哲学的な話かもしれないが、人間は、認識できる以上のことを理解できない。
逆説的に、人間が理解できることは認識できることに限られる。
何を当たり前のことを、という人がいる一方で、おそらく意味が理解できない人もいる。
すなわちその人にとって、上記の一文が認識できないことを意味する。
だって、認識できないというのは、感覚できないに等しくて、感覚できない事は理解のしようもない。
たとえば不可視光線だって、虚数だって、超音波だって、巨大素数だって、ひも理論(string theory)だって、量子論だって、相対性理論だって、それを現在持ちうる感覚器におよそでも感覚を投影できる人がそれを理解していることになる。
感覚をイメージするというのがそもそも不可能だと思っている人もいるかもしれないが、広義的なオナニー(自慰行為)はそのほとんどが感覚をイメージして成立しているし、狭義のオナニー(性的自慰)だって感覚をイメージして成り立つ部分が多いはず。
ゆえに純粋な巨大な数(数であって、個数であるとか数量であるとかではない、純粋な数という概念)や、不可視光線やその影響(たとえば赤外線は熱的作用を多く発生させ、紫外線は遺伝子や分子といった科学的反応を多く発生させる)、不可聴音(蛍光灯の音は、聞こえない人は聞こえないけれど、あれも不可聴音域なのだろうか)も、人間の五感に当てはめたり、あるいはその感覚を拡張させた延長線上にイメージすることで「感覚」できるようになる。
感覚の延長線上とは、たとえばオシロスコープのように音を視覚化してもいいし、光を演算式として理解してもいいし、素数を皮膚感覚的にイメージしてもいい(小さい素数はちくちくして、大きい素数はなだらかな丘のように感覚するとか。意味が分からない?)。
ちなみに僕は、ある日とつぜん三角関数を理解したわりに、いまだに虚数が感覚できません(ゆえに無理解)。
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普遍的な真実真理があるとして(たとえば科学的事実であるとか、数学的真理であるとか)、しかしそれをどれだけの人が理解できるのかということを僕はいつも気にしている。
なぜなら「理解できることは認識できることに限られる」とするならば、理解できない事は認識されてないことになる。
科学的なことに限ったものではない。
人間の本質であるかのごとく、まるでそれが当たり前の公式化している人を見かけないだろうか。
僕などはかなりの割合で「理解できない範囲に存在しているナニか」として取り扱われるので、いうなれば被害者である。
被害者の会を結成して訴訟に持ち込みたいくらい、被害者である。
たとえばゴキブリが嫌いな人がいる。
なぜといって、ゴキブリが理解できない存在だからだ。
見たくもないし調べたくもない。その気持ちは分からないではない。
でも僕はゴキブリを調べる。
彼らはとてもたくましくて、生命力が強い。
ために人間に害のある菌類にも強く、にもかかわらず人間の食品も餌にしてしまう。
動きや形態に嫌悪感を覚える人もいるようで、どちらが先に生まれた感情なのかは分からない。
(衛生被害が先か、心理被害が先か、ということ。そのあたりは自分の胸に手を当ててよーく考えていただくしかない)
一時期、裏山からゴキブリが一匹迷い込み、風呂場に住み着いたことがある。
どうなったかというと、掃除がすごくしやすくなった。
なぜかといって、彼らは人間の老廃物も毛髪も食べてしまう。
お風呂の排水口なんて、彼らにとっては食糧倉庫のようなものだ。
結果として、カビすら発生しにくくなる。
ユニットバスの浴槽の、目隠し板の裏側が、どんなふうになっているか、僕は一度(30秒くらい)考えたことがある(そしてそれ以上考えるのが恐ろしくなって、以降試したことはない)。
それさえ彼(あるいは彼女)は綺麗にしてくれた(と思う)。
なぜなら糞と思しきものがときおり排水溝に流れてくるから。
油脂性のものを食糧にしているゴキブリの糞は水では流れ落ちないが、水溶性の食糧による糞は水で簡単に流せる。
石鹸カスもおそらく食糧化した。
よって、浴室が、以前より清潔になったのである。
迷い込んだのは一匹だけで繁殖もしない。
僕はシャンプーやリンスは使わず、石鹸だけだから彼らにほとんど害がない。
(塩素系漂白剤による洗浄も、カビが生えなくなったのでほとんど使わなくなった)
まさにWIN-WINの関係。
このような経験から僕はゴキブリが好きになった、というようなことはまったくなくて、しかしその一方で、一概に「害虫だ」とする意見には少々抵抗を感じてしまうのである。おそらく理解できないとは思うが。
ここまで極端な例ではなくとも、同じ人間同士で、現在の自分には理解できない人間や集団に(理解できないという理由で)嫌悪感を感じ、だからこそ(嫌悪しているからこそ)理解する意思を持たず、理解しないという決意を固め、それゆえに認識しない(無視したり、非難したりする)人たちがいて、そういう人は存外に多い。
なので僕は、そういう「嫌悪=忌避=無視=無理解」が等号的に心理/行動として連鎖発露するのかなぁ、と考えたりするし、それは動物的なプログラムとしてあながち間違ってはいないのかもしれないなぁ、とは思うのである。いかんせん原始的で動物的であるとも思うが。
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なに、僕が人間らしくて博愛主義的で博識でオープンマインドで健全であるから皆の者は私を敬え! 褒め讃えよ! などとはこれっぽっちも思っていない。
そんな意図で書いているわけではないのだ。
第一、僕は猫だし。
それに玄関で恋人を押し倒すくらいには野蛮だし。
ついでに隠し子がいる噂が絶えないし。(なぜなら定期的に自分で流布するから)
ただ、恐ろしいのである。
理解できないことを、理解しようとしない人たちがいることが。
理解しようとしないことは、すなわち理解する能力の欠如をもたらす。
なぜなら理解しなくても問題ない、という潜在的な事実をその当人の認識世界の中で強化するから。
そりゃそうだよ。
なにも理解しなくたって生きていけるよ、この国は。
そういう目的で作られているし、そういう目的を果たすようにできている。
そういう国を求める限り、そういう国であり続けるわけだし。
政治も福祉もアウトソーシングされていて、ケチをつけるだけでとりあえず何かしているような気分になるように作られている。
とても安直に。
理解しない方が強くいられる(強い立場を構築/維持できる)、そんな場面さえある。
(少なくとも僕の身の回りには「わかならいよ!」と威張る人間が少々いる)
ために僕は自身のことを「理解していない事はないだろうか、理解できるのに、理解できないと思い込んでいることはないだろうか」と心配し、臆病になるのである。
感覚できないものは理解されない。
理解できないものは、認識されなくなってしまう。
認識されないものは、つまるところ、存在しないものとして扱われてしまう。
存在の価値を失い、あるいは存在を無視される。
他者に感覚されず、理解されず、認識されないという、たったそれだけの理由で。
たとえばあなたにとって、不可視光線や、相対性理論や、量子力学や、波動方程式や、ゴキブリが理解できないのと同じように、誰かの趣味嗜好や性的自意識や人生哲学が理解できないとする。
そうするとそれは理解できないから認識できず、存在しない事になってしまう。
私以外の誰がどうしようと、それはそれで構わないと、以前は思っていた。
でもおそろしいことに。
この世界で僕以外は僕以外のイキモノなのだ。
構わないなんて思っていたら、大変なことになるのは自分の方なのだと、先月、気がついてえらく慌ててしまった。
もちろん理解されたいとは、やはり積極的には思えない。
けれども、理解したいという気持ちを理解できるようでありたいと思うし、もしも理解できない人がいるのだとしたら、その「拡張されない感覚」をうまく延長させて、イメージにつなげたい。
そういう気持ちを、いろんな人が、持てるような時代が、いつか来るだろうか。
情報過多で傲慢な白痴から、人類が脱却できるその日は。
[要修正]
