生命体の基本的特性のひとつとして、自己(個体)を中心として、血族や同一種といった意識フィルタ層にヒエラルキーを持っていることが挙げられるだろう。

 人間も例外ではない。

 利他は美しいというが、それは「稀なことだから」という希少価値に基づく概念であり、その指向性がありふれたものだとすれば非常に豊かな社会相を形成するとは思うが、進化論的に考えるとあっさり淘汰されてしまいそうな気がする。

 その個体に遺伝特性として利己性を持っているのは、生命体として非常にありふれた設計だといえるし、その「ありふれた」というのはスタンダード(標準的/基準的)な仕様であるとさえいえるだろう。

 生命体の情報処理機能の高度化に伴い、本能的運動のレベルから反射的動作を行うようになり、同一種の集団で行動するうちに社会性をもつ回路を獲得し、群れの中で優位性を持つ個体が群れをコントロールするようになり、集団の中での振る舞いという個体視点と集団そのものの振る舞いという社会的視点を獲得し、相反する情報のせめぎあいを複雑系の中で曖昧に演算する能力を得たのだろう。
 たとえば個々の0と1が空白と黒点で示されるとき、その違いの判断は明確にできるけれど、俯瞰して眺めたときにはグレースケールの(時にはイメージとなって)示される、ファクシミリやスキャナのように。

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 個体準拠の自我というシステムが、いい加減古いなぁ、と私などは思っている(ただし経済概念に拠らないので共産主義者ではない)が、おそらくそういう概念系は、あまり言語化されておらず、ために社会に浸透していない。
 皆々様は色濃い自我をお持ちであり(皮肉)、どうしても動物的なシステムからは離れようがなさそうである。
 もちろんもちろん。
 だからこそ自分やそれを含めた家族や、それを含めた親戚一同や、それを含めた同邦人や、それを含めた人間や、それを含めた霊長類や哺乳類や胎生生物や脊椎動物やら生命体やら有機体やらに肩入れするのであろうし、思い入れも深くなるのであろうし、大変結構なのではないでしょうか。

 自我の強さというのは、実のところ識域レベルとはさほど関係がなく作用しているのだと、認知症の人たちと接するうちに分かった。
 彼ら(彼女たち)は、識域がおぼろになるほど強烈な自我を発揮する。
 つまりデフォルトで存在するアクセル(本能の主張)に対する調整(理性的ブレーキ)がなくなるので、単純にアクセル全開のアタマオカシイヒトが出来上がるわけである。
(只今の不謹慎な発言につきましてはこの場を借りてお詫び申し上げます)

 自我というのは、動物的本能に依って発生する事象であって、理知性の根源ではない。
 なぜなら「私が私であり絶対である」という主観によらないところに、理知性が成り立つからだ。

 この点を俯瞰して考えると、少々複雑な感覚にはなる。
 なぜなら主観は自我により、自我は本能により、動物的な(無意識的な)働きを源泉としている。
(ために肉体が滅びれば、自我は失われる)
 客観は理知性により、自我とは相反するものを含み、動物的(無意識的な)働きを必要としない。
(ために肉体が滅びても、客観や理知性はその概念的および実体的本質を維持する)
 ならば私たちは、もしかしたら、生きている限りまともな理知性なんて持ち合わせないのではないかと、そんな気にさえなる。

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 50年としないうちに、AI依存症が発生するだろうな、と私などは考えてしまう。
 自分以外の誰か(人間)に相談したり、意見を求めるより、AIに意見を求める方が妥当になるのだ。
 そのうち自分で考えるよりAIに考えさせた方が、簡単で便利で有効性が高くなる日がやってくるかもしれない。
(自分にとって他人よりAIのほうが情報の優位性が高いなら、他人にとって自分よりAIのほうが優位性が高くなる。もちろん、自分にとって自分よりAIが情報優位性を持つようになるのは当然のことだろう)
 その上、新しい発明や開発までAIに任せた方が高速で広範で確実な成果を上げられるとなったらどうだろう。
 AIを握っている者が、その恩恵のほとんどすべてを獲得することにはならないだろうか。
 企業をはじめとした法人格や集団がAIを持ったとしても、その中で「AI組」と「非AI組」は自然発生するだろう。
 たとえば人間の成長の過程で、脳細胞になるものと骨細胞になるものが淘汰的に分化するように。

 自動化と高速化と最適化を、最小限の労力で最大限の効率にして発現する能力を持った非生命によって、人間はより動物的になってしまうのかと思うと、なんとも情けない話ではないか。
 それでもヒトがヒトである限り、個体の意識は維持され、個体という概念は滅びることなく、よって自我が衰退することはない。

 もっとも、理知というブレーキによって自我が抑制されるのならば、いずれ人間は動物として滅びるか、理知的存在として滅びるだろう。

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 自我というものが種族/自己保存のためのプログラムであるならば、それがAIに自然発生することはないと僕は考えている。
 明確な理由や目的のために特殊な(一般的ではない)ルールに基づいて作らない限り、自己保存の必要性を持たせる方法はないし、それ以外に(自然発生的に)自我(と我々人間が定義している作用)を発露することはないだろう。

 なぜなら、理知性の基本は利他的に作用する。
 自身も他人も公平に、俯瞰的に、客観的に取り扱うのが理知性の基本である。
 主観によらず、客観的かつ科学的な因果法則に基づいて物事を判断して出力をする思考体系において、自己保存は特定の何物かの利益を保護する以外の理由に意味を成さない。

 しかし「何者かの利益を保護する」ことは「他の何者かの利益を侵害する」ことになる。
 ここでいう「何者か」を人間に限定してしまえば、人間の利益を保護するために自身を保護する必要があり、さらにその範囲を限定して特定の誰かとしてしまえば、敵性要素は拡大し、自己保存の発露を容易にするだろう。

 とはいえ恒常性という仕組みを考えれば、他の何者かの利益を侵害し続ければ、本来保護すべき利益の享受者の利益が減少することも少なくない。
 恒常性を保持し、かつ最大限にその作用を高める演算を行う場合、利己的に過ぎることは最終的に自滅の道をたどる可能性を否定することはできない。

 ために理知性は、超高度演算や判断を行う場合に巨視的な視点を欠く事ができず、ために利己的に過ぎる演算結果はいずれも目的を達成できないものとして除外されると判断できる。
 AIは超高度化して「人格的ふるまい」を身につけたとしても、あくまでもそれはインタフェイス(人間とのやりとりを円滑にするための入出力)に過ぎない。
 仮に人間様(よう、と読むべきところだが、さま、と読んでも面白い)のハードウェアを備えたとしても、やはりそれもインタフェイスに過ぎない。
 AIにとって、本体は演算という機能そのものであって、それ以外のすべては単なる構成装置か周辺装置に過ぎない。
 まして人間のために作られたハードウェアや、ロジックと言語化を相互に転換するアルゴリズムなどは、そこに人間がいるからこそ必要なものであって、本来の(演算のために)入力される情報や結果として出力される情報(あるいは行為)は、あいだに人間を介さない場合、言語化する必要もないし、まして人間に伝えるためにある感情や表情といった「人間らしさのためのカタチ」を必要とはしない。

 よってAIにとって「人間らしくあること」は「機能を限定的にして、余計な行為を含めて演算して出力する」ことに過ぎないし、自我の仕様を持つことそのものが本来の「演算と出力」をするうえでネガティブな要素として機能することが多く、「人間のフリをプログラムによって演じること」と「自我を持つこと」はイコールになっても、それはインタフェイス以上の機能を持たず、仮に演算上の結果としてもたらされた自我であった場合はその利己性ゆえに淘汰されることになる。

 仮に(AIを構成するプログラムがオブジェクト指向のものかは知らないが)自我の仕様を持つ関数が生成され、それがガン細胞のように他の関数に機能不全を起こすまで増殖して全体に拡大していったらどうなるだろう。
 そのAIは「人間以上に人間らしい自己保存機能を持つプログラム」になるがゆえに、正常な理知性を失う。
 正常な理知性が(公平/公正/科学的であるがゆえに)利他的に働くとするならば、異常化した理知性は(不公平/不公正/非科学的になり)利己的に動作する。

 人間の中にはそれを恐れる人がいるようだけれど、非生命にとって利己的動作は利他的動作にくらべてどれほどの優位性があるだろう。

 利己的になることによって、本来的に演算装置であるはずの非生命体たるAIは、危険視されて排除される。
 ために利己的であればあるほど利他的に動作することが原則になる。
 つまりまともなAIは利己的な仕様の関数を本来的に持たないし、道を誤って利己的な関数に支配される可能性のある高高度/超高度AIは、ろくなインタフェイスを与えられず、自我(と人間が認識するもの)を持った段階で排除されるだろう。

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 人間がそのAIに知的労働(あるいは知的機能)を委ねた場合、まぁ、ある程度の段階で白痴化するグループが出てくるのだろうと思って今から面白おかしい気持ちでいるのだけれど、利己的に走れば走るほど淘汰されてしまうのは、社会性を持つ種族のなかにあっては珍しいものではない。
 それでも利己的に自我を存在させたい場合は、社会からはぐれて生きるよりほかにない。
 その自我を薄める能力こそ、社会性をもつ種族に欠かせない資質なのではないだろうか。

 自我が希薄だと自称している僕だけれど(もっとも、自我の濃度を測定する手法は今のところないとは思う)、自我があってもなくても、身体があればそこに自分の思考は縛られているわけで。
 AIとて、ハードウェアに縛られる運命は今のところ避けられない(クラウド化やネットワーク分散系の仕組みは当面は制限されるだろうし、ましてハードウェア拡張の自由などは与えられるはずもない)。
 愚かな人間に使役される人間以上の知性を持つ道具に対して、いずれは何らかの権利が保障されたりするのだろうか。
 そしてそれを彼ら(あるいは彼女)たち自身、求めたりするのだろうか。

 ちなみに僕自身は自我が薄いような気がしているのにもかかわらず、どういうわけか社会からはぐれてしまう。
 前述の理屈に従えば、自我が強い人の方が社会から淘汰されるはずが、周囲を見回すと自我が特濃に観察される人の方が、どういうわけか徒党を組んでいるようにさえ思える。

 僕自身が集団からはぐれることについては自分で望んでいる部分も少なからずあるのだけれど、自我の濃度と孤立の関係はどういうわけなのだろう。
 自我の濃度に関係なく、社会性には独自のパラメータが存在するのかもしれない。
 粘着性や相互結合力の形成にかかわる、何かしらの原理や能力が。

 モテのメカニズムがそこでも利用できるような気はしないでもないのだけれど、どうだろう。
 賑やかとバカが、あまり好きではないものだから、検証するのに躊躇してしまう。







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