年末である。
 かれこれ9ヵ月ほど、働いていない。
 正確には「生活を維持するために、自分の意思が向かないときに経済活動に加担すること」をしていない。
 弟子には相変わらず心配されているが、今日も生きている。
 それに、気が向いたら経済活動に加担している。
 何ならお酒を飲んだりゲームをしたり、ガールとぱやぱやしたり、背中を撫でてもらったりしているかもしれない。
 いかんせん、天然モテ気質である。
 外見は衰えたから、むしろありがたいところか。

>>>

 経済活動を基準にした社会が、傾いているのは周囲のとおりだろう。
 経済、エコノミー、理財、マネー、キャッシュ、なんでもいい。
 単一の、唯一の、万能の、絶対的なリソース。
 その絶対的なリソースを血液にして稼働する永久機関。
 オソロシイことに、時間を買える。
 つまり。
 オソロシイことに、寿命を買える。
 つまり。
 オソロシイことに、人間を買える。

 オソロシイことに、秘匿されるべき情報も買える。もちろん、秘匿そのものさえ買えるかもしれない。秘匿されたなら、発見できるはずもないからワタクシのような朴念仁にいったい何を知ることができるだろう。

 たとえば私が畑を耕して、イモを作る。
 イモで家賃は払えない。
 イモで米と交換できない(ことも多い)。
 イモで寿命や他人の時間は買えない。
 イモは、いちど換金しないといけない。

 イモを作るのに、ボクが命がけになる機会があったとしたら、それはボクの寿命を削って交換することに等しい。
 ボクの寿命を削って、経済活動のループに上手に投げ込むと、コバンが手に入る。

 よいだろうか。
 つまり経済は、人命に等しい、のではない。
 もう、人命を超える価値を持ってしまった。
 最低賃金に法定最大勤務時間を掛けて、定年とされるまでの年数を掛けて240くらい(=2/3*365)を掛けると、だいたい私の減価償却価額が算出される。
 そしてそれは案外安くない。
 ボクはボクの命に、さほどの価値を見出していないから「僕が身も心も差し出す構えでタマシイを売り払った経済」が、驚くほど高く思える。
(実際のところ、悪魔にでも売った方がましだが)

 人間の命はカネではない?
 人間のタマシイは売ることができない?

 本当に?
 ねぇ。
 本当に、そう思ってるの?

 本当に、どんな金額のお金よりも人の命は価値があると、本当に、思ってるの?

>>>

 そんな言い訳を用意してキミの部屋に急ぐようにして、ボクは経済活動のレールを踏み外すことにした。大脱線。かまうもんかの大脱線。

 声の大きなヒトたちは、どういうわけか、フォロワを探している。
 自分の話を聞いて、同意して、納得して、評価して、感銘を受けて、吹聴して欲しいらしい。
 情報遺伝子としてのミームを拡散して、受精して胚になりうるナニカを探しているらしい。
 ついでにそれは「誰でもいい」らしい。

 受容体が反応するならば、それでミーム的にはオッケーである。
 大丈夫。痛くしないから。
 それに月経が止まったりもしない。
 先生やご両親にも叱られない。

 なぜならそれは情報遺伝子だから。

>>>

 声高に、強い調子で、あたかもそれが摂理であるかのごとく、ときに事実をねじ曲げてでも胚さえ作ることさえできるならそれでいい。
(べつに政治的なことを申し上げているわけではない)
「ほら、みんなしてることだから」的な感じで暗黙にそそのかす。

 たとえばそれが、常識として、私を凌辱する。
 あるいはしてきた。
 私が凌辱されるようにして、私が誰かを凌辱する。

「大丈夫、痛くしないから」
「ほら、みんなしてることだよ」
「当たり前のことすぎて、誰も気付かないよ」

>>>

 だいたいこのあたりで、僕のカラダはリアルに吐き気をもよおし始める。

 ワタシを道具に仕立てようとするもの。
 ワタシを捌け口に使おうとするもの。
 ワタシを凌辱して、膿んだミームを射ち撒けようとするもの。

 オソロシイ。
 なあにが正義だ。
 なあにが常識だ。

 そのようなことを、眠り続ける2ヵ月のうちに思ったのだったか。

>>>

 ゲームをしていると、多くのリソースがそこに登場する。
 いや、ソフトウェア的な意味ではない。
 ゲームとして構築されたプレイヤーキャラクタの存在する世界に、多くのリソースが存在していることが多い。

 そしてプレイヤは、なんとかして生きてゆく。
 そこにはさまざまなリソースが存在する。
 全てのものが、単一のリソースに支配されるような世界ではない。

 たとえばゴールドで村人が復活することがあるとしても。
 ゴールドだけでは手に入らないモノがある。

 ゴールドに交換可能な代替リソースも多く存在する。
 その方が、複雑にはなるが安定する。
 けれどもこの世は、それをしていない。
 単純で、一元化されたリソースのほうが、有利だったから。

>>>

 もちろん、もちろん。
 世の中はカネじゃない!
 なんてことが言いたいのではない。
 むしろ逆であることは自明なのに、キレイゴトで修飾して、謎の永久機関を動かそうとしているのはなぜ? と私は言っている。

 お金が嫌いなわけでもない。むしろ好きである。(だから、お金に支配されないようになりたい、と願って実行しているのだ)

 ただ、経済という永久機関を動かすためのリソースは、結局のところ、多数のニンゲンなのである。
 キカイノカラダ欲しさに機械惑星に行くようにして、タマシイをキカイに置き換える星なのである。
「キカイノカラダなんていらないよ!」鉄郎ならばかくも言ったであろうところで、私は言いたい。
「ボクはねこです」と。

 永久機関を動かすために、アレコレして、ミームを拡散して、胚を作って、歯車を育てて「君には生きる権利と義務があるんだ」と流布する。
 あるいはゴーカンする。

>>>

 ゆえにワタクシはゴーカンされることに疲れたので、ドロップアウトすることにしたのである。
 ゴーカンされるのもうんざりだし、ゴーカンするのもまっぴらゴメンであるから、基本的に口をつぐんでいる。

 もちろん。
 日々は楽しく過ぎてゆく。
 うつろう景色は毎日同じようであっても、ちょっとした観察眼を持とうとすれば、不思議と驚きに満ちている。

 それでもワタシはときどき疲れて死にたくなってしまうし、けれども妹が生きている限りは自殺できない様子だし(彼女はちょっとしたブラコンである)、仕方ないので生きているのである。

 特定の組織に属してはいないのだが、仕事を依頼されることがあって、煙草くらいは買える。
 なあに、フリーターのようなものである。

>>>

 余命は20年と踏んでいる。
 猫にしては長生きしすぎた。

 いわばセクシャルマイノリティならぬ、レイシャルマイノリティ。
 どうしてヒトビトは「私のカラダ(あるいは他者認識的性差)はコレジャナイ!」とは言うのに、
「私のカラダ(あるいは他者認識的種族)は人間じゃなくてねこだ! ねこなんだ!」と言わないのだろう。

 ボクはずっと長いあいだ、思っている。
「僕は、ねこのハズなんだけど……」と。

 なるほど。
 僕が「ねこ」として認められるには、ミームを拡散して、従者を増やして、そうした下僕どもに崇め奉られるしかないのである。

「嗚呼! 青猫様こそが真の猫的レイシャルマイノリティの始祖!」みたいに。

 猫的レイシャルマイノリティってなんだろうね。
 ボクにはよぐわがんにゃいのである。


// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20191210
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
トイレ掃除の話
SUBTITLE:
~ our rest room. ~
Written by 黒猫

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 飲食店で働いていた頃の名残だろう。
 汚れたトイレを見ると耐えられない。汚れたトイレで用を足すなんて考えたくない。
 結果、僕はトイレを掃除するのである。
 
 移動中に訪れたコンビニであろうと。
 オフ会の2次会くらいに寄ったカラオケ屋であろうと。
 最近恋人と同棲を始めたという友人の家であろうと。
 行きつけの吞み屋であろうと。
 僕はトイレを掃除する。
 
 結果として、僕がトイレから出るのは(「大」をしてたの?)というレベルに3を掛けたくらいの時間を要する。
 なぜといって、僕がこうした「アウェイのトイレ」を借用する場合、かなりの頻度で僕はトイレを掃除しているから。
 床が汚れていれば床も、洗面台が汚れていれば洗面台も、掃除しているから。
 
 水、トイレットペーパー、ペーパータオル、ハンディソープ、ラバーカップ、洗浄ブラシ、洗剤。
 だいたいこの程度があれば、完璧に綺麗にすることができる。
 そしてこれらはだいたい、目に付くところに備え付けられている。
 
 たいていひどく汚れているのは、コンビニとカラオケ、それに呑み屋である。
 定期的にトイレ掃除をするスタッフがあまりいないことが多いし、トイレ掃除をしたこともない人間もトイレを利用すると想像する。
 正直これを書いて想像を絶しているのだが、世の中にはトイレ掃除なんてしたことがない(汚しても綺麗にするなんて考えもしない)というオトナが、一定数はいるのである。
 しかしまぁ、そういう人たちはそういう人たちで、僕にとってはどうでもいい。
 トイレ掃除をしたことがあろうとなかろうと、公衆のトイレを掃除する意識のない人が利用し続ける限り、誰かが掃除をするそのときまでトイレは汚くなりつづけるのだ。
 そこには思想も、啓蒙も、理想も、観念も、意識も必要ない。
 他者を非難する必要も、己の行いを得意になって吹聴する必要もない。
 そこにあるのは汚れたトイレと清掃道具、そして自分だ。
 
 密室という小宇宙。
 何者の視線も監視も(多分)ないその空間で、己の心と向き合うのである(座禅か)。
 
>>>
 
 そのようなわけで(どのようなわけで?)僕はトイレを掃除してしまう。
 そこにはさまざまな汚れが付着していることが多いのではあるが、実際に掃除をしてみれば「汚したらすぐに落とせば一番ラクだ」という真理に気が付くだろう。
 換気扇掃除もそうだし、水回りの排水溝掃除もそうだ。
 汚れる前に掃除する。汚れたらすぐ掃除する。
 なんと簡単な事実を、僕は無視して生きているのかと、自問自答する。
 
 もちろん、ここだけの話、恥ずかしながらも(ポッ)、正直に言うと、文句を言いながら掃除をしている。
「汚したらすぐに落とせ(真理)」とか、
「なぜ俺が掃除をしなくてはならないのか(そこに汚れたトイレがあるからだ)」とか、
「トイレを汚してそのままで平気だなんて信じられない(と言うほどでもない)」とか。
 
 そして文句を言いながら(ああ、なんて心が狭いのだろう自分は)と思ったりする。
 だってしたくないなら掃除などしなければいいのだ。
 したくて掃除をしておいて、掃除をしない他人に文句を言っているのは、たいそう滑稽で狭量だとは思わないだろうか。
 
 たしかにたかだか排泄の問題である。
 用を足せればそれでいいのだ。
 道具の良し悪しなんて関係ない、といえばそのとおりかもしれない。
 汚れたトイレだろうと、清潔なトイレだろうと、排泄欲求と排泄行為の前に差はない、という人もいるだろう。
 
 しかし本当にそうだろうか。
 
 不潔で汚れたトイレで用を足すことに、恐怖感や嫌悪感はないだろうか。
 清潔なトイレで用を足すとき、満ち足りた安心感はないだろうか。
「排泄の用を足す」うえで、その両者は自分の精神衛生上になんらの差もないのだろうか。
 
 出せば終わりか。
 出せればそれでいいのかオマエたちは。
 そんな気にもなる。
 
 何でもいいのか、どこでもいいのか、誰でもいいのか。
 そういうオトコなのか。
 そんな台詞も(全然関係ないけれど)思い浮かぶ。
 
 いずれにしても下世話なことである。
 他人の下世話が気になるようになったら、いよいよ下世話であるから、己を省みるのである。
 
 公共のトイレを掃除するのは、そんなちょっとした小宇宙、自省の機会なのである。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -黒猫-/-BlueCat-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Form-Interface-Link-Maintenance-Mechanics-Rhythm-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Human-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  -おこと教室-:-ひとになったゆめをみる-
 
 
 
 
 
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abcdefghijklmnopqrstuvwxyz
660639483114132099254273472
ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ
480034641147320908572734 2
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20190705
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
みとめたくないこと。
SUBTITLE:
~ Unseen something. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
190705

 潔癖症である。
 肉体的にも、精神的にも、倫理的にも、そう「だった」。

 流行の言葉で言うと、そういうのは「生きづらい」。

>>>

 ちょっとだけ(いつもどおり)脱線してここで感想を述べると、僕は「生きづらさ」とか「生きづらい」とかいう言葉が大嫌いである。
「生きる」のが簡単だとか思うなよバーロ! と思ってしまう。
 甘やかでぬるま湯みたいなあたたかい幻想世界の羊水に浸って産まれて来たのかこの能なしが! とついつい辛辣に罵りたくなってしまう。
 スズメだろうとメダカだろうとアメンボだろうとカラスだろうとゴキブリだろうとエノコログサだろうと、苦しい思いをして産まれてきて、時に飢え、時に凍え、時に病に伏し、あるいは自らの不注意で肉体を欠損し、あるいは他者の捕食やイタズラによって、肉体どころか命までも落とすことがあるのだから。
 なにが「生きづらさ」だ甘ったれんなバーロ! とついつい口汚く罵りたくなってしまうのである。
 誰にって、誰かに、ではない。その概念に、である。
(話すと長いから本筋に戻りたい)

>>>

 過敏症である。
 肉体的にも、精神的にも、そう「だった」ろうと思う。

 ガールとぱやぱやしていて、粘膜系が炎症を起こすなんてしょっちゅうで、つまり僕は「ぱやぱやが好きな青猫」を自分に植え込みでもしないと、ガールとぱやぱやする気になれなかった。皮膚接触だけでいいじゃないか! いいじゃないか!
 とついつい思ってしまって、言ってしまうかもしれない。
 しかし仮に、そんなことを言われたガールの気持ちを考えてもみるがいい。言えるかそんなこと。
 それにまぁ、炎症を起こさない、無害な、あるいはソフトなガールもいる。
 絶対にダメとは限らない。それにそういうのは、いつもはダメでも今日は大丈夫だよ(はぁと)とか、他の子はだめだけどキミはいいみたい。むしろキミじゃなきゃダメみたい(はぁと)みたいなこともあるわけで、本当に煩わしいと思いませんか?(口調が変)

 いや、粘膜だけでは済まされない。皮膚だって敏感だ。
 腕枕をガールにして(性行為の有無は関係ない)、腕の皮膚がただれたことが数回ある。
 爛れは完治まで数ヶ月に及び、表皮が裂け、体液が滲出し、痛くて痒くて仕方がなかった。
(以前書いたことがあるが、僕の身体で一番敏感なのが、腕である。もうこうなると、敏感どころか過敏であり、過敏を超えて異常だとさえ思える。だから誰にも言わずに過ごしている)

 音も、匂いも、光も、味も、触覚も。
 自身の体内の脈動さえ、本当に気に障った。
 どうしてもっとマイルドにならないものなのかと。
 意識しないでいられないのか。
 せめて、快適とはならなくてもいいから、気にならない方法はないのかと。

 敏感さは、そのまま、潔癖症にまっしぐら「だった」ように思う。
 過剰な精神的潔癖症は、独善をして他者を断罪しようとする。
 ほら、ネットニュースやY!公式ブログのコメントなどを見ていると「すごく正しいことを、ちょっと狂気的にまくし立てている感じ」の人がいるから、あんな感じだと思えばいい。
 僕自身は、ほほえましくそれを眺める。
「ああ、この人、自分の正義が重いだろうな。それとも、自分だけは例外にしているのかな。だとしたら欺瞞になるけれど、そのほうが生きやすいだろうから、最適化なんだろうな」なんて具合に。

 子どもの頃はそんな「生きづらさの補正」なんて思いつきもしなかったのだけれど、ある時期、思いついた。
 とにかく「嫌いなもの」が嫌いなのである。
 ならば好きになればいいのだ。許せるようになればいいのだ。
 頭ごなしに「これはダメだ」「これはいけない」「これは悪い」「これは気持ち悪い」なんて決めてしまっていることを、一度、考え直してはどうか、と。

>>>

 僕の精神的潔癖症は「嫌いなものの存在を許せないこと」に尽きる。
 坊主が憎いと袈裟どころか寺も仏も切り刻まんとする勢いである。アブナイ。
 寺まではまぁ、なんとかなるとして、仏はどうするのか。仏像だけならまだしも、ホンモノの仏様ともなれば、もはやそこは概念の領域。崇高にして真の安寧の待つ涅槃の世界。切れないし刻めない。
 もうそうなると、スーパーとかの床でダダをこねる2歳児よろしく、
「やだー! やだー! 坊主も仏も寺社仏閣もすべて焼き払われた清浄なる世界じゃないとやだー!!!」
 となってしまって何も手につかない。仕事も勉強も恋愛も食事も排泄も喫煙も入浴も睡眠も手につかない。とにかく憎くて呼吸も忘れそうな勢いで病的になってしまうのである。
 いや、それはさすがに言い過ぎか。
 まぁいいや、どうせ誰も読む人はいないし、いても黙っているし、だいたい空気を読むのが得意な人ばかりだから真に受けることもなかろうし。
 とにかく、病的になってしまうのは事実であるから、思考をあらため、行動を変え、習慣を作ることが大切なのではある。

>>>

 鈍感さ、というのはある程度までなら補正が可能だと僕は思っている。
 当時の僕は、自分が過敏だなんて考えなかったし、今だって「おまーらのほうが鈍感なんだかんな!」という気持ちがちょっとはある。
(敏感な方が優れている、という意味ではなく、基準を僕以外の誰かにするか、それとも僕にするか、という問題の帰結として)

 実際のところ、敏感さだって、潔癖症だって、補正はできる。
 ただ、補正後の最適化された自分の価値観や感覚をどこまで自分だと思えるかどうかは別の問題だ。
 さぞ「生きやすい」であろうそれは、もしかしたら、自分ではないかもしれない。

>>>

 嫌いな食べ物を極力減らした。
 嫌いだと思っているものを片っ端から食べて、アレルギー反応があるものだけを除外するようになった。

 嫌いな考え方を極力減らした。
 これはとにかく考え続けるしかない。
 自分が否定してしまう概念や感覚や理屈を、肯定する誰かがいるのである。
 ひたすら考えて訓練した。
 たとえばゴキブリが好きな人もいる。蜘蛛が好きな人もいる。
 かつての僕にとってそれは恐怖の対象であったけれど、慣れればクモなんて可愛い。
 ゴキブリも、あれはあれで益虫としての側面があるから、一概に害虫だと思うのはどうかと僕などは考える。
(風呂場に1匹飼っておくと便利だよ、ゴキブリ)

 原子力発電。自死。不純異性交遊。いじめ。搾取。
 よくよく考えて好きになれないこともあれば、よく考えもせず(いわゆる生理的に)嫌っていることもある。
 生き物を捕まえて殺して食べること。
(潔癖症の人は、ときどきこれがニガテで、僕もそうだった)
 生き物を、食べもしないのに捕まえて殺すこと。
(ゴキブリや蚊なら、みなさんもしていることでしょうけれど)

 ひとつひとつ、試して、実行して、自分を分析するしかない。
 考えは行動を、行動は習慣を作ることでもある。

 自分を汚していけば、そのぶん「キレイでない自分以外」を憎む必要はなくなる。
 汚れに浸っていけば、そのぶん「キレイでない自分」を恐れる必要もなくなる。

 汚れた自分を恐れるのか、それとも汚れそのものを憎むのか。
 方法はまちまちだけれど、物理的にも精神的にも、ある程度以上の許容を自分自身の思考によって生み出すことは可能だ。

 もし仮に、出来上がった「寛容な精神の持ち主」が自分ではなかったとしても。
 独善たる怒りの業火で誰かを勝手に成敗するような狂気の持ち主になるよりはマシではないか。

>>>

 おそらく他者をして「猫氏はさー、達観してるっていうかぁ、なんか他人事みたいにいうよね」と言わしめるのは、つまるところ僕が本来僕だと思っていた僕ではないからなのではないかと思ってみたり。わがんねーけどもよ。
 自分のことだって、そのくらい突き放して考えないと、とにかく潔癖症のままだとつらいのではあります。
 それでもときどき鬱状態になるのではあります。

>>>

 およそ15年ほど前に「栄養失調になるまで眠り続けた」のは、鬱病的なナニカだったのだろうとは薄々思っているのだけれど、あまり認めたくないのです。
 病院にだって行かないし、行かなかったし。行く気力なんてどこにもなかったし。
 性同一性障害かどうかなんて、考えたくもないのです。自分の性別なんて、肉体の部分はそれとして、心の性別なんてどうやって測定したり自覚したりするんだおまーら、と思ったりもするのです。

 果てに最近は、発達障害だのHSPだの、そんなレッテルを貼り付けて「自分はそれだと分かって安心した」とかいう感覚が理解できないのではあります。

(あの手の「マイノリティに病気としてのレッテルが作られました」的なニュースを見るたびに、私は恐怖します。
 仮に私がそうした「マイノリティ的気質」があったとして、あるいはそれを病院やカウンセリングなどによって改善できるとして。
 そんな壁をわざわざ作らないでくれる? みたいな気持ちになってしまうのです)

 だから私は、そんなものに自分が該当するかもしれないなんて考えたくもないのです。
 該当して、他者にそのレッテルを見せて、じゃあ何か変わるのかといったら、そんなものを期待するほどおバカちゃんではありたくないのです。

 壁がそこにあるだけで、嫌悪したり、忌避する人もいるし、あるいは興味本位に近づいてくる人もいるわけです。
 そんなリスクを考えると「私はなんでもなく、うすらぼにゃり(誤変換はわざと)しているイキモノです。取るに足りませんし、特別でもありませんし、はい」というレッテルを貼っていたい。うまく誤魔化していたい。どこまでも。

 たとえば「おまーらは鈍感で、オイラはちょっと敏感だけど、べつにたいしたことじゃないんだかんね?」くらいの気持ちでいいと思うのです。
 実際に、そう思って生きている。

 だからたとえば「おまーのそのイデオロギィは気に入らないんだけんども、まぁ、でもそういうのもあるよね。それも含めておまーのことは嫌いというわけでもないし」くらいの、なんていうか、いわゆるボーダレスな考え方があってもよいのではないかと思うし、僕はだいたいのことについてそう思っているし、そう思っていないと自分の首が絞まるというか。

 自分の感覚を、もっとちゃんと信じていればいいじゃないですか、と思ってしまうのです。
 まぁ、わかるんですよ、マイノリティに分類されるとか、潔癖症だとか、長生きできなさそうなタイプだとか、精神病んでそうだと思われるとか。
 でもそんなに異常じゃない、と自分では思いたい。
 ありふれてるし、一般的だ、と言い張りたい。

 もちろん、もちろん。

 マイノリティに分類されがちな僕以外の誰かをして「えー? 変わってるねぇ」なんて思いもしないし言いもしない。
「ふうん、そういう人、いるよね」くらいにしか思わないのだ、僕は。

>>>

 久しぶりに入浴。
 ひと月くらい前に入浴した際は、血圧と脈拍が対応できなかったようで、風呂場でしばらく昏倒していたが、今回は大丈夫。

 意味不明の(かつ予兆のない)嘔吐や(おなじく予兆を無視した)下痢もほとんどなくなった。
(どのくらい予兆がないかというと、おかゆを口に含もうとスプーンを運んだ瞬間には胃袋方面からのおかゆがやってきているレベル。吐き気サンに仕事をして頂きたいとあれほど思ったこともない)

 足の裏の水疱はほとんど消えて、皮膚も徐々に以前のやわらかさを取り戻しつつある。

 ただ予期せぬ嘔吐が怖くて、外出ができずにいた。
 食事も、ときどき、まだ怖いときがある。

 しかし、K氏や弟子は心配している。
 特に弟子は、放っておくと僕が自死など気にも留めていないことをよく知っているからだ。
「職安に行って貧血起こして帰ってくるくらいなら、どうせだから生活保護とか受ければいいんじゃないですか」などと、冗談とも本気ともつかないことを、多分本気で言っている。

 鬱状態も抜けつつある気がするし、完全なる引きこもりも、そろそろ終わりにしなくてはならない。

 私のカラダは、よく分からないことばかりだ。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

[ Traffics ]

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に--月夜の井戸端会議-:Webストリートを見おろして



//EOF
 GWとやらの最終日から、体調がおかしい。
 最初は風邪かと思ったのだが、3週間にもなって、熱もないのに(おかゆすら食べていないのに)急な嘔吐が起こったりする。

 尿の色もただごとではないので、先日、なんとか体調を整え、病院に行って血液を抜いてもらった。
 医者は、ストレスのせいかもしれないとは言うが、この程度の心理的/肉体的ストレスは5年ほど前から抱えて生きている気がする。

 いまだに、食事ができない日があるから、食事は体調を探りつつ、おっかなびっくりである。
 強制排出されるときは仕方ないとは思うけれど、あれはあれで体力を消耗する。

 本来的に、こういうときはまったく食欲がないので、白湯を日に4L近く飲んで、ときどきおかゆで塩分を摂ってしのぐ。
 掌蹠膿疱みたいなものが左足にできるのも初めてだし、こういう体調不良は生まれて初めてではないだろうか。
 食事をして1時間ほどあとには、昏睡するように意識が朦朧とするし、筋肉が衰えていることもあるかもしれないが、とにかく身体が重くて動かせないときもある。
(体重はまだ10kg程度は減っても問題ないと思うが)

 腎臓や肝臓の機能低下なのかもしれないので、服薬は最低限(おなじみの、LDLを下げる薬だけ)にしている。
 3週間も、酒と煙草から離れているとは驚きで、今日は夜な夜な、元気になったときのために、シガーの調湿をした。

 死について、特に不安はない。
 ただ、葬儀の手続きなどをきちんと書面で残しておこうと思う。
(あれはあると便利だから)

 昨年から、急死したり、急死しかける人が、僕の周りに3人いた。
 人間は、ほんとうに急死したりするのだ。とくに僕のような先天的な体質異常を抱える者は可能性がおのずと増えることになる。

 オフラインの書面に何かを書くことに、強いストレスをまだ感じる。
 これは本能的な忌避だから放っておいて、必要なことは書いておこう。

 僕が死んで悲しむ人は数名知っているが、喜ぶ人はあまりいないように記憶している。
 もっともずっと前から僕はこのブログの更新状況を(勝手にRSSで拾わないかぎり)読めないようにしている。
 たしかファン登録とか、オトモダチ登録などがあったように思うが、すべて解除したり拒否してある(と思う)。

 誰かに読んで欲しくて(あるいは読ませるために)書いているわけではない。
 誰かに心配されたいから記録するわけでもない。
 でも読みたいという希有な人も一部にはいるかもしれないし、消息不明で不安になる人もいるだろう。

 生きているかぎりは、何かを書くだろうし、僕がWebに何かを書くときは、青猫工場の名が冠される決まりになっている。
 たぶん死ぬまで変えないルールだ。
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180521
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ディスコミュなら幸せ。
SUBTITLE:
~ Discommunication is my life. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 勤務先の社長が亡くなったのは、およそ2ヶ月前のことだ。
 社員が僕しかいないという、きわめて特殊な環境下だったけれど、役員でもある彼の奥様の決定で即日僕は仕事を失い、会社は解散のための手続きに入った。

 この2ヶ月間の僕は、だいたいぼんやりと過ごしていた。
 久しぶりにうんざりするくらいゲームをすることができたし、人に頼まれて接客業のバイト(他者からすると、接客業スキルが高い、らしい)をして脱水症状を起こして身体を壊し、療養中だったりもしている。
 Kさんや弟子から、ときどき電話が来る。
(Kさんは私をその「接客業のバイト」に誘い込んだ張本人なのである。僕が退職してのちも、そのようなわけでKさんとはやりとりが続いている)

 ほとんど引きこもりなので、買い物も1週間以上出かけていない。
 最後に誰かと会話をしたのは、およそ1週間前だろうと推測する。
 資本主義社会の一員として考えると、もはや「何もしていない人」に該当する。
 弟子など、心配のあまり就職口を見つけて連絡してくれるほどである(その電話は無視したが)。

 体調が悪かったこともあり(なにせ、お粥すら消化できない日が続いた)家の中は洞窟のようになっている。鍾乳石が上から下から伸びていたとして不思議はない。

 カーテンを閉め切って眠り続けて、目覚めたらゲームをして、空腹になったらお粥を作って(たいていは30分程度でなんらかの身体反応により排出して)、消化するのにとても体力を使うようで、放っておくと異常なほどの睡魔が襲ってくるので眠る。
 昼も夜も関係ないし、季節も、曜日も、あまり関係ない。
 こんな暮らしがしたかったといったら、まぁ、さすがに言い過ぎかもしれないが、けっして悪い気はしない。

 子どもの頃から、誰もいないで一人きりの世界にあこがれていた。

 もちろん(おそらくは残念なことに)僕の周りにはまだ幾人か、僕のことを記憶し(身勝手に)気に掛ける類の人間が存在する。
 特に妹は、僕がこの世を先に去ることを悪魔に誓って許さないだろう(おそろしや)。
 面倒だけれど、もう少し、生きなくてはならないらしい。

 ちょうどよく体重が減ってきたので、体調を整えながら、明日あたりは病院に行こう、と思って1週間が経つ。

>>>

 ずっと眠っていると、いくつかのしがらみのようなものが、自分の中で瓦解する。
 僕はそれを「忘れる」と表記するけれど、実のところ、一般認識の「忘れる」よりは「思い出さない」に近いのかもしれない。
 記憶はそこにあって、思い出すことはできるのだけれど、その記憶に執着しないし、反射的にその記憶を反芻することもない。
 人間の多くは、記憶に縛られて生きているし、記憶がその人の人格を形作る大きな要因だろうから、その意味で、眠り続けるだけで不要な価値観を取捨選択できるのは大変ありがたい機能である。
 もっとも最低でも3ヶ月は俗世との縁を切り離さなくてはならないので、たいていの人は無理だろう。僕自身も無理をしていると思う。
 ただ、こうしていると、自分の生きる意味や、他人の存在の価値について考えることができる。しかも冷静に。

 そういう意味では、誰しも、半年くらいディスコミュのために山に籠もったりすればいいのだ。
 観光客が邪魔だから、ものすごく辺鄙な場所に行くか、自宅付近の公園で野宿し続けるのもいいだろう。
 お金があるならホテルでカンヅメ、という手もあるし、家族がいなければ自宅警備員に徹すればいいし、家族がいるなら別宅を借りればいい。
 半年も独りで過ごすのは、とても贅沢な経験だ。体調がよければなおさらだが、体調が悪くても、よしんば眠り続けていても、貴重な経験だろう。
 可能であれば、携帯電話は(壊したくない場合は)電子レンジや冷蔵庫に入れてしまうといいだろう。固定電話は(壊したくない場合は)プラグを抜いて、押し入れにでもしまい込もう。
 インタフォンの電源を落として、あとはとりあえず眠るだけだ。簡単だ。クマでもできそうだ。
 もちろん、たいていの人はしないだろうしできないだろう。
 でも僕はそれをしたいし、できるし、している。
 さすがに電話は(一部の人が心配するので)電源を入れて、必要に応じてあとで掛けている。すぐに出たりしない。面倒だから。

 あ、そうそう。自分や他人の、意味や価値だった。

 極論を言ってしまえば、まったくもって意味も価値もない。
 今日、たった今、すべてやめてしまってもいいではないか。と思う。
 ちょうど5階に棲んでいる。友人や恋人は極力減らした。
 僕の棲んでいる場所は、実は、妹も知らないのである(必要なときはこちらから出向くから問題ない)。

 ただ、まぁ、自死を選択する強い動機はない(あれは絶望とかをはじめとした、強い動機を必要とする)のでこうして粥が煮えるまで、日記を書こうと思い立った。
(僕は努めてぼんやりのんびりしているので、いろいろなことに動機を持たない)

 そろそろ履歴書を作るか悩んでいるのだが、我が家にはプリンタがない。かくも書くのも面倒なことである。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]
  -Generator-

[Object]
  -Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20190521
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
肉が裂ければ血が流れる。
 
SUBTITLE:
~ My blood may be your pain. ~
Written by 赤猫
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 自分が痛みを感じているときにこそ、他の誰かの痛みに敏感であれ。
 いつだったか、そんな言葉がどこからか生まれて、僕の中に居着いてしまった。
 
 四苦八苦のおよそすべてについて、だから、他人がそれを語るときには自分の体験したそれになぞらえて、僕は僕の話を『しなかった』。
 なぜといって、他人の苦しみに対して、自分の経験と対策を語ったところで何の役にも立たないから。
 苦しみは固有で、痛みは個別だ。
 だから他人の痛みなんて誰にも分からない。
 僕の痛みが誰にも分からないように、僕に悩みを打ち明ける誰かの痛みは、僕には分からない。
 分かったフリをすることはとても簡単なことだったけれど、それを僕はしたくなかった。
 なぜといって、そんな演技をする人間は意識的にであれ無意識にであれ、その演技に見合うだけの出演料を求めているものだし、顕在的にであれ潜在的にであれ、同じ痛みをこじらせているから。
 
 他人をそんなふうに利用するのは、相手に対しても失礼だし、自分の首も、最終的には絞めることになる。
 救われないのはお互い様で、だから、誰かの痛みや苦しみは自分の痛みや苦しみでもあり、それと同時に、鉄の檻に入れておくべき、伝染病を持った猛獣のようなものでもある。
 興味を持つのは仕方ないかも知れないが、必要以上に近づいてはいけないし、自分の檻も、他人の檻も、みだりに開けるものではない。
 噛まれた感染者は、必ず次の感染者を作ろうとするから。
 
 僕の話はいつも抽象的で、他人事のようだ。
 僕は人からそう指摘されるまで、まったく自分で意識もしていなかった。
 でも、そう。
 自分の話なんて、したくない。
 理解されもしない話をして、同情や理解を求めるなんて、まったくどうかしていると思う。
 あるいは仮に、理解を集めたとして、一体何になるのだろう。
 シンパシーを感じる誰かがいると、一体何だというのだろう。
 
 ただ記憶と経験と、そこから抽出した法則性はある。
 だから僕は注意深く、自分の記憶や経験を取り除く習慣がついてしまった。
 まるで古めかしい外科医が体内の不要な部位を鋭利なメスで切除するように。
 結果的に、僕の思考をフィルタすると、僕自身の話がまるで他人事になる。
 仕方ない。
 僕自身にとっての話は、僕自身の中で大切に、いつまでも、保管され、抽出されて、朽ちてゆく。
 枝葉の記憶や、僕自身のエゴを語って何になるだろう。
 
>>>
 
 そのようなわけで他人の痛みや苦しみについて、適切な距離を持って、なおかつ自分の話にすり替えることもなく適切なアドバイスができたり、あるいは取り返しのつかないような古疵であるならばそれはそれで上手に聞く能力を持つ人に対して、単純に敬意を持ってしまう。
 そしてその一方で自分が痛みを感じているときに、猛威を振るうタイプの、手負いの獣のような「人間」が多い様相を観察するにつれ、大げさではなく、僕は疲れていった。
 自分が痛みを感じているときに誰かの痛みを慮るなんて、おそらく多くの場合は無理なのだ。
 たとえそれが、有用で現実的な現実逃避の一つの手段であったとしても。
 現実的でない現実逃避が、現実を壊滅させることがたとえあるにしても(たとえば妄執や現実世界の生活の放棄など)、それでも理性を失ったように、彼ら/彼女たちは自分の傷について吠え立てる。
 
 個人的な理想や姿勢という意味で持つぶんには意味もあるだろうけれど、他人に期待すべくもない。
 他者は、いつもどこか獣じみている。
 社会も同様で、たとえば資本主義社会であろうと共産主義社会であろうと、咀嚼する肉を探す獣の群れには変わりない。
 自分の肉や、血や、牙や、骨にしか関心のない生き物たち。
 痛みの一過性を、どうして学ばないのだろう。
 
 彼ら/彼女たちは、子どもの頃に学ばなかったのだろうか。
 あるいは母親に、教わらなかったろうか。
 
 無論、僕は教わらなかった。
 自分で見つけたのだけれど、そうした一般論は、はたしてどこまで「他人事のよう」で「現実世界で何の役にも立たない」のだろう。
 
 自分という獣を自分からある程度の距離に切り離しておくことは、そこまで奇異で愚図なことだろうか。
 単に己の理性を失う獣の数が、そうでない者よりも多いという、たったそれだけの事象に根ざしているようにも思える。
 よく分からない。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
 わたしのきおくもけしてゆけ
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
 
[InterMethod]
 
[Module]
 
[Object]
  -Human-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
 
 
 
 
 
//EOF




 言葉を信用していないわけではない。
 ただ、言葉を記録することや、記録された媒体や、その媒体から復号される意味を考えるとき、すごく恐ろしくなる。

>>>

 数年前のことだけれど、当時の恋人に、日記を読まれたことがある。
 Webではない、IRL( in real life )上の、紙媒体に書かれた日記である。
 日記は、僕のプライベートな空間の、プライベートな書架に、鍵を掛けられることもなく置かれていた。
 なぜならそこは借家とはいえ僕だけが暮らしていた部屋で、僕のひとり暮らしは当時の段階でも20年近くになっていたから。
 携帯電話も容易にアクセスされることになった。
 折り悪く当時の僕は、簡単な暗証番号によるロックさえも解除していた。
 落とすことなく、置き忘れることもなく、たいていの場合、肌身離さず2台持ち歩く(職業柄、それは必要だった)ことが習慣になっていた僕にとって、携帯電話へのアクセスを高速化するメリットは、万一のリスクを放り捨てるくらいには魅力的だった。

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 遠い昔に書いたことがある。

 いったい言葉を使ってどれくらい、自分の考えを、充分に、あるいは完全に、表現できるのだろうかと。
 さらにいえば、言葉を使ってどれくらい、それが伝わるのだろうかと。
 言葉は、効率的に情報を伝達し、あるいは記録することができる。けれども。
 復号された情報は、もともとの情報にはとうてい追いつくことはない。

 けれども、僕には、僕のようなイキモノには、言葉しかないのではある。
 軽度の相貌失認をはじめとした視覚系の認知/記憶能力の制限や、にもかかわらず五感の過敏さや、あるいはどこまでも執拗に、他者との関わりを絶ってまで自分独自の認識世界に潜り込んでしまう気質も含めて。
 他人とのコミュニケーションによって手に入れられるのは、だから、安心よりも不安が多い。
 差異を感じて、一般認識とのズレを都度都度感覚して、表面上の認識や概念が、大きく逸脱しないように、自分自身の表層の思考を調整する。
 なに、なんのことはない。
 仕事や浅い付き合いの知人などと付き合う上での、ちょっとしたエチケットではないか。

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 プライバシーを物理的に侵されることを、僕は10代の頃にも経験している。
 僕は為す術もなく、目の前でそれを読まれ続けた。
 もちろん、無理矢理ひきはがしたりすることは選択肢としてはあると思うけれど、親しい人間にそうすることで、万が一媒体を破損したり、あるいは親しいはずの人間に怪我をさせたりすることを考えると、何もできなかった。
 ある程度、満足するまで彼女はそれを読み続けて「無理に取り上げたりしないんだね」と言って、静かに日記を返してくれた。

 それでも僕はそれから5年以上、一切の日記を書くことができなくなった。

 何月の何日に、どこに行って、誰に会って、何をどう思ったか。
 何を素敵だと思い、何を好きだと感じ、どんなことを見て嬉しくなったり、あるいは悲しくなったりするのか。

 僕にとって、日記を書くこと、心の中に生まれる複雑に絡まってしまいがちな思いや考えを言葉にして整理することは、自分との対話の中で、表面に置く必要のない自分の考えを整理して分類する、大事なことだった。
 他者にとっては複雑怪奇で理解不能であっても、あるいはだからこそ、僕が僕の中でそうした認識や感覚をきちんと受け止めておくべきで、そうした言葉はそのための受け皿だった。
(僕はわざわざそのために、僕が使っている言葉のための辞書を作ろうとしたことさえある)
 だからそれらの言葉たちは、表面上に取り繕われた概念や認識の様式とは違って、とても親密で、あたたかくて、自分を支えてくれるもののはずだった。

 けれどもそれを勝手に暴いてゆくタイプの人たちは、そこに記された文字列から、勝手な意味を付随させて独断する。当然だ。メディアはコンテンツを記録するためのものだし、記録されたコンテンツは、それが文字情報ならば等しく文字から意味を復号されなくてはならない。
 そして厄介なことに、言葉に含まれる意味はそれこそ複雑怪奇で、接続を少し間違えただけで「食事中に洗濯したままポケットを石に仕舞った」だとか「とても美味しい僕を作ったベーコン」といったような、意味不明の文字列が出来上がってしまう。
 独自の言葉遣いをする(一般にはそう受け止められることが少なからずある)僕にとって、そこに羅列した言葉を「詩」以外のものとして認識されるのは、ときに危険でさえある。
 ありもしない思想を持っていると思われて反感を買ったり、思ってもいない感情をくすぶらせていると嫌疑を掛けられて引き出しの奥まで探られたりする。

 それはそうだろう。
 表層にいる取り繕われた僕は、外の世界とのバイパスの役目しか果たしていないのだから。

>>>

 人は、ガラスケースの中に充填された孤独に浸かって生きているのではないかと思うことがある。
 単なる比喩ではあるけれど、心は誰にも見えないものだし、一方で、肉体や、その存在そのものはおよそ必ず目に見えるものだし。
 だから、本当の意味では、心を通わせるだとか、触れ合わせるなんていう芸当は誰にもできない。
 触れたように感じる、触れられたように思いこむ。それだけだろう。

 ガラスケースの中でパントマイムやジェスチュアを駆使して、なんとか自分の思いを伝えるしかないし、他人のよく分からないアーティスティックなそれを見て、勝手に判断するしかない。
 言葉は、そのよく分からない阿波踊り的なジタバタのカタチにしかすぎない。
 本人が、果たして本当には何を思って、何を感じたかなんて、どれだけ詳細に書いたところで、それを読む自分に完全に復号できるだなんておこがましい発想は、僕にはできない。

 けれどもどういうわけか、言葉は完全に復号できると思っている人間もいて、おそろしいくらい、勝手な認識をしてそれを押しつけてくる。本当に怖い。ストーカのようなものではないか。

 そして僕は、IRL上の、たとえば紙媒体の、あるいはオフラインコンピュータの中にも言葉を書くことが恐ろしくなった。
 まだオープンスペースの方が、いくぶんかはましだ。
 誰にでも曝かれるという緊張感が常にある。誰でも曝くことができる状態を維持することは、僕にとってはある種の安心を生む。
 そして僕以外の誰も復号できないような、難解で意味不明な文字列を感覚的に並べて、その上、核心には絶対に踏み込まないようにしておけば、自分にだけは分かるような、オープンで意味不明な文章ができあがる。

 もはや誰にも理解されない個体なのだろうと僕は自分を悲しく思うこともある。
 もちろん誰かに理解されたところでいいことは特にない。だから理解されなくても問題ない。
 一方で、他人を理解できるだけのコモンセンスや個別の認識を多く持っていれば他者を理解するのに苦労することは少なくなる。
 だからオープンスペースに日記を書くときには、外堀だけ作って、中は何も直接明示しないという手法に出た。
 結局のところ、それは、自分の中の気持ちを、自分自身から隔離することにしかならないのだけれど。
 なぜならそれは、単純に外堀だったり塀だったりでしかなく、その中を明示できないという潜在的な緊張感をナイフの切っ先のように自分自身に突きつけることだから。
 結果的に僕は自分の中で断絶される。僕自身の手と言葉によって。

 たとえば入浴に2時間もかかるなんて異常だ、とか、一日に食事が一回で済むなんてまともじゃない、とか、そういうことはこれまでも何度となく他人から言われた。
「となりのトトロ」で僕が涙を浮かべるシーンは比較的序盤の「家族で入浴しているシーン」で、それを説明するとこれまでのところすべての人が「理解できない」という表情で僕を見る。
 そりゃそうだ。家族の入浴シーンで泣けるってどういうことだと「表層の僕」も笑うだろう。

 ただ、僕は単純に「母親が不在の家庭で、父親と姉妹が仲良く、楽しそうに入浴している」ということにすごく安心して、それが懐かしくて、羨ましくて、だから泣いてしまうのだけれど、そういう感覚はおそらく僕の内面に留めておかないと、誰にも理解されない類のことなのだ。
 誰かが不在の関係というのは、少し緊張感がある。
 父親と2人の娘だけの引越しは、だから、最初から、なんとなく不穏な空気がある。
 でも、そこにいる3人には、きちんと親密な関係ができあがっていて、きちんとお互いが守られている関係に安堵する。それが僕にとってはあの入浴シーンに集約されて認識される。
 別に母親は死別したわけではなく、父親の浮気や暴力で入院しているわけでもなく、2人の娘は虐待されているわけでもなく、父親は母親から憎まれたり疎まれたり娘から無視されるような関係でもないことに、僕は安堵する。
 メイは無邪気で、ために意味不明な部分があっても、それをみんなが受け止めてくれて馬鹿にされることもない。
 お父さんはぼんやりのんびりしている人間だけれど、それを咎められることもない。
 そういう人間関係があることに、懐かしさを覚え、安心する。
 そしてそれが嬉しくて、少し悲しくて、涙が出る。
 僕にとっては実に自然な感情の表れである。
 そしてそれを正直に言っているのに、およそ間違いなく「はぁ?」と言われる。

「入浴のシーンが泣ける」ということを分かりやすく説明するだけでもこのざまである。
 僕にとってしごく当たり前のことを、それを理解できない人に理解しやすい文脈で示すことはそのくらい苦労する。
 だからせめて、自分のためのプライベートな日記は、僕だけが読む場所に眠らせておきたい。
「人間に選択的自死は必要だろう」なんて当たり前に言い出してしまう僕なのだから。

>>>

 プライベートな領域に人を招くことはある。
 そう。プライベートな領域というのは、招かれた範囲にのみいるべきであって、勝手に侵入したり曝くものではない。
 プライベートな領域の情報やメディアも同様だろう。
 勝手に曝いて、勝手に意味づけするべきものではない。
 いかなる理由があっても、それは正当化されるべきではない。

 しかし勝手に曝く人間がいて、勝手に意味づけされる環境があれば、やはり何も記録しない方がよいことになってしまう。
 何も言葉にしない方が安心だし、何も考えなければ安全だろう。
 何も感じなければそれで周囲との関係性に風波を立てないで済むだろう。
 突き詰めて考えると、わたしという存在がないほうが、他ならぬ私にとっていいのではないかという結論に到達する。

 もちろん私が自死を選択するとわぁわぁ泣きわめく妹だの姉だのがいるし、Web上で予告して自死されることの後味の悪さも経験があるので、そういうごく少数の人間や自分自身の記憶にピンされて僕は自分を存えることを選択しているわけだけれど。

>>>

 ただ僕は、他人とのコミュニケーションをさほど必要としないぶんだけ、自分自身とのコミュニケーションを必要とする。
 僕は、多くの他人にとってそうであるように、他ならぬ僕自身にとっても意味不明で複雑怪奇で理解困難だ。
 だからせめて自分自身くらいは、たとえ理解できなくても、きちんと自分のことを受け止めていたい。
「そうだよね、そういうこと、あるよね」「そういうとき、そんなふうに感じるよね」と同意していたい。
 ナイフの刃に囲まれた暗くて狭い独房にいるような、不安と恐怖を、なんとか消したい。
 僕だけは、僕の味方だと、伝えたい。

 いつか、僕が言葉で、僕からそれを聞いていたように。
 いつか、僕が言葉で、誰かにそれを聞いていたように。
 いつか、僕が言葉ではなく、誰かにそれを伝えられるように。




 
なんともいえない気だるい思考が抜けなくて、会社を休んで一日眠る。
目が覚めて、思考や感覚を追い出すように、また眠る。ひたすら眠る。

ぼくはそのかんかくを知っていて。
僕はその原因を知っていて。
それでも眠ることでしか直せないものがあるから、眠るのだろうか。

それとも、ただ、そう思いこんでいるから眠るのだろうか。

もう眠ろう。

目が覚めるまでは、何も考えないでいられるから。
何も感じないでいられるから。

悲しいのだろうか。

よく分からない。

カテゴライズに意味を見いだせない。

悲しいのかもしれないし、疲れたのかもしれない。

どこまで歩くと僕は倒れることを許されるのだろう。
190131

 子供の頃、和紙を漉いているのを、TVで見たことがある。
 たしか6歳か、8歳の春だったように思う。

 それから数日か数ヶ月して、紙を作ろうと思い立った。
 トイレットペーパを水で分解し(「水に溶ける」と聞いていたのでやってみた)、台所の濾し器で漉き取り、円形になったそれを乾燥させたのである。
 一度目は、分厚くてやわらかく、方形に裁断するのに苦労した。
(定規とカッタナイフで切断することも困難だった)
 また、ボールペンで文字を書くにも不向きだった。

 これが、思い立ってモノを作った最初だったように思う。
 いま考えれば夏休みの自由研究のネタにもなりそうなものだけれど、当時はそんな発想はなかったので、夏休みの宿題などというものは、スルーして生きてきた。
(僕に責任感と呼べるようなものが欠如している理由の一つである)

 その後、2回はトライしたように記憶している。

 1度は漉いたあとに手で圧を掛けて脱水したもの。
 それなりに紙質は薄く、固めになったものの、裁断や筆記に不向きなことは変わりなかった。
 さらにいうと、色が薄灰色で、なんとなく気に入らなかった。

 2度目は漂白剤を混ぜて漂白したのち、濾し器で濾し取ってから、水道水で洗ってはまた濾し取るという工程を経て、漉き取る際には分度器を使って(直線定規や三角定規でも試したのだが、形状的に不合理だった。当時の僕は実際にやってみるまで気がつかなかった)圧をかけて乾燥させた。

 ティッシュペーパを混合して失敗した記憶もあるので3回試したのだろうか。
 いずれにしても定規とカッタで切断できるだけの固さのものは出来なかったし、さほど薄くもならなかった。
 薄すぎて、型(濾し器)から外すときにボロボロになってしまった記憶もあるので、4回試したのだろうか。

 つぎは洗濯糊でもボンドでもいいから糊を使って固めよう、と思っていたものの、これは実行しなかったらしい。
 実行したら、濾し器が糊(あるいはボンド)でとんでもないことになって、青猫少年はさぞや落胆することになったとは思う。

>>>

 不思議なのは、どうして僕がそんなことをしようと思ったのか、まったく記憶にないことだ。
「なんとなくやりたかったから」くらいの理由しか思い浮かばないのだが、TVで知ってから実行に移すまで、それなりに時間が経っているあたり我ながらちょっとした執念だと思う。
(おそらく、あれこれ思案していたのだとは想像する)
 しかも、できあがった失敗作はもれなく捨てている。
 誰に何を聞くでもなく、それどころか家族の目を盗んで作っていた事は明らかである。
(姉や妹はこんなことには興味を持たないと思う。父上に話したとして「濾し器はどうか」と咎められるように思う)
 しかも、裁断強度を持たせることや書き心地の改善をしようなどという無駄な努力を、どうしてしようと思ったのか、さっぱり思い出せない。
 実際、最後は唐突に飽きてやめている(その記憶はある)。
「これ以上は改善の余地がない」と思い至ったのだ。

 基本的に、一事が万事この調子である。
 燻製造りを始めたときも、最初に本で読んでから、しばらく頭の中で寝かせていた。
 どんなふうにしようか、とか、何を使おうか、とか、そういうことを考えるのだと思う。
 そして、ある日突然(予定や計画というものは基本的に存在しないまま)実行に移す。

 そういった突発的あるいは衝動的な行動が、何かを作るときには起こるようなのだ。
 一方で、ちゃんと設計図を用意したはずの多方面収納箱(仮名)は、完成を見ないまま図面を紛失して現在に至る。

 結論や教訓をここから導くとするならば、やはり計画なんて立ててもろくなことがない、といったところだろうか。






[要修正]