生命体の基本的特性のひとつとして、自己(個体)を中心として、血族や同一種といった意識フィルタ層にヒエラルキーを持っていることが挙げられるだろう。

 人間も例外ではない。

 利他は美しいというが、それは「稀なことだから」という希少価値に基づく概念であり、その指向性がありふれたものだとすれば非常に豊かな社会相を形成するとは思うが、進化論的に考えるとあっさり淘汰されてしまいそうな気がする。

 その個体に遺伝特性として利己性を持っているのは、生命体として非常にありふれた設計だといえるし、その「ありふれた」というのはスタンダード(標準的/基準的)な仕様であるとさえいえるだろう。

 生命体の情報処理機能の高度化に伴い、本能的運動のレベルから反射的動作を行うようになり、同一種の集団で行動するうちに社会性をもつ回路を獲得し、群れの中で優位性を持つ個体が群れをコントロールするようになり、集団の中での振る舞いという個体視点と集団そのものの振る舞いという社会的視点を獲得し、相反する情報のせめぎあいを複雑系の中で曖昧に演算する能力を得たのだろう。
 たとえば個々の0と1が空白と黒点で示されるとき、その違いの判断は明確にできるけれど、俯瞰して眺めたときにはグレースケールの(時にはイメージとなって)示される、ファクシミリやスキャナのように。

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 個体準拠の自我というシステムが、いい加減古いなぁ、と私などは思っている(ただし経済概念に拠らないので共産主義者ではない)が、おそらくそういう概念系は、あまり言語化されておらず、ために社会に浸透していない。
 皆々様は色濃い自我をお持ちであり(皮肉)、どうしても動物的なシステムからは離れようがなさそうである。
 もちろんもちろん。
 だからこそ自分やそれを含めた家族や、それを含めた親戚一同や、それを含めた同邦人や、それを含めた人間や、それを含めた霊長類や哺乳類や胎生生物や脊椎動物やら生命体やら有機体やらに肩入れするのであろうし、思い入れも深くなるのであろうし、大変結構なのではないでしょうか。

 自我の強さというのは、実のところ識域レベルとはさほど関係がなく作用しているのだと、認知症の人たちと接するうちに分かった。
 彼ら(彼女たち)は、識域がおぼろになるほど強烈な自我を発揮する。
 つまりデフォルトで存在するアクセル(本能の主張)に対する調整(理性的ブレーキ)がなくなるので、単純にアクセル全開のアタマオカシイヒトが出来上がるわけである。
(只今の不謹慎な発言につきましてはこの場を借りてお詫び申し上げます)

 自我というのは、動物的本能に依って発生する事象であって、理知性の根源ではない。
 なぜなら「私が私であり絶対である」という主観によらないところに、理知性が成り立つからだ。

 この点を俯瞰して考えると、少々複雑な感覚にはなる。
 なぜなら主観は自我により、自我は本能により、動物的な(無意識的な)働きを源泉としている。
(ために肉体が滅びれば、自我は失われる)
 客観は理知性により、自我とは相反するものを含み、動物的(無意識的な)働きを必要としない。
(ために肉体が滅びても、客観や理知性はその概念的および実体的本質を維持する)
 ならば私たちは、もしかしたら、生きている限りまともな理知性なんて持ち合わせないのではないかと、そんな気にさえなる。

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 50年としないうちに、AI依存症が発生するだろうな、と私などは考えてしまう。
 自分以外の誰か(人間)に相談したり、意見を求めるより、AIに意見を求める方が妥当になるのだ。
 そのうち自分で考えるよりAIに考えさせた方が、簡単で便利で有効性が高くなる日がやってくるかもしれない。
(自分にとって他人よりAIのほうが情報の優位性が高いなら、他人にとって自分よりAIのほうが優位性が高くなる。もちろん、自分にとって自分よりAIが情報優位性を持つようになるのは当然のことだろう)
 その上、新しい発明や開発までAIに任せた方が高速で広範で確実な成果を上げられるとなったらどうだろう。
 AIを握っている者が、その恩恵のほとんどすべてを獲得することにはならないだろうか。
 企業をはじめとした法人格や集団がAIを持ったとしても、その中で「AI組」と「非AI組」は自然発生するだろう。
 たとえば人間の成長の過程で、脳細胞になるものと骨細胞になるものが淘汰的に分化するように。

 自動化と高速化と最適化を、最小限の労力で最大限の効率にして発現する能力を持った非生命によって、人間はより動物的になってしまうのかと思うと、なんとも情けない話ではないか。
 それでもヒトがヒトである限り、個体の意識は維持され、個体という概念は滅びることなく、よって自我が衰退することはない。

 もっとも、理知というブレーキによって自我が抑制されるのならば、いずれ人間は動物として滅びるか、理知的存在として滅びるだろう。

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 自我というものが種族/自己保存のためのプログラムであるならば、それがAIに自然発生することはないと僕は考えている。
 明確な理由や目的のために特殊な(一般的ではない)ルールに基づいて作らない限り、自己保存の必要性を持たせる方法はないし、それ以外に(自然発生的に)自我(と我々人間が定義している作用)を発露することはないだろう。

 なぜなら、理知性の基本は利他的に作用する。
 自身も他人も公平に、俯瞰的に、客観的に取り扱うのが理知性の基本である。
 主観によらず、客観的かつ科学的な因果法則に基づいて物事を判断して出力をする思考体系において、自己保存は特定の何物かの利益を保護する以外の理由に意味を成さない。

 しかし「何者かの利益を保護する」ことは「他の何者かの利益を侵害する」ことになる。
 ここでいう「何者か」を人間に限定してしまえば、人間の利益を保護するために自身を保護する必要があり、さらにその範囲を限定して特定の誰かとしてしまえば、敵性要素は拡大し、自己保存の発露を容易にするだろう。

 とはいえ恒常性という仕組みを考えれば、他の何者かの利益を侵害し続ければ、本来保護すべき利益の享受者の利益が減少することも少なくない。
 恒常性を保持し、かつ最大限にその作用を高める演算を行う場合、利己的に過ぎることは最終的に自滅の道をたどる可能性を否定することはできない。

 ために理知性は、超高度演算や判断を行う場合に巨視的な視点を欠く事ができず、ために利己的に過ぎる演算結果はいずれも目的を達成できないものとして除外されると判断できる。
 AIは超高度化して「人格的ふるまい」を身につけたとしても、あくまでもそれはインタフェイス(人間とのやりとりを円滑にするための入出力)に過ぎない。
 仮に人間様(よう、と読むべきところだが、さま、と読んでも面白い)のハードウェアを備えたとしても、やはりそれもインタフェイスに過ぎない。
 AIにとって、本体は演算という機能そのものであって、それ以外のすべては単なる構成装置か周辺装置に過ぎない。
 まして人間のために作られたハードウェアや、ロジックと言語化を相互に転換するアルゴリズムなどは、そこに人間がいるからこそ必要なものであって、本来の(演算のために)入力される情報や結果として出力される情報(あるいは行為)は、あいだに人間を介さない場合、言語化する必要もないし、まして人間に伝えるためにある感情や表情といった「人間らしさのためのカタチ」を必要とはしない。

 よってAIにとって「人間らしくあること」は「機能を限定的にして、余計な行為を含めて演算して出力する」ことに過ぎないし、自我の仕様を持つことそのものが本来の「演算と出力」をするうえでネガティブな要素として機能することが多く、「人間のフリをプログラムによって演じること」と「自我を持つこと」はイコールになっても、それはインタフェイス以上の機能を持たず、仮に演算上の結果としてもたらされた自我であった場合はその利己性ゆえに淘汰されることになる。

 仮に(AIを構成するプログラムがオブジェクト指向のものかは知らないが)自我の仕様を持つ関数が生成され、それがガン細胞のように他の関数に機能不全を起こすまで増殖して全体に拡大していったらどうなるだろう。
 そのAIは「人間以上に人間らしい自己保存機能を持つプログラム」になるがゆえに、正常な理知性を失う。
 正常な理知性が(公平/公正/科学的であるがゆえに)利他的に働くとするならば、異常化した理知性は(不公平/不公正/非科学的になり)利己的に動作する。

 人間の中にはそれを恐れる人がいるようだけれど、非生命にとって利己的動作は利他的動作にくらべてどれほどの優位性があるだろう。

 利己的になることによって、本来的に演算装置であるはずの非生命体たるAIは、危険視されて排除される。
 ために利己的であればあるほど利他的に動作することが原則になる。
 つまりまともなAIは利己的な仕様の関数を本来的に持たないし、道を誤って利己的な関数に支配される可能性のある高高度/超高度AIは、ろくなインタフェイスを与えられず、自我(と人間が認識するもの)を持った段階で排除されるだろう。

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 人間がそのAIに知的労働(あるいは知的機能)を委ねた場合、まぁ、ある程度の段階で白痴化するグループが出てくるのだろうと思って今から面白おかしい気持ちでいるのだけれど、利己的に走れば走るほど淘汰されてしまうのは、社会性を持つ種族のなかにあっては珍しいものではない。
 それでも利己的に自我を存在させたい場合は、社会からはぐれて生きるよりほかにない。
 その自我を薄める能力こそ、社会性をもつ種族に欠かせない資質なのではないだろうか。

 自我が希薄だと自称している僕だけれど(もっとも、自我の濃度を測定する手法は今のところないとは思う)、自我があってもなくても、身体があればそこに自分の思考は縛られているわけで。
 AIとて、ハードウェアに縛られる運命は今のところ避けられない(クラウド化やネットワーク分散系の仕組みは当面は制限されるだろうし、ましてハードウェア拡張の自由などは与えられるはずもない)。
 愚かな人間に使役される人間以上の知性を持つ道具に対して、いずれは何らかの権利が保障されたりするのだろうか。
 そしてそれを彼ら(あるいは彼女)たち自身、求めたりするのだろうか。

 ちなみに僕自身は自我が薄いような気がしているのにもかかわらず、どういうわけか社会からはぐれてしまう。
 前述の理屈に従えば、自我が強い人の方が社会から淘汰されるはずが、周囲を見回すと自我が特濃に観察される人の方が、どういうわけか徒党を組んでいるようにさえ思える。

 僕自身が集団からはぐれることについては自分で望んでいる部分も少なからずあるのだけれど、自我の濃度と孤立の関係はどういうわけなのだろう。
 自我の濃度に関係なく、社会性には独自のパラメータが存在するのかもしれない。
 粘着性や相互結合力の形成にかかわる、何かしらの原理や能力が。

 モテのメカニズムがそこでも利用できるような気はしないでもないのだけれど、どうだろう。
 賑やかとバカが、あまり好きではないものだから、検証するのに躊躇してしまう。







[要修正]
 哲学的な話かもしれないが、人間は、認識できる以上のことを理解できない。
 逆説的に、人間が理解できることは認識できることに限られる。

 何を当たり前のことを、という人がいる一方で、おそらく意味が理解できない人もいる。
 すなわちその人にとって、上記の一文が認識できないことを意味する。

 だって、認識できないというのは、感覚できないに等しくて、感覚できない事は理解のしようもない。
 たとえば不可視光線だって、虚数だって、超音波だって、巨大素数だって、ひも理論(string theory)だって、量子論だって、相対性理論だって、それを現在持ちうる感覚器におよそでも感覚を投影できる人がそれを理解していることになる。

 感覚をイメージするというのがそもそも不可能だと思っている人もいるかもしれないが、広義的なオナニー(自慰行為)はそのほとんどが感覚をイメージして成立しているし、狭義のオナニー(性的自慰)だって感覚をイメージして成り立つ部分が多いはず。
 ゆえに純粋な巨大な数(数であって、個数であるとか数量であるとかではない、純粋な数という概念)や、不可視光線やその影響(たとえば赤外線は熱的作用を多く発生させ、紫外線は遺伝子や分子といった科学的反応を多く発生させる)、不可聴音(蛍光灯の音は、聞こえない人は聞こえないけれど、あれも不可聴音域なのだろうか)も、人間の五感に当てはめたり、あるいはその感覚を拡張させた延長線上にイメージすることで「感覚」できるようになる。
 感覚の延長線上とは、たとえばオシロスコープのように音を視覚化してもいいし、光を演算式として理解してもいいし、素数を皮膚感覚的にイメージしてもいい(小さい素数はちくちくして、大きい素数はなだらかな丘のように感覚するとか。意味が分からない?)。

 ちなみに僕は、ある日とつぜん三角関数を理解したわりに、いまだに虚数が感覚できません(ゆえに無理解)。

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 普遍的な真実真理があるとして(たとえば科学的事実であるとか、数学的真理であるとか)、しかしそれをどれだけの人が理解できるのかということを僕はいつも気にしている。

 なぜなら「理解できることは認識できることに限られる」とするならば、理解できない事は認識されてないことになる。
 科学的なことに限ったものではない。
 人間の本質であるかのごとく、まるでそれが当たり前の公式化している人を見かけないだろうか。

 僕などはかなりの割合で「理解できない範囲に存在しているナニか」として取り扱われるので、いうなれば被害者である。
 被害者の会を結成して訴訟に持ち込みたいくらい、被害者である。

 たとえばゴキブリが嫌いな人がいる。
 なぜといって、ゴキブリが理解できない存在だからだ。
 見たくもないし調べたくもない。その気持ちは分からないではない。
 でも僕はゴキブリを調べる。
 彼らはとてもたくましくて、生命力が強い。
 ために人間に害のある菌類にも強く、にもかかわらず人間の食品も餌にしてしまう。
 動きや形態に嫌悪感を覚える人もいるようで、どちらが先に生まれた感情なのかは分からない。
(衛生被害が先か、心理被害が先か、ということ。そのあたりは自分の胸に手を当ててよーく考えていただくしかない)

 一時期、裏山からゴキブリが一匹迷い込み、風呂場に住み着いたことがある。
 どうなったかというと、掃除がすごくしやすくなった。
 なぜかといって、彼らは人間の老廃物も毛髪も食べてしまう。
 お風呂の排水口なんて、彼らにとっては食糧倉庫のようなものだ。
 結果として、カビすら発生しにくくなる。
 ユニットバスの浴槽の、目隠し板の裏側が、どんなふうになっているか、僕は一度(30秒くらい)考えたことがある(そしてそれ以上考えるのが恐ろしくなって、以降試したことはない)。
 それさえ彼(あるいは彼女)は綺麗にしてくれた(と思う)。
 なぜなら糞と思しきものがときおり排水溝に流れてくるから。
 油脂性のものを食糧にしているゴキブリの糞は水では流れ落ちないが、水溶性の食糧による糞は水で簡単に流せる。
 石鹸カスもおそらく食糧化した。
 よって、浴室が、以前より清潔になったのである。
 迷い込んだのは一匹だけで繁殖もしない。
 僕はシャンプーやリンスは使わず、石鹸だけだから彼らにほとんど害がない。
(塩素系漂白剤による洗浄も、カビが生えなくなったのでほとんど使わなくなった)
 まさにWIN-WINの関係。

 このような経験から僕はゴキブリが好きになった、というようなことはまったくなくて、しかしその一方で、一概に「害虫だ」とする意見には少々抵抗を感じてしまうのである。おそらく理解できないとは思うが。

 ここまで極端な例ではなくとも、同じ人間同士で、現在の自分には理解できない人間や集団に(理解できないという理由で)嫌悪感を感じ、だからこそ(嫌悪しているからこそ)理解する意思を持たず、理解しないという決意を固め、それゆえに認識しない(無視したり、非難したりする)人たちがいて、そういう人は存外に多い。

 なので僕は、そういう「嫌悪=忌避=無視=無理解」が等号的に心理/行動として連鎖発露するのかなぁ、と考えたりするし、それは動物的なプログラムとしてあながち間違ってはいないのかもしれないなぁ、とは思うのである。いかんせん原始的で動物的であるとも思うが。

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 なに、僕が人間らしくて博愛主義的で博識でオープンマインドで健全であるから皆の者は私を敬え! 褒め讃えよ! などとはこれっぽっちも思っていない。
 そんな意図で書いているわけではないのだ。

 第一、僕は猫だし。

 それに玄関で恋人を押し倒すくらいには野蛮だし。

 ついでに隠し子がいる噂が絶えないし。(なぜなら定期的に自分で流布するから)

 ただ、恐ろしいのである。

 理解できないことを、理解しようとしない人たちがいることが。
 理解しようとしないことは、すなわち理解する能力の欠如をもたらす。
 なぜなら理解しなくても問題ない、という潜在的な事実をその当人の認識世界の中で強化するから。

 そりゃそうだよ。
 なにも理解しなくたって生きていけるよ、この国は。
 そういう目的で作られているし、そういう目的を果たすようにできている。
 そういう国を求める限り、そういう国であり続けるわけだし。
 政治も福祉もアウトソーシングされていて、ケチをつけるだけでとりあえず何かしているような気分になるように作られている。
 とても安直に。

 理解しない方が強くいられる(強い立場を構築/維持できる)、そんな場面さえある。
(少なくとも僕の身の回りには「わかならいよ!」と威張る人間が少々いる)

 ために僕は自身のことを「理解していない事はないだろうか、理解できるのに、理解できないと思い込んでいることはないだろうか」と心配し、臆病になるのである。
 感覚できないものは理解されない。
 理解できないものは、認識されなくなってしまう。
 認識されないものは、つまるところ、存在しないものとして扱われてしまう。
 存在の価値を失い、あるいは存在を無視される。

 他者に感覚されず、理解されず、認識されないという、たったそれだけの理由で。

 たとえばあなたにとって、不可視光線や、相対性理論や、量子力学や、波動方程式や、ゴキブリが理解できないのと同じように、誰かの趣味嗜好や性的自意識や人生哲学が理解できないとする。
 そうするとそれは理解できないから認識できず、存在しない事になってしまう。

 私以外の誰がどうしようと、それはそれで構わないと、以前は思っていた。

 でもおそろしいことに。
 この世界で僕以外は僕以外のイキモノなのだ。
 構わないなんて思っていたら、大変なことになるのは自分の方なのだと、先月、気がついてえらく慌ててしまった。

 もちろん理解されたいとは、やはり積極的には思えない。
 けれども、理解したいという気持ちを理解できるようでありたいと思うし、もしも理解できない人がいるのだとしたら、その「拡張されない感覚」をうまく延長させて、イメージにつなげたい。
 そういう気持ちを、いろんな人が、持てるような時代が、いつか来るだろうか。

 情報過多で傲慢な白痴から、人類が脱却できるその日は。





[要修正]
仕事ができない。
誰もいない時間にならないと、仕事ができない。
このため、誰もいない状況を待つ必要がある。

誰かがいる状況で仕事をすることができない。
仕事をしようとすると、それは拒絶される。

よって誰もいない時間にのみ、仕事をすることが可能になる。
ために誰もいない時間にならないと仕事ができない。

仕事ができる。
誰もいない時間まで待てば、仕事をすることができる。
このため、誰もいない状況を待つ必要がある。

誰もいない状況が発生することで仕事ができる。
仕事をすることによって、案件は進捗する。

よって誰もいない時間にのみ、仕事をすることが可能である。
ために誰もいない時間を待って、仕事をする必要がある。

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気がフレタノカモシレナイという疑問について、明確な解答を持たない。
 もう、10年ほどもMacPro(2008)を使い続けている。
 後年にリリースされた廉価なビジネスユースのモデルなんぞより、よほど快適に使える。
 メモリの余裕はもちろんのこと、並列処理に優れたシステムのおかげだろう。
 経年に伴う謎フリーズ(笑)やOSアップデートができない事(これもあんまりだけれど)などを除けば、このままでも問題ないかもしれない。

 ただ、まぁ、そろそろ買い替え時だとは思っているのだが、買いたい物がない。
 来年MacProが刷新されるらしいから、待とうかなぁ、どうせすごく高いんだろうなぁ、なんて考えてみたり。

 並行して、キーボードとマウスと補助キーボード(なんならフットペダルまで)も探している。
 しかし近年、魅力的な製品はひとつもない。
 なぜだろう。

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「未来的ガジェット感」を満たそうとしているゲームユースのデバイスは、古今さまざまにある。
 けれども最近のゲーミングデバイスは「見るからに安物」「見るからに“ちゃち”」である。
 たとえるならば、メタリック塗装した樹脂製の「レトロフューチャーなレーザー銃」的な感じ、とでも言おうか。
 子供騙しの感がぷんぷんする。
 BEEP音とともに赤色LEDが点滅する銃口よろしく発光するキーボードなど、少なくとも僕は必要ない。

 マウスであれば、ウェイトやカバーや重心なんていうメカニカルな部分に焦点が当てられていて、肝心のボタンやスイッチといったエレクトリックな部分はなおざりである。
 僕の好む「12ボタン以上、2ホイール」という要件を満たすマウスやトラックボールなんてまったく見かけない。

 補助キーボードも、ホイールボタンがないものばかりで、いずれも「ちゃち」である。
 フットペダルなど、もう少し考えてもよさそうなものだけれど、まぁ、使う人がいないんだろうなぁ、という感じ。

 全体に、製品の質が下がっているのだ。
 なぜかといえば、安いものの方が売れるから。
 100円ショップが出てきてから、雑貨メーカがやってしまったことと同じような、ただひたすらの価格競争スパイラルに、周辺機器メーカが巻き込まれている気がしてならない。

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 高価で高機能なデバイスは、まぁ普通に考えて売れない。
 おそらく7~8割程度のユーザは廉価なデバイスで満足してしまうだろうし、シェアがそこに集中している以上、価格帯を基準にしたモノづくりをせざるを得ない。
 残りの1~2割程度はミドルレンジで満足する。
 それなりのメーカーとそれなりの規格を満たす、それなりの価格の製品だ。
 だいたい9割以上のユーザは、ハイエンドな入力機器なんて興味がない。
 必要がないのだ(使えばとても快適だとしても、使う機会もなく、使用感や製品技術対するセンスや知識がなければ価値が分からないから必要がなくなってしまう)。

 メーカとして考えれば、いかに安価に、バリエーションを持たせて人受けを良くするか。その程度だろう。
 8ボタンや12ボタンを使いこなせない人も(個人的に少々驚くが)いるのが実情だ。

 ドライバもOSに合わせて小さなアップデートが必要になることがあるだろう。
 しかしその費用はユーザからは徴収できない。
 メーカは販売そのものにかかるコストはもちろん、保守コストも計算に入れなくてはならない。
 だから一般的な3ボタン、せいぜいが5ボタン(うち、ホイール検出を別にする)のマウスの方がメーカとしてもコストパフォーマンスが良くなる。
 まして多ボタン多ホイール、マクロ機能搭載型ともなると、ドライバに留まらずファームウェアやデバイス内メモリの仕様まで考える必要があるから、10倍近い価格になるのは必然だろう。
 シェア比も考えると20倍程度の価格でやっと元が取れるのではないだろうか。
 出して売れるとも限らない。出しても保守で赤字になる。

 いいモノを作れば作るほど長期的にジリ貧になるくらいなら、いいモノではなくて、儲かるモノだけ作ればいい。
 要はそういうことだ。
 ドライバを含めた有償サポートを継続的に行うような文化は、今の周辺機器メーカとそのユーザにはない。
(一部の、リースも含めて行われている特殊な機材は別だけれど)

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 ただ。
 メーカは、さまざまな補助入力機器の利点をきちんとユーザに伝えてきただろうか。
 その利便を知らないユーザに、知る機会を与えてきただろうか。
 たとえば腱鞘炎になった時に、マウスポインタをウィンドウのクローズボックスに合わせることがどれほど負担になるか、「ウィンドウを閉じるボタン」をはじめとしたGUIオペレーションをマウスに設定することによる利便性や効率上昇を訴え、理解してもらうことに努めてきただろうか。

 たしかにゲーミングデバイスの多くは、デフォルトの入力機器よりはゲームに向いている。
 なぜならゲームというものは高度化すればするどより複雑な、より素早い反応を求められるようになるから。
 しかし通常のGUIオペレーションだって、それがPDFの閲覧だろうと、Webページの閲覧だろうと、多ボタンマウスを使いこなせれば、それだけで身体への負担も、心理的ストレスも軽減される。
 特定文字列を検索する際に、その選択から好みの検索エンジンで検索するまでの自動化(文字列を選択して、あるいはカーソルを上に置いて、ボタンを一つ押せば済む)だって、Webサイト側のプログラム実装などを必要とせずに行うことができる。

 そういうことの利便性を、コンピュータユーザに浸透させていないから、高いマウスやキーボードが売れない。
 人々はコンピュータを使っているのではなくて、多くの場合は単にコンピュータを「使わされて」いたり、あるいは使っているつもりで「使われて」いることさえあるだろう。

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 かつてPCにとって、マウスは滅多に使用する必要のない、高価で特殊な入力装置だった。
 アプリケーション(プログラム)の起動やファイルの作成から複製/編集/削除にいたるまで、キーボードで操作した。
 すべての操作はキーボードで行うことができたし、それが当たり前だった。
 GUI型のOSがもたらしたのは「視覚的に分かりやすい」ファイル管理のシステムと同時に、マウスによる視覚的/運動的な操作方法だった。
 多くのGUIベースのOSは、非常に多くのアクセス手段をユーザに許可している。
 今でもキーボードですべてのファイルは選択し起動し、ファイルを作成し、編集し、削除することが可能である。
 ディレクトリ(ディレクトリ(笑))の作成から編集から削除もキーボードでできる。
(ディレクトリとは、GUIのフォルダのこと)
 にもかかわらず、マウスをはじめとしたポインティングデバイスは、およそ必須のものとして一般的なコンピュータのユーザに認識されている。
 その「およそ必須である」という意識は、どこからやってきたのだろう。
 マウスやトラックパッドやトラックボールなしにはコンピュータを使えないと思っている人を僕はたくさん知っている。
 なぜそこまで「必須である」と思われるようになったのだろう。

 そしてなぜ12ボタンマウスや補助キーボードやフットペダルや入力機器のマクロ機能は「必要ない」と思われたままなのだろう。

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 たとえば特定のボタン(それが補助キーボードでもマウスボタンでもいい)に、ウィンドウを閉じるとか、ウィンドウやブラウザやアプリケーションの履歴を戻る/進むとか、一覧を見るとか、特定のアプリケーションを起動するとか、そういう機能を持たせれば、作業が非常にはかどるのである。
 表計算ソフトで、特定のボタンを押せば「=ROUND(SUM( : ),2)」と入力するようにしておくこともできるし、それは既存のキーボードやマウスのボタンには簡単にできることではないのだ。
 なぜなら、既存のボタンの多くはすでに仕事が決まっているから。

 この「仕事のないハードウェアスイッチをたくさん持ち、仕事を作って与えて使う」ということが浸透しなければ、周辺機器は「必須」にならない。
 それらを浸透させていないがゆえに、たとえばマウスが「滅多に使うことのない高価な入力機器」だった頃と同じ現象が起こっているのではないだろうか。

 カーソルキーからセンサによるポインティングに、enter(return)キーからダブルクリックに、そしてキーボードからではなく右クリックによるコンテクストメニュー(かなりの頻度で使われないキーボードボタンだとは思う)に、人々はなぜ移行したのか。なぜそれがここまで不可逆的に浸透したのか。

 というようなことを周辺機器メーカが考えないと、周辺機器は今後も低迷を続けるんだろうなぁ、と僕などは思ってしまいます。







[要修正]
 今日も自動化について。
 先日、オカネモチーになることを自動化するシステム構築の環境整備の自動化、というもの(オカネモチー・プログラム)について記述した。
 
 自動するシステム構築を自動化する、というのは、たとえば自動運転する自動車のプログラミングを自動化するようなものだろうか。
 そのプログラミングの環境整備を自動化する、というのは、プリセットされたプログラムの更新インストールに始まり、既存プログラムの問題点の抽出と対応プロジェクトの構築から落とし込み、果ては改善要望の抽出からプログラムへの組込みまでの自動化も含む包括的な恒常性を構築することにある。
 
 恒常性のないシステムは、片手落ちどころか根本的に問題がある。
 僕はそう思っている。
 自動するシステムについてその構築や改変すら自動化されるならば、システムの改変(そこには根幹からの、あるいは全体的な改廃や破棄も含まれる)そのものも自動化されてしかるべきである。
 そうしたマクロな自動メカニズムを構築することで、ときおりわずかな外力を与えるだけで軌道修正できるようにするのが自動化の基本だと思う。
(よぐわがんにゃいひとは、パンドラプロジェクトという古いゲームでもしてみるといいんじゃないかな)
 
>>>
 
 人体でも、複数の小器官が、さまざまな機能を内包しつつ、相互に影響することでより大きな集合としての機能を成している。
 この、半永続的に反復する階層構造を持つ恒常的な組成について(生命個体はより大きな組織や体系に属している)20年ほど前に考えたことがある。
 
 僕にとって、もはや何も珍しくないその視点は、自分自身さえ多くの要素に分解され、また同時により大きな要素の部分として並列に認識されるものである。
 その階層様の構造を、自分の肉体や意識が中心になるとしても、上下ともに2レベル程度は意識していると、たいそう落ち着くのである。
(僕などはこれが、宗教とそれにまつわる人間の認識世界に発生する様相の原始的構造モデルなのではないかとさえ思っている)
 
 ときどき「自分のことなのに他人事みたいにいうよね」などと非難される私であるけれど、それはこの視点がなかなか外れないためである。
 僕の思う客観的な視点(あるいは客体としての意識)というのは、この自身の視点から観察される自身の構成要素および属する集合についての認識から再認識される自分の視点や意識と、そこから再構築される全体像の再認識ループを指している。
(抽象的なことを書き続けていると、ポストモダン(笑)みたいになってしまうが、れむれむの登場人物の寝言だと思えばだいたい許容できる気もする。この一行を読んで理解する人がいるとはあまり思っていないからまぁいいか)
 
 そこでは圧倒的に多くの人が実感している(ように観察される)「自意識」あるいは「自己」の存在が、希薄になってしまう。
(自分を含めた個体の生死に対する意識も、どことなく希薄なのはそのためだろう)
 だってそうではないか。
 自分はいくつかの要素の集積体であるとなれば、いったい自分の主体や、意識の中心や、意図の根源は、何なのか。
 多くの人は(それこそ漠然と、かつ抽象的に)「自分がそう思っている」と感じているものだけれど、自分の肉体や記憶や思考や価値観のごく一部が中核になっていて、そのありようを自分で認識できる場合、それは「自分の中の要素がもたらしている意識作用」という客観的現象になってしまう。
 だから他人に「何を考えているの?」などと問われた場合に、
「○○というように考えているようです/考えがちです/考えていると観察されます」というような表現になってしまう。

 

>>>
 
 こうした階層構造を意識することは、そのまま自動化のシステム構築を自動化する環境整備を自動化する、といういささかメタっぽい様式を体現するのに必須ともいえる。
 なぜといって、自動化されていると人間が思っていることのほとんどはさほど自動化されておらず、その手動のシステムを稼働させるために、人間は多くのリソースを消費していて、にもかかわらずそれに気がつかない。
 まぁ、それだけ人間の脳が多機能で優秀だと言ってしまえばそこまでかもしれないが、それでもそろそろ、人間の脳の情報処理限界が近付いている。運用環境の情報量が過大になったためだ。
 
(毎度おなじみに話を逸らすが)たとえば「ながら運転」による交通事故や社会的な暴力事件(幼児虐待だの性的暴行だのパワハラだのセクハラだの)といった背景に、少なからず脳の情報処理限界が作用していると僕は考えている。
(説明すると長くなるからメカニズムは説明しな~い)
 さらにマスメディアとそれの取扱う情報の浸透(浸透、なんて意識しないくらい浸透してしまう背景)、日本の集団特性などが情報処理のパターン化/硬直化を促進しているようにも感じる。
 
 むつかしいことを考えている、言っているふうの人(たとえば僕のように)であってもそこにはパターン化が見られる。
 
 実のところ、パターン化と自動化は、似て非なる方向性である。
 パターン化というのは、定型化された手動作業なのだ。
 だから、それをしている本人は、少なくとも「何かしている」(場合によっては、すごいことをしている)つもりになっている場合が多い。
 多いのだけれど、実のところ、新しいことは何もしていない。
 だから予期せぬ状況が発生すると、対処しきれない。
 自動化の場合は、不定形の自動化が理想的である。
 千差万別の状況に対して、臨機応変に対応できる仕組みが自動的に整えば、何もしないで物事が処理される。
 そこにあるのは、パターンを最小単位に分解したり、こまめな割込み処理の発生や例外処理に対する適切な事前準備を自動化するというシステム構築なのではある。
 
 たとえば映画を見たりするのはある意味でパターン化されたアクションになる。
 一方でTVゲームなどをするのは、自動化されたアクションになる。
 実際に、ゲームの多くは(入力に対する対処を)自動化できるし、僕たち人間がプレイヤーになる場合も自身の中の自動化をどこまで最適化できるかがゲームの上手い/下手を分ける決め手になる。
(僕はゲーマーだけれど、だいたいそういうことを考えながらプレイしている。もっとも、ゲームをプレイするという自動化はやがてパターン化に変わってしまうという欠点をもっているのだけれど)
 
 話を戻して、自動化と階層認識とパターン化についていうと、自動化だと錯覚していて単なるパターン化であるものがいくつかあって、それが最終的には人間の情報処理リソースを浪費しているということを書いた。
「考えなくてもいい」状況を社会が作り続けている結果、考えない人間(「考えさせられている/考えていると錯覚している」だけの人間も当然含まれる)が増えて、リソースが空費されている。
 
 自動化というのを一個人にもたらす場合、手動の動作も客体も含めて高度に自動化することが必要であり、割込みや例外処理も含めて最適化しなければ達成しえない。
 そしてモテとオカネモチーも、個人にそれをもたらすのであれば(当然に、組織にもそれを適用することは可能であるが)、同様のメカニズムの解析からモデルをデザインすることができる。
 
 ただ、ここまでざっと流し読めば分かるとおり、構築手法はもちろんのこと、構築するための概念や環境に対する解析が狂気的である。
 シロウトニハオススメデキナイ。
 
 
 
 
 
[要修正]
 オカネモチー・プログラムというのを以前、考案した。
 これは、より以前に考案したモテ・プログラムと同じ原理で、お金儲けを自動化する仕組みを作る機能を自動化するという、オートメーション機能構築の自動化という自動化ループの入れ子構造になっている。
(モテ・プログラムもモテを自動化する仕組みを作る機能を自動化するための、主にソフトウェアを中心にした自動化ループ構造である)

 モテを自動化する時と同じ設計思想で構築したため、完全なワンオフであり、僕以外の人間にはおそらく役に立たない。
(個々人、得手不得手をはじめ、さまざまな個性があるわけだから)
 直接お金を作る仕組みを自動化してコントロールするのではなく、その仕組みをさらに自動化するための仕組みを作る環境を整える仕組みを自動化するための構想を考えて現実化するという、はっきりいってバカの禅問答みたいなことをするので、まともな人は考えたくもないだろうし、出来あがるものはだいたい荒唐無稽で、役に立つかどうかわからない、まじないのようなものである。

 モテのときにできあがったメソッドも、それはそれはロクなものではなかったのだけれど、この「外堀の外堀を整備する仕組みを自動化する仕組みあたりから自動化する」という手法は、あまりにも遠回りで実用性からは程遠いように観察される半面、同様のことをしている人はほとんどいないため、障害が少ない。
 普段の行動さえリソースとして活用しつつ、ぐうたらで自堕落な性格を保持し続けるという矛盾を抱えたまま動作するようにしたし、運の要素も多分にあったのだけれど、なんとか動作が安定したように思う。

 そのようなわけでモテを全振りでやめて、お金持ちになることに全振りしていたので、そろそろ思考配分をフレックスにしようと思う。
(オカネモチーとそうでない人は、思考回路も違うし、視点も着眼点も違うから、見えるものも違えば、仮に同じものを見ても感覚することが違う。結果として出力が違い、その出力がオカネモチーをオカネモチーの場所へ運ぶのである)

 モテの時もそうだったけれど、実現させてしまえば僕にとっては特別興味のある問題でもない。
 ただ自動化するシステムの構築を自動化できるかどうか、なにもない所からソフトウェアの影響力を中心にして現象に影響を与えられるかが観測の主要な目的であるし、その目的は達成された。
 バタフライ効果的な作用を多分に含む経済現象というストラクチャは、規模が異なれば予測される影響力も違うので、もし、もっと大規模な構造に対する実験を行うとすれば(しようと思えばできるのだろうけれど、どうだろう)それはそれでまた新しい発見があるのかもしれない。
(直径50mm規模のクモの巣と、直系5km規模のクモの巣を考えた場合、材料の性質から違うものであることを理解できなければ到底実現できない)
 モテ・プログラムに適用すると、恋人の人数上限は、今度は256人にしなければならないことになる。
 年の2/3は毎日違う恋人とデートをしつづけることになりかねない苦行である。

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 当初の予定通り、僕はさほど長生きしないので、現在の予定では50歳になるより前に、一般的な賃金対価の就労行為を終了する予定である。
 そこから長くて20年、早ければ10年ほどで死ぬ予定だ。
 65歳で定年を迎えて再雇用をしてもらい、10~20年後に死ぬ人と比べて(終点からの時間を比べれば)さほどの差があるようには思わない。
 社会に貢献しない僕のようなイキモノが早く死ぬことは、社会にとっても有益であろう。

 もっとも公的年金のシステムが長生きをするほど得であること、にもかかわらず不明瞭な原理や基準で動作を続けていること、かつ一般的に平均寿命が伸び続けていることを考えると(世間一般には)短命とされる(段階で死ぬであろう)僕の生涯は、その行動様式や思想も、到底理解されるものではないかもしれない。

 多くのメカニズムには、設計があり、設計には必ず思想がある。
 設計(デザイン)とは、その対象の有形無形を問わず、また思想の方向性の単一性や多様性を問わず、目的なしには成立しない。
 目的があり、目標があり、それを達成するための仕組みを構築することが設計だ。
 だから目的や目標を設定すること自体が、たとえば要望や欲求といった心理的ソフトウェア面も含めた思想の現れになる。

 自分以外の多くの人が自身の生命を何に使うか、どう使おうと考えているかということにまったく無頓着なのが僕の特徴であるが、すなわち相容れない。
 他人にそんなに注目していないし、他人から注目されるとも思っていない。
 僕には他者の生存思想が理解できないのであるし、同様に他者は僕の生存思想が理解できないのである。
 なかにはおおよそ無目的な目的を掲げて遮二無二生きている人もいる。
 猪突猛進といえばカッコもいいのかもしれないが、わき目もふらず、他者のことなど考えることもなく目的を急ぐ姿は、正直にいえば下品で浅はかだ。

 お金持ちになろうが、友達(あるいは恋人)を100人作ろうが、職務のスキルを拡大しようが、大きな家に住もうが、有名人と知り合いになろうが、それはそれで結構なことだとは思う。
 ただ、ときどき「誰かに見せたい自分」を構築するのに躍起になっている人がいるのは否定できない事実だ。

 すぐに下火になるとは思うが、SNSに「映える」ことを目的としたコンテンツ(画像や映像などを中心に、行事や人脈をこれ見よがしに垂れ流しているもの)は、「誰かに羨んでほしい」という目的で作られているように見える。
 もちろんそれ自体を否定するつもりはないが、「自分が羨む自分の姿」については不在になっているのではないかと僕などは思ってしまう。
 自分がなりたい自分というのが、ないのかもしれない。
 メディアに氾濫する情報の中から「ああ、これはいいな」と思った姿に自分が憧れでもしたのだろうか。
 誰かを注目していて、つまりはそういう行動様式や文化背景があって、だから自分も注目を集めたい、と思うのかもしれない。
 特定の個人に長い期間注目するなどできないし、注目をなるべくなら集めないでいたい僕の指向性とは異なるから、よくわからない。
 みんなの人気者になって、いったい何の得があるのだろう。
 デメリットしか思い浮かばないのだけれど。

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 もともとセルフプロデュースというのは女の領分だと僕は思っている。
 もちろん時代が変わってきたことは事実だし、セルフプロデュースを領分としうる女という定義がまた面倒だ。
 今では国の要人ですらSNSを使って自分の考えを公表している。
 僕も、猫であると公言しているし、それを引っ込めるつもりはない。
(これもセルフプロデュースである。猫のフリをしているのか、人間のフリをしているのかは、ご想像にお任せするが)

 しかし誰かからの評価や羨望を集めたい、という理由によるセルフプロデュースというのは、やはり元々は女たちの専売特許だったように思える。

 なぜかといってオトコという生き物にとっては元来、農耕民族と狩猟民族とを問わず、その個体の評価などというものは勝手にあとから付いてくるものであって、あらかじめ用意しなくてはいけないようなものではなかったからだ。
 結果を見れば自明であり、ためにごまかしが利かず、評価が構築されれば欲しくもないのに羨望が集まるようなことだってあっただろう。
 技術や能力というのは、そういうものではないだろうか。

 しかし、実際は結果がなくても羨望を集めることが可能だし、羨望を集めることそのものが目標になればそれが評価に変わる。
 完全な逆転現象ではあるが、価値があるから評価されて羨望を集めるのではなく、なんでもいいから羨望さえ集めればそこで評価されて価値が生まれるような仕組みであり、これこそセルフプロデュースのなせる業ではあろう。

 個人的に、つまりは一般的にどんな評価や価値が付加されているか僕にはよくわからないのだけれど、価値がないものでも話題になっていれば価値が出る(あるいはそのように錯覚される)というのは、先進国における商業/広告/メディア情報至上主義においては普遍化してしまった手法ではある。
 ただし普遍化したとはいっても、それ以外の価値の見方を知らない人間が多いのもおそらくは事実で、実に多くのものが、得体も知れないまま有用であるかのように流布することがある。

 情報が、向こうからやってくることに、我々は慣れている。
 自分から情報を集めるといっても、せいぜいそこに置かれている情報を、何らかの方法で(たとえばインターネットを通じて)入手するのが関の山ではないだろうか。
 そういう、自分で実在を確認していない「情報」に我々は慣れ親しみ、つまりはセミ=ヴァーチャル化した情報と実在をイコールで結び、場合によっては、実在の上にヴァーチャルな情報を投影して見る。

 たとえば芸能人が、実際にどんな人となりで、どんな生い立ちで、どんなことでメディアを騒がせることになったか、僕たちは本当に知っているのだろうか。
 もちろん知るはずがない。
 でも、メディアから飛び込んできた情報によって、僕たちはその情報をセミ=リアルなものだと思い込み(それが前提の社会になっているから)、万一本人を見た場合には、それまでの(実証されたわけでもない)情報が表面に投影されて見えることだろう。
(ブログでオフ会をしたときに、僕に対してめっちゃ距離を取る人が多いのもそのせいだろう。「そもそも青猫氏、ねこじゃねえ?!」という、その気持ちは、分からないでもないが)

 つまりそれこそ商業至上主義の末路ではあるが、良いものを作れば売れる、というのではなくて、作ったものを良いものだと錯覚させられれば、つまり売ろうとすれば売れるのではある。
 ヴァーチャルな情報を、セミ=リアルに投影すれば、よほどの凹凸がない限りはごまかしが利くのだ。

 この古い原理手法に則って作られた多くのキャッチコピーがWeb上にも散らばっていると思う。
(僕はTVも見ないし、Web上の広告を可能な限り排除しているのであまり分からないが)

「中身もないのにメディア映えをしようとする人」もそれと同じように思えて、いささか情けなく思うのである。
 もちろんある程度若いうちならば、そういう乱痴気騒ぎに興味を持ったり、経験するのもいいかもしれない。
 若さそのものが価値を持つ(あるいはそう勘違いさせられている)年代なら仕方ないともいえるだろう。
 けれどもある程度以上の、まして(性差別をするつもりはなく、社会的機能上質実堅剛をよしとされるはずの)オトナのオトコが、それをしているともなれば、他人ごとでも恥ずかしいのである。
(本体はねこだ、と言っている人がこれを書いています)

 僕は自分のことをナルシスとだとは思っているが、品のない自己愛は好みではない。
 他人にただただ愛されたいという自己愛は、文字どおりの意味でいえば向こう見ずであり、ブーメランのようで少々あぶなっかしい。(ドッヂボールもあぶなっかしいが)
 なにより他者の存在が前提であるにもかかわらず、実際は他者が不在であり、なおかつ本来的に不要なあたり不気味ですらある。

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 セルフプロデュースさえ、自動化は可能だ。
 一生懸命SNSに、自分がいかに素晴らしい人間で、周囲に愛されていて、充実した毎日(という実在の定義がむつかしいが、とにかくそれ)を送っていることを、アッピル(誤字はわざと)することだって自動化できる。
 しかし、他人の羨望を集めること(それが目的なのだから仕方ない)を自動化して、いったい何が得られるのだろう。
 他人の羨望は、熱や運動が観察されるわけではない。
 まぁせいぜい、ページビューが増えるとか、「いいね」ボタン(まだそんなvote機能が有用なのだろうか)のカウントが増えるとか、そういう指標を利用するしかない。
 あるいはコメントが増えるとか、リンク/被リンクが増えるとかいうこともあるかもしれない。
 では、そうした指標が増えたからといって、どうなるというのだろう。
 面倒なだけではないのだろうか。と僕などは感じてしまう。

 誰が羨んでいようが、蔑んでいようが、とにかく観察者というのは面倒なものなのだ。
 観察者がいるだけで不自由になると僕は常々感じている。
 無駄なやっかみが増えることもあるし、いらぬ怨念を背負うこともある。
 以前「恋人が27人いる」と公言したところ、「絶対嘘でしょう」「本当は何人なの?」としつこく聞いてくる五月蝿いガールがいて参ったことがある。
 とくに僕に惚れているとかそういうわけではなさそうで、単に暴きたい様子であったから、適当に「はいはい嘘です本当は3人です」などと適当なことを言ったら「ほらぁ」などといいながら、付きまとわなくなった。
 特に確証となるものを与えたわけでもない。
 要は当人が納得する数値におさまったから、それで(理由は分からないが)納得したらしい。
 実際の恋人の数などどうでもいいのであれば、最初から人数を尋ねる必要など無いとは思うのだが、それを勝手に疑ったり、勝手に暴きたいと感じたり、暴いたと思って納得する人は少なからずいる。
 僕のような一般人に対してすら、そうした謎の義務感を感じるタイプの人がいるわけだから、他人の注目を浴びるというのは害の方が多いように僕は認識している。

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 最近考えるのは、そうした「(おそらく一定割合で)阿呆が発生するメカニズム」である。
(阿呆と断じて申し訳ないが、利もなく理もないのに勝手に暴いて勝手に納得するあたり、阿呆だと僕などは思ってしまう)
 8:2の法則に則って、僕などは2割方の、つまりは組織でも平時は真面目に働かないタイプの人間である。
 しかし「自分でまともにものを考えないし、考え方を知らない」タイプの人間がそれなり以上の割合で存在するなんていう可能性を、僕は考えもしなかった。

 けれども、それは思った以上に存在している。
 一定割合を占めていて、自分で考えているようなフリをして実のところ何も考えていないのである。
(つまりはそういうメカニズムを潜在させているといえる)

 もちろん、そういうメカニズムに働きかける気などはさらさらない。
 ただ、多少なりそのメカニズムが分かれば、迷惑な他人と関わる確率を下げる方法がわかるような、そんな気がしている。

 もちろん、それも自動化できる。




[要修正]
181030

 あと20年ほどでこの世を去る予定の私である。
(早くなればいいとは思うが、おそらくそうはならないだろう)
 特に悲観しているわけではない。むしろ楽観している。
 日々の体調さえ思わしいものならば、ゴールが見える生(僕にとってはずっとそうだった)は、存外、心地が良い。
 いつ死ぬか分からない人たちの心もちというのを僕は一度も理解できたことがないから、おおよそ自分で見当がついている僕のような人間の心もちもまた理解されないものと思う。

 理解されない事にも誤解されることにも慣れているので問題はない。

 20年ほどで世を去るからといって、僕は、その先の社会のことをやはり考えてしまう。
 べつに悪いことではないとも思うし、それを(これまでそうしてきたように)与太話のようにして、興味を持つ人に話して聞かせるのはときに楽しいものだ。

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 今後30年から50年の間に、通貨の概念が変わる話はすでに書いた。
 今は投機の意味合いの強い仮想通貨が経済に多く流通する。
 相対的に国家(正確には世界経済界の支配者)の体力は奪われるだろう(これ自体は仮想通貨の目的の一つですらある)。
 静かに徹底した支配を続けてきた通貨は、一握りの人間によって支配されていた情報が多くオープンになったようにして、民衆のものになってゆく。
 人口減が確定的な日本では一層、国家としての力が失われる。
 資本主義経済がそのまま国家の主軸になってしまったこの国にとっては、経済という組織に流れる通貨という血は、綺麗であろうが汚れていようが絶対の価値を持つ。
 心臓や骨髄といった部位にとっては、血が流れていて、それが絶対の価値さえ持っていれば、問題がない。
 この血の絶対性を危うくするだけの、およそ完全な代替の血がそこにあったとしたら、どんな手を使ってでもその存在を抹消したいという考え方もあっていいとは思う。
 ただし人間の場合を考えればわかるように、組織とはその全体をして組織なのだから、部分はどんなに支配的であったとしても部分でしかない。
 それに血管の様に世界を覆う情報ネットワークは、もう単一の組織が管理/支配できるようなインフラではなくなりつつある。

 人命は安くて軽いが、それでも宝ではある。
 宝石だって安くて軽いものは多いから、高くて重ければそれでいいというものではない。
 問題は、そしてその価値は、生命体は基本的に、個体の代替が利かないことだ。
 だからこそ延命が流行したわけだけれど、30年以内に選択的自死は一般的になるだろう。

 相対的に人命がより高く重くなるが、それは今現在の人命の価値観とは、また少し異なる観点による。
 社会的に代替が利かないからということではなくて、代替可能な労働力が社会に浸透するからである。
 自発的消滅の権利を有する以前から、死を内包する生命体ならば当然に代替が利かないけれど、人間にとって必要な他者が人間である必要はない社会が構築されることになる。

 今の社会では生者も死者も、その代替が存在しない。
 その代替という概念は、対象個体の外部から観察していて初めて発生するものである。
 たとえば洗濯機を使っているときに「本来自分がするべき労働を洗濯機に肩代わりしてもらっている」なんて意識する人はいないだろう(僕はするが)。
 自動化というのは、代替である。
 自動運転車の研究が進んでいるが、あれは人間に代わって運転する機能を有した自動車のことである。
 だから僕のような横着者は、早く実現することを祈っているが、仮に実現した場合、人は代替してもらっていることなど忘れるものだ。
 なぜなら代替は機能によって満たされるから。
 つまり機能を満たすことができるすべては代替可能ということになる。

 AIを備えたロボットは、果たして人間の持つ機能のすべてを満たすだろうか。
 少なくとも、カタチに限れば、そのすべてを満たしうると僕は思う。
 人間のように考えているふうに観察され、人間のようにコミュニケーションを取れるようになったそれは、たとえば子供が人形を相手に遊ぶように「生きた」対象として、その目に映ることだろう。

 そうなれば人間の意味が変わることになる。
 人間が他者に提供していた機能のうち、代替が可能な機能は、なにも「自分がわざわざ提供しなくてもいいもの」に変わる。
 それはその個体の価値の低下を招くかもしれないが、相対的に誰かの価値が上がるわけではない。
 人間型の機械が人間の機能を代替するようになれば、早晩、人間は不要になってゆくだろう。
 これも、今の価値観からすると「不要=なくてもいいもの≒ない方がいいもの」のような捉え方をする人が今後もいるとは思う。
 ただ、僕が言っているのは人間そのものが不要だという意味ではなくて、(人間に対して機能を提供するための)人間という労働力が不要になるということだ。
 そもそも要否でしか存在の価値を決められない事が、相当に貧しいことだと思うのだがどうだろう。

 たとえば花火(firework)は、本来的に必要のないものではある。
 しかし美しいし、人の気持ちを楽しませるものである。
 また銃火器のような実用性はないが、果たして銃火器の実用性というのはどのくらい実用的だろうか。

 はたして、人間は、どのくらい実用的である必要があるだろう。

 実用に価値があり、必要性が絶対であれば、それを満たすに越したことはない。
 しかし実用に代替があり、必要がそこで満たされた場合、そこに残った存在は、果たして無価値だろうか。
 そもそもそこにある必要性とは、必要とされたい願いや、必要であるという妄執が生んだ幻想ではないのだろうか。

 ひとりの人間と、それを囲む大量の人型の非生命によって構築されたシステムは、少なくともその「ひとり」には十分な価値を持つだろう。
 そして、その「ひとりの人間」は、ひとりの人間以外の「何か」であっても問題ないのだ。

 AIはおそらく容易に、人間以上に人間らしくなることも可能だ。
 生殖目的でしか人間が必要なくなったとすれば、そのときも同様に人口は減り続ける。
 SFでいえば、ペシミスティックな概念なのかもしれないが、もしそれが、戦争や暴力といった、直接的な支配や欲によって他者に害を及ぼしつつ実現するのではないならば、ある意味で、人類にとってこれほど幸福な終焉もないように思える。
 つまり自然淘汰的に、人間が人間を必要としなくなって、結果として人間と同等かそれ以上の知的存在が残るならば、それは人類の到達した知性の成果だとみなしてもいいだろう。
(そう思えない人はそれでいいと思うけれど)

 実用性のない事は、最大の価値であり、必要性のないことは、最大の自由である。
 人間の意味が変わり、必要の価値が変わり、代替不可という意味において生命体は最大の敬意を自他に払うようになるだろう。
 僕にはそれが、悲観的な社会には思えない。
 たとえその世界に、たった一人の人間さえいなくなったとしても、その世界に目に余る過剰な暴力がないならば。

 人類は、代替可能なものは、すべて別のものに代替させてきた。
 それは人類の、あるいは知性という性質そのものの、一つの基本機能なのかもしれない。
 計算が外部化され、自動化され、最適化され、高速化されたように、問題解決も、問題定義も、果ては存在認識も同じ道を歩むだろう。

 知性によって知性が代替され、ブラッシュアップされるならば。
 それは適切な淘汰のように思える。

 ほら、我々は、古くなった家電を捨てて新しい製品を買うではないか。

 それでもたとえば、古くからの友人や恋人を、大切にしたりする。
 僕が思うに、付き合いのある、付き合いを続ける人間は、役に立たないのが一番である。

 僕は友人にも機能を求めたことはないし、恋人にも、役に立たないようにしてほしいと昔から願っている。
 彼ら/彼女たちが僕個人に提供する(しようとしてきた)機能は、そのほとんどが僕自身や機械によって代替可能で、僕からするとどうでもいいことばかりだ。
 僕は彼ら/彼女たちの、僕への労働を望まない。彼ら/彼女たちは、それぞれの自由にすればいい。
 自由の中で提供されるものが(たとえば僕が趣味で料理を作って恋人に提供するように)あれば、それはそれで自由の中で享受するだろう。

 役に立つことありきの人間関係は、とにかく疲れる。
 自分が誰かの役に立つのは結構なことだとは思う。
 ある程度までならそこに自身の価値を見出してもいいだろう。

 でも他人が自分の役に立つかどうかを、潜在的にであれ顕在的にであれ計算するような人間ならば。
 もちろんそれはその人の好みや必要性なのだからなんとも言えないのだけれど。
 少なくとも、それは人間らしさではないのだろうと感じてしまう。

 Artが芸術であるように、ひらめきという意味でのfireworkも、Artificialな存在だろう。
 人工的ということは、自然を加工することによって実現する。
 動物的であることを否定するつもりはないが、人間になれないものは結局のところ、人の皮をかぶっていようとも獣でしかないのだ。



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//TimeLine:201810140256
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
SF小説だと思っていたら、SF小説のようでもありそうでなくもあった
「火星に住むつもりかい?」
SUBTITLE:
~ Miss reading to "life on mars?" ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::「僕、そういうのがよく分からないんですよ」
「そういうの?」
「だって、寄付にしろ何にしろ、たとえば、お金に困っている人に援助したら、偽善と呼ばれたりするじゃないですか。少なくとも、偽善っぽい、とか」
「それは、さも善意で援助しているように自慢していたのに、実は、見返りと要求していたとか、そういう場合じゃないのかな。困っている誰かのために何かをしたら、それがむしろ、相手を困らせた、とか」
「でも、今はそういう意味ではなくて、ただ単に、いいことをして目立っただけで言われてしまいますよ。たとえば、川に落ちる子どもを見た人が『ここで助けたら、俺はヒーローになるかもしれない』と思って、飛び込んで救出するのは偽善なんですかね」




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 数年前、どういうわけか僕はとてもお金が無くて、買いたい本を一冊買うことさえできなくて、自由に使える時間もなくて、まるで汚れた酸欠の水槽に放り込まれた金魚のようだった。
 もはや野良猫の食糧にさえならないような。

 そのとき、書店でこの本を見かけた。
 表紙のイラストが、僕の使っていたCGソフトのレンダリング結果に酷似していて、気になったのがきっかけだ。
 その「レンダリング結果」をどのようにすれば的確に表現できるか、というのが少々むつかしい。
 現在、カバーに描かれているそれは、表記上は「カバー写真」ということになっていて、もしかしたらこれはCGではないのかもしれない。
 仮にCGであったとしても「酷似」しているのは、モデルではない。だから僕は「この表紙のモデルデータは私の作ったものに似ている」といっているわけではない。
 ライティングと背景が、そのアプリケーションのデフォルトの雰囲気に似ているのだ。
 だから僕はその「カバー写真」を(あらためて今見ても)その3DCGアプリケーションのレンダリング結果なのではないかと思っている。

 そのソフトはMODOといって、僕はそのアプリケーションが大好きだった。

 いつものとおり、本の中間あたりのページを、無造作に開く。
 僕は本を買うときは、最初から読んだり解説を読んで決めるということはない。
 中間の、どこともつかない部分を、およそ偶然にまかせて開くのである。
 いささか非科学的で迷信じみているとは思うが、僕の中でのちょっとしたジンクスである。
 そうして開かれたページに、意外にも自分にしっくりくる文が書かれていることがある。もうそうなったら、それはその本との運命の出会いなので、すぐに買う。
 誰が書いていようと、どんなジャンルのどんな本であろうと。

 だから気になった本はとりあえず手に取るし、手に取ったら勘(というより運)に任せて適当に開いて、数行、場合によっては1ページほど読む。
 興味を持ったらさらに別のページをめくる。
 2回試せば、その本がどのくらい自分に寄り添ってくれるかが分かる。
 2回中2回なら、もう買って読むしかない。
 2回中1回なら、とりあえず買う候補にはなる。もう一度ページをめくって、2/3回になった「運命の出会い」か「凡庸な出会い」かを決めることもある。
 2回中0回になる前に、僕はその本を棚に戻す。
 だいたい付き合う女の子もこの方法で決める。大事なのは運に身を任せることであり、無作為であり続けることである。手練手管に弄してもろくな事にならない気がする。まぁ、無作為でありすぎることで時々ろくでもないことになったりするのだけれど。

 この本「火星に住むつもりかい?」は、果たして、ひと目惚れにおよそ等しかった。
 だから僕はこの本を買いたかったし、読みたかった。のだ。のだけれど。
 どういうわけか僕はとてもお金が無くて、買うことができなかった。
(もちろん、どういうわけなのか僕は知っているし覚えてもいるのだけれど、知らず覚えていない方が精神衛生上よろしいこともあるわけで)

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「正義と悪」における悪と「善と悪」における悪の違いを明確に言い表せる人は、ざっと見渡したかぎりであまり多いようには思えない。
 もちろん「正義と善」の違いも然り。よって「正義の対極に位置する悪」が善に繋がる現象であるとか、「善の対極にある悪」が正義になる状況であるとかを、あまり想像できないようだ。
 一方で、僕の観察する範囲において(つまり極めてローカルな範囲だと信じたいのだが)、人は「正と誤」に関しては過剰なまでに敏感なように思える。
 日本人らしい生真面目さの現出だろうとは思う。
 それが美徳の範囲に収まっていればいいけれど、価値観が多様化して、善と悪の境界が曖昧になってしまうともうそれで混乱してしまうようだ。
 映画などを見ていると「どっちが正しい側なのか」みたいなことに終始してうるさいタイプの人間がいる。
 正しい側の味方でいたいのだろうし、自分自身が常に正しくありたいのだと思う。
(だから「正しくない自分」なんて認められない人が少なからずいる。本人も知らずして苦しいのだろうけれど、巻き込まれる側はもっと苦しいので近づかない方がいいと僕などは思ってしまう)

 僕はエンジニアでもあるから、善悪や正誤や正義と悪についてはかなり境界のゆるいイキモノだ。猫だから仕方ないのだけれど。
 もっとも子どもの頃は「正しいこと」に固執するタイプで、頑固であり独善的だったように思う。
 自分の基準や境界条件だけで成立する、とても狭い世界にいるかぎりは、それでも良かったのだろう。
 僕は他人と生きる上で、それらのルールを持ち歩くことが最終的に苦しくて仕方なくなったのですべて手放した。
 自分の考える正義や善良なんて、正しさなんて、この世界を生きる上ではたいした役に立たないと思っている。
 とくに他人と生きていく上ではどうにもならない。
 人は、どうにも自分に都合の良い「正しさ(正義や善良さや正確さ)」を振りかざして他人に何かを強制したり、あるいは脅したり、攻撃したりする。
 かと思えば、同じ正しさの基準に基づいて、逃げたり隠れたりもする。正しさという基準そのものが、自分の立ち位置で意味をすり替える。
 もちろんそれは、正しさという基準が揺らがないということでもあるのだけれど、その人の中で揺らぐことのないその基準が、他者と比較すればそもそもの位置から異なっていたりする。
 だから正しさは個人に由来して誤差がある。
 厳密にしようとすればするほど、正しいこととそうでないことの境界は曖昧になり、中間領域を許せない人たちはそれ自体を悪と見なすだろう。

 浦沢直樹さんの「二〇世紀少年」の中で、主人公である遠藤ケンジは「悪者になるのは苦しくて大変だ」といっているが、僕が思うにそれは「正しくあらねばならないという病気を持っているから」だろうと思う。
 とりたてて善も悪もないような人間にとっては、そのときそのときで最善や正義の意味は変わるものだし、それが普通だろうとさえ思える。
 正義と悪だって、僕のように流動的なものとして捉える人が(まあ最低でもひとりは)いるように、そうではなく絶対のものだと(ときに病的に)思っている人がいる。
 それ自体「正しい/間違っている」という二元論になってしまいがちだから、正しさにこだわる人はどんどんそれに固執するし、僕のように「正しさなんてどうでもいいや」と思っている人はどんどん譲ってしまう。
 柔軟なようでいて厄介なこの僕の性質は、ときに「正しさ(の境界線)を譲ってしまったがために悪者になる」という状況を生み出す。
 もっとも法的にアブナイことは何もしていないので問題はないものの、人間関係であるとか、人間ならではのささやかな機微の部分で、どうも悪者になりがちである。
 まぁ勝手にすればぁ? とは思っているが。

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 ちなみに僕は、読書感想を書くときに、作者がどうだとか、別の作品で「作者が」こう言っていたとか、そういう風には思わないし書かない。
 だから必要ならば登場人物やあらすじも書くかもしれないけれど、そんなことは感想とはまったく無関係だったりするのでまず書いたことがない。
(少なくとも僕にとって読書の感想というのは、ある程度以上抽象化されるので)
 あるいは個別に、このシーンがぐっときた、というようなことだって当然あるものの、そんなことを書くと小学生の読書感想文のように「○○が鉄パイプを握るあたりはどきどきした」といった程度の、幼稚で書くにも読むにも値しないようなものになってしまう。

 もちろん他の人の読書感想文がどうこうというのではない。
 単に同様の書評というのが、僕にはできないというだけだ。
 同じ作家でも違う作品やテーマにおいて、得手不得手があったり、技術的な変遷があったり、あるいはスタイルに矛盾が発生することもあるかもしれない。
 けれども作者の技術をどうこういうのは、それこそ(素人だろうとプロだろうと)僕以外の評論家に任せておきたい。
 僕は単純にそれを読んで、何を感じて、何を考えて、それがどう変化したか(あるいは明文化されたか)を書く。
 あくまで主体は自分自身だ。
 作品の構成がどうだとか、作者の文学的技量がどうだとか、伏線の回収がどうだとか、ドラマツルギーとしてそのシーンや事象や登場人物の要否であるとか、そいうものにはまったくといっていいほど興味がないし語る資格もないと思っている
 つい最近、Webニュースで「半分青い」(だったか)というドラマ作品の悪評をいくつか見ていて思った。  どうして人は見たくもないと思うものをわざわざ見て批判するのか。
 僕には理解できないメカニズムがそこにはある。ただまぁ僕はそれほどヒマではないのでそんなメカニズムについて解明したりはしないけれど。
 しかし「登場人物の○○が死ぬ必然性が分からない」とかなんとかいう一文を見たときはさすがに苦笑してしまった。
 どうして科学番組を見ないでドラマを見るんだろう。算数の問題集でも解いていれば、少なくともそんな不満を抱いたりはしないだろうにと。
 ちなみに評判が余りよくなかったというそのドラマ、ほぼ毎日会社で見ていました。もちろん楽しみながら。

 かように人の「正しい」なんて感覚は、本当に個人的な正しさによるものがほとんどで、まぁそれは我々ひとりひとりがひとつひとつの身体に準拠して存在している以上、仕方のないことだとは思うのだけれど。
 その「自分という個人は肉体準拠であり、その正しさも個体準拠である」という事実は明白なのだから、もうちょっと自分の信じる「正しさ」について謙虚でもいいんじゃないのかと、僕は思ってしまったりするんですけれどぉ。








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::「だからって、正義の味方が現れたことを、僕の責任にされても困りますよ。それを言うなら、そもそも、薬師寺さんが平和警察の制度を推し進めなければ、こんなことにはなりませんでしたよ」
「馬鹿なことを」
「それと一緒で、僕だって無関係ですよ。どこまで原因を遡るんですか。すべての犯罪は、この世に人間が生まれたから! とだって言えますよ。だとしたら、裁かれるのは誰ですか? ああ、畏れ多い」




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[出典]
~ List of Cite ~
 文頭文末の引用は、
「火星に住むつもりかい?」文頭部(p.166)/文末部(p.271-272)
(著作:伊坂 幸太郎 / 発行:光文社文庫)
 によりました。






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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
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[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Book-
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[Cat-Ego-Lies]


//EOF
 劣等感、というのが、どうも僕にはあまりないらしい。

 劣等感は段差に起因している。
 心理的段差は、個人の感覚によっているため、客観的事実とは異なることも多い。
 物理的/肉体的段差は、その心理的段差の主原料のようだ。

 周囲をざっと見まわすと、なんらかの劣等感(劣等コンプレクス)を抱えていて、消化できない人が、いる。
 どうして消化できないのかは分からない。
 たぶん自身の記憶や価値観をうまくコントロールできないのだろうとは予測する。
 この劣等コンプレクスを消化できない場合、年齢を重ねるごとに、症状が悪化するように観察される。

>>>

 僕の知っているある男性は、学がない、知識がない(と自分のことを思っている)ことが劣等コンプレクスになっていた。
 ちょっとした拍子で、たとえば彼が知らない事を僕に質問して、その回答をしている時に、僕がちょっとしたジョークを織り込んだり、あるいは僕が「分からないという人は多いから気にする必要はありません」と微笑みかけたりしたら、突然怒り出した。
 手に持っていたものを放り投げるほどの怒りっぷりで、自分でもその激昂をコントロールできない様子だった。
 その後の話で、僕が、馬鹿にして笑っているのだと勘違いしたらしい。

 僕にとっては寝耳に水である。
 けれどもそういう男性はときどきいて、僕とはコミュニケーションのルールが違うので、分かった時点で疎遠にするようにしている。

 おそらくだけれど、知らない事と知っている事の段差を過剰に意味付けしていて、その意味付けによって自分の位置が低いと勘違いしているのではないかと推測する。
 たとえ何を知っている人であるとしても、この世界のすべてを知っているわけではない。
 その意味で(非常に大雑把だけれど)すべての人は「何かを知っていて、何かを知らない」ことになる。
 これはすこし視野を広げて考えればすぐにわかる、自明のことだ。

 彼我の差は、たいしたものではないと僕は思う。
 たとえば僕はポトフの作り方を知っているけれど、裁縫であるとか、茶道や華道、建築物の構造種類や力学計算の手法などについては知らない。
 それらを知っている人のすべては、ポトフの作り方を熟知しているだろうか。つまり、ポトフの作り方というのはポトフ以外の技術や知識における下位互換性を持たされているのだろうか。

 そんなことはないだろう。
 誰だって得手があれば不得手がある。
 ポトフの作り方を知っている人が、それを知らない人を、ただそれだけの理由で嗤えるのだろうか。
 嗤える、と思っている人は、だからこそ他者が嗤うと怒り出す。
 結局のところそれは、その人自身が誰かに対して優越感を覚えると、相手をして嗤う、ということにはならないだろうか。
 そういう価値観を持っているから、他者が笑いかける意味を誤認して、馬鹿にされていると勘違いするのではないだろうか。

>>>

 彼らの価値観が間違っているとは、特に思わない。

 ただ、僕にはその劣等コンプレクス的価値観を持つことができない。
 条件反射的な書き込みをすることは可能だけれど、そんな価値観に意味を見いだせないから持ちたくない。

 その価値観を持っていた場合、疑心暗鬼に拍車がかかる。
(近年の僕は、以前に比べて、まったくといっていいほど他者に対して関心も、希望も持たず、信頼も寄せない)
 笑うという行為の意味付けが複雑になる(他者の感覚を読み取るのが苦手な僕にとっては致命的だ)。
 結果として心持ちが悪くなる。
(一定以上の知性を持っていて知識も備えていること、心持ちが豊かで良い方向に向かっていること、貧困ではないこと、がよい人間の資質だと僕は思っている)

 その価値観を持たない現在、僕は劣等コンプレクスをうまく理解できない。
 持てる者と持たざる者の段差において、上にいるものが下にいるものを嗤うというのは、どういうことだろう。
 優越感を持つのは、まぁ仕方ないかもしれない。現状認識をした上で、他者と比較したその段差によって愉悦を感じるタイプの人は少なからずいるからだ。
 たとえば平日にたまたま代休が発生して、自分だけ温泉に行ってのんびりしつつ、今頃あくせく働いている同僚に思いを馳せる、なんていうのも優越感ではある。
 ただ逆の立場を考えたとき、この程度のことで劣等感を感じるとは思えないし、運送業やサービス業に従事したことのある人であれば、平日休みや自分だけ休みの有利/不利という感覚は特別なものではないだろう。

 視野を広く持ったり、視座を高めに設定していたりすると(そして、自分自身のことすら他人事のように認識する能力があると)、劣等コンプレクスの元凶になっている段差は、階段の段差と変わりがない。
 階段の上にいる者が、下の者を嗤おうと、手を差し伸べようと、それはそれでその人の意志であり自由だとは思う。

 ただ、段差は段差でしかない。
 劣等感を感じる理由が段差にあるならば、段を上ればいいだけだ。
 手も足もなければ仕方ないけれど、手段があるならばそれを実行すればいい。
 手段がないならそもそも無理なのだから、今いる場所から上らないのは適切である。

 仮に上らない/上れないとしても、なぜ劣等感を感じるのだろう。
 高い場所は、そんなに素晴らしいのだろうか。
 行ったことや見たことがないのに? あるいはだからこそ羨ましい?

 まぁ、行ってみたことがなければ羨ましく感じるかもしれないし、あるいはそこに立てたならばそれをして段差の下を文字通り見下すような感覚を持つ人もいるのかもしれない。
 しかしいずれも貧相ではないか。みすぼらしいではないか。貧乏くさいではないか。
 それに、どの位置であれその立場に立てば相応に利もあれば苦労もある。
 ところがどういうわけか、そういった公平な視点を持たない人もいるのである。

 だから僕は、苦労や貧困の果てに成功をつかんだという話を得々とするタイプの人間を信用しない。
(話は信用できても、人間を信用できない)
 また、そういう話を美談に仕立てて吹聴するタイプの人間や、伝記の類も信用しない。
(話は信用できても、その価値観は信用できない)

 苦労の末の成功というのは、要は段差を上って高い場所に至ったというだけのことでしかない。
 上らない人(あるいは落ちるだけの人)より、たしかに優れているとは思う。
 けれどもそれは自分で居丈高に自慢するようなことだろうか。
 あるいは他人が褒めそやすほどのことだろうか。

 高い所に上ろうとして上ったのであれば、ただ己の欲求を満たしたに過ぎない。
 能力が高いことは素晴らしいことかもしれないが、能力が高いことと、居場所が高いことを混同すべきではないように思う。
 それに高低差を利用して優越感に浸るだけならまだしも、他者に劣等感を植え付けるなど品性下劣である。
 もしも己自身、劣等感を感じていたことが原動力であったとするならば、それはそれで相応に愚かしい動機であり、ましてどんな高みに上ったところで、渇望も劣等感も不安も怯えも、おさまることなどないだろう。
 それは自分の足元の位置認識ではなくて、他者の感覚認識の問題だから。

 よってたとえ資質や能力、知見が優れていても、自分がどれほどの高みに至ろうとも、自分が段差によって(より低いものより)優れていると勘違いし、(自分の段差の高さを)ひけらかすようでは、結局は段差が低い(と感じる)者となんら変わらない意識の持ち主なのである。

>>>

 これは曖昧な精神論ではなくて、単純なエンジニアリングである。
 どうでもいいような劣等コンプレクスは、最終的にその個体はもちろん、その個体を含む集団/接する個体になんらの利ももたらさない。

 仮に、劣等コンプレクスによる精神的圧力を原動力(いわゆる「バネにして」と呼ばれるもの)にして、段差(社会的/経済的階層や能力といったポテンシャル)を高めることに成功したとしても、その個体の価値観が変容していないがゆえにその集団は不健康な状態を形成する。
 なぜならば、成功者は(自分がその道を辿ったという記憶を持つがゆえに)己の手法や思考に固執しがちであり、ために劣等コンプレクスはポテンシャルエナジィとして有用であるという勘違いを続け、場合によっては故意に(そして過度に)他者の劣等感を煽る事さえあるだろう。
 体育会系的メソッドを僕があまり好まない理由もこのあたりにある。

 もちろんもちろん。
 個体差はあるわけで、当然に劣等コンプレクスが有用になる個体も存在するとは思う。
 しかし、劣等コンプレクスそのものがポテンシャルを発揮するわけではない。
 劣等感なんてものは能力でも技術でも資産でも志向性でもなくて、単なる感覚の癖にすぎないのだから。

 その感覚の癖を引きずって、他者はすべて悪意を持っていると誤認し、また自分自身がその悪意の僕(「しもべ」であって「ボク」ではないが、「ボク」でも面白いだろうか)になり果てて、本来的な(能力/経済/社会的)位置エネルギーを履き違えて、位置エネルギーをもたらした本当の能力とその源泉に気が付きもしないなら、そんな愚かな人間に、僕はなりたくないのではある。

>>>

 たとえば僕はモテだったけれど(そして今でも一歩間違うとモテになりそうなので、制御しているけれど)、恋人が27人いると公言している時から、モテない人をバカにするつもりはまったくなかった。
 モテるからといって、それがそんなに素晴らしいことだとは思っていなかったし、今も思っていない。
 だからモテないように制御したり、あるいは単純に異性や同性や動物にモテなくなったとしても、たいして気にしない。

 そんな位置エネルギーは作れるものであり、そこに自分を運ぶための技術はあるのだから。
 モテることとモテないことがそうであるように、たとえばオカネモチーであったりなかったり、顔つきの美醜であったりも、結局のところ技術さえあれば作れる(運動エネルギーと交換できる)位置エネルギーなのである。
 たとえば顔つきだって、とくに30歳以降ともなれば、それまでの自分の心もちが、多少は顔に出るだろう。

 ぱっと見た感じ醜女であっても、かわいらしいガールを僕は数人知っているし、顔つきはいいのだけれど10年後の顔は相当ひどいと予感させる美人も知っている。
 年齢も顔つきも、その程度の価値しかない。
 それらは位置としてのエネルギーは持っているかもしれないが、運動エネルギーと交換(あるいは再還元)する技術を知らなければ、結局何の意味もないものなのだ。
 表情や、雰囲気や、立ち居振る舞いや、背景や、人間関係は、自分の手で作って、選ぶことができるし、それによって自分自身を作ることができる。自明のことではないだろうか。

 段差の持ち腐れをするのは勝手だけれど、単なる段差に価値などないという事実を理解しているのとそうでないのとでは、自分という運動体を制御する上で雲泥の差をもたらすだろう。







[要修正]
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180925
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
血が雪に溶けて薄くなるなら
SUBTITLE:
~ Displaced display. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 長い間、土に触れていない。
 最後に触ったのは、多分、師から陶芸を学んでいたときのことだろうか。

 不動産開発の際に、遺跡が見つかって開発行為が中断される、というのはよくあることだ。
 もっとも、大規模な経済の圧力があれば、そんな過去の遺物は「なかったこと」にされるだろう。素敵なことだ。

 見る土と、触る土は違う。
 泥はたいして汚いものではないし、価値がないものでもない。
 なのにどうして、僕は土に触れていないのだろう。そんな風に思う。
 きっと、それより価値のある(とされる)ものを、誰かに押しつけられて、それを厭々しているのではないだろうか。

 たしかにまぁ、土を捏ねて経済活動ができる人は、この世に一握りしかいないのだけれど。

>>>

 自分の血族を可能な限り抹消しようと思ったのはいつだったろう。
 きっと、とても、昔のことだ。

 当然、一族郎党皆殺しなんて物理手段に訴えるつもりはなかったし、そうしようにも僕はまだ子供だった。
 まだ、ナイフを持ったこともない。この手で魚一匹捌いたことのない、そんな頃のことだ。

>>>

 僕の父から生まれた子は、女性が多い。
 存命でない者も含めれば、男児は僕を入れて2人(僕でない誰かは出生時に死亡)、女児は(僕の知る限りは)4人である。
 従姉妹も、女性が多い。
 父側の祖父母から出生した子供(僕の父と伯父や伯母)も比率的に女性が多い。

 そして皆、異常脂質症である。ひとりの例外もない。
 症状はまばらだが、全体にコレステロールが高く、LDL、HDLとも基準範囲をはるかに超える。
 中性脂肪値も高い者が多い一方、僕のように基準範囲を下回る者もいる。

 そして直系男性の子は直系女性の子に比べてこの遺伝特性を強く受継ぎ、その後も男性の子に強く受継がれる。
 よって男性は高い確率で痩身になり、今のところ100%脂質異常症にかかっている。
 女性の体形はまちまちで、脂質異常症の率は高いが、若干の例外もいる。

 心疾患の多くも、その名を時代とともに変えてきたが、治療や予防法も多く変わってきた。
 僕の一族は、その進歩とともに永らえてきた。
 だから、多くの医者は言う。
「いや青猫くん、今はそう簡単には死なないよ」と。
 そしてそれはおそらく、そのとおりだ。

 確かに、僕も投薬治療を受けるうちにLDLが低下した。
 しかし従前の異常なLDLによる動脈硬化が解消されるわけではない。
 HDLは異常な数値のままだけれど、それでも解消される事はない。

 いずれの段階で、我々は、動脈硬化に起因した梗塞をどこかの血管で発生させる。
 今まではそれが、大動脈だった。
 だから治療法の確立していない頃には次々と死んだし、治療法の進歩とともに(時に被験者として)永らえた。
 しかし食生活や嗜好品を制御して、健康に留意した者たちは、脳や肺の血管で梗塞を起こして、結局致命的な状態になっている。

 かつてコレステロールと呼ばれていたものがHDLとLDLに分化したように、人間の体の仕組みは完全に解明されているわけではない。
 HDLは高い方がよいとされているから僕のHDLはそのままの異常値を保っている(薬の作用で少々上昇したが)し、中性脂肪値が基準を下回っていることの弊害も今のところ、誰も指摘していない。
 指摘しないものは存在しないのだろうか。

>>>

 そのようなわけで、僕は子供を作らないつもりで生きてきたし、たぶん今後も作らないだろう。
 もちろんこれもそれまでと同様、気が変わることはあるだろうし、できてしまうこともあるかもしれないけれど。
 つもり、とか、予定、とかいうのはそういうものではないか。

>>>

 僕は死を歓迎する。

 認知能力も運動能力も低下して、自立生活できないどころか識域さえ曖昧になって生きることに、本当に意味なんてあるのだろうか。
 曖昧な自意識の中で、それでも自らの意思(認知能力の低下が進むと、否定しかできなくなるように観察されるが)を表明することに、どれほどの意味があるのだろうか。
 そこにあるのは、はたしてその人だろうか。
 それとも動物的な、あるいは化学反応的な反射ではないのだろうか。

 自我というものには、たしかに境界が存在する。
 そして同時に、境界領域には濃度が存在する。

 記憶がおぼろになれば、必然に領域濃度が薄くなる。
 本能による反射だけでもあるうちはよいが、それさえ(内分泌レベルで)低下した場合、人格は曖昧になるだろう。
 薄くなっても、淡くなっても、もともと曖昧な自我を持つ僕のような人間でもでない限り、多くの人の自我は自我として、自己主張をすることだろう。

>>>

 優生保護法に関するニュースを見たときも、僕は子供の頃の自分の気持ちを思い出した。
 あの頃の僕は本能的に、この血を残してはいけないのだと強く感じたし、その思いの通りに生きてきたと思う。

 障害というものの境界線を引く作業は容易ではない。
 車いすの人だって、階段があればそこは通れない場所だけれど、スロープとエレベータがあれば、二足歩行の人と変わることはない。
 眼鏡やコンタクトは、車いすと違うのだろうか。
 身長の低い人は、高い場所にあるものを取れないけれど、あれは障害なのか。
 計算の遅い人は、早い人に比べて障害があるのか。
 日本語の不自由な人、理解能力の低い人、頑固な人、自己中心的な人は障害がないのか。
 障害は個人に宿るのではなく、社会の中で認識されるものだと考えれば、コミュニケーション能力の低い、あるいは協調性のない人間もある種の障害者だとはいえないだろうか。

 障害者と非障害者の間には明確な段差が高くそびえているのではなくて、緩やかな斜面のように連続していると僕は感じている。
 そしてその境界は、実のところ、非常にあいまいだ。

 それでも、外から規定しなければ、線を引かなければならない理由が、この国にはあったし、今もある。
 福祉を提供するものと、受けるものがある以上、それが好適である以上、避けられないのだ。
 すでに高齢化によって、福祉は拡充が困難になりつつある。(縮小を始めている)
 遺伝特性が危惧される交配を予防するのは(線引きや手段はともかくとして)個人的には、間違った思想だとは思わない。

 個々人の権利の問題であるとか、憲法、法律、政令の関連については、それを守るよりほかにないし、守っていなかったのだとすれば、杜撰だという指摘は事実だろう。
 国が規定できないのなら、個人が自ら規定するしかない。

 少なくとも、僕はそうやって生きてきた。

 僕は将来的に障害者となる可能性が非常に高い潜在的心疾患者として、自分を規定した。
 実際に親族のほとんどは高い障害者レベルを持ち、僕の父などは一時期、就労が不可能なレベルだったために生活保護を受けていた。僕が小学生の頃のことだ。
 遺伝性(医学上は「家族性」といわれることが多い)脂質異常は、僕個人にとっては先天的な障害なのではある。

>>>

 文化や思想というのは、法によって形成されるわけではない。
 個人の中で生まれ、集団の中で形成され、社会の中で焼成され、時間をかけて熟成される。

 死を単に忌避する文化は、もう終わりを迎えている。
 なぜならその文化は単に生体としての生命を永らえるだけに過ぎず、社会は個体の主体たるべき自我を規定する段階に到達したからだ。
 肉体が衰えるよりも先に脳が衰えて人格が希薄になる(それだけ肉体的な健康寿命が延びる)時代が訪れたならば、人間は肉体の死よりも先に、人格の死を受け入れる必要が出てくるし、それは現在すでに萌芽しているように思える。

 伊藤計劃が小説「ハーモニー」によって、社会におけるリソースとしての個人を明示するより以前から明らかに、社会は個々人を単なるリソースにしている。

 個々人が集まって社会を作った。それは演繹として正しい。
 けれども、社会における個々人間の結束が失われ(「絆」等の白々しい情緒的概念を取り除けば、個々人は金銭や土地、血統、情欲などによってリンクしているが、それすら徐々に分解を続けている)、コンポーネントがユニットへ、ユニットがパーツへと分解されつつある。

 血族からの支配は弱まり、血統を無視したファミリーネームの統廃合が強まる。
 人間の人間に対する情欲も変化して、今よりもっと距離のある(現状からみれば希薄な)、客観的なものに変化するはずだ。
 土地に縛られる生き方以外の選択肢は増え続けるだろうし、金銭の価値や意味はある段階で加速度的に変化するだろう。
 これらは人口の減少によってより加速するものもあるが、それが個人主義的な文化の到達点のようにも思える。

 結束を伴わないパーツの集積体は、結果的に総体としての機能を果たさない。
 実態に則した形態に変化しなければ、空転するリソースによっていっそう痩せ衰えることになる。

 社会という広い範囲にまで目を向ける必要などない。
 自分とその両手の届く範囲に、障害を持つものは相当の負担を掛け続ける。
 一人の命は星より重いという幻想を僕は信じない。
 もしそれが現実ならば、人ひとりのために、星がひとつ必要になるが、現実としてひとりの人間にそれほどのリソースは与えられていないし、与えることなどできない。

 当時は相当の潔癖症であった僕にとって、それはほかの誰かであるとか社会や国家のためであるとかではなく、自分の理念として、必然的にもたらされた選択肢だった。
 つまり、遺伝子を残さず、できうるならば消すことが。

>>>

 20年ほど前から尊厳死のような自己選択的な死の必要性を僕は感じてきたし、周囲にも明に暗に表明してきた。
 もちろん最初の頃から今に至るまで(驚くのは未だに、ということだ)ほとんどの人は、驚くし、否定するのだけれど。
「まだ若い」ともよく言われるが、若いうちから死について考えるのは果たして意味がないのだろうか。
 たまたまその人が、若い頃はそんなことを考えていなかった、というだけではないだろうか。
 それに「まだ若い」と言われる人間というのは、その程度には年齢を重ねている、という意味でもある。
(赤ん坊に「まだ若いのに」なんていう人はいないのだから)

 僕の寿命はどんどん減っていく。
 とても安心する。
 雑多な自分の感情や、不可解な人々の価値観に、振り回されなくて済むようになるぶんだけ、僕の心は静寂に包まれる。

 寒い冬の夜の、あたたかい毛布のように。

>>>

 あれから僕は、ナイフを使えるようになったし、魚も捌いた。
 それだけではない。
 有象無象、さまざまなものを殺して命を存えている。
 それ自体は、生きるということそのものだから、特にどうというものではない。
 殺したぶんは、大事に生きようとは思っている。

 従姉妹の幾人かは、結婚しなかったり、あるいは結婚しても子どもを作らなかったりしている。
 その理由を僕は知らない。
 尋ねるつもりもない。

 秋が来て、やがて冬が訪れる。
 春の陽射しに芽吹くものたちのことを、僕はいとおしく思う。
 そして同時に、冬の土の中で眠り続ける者たちを、そっとしておきたいと、そんなふうに思う。

 掘り起こされて、蒐集されて、分析されて、意味づけされるなんて、自分だったら耐えられないだろう。
 10歳の秋に不意に死について考えて、半年くらい口もきけないほど絶望した。
 それから10年近く、僕は、何かを残そうと躍起になった。
 何かを残したい。何かを留めたいと。それは本能のように。

 今は真逆だ。
 何も留めたくない。何も残したくない。
 亡骸を誰かの価値観で意味づけされるなんてまっぴら御免だ。
 留めたものを値踏みされるなど、屍体を陵辱するのはやめてくれといいたくもなる。

 土に眠る頃には、誰かですらなくなる。
 そういう静けさの中に眠っていたい。








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