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//TimeLine:20160605
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TITLE:
「今に生きる」はいいけれど。
SUBTITLE:
~ Was hate to hallucination hidden? ~
Written by 黒猫
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::「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。これもまた禅を通じて道教の理想の現れた結果である。儒教の根深い両元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。
実際、もしシナ古代の青銅器具または唐代および奈良時代の宗教的美術品を研究してみれば均斉を得るために不断の努力をしたことが認められるであろう。わが国の古典的屋内装飾はその配合が全く均斉を保っていた。
しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。人生と芸術の力強いところはその発達の可能性に存した。
茶室においては、自己に関連して心の中に全効果を完成することが客各自に任されている。禅の考え方が世間一般の思考形式となって以来、極東の美術は均斉ということは完成を表すのみならず重複を表すものとしてことさらに避けていた。意匠の均等は想像の清新を全く破壊するものと考えられていた。このゆえに人物よりも山水花鳥を画題として好んで用いるようになった。人物は見る人みずからの姿として現れているのであるから。
実際われわれは往々あまりに自己をあらわし過ぎて困る、そしてわれわれは虚栄心があるにもかかわらず自愛さえも単調になりがちである。
茶室においては重複の恐れが絶えずある。室の装飾に用いる種々な物は色彩意匠の重複しないように選ばなければならぬ。生花があれば草花の絵は許されぬ。丸い釜を用いれば水さしは角張っていなければならぬ。黒釉薬(くろうわぐすり)の茶わんは黒塗りの茶入れとともに用いてはならぬ。香炉や花瓶を床の間にすえるにも、その場所を二等分してはならないから、ちょうどそのまん中に置かぬように注意せねばならぬ。少しでも室内の単調の気味を破るために、床の間の柱は他の柱とは異なった材木を用いねばならぬ。
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//[Body]
久しぶりにスーツを買った。
1年以上スーツに無縁の仕事をしていたので、最低でも2年は買っていなかったように思う。
ついでに靴も買った。
10年以上(直しながら)履いている一足しか革靴の手持ちがなくなってしまったため、予備をそろえるのは急務だったのではある。
(ちなみに僕は、スーツも2着、靴も2足ずつ買う。これは普通のことだと思うけれど、僕以外の人がどうだかは知らない)
(ちなみに僕は、スーツも2着、靴も2足ずつ買う。これは普通のことだと思うけれど、僕以外の人がどうだかは知らない)
どういうわけか、日本の靴は僕好みのデザインのものがほとんどなくて、目につくのはイタリアメーカばかり。
微妙なラインだけれど、形が全然違うと僕は感じる。
シャープなだけのフォルムの靴は好かないし、鈍くさい印象にしかなれないソフトフォルムも嫌いなのだが、どういうわけか日本の有名メーカはいずれかの分かりやすいデザインがほとんどに見える。
そういえば僕の乗っている自転車もイタリアメーカだったと思う(何か関連があるのだろうか)。
僕が好むのは革底の製品だけれど、最近、革底の靴を探すのはむつかしい。
アメ底のものが本当に多くて、これには辟易している。
今回はその点はすっかり諦めていて、最悪、リストアを頼むときに革底にしてもらえばよいと考えることにして、それでも作りのよいものを選んだ。
こんなふうに書いていると、さぞや猫氏という人間はファッションにうるさい人間なのだと誤解されることがある。
が、実際はまったくそんなところからはかけ離れていて、ファッションを楽しむなんて感覚はあまりない。
自分という存在の外観が他人様の不快にならないようにと考えるのがせいぜいだし、自分のスタイル(フォルムではなくフィロソフィ)を外観で表現しようとも考えていない。
外観というのは、僕にとっては他者に見せるためのものではなく、むしろ隠すべきものを隠すための物だ。
たとえば僕は様々な理由から肌を隠す(以前に述べたとおり宗教的な理由ではなく、単なる配慮の部分も大きい)。
性格についても、本来の破天荒で不誠実で非常識で不真面目な部分を隠すべく常識的なフリをしているし、仕事では昼行灯につとめて役に立たない無能なフリを極力心がけている。
実物よりも良く見せるよりは悪く見せる方が、有るものを無いものと感じさせる方が、長期的には戦略上有利であり、逆(すなわち自らを奮い立て、過剰に飾り立てる)よりもはるかに上品で美しいと僕は感じる。特に男性であればなおさらだろう。
男というものは、特に若いうちは図体も大きく、動きも俊敏で、精神的にも活発で、全体に力が溢れていて、怜悧で機転も利く。
もちろん例外も多数存在し、すべてを兼ね備える逸材は少ないかもしれないが、男性という性差がわれわれオトコにもたらしたものは、つまるところ単純な暴力と死だ。
(時代の変化に伴って、このあたりの性差も本当に混交している気はするが、少なくとも他の動物を見るかぎりは分かるだろう)
そうしたすべての力をありのまま発露することをこそ良しとする向きもあるとは思う。
しかし多くの力は、暴力と死に向かっている。
仮に一時的にでも生産や創造に使うことはできても、それらも生を受けたがために破壊と死を迎える。
これは避けられないことで、永続的かつ恒久的な生産や誕生は本来的に不可能だ。
動物的であればあるほど、文明的であればあるほど、ためにそれらは隠されてしかるべき特質であり、そこに良さを感じるのは単なる劣情だと僕は思う。
劣情が悪いと言っているわけではない。
暴力と死の雰囲気を発散せずにはいられないタイプの「強い男」に魅力を感じる女がいたとして、それは不思議ではないし、動物的で本来的な意味で女だと感じられるし、あるいは女として魅力的でさえあるだろう。
ただただ、それは動物的な劣情ではある。
劣情は劣情で悪くはない。
同じように若いことは若いことで悪くはない。強いことは強いことで悪くはない。
しかし、それだけが褒め称えられるべき人間の特質だというわけではないし、それらに適合しないもの、つまりは力の衰えたものや、もともと力の弱いものを蔑視し、排除し、そこから搾取するような社会を形成してはいけないと思う(そして同時に逆搾取が行われてもいけない)。
文明的であり、あるいは知性的であり、あるいは生産的であり、そして永続的であるために必要なことは、つまりそうした相反するものを適切にパッケージしてコントロールできる有能な個体をいくつ内包できるか、ではないだろうか。
マッチョなものがマッチョなだけでは生きられないくらいには人口が増えてしまった。
力を使って短期的に物事を集約させてしまったら、長期的に存続しうるはずのシステムであっても、その寿命は短くなることが自明になっている。
どこかの国の大統領候補に、ずいぶんとマッチョな男が登場していて面白いけれど、見るからに陰陽のバランスを欠いた(つまりは適切なコントロールのできない)、知的とはほど遠い人物に見える。
(それともそれこそが狙いだろうか)
力は偉大だ。
しかし憧憬した末にそれを手に入れ、その猛威を振るって悦に入ることの恐ろしさを知らない者がそれをしたらどうなるだろう。
若さも、強さも、(あるいはそれらを含めたすべての)力も、それはそれは恐ろしいものだと僕には思えるのだ。子どもの頃からずっと。
もちろん、いずれは僕の肉体も精神も衰え、奮い立て飾り立てなければ「いっぱし」にさえ見えなくなるときが遠からず来るだろう。
つまるところ自らを奮い立て、飾り立ててまで「いっぱし」のフリをするのはそれからでいい。もっとあとでいいのだ。
……なんでこんな真面目な話になってしまったのだろう。
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会社でたびたび、あるいはスーツを見立てているときに店員さんから「脚が長い」「背が高い」「顔が小さい」と言われた。
そうした外見の評価を聞いて、特に嬉しいと感じたことはない。
これからも多分ないだろう。
自分で見ても確認できるし、それは単なる外形であって、僕のソフトウェアの機能にはあまり関係がなく、影響もないからだ。
(転びやすいとか、蜘蛛の巣にかかりやすいとか、そういう身体上の不利な点も僕は熟知しているから、外形のアドバンテージに対する見積りは低い)
スーツでも靴でもそうだけれど、大事なのは外観よりも素材だ。
素材を短命に終わらせないためにはメインテナンスが必須である。
今そこにあるカタチしか見えない連中というのは、どうも中身を評価できず、長期的変化を制御できないバカのように感じるのだがどうだろう。
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朝起きて、洗濯をし、これを書き、2年ほど破れたまま放置していた網戸を張り替え、昼過ぎに買い物。
帰宅して料理の下ごしらえをし、靴を磨く。
買ったばかりの靴は底の縫い糸にワックスを大量に塗りつけないといけない。
それから買ってきた靴の一つはライトレッドだったので、黒いクリームで茶色に近づけ、靴紐をレッドからオリーブに変えた。とても良い感じである。
知っている人もいるとは思うが、僕は靴の手入れが好きである。
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::芸術と同じく、茶にもその時代と流派とがある。茶の進化は概略三大時期に分けられる、煎茶、抹茶(ひきちゃ)および淹茶(だしちゃ)すなわちこれである。われわれ現代人はその最後の流派に属している。
これら茶のいろいろな味わい方は、その流行した当時の時代精神を表している。と言うのは、人生は我々の内心の表現であり、知らず知らずの行動はわれわれの内心の絶えざる発露であるから。
孔子いわく「人いずくんぞ廋(かく)さんや、人いずくんぞ廋さんや」と。
たぶん我々は隠すべき偉大なものが非常に少ないからであろう、些事に自己を顕すことが多すぎて困る。日々起こる小事件も、哲学、詩歌の高翔(こうしょう)と同じく人種的理想の評論である。
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[出典]
~ List of Cite ~
文頭の引用は
「第四章 茶室」(p.64-65)
文末の引用は、
「第二章 茶の諸流」(p.32-33)
ともに
「茶の本」(著作:岡倉 覚三 / 訳:岡村 博 / 発行:岩波文庫)
によりました。
なお引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
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[Engineer]
[InterMethod]
[Module]
[Object]
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[Cat-Ego-Lies]
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