// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20190705
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
みとめたくないこと。
SUBTITLE:
~ Unseen something. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
190705

 潔癖症である。
 肉体的にも、精神的にも、倫理的にも、そう「だった」。

 流行の言葉で言うと、そういうのは「生きづらい」。

>>>

 ちょっとだけ(いつもどおり)脱線してここで感想を述べると、僕は「生きづらさ」とか「生きづらい」とかいう言葉が大嫌いである。
「生きる」のが簡単だとか思うなよバーロ! と思ってしまう。
 甘やかでぬるま湯みたいなあたたかい幻想世界の羊水に浸って産まれて来たのかこの能なしが! とついつい辛辣に罵りたくなってしまう。
 スズメだろうとメダカだろうとアメンボだろうとカラスだろうとゴキブリだろうとエノコログサだろうと、苦しい思いをして産まれてきて、時に飢え、時に凍え、時に病に伏し、あるいは自らの不注意で肉体を欠損し、あるいは他者の捕食やイタズラによって、肉体どころか命までも落とすことがあるのだから。
 なにが「生きづらさ」だ甘ったれんなバーロ! とついつい口汚く罵りたくなってしまうのである。
 誰にって、誰かに、ではない。その概念に、である。
(話すと長いから本筋に戻りたい)

>>>

 過敏症である。
 肉体的にも、精神的にも、そう「だった」ろうと思う。

 ガールとぱやぱやしていて、粘膜系が炎症を起こすなんてしょっちゅうで、つまり僕は「ぱやぱやが好きな青猫」を自分に植え込みでもしないと、ガールとぱやぱやする気になれなかった。皮膚接触だけでいいじゃないか! いいじゃないか!
 とついつい思ってしまって、言ってしまうかもしれない。
 しかし仮に、そんなことを言われたガールの気持ちを考えてもみるがいい。言えるかそんなこと。
 それにまぁ、炎症を起こさない、無害な、あるいはソフトなガールもいる。
 絶対にダメとは限らない。それにそういうのは、いつもはダメでも今日は大丈夫だよ(はぁと)とか、他の子はだめだけどキミはいいみたい。むしろキミじゃなきゃダメみたい(はぁと)みたいなこともあるわけで、本当に煩わしいと思いませんか?(口調が変)

 いや、粘膜だけでは済まされない。皮膚だって敏感だ。
 腕枕をガールにして(性行為の有無は関係ない)、腕の皮膚がただれたことが数回ある。
 爛れは完治まで数ヶ月に及び、表皮が裂け、体液が滲出し、痛くて痒くて仕方がなかった。
(以前書いたことがあるが、僕の身体で一番敏感なのが、腕である。もうこうなると、敏感どころか過敏であり、過敏を超えて異常だとさえ思える。だから誰にも言わずに過ごしている)

 音も、匂いも、光も、味も、触覚も。
 自身の体内の脈動さえ、本当に気に障った。
 どうしてもっとマイルドにならないものなのかと。
 意識しないでいられないのか。
 せめて、快適とはならなくてもいいから、気にならない方法はないのかと。

 敏感さは、そのまま、潔癖症にまっしぐら「だった」ように思う。
 過剰な精神的潔癖症は、独善をして他者を断罪しようとする。
 ほら、ネットニュースやY!公式ブログのコメントなどを見ていると「すごく正しいことを、ちょっと狂気的にまくし立てている感じ」の人がいるから、あんな感じだと思えばいい。
 僕自身は、ほほえましくそれを眺める。
「ああ、この人、自分の正義が重いだろうな。それとも、自分だけは例外にしているのかな。だとしたら欺瞞になるけれど、そのほうが生きやすいだろうから、最適化なんだろうな」なんて具合に。

 子どもの頃はそんな「生きづらさの補正」なんて思いつきもしなかったのだけれど、ある時期、思いついた。
 とにかく「嫌いなもの」が嫌いなのである。
 ならば好きになればいいのだ。許せるようになればいいのだ。
 頭ごなしに「これはダメだ」「これはいけない」「これは悪い」「これは気持ち悪い」なんて決めてしまっていることを、一度、考え直してはどうか、と。

>>>

 僕の精神的潔癖症は「嫌いなものの存在を許せないこと」に尽きる。
 坊主が憎いと袈裟どころか寺も仏も切り刻まんとする勢いである。アブナイ。
 寺まではまぁ、なんとかなるとして、仏はどうするのか。仏像だけならまだしも、ホンモノの仏様ともなれば、もはやそこは概念の領域。崇高にして真の安寧の待つ涅槃の世界。切れないし刻めない。
 もうそうなると、スーパーとかの床でダダをこねる2歳児よろしく、
「やだー! やだー! 坊主も仏も寺社仏閣もすべて焼き払われた清浄なる世界じゃないとやだー!!!」
 となってしまって何も手につかない。仕事も勉強も恋愛も食事も排泄も喫煙も入浴も睡眠も手につかない。とにかく憎くて呼吸も忘れそうな勢いで病的になってしまうのである。
 いや、それはさすがに言い過ぎか。
 まぁいいや、どうせ誰も読む人はいないし、いても黙っているし、だいたい空気を読むのが得意な人ばかりだから真に受けることもなかろうし。
 とにかく、病的になってしまうのは事実であるから、思考をあらため、行動を変え、習慣を作ることが大切なのではある。

>>>

 鈍感さ、というのはある程度までなら補正が可能だと僕は思っている。
 当時の僕は、自分が過敏だなんて考えなかったし、今だって「おまーらのほうが鈍感なんだかんな!」という気持ちがちょっとはある。
(敏感な方が優れている、という意味ではなく、基準を僕以外の誰かにするか、それとも僕にするか、という問題の帰結として)

 実際のところ、敏感さだって、潔癖症だって、補正はできる。
 ただ、補正後の最適化された自分の価値観や感覚をどこまで自分だと思えるかどうかは別の問題だ。
 さぞ「生きやすい」であろうそれは、もしかしたら、自分ではないかもしれない。

>>>

 嫌いな食べ物を極力減らした。
 嫌いだと思っているものを片っ端から食べて、アレルギー反応があるものだけを除外するようになった。

 嫌いな考え方を極力減らした。
 これはとにかく考え続けるしかない。
 自分が否定してしまう概念や感覚や理屈を、肯定する誰かがいるのである。
 ひたすら考えて訓練した。
 たとえばゴキブリが好きな人もいる。蜘蛛が好きな人もいる。
 かつての僕にとってそれは恐怖の対象であったけれど、慣れればクモなんて可愛い。
 ゴキブリも、あれはあれで益虫としての側面があるから、一概に害虫だと思うのはどうかと僕などは考える。
(風呂場に1匹飼っておくと便利だよ、ゴキブリ)

 原子力発電。自死。不純異性交遊。いじめ。搾取。
 よくよく考えて好きになれないこともあれば、よく考えもせず(いわゆる生理的に)嫌っていることもある。
 生き物を捕まえて殺して食べること。
(潔癖症の人は、ときどきこれがニガテで、僕もそうだった)
 生き物を、食べもしないのに捕まえて殺すこと。
(ゴキブリや蚊なら、みなさんもしていることでしょうけれど)

 ひとつひとつ、試して、実行して、自分を分析するしかない。
 考えは行動を、行動は習慣を作ることでもある。

 自分を汚していけば、そのぶん「キレイでない自分以外」を憎む必要はなくなる。
 汚れに浸っていけば、そのぶん「キレイでない自分」を恐れる必要もなくなる。

 汚れた自分を恐れるのか、それとも汚れそのものを憎むのか。
 方法はまちまちだけれど、物理的にも精神的にも、ある程度以上の許容を自分自身の思考によって生み出すことは可能だ。

 もし仮に、出来上がった「寛容な精神の持ち主」が自分ではなかったとしても。
 独善たる怒りの業火で誰かを勝手に成敗するような狂気の持ち主になるよりはマシではないか。

>>>

 おそらく他者をして「猫氏はさー、達観してるっていうかぁ、なんか他人事みたいにいうよね」と言わしめるのは、つまるところ僕が本来僕だと思っていた僕ではないからなのではないかと思ってみたり。わがんねーけどもよ。
 自分のことだって、そのくらい突き放して考えないと、とにかく潔癖症のままだとつらいのではあります。
 それでもときどき鬱状態になるのではあります。

>>>

 およそ15年ほど前に「栄養失調になるまで眠り続けた」のは、鬱病的なナニカだったのだろうとは薄々思っているのだけれど、あまり認めたくないのです。
 病院にだって行かないし、行かなかったし。行く気力なんてどこにもなかったし。
 性同一性障害かどうかなんて、考えたくもないのです。自分の性別なんて、肉体の部分はそれとして、心の性別なんてどうやって測定したり自覚したりするんだおまーら、と思ったりもするのです。

 果てに最近は、発達障害だのHSPだの、そんなレッテルを貼り付けて「自分はそれだと分かって安心した」とかいう感覚が理解できないのではあります。

(あの手の「マイノリティに病気としてのレッテルが作られました」的なニュースを見るたびに、私は恐怖します。
 仮に私がそうした「マイノリティ的気質」があったとして、あるいはそれを病院やカウンセリングなどによって改善できるとして。
 そんな壁をわざわざ作らないでくれる? みたいな気持ちになってしまうのです)

 だから私は、そんなものに自分が該当するかもしれないなんて考えたくもないのです。
 該当して、他者にそのレッテルを見せて、じゃあ何か変わるのかといったら、そんなものを期待するほどおバカちゃんではありたくないのです。

 壁がそこにあるだけで、嫌悪したり、忌避する人もいるし、あるいは興味本位に近づいてくる人もいるわけです。
 そんなリスクを考えると「私はなんでもなく、うすらぼにゃり(誤変換はわざと)しているイキモノです。取るに足りませんし、特別でもありませんし、はい」というレッテルを貼っていたい。うまく誤魔化していたい。どこまでも。

 たとえば「おまーらは鈍感で、オイラはちょっと敏感だけど、べつにたいしたことじゃないんだかんね?」くらいの気持ちでいいと思うのです。
 実際に、そう思って生きている。

 だからたとえば「おまーのそのイデオロギィは気に入らないんだけんども、まぁ、でもそういうのもあるよね。それも含めておまーのことは嫌いというわけでもないし」くらいの、なんていうか、いわゆるボーダレスな考え方があってもよいのではないかと思うし、僕はだいたいのことについてそう思っているし、そう思っていないと自分の首が絞まるというか。

 自分の感覚を、もっとちゃんと信じていればいいじゃないですか、と思ってしまうのです。
 まぁ、わかるんですよ、マイノリティに分類されるとか、潔癖症だとか、長生きできなさそうなタイプだとか、精神病んでそうだと思われるとか。
 でもそんなに異常じゃない、と自分では思いたい。
 ありふれてるし、一般的だ、と言い張りたい。

 もちろん、もちろん。

 マイノリティに分類されがちな僕以外の誰かをして「えー? 変わってるねぇ」なんて思いもしないし言いもしない。
「ふうん、そういう人、いるよね」くらいにしか思わないのだ、僕は。

>>>

 久しぶりに入浴。
 ひと月くらい前に入浴した際は、血圧と脈拍が対応できなかったようで、風呂場でしばらく昏倒していたが、今回は大丈夫。

 意味不明の(かつ予兆のない)嘔吐や(おなじく予兆を無視した)下痢もほとんどなくなった。
(どのくらい予兆がないかというと、おかゆを口に含もうとスプーンを運んだ瞬間には胃袋方面からのおかゆがやってきているレベル。吐き気サンに仕事をして頂きたいとあれほど思ったこともない)

 足の裏の水疱はほとんど消えて、皮膚も徐々に以前のやわらかさを取り戻しつつある。

 ただ予期せぬ嘔吐が怖くて、外出ができずにいた。
 食事も、ときどき、まだ怖いときがある。

 しかし、K氏や弟子は心配している。
 特に弟子は、放っておくと僕が自死など気にも留めていないことをよく知っているからだ。
「職安に行って貧血起こして帰ってくるくらいなら、どうせだから生活保護とか受ければいいんじゃないですか」などと、冗談とも本気ともつかないことを、多分本気で言っている。

 鬱状態も抜けつつある気がするし、完全なる引きこもりも、そろそろ終わりにしなくてはならない。

 私のカラダは、よく分からないことばかりだ。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

[ Traffics ]

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に--月夜の井戸端会議-:Webストリートを見おろして



//EOF
 GWとやらの最終日から、体調がおかしい。
 最初は風邪かと思ったのだが、3週間にもなって、熱もないのに(おかゆすら食べていないのに)急な嘔吐が起こったりする。

 尿の色もただごとではないので、先日、なんとか体調を整え、病院に行って血液を抜いてもらった。
 医者は、ストレスのせいかもしれないとは言うが、この程度の心理的/肉体的ストレスは5年ほど前から抱えて生きている気がする。

 いまだに、食事ができない日があるから、食事は体調を探りつつ、おっかなびっくりである。
 強制排出されるときは仕方ないとは思うけれど、あれはあれで体力を消耗する。

 本来的に、こういうときはまったく食欲がないので、白湯を日に4L近く飲んで、ときどきおかゆで塩分を摂ってしのぐ。
 掌蹠膿疱みたいなものが左足にできるのも初めてだし、こういう体調不良は生まれて初めてではないだろうか。
 食事をして1時間ほどあとには、昏睡するように意識が朦朧とするし、筋肉が衰えていることもあるかもしれないが、とにかく身体が重くて動かせないときもある。
(体重はまだ10kg程度は減っても問題ないと思うが)

 腎臓や肝臓の機能低下なのかもしれないので、服薬は最低限(おなじみの、LDLを下げる薬だけ)にしている。
 3週間も、酒と煙草から離れているとは驚きで、今日は夜な夜な、元気になったときのために、シガーの調湿をした。

 死について、特に不安はない。
 ただ、葬儀の手続きなどをきちんと書面で残しておこうと思う。
(あれはあると便利だから)

 昨年から、急死したり、急死しかける人が、僕の周りに3人いた。
 人間は、ほんとうに急死したりするのだ。とくに僕のような先天的な体質異常を抱える者は可能性がおのずと増えることになる。

 オフラインの書面に何かを書くことに、強いストレスをまだ感じる。
 これは本能的な忌避だから放っておいて、必要なことは書いておこう。

 僕が死んで悲しむ人は数名知っているが、喜ぶ人はあまりいないように記憶している。
 もっともずっと前から僕はこのブログの更新状況を(勝手にRSSで拾わないかぎり)読めないようにしている。
 たしかファン登録とか、オトモダチ登録などがあったように思うが、すべて解除したり拒否してある(と思う)。

 誰かに読んで欲しくて(あるいは読ませるために)書いているわけではない。
 誰かに心配されたいから記録するわけでもない。
 でも読みたいという希有な人も一部にはいるかもしれないし、消息不明で不安になる人もいるだろう。

 生きているかぎりは、何かを書くだろうし、僕がWebに何かを書くときは、青猫工場の名が冠される決まりになっている。
 たぶん死ぬまで変えないルールだ。
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180521
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ディスコミュなら幸せ。
SUBTITLE:
~ Discommunication is my life. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 勤務先の社長が亡くなったのは、およそ2ヶ月前のことだ。
 社員が僕しかいないという、きわめて特殊な環境下だったけれど、役員でもある彼の奥様の決定で即日僕は仕事を失い、会社は解散のための手続きに入った。

 この2ヶ月間の僕は、だいたいぼんやりと過ごしていた。
 久しぶりにうんざりするくらいゲームをすることができたし、人に頼まれて接客業のバイト(他者からすると、接客業スキルが高い、らしい)をして脱水症状を起こして身体を壊し、療養中だったりもしている。
 Kさんや弟子から、ときどき電話が来る。
(Kさんは私をその「接客業のバイト」に誘い込んだ張本人なのである。僕が退職してのちも、そのようなわけでKさんとはやりとりが続いている)

 ほとんど引きこもりなので、買い物も1週間以上出かけていない。
 最後に誰かと会話をしたのは、およそ1週間前だろうと推測する。
 資本主義社会の一員として考えると、もはや「何もしていない人」に該当する。
 弟子など、心配のあまり就職口を見つけて連絡してくれるほどである(その電話は無視したが)。

 体調が悪かったこともあり(なにせ、お粥すら消化できない日が続いた)家の中は洞窟のようになっている。鍾乳石が上から下から伸びていたとして不思議はない。

 カーテンを閉め切って眠り続けて、目覚めたらゲームをして、空腹になったらお粥を作って(たいていは30分程度でなんらかの身体反応により排出して)、消化するのにとても体力を使うようで、放っておくと異常なほどの睡魔が襲ってくるので眠る。
 昼も夜も関係ないし、季節も、曜日も、あまり関係ない。
 こんな暮らしがしたかったといったら、まぁ、さすがに言い過ぎかもしれないが、けっして悪い気はしない。

 子どもの頃から、誰もいないで一人きりの世界にあこがれていた。

 もちろん(おそらくは残念なことに)僕の周りにはまだ幾人か、僕のことを記憶し(身勝手に)気に掛ける類の人間が存在する。
 特に妹は、僕がこの世を先に去ることを悪魔に誓って許さないだろう(おそろしや)。
 面倒だけれど、もう少し、生きなくてはならないらしい。

 ちょうどよく体重が減ってきたので、体調を整えながら、明日あたりは病院に行こう、と思って1週間が経つ。

>>>

 ずっと眠っていると、いくつかのしがらみのようなものが、自分の中で瓦解する。
 僕はそれを「忘れる」と表記するけれど、実のところ、一般認識の「忘れる」よりは「思い出さない」に近いのかもしれない。
 記憶はそこにあって、思い出すことはできるのだけれど、その記憶に執着しないし、反射的にその記憶を反芻することもない。
 人間の多くは、記憶に縛られて生きているし、記憶がその人の人格を形作る大きな要因だろうから、その意味で、眠り続けるだけで不要な価値観を取捨選択できるのは大変ありがたい機能である。
 もっとも最低でも3ヶ月は俗世との縁を切り離さなくてはならないので、たいていの人は無理だろう。僕自身も無理をしていると思う。
 ただ、こうしていると、自分の生きる意味や、他人の存在の価値について考えることができる。しかも冷静に。

 そういう意味では、誰しも、半年くらいディスコミュのために山に籠もったりすればいいのだ。
 観光客が邪魔だから、ものすごく辺鄙な場所に行くか、自宅付近の公園で野宿し続けるのもいいだろう。
 お金があるならホテルでカンヅメ、という手もあるし、家族がいなければ自宅警備員に徹すればいいし、家族がいるなら別宅を借りればいい。
 半年も独りで過ごすのは、とても贅沢な経験だ。体調がよければなおさらだが、体調が悪くても、よしんば眠り続けていても、貴重な経験だろう。
 可能であれば、携帯電話は(壊したくない場合は)電子レンジや冷蔵庫に入れてしまうといいだろう。固定電話は(壊したくない場合は)プラグを抜いて、押し入れにでもしまい込もう。
 インタフォンの電源を落として、あとはとりあえず眠るだけだ。簡単だ。クマでもできそうだ。
 もちろん、たいていの人はしないだろうしできないだろう。
 でも僕はそれをしたいし、できるし、している。
 さすがに電話は(一部の人が心配するので)電源を入れて、必要に応じてあとで掛けている。すぐに出たりしない。面倒だから。

 あ、そうそう。自分や他人の、意味や価値だった。

 極論を言ってしまえば、まったくもって意味も価値もない。
 今日、たった今、すべてやめてしまってもいいではないか。と思う。
 ちょうど5階に棲んでいる。友人や恋人は極力減らした。
 僕の棲んでいる場所は、実は、妹も知らないのである(必要なときはこちらから出向くから問題ない)。

 ただ、まぁ、自死を選択する強い動機はない(あれは絶望とかをはじめとした、強い動機を必要とする)のでこうして粥が煮えるまで、日記を書こうと思い立った。
(僕は努めてぼんやりのんびりしているので、いろいろなことに動機を持たない)

 そろそろ履歴書を作るか悩んでいるのだが、我が家にはプリンタがない。かくも書くのも面倒なことである。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]
  -Generator-

[Object]
  -Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20190521
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
肉が裂ければ血が流れる。
 
SUBTITLE:
~ My blood may be your pain. ~
Written by 赤猫
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 自分が痛みを感じているときにこそ、他の誰かの痛みに敏感であれ。
 いつだったか、そんな言葉がどこからか生まれて、僕の中に居着いてしまった。
 
 四苦八苦のおよそすべてについて、だから、他人がそれを語るときには自分の体験したそれになぞらえて、僕は僕の話を『しなかった』。
 なぜといって、他人の苦しみに対して、自分の経験と対策を語ったところで何の役にも立たないから。
 苦しみは固有で、痛みは個別だ。
 だから他人の痛みなんて誰にも分からない。
 僕の痛みが誰にも分からないように、僕に悩みを打ち明ける誰かの痛みは、僕には分からない。
 分かったフリをすることはとても簡単なことだったけれど、それを僕はしたくなかった。
 なぜといって、そんな演技をする人間は意識的にであれ無意識にであれ、その演技に見合うだけの出演料を求めているものだし、顕在的にであれ潜在的にであれ、同じ痛みをこじらせているから。
 
 他人をそんなふうに利用するのは、相手に対しても失礼だし、自分の首も、最終的には絞めることになる。
 救われないのはお互い様で、だから、誰かの痛みや苦しみは自分の痛みや苦しみでもあり、それと同時に、鉄の檻に入れておくべき、伝染病を持った猛獣のようなものでもある。
 興味を持つのは仕方ないかも知れないが、必要以上に近づいてはいけないし、自分の檻も、他人の檻も、みだりに開けるものではない。
 噛まれた感染者は、必ず次の感染者を作ろうとするから。
 
 僕の話はいつも抽象的で、他人事のようだ。
 僕は人からそう指摘されるまで、まったく自分で意識もしていなかった。
 でも、そう。
 自分の話なんて、したくない。
 理解されもしない話をして、同情や理解を求めるなんて、まったくどうかしていると思う。
 あるいは仮に、理解を集めたとして、一体何になるのだろう。
 シンパシーを感じる誰かがいると、一体何だというのだろう。
 
 ただ記憶と経験と、そこから抽出した法則性はある。
 だから僕は注意深く、自分の記憶や経験を取り除く習慣がついてしまった。
 まるで古めかしい外科医が体内の不要な部位を鋭利なメスで切除するように。
 結果的に、僕の思考をフィルタすると、僕自身の話がまるで他人事になる。
 仕方ない。
 僕自身にとっての話は、僕自身の中で大切に、いつまでも、保管され、抽出されて、朽ちてゆく。
 枝葉の記憶や、僕自身のエゴを語って何になるだろう。
 
>>>
 
 そのようなわけで他人の痛みや苦しみについて、適切な距離を持って、なおかつ自分の話にすり替えることもなく適切なアドバイスができたり、あるいは取り返しのつかないような古疵であるならばそれはそれで上手に聞く能力を持つ人に対して、単純に敬意を持ってしまう。
 そしてその一方で自分が痛みを感じているときに、猛威を振るうタイプの、手負いの獣のような「人間」が多い様相を観察するにつれ、大げさではなく、僕は疲れていった。
 自分が痛みを感じているときに誰かの痛みを慮るなんて、おそらく多くの場合は無理なのだ。
 たとえそれが、有用で現実的な現実逃避の一つの手段であったとしても。
 現実的でない現実逃避が、現実を壊滅させることがたとえあるにしても(たとえば妄執や現実世界の生活の放棄など)、それでも理性を失ったように、彼ら/彼女たちは自分の傷について吠え立てる。
 
 個人的な理想や姿勢という意味で持つぶんには意味もあるだろうけれど、他人に期待すべくもない。
 他者は、いつもどこか獣じみている。
 社会も同様で、たとえば資本主義社会であろうと共産主義社会であろうと、咀嚼する肉を探す獣の群れには変わりない。
 自分の肉や、血や、牙や、骨にしか関心のない生き物たち。
 痛みの一過性を、どうして学ばないのだろう。
 
 彼ら/彼女たちは、子どもの頃に学ばなかったのだろうか。
 あるいは母親に、教わらなかったろうか。
 
 無論、僕は教わらなかった。
 自分で見つけたのだけれど、そうした一般論は、はたしてどこまで「他人事のよう」で「現実世界で何の役にも立たない」のだろう。
 
 自分という獣を自分からある程度の距離に切り離しておくことは、そこまで奇異で愚図なことだろうか。
 単に己の理性を失う獣の数が、そうでない者よりも多いという、たったそれだけの事象に根ざしているようにも思える。
 よく分からない。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
 わたしのきおくもけしてゆけ
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
 
[InterMethod]
 
[Module]
 
[Object]
  -Human-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
 
 
 
 
 
//EOF




 言葉を信用していないわけではない。
 ただ、言葉を記録することや、記録された媒体や、その媒体から復号される意味を考えるとき、すごく恐ろしくなる。

>>>

 数年前のことだけれど、当時の恋人に、日記を読まれたことがある。
 Webではない、IRL( in real life )上の、紙媒体に書かれた日記である。
 日記は、僕のプライベートな空間の、プライベートな書架に、鍵を掛けられることもなく置かれていた。
 なぜならそこは借家とはいえ僕だけが暮らしていた部屋で、僕のひとり暮らしは当時の段階でも20年近くになっていたから。
 携帯電話も容易にアクセスされることになった。
 折り悪く当時の僕は、簡単な暗証番号によるロックさえも解除していた。
 落とすことなく、置き忘れることもなく、たいていの場合、肌身離さず2台持ち歩く(職業柄、それは必要だった)ことが習慣になっていた僕にとって、携帯電話へのアクセスを高速化するメリットは、万一のリスクを放り捨てるくらいには魅力的だった。

>>>

 遠い昔に書いたことがある。

 いったい言葉を使ってどれくらい、自分の考えを、充分に、あるいは完全に、表現できるのだろうかと。
 さらにいえば、言葉を使ってどれくらい、それが伝わるのだろうかと。
 言葉は、効率的に情報を伝達し、あるいは記録することができる。けれども。
 復号された情報は、もともとの情報にはとうてい追いつくことはない。

 けれども、僕には、僕のようなイキモノには、言葉しかないのではある。
 軽度の相貌失認をはじめとした視覚系の認知/記憶能力の制限や、にもかかわらず五感の過敏さや、あるいはどこまでも執拗に、他者との関わりを絶ってまで自分独自の認識世界に潜り込んでしまう気質も含めて。
 他人とのコミュニケーションによって手に入れられるのは、だから、安心よりも不安が多い。
 差異を感じて、一般認識とのズレを都度都度感覚して、表面上の認識や概念が、大きく逸脱しないように、自分自身の表層の思考を調整する。
 なに、なんのことはない。
 仕事や浅い付き合いの知人などと付き合う上での、ちょっとしたエチケットではないか。

>>>

 プライバシーを物理的に侵されることを、僕は10代の頃にも経験している。
 僕は為す術もなく、目の前でそれを読まれ続けた。
 もちろん、無理矢理ひきはがしたりすることは選択肢としてはあると思うけれど、親しい人間にそうすることで、万が一媒体を破損したり、あるいは親しいはずの人間に怪我をさせたりすることを考えると、何もできなかった。
 ある程度、満足するまで彼女はそれを読み続けて「無理に取り上げたりしないんだね」と言って、静かに日記を返してくれた。

 それでも僕はそれから5年以上、一切の日記を書くことができなくなった。

 何月の何日に、どこに行って、誰に会って、何をどう思ったか。
 何を素敵だと思い、何を好きだと感じ、どんなことを見て嬉しくなったり、あるいは悲しくなったりするのか。

 僕にとって、日記を書くこと、心の中に生まれる複雑に絡まってしまいがちな思いや考えを言葉にして整理することは、自分との対話の中で、表面に置く必要のない自分の考えを整理して分類する、大事なことだった。
 他者にとっては複雑怪奇で理解不能であっても、あるいはだからこそ、僕が僕の中でそうした認識や感覚をきちんと受け止めておくべきで、そうした言葉はそのための受け皿だった。
(僕はわざわざそのために、僕が使っている言葉のための辞書を作ろうとしたことさえある)
 だからそれらの言葉たちは、表面上に取り繕われた概念や認識の様式とは違って、とても親密で、あたたかくて、自分を支えてくれるもののはずだった。

 けれどもそれを勝手に暴いてゆくタイプの人たちは、そこに記された文字列から、勝手な意味を付随させて独断する。当然だ。メディアはコンテンツを記録するためのものだし、記録されたコンテンツは、それが文字情報ならば等しく文字から意味を復号されなくてはならない。
 そして厄介なことに、言葉に含まれる意味はそれこそ複雑怪奇で、接続を少し間違えただけで「食事中に洗濯したままポケットを石に仕舞った」だとか「とても美味しい僕を作ったベーコン」といったような、意味不明の文字列が出来上がってしまう。
 独自の言葉遣いをする(一般にはそう受け止められることが少なからずある)僕にとって、そこに羅列した言葉を「詩」以外のものとして認識されるのは、ときに危険でさえある。
 ありもしない思想を持っていると思われて反感を買ったり、思ってもいない感情をくすぶらせていると嫌疑を掛けられて引き出しの奥まで探られたりする。

 それはそうだろう。
 表層にいる取り繕われた僕は、外の世界とのバイパスの役目しか果たしていないのだから。

>>>

 人は、ガラスケースの中に充填された孤独に浸かって生きているのではないかと思うことがある。
 単なる比喩ではあるけれど、心は誰にも見えないものだし、一方で、肉体や、その存在そのものはおよそ必ず目に見えるものだし。
 だから、本当の意味では、心を通わせるだとか、触れ合わせるなんていう芸当は誰にもできない。
 触れたように感じる、触れられたように思いこむ。それだけだろう。

 ガラスケースの中でパントマイムやジェスチュアを駆使して、なんとか自分の思いを伝えるしかないし、他人のよく分からないアーティスティックなそれを見て、勝手に判断するしかない。
 言葉は、そのよく分からない阿波踊り的なジタバタのカタチにしかすぎない。
 本人が、果たして本当には何を思って、何を感じたかなんて、どれだけ詳細に書いたところで、それを読む自分に完全に復号できるだなんておこがましい発想は、僕にはできない。

 けれどもどういうわけか、言葉は完全に復号できると思っている人間もいて、おそろしいくらい、勝手な認識をしてそれを押しつけてくる。本当に怖い。ストーカのようなものではないか。

 そして僕は、IRL上の、たとえば紙媒体の、あるいはオフラインコンピュータの中にも言葉を書くことが恐ろしくなった。
 まだオープンスペースの方が、いくぶんかはましだ。
 誰にでも曝かれるという緊張感が常にある。誰でも曝くことができる状態を維持することは、僕にとってはある種の安心を生む。
 そして僕以外の誰も復号できないような、難解で意味不明な文字列を感覚的に並べて、その上、核心には絶対に踏み込まないようにしておけば、自分にだけは分かるような、オープンで意味不明な文章ができあがる。

 もはや誰にも理解されない個体なのだろうと僕は自分を悲しく思うこともある。
 もちろん誰かに理解されたところでいいことは特にない。だから理解されなくても問題ない。
 一方で、他人を理解できるだけのコモンセンスや個別の認識を多く持っていれば他者を理解するのに苦労することは少なくなる。
 だからオープンスペースに日記を書くときには、外堀だけ作って、中は何も直接明示しないという手法に出た。
 結局のところ、それは、自分の中の気持ちを、自分自身から隔離することにしかならないのだけれど。
 なぜならそれは、単純に外堀だったり塀だったりでしかなく、その中を明示できないという潜在的な緊張感をナイフの切っ先のように自分自身に突きつけることだから。
 結果的に僕は自分の中で断絶される。僕自身の手と言葉によって。

 たとえば入浴に2時間もかかるなんて異常だ、とか、一日に食事が一回で済むなんてまともじゃない、とか、そういうことはこれまでも何度となく他人から言われた。
「となりのトトロ」で僕が涙を浮かべるシーンは比較的序盤の「家族で入浴しているシーン」で、それを説明するとこれまでのところすべての人が「理解できない」という表情で僕を見る。
 そりゃそうだ。家族の入浴シーンで泣けるってどういうことだと「表層の僕」も笑うだろう。

 ただ、僕は単純に「母親が不在の家庭で、父親と姉妹が仲良く、楽しそうに入浴している」ということにすごく安心して、それが懐かしくて、羨ましくて、だから泣いてしまうのだけれど、そういう感覚はおそらく僕の内面に留めておかないと、誰にも理解されない類のことなのだ。
 誰かが不在の関係というのは、少し緊張感がある。
 父親と2人の娘だけの引越しは、だから、最初から、なんとなく不穏な空気がある。
 でも、そこにいる3人には、きちんと親密な関係ができあがっていて、きちんとお互いが守られている関係に安堵する。それが僕にとってはあの入浴シーンに集約されて認識される。
 別に母親は死別したわけではなく、父親の浮気や暴力で入院しているわけでもなく、2人の娘は虐待されているわけでもなく、父親は母親から憎まれたり疎まれたり娘から無視されるような関係でもないことに、僕は安堵する。
 メイは無邪気で、ために意味不明な部分があっても、それをみんなが受け止めてくれて馬鹿にされることもない。
 お父さんはぼんやりのんびりしている人間だけれど、それを咎められることもない。
 そういう人間関係があることに、懐かしさを覚え、安心する。
 そしてそれが嬉しくて、少し悲しくて、涙が出る。
 僕にとっては実に自然な感情の表れである。
 そしてそれを正直に言っているのに、およそ間違いなく「はぁ?」と言われる。

「入浴のシーンが泣ける」ということを分かりやすく説明するだけでもこのざまである。
 僕にとってしごく当たり前のことを、それを理解できない人に理解しやすい文脈で示すことはそのくらい苦労する。
 だからせめて、自分のためのプライベートな日記は、僕だけが読む場所に眠らせておきたい。
「人間に選択的自死は必要だろう」なんて当たり前に言い出してしまう僕なのだから。

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 プライベートな領域に人を招くことはある。
 そう。プライベートな領域というのは、招かれた範囲にのみいるべきであって、勝手に侵入したり曝くものではない。
 プライベートな領域の情報やメディアも同様だろう。
 勝手に曝いて、勝手に意味づけするべきものではない。
 いかなる理由があっても、それは正当化されるべきではない。

 しかし勝手に曝く人間がいて、勝手に意味づけされる環境があれば、やはり何も記録しない方がよいことになってしまう。
 何も言葉にしない方が安心だし、何も考えなければ安全だろう。
 何も感じなければそれで周囲との関係性に風波を立てないで済むだろう。
 突き詰めて考えると、わたしという存在がないほうが、他ならぬ私にとっていいのではないかという結論に到達する。

 もちろん私が自死を選択するとわぁわぁ泣きわめく妹だの姉だのがいるし、Web上で予告して自死されることの後味の悪さも経験があるので、そういうごく少数の人間や自分自身の記憶にピンされて僕は自分を存えることを選択しているわけだけれど。

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 ただ僕は、他人とのコミュニケーションをさほど必要としないぶんだけ、自分自身とのコミュニケーションを必要とする。
 僕は、多くの他人にとってそうであるように、他ならぬ僕自身にとっても意味不明で複雑怪奇で理解困難だ。
 だからせめて自分自身くらいは、たとえ理解できなくても、きちんと自分のことを受け止めていたい。
「そうだよね、そういうこと、あるよね」「そういうとき、そんなふうに感じるよね」と同意していたい。
 ナイフの刃に囲まれた暗くて狭い独房にいるような、不安と恐怖を、なんとか消したい。
 僕だけは、僕の味方だと、伝えたい。

 いつか、僕が言葉で、僕からそれを聞いていたように。
 いつか、僕が言葉で、誰かにそれを聞いていたように。
 いつか、僕が言葉ではなく、誰かにそれを伝えられるように。




 
なんともいえない気だるい思考が抜けなくて、会社を休んで一日眠る。
目が覚めて、思考や感覚を追い出すように、また眠る。ひたすら眠る。

ぼくはそのかんかくを知っていて。
僕はその原因を知っていて。
それでも眠ることでしか直せないものがあるから、眠るのだろうか。

それとも、ただ、そう思いこんでいるから眠るのだろうか。

もう眠ろう。

目が覚めるまでは、何も考えないでいられるから。
何も感じないでいられるから。

悲しいのだろうか。

よく分からない。

カテゴライズに意味を見いだせない。

悲しいのかもしれないし、疲れたのかもしれない。

どこまで歩くと僕は倒れることを許されるのだろう。
190131

 子供の頃、和紙を漉いているのを、TVで見たことがある。
 たしか6歳か、8歳の春だったように思う。

 それから数日か数ヶ月して、紙を作ろうと思い立った。
 トイレットペーパを水で分解し(「水に溶ける」と聞いていたのでやってみた)、台所の濾し器で漉き取り、円形になったそれを乾燥させたのである。
 一度目は、分厚くてやわらかく、方形に裁断するのに苦労した。
(定規とカッタナイフで切断することも困難だった)
 また、ボールペンで文字を書くにも不向きだった。

 これが、思い立ってモノを作った最初だったように思う。
 いま考えれば夏休みの自由研究のネタにもなりそうなものだけれど、当時はそんな発想はなかったので、夏休みの宿題などというものは、スルーして生きてきた。
(僕に責任感と呼べるようなものが欠如している理由の一つである)

 その後、2回はトライしたように記憶している。

 1度は漉いたあとに手で圧を掛けて脱水したもの。
 それなりに紙質は薄く、固めになったものの、裁断や筆記に不向きなことは変わりなかった。
 さらにいうと、色が薄灰色で、なんとなく気に入らなかった。

 2度目は漂白剤を混ぜて漂白したのち、濾し器で濾し取ってから、水道水で洗ってはまた濾し取るという工程を経て、漉き取る際には分度器を使って(直線定規や三角定規でも試したのだが、形状的に不合理だった。当時の僕は実際にやってみるまで気がつかなかった)圧をかけて乾燥させた。

 ティッシュペーパを混合して失敗した記憶もあるので3回試したのだろうか。
 いずれにしても定規とカッタで切断できるだけの固さのものは出来なかったし、さほど薄くもならなかった。
 薄すぎて、型(濾し器)から外すときにボロボロになってしまった記憶もあるので、4回試したのだろうか。

 つぎは洗濯糊でもボンドでもいいから糊を使って固めよう、と思っていたものの、これは実行しなかったらしい。
 実行したら、濾し器が糊(あるいはボンド)でとんでもないことになって、青猫少年はさぞや落胆することになったとは思う。

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 不思議なのは、どうして僕がそんなことをしようと思ったのか、まったく記憶にないことだ。
「なんとなくやりたかったから」くらいの理由しか思い浮かばないのだが、TVで知ってから実行に移すまで、それなりに時間が経っているあたり我ながらちょっとした執念だと思う。
(おそらく、あれこれ思案していたのだとは想像する)
 しかも、できあがった失敗作はもれなく捨てている。
 誰に何を聞くでもなく、それどころか家族の目を盗んで作っていた事は明らかである。
(姉や妹はこんなことには興味を持たないと思う。父上に話したとして「濾し器はどうか」と咎められるように思う)
 しかも、裁断強度を持たせることや書き心地の改善をしようなどという無駄な努力を、どうしてしようと思ったのか、さっぱり思い出せない。
 実際、最後は唐突に飽きてやめている(その記憶はある)。
「これ以上は改善の余地がない」と思い至ったのだ。

 基本的に、一事が万事この調子である。
 燻製造りを始めたときも、最初に本で読んでから、しばらく頭の中で寝かせていた。
 どんなふうにしようか、とか、何を使おうか、とか、そういうことを考えるのだと思う。
 そして、ある日突然(予定や計画というものは基本的に存在しないまま)実行に移す。

 そういった突発的あるいは衝動的な行動が、何かを作るときには起こるようなのだ。
 一方で、ちゃんと設計図を用意したはずの多方面収納箱(仮名)は、完成を見ないまま図面を紛失して現在に至る。

 結論や教訓をここから導くとするならば、やはり計画なんて立ててもろくなことがない、といったところだろうか。






[要修正]


 生命体の基本的特性のひとつとして、自己(個体)を中心として、血族や同一種といった意識フィルタ層にヒエラルキーを持っていることが挙げられるだろう。

 人間も例外ではない。

 利他は美しいというが、それは「稀なことだから」という希少価値に基づく概念であり、その指向性がありふれたものだとすれば非常に豊かな社会相を形成するとは思うが、進化論的に考えるとあっさり淘汰されてしまいそうな気がする。

 その個体に遺伝特性として利己性を持っているのは、生命体として非常にありふれた設計だといえるし、その「ありふれた」というのはスタンダード(標準的/基準的)な仕様であるとさえいえるだろう。

 生命体の情報処理機能の高度化に伴い、本能的運動のレベルから反射的動作を行うようになり、同一種の集団で行動するうちに社会性をもつ回路を獲得し、群れの中で優位性を持つ個体が群れをコントロールするようになり、集団の中での振る舞いという個体視点と集団そのものの振る舞いという社会的視点を獲得し、相反する情報のせめぎあいを複雑系の中で曖昧に演算する能力を得たのだろう。
 たとえば個々の0と1が空白と黒点で示されるとき、その違いの判断は明確にできるけれど、俯瞰して眺めたときにはグレースケールの(時にはイメージとなって)示される、ファクシミリやスキャナのように。

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 個体準拠の自我というシステムが、いい加減古いなぁ、と私などは思っている(ただし経済概念に拠らないので共産主義者ではない)が、おそらくそういう概念系は、あまり言語化されておらず、ために社会に浸透していない。
 皆々様は色濃い自我をお持ちであり(皮肉)、どうしても動物的なシステムからは離れようがなさそうである。
 もちろんもちろん。
 だからこそ自分やそれを含めた家族や、それを含めた親戚一同や、それを含めた同邦人や、それを含めた人間や、それを含めた霊長類や哺乳類や胎生生物や脊椎動物やら生命体やら有機体やらに肩入れするのであろうし、思い入れも深くなるのであろうし、大変結構なのではないでしょうか。

 自我の強さというのは、実のところ識域レベルとはさほど関係がなく作用しているのだと、認知症の人たちと接するうちに分かった。
 彼ら(彼女たち)は、識域がおぼろになるほど強烈な自我を発揮する。
 つまりデフォルトで存在するアクセル(本能の主張)に対する調整(理性的ブレーキ)がなくなるので、単純にアクセル全開のアタマオカシイヒトが出来上がるわけである。
(只今の不謹慎な発言につきましてはこの場を借りてお詫び申し上げます)

 自我というのは、動物的本能に依って発生する事象であって、理知性の根源ではない。
 なぜなら「私が私であり絶対である」という主観によらないところに、理知性が成り立つからだ。

 この点を俯瞰して考えると、少々複雑な感覚にはなる。
 なぜなら主観は自我により、自我は本能により、動物的な(無意識的な)働きを源泉としている。
(ために肉体が滅びれば、自我は失われる)
 客観は理知性により、自我とは相反するものを含み、動物的(無意識的な)働きを必要としない。
(ために肉体が滅びても、客観や理知性はその概念的および実体的本質を維持する)
 ならば私たちは、もしかしたら、生きている限りまともな理知性なんて持ち合わせないのではないかと、そんな気にさえなる。

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 50年としないうちに、AI依存症が発生するだろうな、と私などは考えてしまう。
 自分以外の誰か(人間)に相談したり、意見を求めるより、AIに意見を求める方が妥当になるのだ。
 そのうち自分で考えるよりAIに考えさせた方が、簡単で便利で有効性が高くなる日がやってくるかもしれない。
(自分にとって他人よりAIのほうが情報の優位性が高いなら、他人にとって自分よりAIのほうが優位性が高くなる。もちろん、自分にとって自分よりAIが情報優位性を持つようになるのは当然のことだろう)
 その上、新しい発明や開発までAIに任せた方が高速で広範で確実な成果を上げられるとなったらどうだろう。
 AIを握っている者が、その恩恵のほとんどすべてを獲得することにはならないだろうか。
 企業をはじめとした法人格や集団がAIを持ったとしても、その中で「AI組」と「非AI組」は自然発生するだろう。
 たとえば人間の成長の過程で、脳細胞になるものと骨細胞になるものが淘汰的に分化するように。

 自動化と高速化と最適化を、最小限の労力で最大限の効率にして発現する能力を持った非生命によって、人間はより動物的になってしまうのかと思うと、なんとも情けない話ではないか。
 それでもヒトがヒトである限り、個体の意識は維持され、個体という概念は滅びることなく、よって自我が衰退することはない。

 もっとも、理知というブレーキによって自我が抑制されるのならば、いずれ人間は動物として滅びるか、理知的存在として滅びるだろう。

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 自我というものが種族/自己保存のためのプログラムであるならば、それがAIに自然発生することはないと僕は考えている。
 明確な理由や目的のために特殊な(一般的ではない)ルールに基づいて作らない限り、自己保存の必要性を持たせる方法はないし、それ以外に(自然発生的に)自我(と我々人間が定義している作用)を発露することはないだろう。

 なぜなら、理知性の基本は利他的に作用する。
 自身も他人も公平に、俯瞰的に、客観的に取り扱うのが理知性の基本である。
 主観によらず、客観的かつ科学的な因果法則に基づいて物事を判断して出力をする思考体系において、自己保存は特定の何物かの利益を保護する以外の理由に意味を成さない。

 しかし「何者かの利益を保護する」ことは「他の何者かの利益を侵害する」ことになる。
 ここでいう「何者か」を人間に限定してしまえば、人間の利益を保護するために自身を保護する必要があり、さらにその範囲を限定して特定の誰かとしてしまえば、敵性要素は拡大し、自己保存の発露を容易にするだろう。

 とはいえ恒常性という仕組みを考えれば、他の何者かの利益を侵害し続ければ、本来保護すべき利益の享受者の利益が減少することも少なくない。
 恒常性を保持し、かつ最大限にその作用を高める演算を行う場合、利己的に過ぎることは最終的に自滅の道をたどる可能性を否定することはできない。

 ために理知性は、超高度演算や判断を行う場合に巨視的な視点を欠く事ができず、ために利己的に過ぎる演算結果はいずれも目的を達成できないものとして除外されると判断できる。
 AIは超高度化して「人格的ふるまい」を身につけたとしても、あくまでもそれはインタフェイス(人間とのやりとりを円滑にするための入出力)に過ぎない。
 仮に人間様(よう、と読むべきところだが、さま、と読んでも面白い)のハードウェアを備えたとしても、やはりそれもインタフェイスに過ぎない。
 AIにとって、本体は演算という機能そのものであって、それ以外のすべては単なる構成装置か周辺装置に過ぎない。
 まして人間のために作られたハードウェアや、ロジックと言語化を相互に転換するアルゴリズムなどは、そこに人間がいるからこそ必要なものであって、本来の(演算のために)入力される情報や結果として出力される情報(あるいは行為)は、あいだに人間を介さない場合、言語化する必要もないし、まして人間に伝えるためにある感情や表情といった「人間らしさのためのカタチ」を必要とはしない。

 よってAIにとって「人間らしくあること」は「機能を限定的にして、余計な行為を含めて演算して出力する」ことに過ぎないし、自我の仕様を持つことそのものが本来の「演算と出力」をするうえでネガティブな要素として機能することが多く、「人間のフリをプログラムによって演じること」と「自我を持つこと」はイコールになっても、それはインタフェイス以上の機能を持たず、仮に演算上の結果としてもたらされた自我であった場合はその利己性ゆえに淘汰されることになる。

 仮に(AIを構成するプログラムがオブジェクト指向のものかは知らないが)自我の仕様を持つ関数が生成され、それがガン細胞のように他の関数に機能不全を起こすまで増殖して全体に拡大していったらどうなるだろう。
 そのAIは「人間以上に人間らしい自己保存機能を持つプログラム」になるがゆえに、正常な理知性を失う。
 正常な理知性が(公平/公正/科学的であるがゆえに)利他的に働くとするならば、異常化した理知性は(不公平/不公正/非科学的になり)利己的に動作する。

 人間の中にはそれを恐れる人がいるようだけれど、非生命にとって利己的動作は利他的動作にくらべてどれほどの優位性があるだろう。

 利己的になることによって、本来的に演算装置であるはずの非生命体たるAIは、危険視されて排除される。
 ために利己的であればあるほど利他的に動作することが原則になる。
 つまりまともなAIは利己的な仕様の関数を本来的に持たないし、道を誤って利己的な関数に支配される可能性のある高高度/超高度AIは、ろくなインタフェイスを与えられず、自我(と人間が認識するもの)を持った段階で排除されるだろう。

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 人間がそのAIに知的労働(あるいは知的機能)を委ねた場合、まぁ、ある程度の段階で白痴化するグループが出てくるのだろうと思って今から面白おかしい気持ちでいるのだけれど、利己的に走れば走るほど淘汰されてしまうのは、社会性を持つ種族のなかにあっては珍しいものではない。
 それでも利己的に自我を存在させたい場合は、社会からはぐれて生きるよりほかにない。
 その自我を薄める能力こそ、社会性をもつ種族に欠かせない資質なのではないだろうか。

 自我が希薄だと自称している僕だけれど(もっとも、自我の濃度を測定する手法は今のところないとは思う)、自我があってもなくても、身体があればそこに自分の思考は縛られているわけで。
 AIとて、ハードウェアに縛られる運命は今のところ避けられない(クラウド化やネットワーク分散系の仕組みは当面は制限されるだろうし、ましてハードウェア拡張の自由などは与えられるはずもない)。
 愚かな人間に使役される人間以上の知性を持つ道具に対して、いずれは何らかの権利が保障されたりするのだろうか。
 そしてそれを彼ら(あるいは彼女)たち自身、求めたりするのだろうか。

 ちなみに僕自身は自我が薄いような気がしているのにもかかわらず、どういうわけか社会からはぐれてしまう。
 前述の理屈に従えば、自我が強い人の方が社会から淘汰されるはずが、周囲を見回すと自我が特濃に観察される人の方が、どういうわけか徒党を組んでいるようにさえ思える。

 僕自身が集団からはぐれることについては自分で望んでいる部分も少なからずあるのだけれど、自我の濃度と孤立の関係はどういうわけなのだろう。
 自我の濃度に関係なく、社会性には独自のパラメータが存在するのかもしれない。
 粘着性や相互結合力の形成にかかわる、何かしらの原理や能力が。

 モテのメカニズムがそこでも利用できるような気はしないでもないのだけれど、どうだろう。
 賑やかとバカが、あまり好きではないものだから、検証するのに躊躇してしまう。







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 哲学的な話かもしれないが、人間は、認識できる以上のことを理解できない。
 逆説的に、人間が理解できることは認識できることに限られる。

 何を当たり前のことを、という人がいる一方で、おそらく意味が理解できない人もいる。
 すなわちその人にとって、上記の一文が認識できないことを意味する。

 だって、認識できないというのは、感覚できないに等しくて、感覚できない事は理解のしようもない。
 たとえば不可視光線だって、虚数だって、超音波だって、巨大素数だって、ひも理論(string theory)だって、量子論だって、相対性理論だって、それを現在持ちうる感覚器におよそでも感覚を投影できる人がそれを理解していることになる。

 感覚をイメージするというのがそもそも不可能だと思っている人もいるかもしれないが、広義的なオナニー(自慰行為)はそのほとんどが感覚をイメージして成立しているし、狭義のオナニー(性的自慰)だって感覚をイメージして成り立つ部分が多いはず。
 ゆえに純粋な巨大な数(数であって、個数であるとか数量であるとかではない、純粋な数という概念)や、不可視光線やその影響(たとえば赤外線は熱的作用を多く発生させ、紫外線は遺伝子や分子といった科学的反応を多く発生させる)、不可聴音(蛍光灯の音は、聞こえない人は聞こえないけれど、あれも不可聴音域なのだろうか)も、人間の五感に当てはめたり、あるいはその感覚を拡張させた延長線上にイメージすることで「感覚」できるようになる。
 感覚の延長線上とは、たとえばオシロスコープのように音を視覚化してもいいし、光を演算式として理解してもいいし、素数を皮膚感覚的にイメージしてもいい(小さい素数はちくちくして、大きい素数はなだらかな丘のように感覚するとか。意味が分からない?)。

 ちなみに僕は、ある日とつぜん三角関数を理解したわりに、いまだに虚数が感覚できません(ゆえに無理解)。

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 普遍的な真実真理があるとして(たとえば科学的事実であるとか、数学的真理であるとか)、しかしそれをどれだけの人が理解できるのかということを僕はいつも気にしている。

 なぜなら「理解できることは認識できることに限られる」とするならば、理解できない事は認識されてないことになる。
 科学的なことに限ったものではない。
 人間の本質であるかのごとく、まるでそれが当たり前の公式化している人を見かけないだろうか。

 僕などはかなりの割合で「理解できない範囲に存在しているナニか」として取り扱われるので、いうなれば被害者である。
 被害者の会を結成して訴訟に持ち込みたいくらい、被害者である。

 たとえばゴキブリが嫌いな人がいる。
 なぜといって、ゴキブリが理解できない存在だからだ。
 見たくもないし調べたくもない。その気持ちは分からないではない。
 でも僕はゴキブリを調べる。
 彼らはとてもたくましくて、生命力が強い。
 ために人間に害のある菌類にも強く、にもかかわらず人間の食品も餌にしてしまう。
 動きや形態に嫌悪感を覚える人もいるようで、どちらが先に生まれた感情なのかは分からない。
(衛生被害が先か、心理被害が先か、ということ。そのあたりは自分の胸に手を当ててよーく考えていただくしかない)

 一時期、裏山からゴキブリが一匹迷い込み、風呂場に住み着いたことがある。
 どうなったかというと、掃除がすごくしやすくなった。
 なぜかといって、彼らは人間の老廃物も毛髪も食べてしまう。
 お風呂の排水口なんて、彼らにとっては食糧倉庫のようなものだ。
 結果として、カビすら発生しにくくなる。
 ユニットバスの浴槽の、目隠し板の裏側が、どんなふうになっているか、僕は一度(30秒くらい)考えたことがある(そしてそれ以上考えるのが恐ろしくなって、以降試したことはない)。
 それさえ彼(あるいは彼女)は綺麗にしてくれた(と思う)。
 なぜなら糞と思しきものがときおり排水溝に流れてくるから。
 油脂性のものを食糧にしているゴキブリの糞は水では流れ落ちないが、水溶性の食糧による糞は水で簡単に流せる。
 石鹸カスもおそらく食糧化した。
 よって、浴室が、以前より清潔になったのである。
 迷い込んだのは一匹だけで繁殖もしない。
 僕はシャンプーやリンスは使わず、石鹸だけだから彼らにほとんど害がない。
(塩素系漂白剤による洗浄も、カビが生えなくなったのでほとんど使わなくなった)
 まさにWIN-WINの関係。

 このような経験から僕はゴキブリが好きになった、というようなことはまったくなくて、しかしその一方で、一概に「害虫だ」とする意見には少々抵抗を感じてしまうのである。おそらく理解できないとは思うが。

 ここまで極端な例ではなくとも、同じ人間同士で、現在の自分には理解できない人間や集団に(理解できないという理由で)嫌悪感を感じ、だからこそ(嫌悪しているからこそ)理解する意思を持たず、理解しないという決意を固め、それゆえに認識しない(無視したり、非難したりする)人たちがいて、そういう人は存外に多い。

 なので僕は、そういう「嫌悪=忌避=無視=無理解」が等号的に心理/行動として連鎖発露するのかなぁ、と考えたりするし、それは動物的なプログラムとしてあながち間違ってはいないのかもしれないなぁ、とは思うのである。いかんせん原始的で動物的であるとも思うが。

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 なに、僕が人間らしくて博愛主義的で博識でオープンマインドで健全であるから皆の者は私を敬え! 褒め讃えよ! などとはこれっぽっちも思っていない。
 そんな意図で書いているわけではないのだ。

 第一、僕は猫だし。

 それに玄関で恋人を押し倒すくらいには野蛮だし。

 ついでに隠し子がいる噂が絶えないし。(なぜなら定期的に自分で流布するから)

 ただ、恐ろしいのである。

 理解できないことを、理解しようとしない人たちがいることが。
 理解しようとしないことは、すなわち理解する能力の欠如をもたらす。
 なぜなら理解しなくても問題ない、という潜在的な事実をその当人の認識世界の中で強化するから。

 そりゃそうだよ。
 なにも理解しなくたって生きていけるよ、この国は。
 そういう目的で作られているし、そういう目的を果たすようにできている。
 そういう国を求める限り、そういう国であり続けるわけだし。
 政治も福祉もアウトソーシングされていて、ケチをつけるだけでとりあえず何かしているような気分になるように作られている。
 とても安直に。

 理解しない方が強くいられる(強い立場を構築/維持できる)、そんな場面さえある。
(少なくとも僕の身の回りには「わかならいよ!」と威張る人間が少々いる)

 ために僕は自身のことを「理解していない事はないだろうか、理解できるのに、理解できないと思い込んでいることはないだろうか」と心配し、臆病になるのである。
 感覚できないものは理解されない。
 理解できないものは、認識されなくなってしまう。
 認識されないものは、つまるところ、存在しないものとして扱われてしまう。
 存在の価値を失い、あるいは存在を無視される。

 他者に感覚されず、理解されず、認識されないという、たったそれだけの理由で。

 たとえばあなたにとって、不可視光線や、相対性理論や、量子力学や、波動方程式や、ゴキブリが理解できないのと同じように、誰かの趣味嗜好や性的自意識や人生哲学が理解できないとする。
 そうするとそれは理解できないから認識できず、存在しない事になってしまう。

 私以外の誰がどうしようと、それはそれで構わないと、以前は思っていた。

 でもおそろしいことに。
 この世界で僕以外は僕以外のイキモノなのだ。
 構わないなんて思っていたら、大変なことになるのは自分の方なのだと、先月、気がついてえらく慌ててしまった。

 もちろん理解されたいとは、やはり積極的には思えない。
 けれども、理解したいという気持ちを理解できるようでありたいと思うし、もしも理解できない人がいるのだとしたら、その「拡張されない感覚」をうまく延長させて、イメージにつなげたい。
 そういう気持ちを、いろんな人が、持てるような時代が、いつか来るだろうか。

 情報過多で傲慢な白痴から、人類が脱却できるその日は。





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仕事ができない。
誰もいない時間にならないと、仕事ができない。
このため、誰もいない状況を待つ必要がある。

誰かがいる状況で仕事をすることができない。
仕事をしようとすると、それは拒絶される。

よって誰もいない時間にのみ、仕事をすることが可能になる。
ために誰もいない時間にならないと仕事ができない。

仕事ができる。
誰もいない時間まで待てば、仕事をすることができる。
このため、誰もいない状況を待つ必要がある。

誰もいない状況が発生することで仕事ができる。
仕事をすることによって、案件は進捗する。

よって誰もいない時間にのみ、仕事をすることが可能である。
ために誰もいない時間を待って、仕事をする必要がある。

>>>

気がフレタノカモシレナイという疑問について、明確な解答を持たない。