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// TimeLine:20200320
// NOTE:
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TITLE:
風見鶏の視線の先に。
SUBTITLE:
~ Rooter’s eye. ~
Written by BlueCat

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//[Body]

 風が強い。

 3時に眠ったのに6時半に目覚めてしまった。
「いや〜、昨日も寝てなくてさぁ」「寝かせてもらえなかったんだよぉ」などという馬鹿のアピールをするつもりはない。
 僕はほとんどのSNSをしていないし、ブログもこのとおり、あまりSNSしていない。
 社交性ネットサービスですか。IRL(in real life)でいいじゃん! と思っているが、コメントにはなるべくリプライしている。
 これは単なるお人柄でしょうね。
 一方、仕事もしていないから、職場があって同僚がいる、というわけでもない。
(私のIRLどこいった)
 ついでに今は就職活動をするタイミングではないから、ハローワークにも行っていない。いつか行くのだろうか。
 だいたい目覚めて軽く掃除や洗濯をして、気が向けば少し運動をして、ゲームをしている。
 ひどいときは午後に起きてゲームをして、夜中にお風呂に入って眠る。入浴中に文書を書くこともある。PCが防水ならいいのだけれど、そもそも僕はデスクトップ信奉派なので、どうだろう。
 とにかくそろそろキーボードに触れたいし、ネット環境にも接続したい。なにより大きなモニタでコンピュータを操作していたい。
 まぁいいや。いずれにしてもダメ人間生活を送っている。
 気分まかせであるが、その開放感はひと月くらいしか味わっていない。
 おそらく、これからもっと開放的な気分になるだろう。
 その日の気ままな風見鶏生活である。
 定見を持たない? 多いに結構。
 それこそ僕をして考える行為の目的だといっても過言ではない。
 定見なんか持ったら最後、何も考えないイキモノに成り下がってしまう。
 どうせなら成り上がろう。
 定見なんか持たずに。
 毎日毎回、少しずつ違う同じような問題を悩めばいいじゃないか。

「考えない芦はただの芦だ」
とどこかの豚が言ったとか言わないとか。
 少なくとも、猫はそういうことを言わない。

>>>

 この数年、まともな休日などなかったから、振替出勤分の休暇を消化しているようなものだ。
 数年分のヴァケイション! それはまさに今始まったばかり!
 そんな言い訳を用意して引きこもっているうちに、世間は大騒ぎ、というわけで。

>>>

 もしも就活生がまかり間違ってこのブログのこの文書を、たまたま見てしまっていたら言いたい。
 真面目に働きたい人は働けばいいし、働きたくない人は働かなくてもいいんでねぇの? と簡単に他人に言ってしまうようなオトナになってもいいんじゃないのぉ? と。

 なぜなら「真面目に働かなくてはダメだ」という人は100人中70人以上はいるわけで、オトナになると自分の立場やお気持ちをうやむやにする人も少なからずいるわけだけれど(よってそうした人たちから、冷ややかな視線を浴びることもあるわけだけれど)、それでもたくさんの人がすでに根拠のない(あるいは正しい根拠に基づいて)正論を述べているなら、僕くらいは間違ったことを言ってもいいんじゃないか、そのほうが物事を選択するという行為において正しい状況が生まれるんじゃないか、とうっすら思い浮かべつつ、半分以上は「面白いから好き勝手言ってやれ」と思ってテキトーなことを言っている。
 ちなみに僕には両親もいないし養ってくれるステディなガールやメンがいるわけでもないから、経済活動の隅々まで自己責任で背負って引きこもっている。嫁と子供がいなくてよかった。
 食事事情だって自己管理である。
 たとえるなら、魚の獲れる湖のほとりでキャンプ生活をしているようなものだろうか、ちょっとカッコつけすぎではあるが。
 引きこもりの道は、かように長く険しいのである。
 諸君がもし、真面目に、働かないで自律した生活を送りたいなぁ、とぼんやりとでも考えているなら、世俗を知り、計画し、試行錯誤を繰り返すしかない。
 あと、夜更かしはダメだぞっ、めっ。
 少なくとも、会社員として生活を安定させたり、誰かに「うまい話」を聞いているようでは、自律した引きこもりにはなれないだろう。
 え? なりたくないの。あそう……。

 さて就活生へのアドバイスはこのくらいだ、ガキの読むものじゃねいんだから、帰れ帰れ!
 といった感じに街角のひなびた一杯呑み屋に昼間からたむろしている赤ら顔のダメ人間のような気分で僕は書き進めるのである。

 というわけで、ワタクシの浮き草生活についてちょっと吐露したついでに、思ったことをいくつか。

 世俗は経済が回らないらしい。
 先日、人のすなる経済といふものの正体をつかむべくあれこれ思索していたわけだけれど、いっそうの深掘りであるとかをしないうちに経済がアヤシイ、となってしまった。

 おかしい。
 経済とは、自浄作用をもち、恒常性を持っているからこそ、ある程度の範囲でのゆらぎを伴いながらも右肩上がりに成長してゆく(あるいはそのように設計されている)ものではなかったか。

 要するに「人が起きて、飲んで食べて運動して歌って踊って遊んで風呂入って眠る」だけでは経済は回らないらしいのだ。
 そんなものはほんの底流、あるいはかすかな上澄みでしかなくて、そこには莫大な上積みであるとか、基礎が存在しているようなのである。

 あれぇ? 経済って、半分以上の無駄でできてるのでしょうか、というのが僕の感想。
 巨大なビル群や交通機関、通信網といったインフラ、人がましい顔をして後ろ指を差されても気にせず政治活動を続けちゃうナニカや、法治国家の仮面を被った人治国家を作り上げようとしてついでにその中心に身を潜めちゃおうとしているかのようなナニカなどは、無駄なのでしょうか。
 たとえば呼吸するだけで酸化していって成長とともに抗酸化作用が弱くなるように、必要悪すら内包して、それを前提として成長するのが生命の定めだと直感しているからこそ、経済という生命の悪性を「それも必要悪かな」とか、アヤシイ議員も「他に選択肢がないんだろうな」と思って眺めているのにもかかわらず、もしかして、全部無駄なのぉ? といった気持ちにはなる。

 もちろん通信インフラは、人間の物理的移動を仮想化することが可能で(まぁ、ようやく僕が子供の頃に思い描いていた社会認識に近付いたか)くらいには感じていたから、物理的交通手段というのは、仮想化(電子化)される以前の機械化(電機化)なのだろうし、そう考えれば無駄ではないだろう。

 政治については基本的に僕はノータッチ/ノースタンスである。
 僕に代わって面倒な仕事をしている人が沢山いるなぁ、と思って見ているだけだ。
 直近の選挙には行ったが、基本的には選挙に行かない。
 僕はケダモノで、社会不適合者かもしれないし、その場合を考えると多数決社会に無駄な波風を立てたくないとか高尚なことを考えているわけではない。
 多数決原理を信頼して成り立っている仕組みの中で、常識的な人間が過半数いて(だからみんな選挙に行く)、それらが個々として考えればだいたい信頼に値する要素と見なされる、あるいはそう信じることができる(みな横並びなのも決して貶されるものではないのです)場合において僕は社会を信頼できると思えるからだ。
 あと移動の手間や時間がもったいないから。
 ゲームをしたりガールとぱやぱやするのに忙しいから。
 最後のほうでぶち壊しだ。

>>>

「株をしているのですか」と問われることがある、というのは以前どこかで書いた気がする。
(いまだにリリースしない文書のほうが多い、あとゲームとぱやぱやが忙しい)
 株はしない。
 経済という仕組みが、どうにも僕には理解できていないのだ。
 子供の頃からそうだった。
 いやそんなことを言ったら、僕は箸の使い方くらいしか、まともに親から教わっていないのではないか(おそらくそんなはずはないが)。
 2歳半の頃にはオムツをしていなかったので、排泄についてはその後も失敗した覚えがほとんどない(神経性急性胃炎のときはダメだったが)。

 脱線しそうなので本題に戻すが、経済というのは、他の多くの仕組みと同様に複数のレベルというかレイヤというか階層というか段階というかクラスタというかがあって、個々のレイヤにおける各クラスタの働きなども含めて全体を把握できないと僕は理解したとは思えないのである。
(なので昨今、経済書やら経営学書を読んだりしているのですが、いかんせんゲームとぱやぱやに忙しい)

 僕にとって、大半の仕組みは生態系のように循環(サーキュレイション)する系か、その中で部分的に直線的(シーケンシャル)に扱うほうがいい系かに二分される。
 経済は時間軸を無視したマクロな全体像は循環型だけれど、時間軸でとらえた成長から窒息までのスパンは直線型だ。

 水の流れで考えた場合(今回は循環型の中で機能する直線型モデル)、ひとつの大きな流れは、個々の箇所の障害物をふくむ環境によって、淀みを作ったり、うねったりして各所の動きを作りつつも、全体の流れはそれに関係なく加速する。あるいは加速を「求められて」いる。
 そこでは勾配を与えたり、障害をあえて作るなどの「工作」もあるだろうとは思う。それが必要悪かどうかは僕の考えることではない。
 ただ、ここで作用する運動機能がよく分からない。
 水であれば、位置エナジィ(potential energy)と運動エナジィ(kinetic energy)を交換しながら、途中で運動エナジィを消耗してゆく。
 小さな流れから大きな流れになって、やがて海のような巨大なうねりになるし、それは川と海のように独立した存在ではなく、海の中に川があったり、川の中で海があるような感覚で捉えている。

 経済の場合、どうも無駄に見えるプロセスがあったり不可思議な運動が見えるから、できればそのブラックボックスが理解できるまでは手を触れたくないのだ。

 ために株はしない。
 株をしている多くの人は、投資活動ではなくて投機活動をしているように観察される。
 むろん株という仕組みがそういう方向に動くのは仕方ないけれど、投機活動が投資活動を上回っている場合、ギャンブラーばかりでは場の信頼性が損なわれる。
 おそらくそれを防ぐ仕組みが株式市場には明文化されているものとは思う(あまり僕の記憶にない)が、投機活動をする者たちが働かずにゲームやぱやぱやをして過ごすには、自分の持つチップを増やす必要がある。
(ここで僕の言っている「働く」とは、経済を動かすことではなくて、手足を動かして、直接的に誰かを助け、その役に立つことです)
 ために市場をマクロで見た場合、一定の範囲で不安定かつ自分本位な「投機」が横行し、それがほぼ飽和状態になるだろうということが予測できる。
(経済の勉強なんてしていないので、あくまでニンゲンの特性による概説です、就活生が読むものではない)

 つまるところ「投機」は「投資」の基礎をベースにしたハリボテのようなものになりかねない。
 でも誰も「自分は投機者です」なんて名乗りを上げない。みんな暖炉の前でパイプを咥えてブランディグラスを片手に「ん〜、まぁ『投資』を少々、ね」みたいに気取ってやがるに決まっているのである。
 気取ってんじゃねーぞこのクサレギャンブラー風情が! とついついアナーキストなラケンローであるワタクシなどは口汚く罵ってしまいそうになるのだけれど、そんな人、本当にいるのかなぁ。
 はいはい、脱線、脱線。
 ゆえに投機者同士は、お互いの動きや世相の顔色を窺って、気遣いしなくてはならないことになる。
「こういう状況だから、世相はこう動くだろう、という読みを多くの投機者がして、こう動くだろう」程度の読みはしているはずで、そうした仕組みやゲーム理論の帰結をみんな適当にごまかして説明しているように観察される。
 だから、数多ある情報をひと通り飲み込んで、自分で消化して学ぶしかないのである。
(オカネモチーになったら大学受験でもするけどよ)

 顔色を窺うというのは、本来はあまりよい意味では使われないかもしれない。
 風見鶏、というのも同様である。
 しかし周囲を見回すとどうだろう。

 皆が皆、周りの人の顔色ばかりを窺っているように観察される。
 やれ不祥事だ、不適切発言だ、不倫だ、偽装だと騒ぐのも、他人の動向がそんなに気になるのかと問いたくなるほどである。
 SNSで誰かに評価されて楽しい人を否定するつもりはないが、不特定多数の他人に自分の感覚さえ左右される価値観でいいのだろうか。
 それを利用し、あるいは怯える人たちがいるのは分かる。
 彼らはそうした発言/発信をする庶民を食い物にしているから、顔色を窺わざるを得ない。
 共有/拡散文化は脳の高次機能の外部化であるが、周囲の顔色を窺ってばかりいるのは結局のところ、単純で無能の証ですらある。

>>>

 しかしである。
 そうはいうものの、どうだろう。
 冒頭で書いたが、多数決によって正当性を信用できる社会の、その信頼のよりどころは、風が吹いたらその方向に向くことではないだろうか。
 みなが同じであることを嫌う風潮は分かるし、自分がオリジナルでユニークであることを主張したい気持ちも結構である。
 それでも社会の安全性を信頼できるのは、そうした「みんな同じものを基礎にしてるよね」という安心感ではないだろうか。
 単民族特有の平和ボケ発想といえばその通り。しかしそれこそ、人間が理想とする状態ではないだろうか。
 そして理想に向かって歩むこと、進むこと、模索すること、そういう気持ちをくじけずに持ち続けることが、人間が人間でいるための技術ではないのだろうか。

 風が吹いたらどこに飛んでいくか分からない僕のような人間ばかりで社会が構成されていたら、みんなが家に引きこもってゲームとぱやぱやに明け暮れてしまう。生産性などどこ吹く風である。

 そう考えると、波風を立てているのは多数派にして少数派の食い物にされている愚にもつかないエラソーな庶民であって、風見鶏はその風の方を向いて頭を下げておべっかを使っていればいいのである。どのみちエサだから。
 そんな穿った考え方だってできるだろう。

>>>

 何を考えるかは自由だ。

 多くの人は、自分の経験だけをもとに、それだけが正しいとばかりに、吹聴する。
 1人分の、しかもその途中までの人生しか送っていない人間の言葉を、僕は今までさんざん聞いて、ときにそれに従ってきた。

 結論をいえば、自分で考えて、自分で選択して、自分の手足で動いたことがすべてだ。
 誰かの正解が自分の正解だなんていうのは、カンニングがまかり通るテストの世界だけだ。
 実戦に、そんな公式は存在しない。
 自分で式を作るしかないのだ。
 そしてそのためには、自分で問題を見つける必要がある。
 与えられた缶詰のやわらかいエサしか食べたことのない子猫ちゃんたちには無理だろう。

 骨ごと齧り付くのが、下品だとか野蛮だというならそれはそれで「正しい」だろう。
 ただ、骨を齧ったことのない者に、骨の味は分からない。

>>>

 かれこれ3時間ほど風呂に入っているのだが(僕は長風呂である)、風は弱まるふうでもない。

 子供の頃(だいたい8歳の春の夜だったと記憶している)、1人分の人生しか送れないことを、僕はとても残念に、寂しく思った。
 ゲームのようにセーブして、分岐点からやり直せるなら、どんなに豊かだろうかと。
(当時はゲームにセーブ機能なんてなかったが)

 もちろん楽しいことばかりではない。
 ただ大変なことを楽しむという能力は、きっと誰でも備えていると思うし、それを教えてくれる人は、少なくとも僕の場合にはいなかった。

 みんな同じ「常識人」の皮を被っていて、だから僕は、たくさんの人間ぶん生きるには、どうすればいいだろうかと、いつも考えていた。

 もう何人分の僕だろう。
 今は何人目の僕だろう。

 風呂から上がったら、ゲームの続きをしよう。

 僕には、したいことがある。







// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
  


// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-/-青猫β-

[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Color-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Kidding-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Technology-

[Module]
  -Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Resistor-

[Object]
  -Camouflage-Cat-Computer-Game-Human-Koban-Memory-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に-






//EOF



スマートフォンだけで編集するとか無理だ〜。
無理じゃないけどちょう苦痛だ〜。
オレだオヤブン、なんとかしろ〜!
 20代の頃から、自分のカラダを撫ぜるようになった。
 それも、普通に腕をさするとか、そういうレベルではなく、全身できるだけ隈なく撫ぜるようにして。

 ことの発端はマッサージだったと思う。
 筋肉痛だったか、疲労蓄積だったか、冷え性だったか。
 多分、冷え性だろう。僕のカラダはいつも冷たかった。
 代謝が悪い。内臓機能が悪い。姿勢が悪い。
 ゆえの冷え性。
 しかし僕のカラダはどういうわけか、まるでオトナになることを拒否するように、いくら運動しても筋肉の発達はほとんどしなかった。
 一方で、骨格だけは上に伸びた。ひどいときは体重37kg、身長163cm(BMIにして15を下回るはず)であり、片親のこともあって、教師が家庭訪問でもないのに家に来ることがあった。
 もしかしたら虐待を疑われていたのかもしれないが、父上は僕を大切に育ててくれた。
 もちろん離婚は親の都合であり、そのぶんを差し引いて、子供の頃は感謝などしたことはない。
 中学入学にあたって、貧乏一家には分不相応な8bit マシン(NECの8801である)を買ってもらって、僕はますます機械類が好きになる。
 しかしこれといって感謝した覚えはない。

 父上は、僕が食事をほとんど摂らないことを心配していて、ときに叱られた。
 けれども無理に食べさせることはしなかった。
 そのかわり、たまにたくさん食べるとそれは喜んで、そのときのおかずが食卓に上がる頻度が上がった。
 僕が魚を好きな一方で、妹は魚が大嫌いだったから、父上は苦労しただろう。

 とにかく子供の頃から、ごはんを食べなかった。
 食べすぎると体調を崩すから、食べないでちょうどよかった。
 クラクラしたときに何かを食べたり飲んだりすれば、だいたいは乗り越えられた。
 学校で何度か貧血を起こして倒れたこともあるが、満腹まで食べて体調を崩すよりはましだった。

 家では白米を好まず、おかずや味噌汁を中心に食事をして、朝はだいたい抜いていた(高校からは昼も抜いた)。
 
 空腹というのを、それでもほとんど感じなかった。
 食べ物の味や香りも、ほとんど分からなかったのではないかと思う。
 母乳アレルギィが原因だったのかな、とときどき思う。
 母乳によって得られるはずの抗体も得らなかったようで、僕は頻繁に体調を崩した。

 僕が世界の感覚の仕方を覚えたのは17歳からだ。
 恋人が増えるたび(往々にして、減ることもあったが)僕は感覚を覚えた。

 花の好きなガールからは、色や香りの微かな違いを学んだ。
 季節の光、風のにおい、動物たちの動き方を学んだ。
 料理が好きなガールからは、味わうときは箸を置いて、目を閉じて、考えずに味わうことを学んだ。
 同じものなのに、感覚はこうも変わるのかと思い知った。

 猫たちも、僕にいろいろ教えてくれた。
 速い動きとゆっくりの動きの使い方。
 音や気配を消す方法も猫から学んだ。
 出産の処置や、妊娠中の注意事項も、猫から学んだ(じつに9歳の頃には、何度か飼い猫の出産に立ち会って、一緒に世話をしていた)。

 ガールの多くは、僕のカラダを気に入って(あるいはそのフリをして)くれた。
 そして僕は、自分の身体がどの程度のサイズで、どんな作りになっているかを教わった。
 女ばかりに囲まれて育ったためなのか、女性のカラダはそれなりに教えてもらって理解していたつもりだったが、男性のカラダについて、自分のカラダについて、僕は無知だった。

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 20代はじめの頃、肌にひどい蕁麻疹ができた。
 血液検査までしてもらったが、原因は不明。
 全身を蚊に刺されたようなふくらみに覆われ、しかもそれが痒くて、その上掻くと広がる。
 2週間ほど続いたそれが去ってみると、僕の皮膚はボロボロになっていて、感覚も、なんだかひどい状態だった。

 もしかしたらその頃だろうか。

 それとも20代後半になって、やっと筋肉が付くようになったときだろうか。

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 まるで撫ぜられることが食事であるかのように、僕のカラダは接触欲求を持つ。
 男友達と腕を組んだり、手を繋いだりするのに(抵抗されることはあってもこちらは)抵抗がない。バイクの後ろに乗って抱きつくのとかも好きである(タンデムバーを持てと叱られたことはある)。
 妹や姉の頭を撫でたり、背中を撫でたりするのも、普通にする。子供の頃より多いかもしれない(子供の頃は向こうから近づいてきて、蹴られていた)。

 まるで皮膚を使って、ものごとを知ろうとしているかのようだ。
 あるいは相貌失認の傾向が、これに拍車を掛けているのだろうか。

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 身体は、その部分部分で温度が異なる。
 おしりはたいていひんやりしている。
 身体が過熱しているときは、僕は脇腹が熱を持つ(脇の下ではなく、脇腹が熱いと感じる)。
 疲れているときはだいたい関節が冷えて固くなっている。

 様々な骨を、皮膚の上から探り、その骨に近い部分の温度や感覚を探る。
 筋肉が疲れていたり、冷えているときは、たいていそこから心臓寄りの関節が冷えている。
 ふくらはぎなら膝。膝だけではなく腰骨のときもある。尾てい骨が冷えるとなかなか身体は温まらない。
 肩が凝ったことはほとんどないが、凝っている人は首か肩の関節が冷たい。こめかみや肘が冷えているのが原因の人もいる。

 僕は自分であろうと他人であろうと、骨からマッサージする。
 温めるのに必要なのは、骨を撫でることだ。

 皮膚を撫でても、外から温めても、僕の場合はそれなりにしか効果はなかった。
 数年前、巷で見かけるリラクゼーションマッサージの店で数ヶ月研修を受けたが、あれらの店は「筋肉をほぐす」ことに重点を置いているから、男性相手には力が必要だったり、接触箇所も増える。

 骨を撫でるのに必要なのは、親指と人差し指、多くても中指までだ。
 ために、ある人はリラクゼーションマッサージで揉み返しを起こし、肩凝りは直らなかったらしい(施術所には、ちゃんと言い訳が決まっている)が、僕が小一時間関節をマッサージしたところ「関節を押すだけ(実は、だけではないが)で、こんなに肩がラクになるの?」と言われていた。
 筋肉なんか押したって痛いだけである、少なくとも僕は。

>>>

 カラダを撫ぜて、骨を探り、骨を指で掴む、骨を撫ぜる。
 心臓に遠い場所からスタートして、しばらくすると、次に撫ぜるべき場所が、冷えたり温かくなったり、かゆくなったりする。
 カラダが満足するまで、僕はカラダを撫ぜる。
 時間がかかるし、シングルサイズのベッドや布団では役に立たない。
(ためにシングルサイズしかない伯母の家では、現在かなり苦労している)

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 背中の肩甲骨の裏や、臀部の奥(臀部からの骨は遠い)、鼠径部のさらに内側など、普段ほとんど触れない場所も、触れられる限り撫ぜる。
 骨を撫ぜ、肌を撫ぜる。

 知らない傷がある。
 気付かなかった膨らみがある。
 まさかの角質がある。
 思わぬ贅肉がある。
 肌触りを確かめる。
 僕は僕のカラダを発見してゆく。
 皮と筋肉と骨をなぞって、古代の化石を掘り出そうとするかのように。

 骨を手で曲げる。逆向きも、そっと曲げる。
 必要な箇所以外、力を入れないように注意して、呼吸に気をつけて、撫ぜる。

 押す、つまむ、撫ぜる。
 弱く押して、強く押して、その箇所を力ませて、脱力する。
 そのうち、僕は安心して眠る。

 カラダは昔から、僕とは違うイキモノみたいで、まったく制御が効かない。
 だからそうやって、僕は自分のカラダと交信する。
 あるいは、自分のカラダに耳を澄ます。

 長らくそんな余裕もなかったと思い出しながら、昨日はそんなふうに、自分を撫ぜ回していた。
 自慰行為と呼んで差し支えないかもしれないが、性感があるわけではない。
 背中を撫ぜるのは少々手間だが、そのためだけに人を雇うわけにもいかないのは悩ましいことである。

>>>

 思い出した。
 不眠症のときにもしていたんだ。

 眠れなくなっている人の多くは、アタマの中で迷子になっているのだろう。
 カラダに帰ってくればいいし、帰ってこられないときは、そろそろ出発の準備をしてはどうだろう。
 自分のカラダと手を繋げなくなったら、もう死ぬしかないのだから。


 浮き世は感染症ブームらしく、先日考えていた経済主体の世界認識モデルに、早くも特殊な因子を考慮する段階に突入した。
 突入しただけで、べつに認識モデルを刷新したところで、何がどうなるわけではない。
 僕は世界の支配者というよりは傍観者であり、世界経済における重要人物というよりは日本経済にさえ希薄に関与している程度だ。
 というわけでトイレットロールが残り2ロールなのですが、とくに買い急ぐ気はありません。

 観察者の存在によって初めて世界はそのありようを決定するので、傍観者である僕がフタを開けて観察するまでは、そのありようは二つ以上の状態が重なって存在しているのである。
 すなわちトイレットロールの存在しているトイレと、そうでないトイレと。

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 無職で暮らしているので、税理士や銀行員などに「株か何かをされているのですか」と尋ねられることがある。
 株はしていない。
 株をしている方からすると、あれは投資行為であり、社会貢献であり、経済活動であり、ギャンブルではないらしいのだけれど、僕にはどうしてもギャンブルに見える。
 データを集めれば動向が読めるというけれど、そうした特性は競馬や競艇にだって存在するし、パチンコだってあるだろう。ないのかな。

 ことほど左様、僕はギャンブルをしない。
 たまに人に誘われたときに、馬やボートをしたことはある。
 でも小銭しか賭けないし、勝っても負けても、あまり熱が入らない。
 僕の熱量は、リアルマネーでは発生しないらしい。

 僕は20年くらいTVをほとんど見ていないからCMも見ない。
 モノを買うことが1番の投資活動だと思っているので、良いと思った会社の、良いと思ったものを買う。
 僕がとくに力を入れているのは純石鹸だ。
 あれがなくなると、毎月石鹸を作る生活になってしまうだろう。
 食器も石鹸で洗うし、お風呂も石鹸ひとつで足りる。
 ボディソープやシャンプー、食器洗剤は肌が荒れるのでダメなのだ。
 一時期は洗濯洗剤も液体石鹸にしていた。
 最近は、マグネシウムと少なめの洗剤で驚くほど落ちることを(遠い街の、金物屋のおかみさんに)教えてもらったので、そのようにしている。

 ただ、洗濯洗剤は困ったもので、成分を見ても分からない成分が多く、時系列による変化も乏しいので、見ただけでは化学作用が理解しがたくなってきている。
 容器や名前やパッケージばかりが刷新されていくが、明らかに前のバージョンのほうが良い製品だったこともある(どの銘柄とは言わないが)。

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 定職に就いていないと、時折、世間の目が冷ややかである。
 定食にライスが付いていないかのような冷ややかな視線を感じることがある。僕はライスなのか。
 いっそ「専業主夫なんですぅ、おほほ」とか言ってその場を切り抜けてやろうかとも思うが、銀行や税理士、司法書士は僕の素性を知っているから「配偶者いねーだろ!」と叱られるかもしれない。
 かろうじて僕がまともに人間のフリをしていられる(周囲からの冷遇が耐えられる範囲に収まる)のはスーツしか服がないからという極めて消極的な理由に起因しているとしか思えない。
 スーツを着ている人を「この無職が!」と罵る人は少ないように観察される。言わないだけかもしれないが。

 先日も、おこづかい稼ぎの飲食店に出かけたとき「猫氏、どこに住んでいるんですか」と尋ねられ、住民票住所と実住所が一致しない時がある、と答えたところでハッとした。
 僕は現在、住所不定無職なのである。

 経済活動にあまり積極的に携わっていなくて、居所不明瞭なのである。
 これで車両一時不停止だとか、シートベルト非装着などでお巡りさんに捕まったら、完全に重犯罪者扱いされかねない。
「住所不定無職」には、そのくらいの重みがある(ような気がしている)。

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 とはいえ先日、司法書士さんから連絡があって土地建物の名義変更が終わったので、火災保険の変更手続きをしてくれと言われた。
 至極ごもっともであるが、僕は、僕の介護対象者の家にあまり馴染んでいない。

 名義が変わったとか言われても、他人の家にお邪魔している感は否めない。
 だいいち、未だに何がどこにあるのか分からないことも多い。
 数ヶ月、介護のために住んだ(転職までして住んだ)ことがあったが、私のややこしい介護対象者から追放された。
 介護は継続せざるを得ないが、数時間掛けて通勤し、帰宅し、休日は介護の往復に数時間掛けているうち、身体を壊した。

 住民票は、介護対象者であった伯母と伯父の家に移してある。
 これは(実子でもなく、介護事業者でもない自分が)介護をするのに、手続き上、便利だったからであるが、郵便物に「〜様方」が付いていないということだけでも何度となく嫌みを言われ、説教された。
 できる限り手は打ったが、市役所などからの文書はどうしようもなかった。
「〜様方」という住所は存在せず、ために僕の住所は「〜様方」で終わるものではなく、ゆえに「〜様方」と表記されず。
(同一世帯として住民票を移せば違うのかもしれないが、そんなことをしたらしたでややこしい展開になることは容易に予測できた)
「〜様方」という姓でもないから、僕の住所氏名に「〜様方」という表記は一切存在せず「我が物顔で家に住み着こうとしているようで気分が悪い」とまで言われたこともある。

 住所が違うと、介護施設や病院の手続きで、少々手間が掛かる。
 何より救急搬送されたとき(何度かあるが)に、実子でもなく、姓も違って、住所も違うと、本人に代わっての意思決定がほとんどなにもできない。
 本人の意識がしっかりしていれば問題はないが、意識不明で昏倒しているところを発見されたなんてとき(1度あるが)にはどうしようもない。

 しかし、そんなことはお構いなしに嫌疑を掛けられたので、こちらも気分が悪いから(そして自分の住む場所は引き払っていなかったから)元の家に戻ったというわけだ。
 私も大人気ない(著しく「にんきがない」のでも「ひとけがない」のでもない)のかもしれないが、伯母と伯父も相当だったとは思う。

 そのようなわけだから、死後も諸般の手続きは(自分の貯金を切り崩して)進めたものの「はい、あなたの名義になりました」と言われたところで最初に思ったのは(キャンプファイアでもしようかな)である。物騒だし、犯罪なのでしないけれど。

 しかし問題は、無職であっても不動産を持てば税金が掛かるというシンプルかつ切実な現実に直面することである。
 考えたくないから布団にもぐって寝て過ごしてしまおうかと考えているうちに車が壊れた。
 17万キロも走っている軽自動車であるから、いつ壊れてもおかしくなかったのだが、さすがにこのタイミングはまずいのではないか。
 少なくとも、車を買い替えるタイミングとしてはあまりオススメできないのではないか、と考えている。
 それに僕は無職だ。このタイミングで何か大きな買い物をしようものなら、それがたとえ自分の貯金であったとしても(あれぇ?)と言われる気がしないでもない。
(まぁ、貯金は葬式でほとんど使ってしまったが)

 ゆえにブログで「新しい車を買ってしまった。買わざるを得なかった」という文言があった場合はお察しである。
 また「住む場所がひとつになった」の文言も意味深である。様々な可能性が考えられるが、今はあまり考えたくない。
(住む場所がひとつもなくなった、よりはいいかもしれないが)
 引越しをする気力が、今の僕にはないのだ。
 あの家この家を渡り歩いて往復して、そのうち車が壊れて、法的なあるいは事務的な手続きをしているだけで疲弊しているのだ。
 その上、墓仕舞いまで頼まれている。

 死人に口無しとはいっても、伯父が寺の檀家の総代の役員だったので、墓を放置しようものなら他の誰かに追い回される気がする。
 人間の社会は本当に面倒である。

 全部片付いたら、公園生活者になろう。
 住所不定無職。
 ネコとハトだけが友達だ。
 野生の生き物はすべて、住所不定無職なのだ。
 さほど珍しいものでもあるまい。

 あと週に数回電話を掛けてくる弟子と、たまに連絡が来る大学生の飲み友達と、月に数回食事に誘ってくる妹や姉が面倒だ。

 電源コンセントの付いたトイレのある公園を探そうそうしよう。

 そんなことを考えていたら弟子から電話があった。
「1年無職なのに、そのうえ住宅を入手して税金に頭を悩ませてる人を見たのは初めてです」と会計士見習いの彼は言う。
 私もこんな経験は初めてだし2度としたくはないのだ。

>>>

 なるべく家から出ないで生活している(そしてそれが容易である)ので、花粉症の症状も軽かった(コルカタの旧名ではない)。
 しかしここ数日の気温と風で、少しずつ症状が重くなってきた。
 そうはいっても、いまの僕は以前ほどストレスの高い状態ではない。
 このまま無職を続けていたら、計らずも長生きしてしまう可能性だってある(多分ない)。

 経済ベースの社会モデルは、すでに人の手による恒常性の限界を越えようとしているのかもしれない、特にこの国では限界すれすれの手法を使ってきたわけだから。
 純国営の銀行ではないところが大きな権限を持ってあれこれするという(少なくとも今の僕には)不透明なメカニズムは、官民の間を泳いでいられるうちはよくても、両方から圧力の掛かる状況になると弱いのかもしれないし、そもそも自律的恒常性なんてものが経済という仕組みにも存在するという前提が崩れることを恐れている人も少なくはないのだろう。

 こういうとき、株をしている人を「それ見たことか」といじめる人がいるが、あれもよく分からない。何かやっかむところがあるのだろうか。
 相対的に得をしている、と考えるもよし、株をしている人ならば「タイムセールだ!」と株を買い足すもよしだろう。
 乱高下を繰り返すタイミングでうまく振る舞えば、きっと儲かるのでしょう。どうにもギャンブルっぽいけれど。

>>>

 そろそろ真面目にPCの買い替えを考えなくてはいけない。
 嫁である Mac Pro はOSのアップデートなどとうにできなくなっているし、もうあちこち壊れていて「beatless」(SF小説です)の終盤のレイシアみたいになっている。

 Macのほうが馴染みはあるけれど、現行のMac Pro は高いし正直オーパスペックではある。
 といってミドルクラスのタワーマシンが存在しないので、マルチモニタを活かすには、複数の Mac mini を買って並列化するしかないかもしれない。
 iMac だとモニタがさらに増えることになるので対象外にしている。
 何よりメーカーが計画的パワーダウンを行なっていたのが明らかになったわけ(米国の訴訟のことです)で、そういう企業は信頼しないというのが僕の基本方針なのではある。

 しかしお眼鏡にかなう商品はなかなか見つからない気もする。
 もともと僕はPCを持ち歩きたくない性格なので、どうしてもデスクトップになりがちだ。
 Windows も視野に入れて考えようかなぁ。

 公園生活者になる予定なのになぁ。

 ちなみに「新しいPCを買いました」という文言がこのブログに出てきたときも「お察し」いただければ幸いです。

 そう。
 公園のトイレの電源にコンピュータを繋いでいるに違いないので。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200308
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
死は無慈悲な僕の恋人。
SUBTITLE:
~ The death is a harsh my lover. ~
Written by 銀猫

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 死が好きなのである。
 10歳の夏から、いやなんとなればそれ以前、初めて死に触れたそのときから、驚き、興味を持ち、ときに畏れ、ときに悲嘆し、ときに憎んだそれは。
 
 まるで恋のようだった。
 それは性別を持たず、それは実体を持たず、問うても返事はなく、概念的であり、にもかかわらず絶対的に現象するそれに。
 
 最初は陶酔した。
 それはしたたかだった。
 たとえようもなかった。
 比類なく、比肩するものもなかった。
 
 それは美しかった。
 絶対であることの美。
 他のいかなるものにも、真似さえできない無二。
 完璧であることの具現。
 究極であることの神々しさ。
 
 そして己という生命を体感し、少しずつの僥倖に歓び酔いはじめたとき、不意に恐怖した。
 絶望した。
 私は死をもたらす者でも、死を使役する者でもなく、死のよき理解者でもなかった。
 私は死をもたらされる側であり、支配される者であり、死は私を理解などするはずもなく。
 それは恋と呼ぶにはあまりに一方的で、あまりに幼稚だった。
(もちろん、恋のすべては一方的で幼稚なのかもしれないが、そうならば、とても原型的な恋だったといえる)
 
>>>
 
 10歳の夏の出来事だ。(忘れているとき以外は)忘れもしない。
 ある日突然、僕は死にフラれたのだ。
「え? 私たち、恋人じゃないよ?」
「そもそも、付き合ってもいないよね?」
 
 まったくもってそのとおり、僕の想いは一途だったかもしれないけれど独善的で、情の熱量は高かったかもしれないけれどそのぶん思いやりなんてなかった。
 恋というより憧れだったのだそれは。
 
 それから数年、僕は打ちひしがれていた。
 10歳にして打ちひしがれてしまった。
 打ちひしがれてしまっていたのだ。(強調三段跳び)
 自らの死の運命と、死に対する失恋に。
 
 しかし10代の絶望なんて、そうそう長くは続かない(2年くらいは続いたから、それまでの人生の20%に相当するが)。
 そもそも何を諦める必要があろうか、いや、ない。(反語)
 そうして僕は、彼女との恋を実らせるべく、血のにじむような努力をしたのである。
 たとえば(中略)そのようなわけで、僕は彼女との恋を成就させたのである。
 
 以来、僕は真面目に死に恋をしている。
 ちょう真面目なお付き合いである。
 みだりに人前で手を繋いだり(意味深)しないし、一度も身体を重ねたこと(危険)もない、清く正しいお付き合いである。
 
 将来のこと(切実)も考えて真剣にお付き合いしています!
 おとうさん(誰?)彼女をボクにください!
 第一印象(いつ?)から決めてました!
 絶対、幸せにします!(?)
 
 かくして(事実隠していたが)僕たちは将来を約束(意味深)し合った恋人同士であり、彼女(?)は僕の13番目の恋人なのである。
 
>>>
 
 まぁ、こんなことを書いたって、多くの人は(めでたい人がいるなぁ)くらいにしか思わないだろう。猫だけれど。
 そもそも想像もつかないだろう、非生命や自然現象に恋する気持ちなど。
 
 僕はこう見えて(どう見えて?)恋多きオトコだったのである(かつては)。
 
 月にも夜にも雪にも恋するのである。
 海と川なら川の方が好き! とか、
 イワシと花崗岩ならイワシの方が好き! とか、
 ホワイトチョコよりイチゴチョコが好き! とか。
 まぁ、最後はちょこっとニュアンスが違うけれど、くだらない駄洒落を挟むようになったあたり、猫氏も老化現象がはなはだしいな! と笑うがいいさ。
 
>>>
 
 そのようなわけで、僕は死が好きである。
 そして、周囲の人の一部もそれを知っている。
 ただ、今まで自殺をしたことはない。
 未遂もないから、しようとしたことがないのかもしれない。
 死にかねない怪我や病気は、あったかもしれないけれど、生憎生きている。
 
 それでも死と生を並列して取り扱ってしまうので、人によっては僕に対して不謹慎だと感じたり、あるいは僕が突然自殺するのではないかと心配しているようだ。
 
 まあ、気持ちは分かる。
 僕は他の人に比べると、生命を軽んじているように観察されることもあるだろうとは予測している。
 たとえば飼っていたペットが死んで、庭にも裏庭にも穴を掘る場所がないと、燃えるゴミに出してしまう。
 でもそれは「食べよう!」と思ってかたまり肉を買ったにもかかわらず、仕事やデートが忙しくて、腐敗させてしまってゴミに出すのと、僕の中では大差がない。
(否、デートで忙しくて食材をダメにしたことだけはないと断言できる。なぜなら僕は食事を作って食べてもらうのが好きだからだ。しかし話が逸れてしまったから元に戻そう)
 ペットを愛していないのではない。
 ただ、ペットの死体まで愛することはできないのだ。
 その亡骸は、たとえるなら大好きだったおもちゃの入っていた箱のようなものだ。
 だから箱まで愛している、という人の気持ちも、僕は十分わかる。
 たとえば大好きな本を「普段用/保存用/布教用」と買ったり、あるいは大事にコレクションしているおもちゃは、開封しないで保存したりするようなものだろう。
 
 もっとも僕は、本に線を引いたり、折ったり、メモ書きしたり、ページを破いてまでコンテンツを吸収しようとするタイプなので、帯も(ひどい場合は表紙も)すぐに捨ててしまう。もちろんブックカバーなんてかけないし、しおりも持たない。
 おそらく僕がペットと接するときも、同じようなのかもしれない。
 飼っている間は家族なのだから、世話を(できる限り)きちんとするのは当たり前だろうし、躾もする。
 けれども、死んでしまえばそれはただの屍なのだ。
 
 ペットを愛していればこそ、その亡骸にはなんの意味もないと僕は感じてしまう。
「そこに私はいません、眠ってなんかいません」なのである。
 思い出も、思い入れも、肉体というカタチがあればこそのものなのかもしれない。
 でもその、思い出とか愛情とかは、カタチに依存していたわけではなくて、関係性に由来していたのではないだろうか。
 
 家に帰ると座って(あるいはどこかで寝そべって)待っている。あるいはこちらに駆けてくる。
 食事の支度をしていると(ごはんくれ〜)と鳴いて頭をこすりつけてくる。
 人がゲームに熱中していると足元で人の顔色を窺っていて、ひと息入れるタイミングで(膝に乗せろ〜、ナデナデしろ〜)と訴える。
 トイレの砂を綺麗にしていないと(なんとかしろ〜)と訴えにくる。
 ベッドの中でねんごろなガールと身体を重ねようとしていたりすると(寒いからオイラも仲間に入れろ〜)と間に割って入ってくる。
 
 これは僕と僕の飼っていた猫との記憶の一部だけれど、僕には彼の亡骸との思い出はない。
 亡骸をも大切にする人と比較して、僕には何かが欠如しているのだろうとは思う。
 ただ、その「欠けているもの」はどれくらい大切な、重要な、あるいは必須のものだろうか。
 
 もちろん僕だって埋葬できるときはする。
 剥製にできるなら、するかもしれないし、しないかもしれない。
 捌いて食べることが可能なら、食べるかもしれない(僕にとって、それはひとつの、自然な供養のカタチだ)。
 ただ遺影を飾るとか、墓を用意するとか、人に可愛さアピールして回るとか、そういうことで愛情を表現することに価値を見出さないのだ。
 
 そういうところで僕はときどき誤解を受けるし、その自覚もある。
 彼ら彼女たちのいう「ペットを大事にすること」の概念には、死体とその取り扱いが含まれていることも分かる。アタマで分かるだけではなくキモチも理解できる。
 
 ただそれでも、死体はもう鳴かない。
 玄関にお迎えになんか来てくれない。
 オヤブン、エサくれよぉ〜! オヤブンいっしょに遊ぼうぜ〜! なんてわがままも言わないし、部屋の隅で僕がうなだれている時に(どしたの? ねぇねぇ、どしたの? オヤブンおなか痛いの?)なんて具合に様子を見に来てくれたりしない。
 寒い夜に(オレだ入れろ〜! オレを布団の中に入れろ〜! オヤブン、オレだよオレオレ!)と騒いだり、夜中に不意に野生の呼び声に目覚めて狩りごっこを始めたりもしない。
 椅子の足元にちょこんと座って(ご主人、遊ぼうよぅ)とこちらの顔を窺ったりはしないのだ、死体は。
 
 ペットがいなくなれば、それは悲しいし寂しい。でもそれは僕の勝手な感覚で感情だ。
 そして当のペットはといえば、もはや何も感覚しない。
 だからそこから先は、飼い主のエゴでしかないと僕には思えてしまう。
 動物霊園に弔って、当のペットが(ご主人、嬉しいぜ)とかなんとか言うならともかく、言わない。少なくとも僕は聞いたことがない。
 それなら新しいペットと一緒に暮らして、餌をあげたり叱ったり噛まれたりする関係をまた作ればいいじゃないか。
 
 ペットの死体を燃えるゴミに出すのは、生命を軽んじている訳ではない。
 むしろ死を軽んじているといっていいだろう。
 確かに僕は、死んだ人に対しても平気で悪口を言う。
「死のうがなんだろうがクズはクズだ」と言い放つ。
 生きている人の判断や考え方は常に尊重するが、たとえば死ぬことによって何かを他人に強要するようなことがあれば「クズだなぁ」と思うし、それは生きている人間が行っても同様だろう。
 むしろ生きている人間が相手であれば手も打てるし改善もできる。それができないぶん、死人はタチが悪いともいえる。
 
>>>
 
 ゲームなどでも、死んだ(プレイを継続できない)キャラクタを執拗に攻撃し続けることを「死体蹴り」といって、基本的にはあまり良いこととはされていない。
 死人に口なし、ともいう。
 相手は反撃できないのに、一方的に攻撃できる状況が道義的によろしくない、というのは確かに分かる。
 
 一方で、死んだというただそれだけで、生きている間はその人をないがしろにしていた人たちが「家族思いのいい人」を演じる場面もたびたび見てきた。
 介護サービスを受けていて、サービス中の不慮の事故で亡くなった方の遺族が、事業者を訴える、なんて今でもあることだろう。
 
 これらは人が死という境界にバイアスを掛けている可能性を十分に証明している。
 生きている人間と死んでいる人間を比べると、死んだ人間のほうがちょっと「いい奴で尊重されるべき」存在になっているのだ。
 それを逆手にとって自殺をすることで周囲との人間関係をコントロールしようとする人もいる。
 
 なんらかの痛みや苦しみから逃れるために自死を選択する人がいることは、たしかに悲しい、というより嫌なことだ。
 それでも自分の感覚や記憶を一切遮断できるという意味で、有効な手段であるとは思う。
 しかし自死を選択する人の多くは、自分以外の人のこと、特に自分の葬儀や埋葬をする人のことを考えているのだろうか。辛いのは分かるが、独善にすぎないだろうか。
 少なくとも僕は、希死念慮があるにもかかわらず、他の人のことを考えてしまってみだりに自死ができない。
 
 身勝手な自殺よりもやっかいなのが、必ず未遂に終わる自殺を演じるタイプの人だろう。
 オトナの仮病の重症版みたいなものだ。
 盛大に目立つ自殺未遂をして(方法について書くつもりはない)、怪我や体調不良を起こした人間に「なんでちゃんと死なないの?」と言う人はたぶんいない(僕なら言うかもしれないが)。
 その人は自殺未遂をしたことで周囲から大切にちやほやされて、場合によっては悩みなどの問題が改善されることもあるだろう。
 しかし問題解決の方法としては子どもの嘘泣きや仮病とおなじくらい、幼稚でみっともない行為だ。
 大人がするべきではない。
 自分の健康と引き換えに周囲をコントロールしようという浅ましさはある種のファシズムでもあるから、社会から排除されてもいいようにさえ思える。
 
 死を普段から意識しないゆえ、すぐそばにあると考えないから「その人が死んでしまう」ということを特殊だと思ってしまうのだろう。
 その特殊さがバイアスを生むのだろう。
 
 結果として、明日も明後日も永遠に生きているという前提で他人と接する。
 生きている人間をないがしろにする人を僕はたくさん知っている。
 そういう人たちが、死んだ人に対しても同じようにしていれば、僕は特に何も思わない。
 ただ、死んだ途端に「いい人だった」とか「仲良くしていたのに」とかいうのはどういうことなのだろう。
 
 生産終了するお菓子や、閉店するお店に対しても同じである。
 普段からその商品を買い、その店に通っていれば、その商品は、お店はなくならないのだ。
 終わると聞いた途端に「いい店なのに」「大好きなのに」と言い出す神経が偽善に感じられるる。
「ある時期から飽きていた」とか「昔は良かったけどそれほどでもないから役目は果たしたんじゃないか」という意見がもっとあってもいいと思う。正直に言ってもらいたいと思う。
 おそらく社会が醸成している「常識的な善人」の像を気づかず演じているのだろう。
 
「常識的な善人」は、普段は購入しなくなったものがなくなるときだけ過剰に惜しんで、親の介護を公共事業にまかせて、死んだらその事業者のせいにする。
 生きている人間はそれほど大事ではないが、死んだら大事だった人にすり替わる。
 その偽善が鼻持ちならない。
 仮にそういう偽善の人が周囲で死んだ場合「こいつは生きている時から本当にロクデナシだった」と僕なら言うだろう。もちろん生きているときにも言うだろう。
 死んだくらいで善人に昇華されてたまるものか。
 
 死体蹴りをしたところで痛い思いをするのは自分だけだが、生きている人間を蹴れば、まず相手が怪我をする。
 当たり前の事だ。
 
 だから死人を悪く言っても、生きている人には「何か事情や考えがあるのだ」と考えるようにする。
 たしかに僕の持っているバイアスは、他の善人どもとは逆方向に向かっているのだろう。
 どちらが正しいとは思わない。それぞれが好きにすればいいことだ。
 
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 とにかく僕には死と生の境界が曖昧というか、そこに連続性の分断を感じないというか、その分断に高低差を感じないというか、そもそも生きていることを連続性のあるものと認識していない。
 
 生きていることは、連続していると錯覚できる程度には長いのかもしれないが、死ぬことは分かっている。その連続性が必ず失われることは明白である。
 自分でも他人でもそれは変わらないから、毎朝、僕はおはようのキスを恋人とするように「今日も生きているのか」と自分の意識を思う。
 
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 生と死に境界はなく、虹のようにグラデーションして連続しているという概念がなかなか浸透しないのは、人間の意識や思考が、中途半端にデジタルになっているからなのかなぁ、と思ったりもする。
 
 以前、ある華道の先生に教えて頂いたのだ。
「花器に活け、萎(しお)れ散ってもその様の侘び寂びさえをも愛でてこそぞ」と。
 
 実際に、新芽を活けることも枯れ枝を活けることもあるわけで、そこには単なる花ではなく、誕生から死に至る生命のサイクルが表現されているのでもある。
 
 先生の言っていた「愛でる」は「かわいいかわいい」「綺麗きれい」と褒めそやすことではないのだろう。
 ただ見て、ただ感じる。
 綺麗と感じるかもしれないし、哀れを感じるかもしれない、醜いと思う人もあるかもしれない。
 
 少なくとも、ただただ綺麗に咲いている、咲こうとしている瞬間だけを見せる切り花よりも、感じることに奥行きが生まれる。
 萎れた茎も、散って変色した花びらも、その花の姿には変わらない。
 
 散ることを美しいとするのは、日本に固有の文化かもしれないが、現代社会に発展した綺麗なもの、いいことばかりをもてはやす風潮には、少々食傷気味で白けてしまう。
 
 無常であることの味わいは、だから、そこに断絶や無価値を見出さない。
 無から誕生したように、無に還ってゆく一連の流れは、断絶なく連続しているものだと感じられる。
 生きていることばかりにフォーカスするから、生は変化という不連続な断絶をもたらす。
 無にはじまり死に終わる課程を生と考えれば、生は連続性を持った変化であり、美しく成長するときと同じように、衰え散る姿もまたその成長の姿なのだ。
 
 散った花びらは、猫の死体と同じように僕は捨ててしまうだろう。
 それでも散る様や死そのものは、特別なものではなく単純に、いつもそこにあるものなのだ。
 死も生も特別ではないからこそ、そこにあるものをできるだけ先入観なく、ありのまま感じられればと思うようになった。
 
>>>
 
 死は、少なくとも僕にとってはいつもそばにいるものだ。
 
 そして無常のなかのうつろいすべてにある美しさであるとか、今というものの儚さを「愛でる」視点を知ったとき、僕は初めて死に愛されているのだと知った。
 思い知った。
 
 そうなのだ。
 最初から。僕が彼女を好きになるよりはるかに以前から、僕は死に愛されていて、静かに見守られているのである。
 
 最後、彼女にカラダを重ねてしまえば僕は死んでしまうだろう。
 それさえもいとおしく、僕は僕と僕の周囲の生と死を見つめる。
 
 死がそこにあるとき。それは彼女の優しい吐息のような気がして。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Ecology-Eternal-Kidding-Life-Love-Memory-Rhythm-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Transistor-
 
[Object]
  -Cat-Night-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  -暗闇エトランジェ-:-いのちあるものたち-
 
 
 
 
 
//EOF

 一年ほど前、おかゆすら消化できずに眠っていた期間がひと月ほどあった。

 少量のビタミン剤(規定量では戻してしまう)と白湯で乗り切り、運動機能も回復させ(まっすぐ歩くのがしばらくはむつかしかった)、少しずつ食事も摂れるようになり、一度は大きく減った体重も少しずつ増えていった。
 そして気がついたら、また腹が出てきた。
 
 お腹の贅肉が気になったのは、およそ10年ぶりである。
 30代になったばかりのある日、お風呂で足首を洗おうとして膝を胸に寄せた際に「うぐ!」となって、その日から腹筋をし、3年くらいかけて戻した。
 
 つまりあれからさらに8年前後をかけて、僕は私腹を肥やしたことになる。
 慣用句的な意味とは異なるので私腹(物理)を肥やしたと表記すればよいのだろうか。
 
>>>
 
 僕は基本的に、他人に自分の身体を見せることを忌避する。
 とはいえ温泉などに行くとパブリックスペースであるにもかかわらず、真っ裸で歩くことには抵抗がない。
 混浴であってもあまり気にしない性質である。
(もっとも、混浴の浴場でやけに気色ばんでソワソワしているのは男性ばかりであるように観察されるが)
 
 僕にとっては、単にお風呂やサウナは皆が裸でいる場所だからという認識なのだけれど。
 
 一方で夏場の一般的なパブリックスペースで、膝から下を露出したり、肩から先を剥き出しにしたり、おへそを出すのは嫌なのである。
 恥を知れ、と思うのである。
 男性でも女性でも、恥ずかしいなぁ、と思うし、見苦しいとも思う。
 
 説明するとちょっと長いかもしれないが、成人がみだりに肌を見せて歩くのは、幼稚なのか、白痴なのかのいずれかであるような気がして仕方ない。
 ムダ毛があるというのはある種の獣性を放置しているということでもあり、体毛が比較的濃い方でもないのに、すね毛などを隠したいと思ってしまう。
 ゆえにスニーカーソックスなんていうのはガキの履くものだと思っている。
 最低でも膝下まで、できれば膝まで隠したいし、膝から上の肌はヌードっぽいセンシティビティを発露する気がして、やはり隠したくなる。
 
 あれを平気で露出している成人というのは、他人の感覚に無神経なケモノか、自意識過剰に若さを見せびらかしたいガキなのではないか、と疑ってしまうのだ。
 
 無論、そういう「プレイ」を楽しみたいという人もいるだろうし、(気候のせいだろう)肌の露出に無頓着な東洋人は多いから、あくまで自律として行なっているだけで、たとえ恋人であろうと、身近な人に注意をしたりしたことはない。好きにすればいいと思っている。
 
>>>
 
 たるんで出張ったお腹も同様である。
 恋人が27人いた頃は見る者もいたし撫でる者もいたが、今、僕のお腹を撫でることができるのは僕だけである。医者も撫でない。
 それでも僕は、腹が過剰にたるむと不安になる。
 かといって「これでもか〜!」と鍛える精神力もないし美学もないし自己顕示欲も自意識過剰さもない。ナルシストのくせに。
 
 要はなるべく目立たないことによってナルシシズムが満たされるのね(口調が変)。
 変に目立たないことは、美しいことだと思っているから、SNSで目立ちたくないし、日常生活でも人目を引きたくない。
 一方で、レストランとかに(友達もいね〜からよ)1人で出かけて、フロアのど真ん中の席を案内されると「待て〜、俺を主役席に連れてくな〜。どっかにもっと見映えするカポーとかいるだろ〜」と内心毒づきつつも、すました顔で着席するわけです。やっぱりあまり気にしない。
(和式の上座/下座の概念の方が僕は苦手)
 
 見せるものではないけれど、その人の筋肉のつき方とか、神経の細やかさというのは立ち居振る舞いに出るものだから、速すぎず遅すぎず、強すぎずガサツではない居ずまいを保ちたいわけです。
 そんなにしゃちほこばることはないのだけれど、お酒を出す店でナナメになって、肘をついて、よろめいて、他の人の靴を間違えて履いて、トイレを汚してそのままにして、帰り際に人やドアにぶつかって、当たり前の顔をしている成人(オトナかどうかは永遠の謎)もいるわけです。
 
 その店が価格的に高かろうと安かろうと、そういう人は一定の割合でいて、それこそだらしないなぁ、と、部屋の掃除を3ヶ月していなかった僕は思うのです。家の中がゴミだらけになっている僕は思うのです。
 だらしない人たちが家族連れの場合、まぁだいたい全員がひどいものなので、観察しているととても楽しい。
 
>>>
 
 見せるわけでもないのに体型をコントロールするのは、20代の頃、アルバイトをしていた飲食店の店長の言葉があったからだ。
 
「青猫くんは、体型が綺麗だから安心して信頼できる」
 初めて聞いたときは耳を疑ったものだ。
 当時の僕はまだ入って未経験から2ヶ月くらいしか経っていないひよっこ。安心も信頼も、そもそも1から仕事を教わっている身の上なのである。
 
 それに当時はいくら食べても太らない体質だったので、その旨を説明したところ、
「病的に太ることと病的に痩せることは同じだから、バランスがよければいいんだ」と言われた次第。
 当時は僕も若かったので、イマイチ理解できなくて(なんで? なんで? 痩せてるのと太ってるのは真逆やーん!)と質問したところ、
 
「病気でもないのに病的に痩せていたり太っている人間は、自制ができないというのが一点。
 ついで、自意識過剰で自分の欲求や自分の理屈ばかり考えがちなのが一点。
 周りが見えないから美的センスも自己認識も歪んでるのが一点。
 
 僕らの仕事は、お客様に心地よく過ごしてもらうことだ。
 コモンセンスが分からない人間には務まらない。
 
 一方でお客様にはいろんな人がいる。
 短い昼休みに来てくださるサラリーマンもいれば、近所のお母さん友達(今でいうママ友)と子供を連れてゆっくりしたい人も来る。
 お金をやりくりして頑張ってやってくる学生のカップルもいる。
 それぞれの人の個別の事情を理解できなきゃならない。
 
 個性はあったほうがいいけれど、個性しかない人間は少なくともこの業界には不要なんだ。
 自制がきかない人間は、そもそも社会人として失格だ。
 僕らは一般のランチタイムやディナータイムに、美味しそうな料理を美味しそうに提供するんだ。心のこもったサービスで、もう一度来ようって思ってもらうのが目標だ。
 自分のことしか興味のない人間は、マナーの悪い客になるのがせいぜいだ。
 
 身体と立ち居振る舞いで、そのくらいは分かるよ」
と。
 
 その店長は、たしか僕の3、4歳上ではあったけれど、(5年経ってもこんな風になれる気がしねい)と戦慄した。
 
 ファストフード店はおろか、ファミリーレストランでも、下手な個人店でも学べないくらいたくさんのことをその人には教わった。
 
>>>
 
 ために病気でもないのに体型が崩れると、見せるわけでもないのに慌てる。
 背筋がない人間は、背筋が曲がっている。
 飲み屋で椅子の背もたれやテーブル、カウンターに身を任せている人間は、こんにゃくだから人間ではないと思ってしまう。
(オレは猫だけどよ)
 
 おなかの皮が服をだらしなく膨らませている人を見ると「オトナってなんだろう……」と考えてしまう。
 
 汚れたトイレを見ると「これを汚したオマエにも、家族がいるんだろう?」と質問したくなる(黙って掃除するが)。
 
 齢を重ねるうち、以前はまったく必要を感じなかった大胸筋や腹筋、大臀筋、ハムストリングスまで「貧相でない程度の見た目」を保つために必要だと思うようになった。
 ギターを弾くには握力も必要だ(そしてなにより第6弦が必要だ)。
 
 かの人とは、15年ほど音信不通である。
 それでもあの日々に学んだことを、僕は忘れずにいて、体型が崩れるたび、いい加減な所作をするたび、激しく焦る。
 
 引きこもりで週休6日以上の日々なのに、自分の自制度合いをモニタして、筋トレをする。
 
 
 
 緊張感のある良い日々だったことを、幸せに思う。
 
 運動が終わって、お風呂に入ってこれを書いている。
 風呂から出たら、料理を作って酒を飲むだろう。
 
 1人でいて、毎日が本当に楽しいと感じる。
 
 
 
 
 

 と、そんなに大げさなことを考えているわけではないのだけれど。

 

>>>

 

「ブログはオワコンだ」という風潮が一部にはあるらしい。まぁそれ自体はどうでもいい。

 そもそもブログはコンテンツなのか、メディアなのかという疑問がある。

 Webという仮想空間上にHTMLによって構築されるすべてがコンテンツであるとするならば、<body>タグをもつすべてのWebページはコンテンツであると考えることもできる。

 

 じゃあコンテンツ集約型サイトに、まともなコンテンツが集約されていない場合(たとえば動画や配信者が一切存在しないYoutubeや、商品ページや出品者ページの存在しないamazon、ユーザやノートの存在しないブログ)がどれだけコンテンツかと尋ねられると、ちょっと首をひねってしまう。

 

 コンテンツ集約型サイトの場合、それ自体もさることながら、大切なのは「集約されたコンテンツ」のほうであろう。

 そちらを主眼に捉えた場合、コンテンツ集約型サイトは(情報媒体として)メディアであり、「オワコン」ではなく「オワメディ」と表現した方が適切なのではないかと、日本人の言語崩壊をきょうもおじさんは心配してしまうのである。

 

 個人的には、集約型サイトなどはメディア/コンテンツ両義のメディアコンテンツであり、ミドルメディアとか、ミドルコンテンツといったように(ミドルウェア的な言葉を使って)表現できればよいのだけれど、「ハード」と「ソフト」の中間であるところの「ミドル」ウェアと異なり、「中身」と「媒体」を区分けする中間地点を指し示す言葉はないようだし、必要ないのかもしれない。

 

 ちょうどamazonから届く箱に「箱in箱」になる商品があるから、箱入りの箱を注文すると「箱in箱in箱」になるかもしれない。まぁ、そんなことはどうでもいいのだけれど。

 

>>>

 

 Y!ブログが閉鎖されると聞いて、僕がCMSに求める機能についてあらためて考えた。

(※CMS(Contents Management System):テキストや画像・動画などのWebコンテンツを作成・編集・保管・閲覧するためのシステム。「コンテンツ集約型サイト」の多くは、閲覧用ページを作成するためのページを持っていることがほとんどである。CMSありきのWebサイトはもはや常識であり「阿部寛さんのホームページ」などはきわめて稀なケースだと考えられる)

 

○カテゴライズによる分類機能があり、可能であれば枝を作れること。

○公開レベル指定ができること。

○サイト内検索機能を持つこと。(これにより独自タグ機能を実現できる)

○検索結果を特定の要素でソート(逆ソート)できること。

○日時を含むメタデータを可能な限り編集可能であること。

 

 これくらいの機能があれば、だいたいのことは好きなようにカスタマイズできると思っていた時期が僕にもありました。

(過去形)

 

 Year. まいったッス。

(ちょっとポップにキメてみました)

 L社とS社は、そこに集まっている発信者にあまりにも古式ゆかしい「業者」っぽいものが多かったので避けました。

 H社とこのAmebaに併設したわけです、旧コンテンツはこのAmebaに移設しましたけれど。

 H社は(エンジニア系という潜在的位置づけが確立しているフシがあるので期待したものの)サーバが不安定なのかシステム構築が下手なのか、私のMacが古すぎるのか「カッコイイことを実現しようとしているせいで動作がひたすら重いExcelで作ったVBのソフト」みたいなことになっている。

 正直なところ、どれもこれも使いづらいのだ。

 

 Y!ブログがすべてよしとは思っていないし、コンテンツ集約型サイトの宿命として、さまざまなユーザの要望に優先度を付けて実現する必要があるのはしごく当然のことと思う。ましてこちらはCMSをタダで使ってなんらかの情報を引き抜かれる運命にあるわけだからとくに文句も言えないだろう。タダでメタデータを引き抜かれているにしても僕などは少数派の人間だから、メタデータの有効性を引き下げる役割しかしないような気さえしてくる。

 

 ただY!ブログの面白かったところは、アクセスするユーザの権限レベルがIDごとに設定されていて、ブログ管理者(青猫工場であれば私自身)さえも例外ではなく、パーミッションにもとづいて動的ページが構築される。

 しかもその上、トップページに特定カテゴリ専用の表示スペースがあったので、トップページを表示させるだけで(つまり誰もが最初にアクセスできるページで)、ゲスト用のページとリーダ用のページと、作者用のページを表示することができた。

 

 この「作者用のページ」に、たとえば「記事の作成/編集」「タグ集約した特定文書の抽出とソート」「外部リンク」などを用意すれば、そのまま別タブで該当ページを表示することができた。

 

 しかし現在利用しているCMSは、

「読んでいて誤字などを発見してから訂正するのがすごく面倒」

(リーダ画面に、権限を参照した上で編集ボタンが表示されてもいいと思う)

「読んでいて新しい文書を書きたくなったときの手間が面倒」

(ブログトップに作者用のメニューがあってもいいと思う)

「ちょっとしたメモ書きをしておいて、それを確認するのが面倒」

(パーミッション基準で、特定ページを常に表示できてもいいと思う)

「下書きした大量の文書を探すのが面倒」

(いつ書いたか分からない、タイトルも思い出せない。そんな文書を探し出すことが、作者にも困難なシステムなのです)

「過去の文書と現在の文書を紐付けする機能に乏しい」

(私のように手動でしたい人もいるわけですよ。希有でしょうけれど)

 

 これらは僕からすると、CMSとしては非常に不完全。

 不完全オブ不完全。すなわち完全? いいえ違います。

 

 少し困っているから、どうするか考えている。

 Evernoteによる公開ノートでもよいのだろうけれど、ブログのコメントのように一つのページに個別にテキストと日時が集約されるようなメモがあると便利なわけで、ちょっと悩むのである。

 まぁ、こういったことまでいちいち書いてしまうのが、露悪趣味なことなのかもしれないが。

 

 

 

 

 

 
 文字数オーバーのために2つに分割しました。
(まさかの計算違い)
 前編はこちら
 
>>>
 
 さて。話をフリダシに戻して。
 
 当時の僕には単純に、その「なんでも他人のせいにする」という様式が面白かった。
 なぜといって僕は他人を支配するなんて、非現実的で不合理で不条理で不自然だと思っていたので、そのことについてそれ以上、まともに考えたこともなかった。
 
 あるいは仮に他人を支配することが可能だとして、ペットを育てることと何の違いがあるだろう。
 ペットって、基本的に生かすも殺すも飼い主次第なわけだけれど(殺す意図を僕が持っている、ということではなく)、その支配の中で、ペットに「ちゃんとみんなに愛されるいいペット」を演じてもらうのは(つまりそういう存在でいてもらうのは)、存外むつかしいものではないだろうか。
 
 優しくしすぎるとわがままになって、最悪の場合、誰かを怪我させたりもするだろうし、厳しすぎれば人間に怯えて、やはり誰かが怪我をするかもしれない。
 
 状況や環境を支配したとしても、自分の理想や幸せを作ることって、その先の制御と維持にあるわけで。
 その「未来と理想を制御すること」をできる器の持ち主でなければ、どんな環境も状況も、活かしきれずに殺してしまうように思える。
 
 そんな制御なら、普段からしていることではないか。
 ならば「なんでも他人のせいにする」なんて不条理なことをして支配を実現するのはバカの骨頂。
 馬鹿馬鹿しくて、しようとも思わなかったからこそ、とても斬新に思えたのである。
 
>>>
 
 とにかく僕はひたすら他人のせいにし続けたし、自分は悪くないと思い込み続けた(もちろん単にそれが面白いアプローチだったからで、それが正しいとはこれっぽっちも思っていなかったけれど、どうせデートで自宅についてきたガールを玄関で押し倒しちゃうようなオトコですから、自分が正しくなかったり悪かったりするのはへっちゃらです)。
 
 そして同時に「他人を信じられない病」に罹った。
 
 驚くなかれ(いや僕は驚いたのだけれど)なんでも他責にすることと、他人を支配したい欲求と、他人を信じられないことはイコールで繋がっている。
 そのことにさっき(これを書き始めるだいたい10分前)に気が付いて愕然とした。
 
 僕は育った環境に、自分以外の人間が(親も含めて)あまりに少なかったから、他人のせいにする余地が他の人に比べるとおそらく少なかった。
 それは同時に、支配しようと思う対象がほとんどいない状況を作ってもいた。
 僕は「ほとんど自分だけで構成される環境」で育っていたので、ほとんどの失敗も、たいていの成功も、自分の責任として考えるしかなかった。
 
 ところが他人のせいにするようになってからは、
「この人が悪いから△△できない」と思うようになった。
「あの人のせいで△△できない」といった具合に、誰彼かまわず吹聴しかねない精神状態になった。
 
 以前なら「△△したいけれど、実現にあたって、あの人の〇〇の要素が障害なのだ。では、どのようにすればクリアできるだろう」と考えていたのだ。
 それが相手を非難して、対策を考えるでもなく終わってしまうようになった。
 人間のせいであって、要素のせいではないと考えるようになっていたから、その人間を排除する以外に方法がないかのように思考の枠が狭まるのである。
 
 狭まった思考フレームの中で、物事がうまくいかない原因は「事」ではなく「人」に集約される。
 実際に誰かが目的達成の障害になる場合は、その人の価値観に起因することもあるのだけれど(行動も、感覚も、習慣も、その人の記憶と価値観に大きく縛られていて、その人の「個人」を形成しているのは、肉体と記憶の集約である価値観だ)、その人の考え方なり、身体機能なりを分析して改善策を練るのではなく、単に「あいつが悪いからうまくいかない」と言い切ってしまうのは、視野が狭い上に、物事に対する分解能が低いと言わざるを得ない。
 しかし単純に人を批判して終わりにしてしまえば、狭量な範囲であっても自分だけはいつも正しくいられるし、労力もほとんどない。
 そして同時に「正しさ」に酔えるから心地は良いけれど、他人を理解することは(そもそもしようとしていないから)できない。
 
 未知の価値観を消化して、理解して、自分の肌でわかる感覚にして、その上で自分の本来の価値観を保持するのはむつかしいことではないのだけれど、そんなものは理解しない方がラクだから、自分の価値観に執着している人は少なからずいるように思える。
 
 結果的に完全他責の人間は、ますます浅はかで、愚かになっていく。
 だから自分以外の誰も彼もが悪者で、自分を理解してくれないと考える。
 そりゃそうだ。
 自分が誰かを理解しようとしないのだから、誰かが自分を理解しようとしていても、その行為の意味や動機が分からないのだ。
「この人は余計な口を挟んでくるばかりだ」
とか、
「この人は私のことを知りもしないのに勝手なことを言う」
とか。
 そんなふうに、理解しようとしている他者をも敵対視して排除する。
 その挙句に出てくるのが「私には味方がいない」という言葉なのではないだろうか。
(僕は過去に何度か、この言葉を投げかけられている)
 
 自分だけが主人公で正しくて立派で、だから他人は私の正しさにひれ伏して付き従うがいい!
 という自己イメージがあるから「間違っている他人は自分の正しさに従えばいい」と思うのである。
 ちょう支配的。
 でもそんな独裁者チックなイメージを振りかざすのはいかにも「悪」だから、それを自分自身にさえひた隠しにするのである。
(自分が)(正しい)にマイナス1を掛けると、(他人が)(間違っている)になる。
 つねに(自分が)(正しい)は、反転すると、いつも(他人が)(間違っている)になる。
 そのままなんでも他責になり、支配的になり、当然に他人を理解しなくなり、だから他人を信じられなくなり、理解もされなくなる。
 
 いやー、すごい発見だった。
 ここまで到達するのにだいたい5年くらい掛かったわけだけれど、あの鬱屈した不運な(というと大袈裟なのだが)日々を忘れたくない。
 ちなみに「僕の至近距離にいた人物」は、僕を悪者にするために(絶対に死なない方法で)自殺未遂をした。
 何かの目的のために命がけだった、というのではなくて(そうなら別の行動を取るはずで)、死ぬことも目的ではなくて、単に「あなたのせいで私は死ぬほど厭な思いをさせられている」という現実を僕の棲んでいる部屋に構築したわけです。
 どう考えたって、相手が被害者じゃあないですか。
 僕は直接の加害者ではないけれど、間接的に、相手をいたわって、いうことをきかないわけにはいかなくなるではないですか。
 人の家で自殺未遂をするって、そういうことですよ。
 
>>>
 
 そして僕は思った。
 彼ら彼女たちは、きっと、同じことを誰かにされ続けていたのだと。
 どう理知的に考えても自分に責はない(おめーの席ねーから! ということではない)、あるいは自分に責があったとしてもそれだけではないことが、世の中にはごまんとある。
 むしろ、完全他責なんて存在しないとさえ僕は思っている。
 
 たとえば交通事故の過失割合の判例で、追突、飛び石、停止車両への衝突、信号無視などは、100:0で、一方に完全無責が成り立つことになっている(あくまで賠償責任上は)。
 僕はそういった業界にしばらくいたことがあるのだけれど、その考え方にはなかなか馴染めなかった。
 
 だって、そもそもそんなところにいなきゃいいじゃん、と思ってしまうから。
 確かに賠償上の責任はないだろうけれど、それでも責める相手がいるのをいいことに好き勝手にいう人間がいたり、賠償上の責任を100%負って責める筋合いでもないのに「自分は悪くない」と言い張る人間もいたりで「どっちでもいいけど、そんなに自分が悪くないって言いたいならそもそも家から出るなよ」と思うタイプの人間だということ。
 
 袖すり合うも多生の縁ではないけれど、被害に遭うことを本当に避けるなら、何もせず、誰にも会わなければいいのだ。
「大事な車が傷ついた」とか騒ぐほど大事な車なら自宅に車の入る金庫を買って大事にしまって外に出すな、と思っている。
 
 それでも生きるから寝て起きるだけでも多少なりリスクはあるわけで、そのリスクと責任を負うのは、誰かじゃなくて自分でしょう、と私は思うのね。
 
 そしてもし仮に、自分は本当は正しいのに、本当に正しいのに、たとえば子どもから見た親や、周囲の人間が多数決的に自分のことを悪者だとした場合。
 それが何度も何度も何度も何度もなんどもなんども繰り返された場合。
 
 その人は果たして、客観的に正しさや過ちを、責任の割合や所在を、正しく精確に認識できるだろうか。
 まわりからただただ意味不明な「正しさ」を押しつけられて、その「正しさ」の中で自分は常に間違えている悪者にされて。
 理屈が意味をなさない世界で「正しさ」を支配しているのは「何か」ではなく単純に「誰か」で。
 
 なにかの拍子で、そうした支配者から自由になれたとき。
 あるいは誰かを自分の思うようにしたいという欲求を持ったとき。
 
 その人は、客観的な理屈に基づいた正しさを、それでも覚えていられるのだろうか。
 子どもの頃に折れてしまった「自分は正しいのに」という感情が暴走したりはしないだろうか。
「私は正しかったのに、みんなが間違えているから私が悪者になってしまった」と、そうくすぶる火種が、どこかで息を潜めたりはしないだろうか。
 
 そう考えると、とても悲しくて、苦しくなって、僕は誰が正しかろうが悪かろうが、やはり興味が持てないな、と思ってお風呂に入ることにした。
 
「僕の至近距離にいた人物」を、少なからず、僕は嫌ってはいなかったはずだから。
 
>>>
 
 僕に限っていえば、正邪や善悪という意味での「正しさ」というものさしを僕は持っていない。
 僕にとって正しさはいつも「精確さ」のものさしだ。
 それが原因で他者との摩擦が発生することもあるけれど、それは「正しさ」が病気になっている人のひとつの特徴なのだと僕は思ってしまう。
 だからついつい誰にも会わずに、独りで過ごしてしまう。
 
 僕が悪だろうと独善だろうとかまわない。
 ただ精確に、自分を測れたら、それでいい。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。羊の皮をむいてみれば、心の奥の狼はすぐにその歯をあらわすであろう。世間で、人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人といっている。たぶん人間はいつまでも禽獣を脱しないから罪人となるのであろう。飢渇のほか何物もわれわれに対して真実なものはなく、われらみずからの煩悩のほか何物も神聖なものはない。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 
 文頭文末の引用は、
「第六章 花」(p.78-79)
       From「茶の本」
(著作:岡倉 覚三 / 訳:岡村 博 / 発行:岩波文庫)
 によりました。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
 
[ Randomizer ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Convergence-Darkness-Ecology-Engineering-Interface-Kidding-Life-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Memory-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-暗闇エトランジェ-
:-いのちあるものたち-:-夢見の猫の額の奥に-
 
 
 
 
 
 
 
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200301
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
他責世界の完全善行
SUBTITLE:
~ Sad ruler. ~
Written by BlueCat
 

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::神社仏閣は、次から次へとわれらのまのあたり崩壊してきたが、ただ一つの祭壇、すなわちその上で至高の神へ香を焚く「おのれ」という祭壇は永遠に保存せられている。われらの神は偉いものだ。金銭がその予言者だ! われらは神へ奉納するために自然を荒らしている物質を征服したと誇っているが、物質こそわれわれを奴隷にしたものであるということは忘れている。われらは教養や風流に名をかりて、なんという残忍非道を行なっているのであろう!
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 数年前、とあることをきっかけに、ほとんどすべてのことを他人のせいにすることにした。
 まず最初に、その動機すら他人のせいにするが、当時、僕の至近距離にそういう人物がいたのである。
 その人は僕が自責の念に駆られる必要のないレベル(たとえば、僕にとって「自分ではない」という意味で他人であるはずの、その人自身の感覚や行動)まで僕に責任を押し付け(あるいは責任を感じるように現実を操作し)、僕個人の日常や過去や人格の根底に至るまでを否定することで僕とそれを含む現実を支配しようとしていたようなのである。
 
 たとえば「今日は数学の勉強が進まない。やる気にならないのはあなたのせいだ」といった具合。
 たとえば「天気が悪くて気分が晴れやかでない。あなたのせいだ」といった具合。
 たとえば「先日、私が決裁をもらった案件はやっぱりやるべきではなかったと思う。そもそもあなたがやろうと言い出したことでしょう(初耳です)」といった具合。
 
 コトの異常さはご理解いただけて?
 
 認知症ではないのかと疑いたくなるレベルだけれど、強迫観念かもしれない。
 いずれにしても僕は悪者としてターゲティングされ、僕を含めた周囲の物事が悪い方向に進むことを食い止めることができなかった。
 
>>>
 
 当人にそのような(至近距離にいる人間を自分の思う未来を引き寄せるために利用しようという)意図がなかったのだとしたら、悪意があるよりさらに悪質である。
 致命的に悪質である。
 
 ゆえに僕は「当人にそのような(悪質な結果を招く)意図がなかったのだと信じたい」とは書かないし、そのように信じていない。
 信じたくもない。
 
 意図がある場合は、たとえその意図に悪意が含まれるとしても、目的が達成されれば欲求が満たされ、満足が生まれ、物事はサイクルをより良く維持するよう機能することを目的に再設計されるだろう。
 一方で、明確な意図もなく他人を支配するために(あるいは支配することで現実を操作するために)無意識的に悲観的になり問題行動を起こすような場合、人格が未熟であるか、論理的思考力が欠けているか、他人の気持ちが分からないか、現実の認識が不完全か、それらのいくつかが重複している可能性がある。
 自覚のない悪意は、過食のメカニズムと同じで、ある欲求を、本来関係のない異なる認識や手法、現実の操作によって満たそうとすることになりかねない。
 たとえば人間関係に不満があって、人間関係の中に潜在している問題(多くはコミュニケーション)を解決すれば満足するのに、食べること(満腹感)で満たそうと思っても満たされるはずがない。
 
 個々人の欲求や意図が、他人を利用する(あるいは協力してもらう)ことでしか解決できないことも確かにあるし、その意図が独善的であったり、一方的であったりすることもあるだろう。
 それが必ずしも悪いことだとは思わない。
 たとえば野球をしたいとなれば、ある程度の他人を必要とする。
 昭和の時代には、どうしても「息子とキャッチボールをしたい」とか「娘にお酌をしてもらいたい」というタイプの「おとうさん」がいたようであるが、今ならパワハラやセクハラで訴えられるのだろうか。
 もちろん相手もそれを喜んでしてくれるなら問題はないし、嫌々だとしても、相手が満足するなら多少は譲歩するというのが人間関係だと思う。
 それが行き過ぎれば、客観的に悪意があると見なされることはあるだろうし、強要しているならばたしかに人権侵害でもあるだろう。
 
 ただ自分が何らかの損をしても、相手が満足することで、損失を補って余りある嬉しさを感じる人はいるし、それができるのが人間の(あるいは知的生命体の)能力である。
 しかし状況はときに複雑化する。
 
 たとえばデート中に「僕が相手のガールとぱやぱや(セックスのことです)したいと思って」いて、しかも「僕だけが」「一方的に」したいと思っている状況がとにかく嬉しいという(ちょっとアタマオカシイ)ガールも世の中にはいるのである。
 しかもそういうガールは、仮に自分自身もぱやぱやしたいと思っていたとしても、ぱやぱやしてしまったら妄想世界が終わってしまう(僕が、一方的に、ぱやぱやしたいと思っていなくてはいけない)ので、二人がぱやぱやする現実は当然にやってこない。
 この場合、僕は彼女に満足してもらうために「僕だけが」「一方的に」「ぱやぱやしたい」現実を作って認識してもらう必要があるのである。
 もはや目的と手段なんて宇宙の彼方。
(そんなガールはごくごく少数派であることを心から願う。じゃないと安心してガールにごはんを作ってふるまうこともできない)
 
 それでも相手が自身の目的や欲求を正しく知っているなら(可能ならちゃんと全部、隠さず教えてほしいとは思うが)その目標は実現に近づくのである。
 どちらか一方でも、目的地を知っているから。
 
 ところが本人すら自分の本当の目的や、美化しないところのナマの欲求をきちんと理解していない場合。
 上記のケースだとおそらく僕は何もしないままデートが終わるので、陰で「退屈な男なんだよ」なんて吹聴されてフラれるのである。
 あるいは仮に僕がナニカを強行してしまった場合、完全犯罪(完全に犯罪、という意味で)が成立してしまうのである。オソロシイ。
 
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 ちなみにこの「完全犯罪」という言葉を調べてもらうと分かるが(ちゃんと辞書くらい引けよな)「完全に犯罪」ということではない。なぜなのだろう。
「完全隠蔽犯罪」とか「完全未認知犯罪」とか「完全未確認犯罪」とかそれらしい名前にしてほしい。
 
 あれか。
 若者特有のあれか。
 省略語文化か。
 なんちゃって若ぶってるアホウな中年どもも使っているあれか。
「オレっち、ちょいワルだからぁ、むつかしい言葉とかぁ、省略しちゃうしぃ」とかいって省略するのか。
 省略文化、略して省文、とか言っちゃうのか?
 
 かくいう私も「準確定申告」という単語を何度も連呼するのが面倒で「準確が」って、シロートのくせに知ったふうを装って言ってみたりしました。
 面倒くさいですよね、準確定申告、いろんな意味で。
 
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 そのようなわけで(どのようなわけで?)仮に悪質であっても、その意図が自覚されている方が、相手のことも、そこに働くメカニズムも、まだ信頼できるのだ。
 たとえ相手が自分のことをいいように利用した(ごはん食べさせてお酒飲ませてぱやぱやされちゃうようなことがあった)としても、そのうえ相手が(あれは酔っていたのを介抱しただけなんだ)(あれは君から誘ってきたんだ)なんて詭弁を並べるようなクズであったとしても、それでもなお、相手が自身の明確な悪意を自覚していれば、再発は防げるのではないだろうか。
 少なくとも、再発率は減るんじゃないだろうか。
 まぁ最低でも、相手が悪意を自覚していることを、こちらが知っているということになれば、当然互いに慎重にならざるを得ないはずで。
 もっともそういう経験がないので、完全予想で書いているのだけれど。
 
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 完全予想という言葉を、たとえば天気予報で使ったならば、おそらく「完全に当たる予想」の略ではないかと、僕が視聴者なら思うだろう。
 なんといっても「完全予想」だ。
「完全」の響きが、予想に含まれる不完全さを払拭する。さながらそれはまるで予知。
 未来予想図よりも確実で、現実的で、ユリ・ゲラーも驚くくらい自然な感じがする。
 完全予想。
 当たりそうだ。むしろハズれる気がしない。
 
 ところが、競馬場で予想屋がこの言葉を使った場合、とたんに雲行きが怪しくなる。天気予報でもないのにどうしたことか。
 完全予想。
「これは完全予想であり、実在する人物、組織、団体等とは一切の関係がありません。」というテロップまで見えてくる。むしろちゃんと予想してくれ、という気持ちになる。
 
 僕の使った完全予想は、後者である。
 僕はお酒が大好きなので、お酒を好きでない人に無理に飲ませたりするのは(お酒がもったいない上、強要する行為をみっともないと感じるので)しないし、ガールもぱやぱやも大好きなので、(いろんな意味で)好きでもない人とはしないわけです。説明終わり。
 
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 こんな調子で書いているから本題にたどり着かない。
 読んでいる人は、本題が何だったかなんて覚えてもいないだろうからまぁいいか。
 
 とにかく、意図を自覚している人間が相手なら、状況を自発的に改善できる。あるいはある種の恒常性すら期待できるだろう。
 お互いが理知的な人間であればあるほど、最適な改善が望めるだろう。
(まぁ、相手が不快になることくらいあらかじめ完全予想して振る舞うのがジェントルマンなんじゃないですか、と僕などは思うわけですが。)
 ところが己の意図(悪意)を自覚していない人間だったらどうなるだろう。
 
 まさに「私が何をしたというのか!」と憤ってくるだろう。
「あなたがそういう状況を作った」と、責任を押し付けるだろう。
「あなたがそういう状態だったから、自分は不本意だけど、それに追随した」と弁解するだろう。
 それをどこまでも、押し付けてくるだろう。
 相手にも、第三者にも。
 だって自分の意図なんて、知らないんだも〜ん。
 自分の悪意なんて、認めたくないんだも〜ん。
 自分はいつもキレイで汚れていなくて完璧で間違いなくて、みだりに他人に「死ね」とか「クズが!」なんて罵ったりしないし、まして下半身の赴くままにむりやりぱやぱやできちゃう状況を構築したりなんてしないも〜ん。
 という自己像ができあがってるのね(口調が変)。
 
 ゆえに、たとえそれが悪意でなかったとしても、自分の欲求や意図を自覚していない人間は、行動が悪質になる。
 事態はどんどん悪化する。
 本人は周りのせいにする。
 環境や、他人のせいにする。
 
 善意による行為さえ、意図を自覚していない場合、ふとしたきっかけで相手を悪者にできるのだ。これは強力な武器だ。
「あの人は(困っているようだったから)手を差し伸べてあげたのに、ろくに感謝もしない」なんて言ってくるのだ。
 いや、言わなかったとしてもそういうことができる。
 さらに、もっとひどいようにも言える。
 
 相手に与える行為(まぁ、好意や善意によるものだろう)の意図や動機を(それがたとえ売名や自己満足であったとしてもそれをきちんと)自覚していれば「困っていると感じていたあの人が、元気になった」というところで「ああ、よかった」となるはずである。
 その後、仮に相手との関係が悪化したとしても(まぁ、あのときはそうしたかったし、それで自分は満足した)と考えられる。
 
 ところが意図を自覚していなければ、善行さえ他責になって「相手は一生アタマが上がらない」という状況が出来上がらないと(「作らないと」ではないことが恐ろしい)気が済まなくなる。
 これが恐怖政治的支配の人間関係といわずに何というのか。
 
 あれか。
「完全善行」か。
「あのときは私、咄嗟のことで、ついつい、やっぱりね、人間って、誰かのためにならなきゃ、みたいに思う部分とかが、その意識してない無意識のところにどこかあると思うのよ。うんうんうんうん、そうそそうそ、わかるわかる、それでね、だから私、それはいいことだしむしろなんて言うの? 常識じゃない? だから、咄嗟にね、そうしたのよ」(そしたらねぇ〜、それなのにさぁ〜……。と続く)
 
>>>
 
 本人は無害なフリをしているだけに、自覚のないすべての意図と欲求と行為は、どんなものであっても悪い方向に向かう可能性が、自覚していた場合と比較して、格段に高いであろうと予測されるのである。
(もう完全とか言わないからね)
 
>>>
 
(まさかの計算違いで全文が文字数オーバしたので、ここまでの序文(笑)で一度、区切っています)
 
 つづきはこちら
 
 
 まだカタチになっていない、曖昧な、抽象的な、感覚によったことを書く。

 かれこれ1年ほど、会社員をしていない。
 それまで勤務していた会社は解散してしまったし、介護もあった。

 経済という潮流があるとすれば、僕は漂流者になったのかもしれない。
 いや、流れにさえ乗っていないのだから、沈没した格好だろうか。

 経済というのは不思議なもので、それそのものから自由になるためには経済を必要とする。
 たとえば日本の税金から全力で逃れたい、と思ったら、財産を捨て、社会保障も捨て、国外に行かなくてはならない。
 経済活動を抑えるために、自給自足を目指したとしても、結局、土地は必要になる。
 畑を耕したり木を育てたり、魚のいる川や池まで所有しようと思ったら、文字通りタダではすまない。
 そして税金はかかる。

 物事の大半は、その対象から自由になる方法が比較的明確である。
 まず、その対象に捕われないこと。
 不自由というのは、相手がこちらを捕えて、あるいはこちらから進んで囚われることによって発生する。
 中には、不自由というのは絶対的な必要悪だと信じて疑わない人もいる。
 確かに何かから自由になれば、何かが不自由になる。
 しかしその選択をする根本的な自由はどこにあって、誰が持っているのだろう。
 それを考えない人が多いようで、与えられた範囲、認識できる範囲の中で勝手に不自由に囚われて、他人を批判して生きているように観察される。

 何者にもとらわれず生きるのは簡単ではない「かも」しれない。
 少なくとも、家庭/家族という関係性の中で育った人が多い以上、そうした関係性の中からの視点しか持たない人が多くなるのは仕方ないことかもしれない。
 つまり人間は、子供のうちはどうしても環境にとらわれるのだ。そうしないと大人になれないといってもいい。
 最初から、捕われているし、囚われてもいる。

 では大人になったら、その囚われを客観的に認識できるだろうか。
 もしも比較するべき価値観や物的存在に対する認識を白紙化して、現在の認識と照らし合わせることができるなら(多くの人間は矛盾を嫌うロジックを持ちやすいため、ここでも拒否反応を示すことが多いが)自分自身のとらわれから、自由になれるかもしれない。

 このように「とらわれないこと」と「とらわれていた場合、距離を置くこと」が、対象から自由になる上では重要な技術になる。
 物理であっても、たとえば火傷をしたくないなら、火には必要以上に近づかなければよい。
 ただし寒い屋外で焚火をしているなら、ある程度の距離にいないと利便を受けられない。
 これをコントロールすることが自由であり、焚火をしないで別の方法(たとえばベッドで誰かとくっついていてもいい)で暖を取れるならそれでもいい。
 熊に遭遇した時も、そのまま捕らえられるのを待たず、距離を置けばいい。
 最初から距離が近くならないように予防するのも非常に有効だろう。

 ところが経済は、そうではない。
 経済から離れ、自由になり、あるいは独立するには、経済にどっぷり浸かって、経済そのものに対してみかじめ料を払うしかない。

 喩えていうなら、もはや空気や水のようなものである。
 逃れると、自然の摂理で死にかねないといった具合に。
(少なくとも通常は、そういった暗黙の忌避感を植え付けられていると思う)

>>>

 ところで僕は「経済から自由になりましょう」なんてプロパガンダをしたいわけではない。
 単純に(人間が作ったもののくせに)仕組みが複雑化し、不明瞭になりつつあるから整理しているだけである。
 だから僕自身も含めた誰かがこれを読んで「ふーん、なるほど」なんて発見はないかもしれない。
 ここは自分でも、さっぱり予測できないところである。

>>>

 経済は、人工的な産物であるがゆえに、不自然な存在である。
 自然言語も不自然な存在ではあるが、そこから自由になるために「オレは今から言葉を使わないけんね」と宣言することもできる。
 人間の作ったほとんどすべての道具について、それは人工的であるがゆえに不自然な産物であり(「自動車のなる木」とかがあったら面白いが)、その道具と距離をどう保つかは各個人に任せられている。

 経済はどうだろう。
 もちろん、自身の意思でどっぷり経済活動に浸っている人はいいのだけれど、僕のように「いや、それほどでもないッスよ」と思っている人もいるはずで、その傾向は以前より広い範囲で確認されるようになってきている気がする(主にネットの作用で)。

>>>

 僕個人に限っていえば、お金そのものは嫌いではない。
 だからといって、偏執するほどのものでもないとは感じている。
 欲しいモノのほとんどが、お金で交換できるから便利なのであって(大量に持っていても腐らないし)、お金そのものは焚き付けやメモ、オモリにしか使えない。

>>>

 社会としては、経済ありきで動いている。
 つまり社会は完全に人工的なものになったということだ。
 旧来、自然発生した人間の社会は(ある程度以上、人工的ではあったと思うが)、物理的な国土を完全に埋め尽くすほどの実態を持つには至らなかったはずだ。
 だからその社会に属さないものは自然に存在していた。

 しかし人工的な機関に置き換えられた社会では、自然な(社会に属していない)個を不自然とみなす。
 ベン図的にも論理式的にも分かりやすいだろう。
 A = not ( not A ) である。

>>>

 人口の減少に伴って、経済は本来、個々人にとって飽和しうるものだろう。
 たとえば先の、水や空気のようなものだとしたら、池の中の生き物の総数が緩やかに減少するとき、水や空気は(循環作用を度外視して、単純な容積内の飽和量を考えた場合)、各個体にあり余ることになる。

 不思議なことは、社会(あるいはそれを先導する役の人たち)が、そうは思っていないことだ。

 社会というイキモノにとって、細胞が多いほうがよいのはわかるし、細胞が多ければ器官が増えるのも自然である。
 では、社会を生かすための経済であり、経済を生かすための個人なのだろうか。

 個々人にとってのリソース(経済や、それを消費して作られたインフラ、社会そのものなど)が飽和に向かうとき、社会そのものは酸欠に向かう。

 なぜなら人間社会は人工的で、放っておいても恒常性によって苔の量が保たれたり、水の汚染度が一定の範囲に収まったりはしないからだ。

 池の苔の呼吸する二酸化炭素を一定以上にするためには二酸化炭素を吐き出すイキモノが必要で、イキモノが減って二酸化炭素が減っているから、苔は酸欠してしまう(実際の苔は、しないだろうが)。

 二酸化炭素が経済で、イキモノを人間と考えれば、酸欠しているのは経済そのものかもしれないとも考えられる。

 人口減少はどうあっても免れないだろうし、これまでが多かったのだとも考えられる。

 細胞たちは O2 を CO2 に変える。
 運動して経済を生む。
 社会というイキモノは、その運動によって動く。
 CO2 の飽和は、細胞とイキモノを殺す。

 どうなんだろう。
 まだよくわからない。

 いずれにしても人工的なものだから、恒常性は人の手を介して保たれている(これまでもそうだったし、これからもそうだろう)。
 代替できる呼吸系や代謝系を、社会は獲得するだろうか。できるだろうか。


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// TimeLine:20200209
// NOTE:
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TITLE:
愛されなかった道具について
SUBTITLE:
~ Artifacts spirit. ~
Written by BlueCat

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 ちびた木べらがある。
 黒ずんで、べたべたしていて、すり減ったへらの部分は、半分以下しか残っていない。
 
 持ち主は、私の介護対象者だった人だ。
 血縁関係上は僕の伯母にあたるが、戸籍を調べると僕の伯母はそれなり以上に人数がいるし、僕は彼女を単なる介護対象者としてしか見ていなかったので、ときどき、機械的にそう呼ぶ。
 
 あるいはそれ以前は、伯母と甥という関係だったのかもしれない。
 でもどうだろう、年に数回、お茶を飲んで世間話をするだけの関係が、甥と伯母の関係だというのなら、僕にとっての伯母は実際の数より数倍も多いことになる。
 
 戸籍上の血縁関係に限っていうのなら、伯母であるかどうかなんていうことは、少なくとも僕にとってはどうでもよいことだったし、事実、僕は親戚づきあいというものをほとんどしない。
 する価値を見出さないからで、いずれこの国でもそれが自然になるだろう。
 もしかしたら、すでになっているかもしれない。
 
 自然界の他の動物を見ると分かるが、関係性を重視するのは、せいぜいが親子と兄弟くらいである。
 祖父/祖母の代まで同時に存える種は限られているし、伯父/伯母と甥/姪で関係性を持つ人間以外の種族を僕は知らない。
 家系図なども含めて、親戚という存在を意識して行動することが、本来は不自然なのだと思う。
 血族というものは単なるメディアであって、その中に位置する個々人とその人格をコンテンツと考えれば、重視すべきはどちらか明白だと思う。
 個人の属する社会や、その視野が狭ければ、すなわち考えが古ければ、メディアが重視される。
 人間の社会は、中身を見定めなくてはいけない段階をとうに過ぎている。
 
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 木べらに限らず、伯母たちの(伯母と、その夫が暮らしていた家の)台所は、ほとんどの道具がひどい状態になっている。
 ざる(カランダ)は、なんだかよく分からない皮膜によっていくつかの穴が塞がれ、ステンレスの輝きは完全にくすんでいる。
 まな板(おそらく素麺などの化粧箱のフタだったもの)は、反り返り、漂白剤で灼かれたのか、白い模様を浮かべている。
 僕が持っていった足つきのまな板は、謎の金属腐食で色が染みてしまって、果たしてどこまで削れば消えるのかが分からない。
 ステンの包丁は、塩によってか酸によってか塩素によってか腐食したようで、刃は緑がかった茶褐色になり、その腐食は「なかご」にまで達して膨張させてしまったのか、柄が大きく割れているものばかりだ。
 それ以外にも、いくつかの包丁が、台所の開き戸の箱に、乱雑に放り込まれている。
 おそらく、使わないのに、使えるから捨てずに仕舞っておいたのだろう。
 鍋の多くも、くすんで、あるいは腐食している。
 冷蔵庫の中は、彼女が介護を必要とする数年前から、掃除されたことがない。
 お皿やカップ、アイスペールやカトラリィも多数あるのだけれど、どれもこれもひどい扱いを受けている。
 綺麗に磨かれることなく、塩や酸や塩基(あるいは硫黄によるものもあるかもしれない)によって、赤錆や黒ずみが発生し、陶器や箸もくすんだ汚れが残っている。
 そしてそれでも、伯母は使い続けていた。
 
 死人をとやかく言うつもりはない、しかしその使い方はどうみても「モノを大切にしている」人のそれとは思えない。
 伯母が昔からそういう「道具の使い方」をする人だと知っていたから、僕は彼女の料理には箸をつけたくなかった。
 それどころか箸さえ信用できない状態であったから、割り箸を使わせてもらえる時はせめてもの救いのように感じた。
 
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「モノを大事にする」というのは便利な言葉で、ろくに手入れさえしなくても、使い潰れるところまで使えば自動的に壊れるから「最後まで」使い切ったことになる。
 この「使い潰す」ことを「モノを大事にする」ことと勘違いしている人は、仮に使わないものでも「使えるから」という理由で、はしたなく仕舞い込む。少なくともその様子は、僕にとっては「はしたない」行為だ。
 僕の思うところの「モノを大事にする」というのは、正しく使って、きちんと手入れをして、それでも役目を果たせなくなったものは感謝して捨てることだ。
 
 ちびた木べらは、たしかにその小ささが便利なこともあっただろう。
 けれど、それしかない状況を考えるに、より大きなへらが必要な場面からは不便なモノだったはずだ。
 それに気づかない、あるいは気づいていても放置する鈍感さを、僕は哀れに思う。
 使われもせず、研がれもしない、ナイフや包丁たち。柄を直してもらえない刃物たち。
 使うたび、水を切るだけで放置されるカランダやボウル。
 
 彼女にいいように道具にされた道具たちが、僕は不憫でならない。
 だからといって、僕には、もっと手になじんで、ずっと使っている道具たちがあるのだ。
(足つきまな板に関しては、本当に、彼女の家に預けるべきではなかったと今でも後悔している)
 ゆえに、僕は彼ら(あるいは彼女たち)を次々処分する。
 
 おそらく、彼女は自分が「モノを大事にしている」と自負し、あるいは自慢さえしただろう。していたような気もする。
 私の鉄瓶をして「貴方やけにいいモノを持っているけれど、それは分不相応ではないの?」といった意味のことを言ってきたこともある。
 僕はペットボトルで水を買うことをやめ、浄水器を使うこともやめたのだ。
 水をボトルに詰めて輸送したり、浄水ユニットを製造するコストの代わりに、湯沸かしするコストを使っているだけだ。
 でも、伯母はそういう視点では、モノを見られないから、僕は鉄瓶を彼女の家から引き上げた。
 
 クローゼットを含めた広いスペースにぱんぱんに詰められた大量の衣服をして彼女は「それほど持っていない」と言っていたけれど、実際、そのうち数着しか身に着けなくなっていたようではある。
 パジャマと数着のスーツしか服を持たない僕にとっては、ちょっと異常な光景ではある。
 
 彼女に使われていたすべての道具を見て思う。
 いずれも、愛されなかった道具なのだと。
 だから僕は彼ら(あるいは彼女たち)を哀れに思う。
 彼女は、彼女自身や彼女にまつわるナニか(少なくとも伴侶ではないと推測する)を大事にするために、道具をないがしろにし続けた。
 どこから付喪神が現れてもおかしくないほど、彼女の家には「愛されなかったモノ」がある。
 裏庭の御稲荷様の社は朽ち始め、中の稲荷様の人形は倒れ、鏡は泥と埃にまみれている。
 屋内に2カ所ある神棚にある札さえ、いつ替えられたものか分からないほど汚れている。
(いずれの鏡も、開かれていないことを祈るばかりであるが、祈ってばかりいるわけにもいかないから、いずれ閉じる予定ではある)
 
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 分からない。
 僕には、モノを大事にするという定義が、分からない。
 僕はモノを大事にしているつもりだけれど(たとえばデスクトップコンピュータは、2008年から12年も使い続けている)そのメインテナンスには過度に手を掛けているのかもしれない。
 
 しかし手入れをしなければ、靴も、服も、ナイフも、まな板も、ざるだって、傷んで早くに朽ちてしまう。
 使い潰れるまで使うのも愛情だろう。そして同時に、手入れをするのも愛情だろう。
 
 僕はいくつかの料理店の厨房で、やはりすり減った木べらや、刃が短くなり、あるいは(使いやすく研ぐうちに)変形したナイフや包丁を見てきた。
 それらは削られて、カタチを変えてはいたけれど、あるいは(仕事の道具だから)愛されてはいなかったかもしれないけれど、きちんと手入れをされていた。
 料理人が自分専用のナイフや包丁を持っていれば、それは愛されている道具だと、それでも僕は思ってしまう。
 
 一生使える道具というものを知らず、手入れをしながら共に育て合える道具を知らないことを、僕は貧しいことだと思う。
 そういう意味でいえば、伯母は貧しいまま死んだように思う。
 
 あるいは僕は豊かなのだろうか。
 手入れを許してくれる道具たちを見て思う。
 貧しいか、豊かか、それは分からない。
 でも彼ら(あるいは彼女たち)と共にいられることは、下手な人間といることよりもずっと安心する。
 なにせ道具を使い潰すしか知らない人間は、他人さえ使い潰そうとするからだ。
 それを愛情とは、僕にはとうてい定義できそうにない。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
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[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Poison-Tool-
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 -青猫のひとりごと-:-ひとになったゆめをみる-
 
 
 
 
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