだろうと、清潔なトイレだろうと、排泄欲求と排泄行為の前に差はない、という人もいるだろう。
 
 しかし本当にそうだろうか。
 
 不潔で汚れたトイレで用を足すことに、恐怖感や嫌悪感はないだろうか。
 清潔なトイレで用を足すとき、満ち足りた安心感はないだろうか。
「排泄の用を足す」うえで、その両者は自分の精神衛生上になんらの差もないのだろうか。
 
 出せば終わりか。
 出せればそれでいいのかオマエたちは。
 そんな気にもなる。
 
 何でもいいのか、どこでもいいのか、誰でもいいのか。
 そういうオトコなのか。
 そんな台詞も(全然関係ないけれど)思い浮かぶ。
 
 いずれにしても下世話なことである。
 他人の下世話が気になるようになったら、いよいよ下世話であるから、己を省みるのである。
 
 公共のトイレを掃除するのは、そんなちょっとした小宇宙、自省の機会なのである。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -黒猫-/-BlueCat-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Form-Interface-Link-Maintenance-Mechanics-Rhythm-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Human-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  -おこと教室-:-ひとになったゆめをみる-
 
 
 
 
 
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