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(まさかの計算違い)
前編はこちら。
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さて。話をフリダシに戻して。
当時の僕には単純に、その「なんでも他人のせいにする」という様式が面白かった。
なぜといって僕は他人を支配するなんて、非現実的で不合理で不条理で不自然だと思っていたので、そのことについてそれ以上、まともに考えたこともなかった。
あるいは仮に他人を支配することが可能だとして、ペットを育てることと何の違いがあるだろう。
ペットって、基本的に生かすも殺すも飼い主次第なわけだけれど(殺す意図を僕が持っている、ということではなく)、その支配の中で、ペットに「ちゃんとみんなに愛されるいいペット」を演じてもらうのは(つまりそういう存在でいてもらうのは)、存外むつかしいものではないだろうか。
優しくしすぎるとわがままになって、最悪の場合、誰かを怪我させたりもするだろうし、厳しすぎれば人間に怯えて、やはり誰かが怪我をするかもしれない。
状況や環境を支配したとしても、自分の理想や幸せを作ることって、その先の制御と維持にあるわけで。
その「未来と理想を制御すること」をできる器の持ち主でなければ、どんな環境も状況も、活かしきれずに殺してしまうように思える。
そんな制御なら、普段からしていることではないか。
ならば「なんでも他人のせいにする」なんて不条理なことをして支配を実現するのはバカの骨頂。
馬鹿馬鹿しくて、しようとも思わなかったからこそ、とても斬新に思えたのである。
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とにかく僕はひたすら他人のせいにし続けたし、自分は悪くないと思い込み続けた(もちろん単にそれが面白いアプローチだったからで、それが正しいとはこれっぽっちも思っていなかったけれど、どうせデートで自宅についてきたガールを玄関で押し倒しちゃうようなオトコですから、自分が正しくなかったり悪かったりするのはへっちゃらです)。
そして同時に「他人を信じられない病」に罹った。
驚くなかれ(いや僕は驚いたのだけれど)なんでも他責にすることと、他人を支配したい欲求と、他人を信じられないことはイコールで繋がっている。
そのことにさっき(これを書き始めるだいたい10分前)に気が付いて愕然とした。
僕は育った環境に、自分以外の人間が(親も含めて)あまりに少なかったから、他人のせいにする余地が他の人に比べるとおそらく少なかった。
それは同時に、支配しようと思う対象がほとんどいない状況を作ってもいた。
僕は「ほとんど自分だけで構成される環境」で育っていたので、ほとんどの失敗も、たいていの成功も、自分の責任として考えるしかなかった。
ところが他人のせいにするようになってからは、
「この人が悪いから△△できない」と思うようになった。
「あの人のせいで△△できない」といった具合に、誰彼かまわず吹聴しかねない精神状態になった。
以前なら「△△したいけれど、実現にあたって、あの人の〇〇の要素が障害なのだ。では、どのようにすればクリアできるだろう」と考えていたのだ。
それが相手を非難して、対策を考えるでもなく終わってしまうようになった。
人間のせいであって、要素のせいではないと考えるようになっていたから、その人間を排除する以外に方法がないかのように思考の枠が狭まるのである。
狭まった思考フレームの中で、物事がうまくいかない原因は「事」ではなく「人」に集約される。
実際に誰かが目的達成の障害になる場合は、その人の価値観に起因することもあるのだけれど(行動も、感覚も、習慣も、その人の記憶と価値観に大きく縛られていて、その人の「個人」を形成しているのは、肉体と記憶の集約である価値観だ)、その人の考え方なり、身体機能なりを分析して改善策を練るのではなく、単に「あいつが悪いからうまくいかない」と言い切ってしまうのは、視野が狭い上に、物事に対する分解能が低いと言わざるを得ない。
しかし単純に人を批判して終わりにしてしまえば、狭量な範囲であっても自分だけはいつも正しくいられるし、労力もほとんどない。
そして同時に「正しさ」に酔えるから心地は良いけれど、他人を理解することは(そもそもしようとしていないから)できない。
未知の価値観を消化して、理解して、自分の肌でわかる感覚にして、その上で自分の本来の価値観を保持するのはむつかしいことではないのだけれど、そんなものは理解しない方がラクだから、自分の価値観に執着している人は少なからずいるように思える。
結果的に完全他責の人間は、ますます浅はかで、愚かになっていく。
だから自分以外の誰も彼もが悪者で、自分を理解してくれないと考える。
そりゃそうだ。
自分が誰かを理解しようとしないのだから、誰かが自分を理解しようとしていても、その行為の意味や動機が分からないのだ。
「この人は余計な口を挟んでくるばかりだ」
とか、
「この人は私のことを知りもしないのに勝手なことを言う」
とか。
そんなふうに、理解しようとしている他者をも敵対視して排除する。
その挙句に出てくるのが「私には味方がいない」という言葉なのではないだろうか。
(僕は過去に何度か、この言葉を投げかけられている)
自分だけが主人公で正しくて立派で、だから他人は私の正しさにひれ伏して付き従うがいい!
という自己イメージがあるから「間違っている他人は自分の正しさに従えばいい」と思うのである。
ちょう支配的。
でもそんな独裁者チックなイメージを振りかざすのはいかにも「悪」だから、それを自分自身にさえひた隠しにするのである。
(自分が)(正しい)にマイナス1を掛けると、(他人が)(間違っている)になる。
つねに(自分が)(正しい)は、反転すると、いつも(他人が)(間違っている)になる。
そのままなんでも他責になり、支配的になり、当然に他人を理解しなくなり、だから他人を信じられなくなり、理解もされなくなる。
いやー、すごい発見だった。
ここまで到達するのにだいたい5年くらい掛かったわけだけれど、あの鬱屈した不運な(というと大袈裟なのだが)日々を忘れたくない。
ちなみに「僕の至近距離にいた人物」は、僕を悪者にするために(絶対に死なない方法で)自殺未遂をした。
何かの目的のために命がけだった、というのではなくて(そうなら別の行動を取るはずで)、死ぬことも目的ではなくて、単に「あなたのせいで私は死ぬほど厭な思いをさせられている」という現実を僕の棲んでいる部屋に構築したわけです。
どう考えたって、相手が被害者じゃあないですか。
僕は直接の加害者ではないけれど、間接的に、相手をいたわって、いうことをきかないわけにはいかなくなるではないですか。
人の家で自殺未遂をするって、そういうことですよ。
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そして僕は思った。
彼ら彼女たちは、きっと、同じことを誰かにされ続けていたのだと。
どう理知的に考えても自分に責はない(おめーの席ねーから! ということではない)、あるいは自分に責があったとしてもそれだけではないことが、世の中にはごまんとある。
むしろ、完全他責なんて存在しないとさえ僕は思っている。
たとえば交通事故の過失割合の判例で、追突、飛び石、停止車両への衝突、信号無視などは、100:0で、一方に完全無責が成り立つことになっている(あくまで賠償責任上は)。
僕はそういった業界にしばらくいたことがあるのだけれど、その考え方にはなかなか馴染めなかった。
だって、そもそもそんなところにいなきゃいいじゃん、と思ってしまうから。
確かに賠償上の責任はないだろうけれど、それでも責める相手がいるのをいいことに好き勝手にいう人間がいたり、賠償上の責任を100%負って責める筋合いでもないのに「自分は悪くない」と言い張る人間もいたりで「どっちでもいいけど、そんなに自分が悪くないって言いたいならそもそも家から出るなよ」と思うタイプの人間だということ。
袖すり合うも多生の縁ではないけれど、被害に遭うことを本当に避けるなら、何もせず、誰にも会わなければいいのだ。
「大事な車が傷ついた」とか騒ぐほど大事な車なら自宅に車の入る金庫を買って大事にしまって外に出すな、と思っている。
それでも生きるから寝て起きるだけでも多少なりリスクはあるわけで、そのリスクと責任を負うのは、誰かじゃなくて自分でしょう、と私は思うのね。
そしてもし仮に、自分は本当は正しいのに、本当に正しいのに、たとえば子どもから見た親や、周囲の人間が多数決的に自分のことを悪者だとした場合。
それが何度も何度も何度も何度もなんどもなんども繰り返された場合。
その人は果たして、客観的に正しさや過ちを、責任の割合や所在を、正しく精確に認識できるだろうか。
まわりからただただ意味不明な「正しさ」を押しつけられて、その「正しさ」の中で自分は常に間違えている悪者にされて。
理屈が意味をなさない世界で「正しさ」を支配しているのは「何か」ではなく単純に「誰か」で。
なにかの拍子で、そうした支配者から自由になれたとき。
あるいは誰かを自分の思うようにしたいという欲求を持ったとき。
その人は、客観的な理屈に基づいた正しさを、それでも覚えていられるのだろうか。
子どもの頃に折れてしまった「自分は正しいのに」という感情が暴走したりはしないだろうか。
「私は正しかったのに、みんなが間違えているから私が悪者になってしまった」と、そうくすぶる火種が、どこかで息を潜めたりはしないだろうか。
そう考えると、とても悲しくて、苦しくなって、僕は誰が正しかろうが悪かろうが、やはり興味が持てないな、と思ってお風呂に入ることにした。
「僕の至近距離にいた人物」を、少なからず、僕は嫌ってはいなかったはずだから。
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僕に限っていえば、正邪や善悪という意味での「正しさ」というものさしを僕は持っていない。
僕にとって正しさはいつも「精確さ」のものさしだ。
それが原因で他者との摩擦が発生することもあるけれど、それは「正しさ」が病気になっている人のひとつの特徴なのだと僕は思ってしまう。
だからついつい誰にも会わずに、独りで過ごしてしまう。
僕が悪だろうと独善だろうとかまわない。
ただ精確に、自分を測れたら、それでいい。
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::悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。羊の皮をむいてみれば、心の奥の狼はすぐにその歯をあらわすであろう。世間で、人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人といっている。たぶん人間はいつまでも禽獣を脱しないから罪人となるのであろう。飢渇のほか何物もわれわれに対して真実なものはなく、われらみずからの煩悩のほか何物も神聖なものはない。
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[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「第六章 花」(p.78-79)
From「茶の本」
(著作:岡倉 覚三 / 訳:岡村 博 / 発行:岩波文庫)
によりました。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
[ Randomizer ]
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[Engineer]
-青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
[InterMethod]
-Algorithm-Chaos-Convergence-Darkness-Ecology-Engineering-Interface-Kidding-Life-Mechanics-Stand_Alone-Style-
[Module]
-Condencer-Convertor-Reactor-Resistor-
[Object]
-Camouflage-Human-Memory-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-暗闇エトランジェ-
:-いのちあるものたち-:-夢見の猫の額の奥に-
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