自分を性同一性障害だと思っていたことがある。

 なにぶん、自分のまわりには女性しかいなくて、男性のサンプルはわずかに父上だけだった。
 僕の子供時代の世界は、女ばかりで構成されていて、見るもの聞くもの話すこと、すべてが女性というフィルタを通さざるを得なかったのである。
 
 僕が自我を持ち始めたのがだいたい3歳の頃だったと思うのだが、このときの僕の世界は人間の女性10人ほど、男性2〜3人(すべて成人男性)、犬2匹、猫4〜6匹、鳥1〜2羽という、家族とペット、家にやって来ている従業員によって構成されていた。
 実に人間と動物はほぼ同数、人間に限れば女性が男性よりもはるかに多いということになる。
 親族や従姉妹も、女性が多い。
 おそらく、そういう家系(ラーメンの話ではないので、ここでは「かけい」と読もう)であると想像する。
 
 当然そうした環境において、男性というのはマイノリティだった。
(女性が男性に対して支配的である、ということではないが、場の雰囲気は大きく異なると僕は思う)
 それに僕の両親や姉は「男らしくなさい」とか「女の子なんだからこうしなさい」という教育や指導、しつけをしなかった。
 姉たちはよく、僕に女物の服や下着を着せて遊んでいたし、妹は僕をママゴトの相手に重用し、気に入らなければ階段から蹴落としたり、背中を噛んだりしてきた。いずれも僕は無抵抗だったし、とくに悪いことをしたわけではない。
(当時のことをきちんと記憶している彼女によれば、無抵抗の僕に暴虐をしたのは、理由があってのことなのだが、いずれも自他共に認める理不尽な動機である)
 
 姉たちは僕が小学生になる頃には月経と生理用品などについて教えてくれた。そういうものが当たり前の環境だった。
 TV番組や本、家事や生活、人間関係にいたるまで、さまざまな「女の子文化」がそこにはあって、それと並列して、たとえば機械いじりであるとか、プラモデル作りであるとか、その他の木工や鉄工工作が(主に長女と父親の趣味として)存在していた。
 
 両親は、姉妹間やよその家の子と我が子とを比較することで競争させもしなかった。
 もちろん当事者同士の心の中には、不公平感があったようだが、僕は3歳で自分の要求を最優先にしてもらうことについては諦めていたから、妹がどれだけ可愛がられていても(そして彼女がどれほどの悪魔っぷりを発揮しようとも)それを微笑ましく眺めていた。
 
 僕は小学生になるまで幼なじみの女の子や姉妹といつも遊んでいたのだけれど、両親はとくに気に留めていなかったようだし、たまに男の子の遊びに混じって、競争やケンカで負けて泣いていても「うるさいから/男の子なんだから、泣きやみなさい」とか「負けたら勝つまでやり返せ」なんてことも言わなかった。
 僕は気が済むまで泣くことを許されていた。
 おそらく両親には、特段の教育方針などがあったわけではなく、単に忙しくてかまけていられなかったのだとは今にして思う。
 
 いずれにしても僕は、てっきりその環境の中のマジョリティ、すなわち主流かつ多数側たる女の子であろうと思っていた。
 いつかは身体も成長して、月経が始まって、仕事をしたり、結婚して子どもを産むかもしれない、と考えていたのである。
 もちろんときには(たとえば温泉や公衆トイレなど、公共で性別が明確な施設などで)「男の子だからそっちに行ってね」と言われることはあったが、それでも自分は女であり、あるいは女に「なる」ものだとてっきり思い込んでいたのではある。
 
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 ところで自我とは何だろう。
 簡単に言ってしまうと「自分が自分であるという感覚」のことだ。
 こだわりや自意識、欲なども強く関わるのではないかと僕は思っている。
 それにしてもこの「自分が自分であるという感覚」は不思議なものである。
 
 こんな意識はなくても、自分は自分なのである。
 どこかで僕以外の誰かが「私が青猫工場の工場長、青猫です」なんて言い出したりすることはまずないだろうし、生年月日や住所といったパーソナルデータを複写記憶しても、僕という個人のコピーにはなり得ない。
 仮にそういう個体が現れたとしても、僕は僕の肉体に呪縛されている限り、僕でしかないのである。
 
 自認しようとしなかろうと、他者がどのように評価しようと、自分の肉体に宿る意識がある限り、それはその肉体に紐付けられた、その人の人格なのではある。
 たとえ自覚のない人格があろうとも、自我に意識のある限り(あるいは意識に自我が宿る限り)現象としての自我の実在を視認できなくても、それは水晶振動子のように、もれなく内在してパルスを発振している。
 
 ところで自我は何に備わっているのだろう。
 おそらく、この身体だろう。
 少なくとも、この身体の外にはないように感じる。
 肉体の死後に、仮に意識がどこかにあれば、その意識は自我を持つかもしれない。
 しかし意識しかない存在というのは、流れる導体を持たない電気のようなものではないだろうか。
 まして「自我しかない」存在なんて、なかなか想像できるものではない。
 彼ら(その、自我だけのナニカ)は、肉体もないのに自我だけがあることになる。
 もしかしたら、意識もないのに自我だけが残っているのかもしれない。
 そんなことを言い出したら、草木どころか石や川のせせらぎにさえ自我があるかもしれないと疑う必要が出てくる。
 いや彼ら非生命的物質や運動体(せせらぎは、川ですらないから水ではない。音であり、空気の振動だ)は、意識があって自我もあるのにそれを表現し、疎通する手段を持たないのかもしれない。
 これはよく考える必要がありそうだ。
 自我は、意識という基盤の上に流れる弱電のようにも思える。
「自分が自分だ」というのが感覚であれば、その感覚を受容する意識が必要なのではないだろうか。(肉体なしの意識なんてものが存在するからどうかは別問題として)
 
 意識があるならば、自我は自律的に発生する可能性が高いといえるだろう。
 
 しかし彼我の差そのものが存在しない領域で、意識は芽生えるだろうか。自我は自我を自認するだろうか。
 そもそも非生命と考えられているものたち(先の石や川や、そのせせらぎなど)は他者を感覚することができるだろうか。
 外界を認識しうるセンサのないところに、他者を認識する可能性があるだろうか。
 おそらく、ない。
 他者を認識できない領域で、自己を認識できるだろうか。
 仮に意識があり、自我が発生したとしても、他者を認識できないそれは、おそらく我々が通常に認知している自我とは異なるものにはならないだろうか。
 
 仮に、非視覚的存在(放射線や重力、音波などのほか、たとえば定型的/定量的に完全な再現性を持って測定しうる類のオカルティックな存在)が、光学的にも熱量的にもかなり限定的なスペクトルにしか存在しない(宇宙的には控えめに言っても)比較的ミクロで、(素粒子的には控えめに表現しても)比較的マクロな我々人間を、どのように感覚しうるのだろう。
 
 仮にあったとしても、量子力学的な領域にならないと、彼らは意思を表現する手段を持たないだろう。
(箱の中の猫が、もしかしたら生きていたり死んでいたりする、アレである)
 仮に意識があり、量子力学的にでも意志を表現しているとして、いったい今まで誰かが、そこから意志を汲み取って、疎通したことがあるだろうか。
 あるいはこの先数千年後に、可能になるだろうか。
 可能になったとして、我々は、いったい何を疎通するのだろう。
 明日の天気? ガン細胞組織の発達の兆候? 遠い星での出来事? 
 
 そんな奇想天外な予測を立てるよりは、彼ら非生命(物質やエネルギィその他もろもろ)に仮に意識があったとしても、私たちのような「中途半端にミクロでマクロ」な存在と意識のありようや価値観そのものが異なっていて、意志が疎通できないと考える方が自然だろう(今まで基本的にはいないことになっていることだし)。
 
 ゆえに意識は「他者の存在を知覚しえて、かつ、意識を持つに足る肉体」にのみ発生するのではないだろうか。
 さらにいえば、その意識の存在を他者たる我々が認知するために「他者に対して知覚できる表現/体現能力を有すること」が必要だろう。
 だから生きていて、指先だけでも動く人には意識があることが想定できるし、死んでいる人には意識がないと判断せざるを得ない。
 
 そしてこれらの事実から、自我は意識の流れが発生する場所に自発的に自覚として発生し、意識は肉体が一定以上の生命活動を行っている場合に、その肉体にのみ発生すると考えるのが合理的だろう。
 ゆえに、自我は肉体に存在するとここでは結論する。
 
 そのため学校に遅刻しそうになって、トーストを咥えて走っていた美少女が曲がり角でぶつかった転校生(♂)と自我人格が入れ替わったりはしない。
 目が覚めたら違う体に納まっていましたイモムシだなんていやだどうしよう、とかいうこともない。
 
 意識は、固有の肉体という地形に流れる川のようなもので、自我はその流れという運動そのもの、位置エナジィや運動エナジィに等しいものだから。
 川の水だけを取り出して、他の地形に流しても、違う川になってしまうし、川が流れなければ、水の位置/運動ポテンシャルは発生しない。
 
 自我は、もしかしたら幽体やら霊体やらエーテル体やらなんやらといったいわゆるスピリチュアルな、あるいはオカルトなものに起因して、付随して、発生するのかもしれない。
 しかし、そうしたものが仮に実在するとしても、再現性はいまのところさほど高くない。
 誰でもが霊的な自己を自覚し、認識し、コントロールできるわけではない、にもかかわらず自我については一定以上の理知性と、その基盤となる肉体の持ち主ならば当たり前に持っているように感じられる。
「自分は」「自分が」というのがあまりに当たり前で、その前置詞を省略するのがもはや当然になる程度には。
 
 だから、肉体があって(貧弱でも)理知性を備えていれば、その意識の主体には「自己がここにある」という主体的主観が発生するのだろう。
 
 そして「向こうに見える誰か」と「ここにいる自分」は明らかに違うものだと判断できることになる。
 そう。自我が濃ければ濃いほど、自他の区別は明確になる。
 そして自我が薄ければ薄いほど、彼我の差は、さほど認められないことになる。
 そして自我の濃度は、本来任意に変更が可能だと僕は思っている。
 古典的心理学者の作り出した心理モデルでは、なんやかやややこしいものが付随して登場する。
 やれ超自我だのEsだのえるしっているかだのがそれだが、それは考案者の主観が大幅に作用していると僕は思う。
 無意識まではまぁ分かるし体感できるけれど、超自我ともなると、単なる躾や学習の結果として発生する人格作用でしかないように思われる。
 
 もちろん何もないところから人間は倫理観や道徳観、協調性を発生させたのかもしれない。
 けれどもそれは「他者と協力したほうが有利である」とか「弱者を守らないと自分のコミュニティが崩壊して不利益を被る」という損得勘定からも導き出せる。
 一定以上の理知性を備えれば、他者を生かしておいたほうが自分にとっても有利であると理解できるのである。
 社会性を持つ一部の動物でも、その程度の思考能力は持っているようだから、これは本能そのものではないようにさえ思える。
(実際、躾をしていない動物は、きちんと躾けた動物に比べて「超自我」的には劣っている)
 
 ゆえに超自我なんてものは最初からは存在せず、たまたまそこ(考案者の経験や感覚)にある現象に名前を付けただけだろうと想像する。
 たとえば川が流れていて、その川に名前をつけるようなものだ。
 最初からその名前があって、名前があるから川を流しましょう、ということにはならない。
 地形という環境があり、水という物質があり、流れという運動があって初めて川になる。
 
 その川が、どのような水質であったり、流れのカタチを持つかは、環境にも、流れそのものにもよる。
 うねりの大きな川もあれば、小さな川もある。
 うねりや名前が先にあるなんて川は、人工的に設計されたものだけだろう。
 
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 稀有な人生、であるらしい。

 私のことである。
 弟子にそう言われる。
 
 とくに自覚はない。
 なぜといって、僕は僕の人生しか知らないから。
 もっと精確にいうなら、僕は、僕自身の人生さえ、その一部しか知らないから。
 
 なぜといって、僕は母親の身体の中で意識を持った記憶をすでに失っている。
 最初の記憶は母親に抱かれて、授乳されていたときのことだ。
 胎内のことなど、まったく覚えていない。
 最初の記憶にある部屋は暗くて、隣の部屋の蛍光灯が眩しく差し込んでいた。
 授乳を終えたのだろうか、彼女は顔を上げた僕をひょいと胸元から抱き上げた。
 頬を寄せたのか、何か話しかけられたのか、よく分からないけれど、彼女の肩越しに、部屋の様子が見てとれた。
 
 もしそれが実の母親で、本当に授乳のときの記憶だとするならば、母乳アレルギィだった僕の、数少ない授乳の記憶ではある。
 それに、そのときの僕の目は視界がぼんやりしていたし、向かい合わせに抱かれていたので抱いている人の顔は判然としない。
 乳母役という説もあるのだが、生まれて間もない乳飲み子に授乳が可能だったかどうかも分からないし、乳母役の女性に直接聞くのもなんだか変な話だ。だから聞いていない。
 ただ、肌の感触は覚えている。
 どうも昔から、触覚が敏感であったらしい。
 
 両親がいなくなっても、5年ほど前までは仕事の関係で、なんだかんだとその女性とは行き来があったのだが
「私は赤子の頃、あなたに授乳されたことがあったでしょうか?」
 と改めて尋ねるのはどうも気恥ずかしいし、なんだか変な感じがする。
 僕は母親よりも、父の会社の従業員であったその女性にひどく懐いていたらしい。
 しかし視界もはっきりしない乳飲み子が、周囲からはっきりと分かるほど人の好き嫌いを発揮するとも思えない。
 
 いや、記憶があるくらいだから、何らか感じたりはしていたのだろうか。
 
 とにかく世界はいつも騒がしくて、眩しくて、不安だった。
 ちょうどいい加減の光と音のある、ほどよい狭さと温度の空間というのがあまりなくて、僕はよく体調を崩した。
 
 とにかくそのようなわけで、僕は僕の乳児の頃の記憶に始まり、あとは都合よくところどころの記憶を抹消したり復元して生きてきたから、飛び飛びの、ツギハギだらけの記憶しか持っていない。
 虚構の記憶を書き込むことだけは禁忌としていた(多重化して自分が困るから)けれど、何が災いしたのか、僕は、いまだに自分が何者なのか、よく分からないでいる。
 
 よく分からなくても「自分さがし」という旅行をしたことはない。
 お金もなかったし、時間もなかった。
 何より「そんなものは何をしても見つからない」と、なんとなく知っていたのだろう。
 
 それが僕であり、僕の人生であり、僕の主要な人格である。
 
 こうした特殊性は僕自身では判断がつかない。
 なぜなら僕はこれしか知らないからだ。
 この僕の、この人生しか知らない。
 
 他人の人生に、あまり興味を持たないようにしてきた、なんて書くと村上春樹さんの小説の登場人物のようだけれど、実際に、興味を持たないようにはしてきた。
 
 おそらく、誰しもすべての人は、その人特有のユニークさを持っていて、その意味で特殊なのだとは思う。
 ただ僕は、僕の人生や、家庭環境を説明するたび、面倒くさい気持ちになった。
 
 たとえば父親が事業に失敗したことや、多額の負債を抱えながら身障者になったこと、姉妹しかいないこと(5人中4人が女である)、両親が離婚して父親のもとで義務教育以前の3人は育てられ、上の2人の姉には空白の歴史があること、などなどだ。
 
 いずれも他者は反応に困るらしく、中には尋ねたことを謝るものもいる。
 謝るくらいなら最初から聞かないでほしい、とは思う。
 聞きたいことが聞けたのだから「教えてくれてありがとう」が正しいのではないかと、僕は今でも思っている。
 
 謝られたところで、僕は何の無礼を受けた覚えもない。
 痛みもないし、損失もない。
 とりあえず謝る、という文化はいかがなものかと、小学生の頃から首をかしげたり、頭をひねったりしていた。
 なんだか頸椎骨折しそうな勢いで。
 
 個人的には、姉妹と母親に囲まれて、女性ばかりで育った環境は、とても居心地が良かった。
 ときどき滑り台から妹に蹴り落とされたり、階段の上から妹に突き落とされたり、昼寝の最中に背中を思い切り妹に噛まれたりすることはあったが、だいたいみんな和やかで、休日の午後には集まってお茶を飲んだり、夕方には姉と母が集まって夕餉の支度をしたりしていた。台所の隣の部屋でTVのチャンネルが気に入らないからという理由で(まだ争いも始まらないうちから)リモコンで叩かれて泣いたりすることはあったけれど。
 いつものとおり加害者は妹である。
 
 父親しかいない生活も、楽しかった。
 昼も夜も働いて、不在がちだったから、門限もないし、眠る時間も決まっていなかった。
 オトナの為の深夜番組も見放題である。
 宿題を強制する人もいない。
 ただ夕食を作る人員も不足していたから、小学生の低学年から、僕は料理の作り方を(多少は教えてもらって、あとは本を読んで)学んだ。
 
 さんざんな失敗も多かったけれど、それさえ楽しかった。
 
 そのようなわけで、憐まれたり、謝られたりしても困るのだ。
 僕は僕の境遇の中で、楽しんで生きてきた。
 辛いこと(からいこと、ではない)がまったくなかったわけではない。
 1年間、宿題を1度もしなかったせいで、午前中ずっと立たされたりしたし、
 遠方にばかりいる親戚がまったく来なくなったせいでお年玉が存外少なかったりするのは本当につらかった。年明け、友達と買い物に出かけても、たいしたものが買えないのだ。
 それから、たしかに、甘えることのできる大人がどこにも、誰も居ないことを、寂しく感じた時期もあった。
 けれども、それはお年玉と一緒だから、ないものを悔やんでも仕方ないのだ。
 もしモノが相手でお金がない、ということなら、最悪万引きすることもできる。
(万引きは犯罪です。手元にないものは、手元の材料を使って作りましょう)
 が、母親がいないからといって、母親になってほしい感じの女性をどこからか適当に見繕って拉致してくるわけにもゆくまい。
(拉致も犯罪です。異性をユーワクするときは、節度をもって礼儀正しくしましょう)
 
 とにかく憐みの目で見られる覚えはないし、謝罪を受ける立場にもない。
 僕が宿題を全くしなかったのは、僕が片親の元で育てられたからではなくて、僕が宿題をしたくなくて、する意味を感じなかったからだ。
 実に、小学生の頃から授業中に寝ていたが、成績だけはトップクラスだった。欧米のような飛び級制度が日本にも欲しいと、7歳の頃から思っていたことよ(遠い目)。
 
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 ひるがえって、僕は、他者を哀れむこともできるのではある。
 やれ両親がそろっていては、さぞ家族関係がうるさかろう、とか、深夜にムフフなTVプログラムを観られなかったなんて可哀想、とか、自分好みの料理を完成させるヨロコビを知らないなんて、とか、道端に捨てられている猫を親の許可なしには飼えないとはなんと非人道的なのか、と。
 
 ちなみに僕は、学校に子猫を連れていって、担任に許可をもらって育てていた。
 大丈夫、子猫を連れて通学して、道中のクラスメイトに「家には誰もいないから、放っておけないんだ」と言えば、みんな猫の味方になって、僕より先に先生に報告に行く奴が出てくる。
 
 今になって振り返るに、あの頃、たくさんの猫を育てた。
 学校の生徒たちの間でも「青猫のところに捨て猫を持っていけば助けてもらえる」という噂があったようだし、事実、僕は親も教師も説き伏せることすらなく猫を育てることができた。
 
 ただ、病気に罹っていたり、すでに衰弱している子たちの一部は助けられなかった。
 でも悔やんでも仕方ないから、そういう子は、ときにみんなで、ときに1人で、どこかに埋葬したし、預かって数時間で死んでしまった子は、ビニル袋に入れて燃えるゴミに出したりもした。
 家の中でゴミ出しの係は、僕だった。
 
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 僕は自分を哀れんだことがない。
 だから、哀れまれても困る。
 だから、他人を哀れむこともない。
 ほら「同情するならカネをくれ」という名言もあるではないか。
 哀れみなんて、それを求めている人の役にしか立たない。
 もちろん勝手に哀れむのは構わない。
 哀れまれることを求めている人もいるだろう。
 けれど、そこに当然のように同調を求められるのは困る。
 私などは自分を哀れんでいなくて、哀れみを求めてもいないのだから。
 
 かくして(隠したわけではありません)僕は誰かの人生を根掘り葉掘り尋ねない。
 友人だろうと、恋人だろうと、親だろうと姉妹だろうと、関係なく尋ねない。
 もちろん、気になることがあれば尋ねるだろうけれど、僕はその人の「今」を知りたいし、なにより「感じ取りたい」と感じているようだ。
 
 知りたいと思って説明を受けるにしても、先に話したとおり、人それぞれの生い立ちはユニークで、こちらの感じ方だって独自であると理解している。
 両親がそろっている人は、片親の家庭に育った人を「哀れまなくてはならないもの」と思っているかもしれない。
 それと同じように、片親の家庭に育った人が、両親がそろっている人を哀れむことはおかしいのだろうか。
 羨むべきだろうか。哀れむべきだろうか。ワクワクして楽しいだろうか。しんみりして悲しいだろうか。
 感じ方に「あるべき姿」なんてあるだろうか。
 それぞれの理由で、感じたいように感じていてもよいではないか、よいではないか。
 
 知らされる情報は、どこまで客観的で精確だろうか。
 僕がここまでに書いた僕の記憶のすべてが、本当にほんとうのことだと、誰かの歓心を買うための茶番ではないと、誰に言えるだろうか。
 
 
 
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 昨年の11月から、立て続けに身の回りの人が死んだ。
 最初に伯父が、ついで会社の社長が(そのまま会社が解散して、僕は無職になった)、9月に遠方の伯母が、10月に介護をしていた伯母が。
 
 刑事ドラマや推理小説なら、間違いなく僕が捜査線上に浮かんできそうな勢いである。
 あるいは温泉旅館の歓迎看板に「江戸川コナン御一行様」と書かれているかのような。
 
 一年で、そんなにたくさんの身近な人が死ぬなんて、と、災害の少ないこの地方で暮らす弟子はいう。
 それも含めて稀なことで、希有な人生では、と。
 
 災害で、家業を辞めざるを得なくなった人や、一族郎党、あるいは自身さえ重篤な損害や障害を負うことになった人もいるかもしれない。
 そんな一年だった。
 
 望むものには与えられない。
 僕は死者がちょっとだけ、羨ましい。
 
 替われるものなら代わってやりたいくらいだけれど、僕は僕をしか生きられない。
 彼ら彼女たちが、己を生きて死ぬしかなかったように。
 
 同情も、哀れみも、必要だろうか?
 どんなカタチであれ、死は避けられない。
 せめても気高く、生きて死ねば、それでよいのではないだろうか。
 
 もっとも僕は、生まれも育ちも悪いので、ガールをたくさんたぶらかしたり、ついでに隠し子が出来ちゃったとか噂されたりするような、気高さのカケラもないような生き方で邁進しているわけですが。
 
 自力で材料から調達して、組み上げていかなければならないものが、たとえば教養だったり、品格だったり、矜持であったりするのかなぁ、と考えたりもするけれど、むつかしい話をすると背中がかゆくなってしまうので今日はやめておきたい。
 
 それに、昨日の続きではないが、そんなものを持っていたところで一円にもならない。
 一円にでもなる方が経済的で社会的だとされる世なのだから、まずは衣食が足りないといけないのだろうか。
 
::人を知るものは知あるなり、自ら知るものは明らかなり。
 人に勝つものは力有るなり、自ら勝つものは強きなり。
 足るを知るものは富み、強めて行うものは志有るなり。
 その所を失わざるものは久し。死してしかも亡びざるものは寿し。
 
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 10月に看取った伯母は、昨年からか「いずれまもなく死んでしまうのだし、ケセラセラで生きているの」なんて格好のいいことを言っていたが、カタチばかりで、他者を支配したいという欲求を最後まで手放せなかった人だった。
 死者を悪く言うのは(死人に口無しだから)人間社会では禁忌とされているようだが、あえて言おう。
 死んでもクズはクズだ。
 
 あるいはヒトはすべからく、そんな幼稚な欲さえもをいつまでもどこまでも捨てられないものなのだろうか。
(「も」をたくさん使ってみました、てへ♪)
 
 ならばワタシは、ヒト成分を捨ててしまったのだろうか。
 
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 はやくこの呪われた我が身が滅びますように。
 と思いつつも、放っておけばいずれ死ぬから気にしなくてもいいか、と思って今宵も日本酒など飲んでしまうのである。
 
 周囲の人が次々に死んで、僕は無職のまま、時折、人に呼ばれて仕事を手伝ってお小遣いを貰う。
 
 個人的には、もう当面は働かなくてもいいんじゃないかとは思っている。
 そう思うに至った経緯もそれなりに説明が面倒なので、今回はしない。多分、一生しないかもしれない。
 気がつけば僕は、分不相応な(むしろ不必要な)家で月の半分くらいを過ごし、数年前から住んでいるアパートで残りを過ごしている。
 
 弟子が「稀有な人ですよ、そんな人、僕の周りにはいません」という。
 僕も、僕以外に、こんなにぼんやりと生きている人を知らない。
 けれども僕は全知全能ではないし、全治前納でもない。
 だから、どこかにいて、知らないだけかもしれない。
 僕の知っているのは、僕の人生の、半分くらいのことだ。
 
 親のこともたいして知らないし、叔父や叔母のことだって、たいして知らない。
 他人のことは、知りたいと思う時もあったけれど、知ることはできないと思った。
 ただ、相手が伝えたいように伝えることを、なんとなく聞くくらいだ。
 自分から、根掘り葉掘りと身の上を尋ねるのはどうしても、僕にはできそうにない。
 父や母に対してすらそうだった。
 だから僕は、彼らがどこで生まれ、なぜ結婚して、僕を産み、離婚し、死んだのか、あまりよく知らない。
 
 僕は尋ねられれば答えるけれど、その答えをどれくらいの人が本当だと信じるか分からない。
 何せ僕は余命が20年を切っていることになっているし、隠し子がいる設定で、そのうえ種族同一性障害(実は猫だにゃー)を持っている設定になっている。
 さらに、この世界のシミュレート系の負荷を軽減するために与えられた属性として、ショートヘアで眼鏡を掛ける女性を好むという傾向まである。
 
 これが僕にとっての普通、なのだ。
 週休だいたい7日が僕の平凡、なのだ。
 
 もしも僕を狂人だと思う人がいても、僕はその人を非難できない。
 僕の感覚している僕の人生の、どこからどこまでが本当なのかなんて、当の僕自身にも分からないし、多くの人が自分の人生や自我の存在を信じられているとしたら、それはたいそうめでたい事だね、としか思えないのだから。
 
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20191212
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
三角系から面積を有します。
SUBTITLE:
~ Triangle little star. ~
Written by 青猫α

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 
星と星とを繋いで結んで
糸は途切れて人は迷って
流れ落ちても無重力
するりするりすり抜けてゆくよ幾光年

行きつ戻りつの夢物語は
遠く遠くに時々見えても
一人ひとりでひとたびひらりと
囲い過去見てゆるりと飛び交うの

キミのバランス平行棒から
ふわりふらりと肩より偏り
ボクのバランス床の上から
爪先立ちしてくるりと跳んでも
 
みるみる見る間に次の金平糖
黄黒ロープで囲って結んで
太陽風にも捕まらないまま
果ての果てしない場所へたどり着く

 

 
夜のむこうで朝にはなるけど
朝は無効で真っ暗闇
星と星とを繋いで結んで
結び目からほどけてゆく物語

寄せて返して貸して課しても
夢の中ではゆらりとつかめず
ひとり一人で火取り集めても
暗いくらいはむしろ心地よい

キミのヒトミの真っ暗闇から
トゲトゲしっぽの悪魔が出てきて
ボクの手のひらで伸びてみたなら
夜空を眺めて昼寝をしちゃうよ

くるくる来るなら白い雪の中
ふるふる降るなら黒い夜の中
すりすりするならキミの指の先
ねむねむ眠れる暗い朝の中で
 
 
 
重力井戸の底にまで降りて
汲んだ水を花壇に撒いて
いちばん星のまたたきを変えて
君のあこがれ刹那の白昼夢
 
ふわり積もった星屑も
ゆるくゆるく結び合った六角形
二人ふたりでふたたびふらりと
昨日見た夢ぽつりと語らうの
 
君の寝息は遠くゆらめく
聞こえるくらいの消え入る波から
僕のささやき遠くかすんで
闇の速さで夢に忍び込む
 
行きつ戻りつのうつつの世界は
近く近くにさわがしくても
二人ふたりでふたたびふらりと
見ない未来をゆるりと飛び交うの
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 工場内検索結果へのリンク。
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
 
[InterMethod]
 
[Module]
 
[Object]
  -Cat-Memory-Night-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
 
 
// NOTE:
 クリスマスであったことを、24日の夕刻、妹から届いたメールで知りました。
 年々、日ごと、ものごとがどうでもよくなってしまって、無力で無気力な自分に閉口してしまいます。
 並行しているどこかの僕は、お元気でしょうか。と、そんな気持ちにすらなってしまいます。
 この街はとても冬が寒くて、そして人々は山から吹き降りる風のように乾燥しています。
 きっと乾かしてしまうのでしょう。パサパサしています。パサパサです。
 それでも、もしも神様がいるなら、僕は少しだけお礼を言っておきたい。
 ただなかなかそれっぽいものを見ることがないので、いつも言いそびれてしまうのです。
 神様、今までありがとう。来年もよろしくね。
//EOF
 年末である。
 かれこれ9ヵ月ほど、働いていない。
 正確には「生活を維持するために、自分の意思が向かないときに経済活動に加担すること」をしていない。
 弟子には相変わらず心配されているが、今日も生きている。
 それに、気が向いたら経済活動に加担している。
 何ならお酒を飲んだりゲームをしたり、ガールとぱやぱやしたり、背中を撫でてもらったりしているかもしれない。
 いかんせん、天然モテ気質である。
 外見は衰えたから、むしろありがたいところか。

>>>

 経済活動を基準にした社会が、傾いているのは周囲のとおりだろう。
 経済、エコノミー、理財、マネー、キャッシュ、なんでもいい。
 単一の、唯一の、万能の、絶対的なリソース。
 その絶対的なリソースを血液にして稼働する永久機関。
 オソロシイことに、時間を買える。
 つまり。
 オソロシイことに、寿命を買える。
 つまり。
 オソロシイことに、人間を買える。

 オソロシイことに、秘匿されるべき情報も買える。もちろん、秘匿そのものさえ買えるかもしれない。秘匿されたなら、発見できるはずもないからワタクシのような朴念仁にいったい何を知ることができるだろう。

 たとえば私が畑を耕して、イモを作る。
 イモで家賃は払えない。
 イモで米と交換できない(ことも多い)。
 イモで寿命や他人の時間は買えない。
 イモは、いちど換金しないといけない。

 イモを作るのに、ボクが命がけになる機会があったとしたら、それはボクの寿命を削って交換することに等しい。
 ボクの寿命を削って、経済活動のループに上手に投げ込むと、コバンが手に入る。

 よいだろうか。
 つまり経済は、人命に等しい、のではない。
 もう、人命を超える価値を持ってしまった。
 最低賃金に法定最大勤務時間を掛けて、定年とされるまでの年数を掛けて240くらい(=2/3*365)を掛けると、だいたい私の減価償却価額が算出される。
 そしてそれは案外安くない。
 ボクはボクの命に、さほどの価値を見出していないから「僕が身も心も差し出す構えでタマシイを売り払った経済」が、驚くほど高く思える。
(実際のところ、悪魔にでも売った方がましだが)

 人間の命はカネではない?
 人間のタマシイは売ることができない?

 本当に?
 ねぇ。
 本当に、そう思ってるの?

 本当に、どんな金額のお金よりも人の命は価値があると、本当に、思ってるの?

>>>

 そんな言い訳を用意してキミの部屋に急ぐようにして、ボクは経済活動のレールを踏み外すことにした。大脱線。かまうもんかの大脱線。

 声の大きなヒトたちは、どういうわけか、フォロワを探している。
 自分の話を聞いて、同意して、納得して、評価して、感銘を受けて、吹聴して欲しいらしい。
 情報遺伝子としてのミームを拡散して、受精して胚になりうるナニカを探しているらしい。
 ついでにそれは「誰でもいい」らしい。

 受容体が反応するならば、それでミーム的にはオッケーである。
 大丈夫。痛くしないから。
 それに月経が止まったりもしない。
 先生やご両親にも叱られない。

 なぜならそれは情報遺伝子だから。

>>>

 声高に、強い調子で、あたかもそれが摂理であるかのごとく、ときに事実をねじ曲げてでも胚さえ作ることさえできるならそれでいい。
(べつに政治的なことを申し上げているわけではない)
「ほら、みんなしてることだから」的な感じで暗黙にそそのかす。

 たとえばそれが、常識として、私を凌辱する。
 あるいはしてきた。
 私が凌辱されるようにして、私が誰かを凌辱する。

「大丈夫、痛くしないから」
「ほら、みんなしてることだよ」
「当たり前のことすぎて、誰も気付かないよ」

>>>

 だいたいこのあたりで、僕のカラダはリアルに吐き気をもよおし始める。

 ワタシを道具に仕立てようとするもの。
 ワタシを捌け口に使おうとするもの。
 ワタシを凌辱して、膿んだミームを射ち撒けようとするもの。

 オソロシイ。
 なあにが正義だ。
 なあにが常識だ。

 そのようなことを、眠り続ける2ヵ月のうちに思ったのだったか。

>>>

 ゲームをしていると、多くのリソースがそこに登場する。
 いや、ソフトウェア的な意味ではない。
 ゲームとして構築されたプレイヤーキャラクタの存在する世界に、多くのリソースが存在していることが多い。

 そしてプレイヤは、なんとかして生きてゆく。
 そこにはさまざまなリソースが存在する。
 全てのものが、単一のリソースに支配されるような世界ではない。

 たとえばゴールドで村人が復活することがあるとしても。
 ゴールドだけでは手に入らないモノがある。

 ゴールドに交換可能な代替リソースも多く存在する。
 その方が、複雑にはなるが安定する。
 けれどもこの世は、それをしていない。
 単純で、一元化されたリソースのほうが、有利だったから。

>>>

 もちろん、もちろん。
 世の中はカネじゃない!
 なんてことが言いたいのではない。
 むしろ逆であることは自明なのに、キレイゴトで修飾して、謎の永久機関を動かそうとしているのはなぜ? と私は言っている。

 お金が嫌いなわけでもない。むしろ好きである。(だから、お金に支配されないようになりたい、と願って実行しているのだ)

 ただ、経済という永久機関を動かすためのリソースは、結局のところ、多数のニンゲンなのである。
 キカイノカラダ欲しさに機械惑星に行くようにして、タマシイをキカイに置き換える星なのである。
「キカイノカラダなんていらないよ!」鉄郎ならばかくも言ったであろうところで、私は言いたい。
「ボクはねこです」と。

 永久機関を動かすために、アレコレして、ミームを拡散して、胚を作って、歯車を育てて「君には生きる権利と義務があるんだ」と流布する。
 あるいはゴーカンする。

>>>

 ゆえにワタクシはゴーカンされることに疲れたので、ドロップアウトすることにしたのである。
 ゴーカンされるのもうんざりだし、ゴーカンするのもまっぴらゴメンであるから、基本的に口をつぐんでいる。

 もちろん。
 日々は楽しく過ぎてゆく。
 うつろう景色は毎日同じようであっても、ちょっとした観察眼を持とうとすれば、不思議と驚きに満ちている。

 それでもワタシはときどき疲れて死にたくなってしまうし、けれども妹が生きている限りは自殺できない様子だし(彼女はちょっとしたブラコンである)、仕方ないので生きているのである。

 特定の組織に属してはいないのだが、仕事を依頼されることがあって、煙草くらいは買える。
 なあに、フリーターのようなものである。

>>>

 余命は20年と踏んでいる。
 猫にしては長生きしすぎた。

 いわばセクシャルマイノリティならぬ、レイシャルマイノリティ。
 どうしてヒトビトは「私のカラダ(あるいは他者認識的性差)はコレジャナイ!」とは言うのに、
「私のカラダ(あるいは他者認識的種族)は人間じゃなくてねこだ! ねこなんだ!」と言わないのだろう。

 ボクはずっと長いあいだ、思っている。
「僕は、ねこのハズなんだけど……」と。

 なるほど。
 僕が「ねこ」として認められるには、ミームを拡散して、従者を増やして、そうした下僕どもに崇め奉られるしかないのである。

「嗚呼! 青猫様こそが真の猫的レイシャルマイノリティの始祖!」みたいに。

 猫的レイシャルマイノリティってなんだろうね。
 ボクにはよぐわがんにゃいのである。


// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20191210
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
トイレ掃除の話
SUBTITLE:
~ our rest room. ~
Written by 黒猫

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 飲食店で働いていた頃の名残だろう。
 汚れたトイレを見ると耐えられない。汚れたトイレで用を足すなんて考えたくない。
 結果、僕はトイレを掃除するのである。
 
 移動中に訪れたコンビニであろうと。
 オフ会の2次会くらいに寄ったカラオケ屋であろうと。
 最近恋人と同棲を始めたという友人の家であろうと。
 行きつけの吞み屋であろうと。
 僕はトイレを掃除する。
 
 結果として、僕がトイレから出るのは(「大」をしてたの?)というレベルに3を掛けたくらいの時間を要する。
 なぜといって、僕がこうした「アウェイのトイレ」を借用する場合、かなりの頻度で僕はトイレを掃除しているから。
 床が汚れていれば床も、洗面台が汚れていれば洗面台も、掃除しているから。
 
 水、トイレットペーパー、ペーパータオル、ハンディソープ、ラバーカップ、洗浄ブラシ、洗剤。
 だいたいこの程度があれば、完璧に綺麗にすることができる。
 そしてこれらはだいたい、目に付くところに備え付けられている。
 
 たいていひどく汚れているのは、コンビニとカラオケ、それに呑み屋である。
 定期的にトイレ掃除をするスタッフがあまりいないことが多いし、トイレ掃除をしたこともない人間もトイレを利用すると想像する。
 正直これを書いて想像を絶しているのだが、世の中にはトイレ掃除なんてしたことがない(汚しても綺麗にするなんて考えもしない)というオトナが、一定数はいるのである。
 しかしまぁ、そういう人たちはそういう人たちで、僕にとってはどうでもいい。
 トイレ掃除をしたことがあろうとなかろうと、公衆のトイレを掃除する意識のない人が利用し続ける限り、誰かが掃除をするそのときまでトイレは汚くなりつづけるのだ。
 そこには思想も、啓蒙も、理想も、観念も、意識も必要ない。
 他者を非難する必要も、己の行いを得意になって吹聴する必要もない。
 そこにあるのは汚れたトイレと清掃道具、そして自分だ。
 
 密室という小宇宙。
 何者の視線も監視も(多分)ないその空間で、己の心と向き合うのである(座禅か)。
 
>>>
 
 そのようなわけで(どのようなわけで?)僕はトイレを掃除してしまう。
 そこにはさまざまな汚れが付着していることが多いのではあるが、実際に掃除をしてみれば「汚したらすぐに落とせば一番ラクだ」という真理に気が付くだろう。
 換気扇掃除もそうだし、水回りの排水溝掃除もそうだ。
 汚れる前に掃除する。汚れたらすぐ掃除する。
 なんと簡単な事実を、僕は無視して生きているのかと、自問自答する。
 
 もちろん、ここだけの話、恥ずかしながらも(ポッ)、正直に言うと、文句を言いながら掃除をしている。
「汚したらすぐに落とせ(真理)」とか、
「なぜ俺が掃除をしなくてはならないのか(そこに汚れたトイレがあるからだ)」とか、
「トイレを汚してそのままで平気だなんて信じられない(と言うほどでもない)」とか。
 
 そして文句を言いながら(ああ、なんて心が狭いのだろう自分は)と思ったりする。
 だってしたくないなら掃除などしなければいいのだ。
 したくて掃除をしておいて、掃除をしない他人に文句を言っているのは、たいそう滑稽で狭量だとは思わないだろうか。
 
 たしかにたかだか排泄の問題である。
 用を足せればそれでいいのだ。
 道具の良し悪しなんて関係ない、といえばそのとおりかもしれない。
 汚れたトイレだろうと、清潔なトイレだろうと、排泄欲求と排泄行為の前に差はない、という人もいるだろう。
 
 しかし本当にそうだろうか。
 
 不潔で汚れたトイレで用を足すことに、恐怖感や嫌悪感はないだろうか。
 清潔なトイレで用を足すとき、満ち足りた安心感はないだろうか。
「排泄の用を足す」うえで、その両者は自分の精神衛生上になんらの差もないのだろうか。
 
 出せば終わりか。
 出せればそれでいいのかオマエたちは。
 そんな気にもなる。
 
 何でもいいのか、どこでもいいのか、誰でもいいのか。
 そういうオトコなのか。
 そんな台詞も(全然関係ないけれど)思い浮かぶ。
 
 いずれにしても下世話なことである。
 他人の下世話が気になるようになったら、いよいよ下世話であるから、己を省みるのである。
 
 公共のトイレを掃除するのは、そんなちょっとした小宇宙、自省の機会なのである。
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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  -おこと教室-:-ひとになったゆめをみる-
 
 
 
 
 
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660639483114132099254273472
ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ
480034641147320908572734 2
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//TimeLine:20190705
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
みとめたくないこと。
SUBTITLE:
~ Unseen something. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
190705

 潔癖症である。
 肉体的にも、精神的にも、倫理的にも、そう「だった」。

 流行の言葉で言うと、そういうのは「生きづらい」。

>>>

 ちょっとだけ(いつもどおり)脱線してここで感想を述べると、僕は「生きづらさ」とか「生きづらい」とかいう言葉が大嫌いである。
「生きる」のが簡単だとか思うなよバーロ! と思ってしまう。
 甘やかでぬるま湯みたいなあたたかい幻想世界の羊水に浸って産まれて来たのかこの能なしが! とついつい辛辣に罵りたくなってしまう。
 スズメだろうとメダカだろうとアメンボだろうとカラスだろうとゴキブリだろうとエノコログサだろうと、苦しい思いをして産まれてきて、時に飢え、時に凍え、時に病に伏し、あるいは自らの不注意で肉体を欠損し、あるいは他者の捕食やイタズラによって、肉体どころか命までも落とすことがあるのだから。
 なにが「生きづらさ」だ甘ったれんなバーロ! とついつい口汚く罵りたくなってしまうのである。
 誰にって、誰かに、ではない。その概念に、である。
(話すと長いから本筋に戻りたい)

>>>

 過敏症である。
 肉体的にも、精神的にも、そう「だった」ろうと思う。

 ガールとぱやぱやしていて、粘膜系が炎症を起こすなんてしょっちゅうで、つまり僕は「ぱやぱやが好きな青猫」を自分に植え込みでもしないと、ガールとぱやぱやする気になれなかった。皮膚接触だけでいいじゃないか! いいじゃないか!
 とついつい思ってしまって、言ってしまうかもしれない。
 しかし仮に、そんなことを言われたガールの気持ちを考えてもみるがいい。言えるかそんなこと。
 それにまぁ、炎症を起こさない、無害な、あるいはソフトなガールもいる。
 絶対にダメとは限らない。それにそういうのは、いつもはダメでも今日は大丈夫だよ(はぁと)とか、他の子はだめだけどキミはいいみたい。むしろキミじゃなきゃダメみたい(はぁと)みたいなこともあるわけで、本当に煩わしいと思いませんか?(口調が変)

 いや、粘膜だけでは済まされない。皮膚だって敏感だ。
 腕枕をガールにして(性行為の有無は関係ない)、腕の皮膚がただれたことが数回ある。
 爛れは完治まで数ヶ月に及び、表皮が裂け、体液が滲出し、痛くて痒くて仕方がなかった。
(以前書いたことがあるが、僕の身体で一番敏感なのが、腕である。もうこうなると、敏感どころか過敏であり、過敏を超えて異常だとさえ思える。だから誰にも言わずに過ごしている)

 音も、匂いも、光も、味も、触覚も。
 自身の体内の脈動さえ、本当に気に障った。
 どうしてもっとマイルドにならないものなのかと。
 意識しないでいられないのか。
 せめて、快適とはならなくてもいいから、気にならない方法はないのかと。

 敏感さは、そのまま、潔癖症にまっしぐら「だった」ように思う。
 過剰な精神的潔癖症は、独善をして他者を断罪しようとする。
 ほら、ネットニュースやY!公式ブログのコメントなどを見ていると「すごく正しいことを、ちょっと狂気的にまくし立てている感じ」の人がいるから、あんな感じだと思えばいい。
 僕自身は、ほほえましくそれを眺める。
「ああ、この人、自分の正義が重いだろうな。それとも、自分だけは例外にしているのかな。だとしたら欺瞞になるけれど、そのほうが生きやすいだろうから、最適化なんだろうな」なんて具合に。

 子どもの頃はそんな「生きづらさの補正」なんて思いつきもしなかったのだけれど、ある時期、思いついた。
 とにかく「嫌いなもの」が嫌いなのである。
 ならば好きになればいいのだ。許せるようになればいいのだ。
 頭ごなしに「これはダメだ」「これはいけない」「これは悪い」「これは気持ち悪い」なんて決めてしまっていることを、一度、考え直してはどうか、と。

>>>

 僕の精神的潔癖症は「嫌いなものの存在を許せないこと」に尽きる。
 坊主が憎いと袈裟どころか寺も仏も切り刻まんとする勢いである。アブナイ。
 寺まではまぁ、なんとかなるとして、仏はどうするのか。仏像だけならまだしも、ホンモノの仏様ともなれば、もはやそこは概念の領域。崇高にして真の安寧の待つ涅槃の世界。切れないし刻めない。
 もうそうなると、スーパーとかの床でダダをこねる2歳児よろしく、
「やだー! やだー! 坊主も仏も寺社仏閣もすべて焼き払われた清浄なる世界じゃないとやだー!!!」
 となってしまって何も手につかない。仕事も勉強も恋愛も食事も排泄も喫煙も入浴も睡眠も手につかない。とにかく憎くて呼吸も忘れそうな勢いで病的になってしまうのである。
 いや、それはさすがに言い過ぎか。
 まぁいいや、どうせ誰も読む人はいないし、いても黙っているし、だいたい空気を読むのが得意な人ばかりだから真に受けることもなかろうし。
 とにかく、病的になってしまうのは事実であるから、思考をあらため、行動を変え、習慣を作ることが大切なのではある。

>>>

 鈍感さ、というのはある程度までなら補正が可能だと僕は思っている。
 当時の僕は、自分が過敏だなんて考えなかったし、今だって「おまーらのほうが鈍感なんだかんな!」という気持ちがちょっとはある。
(敏感な方が優れている、という意味ではなく、基準を僕以外の誰かにするか、それとも僕にするか、という問題の帰結として)

 実際のところ、敏感さだって、潔癖症だって、補正はできる。
 ただ、補正後の最適化された自分の価値観や感覚をどこまで自分だと思えるかどうかは別の問題だ。
 さぞ「生きやすい」であろうそれは、もしかしたら、自分ではないかもしれない。

>>>

 嫌いな食べ物を極力減らした。
 嫌いだと思っているものを片っ端から食べて、アレルギー反応があるものだけを除外するようになった。

 嫌いな考え方を極力減らした。
 これはとにかく考え続けるしかない。
 自分が否定してしまう概念や感覚や理屈を、肯定する誰かがいるのである。
 ひたすら考えて訓練した。
 たとえばゴキブリが好きな人もいる。蜘蛛が好きな人もいる。
 かつての僕にとってそれは恐怖の対象であったけれど、慣れればクモなんて可愛い。
 ゴキブリも、あれはあれで益虫としての側面があるから、一概に害虫だと思うのはどうかと僕などは考える。
(風呂場に1匹飼っておくと便利だよ、ゴキブリ)

 原子力発電。自死。不純異性交遊。いじめ。搾取。
 よくよく考えて好きになれないこともあれば、よく考えもせず(いわゆる生理的に)嫌っていることもある。
 生き物を捕まえて殺して食べること。
(潔癖症の人は、ときどきこれがニガテで、僕もそうだった)
 生き物を、食べもしないのに捕まえて殺すこと。
(ゴキブリや蚊なら、みなさんもしていることでしょうけれど)

 ひとつひとつ、試して、実行して、自分を分析するしかない。
 考えは行動を、行動は習慣を作ることでもある。

 自分を汚していけば、そのぶん「キレイでない自分以外」を憎む必要はなくなる。
 汚れに浸っていけば、そのぶん「キレイでない自分」を恐れる必要もなくなる。

 汚れた自分を恐れるのか、それとも汚れそのものを憎むのか。
 方法はまちまちだけれど、物理的にも精神的にも、ある程度以上の許容を自分自身の思考によって生み出すことは可能だ。

 もし仮に、出来上がった「寛容な精神の持ち主」が自分ではなかったとしても。
 独善たる怒りの業火で誰かを勝手に成敗するような狂気の持ち主になるよりはマシではないか。

>>>

 おそらく他者をして「猫氏はさー、達観してるっていうかぁ、なんか他人事みたいにいうよね」と言わしめるのは、つまるところ僕が本来僕だと思っていた僕ではないからなのではないかと思ってみたり。わがんねーけどもよ。
 自分のことだって、そのくらい突き放して考えないと、とにかく潔癖症のままだとつらいのではあります。
 それでもときどき鬱状態になるのではあります。

>>>

 およそ15年ほど前に「栄養失調になるまで眠り続けた」のは、鬱病的なナニカだったのだろうとは薄々思っているのだけれど、あまり認めたくないのです。
 病院にだって行かないし、行かなかったし。行く気力なんてどこにもなかったし。
 性同一性障害かどうかなんて、考えたくもないのです。自分の性別なんて、肉体の部分はそれとして、心の性別なんてどうやって測定したり自覚したりするんだおまーら、と思ったりもするのです。

 果てに最近は、発達障害だのHSPだの、そんなレッテルを貼り付けて「自分はそれだと分かって安心した」とかいう感覚が理解できないのではあります。

(あの手の「マイノリティに病気としてのレッテルが作られました」的なニュースを見るたびに、私は恐怖します。
 仮に私がそうした「マイノリティ的気質」があったとして、あるいはそれを病院やカウンセリングなどによって改善できるとして。
 そんな壁をわざわざ作らないでくれる? みたいな気持ちになってしまうのです)

 だから私は、そんなものに自分が該当するかもしれないなんて考えたくもないのです。
 該当して、他者にそのレッテルを見せて、じゃあ何か変わるのかといったら、そんなものを期待するほどおバカちゃんではありたくないのです。

 壁がそこにあるだけで、嫌悪したり、忌避する人もいるし、あるいは興味本位に近づいてくる人もいるわけです。
 そんなリスクを考えると「私はなんでもなく、うすらぼにゃり(誤変換はわざと)しているイキモノです。取るに足りませんし、特別でもありませんし、はい」というレッテルを貼っていたい。うまく誤魔化していたい。どこまでも。

 たとえば「おまーらは鈍感で、オイラはちょっと敏感だけど、べつにたいしたことじゃないんだかんね?」くらいの気持ちでいいと思うのです。
 実際に、そう思って生きている。

 だからたとえば「おまーのそのイデオロギィは気に入らないんだけんども、まぁ、でもそういうのもあるよね。それも含めておまーのことは嫌いというわけでもないし」くらいの、なんていうか、いわゆるボーダレスな考え方があってもよいのではないかと思うし、僕はだいたいのことについてそう思っているし、そう思っていないと自分の首が絞まるというか。

 自分の感覚を、もっとちゃんと信じていればいいじゃないですか、と思ってしまうのです。
 まぁ、わかるんですよ、マイノリティに分類されるとか、潔癖症だとか、長生きできなさそうなタイプだとか、精神病んでそうだと思われるとか。
 でもそんなに異常じゃない、と自分では思いたい。
 ありふれてるし、一般的だ、と言い張りたい。

 もちろん、もちろん。

 マイノリティに分類されがちな僕以外の誰かをして「えー? 変わってるねぇ」なんて思いもしないし言いもしない。
「ふうん、そういう人、いるよね」くらいにしか思わないのだ、僕は。

>>>

 久しぶりに入浴。
 ひと月くらい前に入浴した際は、血圧と脈拍が対応できなかったようで、風呂場でしばらく昏倒していたが、今回は大丈夫。

 意味不明の(かつ予兆のない)嘔吐や(おなじく予兆を無視した)下痢もほとんどなくなった。
(どのくらい予兆がないかというと、おかゆを口に含もうとスプーンを運んだ瞬間には胃袋方面からのおかゆがやってきているレベル。吐き気サンに仕事をして頂きたいとあれほど思ったこともない)

 足の裏の水疱はほとんど消えて、皮膚も徐々に以前のやわらかさを取り戻しつつある。

 ただ予期せぬ嘔吐が怖くて、外出ができずにいた。
 食事も、ときどき、まだ怖いときがある。

 しかし、K氏や弟子は心配している。
 特に弟子は、放っておくと僕が自死など気にも留めていないことをよく知っているからだ。
「職安に行って貧血起こして帰ってくるくらいなら、どうせだから生活保護とか受ければいいんじゃないですか」などと、冗談とも本気ともつかないことを、多分本気で言っている。

 鬱状態も抜けつつある気がするし、完全なる引きこもりも、そろそろ終わりにしなくてはならない。

 私のカラダは、よく分からないことばかりだ。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

[ Traffics ]

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に--月夜の井戸端会議-:Webストリートを見おろして



//EOF
 GWとやらの最終日から、体調がおかしい。
 最初は風邪かと思ったのだが、3週間にもなって、熱もないのに(おかゆすら食べていないのに)急な嘔吐が起こったりする。

 尿の色もただごとではないので、先日、なんとか体調を整え、病院に行って血液を抜いてもらった。
 医者は、ストレスのせいかもしれないとは言うが、この程度の心理的/肉体的ストレスは5年ほど前から抱えて生きている気がする。

 いまだに、食事ができない日があるから、食事は体調を探りつつ、おっかなびっくりである。
 強制排出されるときは仕方ないとは思うけれど、あれはあれで体力を消耗する。

 本来的に、こういうときはまったく食欲がないので、白湯を日に4L近く飲んで、ときどきおかゆで塩分を摂ってしのぐ。
 掌蹠膿疱みたいなものが左足にできるのも初めてだし、こういう体調不良は生まれて初めてではないだろうか。
 食事をして1時間ほどあとには、昏睡するように意識が朦朧とするし、筋肉が衰えていることもあるかもしれないが、とにかく身体が重くて動かせないときもある。
(体重はまだ10kg程度は減っても問題ないと思うが)

 腎臓や肝臓の機能低下なのかもしれないので、服薬は最低限(おなじみの、LDLを下げる薬だけ)にしている。
 3週間も、酒と煙草から離れているとは驚きで、今日は夜な夜な、元気になったときのために、シガーの調湿をした。

 死について、特に不安はない。
 ただ、葬儀の手続きなどをきちんと書面で残しておこうと思う。
(あれはあると便利だから)

 昨年から、急死したり、急死しかける人が、僕の周りに3人いた。
 人間は、ほんとうに急死したりするのだ。とくに僕のような先天的な体質異常を抱える者は可能性がおのずと増えることになる。

 オフラインの書面に何かを書くことに、強いストレスをまだ感じる。
 これは本能的な忌避だから放っておいて、必要なことは書いておこう。

 僕が死んで悲しむ人は数名知っているが、喜ぶ人はあまりいないように記憶している。
 もっともずっと前から僕はこのブログの更新状況を(勝手にRSSで拾わないかぎり)読めないようにしている。
 たしかファン登録とか、オトモダチ登録などがあったように思うが、すべて解除したり拒否してある(と思う)。

 誰かに読んで欲しくて(あるいは読ませるために)書いているわけではない。
 誰かに心配されたいから記録するわけでもない。
 でも読みたいという希有な人も一部にはいるかもしれないし、消息不明で不安になる人もいるだろう。

 生きているかぎりは、何かを書くだろうし、僕がWebに何かを書くときは、青猫工場の名が冠される決まりになっている。
 たぶん死ぬまで変えないルールだ。
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180521
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ディスコミュなら幸せ。
SUBTITLE:
~ Discommunication is my life. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 勤務先の社長が亡くなったのは、およそ2ヶ月前のことだ。
 社員が僕しかいないという、きわめて特殊な環境下だったけれど、役員でもある彼の奥様の決定で即日僕は仕事を失い、会社は解散のための手続きに入った。

 この2ヶ月間の僕は、だいたいぼんやりと過ごしていた。
 久しぶりにうんざりするくらいゲームをすることができたし、人に頼まれて接客業のバイト(他者からすると、接客業スキルが高い、らしい)をして脱水症状を起こして身体を壊し、療養中だったりもしている。
 Kさんや弟子から、ときどき電話が来る。
(Kさんは私をその「接客業のバイト」に誘い込んだ張本人なのである。僕が退職してのちも、そのようなわけでKさんとはやりとりが続いている)

 ほとんど引きこもりなので、買い物も1週間以上出かけていない。
 最後に誰かと会話をしたのは、およそ1週間前だろうと推測する。
 資本主義社会の一員として考えると、もはや「何もしていない人」に該当する。
 弟子など、心配のあまり就職口を見つけて連絡してくれるほどである(その電話は無視したが)。

 体調が悪かったこともあり(なにせ、お粥すら消化できない日が続いた)家の中は洞窟のようになっている。鍾乳石が上から下から伸びていたとして不思議はない。

 カーテンを閉め切って眠り続けて、目覚めたらゲームをして、空腹になったらお粥を作って(たいていは30分程度でなんらかの身体反応により排出して)、消化するのにとても体力を使うようで、放っておくと異常なほどの睡魔が襲ってくるので眠る。
 昼も夜も関係ないし、季節も、曜日も、あまり関係ない。
 こんな暮らしがしたかったといったら、まぁ、さすがに言い過ぎかもしれないが、けっして悪い気はしない。

 子どもの頃から、誰もいないで一人きりの世界にあこがれていた。

 もちろん(おそらくは残念なことに)僕の周りにはまだ幾人か、僕のことを記憶し(身勝手に)気に掛ける類の人間が存在する。
 特に妹は、僕がこの世を先に去ることを悪魔に誓って許さないだろう(おそろしや)。
 面倒だけれど、もう少し、生きなくてはならないらしい。

 ちょうどよく体重が減ってきたので、体調を整えながら、明日あたりは病院に行こう、と思って1週間が経つ。

>>>

 ずっと眠っていると、いくつかのしがらみのようなものが、自分の中で瓦解する。
 僕はそれを「忘れる」と表記するけれど、実のところ、一般認識の「忘れる」よりは「思い出さない」に近いのかもしれない。
 記憶はそこにあって、思い出すことはできるのだけれど、その記憶に執着しないし、反射的にその記憶を反芻することもない。
 人間の多くは、記憶に縛られて生きているし、記憶がその人の人格を形作る大きな要因だろうから、その意味で、眠り続けるだけで不要な価値観を取捨選択できるのは大変ありがたい機能である。
 もっとも最低でも3ヶ月は俗世との縁を切り離さなくてはならないので、たいていの人は無理だろう。僕自身も無理をしていると思う。
 ただ、こうしていると、自分の生きる意味や、他人の存在の価値について考えることができる。しかも冷静に。

 そういう意味では、誰しも、半年くらいディスコミュのために山に籠もったりすればいいのだ。
 観光客が邪魔だから、ものすごく辺鄙な場所に行くか、自宅付近の公園で野宿し続けるのもいいだろう。
 お金があるならホテルでカンヅメ、という手もあるし、家族がいなければ自宅警備員に徹すればいいし、家族がいるなら別宅を借りればいい。
 半年も独りで過ごすのは、とても贅沢な経験だ。体調がよければなおさらだが、体調が悪くても、よしんば眠り続けていても、貴重な経験だろう。
 可能であれば、携帯電話は(壊したくない場合は)電子レンジや冷蔵庫に入れてしまうといいだろう。固定電話は(壊したくない場合は)プラグを抜いて、押し入れにでもしまい込もう。
 インタフォンの電源を落として、あとはとりあえず眠るだけだ。簡単だ。クマでもできそうだ。
 もちろん、たいていの人はしないだろうしできないだろう。
 でも僕はそれをしたいし、できるし、している。
 さすがに電話は(一部の人が心配するので)電源を入れて、必要に応じてあとで掛けている。すぐに出たりしない。面倒だから。

 あ、そうそう。自分や他人の、意味や価値だった。

 極論を言ってしまえば、まったくもって意味も価値もない。
 今日、たった今、すべてやめてしまってもいいではないか。と思う。
 ちょうど5階に棲んでいる。友人や恋人は極力減らした。
 僕の棲んでいる場所は、実は、妹も知らないのである(必要なときはこちらから出向くから問題ない)。

 ただ、まぁ、自死を選択する強い動機はない(あれは絶望とかをはじめとした、強い動機を必要とする)のでこうして粥が煮えるまで、日記を書こうと思い立った。
(僕は努めてぼんやりのんびりしているので、いろいろなことに動機を持たない)

 そろそろ履歴書を作るか悩んでいるのだが、我が家にはプリンタがない。かくも書くのも面倒なことである。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]
  -Generator-

[Object]
  -Human-
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[Cat-Ego-Lies]





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//TimeLine:20190521
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
肉が裂ければ血が流れる。
 
SUBTITLE:
~ My blood may be your pain. ~
Written by 赤猫
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 自分が痛みを感じているときにこそ、他の誰かの痛みに敏感であれ。
 いつだったか、そんな言葉がどこからか生まれて、僕の中に居着いてしまった。
 
 四苦八苦のおよそすべてについて、だから、他人がそれを語るときには自分の体験したそれになぞらえて、僕は僕の話を『しなかった』。
 なぜといって、他人の苦しみに対して、自分の経験と対策を語ったところで何の役にも立たないから。
 苦しみは固有で、痛みは個別だ。
 だから他人の痛みなんて誰にも分からない。
 僕の痛みが誰にも分からないように、僕に悩みを打ち明ける誰かの痛みは、僕には分からない。
 分かったフリをすることはとても簡単なことだったけれど、それを僕はしたくなかった。
 なぜといって、そんな演技をする人間は意識的にであれ無意識にであれ、その演技に見合うだけの出演料を求めているものだし、顕在的にであれ潜在的にであれ、同じ痛みをこじらせているから。
 
 他人をそんなふうに利用するのは、相手に対しても失礼だし、自分の首も、最終的には絞めることになる。
 救われないのはお互い様で、だから、誰かの痛みや苦しみは自分の痛みや苦しみでもあり、それと同時に、鉄の檻に入れておくべき、伝染病を持った猛獣のようなものでもある。
 興味を持つのは仕方ないかも知れないが、必要以上に近づいてはいけないし、自分の檻も、他人の檻も、みだりに開けるものではない。
 噛まれた感染者は、必ず次の感染者を作ろうとするから。
 
 僕の話はいつも抽象的で、他人事のようだ。
 僕は人からそう指摘されるまで、まったく自分で意識もしていなかった。
 でも、そう。
 自分の話なんて、したくない。
 理解されもしない話をして、同情や理解を求めるなんて、まったくどうかしていると思う。
 あるいは仮に、理解を集めたとして、一体何になるのだろう。
 シンパシーを感じる誰かがいると、一体何だというのだろう。
 
 ただ記憶と経験と、そこから抽出した法則性はある。
 だから僕は注意深く、自分の記憶や経験を取り除く習慣がついてしまった。
 まるで古めかしい外科医が体内の不要な部位を鋭利なメスで切除するように。
 結果的に、僕の思考をフィルタすると、僕自身の話がまるで他人事になる。
 仕方ない。
 僕自身にとっての話は、僕自身の中で大切に、いつまでも、保管され、抽出されて、朽ちてゆく。
 枝葉の記憶や、僕自身のエゴを語って何になるだろう。
 
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 そのようなわけで他人の痛みや苦しみについて、適切な距離を持って、なおかつ自分の話にすり替えることもなく適切なアドバイスができたり、あるいは取り返しのつかないような古疵であるならばそれはそれで上手に聞く能力を持つ人に対して、単純に敬意を持ってしまう。
 そしてその一方で自分が痛みを感じているときに、猛威を振るうタイプの、手負いの獣のような「人間」が多い様相を観察するにつれ、大げさではなく、僕は疲れていった。
 自分が痛みを感じているときに誰かの痛みを慮るなんて、おそらく多くの場合は無理なのだ。
 たとえそれが、有用で現実的な現実逃避の一つの手段であったとしても。
 現実的でない現実逃避が、現実を壊滅させることがたとえあるにしても(たとえば妄執や現実世界の生活の放棄など)、それでも理性を失ったように、彼ら/彼女たちは自分の傷について吠え立てる。
 
 個人的な理想や姿勢という意味で持つぶんには意味もあるだろうけれど、他人に期待すべくもない。
 他者は、いつもどこか獣じみている。
 社会も同様で、たとえば資本主義社会であろうと共産主義社会であろうと、咀嚼する肉を探す獣の群れには変わりない。
 自分の肉や、血や、牙や、骨にしか関心のない生き物たち。
 痛みの一過性を、どうして学ばないのだろう。
 
 彼ら/彼女たちは、子どもの頃に学ばなかったのだろうか。
 あるいは母親に、教わらなかったろうか。
 
 無論、僕は教わらなかった。
 自分で見つけたのだけれど、そうした一般論は、はたしてどこまで「他人事のよう」で「現実世界で何の役にも立たない」のだろう。
 
 自分という獣を自分からある程度の距離に切り離しておくことは、そこまで奇異で愚図なことだろうか。
 単に己の理性を失う獣の数が、そうでない者よりも多いという、たったそれだけの事象に根ざしているようにも思える。
 よく分からない。
 
 
 
 
 

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