あまり身に覚えはないのだけれど、若い(だいたい10代の)頃から「変態」もしくは「変態っぽい」という評を受けることがある。
 あまり、と書いたが、正直、まったくといっていいほど、これっぽっちも、身に覚えがない。
 もしかしたら貌の造り、あるいは表情のパターンがそういう認識をさせるのかもしれない。
 けれども僕は変態ではない。

 ただいずれにしても、特に否定したことはない。
 わざわざ否定することでもないと思うし、否定しなかったとして何か問題があるだろうか。

「変態」もしくは「ヘンタイ」と認識されていることを自覚するのは、決して楽しいものではないし愉快でもないとは思う。(昨今は、ある種の領域内に存在していることを指す敬称として使われることもあるようだけれど)
 生態的に見れば、変態によって新しい機能や能力を獲得するわけだから、良いも悪いもない言葉のはずなのだけれど、こと人間に対してつかわれる場合はどうも落ち着きの悪い形容である。
 どちらかというと、常態の反語としての意味合いが強い蔑称として使われることが多かった経緯からかもしれないが、これは単に猫(や人間)をはじめとした多くの哺乳類が、変態をしない(直接発生する)生物だからと考えれば、自分の中に微かに発生する違和感にも説明がつく。

 さらにショッキングな事には、恋人の一部にも「顔つきが変態そうだから」という理由で僕の恋人になることを決めた人もいるようで、種々相予測のつかないものばかりである。

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 一般に人間における変態性とは、概ね性的な嗜好としての意味合いで言われることのように観察される。
 ところで僕に分からないのは、前提として存在するはずの「性的な常態」である。
 なにそれ? って思うのは僕だけでしょうか。

 仮に、変態的な性的嗜好を「eccentricな~」と考えた場合、偏心、つまりは中心から外れて、ということになる。
 したがって、常態すなわち中心、main stream (主流)に該当する概念があるということになる。
(ちなみに、eccentric の対義語は concentric だったと思うが、同心であるという概念は、main stream の概念とおよそ等しいようにも感じられる)
 もっとも、性倒錯については perversion という語が用意されてあり、これは perversity(正反対)というラテン語を語源にして発生し、(キリスト教義上における)「背信的/邪教的」という意味も含まれているように見えるから、ある意味インディジョーンズの映画みたいなものでしょうか。

「be fruitful、and multiply、and replenish the earth」の和約で一般に広く知られているほうはいささか下品に過ぎると思うが、それを性行為的に解釈したものを正道であると仮定するならば(すでに暴言)、先進国におけるほとんどの性行為は邪道的=変態的とはならないだろうか。

 さて、このように考えを広げたところでふたたび本題に戻りたい。
 いったい全体、多くの人の呼びならわす変態とはどこからどこまでのことであろうか。
 あるいはどこから先の無限遠の広がりのことであろうか。
 そして常態とは、それが性的嗜好であった場合、どこからどこまでのことであろうか。

>>>

 とまぁ、このように考えると、変態だろうが常態だろうが「なんだかテキトーなことをこの人は考えて人のことをとやかく言っているんだろうなぁ」と思えるようになってくる。
 事実として、性的なことに限って言うならば、僕には常態も変態も特にない。
 僕には性的自意識が欠如している(機会があれば、いつか書くかもしれない)ので、そこから始まって、どうしようもないのである。
 中心のないものに偏心などない。

 ゆえに相手の望む範囲で、たとえば首輪とリードを着けさせるだとか、梱包資材で梱包するとか、叩くとか、首を絞めるとか、刃物で切るとか、ちょっと変わった身体へのアクセスをすることに、特段の抵抗はない。
 ほかにも本来適合しない場所で、適合しない行為をする(させる)というのも同様である。
 下世話になるが具体的な例を挙げるとすると、湯を張った浴槽内で服を着たまま食事をするとか、そういったようなことである。
 排泄行為を、不適切な場所や方法で行う(させる)ことにも抵抗はない。
(キャンプ、あるいは野宿の延長線上と考えればどうということもない)
 食べ物を身体に載せる、塗る、などの行為も特に抵抗はない。
(大きな食肉や鳥獣魚類を捌いたり、その現場を見ている人間には、生き物と死体である食肉とのギャップにも抵抗は少ない)
 抵抗がないということは、従って、その行為に格別興奮するというわけでもない。

 着衣入浴&食事は排泄行為を含まない限りは後片付けも比較的簡単だし、ひとりでも(性的な興奮が伴うかは別問題で個人差だろうが)なかなか楽しいと思うので、試してみることをお勧めする。そのときは照明も、蝋燭や懐中電灯などを使えば普段と違う雰囲気で楽しめるだろう。(端的にいえば、キャンプのときの土砂降りに似た楽しさだと僕は思っている)
 
 とはいえ人体を細い紐状のもので縛ったり、皮膚を刃物で切ったり、針のようなもので刺したりするのは、叩いたり首を絞めるのと同様、非常に危険な行為だ。
 他にも、食品を(性的に)取り扱う場合は衛生管理だけではなく温度による人体への影響も考慮する必要がある。
 たとえばアイスクリームを人の体に塗りたくるべきではないし、人の背中はステーキ皿にも灰皿にも適していない。
 糖分は、一部の粘膜で悪性の菌類を繁殖させる原因になることもあるかもしれない。

 どうもエキセントリックな行為そのものに興奮してしまう人は、興奮のあまり危険度の判断を誤ったり、あるいはあらかじめすべき警告をうっかり(場合によっては故意に)忘れたり、注意すべきポイントを見誤ったりするようだ。
 外傷を伴う場合や食品を扱う場合は感染症の危険があるし、道具による圧迫によって血流が阻害され、血管や筋肉、神経系が傷つくこともある。無理な体位を維持するのは筋肉組織や骨格への過負荷が発生することもある。これらは長期にわたる後遺症や、場合によっては死に至る可能性もないとはいえない。

 相手が生きている人間かどうかさえおろそかになるような人間は、まぁ、それこそエキセントリックだとは思うし、人形性愛にでも落ち着いていた方がよいとは思うのだけれど。
 そういった短期/長期的な危険を予測しながら人の体に力を加えるような状況下で性的に興奮できる人がいるとすれば、僕など足元にも及ばないくらいの相当な変態だと思うがどうなのだろう。

 そしてそういう嗜好を個人的には持っていないにもかかわらずどういうわけか、そうした本当の意味でのエキセントリックな人たちを差し置いて(差し置いて?)変態のレッテルを貼られるのである、僕は。

>>>

 おそらく、常態と変態を(厳密にであれ曖昧にであれ)自身の中に境界を持っている人の方がおそらくはまとも(つまりは常態)なのだろう。
 よって、僕のように性的なことに関して特に常態も変態もないと思っている人の方が、おそらくは変態なのだろう。
 なぜなら、境界があれば分別がつく。
 分別がつけば「まとも」なフリも簡単にできる。
 よって境界がなければ分別がなく、分別がないから「まともでない振る舞い」に抵抗がない。
 それが周囲をして僕を変態と認識させるのかもしれない。

 嗜好品もそうだけれど、病気なども、免疫を持たない人の方が症状が重くなる。
 ありとあらゆる差別的思考も、そのほとんどは考えたことすらないという、食わず嫌い的な理由によって始まっているケースがほとんどだ。

 僕はあまり、そういった「良識(と一般に呼ばれる曖昧なもの)に基づいた判断基準」の境界が曖昧というか、存在しないようなのではあるし、そう心がけている。
 あるいは厳密に定義しようと試みるうちに、良識そのものの定義が曖昧になる為に、境界が曖昧にならざるを得ないのである。

 人々の良識による判断基準などというのは、クレヨンで機械製図をするようなものだと常々僕は感じている。
 もちろんそのクレヨンの直径たるや、個々人の思想によって大きく変わるものでもあるし、そもそもの線引きにあたっては個々人の体力や視力によっても大きくズレが発生するようですらある。

 なるほど厳密に定義しようとすればするほど曖昧になる基準(物理でいえば量子系に顕著な現象ではないだろうか)において、僕のような人間が変態に分類させるのは至極当然のようにさえ思える。
 定義できないものを「定義できない」と言ってはいけないのが、宗教じみた(あるいは文系じみた)善悪の世界なのだろうから。
 彼らは単に自身にとって容易に理解できるものを潜在的に「常態」として考えており、それに除外されるもののすべてが「変態」なのである。

 こうして考えれば変態が蔑称として機能している理由も、僕が変態を定義できない理由も説明がつく。

 何のことはない、要は好みと知性の問題ではないだろうか。




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SUBTITLE:
~ The chatter in the lie. ~
Written by BlueCat 


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 嘘も方便、とはよく言うものだが、方便というのはもともと仏教の用語である。
 一般に嘘というと、誰かを欺くもの、偽りによって利己を満たすもの、というように思われあからさまに嫌われるように観察される。
「あの人は嘘が上手だ」とか「あの人の嘘は気持ちがいい」などと言われる事は稀ではないだろうか。
 しかし実のところ、多くの嘘がこの社会を覆っているのも事実だ。
 オブラートのように口当たり良くコーティングされているのは、良薬か、はたまた毒薬か。
 翻って僕個人に関しては、嘘というものに関して悪いイメージがあまりない。

 嘘というのは、言葉の使われかたの一形態を指し示すものである。
 情報が故意に偽られていた場合、その情報そのもの(あるいは使われた形態)をさす名詞である。
 名詞として存在しているから、その名にもたらされた意味が俗悪なものになっているように感じることはある。
 実のところ、嘘という言葉をして人は動詞と捉えているように観察される。
「それは嘘だ」と誰かが言う場合、「そこにある言葉(文章)は嘘ですね」という額面どおりの意味ではなく「その発言をした者は嘘をついた」という意味の方に重きを置かれているケースが多い。
 すなわち文脈上、「それは嘘だ」=「それは発言者が虚偽を発信した(かつ受信した者を欺こうとしている)のだ」となる。

 さらにいえば、嘘を指摘することは、そのまま相手を断罪することにさえ使われる。
 第二人者の発言に対して「それは嘘です(ね?)」という場合、「(あなたは私に)嘘をついて欺きました(ね?)」という意味に使われることが多く、強調した確認の語尾がつく場合、その時点でかなり強い断罪の意思が感じられる。
 要するに(嘘だとしたらただじゃおかないぞ)という意味である。
 多くの人はこの「嘘だと定義することが、嘘をつくという行為を指摘することであり、非難と同時に断罪になる」という用法に違和感を感じないだろうし、改めて考えたこともないだろう。

 しかし名詞を冠して定義するだけでこれだけの作用をもたらす言葉も少ないのではないだろうか。
 たとえば「それはペンです」という発言が「あなたはそのペンで誰かを刺しましたね」という意味になるということだ。
 ふつう、そんな意味にはならない。そんな意味で使う人がいたら、むしろその人が異常者扱いされるだろう。
 まぁ、もちろん、嘘というのは言葉を発するという行為によって発せられた情報に冠せられる名詞だから、状況が違うのは事実だけれど。
 行為の結果物の名称は、それと名指しした時点で行為に関する悪質性を断罪される性質があるのかもしれない。
 たとえば欠陥住宅、おとり広告、絞殺死体、ペペロンチーノ、などなど。
「これは欠陥住宅ですね?」なら、それなりの断罪意図を感じる。
「これは絞殺死体ですね?」ではあまり感じられない。
「これはペペロンチーノですね?」ともなると、まったく感じられない。そもそも料理という行為は悪質ではないから。

 欠陥住宅と絞殺死体の違いは、質問を投げかける第一人者と投げかけられた第二人者に対する対象物が人間である(あった)為(「モノ」と認識する上で倫理上のフィルタがかかっているから)なのかとも思うが、直接利害関係がないから、と考える方が妥当だろう。
 直接利害という意味で考えると、「私は絞殺死体ですね?」とすれば、少々のシュールさも手伝って、相当にインパクトのある断罪の意図を含ませることができるようにも思う。

>>>

 真を知りつつ偽るのは、そしてそれによって他者を欺き利己を満たそうとするならば、確かにその欺瞞は悪であろう。
 しかし真を偽ることのすべては(表面上他者を欺く事にはなるかもしれないが)利己にだけよるとは限らない。
 まして真を真として知ること、それを認識し理解し記憶することがどれほどむつかしいかを考えた場合、時系列的に真を知らず、結果的に虚偽の発言が嘘としてみなされる事もあるだろう。

 少なくともそう考える僕にとって、嘘というのは言語を介したコミュニケーション上の現象やその解釈にしか過ぎず、重要なことは利己心によって利益を得ようとし(他者が損失を被ること=他者に損害を与えることが前提の場合はそれを秘匿し)働きかける目的であったかどうか、すなわち詐取に当たるかどうか、ということのように思えるのである。
 つまり利己心なく、他者の害の有無も知らない場合は、それは嘘にもあたらない。
 なぜといって、真実事実に該当しない事そのすべてを嘘としてしまえば、極端な話、当らなかった天気予報さえ嘘になってしまう。
 もちろん、雨だと予報されて晴れたときに「気象庁はアテにならん」などと不平を言う人も中にはいる。
 でも「気象庁は嘘つきだ」とまで言うとしたら、それはさすがに苦笑をもって聞くよりほかにない。

>>>

 以前、ある取引先を訪ねたときのことである。
 今まで見かけぬ社員の方がいらしたので「社長、新しい方をお迎えになったのですか」と尋ねたのである
 そうしたら「いや、気が付いたらそこに座っておって」などと冗談をおっしゃる。
 それにしてもひどい冗談で、聞いているこちらですら返答に困った。
 言われた社員の方は、いったいどう思っただろう。

 またその社長は、以前に別の社員が入社した時にも「しばらく人を入れる予定など無かったのだけれど、彼がどうしてもと言ってきたので仕方なし、入れてやった」などというのである。
 それぞれ他に聞く者のない部屋であればまだしも、当人の耳に入るような至近の場所である。
 こころなし眉をひそめることになったのはいうまでもないし、それを聞いた社員の方の心情や推して知るべし、である。

 もとよりそういう性質の人というのはいるものだ。
 特に後者の説明など、見ようによっては「それだけ自社にはブランド力があり、自身は懐が深いのだ」と言わんとしているとも考えられる。自己顕示欲の表れである。
 無論、昼行燈につとめている僕などは一切コメントせず、無視したが。

 仮に、自社に頭を下げて入社した社員がいたとしても(いかなる場合でもその程度の挨拶はするものだと思うが)、きちんとしたリーダならそんな紹介はしないものだ。
 プロジェクトに直接関係している人物であれば、彼を呼びつけるか、あるいは様子を覗ったうえで直接間に入ってかは別にして、紹介して下さるものだろう。
 そのときも「私が目をかけて入社してもらった非常に優秀な社員なので、取引の際に彼が担当になるときには、私のときと同様にお願いします」といったあたりが適切ではないだろうか。
 仮に彼が見習い中であろうと、つまりは実際の能力はいかほどであろうと、そのように紹介されて厭な思いをするだろうか。過大な評価に萎縮して仕事ができなくなったりするだろうか。そんなことはあるまい。

 会社や社員を卑下するだけならまだしも、それにかこつけて自身を虚飾しようなど、本当にみすぼらしい発想なのではないかと、あのときは背筋が寒くなったものだ。
 実際に数年後、かの会社にいたその二人は、時期は違えどそれぞれ独立されていた。
 他の社員も、ある程度まではいられるようだが、気がつけばいなくなっていることが多かった。

 従える者をただぶら下がる後塵としない点において、独立心を養う土台として、彼のやり方はひとつの才能といえたかもしれない。
 しかし当の社長は、優秀な社員が次々立ち去って能力的に痩せ細った会社を、裸の王様然となるべくしてなった自身のことを、どう思っているのだろうかと考える。
 会社という存在を考えるならば、自分の部下は(仮に自信がないとしても)自信たっぷりに紹介してやってしかるべきだろうし、そうできるように育てることを社員教育と呼ぶのではないだろうか。

 少なくとも今まで見てきた中で、有能な経営者やリーダは、組織の末端にいる人間をとても重要視しているように振舞っていた。
 新しいお客様に対しても、部下に勝手に名乗るように促すのではなく、自分が間に入って紹介していた。
 場を取り仕切るというのはそういうことではないだろうか。
 なに、内実はどうでもよいのだ。
 こいつは顔がいけ好かん、とか、給料泥棒め、とか、いまいちぱっとしないんだよな、なんて思っていてもそれはそれで大いに結構。
 道具の欠点を把握できないリーダが組織を動かせるはずもない。
 まして、組織を組織として生かすことよりも、自身のお飾りに使おうなどという下賤な精神の持ち主にあっては、生きた組織も窒息するだろう。

 嘘から真ともいうように、相応に扱っておけば、道具も人も相応になるものだ。
 有能な素地を持つ者にはその素地の素晴らしさを明確に褒め、忌避すべき慣習を持つ者にはその改善を暗に誘導するのが教育ではないだろうか。
 どんな高級な道具でも、手入れもしないでぞんざいに扱えば早々に傷むものだし、廉価の道具だって大切に使えばよく働くものもある。
 とはいえ、素養は大事だ。
 材質の悪い道具は、所詮、材料相応の役しかこなせない。
 そして同時に、どんな高価な道具であっても、使う人間の技術が素人であっては、どのみちモノになりはしない。

>>>

 いつだったか、聖杯伝説の話をある人から聞いたことがある。

 キリスト教にも、岩に刺さった剣を抜いて王になった男の話にも、まったく詳しくない私なのではあるが、聖杯というのは「それを探す者には見つけることができず、手にすることもできない」と聞いて惹かれた。
 聖杯を探し求める数多の者は「聖杯を探す」という目的を持っているがゆえに絶対に見つけることができないのだと。
 聖杯を知らず、聖杯のありかを知らず、聖杯の意味を知らぬ者だけがそれを手にするのだと。

 仮にその聖杯とやらが、宗教上の価値だけでなく、魔術的な価値さえも有しているならば、あながち信じられない話でもない(魔術そのものが存在するかは別として)。
 ではその至宝に、いったい誰が近寄ることができるというのか。
 一体何者であれば、それを手にすることができるのか。

 真実価値のあるものとは、そのように、直截(ちょくせつ、と読むものである)に手に入るものではないのではないか。
 いかなる美徳も、現実世界ではそう生半に達成できるものではない。
 ましてひとり二人ではなく、数百、数千、数万人の規模ともなれば、時にそのうちの数%を窒息させることでよりよくなることもあるだろう。
 たとえば人体が新陳代謝をして、古い細胞を排泄するように。
 あるいは社会が犯罪者(とみなされた何者か)を処刑して、健全な社会を維持するように。

 件の聖杯のエピソードとその真偽を知りたくてWebで調べてみたものの、まったくそれらしいものが見つからなかった。
 それどころか時代の流れか、探求した場所(媒体)が悪かったのか、FXやら仮想通貨やらがいまや「聖杯」の名を冠せられている。

「神~」といった用法で、神様もずいぶん安っぽくなったものだが(神対応ってなんだろう。神様はそんなに親切だったか?)、聖遺物も相当に安くなったようだ。
 それとも昔から、人間にとって都合のよいものが「神」であり「聖」なるものだったのか。
 そうだとしたら、ずいぶん俗なものだったのかもしれず、人は崇高さを偽って、何かを誘導していたのかもしれない。
 もっとも迷える羊たちがどこに行こうが、誰知らぬというのも昨今の風潮ではあるのだけれど。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Human-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]


//EOF
 また引っ越しを考えている。

 何の因果か分からないが(いや、じつのところ分かってはいる)、以前在籍していた会社の取引先に、勤務している。
 この街に来ると、どういうわけか僕は天下りみたいな仕事(詳細の説明はしたくない)ばかりになる。
(きっと僕が天使だからに違いない)
 しかし以前の転職の際、かなり離れた街に引っ越した(今回だって本当は京都に越す予定だった。この街に戻りたくなかった)ので、通勤はだいたい片道1時間以上かかる。苦痛である。

 しかも職場のあるこの街に介護対象者(伯父と伯母)がいる。
 よってこの街、もしくはその周辺に棲むのは、比較的合理的かつ妥当かつ適切であると判断できる。

 ただ正直なところ、市街地には棲みたくない。
 伯父伯母の家(完全な空き家になりつつある)は、いわゆる「閑静な住宅街」の中だけれど棲みたくない。
(一度追い出されているから、余計に棲む気にはなれない。二人が死んだら手放すだろう。近所づきあいもしたくないのが私の性分であるし)
 住宅街でも、明るくて、人の気配がすぐに感じられる場所は苦手だと気がついた。
 隣の家の人がまた何とはなしこちらの様子を覗っている(そういう気配が明らかである)。
 市街地のほうがまだましだが、旧来からある土着の戸建住宅はこれだから厭だとつくづく思った。

>>>

 僕が思うに、深夜にカーテンを開け放ったままで、照明を点けていない部屋に差し込む微かな環境光でなんとか見渡せる程度、というのが望ましい。
 だから、たとえ街灯であろうと、煌々と照らされるのは不快なのである。
(もちろん、単に僕が光に過敏なだけであることは重々承知しているが)
 住宅街には街灯があり、部屋の窓が床面から天井までの場合、これらの光は僕には過剰になる。
 窓なんか最小限でいい。
(なぜか未だに「採光の良いこと」が住宅の利点として考えられがちな風潮にあることが僕には少々理解しがたい。正直、自然光は強すぎると思う)

>>>

 そんなわけで物件を探している。

 しかし、今棲んでいる場所が相当にヘンな物件であるためなのか、当たり前の物件を見ても面白みを感じないようになってしまった。
 まぁ、ヘンといっても、そんなに異常な物件ではない。
 ただ、賃貸に出されるマンションの内、L字以上(まぁ、コの字やロの字なんて稀だとは思うが)にベランダが取られている場所は、どんなに多くても1フロアに4個室までしか数がない(コの字/ロの字となると、中央に吹き抜けのある建築物でもないかぎり、1フロアに1個室である)。

 たまたまそのベランダの造りと、面積当たりの賃料の安さが気に入って借りてはみたものの、旧来の構造物に対してリフォームされている部分と、自分のニーズとの乖離に悩むんでいるのも事実だ。
 なにせ異常なほどに風が強い地域(ベランダで風力発電できるんじゃないかと思うくらい)なので、サッシが複層になっていないのはつらいところだ。
(のちに、隙間風がすごいことも確認されている)
 それからとりあえず窓が多ければいいだろう、といった設計志向も、結局のところ僕には合わないのだと気づかされた。

 僕が望む条件は、
○窓や扉、梁状の出っ張り(床面から天井面まで)のない(のっぺりとした)壁面が最低でも各部屋1つは欲しい。
○メインの窓は東向きが良い。そしてそれ以外は必要ない。西側は不要だし、南側もない方がよい。
(優先順位的には東>北>南>西だろうか)
○天井から床面に達するのガラス戸(人間が出入り可能なサッシ戸)は居室全体で1つあれば充分。
○ベランダは燻製をしたり、葉巻を吸いながらカプチーノと読書をを楽しんだり、ぱやぱやしたり、ひとり焼き肉(まぁ、椅子は二つ用意してあるが)をしたりするに充分な広さがあればよい(現状満たされているこの条件は妥協せざるを得ない)。

 だいたいこんな感じである。

 RC造を今回は選んだが、上階にDVカポーが棲んでいたりすると、夜通し掃除機をかけられたり、週末に冷蔵庫が倒れたような轟音がして数時間後に警察が訪ねてきたり、夜中にふいに悲鳴が聞こえたりするのは(単層サッシのせいもあるが)避けられず、振動や音の軽減はあまりされなかった実態があるので「まぁ、できればRCのほうが無難だよね」くらいの認識に留まった。

 もっとも軽量鉄骨だと、どれだけ床材をクッションコンプレクス材に変えても、吸収しきれないものが発生する(人の情念であるとか、多い日の不安であるとか、きゃっと悲鳴を上げて転んだ眼鏡ガールを受け止めるときのフィジカル/メンタル面での衝撃であるとか)ので(特に下階から上階に抜けるという逆転現象が発生するケースもあるらしく )まぁ、そのあたりは考えようだろうか。

 予定では10年以内に(可能であれば)仕事を辞めて(少なくとも)隠居しようと目論んでいる。
 もともと人間関係が面倒な性質である。
 人当たりの良さには相応の評判があるが、要はそれだけ気を遣っているのではある。
 しかし一方で、
「態度が慇懃無礼」
「礼儀正しすぎて何を言っているか分からない」
「聞いたことのない丁寧語・専門用語が出てくる」
「専門用語の説明が長くて分かりにくい」
「省略した説明の内容がざっくりすぎて分からない」
 などのクレームが(およそ5%の頻度で)発生している。
 僕の人間関係にはつきもののクレームである。

 もちろん、
「態度が粗野」
「方言がひどくて何を言っているか分からない」
「意味のない専門用語を使う」
「専門用語の説明ができない」
 といった方面のクレームをいただくことはないので、反動なのだろうと理解してはいるけれど。

 万人を満足させるのはほんとうにむつかしいことだ。
 自分を満足させることはどうだろう。
 案外、まわりを気にしすぎて、自分を満足させることができなくなっている人もいるのではないかと僕は想像する。
 もしもそういう人がいたら、その人はちょっとしたビョーキではある。
 無論、ビョーキで悪いということではない。ただ自覚は持っていた方が健全でいられるだろう。



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SUBTITLE:
~ on no account. ~
Written by BlueCat


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//[Body]
 自分の書いた文章が誰かに読まれることと、誰かに読ませる(あるいは読んでもらう)こととは少し違う。
 そしてなおかつ誰かに読まれることは、それを想定していない場合、勝手に読まれたということになるだろうし、それが普通であるのがこの世の理ならば、少なからず乱暴というか、無思慮というか、暴力的というか、ひどいものだと僕は思う。

>>>

 文字はときに信用できない。

 たとえば自分の書いた文章であったとしても。
 仮にそれがどんなにプライベートに、そのときのことを正直に書いたものであったとしても。
 いや正直だからこそ余計に、プライベートだからこそ余計に、信用できないものになる。

 たとえばその日にあったことを日記に書く。
 それに付随する感情を書く。
 それらは書いたその瞬間から変化してしまう。
 なぜといって、書いている自分が変化してしまうから。

 変わらないでいられる人もいるだろう。
 現実が変わるはずもないという人は多いだろう。

 でも、僕にはそうは思えない。

 たしかに今日の為替レートであるとか、天気であるとかは、記録しても変わらないだろう。
 でも世の中にあって、生活の中で、そんなデジタルな情報ばかりではないのも事実だ。
 晴れのような曇りもあれば、曇りのような晴れもある。曇りのような雨もあれば、雨のような晴れもある。
 そのとき、日記に曇りのち天気雨、みたいに書いてもいいのかもしれない。
 でも、今日の天気のすべてを書くこともできない。

 だから記述される情報はいつも部分的/限定的で。
 そこから付随した(あるいは記録したかった)情報のすべてを完全に再現することは、書いた本人にさえできない。
 読んだ人間は、記録されている部分的な情報から、勝手に自分の感情や経験に従って記録されていない情報までを再構築することになる。
 もちろん、それは何ら不自然ではない。

>>>

 プライベートな文章というのは、だから、何らの補足をしない。
 誰かに説明するための記録ではないからだ。
 他人が読む場合は、前提条件を明らかにしたり、一般論とその事象に固有の個別論を分けて説明する必要があったりする。
 そういった補足のない文章を勝手に読んで、勝手に解釈した人から、勝手に抗議された経験が、僕にはある。

 たとえば他人(友人であるとか、恋人であるとか、あるいは赤の他人でもいい)が自分の携帯端末を開いて、さまざまなアカウントにアクセスするのに似ているかもしれない。
 あるいはもっと端的に、強姦に等しいかもしれない。
 そのくらい野蛮で、無思慮で、幼稚で、凶悪だと僕は思う。

 でも文章は、たいていの場合、無造作に、ほとんどなんのセキュリティもなく、置かれている。
 とくにプライベートなものは、プライベートなスペースに置かれることによって、セキュリティが保たれる。
 携帯端末は持ち歩くものだし、Web上のアカウントはパブリックな場所で薄膜を隔てて存在している。
 危険が予測されるものには、相応のセキュリティが確保される。

 実のところ、プライベートな空間は、それだけで基本的なセキュリティが確保されている。
 たとえば自宅の書架のような場所は、Web上の情報とは比べものにならないくらい、まともなセキュリティが確保されている。
 電子化が進み、ネットワークによって人が繋がり、情報が(薄膜で守られていてもいなくても)開示されている今ではなおさら、ハード的に確保されたセキュリティに勝るものはない。

 僕がそうした無思慮な誰かによる暴力的な閲覧行為を受けたことで学んだことのひとつは、セキュリティにはたいした意味がない、ということだ。

 たとえばどんな服装をしていても。
 極端な話、銃器で武装していても。
 強姦される人は強姦される。

 パスワードで保護していても。
 ガジェットによるハードを介した暗号化を施しても。
 物理的に厳重な鍵を用意しても。
 セキュリティは非合法に突破される。

 確実なのは、何も持たないことだ。
 外に出ないこと。
 誰であろうと、物理的にも精神的にも接触しないこと。
 言葉なんか書かないこと。
 超本格的な引きこもりではあるけれど、それが一番安全である。
 何も思わず、何も感じずにいられれば、もう完璧である。
 もちろん、そうまでして生きる意味など微塵もないとは思うが。

>>>

 暴力的な閲覧行為を受けたことで学んだもうひとつのことは、自分以外の人間を信頼することは意味がないということだ。
 そうした無思慮で暴力的な傾向は、外側からはなかなか判別しにくい。とくに僕のようにぼんやり生きている人間には致命的に判別できない。

 ぼんやり生きている方が悪い、という意見もあるだろう。
 ならば僕は死にたい。死んだ方がましだと思う。
 ぼんやり他人を信じて生きていられない世界なんて滅びればいいし、滅びるわけにはいかないのなら(もちろん当たり前に滅びないし滅びるわけにはいかないから)自分が死んだ方がましだと素直に思う。

 手当たり次第に誰彼かまわず疑ってかかるような人間になって、そんなみすぼらしい生き方をしてまでちっぽけな自我や所有物を守るくらいなら、自分の身体も含めて持たない方がましだ。

 ただ、自殺するのは手間がかかる。

 不憫なことではあるが、ある程度以上の周到な用意が必要だ。
 単に今生きて、明日も生きるのとはわけが違う。
 困ったことに生きている方が死ぬよりもラクなのだ。少なくとも現在のこの国のこのエリアでは。
 だって葬儀の手配であるとか、遺品(になるであろう品物)の整理であるとか、それ以外の財産の処理であるとかを考えなくてはならない。
(基本的に、誰かを頼るという考えが、子どもの頃から僕にはないので)
 遺書を書かなきゃだし、場合によっては公正証書遺言を残さなきゃだし、葬儀の相談に行かなきゃだし、自殺の段取りも考えなきゃならない。
 生活用品の整理をして、アパートの解約をして、銀行口座その他諸々の解約をして、ゴミを整理して、遺品を収める倉庫を借りて、そこに移送しなきゃならない。
 周囲の人に気づかれずに。仕事なんかの日常生活をできるかぎり続けたまま。
(日常生活をきちんと送っていないと周囲に怪しまれるから。あと、死ぬのに必要な費用を稼ぐ必要があるから)
 そうやって周到に死のうと考えた場合、その準備には3ヶ月は必要なのである。
 死ぬために3ヶ月は、それ以前よりも注意深く、真面目に生きなくてはならないのである。
 ちょうめんどうである。

 ラクをしたくて(あるいは真面目で真摯な気持ちで)死にたいはずが、ぜんぜんラクじゃない(真摯な気持ちにもなれない)から死ねないのである。生きてる方がラクなのである。
 これを堕落と取るか、大人になったと評価するかは分かれるところだろうけれど、問題はそういうことではない。

 ときどき(弟子あたりに)『そんな簡単に「死んだ方がまし」とか言わないでください』なんて文句を言われる(前述の通り、手順まで考えているからその通り話す)ものの、もしもこの国で死ぬ方がラクだったら、あるいは僕の周辺の状況にとって僕が死んだ方がラクならば『そんな簡単に生きていないでください』と文句を言われるだろう。
(現に僕は「死にたい」と相談に来るほとんどの人に「こんなところに来てる場合じゃないよ。何しに来たの? 死ねば」と答えている)

 身の回りの誰かが死ぬと悲しい、というタイプの人間はいるし、残念ながら僕を対象にした場合にもわずかながら存在していて本当に鬱陶しい。
 彼らは僕が生きている方が精神的にもストレスが少なくてラクなのである。逆説的に、僕が死ぬと面倒なのである。
 面倒だから、死ぬことをやんわりと拒否する。自分にとってラクだからというだけの理由で僕に生きている方を選ばせようとする。
(極論だけれど面白いからいいや)

 そういう意味では豊かな国だと思うし、豊かな国になったと思う。
 おそらく世界中で、少なくとも先進国ならばそういう指向を持っているだろうと僕は思う。
 ただ、まぁ、その理想なり指向なりは現実と重ね合わせるとどうしてもいびつな部分ができてしまうのだろう。

 だって戦時下で、自分が生きることで必死だったら、他人が生きようが死のうが関係ないもの。
 逆に、目の前の人が死んでくれたら(いろいろな意味で)食糧が増える可能性だってあるわけで、そういう状況は「生きる方が死ぬよりも困難な状態」なわけであって、そういうレベルを脱却している、平和的な社会だと認識することができる。実に豊かである。

 ただまぁ、死にたいという人を簡単に死なせることができない不自由さ、不便さ、貧しさを抱えていると僕は思ってしまう。
 自死の意思を持つことや実行することは、自由でも便利でも豊かでもない、という人がいるのも分かるけれど、選択する余地もなく否定されて強制される社会や人間関係は僕には窮屈である。

 そういった諸々も考えて、身の回りの人間をできるかぎり少なくしている。

>>>

 いつからか流行りだした「ミニマム」だとか「ミニマリスト」の人たちが、どうしてそんな情報を発信しているのか(あるいはメディアが発信させているのか。ならばなぜそれに乗って発信させられてしまうのか)、ちょっと僕には想像ができない。
 めんどうくさいじゃんか。

 まぁ、ファッションであるとか、ジェスチュアだというのなら理解できなくもないのだけれど。
(ファッションの一部や、ジェスチュアのほとんどは、それを受け止める人間がいてはじめて成り立つものだから)
 あれがひとつの哲学であるとか、生き方であるのだとしたら、そんなの誰かに発信するなんてちょっと想像がつかない。
 なぜって、哲学であるとか、生き方であるとかは、自己完結するから。
 誰かに承認されたり、誰かに理解してもらったり、まして誰かに紹介して「そっか! うんうん、あるある、わかる!」と賛同してもらえることを前提にするものではない。
 自分が「こうしたほうがラクだよなぁ」と思ったことをするのが哲学であるとか生き方であるとかのように思うのだけれど。

 仮にものすごく真面目な人がいたとして、その人は真面目な方が、ラクなわけです。
 苦労するのが好きな人っていて、そういう人は、苦労していない状態が苦痛なわけです。苦労するとラクなわけです。
 むつかしいことを考えたり、自分の方針を貫く人は、そういうことをしないよりも、するほうがラクなワケです。しないと苦痛なわけです。するほうが自然なわけです。
 でしょう?

 水は低きに流れるというけれど、必ずしも低い=悪いのではなくて、ラク=悪いでもなくて、単に力学的に自然な状態、ということで考えれば「ラク=自然」ということでよいわけです。
 自然にしていること。
 無理なく続けてしまうこと。
 やめようとすると苦痛になることがあるわけです。
 逆に、意識しないとできないこと。
 続けるのが無理なこと。
 やめたほうが気持ちがラクになることもあるわけです。

 こうしたものは人それぞれだから、誰かに押しつけられるのは非常に苦痛なものだし、逆説的に、誰かに押しつけるものでもないでしょう?

>>>

 そういうことが分からない人間も、おそらくはいる。
 そういう人は、結局、誰かに何かを押しつけたり、あるいは誰かに何かを押しつけられたと不満を募らせて生きていく。
 べつに言ってませんよ。
 誰かに性器を押しつけたり、押しつけられたと不満を募らせて、なんて。
 そして僕自身は、誰かに性器を押しつけたり、押しつけられたと不満を募らせるつもりもないのです。

 ただ、誰かに何かを強制されるのは、本当にイヤだなぁ、って昔から思っていたなぁ、って最近思うのです。
 暴力的なのも、無思慮なのも、本当にイヤだなぁって。
 暴力的で、無思慮なことをしておいて、自分が被害者みたいに振る舞ったりなんかしてたらもう最悪ですよ。
(あえて抽象的に書いていますけれど、そういう事象が、恐らく、ないわけではないでしょうし)

 誰かにされるのもイヤだし、誰かにしてしまう可能性も考えると、うかうか電車になんか乗れませんよ。

 もしかしたら、そういうのをする人って、孤独に耐えられないのかなぁ、って思ったりします。
 誰かに何かを押しつけるのも、押しつけられるのも、ラクではないことだから。
 ラクではないのに、ラクではない場所に自分を連れて行ってしまうのは、ビョーキなのでしょうから。
 寂しい、とか、孤独に耐えられない、っていうのは立派にビョーキなのだと僕は思うのです。

 人的ミニマリストって、もしかして健全なのではないでしょうか(結論?)。

>>>

 こういうことを好き勝手書いていて、僕の思っていることとは無関係に好き勝手な解釈をされて、なぜか怒られたりするのです。
 まるで私が道ばたで誰かを強姦したかのような勢いで(俺は何もしていない!)。

 分かりますよ。
 その方(ほう、と読んでも、かた、と読んでも意味が通じる)がラクなのでしょうから。
 でも時々思います。
 裏庭に穴掘って掘ったスコップで殴って気絶させて埋めてやるぞ、って。
 準備が面倒だからしませんけれどね。
 僕みたいな人間は、そっちのほうがラクだったら、ついうっかりしちゃいそうで、ときどき自分が怖いです。
 どう考えても準備が面倒だからしませんけれどね。








// ----- >>* Junction Division *<< //
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~ Junction Box ~
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[Object]
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// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180804
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
recollection.
SUBTITLE:
~ recollection. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 お祝いにお酒を贈るのだと言ってきかない。

 数日前、意識を取り戻し、昨日から喋ることが出来るようになった伯母のことである。
 右脳の半分近くが出血によって圧迫され、緊急手術のあとにはぽっかりとした空洞ができていた。
 当然のように左半身は麻痺しており自分の意思で動かすことは出来ない。

 しかし触れば感触はわかるようで、話しかければ反応する。
 喉が渇いて、お腹が空いたと言い、直後に、とても眠いと言い残して眠ってしまう。
(搬送後から今もって、水を飲むことも許されていない)

 死ぬかと思っていたが、存外たくましいようである。

 その伯母が言う。
 あなたの結婚のお祝いに、お酒を贈るのだと。

 ああ。その話はずいぶん昔のことですよ(しかも最終的に結婚してないし)。
 とは思うものの、それをいちいち指摘する気にもならないので放っている。
「うんうん。ありがとう。退院したら、頂きにあがります」と。

 僕だけではなく、妹にも看護婦にも、顔を見るたび言っているらしく、妹から驚きのメールが届いた。
「猫くん(彼女は僕をくん付けで呼ぶ)、結婚するの?!」

 どうやら妹は、相当ショックを受けた(僕が結婚することではなくて、伯母の記憶がかなり混乱していることに、である)ようで、夜になっても寝付けなかったのか、電話を掛けてくる始末。
 悩みは旦那に相談しろよ、と思いつつも、酒を片手に笑い飛ばす。

>>>

 この数日は、遠方から従姉妹がやたらと押しかけてきて困った。
 なにせ相手はICUに入っているのだ。
 通常は一親等までしか入室を許可されないところ、たまたま一親等の親族がどこにもいない上、妻方傍系の私と妹しか対応していないがために、甥と姪(書面上)はオッケー、というのを拡大解釈したような扱いになってしまったことよ。
 もっとも、伯母は今生き残っている叔父と叔母がそれぞれ脳梗塞やら脳内出血を起こしたときにも、それはそれは甲斐甲斐しく尽力したようではあるから、それらの子(僕にとっての従姉妹)が心配するのは無理もないことなのかもしれない。

 僕からすれば、ICUの患者を見舞うこと自体ちょっとした非常識なことではある(意味が分からない人はべつによいです)。
 もちろん意識は比較的明晰で、身体的に重篤な人もいれば、伯母のように脳の機能が損なわれている者もいる。
 親族が呼びかけることがきっかけで、意識が戻るケースもないとはいえないだろう。
 だから多くの人は、重篤な人が相手であっても、いやだからこそ、見舞いに行き来する。

>>>

 正直なところ、僕は普段行き来のない人が入院しようが見舞いに出かけたりはしない。
 当然ではないか。
 見ず知らずの他人が入院したって誰も見舞いに行ったりはしない(知らない人だから当然だけれど)。
 今は顔も合わせなくなった学生時代の友人が、入院しようが死のうが、いちいち見舞いや葬儀に出かけたりはしない。
 親だとしたって、まぁ、葬儀は別にしても、見舞いはどちらでもよいような気がする。
 
>>>

 生きる者たちが、自身も含めた生命活動に対して、どんな幻想を抱こうと、それはそれでその個体の自由だ。
 生命倫理も同様、社会が個体にどれほど刷り込みを行おうと、激昂すれば平気で他人を殺せる人はそれなりの数がいるし、殺さないのは単なる利己的な計算の結果に過ぎない個体もいる。
 激昂したついでに自傷/自死的行為を行って怒りを示す者もいる。
 そんなことをいう僕自身、激しい感情に駆られる前に高確率で笑い出す。
 どうやらそれが安全弁らしい。
 ほかに感情の吐露の方法を知らない。最近では多少の演技は出来るようになった方だが、それでも世間一般とは齟齬があるらしく、自分でも気が付かないうちに相手が怒り出したりすることもある。

 泣いたり笑ったり怒ったり。
 いずれも結構である。

 特定のパターンにおいて、自分と同じ感情表現をしない人間を快く思わない人間がいるのも決して不自然とは思わない。
 多少不寛容だとは思うが、均質な人間を生み出すための教育を繰り返した文化背景がこの国にある以上、表面上の均質を重視するあまり、日陰に強い澱みが生まれたとしても不思議ではないし、表だっては主観的な審判による均質性を持たないことを理由に他者を非難するのも道理ではある。
 均質、常識、一般、当たり前、そういう表皮だけを、中身を定義することもなく、曖昧なまま重視されてきたのだから。

>>>

 伯母は半分近く死んでいて、半分以上は生きている。
 重なり合った部分は同時に存在していて、そんなのはこれを書いている僕自身にすら適用できる判断基準だ。

 いろいろなことがとてもややこしくて煩わしい。

 僕は三親等以上離れた、利害関係が本来希薄なはずの、子どもがいないというだけの夫婦に何年も振り回されていることになるし、僕がたまたま今まで家庭を持たずにいることが、この場所にいる確率を格段に高くした。
 あるいは半年前なら、僕は京都で暮らす可能性も高かった(転職先の都合で)。

 この街はもうじき2年になるが、うまく眠れないから、やはりダメだと思う。
 ベランダは広いのだけれど、街が近すぎる。
 陽射しが強いし、夜も明るい。
 水の音が聞こえないし、山を撫でる風のせせらぎも聞こえない。
 夜中に不如帰が鳴くこともない。
 たびたびパトカーや救急車のサイレンが、締め切った窓とカーテンを突き抜けて、僕の鼓膜を揺する。

>>>

 数年ぶりに救急車に乗ったとき、ああ。ぼくは僕らはどうしてこんなに救急車であるとか病院であるとかに縁があるのか、と思ったものではある。
 でもそう。僕自身が理由で乗ることになったのは、もっと昔のこと。そしてせいぜいが2度か3度の話。

 いろいろなことが曖昧になって。
 復讐したいものがなんだったのかおぼろになって。
 そうすれば、生きる気力なんてどこにもなくなって。

 憎む対象のない世界は、なんて平和で、なんてつまらないものか。

 嫌いなものがあることが許せない性格だから。
 つぎつぎ同化する術を身に付けて。
 つぎつぎ境界を曖昧にする知識を身に付けて。
 まるで界面活性剤のように。

 分離することなくひとつながりになったところで、成分濃度の強い層では当然のように、相反する成分とは相容れなくて。
 そういう全体を眺めていると、本当に、なんともいえない気分になる。
 笑いもこぼれないし、涙も浮かばない。
 ただただ表情もなく、悲しみさえ感じられないことが、もしかしたら悲しいことなのだと、少し感じる。

 空虚な様を嗤うがいい。泣くがいい。貶みあるいは怒るがいい。あるいはただただ無感情に眺めるがいい。

>>>

 何年かに一度、こういうことは僕の中を巡る。
 僕はそういうとき、たいていは無気力で、何もできないことが多い。あるいは「多かった」。
 もう僕は、それらにさえ支配されるのを嫌っているのか、あるいは面倒だと感じているのか、あくまでマイペースに、自分のありようであることにした。

 長い夏休みのように。

 僕は、太陽にも月にも雨にも風にも他人にも時間にも感情にも干渉されることなく眠って起きて。

 仮に今の僕に人間的な活動が認められるとしたら、それは起きたらすぐにギターを弾き始めるという、一般的な人からするとはなはだ不可解な行動だろう。

 人々の考えることは僕にはよく分からない。
 人々の記憶を僕は読むことができないし、追体験することもできないから。
 だから他人の感覚を理解することもできない。よく分からない。
 それが可能だと思っている人もいるのだろうとは思う。おそらく「均質性」を信じているのだろう。
 あるいは、多少は、分からないでもない。
 身体に火をつけられれば熱いと感じるし、気温が下がれば寒いと感じる。
 でも世の中には、身体が傷つくことを喜ぶタイプの人間もいるし、僕のように空腹(および満腹)をうまく感じないタイプの人間もいる。
 感覚とそれに紐づけられた感情は、必ずしも一致するとは限らない。

 そんな例外なんかいちいち考えていたらきりがないから社会は均質性を重んじたはずだし、やがて文化的に豊かになる課程で、均質性とは異なる方向性である「多様性」を認めないと息苦しいことに気が付いたのだろう。
 いずれも両極端な動きになるとは思う。
 均質性と多様性を、同じ比重で、同じ範囲に、つまりは「同時に重ねて」見たり感じたりするような判断基準や感覚基盤を、多くの人は持たないように観察される。
 すべてのことは主観によって一意的(かつ感情的)に決めつけられることが多いようだ。
 感情的でない場合は、一意性を失って、単一の事象であっても複数の意味を持ちうることが「可能性として」見えるだろう。
 そうなると、感情を持って一意的に決定されていることの方が色濃くて、それに対する意見を強く大きな声で訴える個体の方が事象を断定する意味ではより強くなる。

 原始的だけれど、そもそも人間というのは原始的なのだ。

 本来は、どんな人も、他人と重なるだけの均質性を持ちうる(たとえば火をつければ熱いと感じる場合が多い)し、他人と重ならない多様性(たとえばギターを弾くとか)も持ちうる。
 それらは単一の人間や、単一の事象、単一の言葉や単一の感覚にも存在しうる。

 でもそんなことを感覚しているとキリがなくて。
 意味はやがて意味を失ってしまいかねない。
 きっと面倒だから、一意的に取り扱った方がラクだから、人はそういう余計ともいえる要素を除外してしまったのだろうし、除外してしまうのだろう。

 何が正しいとか、そんなふうには思わない。思えない。

 ただ僕は夜になっても眠れないし、日中に眠くなるし、身体の不具合は積み重なってゆくし、いろいろなことが壊れていて、直し方がうまく分からない。

>>>

 いつか棲んでいた、山と河のそばにあった僕の部屋は、とても素敵な場所で。

 夜中に月明かりで目覚めたり。
 不如帰の鳴き声を聴いて眠った。

 いろいろなことが今より少し静かになったら。

 静かな場所を探して、そこで暮らそう。
 好きなことをして、あまり人と接することなく、静かに暮らしていたい。








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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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//TimeLine:20180731
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:

SUBTITLE:
~ Reflection. ~
Written by


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 転んで打ちどころが悪くて死ぬ(あるいは瀕死の重傷を負う)、なんてことはそうそうあるものではない、と思っている僕の身の回りでそれが起こるのは今回が3回目である。

 1度目は懇意にしていただいていたお客さま。
 2度目は自分の上司であり趣味の師でもあった社長。
 3度目の今回は介護対象の伯母。

 延命措置を嫌う我々の一族ではあるが、延命と救命の境目なんて、普段から死に対して目を凝らしている僕にさえ、きちんと見分けられるとは限らない。
 妻方傍系にあたるにもかかわらず、認知症が進行し続けている伯父の施設入所の諸手続まで代理で行うことになった(なぜか伯父の入所と伯母の救急搬送は同日だった)僕の驚きと不運を知れ。
 それが昨日のことだ。

>>>

 振り返るに、15年前に死んだ僕の父上はたいそう子孝行な方(かた、と読む)であり、僕が2歳の頃から何度となく入退院を繰り返し、生死を彷徨う大手術(当時の冠動脈バイパス手術は、心停止を人為的に起こして行った。今は知らない)や半年以上にわたる入院生活と仕事と子育て(彼は子どもたちがわーきゃーうるさいので、離婚後後妻を取らなかった/取れなかった)を両立したりしたものの、入退院から葬儀に至るまで、さほどの迷惑を掛けなかった人なのだと最近は分かるようになった。
(なにぶん、親の死に目というのは、通常、多くても2度くらいしか立ち会うことが出来ない)
 ちなみに僕はふつーの子どもと違って、自分の父親をこれっぽっちも尊敬していない(父上とか言っているのは単なるブラックジョークである)。母親に関しては、何の思い入れもないので、話題にも上らない。

>>>

 父は、勝手に入院して、勝手に退院して、勝手に手術をしてもらっていた。
 今と違って、入院や手術にあたって、インフォームドコンセントであるとか、保証人であるとか、同意書であるとかを必要としない時代のことであるからなおさら。
 僕と妹は、病室に、タオル一本、パジャマ一着、持っていったこともなければ持ち帰ったこともない。
 書類ひとつ書いたことはないし、一円たりとも立て替えたことさえない。

 そうしたひとつひとつのむつかしいことや面倒なことから、父上は、僕らを遠ざけてくれていた。
 自身の手で、できうるすべてを、自身で行っていた。
(実のところ、暗躍している女性の陰を僕は知っていたのだけれども)

 大まかな方針から事細かな指示に至るまで、柔軟性をもって書かれた遺書(というより葬儀指示書)は入院のたびにある場所を教えられ、あるいは確認され、死んだ場合にはあらためて読むようにと、あらかじめ内容を教えられていた。
(公正証書遺言ではないから法的拘束力は低いが、日常の教育としてはむしろ適切である)

 かくして父上には墓がないし戒名もない。
 おかげで僕はお盆がただの連休になるし面倒な親戚づきあいもほとんどしないで済んでいる。
 海に散骨されず、手元に残った骨は分骨され、僕の持ち分は、僕が死ぬときにともに燃やされ、こんどはひとかけらも残さず、どこかに散骨されるだろう。
(遺書というのはそういうことに使うものである)

>>>

 伯父と伯母を悪く言うつもりはない。
 多くの人は、父上のように思い切りよく「はい死にましたー」なんてならない。
 とくに今の医療のもとで、死は「生と無」をつなぐ、グラデーションのような帯状に分布していて、どのポイントからその個体の死を示すのかなんて、明確な答えなどはない。
 だから、助かるものを助ける救命と、助からないものをただ存えさせる延命との境界も、曖昧なのだ。

>>>

 どういうめぐりあわせなのか、現在の勤務先の社長も、高度脳機能障害を起こしているように観察される。
 認知症も含め、僕はこの5年ほど、そうした人たちに振り回され続けているといっても過言ではない。
(認知症ではないただの白痴も含めれば、さらに人数が増える)

>>>

 彼らは言葉が通じない。
 だから僕は人間に不信を抱くよりほかないし、僕自身の言葉に対する自信を失う。
 僕は人間を信じなくなり、言葉を信じなくなる。
 言葉を信じなくなれば、必然、言葉を記録することはなくなる。
 だから僕は、今ではほとんど何も書かなくなった。

 言葉を綴った後にあるのは、いつも、後悔や不快、否定や非難である。
 勝手にそれを読む人間がいて、たいていそういう人間は無遠慮に勝手な解釈を加えて、どういうわけか僕は非難される。
 なぜだろう。

 海賊に陵辱されながら「オマエは悪い奴だ」と耳元で言われるようなものだ。

 抵抗の果てに暴力とともに男根を突き立てられて、断罪を宣言される屈辱と無力感。
 彼のものが人間でないならばなぜ私は断罪される必要があるだろう。
 彼のものが人間であるならばなぜ私は辱めを受ける必要があるだろう。
 私が人間であるならばなぜ彼のものは私をモノのように扱うのだろう。
 私が人間でないならばなぜ彼のものは私に苦しみを感じさせるのだろう。

 僕は人間を信じない。
 僕は人間が作ったものを信じない。

 僕が仮に(そう。仮に、である)そう思ったとして、何の不思議があるだろう。

 僕は僕の人間性(あるいは僕が人間であること)を否定され、あるいは僕は僕以外の誰かの人間性(つまりはその人が人間であること)を否定せざるを得ない状況に置かれたのである。
 この場合、人間は不信の対象になる。

 たとえば法や経済といった「人間のみが作りうるもの」について、それは人間が「根底にあるものを信じているからこそ」存続しうる仕組みではある。
 あるいは言葉といった「人間のみが作りうるもの」について。
 あるいは信用や信頼や愛情といった「人間のみが認知しうるもの」について。

>>>

 逆説的に、僕は彼らと言葉を通わせないことによって。
 つまり彼らの言葉を使わないことによって、彼らを否定していることくらいは表現できるかもしれない。
 あるいは彼らを否定している気分くらいは味わえるかもしれない。

 彼らの言葉を否定しよう。
 彼らを否定しよう。
 人間を否定しよう。

 なあに、簡単なことだ。

 僕が人間でなくなりさえすれば、それで事は足りるではないか。

>>>

 いつかもそう思ったのだろうか。

 よく分からない。
 思い出せない。

 にゃー。






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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
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[Engineer]


[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]




//EOF



180710

 僕が使っているPCは、OSを問わず、だいたい誰も使えなくなるようだ。
 アプリケーションを開くまでは何とかなるが、IDやパスワードを正しく入力できない。
 日本語を入力して検索しようにも、できない。ショートカットキーが知っているものと全然違う。
 マウスの挙動は不審で、残像も見えない。
 大体の人が、ものすごく気持ち悪い思いをするらしく、僕に訪ねてくる。
「青猫さん、コンピュータが使えないのですが」

 僕からすると寝耳に水である。
 使えるし、使っていたし、使っている。
 そのつもりで席を外し(あるいは休暇を取り、あるいは退職し)たはずが、上記の通りの言われようなのである。
 特にWindowsは、一般的な会社にも浸透しているぶん「自分の思っている通りに使える」と思う人が多いようで始末が悪い。

 中にはあからさまに「壊した」とまで言う人が出る始末。
 僕としては、困らないようにとデスクトップに必ず手がかりを(「キーボード操作がうまくいかない場合は」などのフォルダにReadmeやらレジストリファイルなどを名前まで丁寧に付けたうえで)置いておくのだけれど、誰も気がつかないらしい。
 デスクトップの真ん中に、デフォルトではない色のフォルダを置いてあったりするのに、誰も読まないようだ。

 なにせキーボードの配列が違ったり、タスクバーの存在があらぬところから出てきたり、マウスポインタがワープしたり、ウィンドウのタイトルバーが小さすぎてコントロールできなかったりする。
 まぁ、よしんば(超絶死語)、キーボード配列が変わっていたら使えない、という言い分は分からないでもない。
 僕だって、レジストリのイカれたキーボード配列なんて使う気にはならない。
 Dvorakがどれだけマイナーな存在かも知っているし、レジストリを平気でいじってしまうことの申し訳なさを感じてもいる。
(だから対応策を用意しているわけで)

 でもそれ以外の、たとえばタスクバーの位置であるとか自動開閉は予測できていいと思うし、マウス速度だって自分の好みに調整する方法くらい知っていていいと思う。
 タイトルバーが小さすぎるのは申し訳ないと思うが、文句あるならいいモニタを用意しといてほしいと(ちょっぴり)思う。
 ちなみに僕は、タイトルバーの右上の3つのボタンを使わない。
 閉じるときはキーボードショートカットを使うし、最大化はタイトルバーをドラッグする。
 最小化なんて使う意味が分からない。
(すべて最小化してデスクトップを表示する場合はショートカットを使うが、そうでなければタスクバーからアクセスしたいウィンドウを指定するから、アクティブウィンドウを最小化する目的が想定できない)

 もちろんそれを使う、多用する、愛用している、という人がいるとは思う。
 GUIの基本理念は、すべての人に、わかりやすく、多様な機能を(たとえ重複しても)提供することにあると僕は思う。
 僕にとって無駄な機能が、すべての人に不要だなんて僕は思っていない。
 誰かにとって大事な機能かもしれないし、その機能の価値を(僕個人には無駄だとしても)僕は理解できる。

 ショートカットなんて言われても分からない、という人がいるのも当然だし、それを非難するつもりもない。
 コンピュータに対する無知は恥ずべきものではないし、あるいは知っていることが特段すごいことだとも思わない。
 最小化ボタンが役立たずだ、とは思っていないし、それを使う人が(コンピュータの操作が苦手な可能性も含めて)無能だと思っているわけではないし、同様にショートカットを多用したりキーボード配列を変更してしまう自分が有能だと勘違いしているわけではない。

 ただ個々人が、個々人の使いやすい環境を構築できるのがコンピュータのありようなのだ。
 自分に合わない環境だというただそれだけで「壊された」とか「使えなくされた」とか言われるとちょっと困る。
 普段使わない人に限って、そういう事を言う。

 もちろん、もちろん。

 キーボードの配列は(無意識的に強制的に選択の余地なく与えられていると皆さんも思わされている悪名高き)QWERTYだけ。
 タスクバーは画面下で固定表示。
 ウィンドウの外観はデフォルトのちょっとちゃらちゃらしたやつ。
 バックグラウンドは……まさか、草原?(分かる人は笑うところです)
 そういうデフォルトの環境に慣れ親しんでいる人がいるとしても、それはそれで結構なことだとは思うのだ。
 作業領域のこととか、そういうことを考えないで済むなら、それはそれで幸せなことなのだ。

 僕はウィンドウはクラシック表示に未だに変えてしまうし、バックグラウンドは真っ黒。
 タイトルバーは前述の通り、可能な限りの最小サイズ。
 モニタスリープも「画像オフ」で、スクリーンセーバなんて使わない。
 だって電源が入っているかどうかなんて、ちょっとマウスに触れたり、本体や周辺機器のインジケータを見れば分かるのだから。

 でも、そういう「余計な」使い方を好まない人や、自分の知らない外観に単純に嫌悪感を示す人もいて、まぁ、人種差別みたいなものだなぁ、なんて僕などは思ってしまうのだけれど。

 コンピュータを使う上での共通認識にこの「パーソナライズ」という意識が欠如しているように感じることは多い。
 なぜ使いやすくしないのか。

 そういう人たちをよく観察すると、だいたい、自分で考えず、何を工夫することもなく、誰か、あるいは何かに言われるままに物事を進めている。
 なるほど、お役所勤めには向いているようだけれど、なればなおさら、エンジニアである僕とはウマが合わなさそうだと感じた昨今である。




[要修正]
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180702
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
キャベツ畑につかまった。
SUBTITLE:
~ monomaniac loved for cabbage. ~
Written by 黒猫


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180702

 気に入った料理があると、しばらくそれを食べ続けてしまう。
 もやし炒めを2週間食べ続けたりしたことがある。
 ステーキ肉を週に3,4日は焼いてしまう生活を2ヶ月ほど続けたことがある。
 インスタントラーメン生活2週間。
 目玉焼き(6〜7個一度に焼いて食べる)生活1週間(2週目は無理だった)。
 もやしナムル1週間。
 オクラの大根おろし和え2週間。
 ポトフ、週半分以上2ヶ月。
 肉を炒めて塩胡椒で食べる生活、ほぼ連日3ヶ月強。

 あるときは新しい料理スキルを身に付けるため。
 あるときはゲームや趣味やその他諸々の時間を捻出するため。
 またあるときは経済的に逼迫したため。
 そして多くの場合、ただ単純にカラダがそれを求めるため。
 僕は同じモノを食べ続ける。

>>>

 キャベツだ。
 いつだろう。
 先々週くらいからだろうか。
 キャベツである。

 最初は居酒屋のお通しだった。
 店の特製もろみ味噌と自家製マヨネーズが添えてある。
 これが地味に旨かった。
 店もよかった。
 頼むと帰りに味噌をテイクアウトすることもできる。しかも無料である。

 持って帰ってきた味噌を、美味い野菜を売っている店(キャベツ農家のある県である。農産品直売所なんてそこらへんにごろごろしている)で買ったキャベツに少しつけて食べる。

 うまい。

>>>

 最初の頃は、それでも1/3玉くらいを食べれば満足していた。
 いくらお酒も飲んでいるとはいえ、カロリィが少ない気がするからである。
(偏食による栄養の偏りを僕はあまり気にしない。問題があれば勝手にカラダが訴えてくるものなのだから)
 キャベツがメインの食生活なんて、なんて貧相だろう。そんな先入観がどこにもなかったとはいえない。

 ちょうど昼食を抜くことが会社で正式に承認され(考えられないかもしれないが、食事を抜こうにも抜けない職場の雰囲気というものがあるし、そういうものをデフォルトで持っている職場が存在する)て、僕は晴れて一日ほぼ一食生活に戻ることができた。
 なのにそこで僕のカラダが要求しているのがキャベツ。である。
 むつかしいことは何もない。
 キャベツを洗って、ひと玉まな板の上に置く。
 それから幅3〜4cmにして切る。
 芯が気になる場合などは、ちょっと斜めに切ったりもするが、美味しいキャベツは芯まで美味しいから気にする必要はない。
 美味しくない芯だったら、簡単に折って取り外せる。

>>>

 実のところ、マヨネーズだって自分で作ることができないわけではない。
 しかし正直に申し上げると、僕はマヨネーズを作るのは得意ではない。
 どうしても味で市販品に負ける。
 うまく乳化しないで、ただただカサだけが増すこともあるし、それでモノになればいいが、どうにもならないときもある。

 べつに「なんだ青猫様ったら、あれもこれも自作できる風なことを言っておいて、ほんとは出来ないこともあるんだ、かわいい(はぁと)」みたいな反応を狙っているのではない。
 単純に、上手に、作れないこともある、だけだ。

>>>

 気が付けば、一日に食べるキャベツの量は1/2、2/3と増えてゆき。
 とうとう1玉、食べてしまうようになった。

 店の土産のもろみ味噌が切れたときは、自宅の味噌に麹の漬け物床を加え、チリペッパー(粉末状)を混ぜたもの。
 それからマヨネーズにコショウを混ぜたもの。

 これでもう充分である。

 1玉食べると、豆腐も食べられなくなる。
 このまま痩せるかというとそういうこともなく、僕の骨格上限すれすれの体重は68kgのまま維持されている。

 ほのかに甘やかな味。
 ぺらぺらとしっかりした食感。
 ぱりぱりとソリッドな歯ごたえ。

 もういい加減、飽きて欲しいのですが。

 それでも今日も、キャベツを食べてしまうのです。








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なぜ飽きないのだろう。
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180624

 毎日、同じ曲を聴き、歌い、弾く。
 何度も何度も、何度も。
 風邪や歌いすぎ(おい)で声が出ないときでも曲を聴き、ギターを弾く。
 同じ曲である。
 これをほぼ毎日、半年ほど繰り返している。

>>>

 たまには僕の身体に関する理解を更新しよう。
 なんでこんなことをするかというと、自分で自分の身体のことを整理しないと、周囲の情報に流されるからだ。
 今まで他者から言われてきた情報のうち「三食食べないと身体に悪い」とか「糖分の取りすぎ(当社比)は身体に悪い」などは完全に僕の身体に当てはまらなかった。

 よくよく考えてみると、僕は子どもの頃から朝食をほとんど食べなかった。
 小学生の頃は異常なほどの痩せ型体質のせいでどうやら虐待の可能性を教師に疑われていたフシもあり、家庭訪問でもないのに先生が家に尋ねてくることもあった。
(当時はまったく考えもしなかったが、今考えると用もなくそんなことをする教師はいない)

 子どもの頃から極端に胃腸が弱い。これが事の発端だろう。
 胃が消化できないことが多い。
 もとより胃酸の分泌が少なかったり、胃酸そのものが薄いのかもしれない。
 いちばん可能性が高いのは消化酵素の分泌が少ないこと。

 僕は母乳アレルギーのせいで母乳をほとんど飲まずに成長した。
 そこに含まれるはずの抗体がないせいなのか、長年病気にかかりやすかったし、ホルモンバランスも安定せず、僕の身体の発達は同年代の男性のそれと比べても少し変わっていたと思う。
 これは想像に過ぎないが消化酵素など、後天的に親から受け継ぐべき特性の幾つかを享受しなかった可能性はある。

 消化酵素のいくつかは唾液にも含まれる。
 僕は子どもの頃から白米をあまり食べなかった。なぜといってまったく味を感じないからだ。
 アルファ化されたデンプン質に対して、糖に分解する酵素の分泌はもとより、唾液そのものの分泌が少なかったのではないだろうか。
(母乳を摂らない子どもには虫歯になりやすい傾向がある。相関性を調べたことはないが、唾液の分泌が少ない個体は虫歯にかかりやすい傾向もある)

 胃液の分泌そのものが少ないことも影響してか、僕はほとんど空腹を感じたことがない。
 空腹に胃酸が過分泌される気持ち悪さは感じても、それを空腹と捉えることもできない。
(胃袋に負圧が発生した場合は胃袋に空気を取り込んだりすればおさまる)
 よって、他人が「充分な食事」と見なす量の食事をすることができなかった。なにせ空腹ではないのだから。

 もちろん父親は(虐待の疑いを掛けられつつも(笑))いたく僕のことを気に掛けていたりはしたものだが、なにせ「お腹が空いた」なんてことは言わない。
 ときどき充分とおぼしき量を食べることもあるが、大抵はわずかな量を食べて終わりである。勧めても食べない。
 ちなみに小学生の頃の僕は、週に一度くらいしか大便をする必要がなかった。
 便秘ではなく、単に食事が少なかったのではあるが、その自覚はなかった。

 当時の僕は糖分を主な栄養源にしていたように思う。
 唾液も胃酸も消化能力に乏しければ、当然ながら腸が吸収する栄養素も少なくなる。
 一方で、糖は手軽だ。炭水化物を唾液で分解するより手っ取り早いし、胃腸への負担も軽い。
(僕は炭水化物を摂取すると、とんでもなく身体が重くなり眠くなる。運転しながら眠るなんてざらなため、この特性を知っている人は僕の運転で昼食を摂る場合にはかなり気を遣ってくれるし僕も炭水化物を避ける)

 今でこそカーボハイドレイト(炭水化物)の摂りすぎが身体によくないなんていう説が流行しているが、これは日本人の身体が肉食化した証だろう。
 農耕民族時代は、米を主食にするようなサイクルが身体にできていたはずだ。
 そういう時代ではなくなり食生活が変化し、肉体に変化が生じた結果、炭水化物の吸収量が体質に合わなくなったのだろう。

 かくいう僕は肉も嫌いだったから、魚や豆腐を好んで食べたし野菜にも好き嫌いはほとんどなかった。米は味が分からないのであまり食べなかったが。

>>>

 この年齢になって、新しい問題が発覚した。
 僕の身体は空腹と同じくらい、満腹を理解しない。
 そりゃそうだ。胃袋の負圧を空腹と理解しない以上、胃袋の膨満感ごときを満腹と理解するはずもない。
 幸い、過剰に食べているとたいていは眠くなるから、最悪でも眠くなったら食事を切り上げる。
 ちなみに僕の一般的な食事にかかる時間は一回あたり1〜3時間である。

 昼食などを摂ると、だいたい人より食べるのが遅い。
 麺類だけはものすごい速度で食べることができるが、これは麺類がのびたときの味が嫌いなためで、防衛的に早食いをしてしまう。
 大量の食事を15分や30分程度で掻き込むように食べる人を見ていると、ときどき気分が悪くなってしまう。
 その人が悪いわけではないので一度も指摘したことはない。

>>>

 ここまで羅列しただけで、どうも他の人とは組成が違うと感じる。
 生まれが違うのかもしれないし、育ちのせいもあるだろう。
 なにせ僕は白米を好まない。憎んでいるとまでは言わないが、僕の身体にとって好ましいとは感じていない。

 僕にとっての空腹感は、毛細血管をふくむ血流の変化による皮膚や筋細胞のしびれ、血圧や血糖値の低下による立ちくらみ、不要と思えるときの急激な体温の上昇によって感覚される。
 これだけでもたぶん異常なのだろう。医者に行けと言われるのだろう。
 では医者に行って薬でも飲めば治るのだろうか。
 そうも思えない。
 第一、現状で食欲だけが人並みになった場合、満腹感はどうなるのだろう。毎回、膨満感を通り越して眠くなまで食べたり飲んだりしていたら、さすがに僕でも太る。
 一日一食でも身体が動くような仕組みに出来上がっているのだから、それを崩す必要はないし、今までもなかったように思う。

 ちなみに学校で給食が出ていたときは、一日二食。
 高校からは昼を抜くことも多かった。
 弁当を作るのは(自分しかいないため)面倒だったし、作っても自分の満足の行くものを作ることができたためしはない。
(比較対象が父親だからだろうか。彼は本当にお弁当を作ることに掛けては相当な腕前の持ち主だったと今も思う)

 社会人になってからは昼食を摂ることもある(身体の状態で判断したり、TPOで避けられない場合もある)し、必要がなければ食べなくて問題がない。

 食事をしないと身体が動かないとか、アタマが働かないという人がいるが、僕は少々いぶかしくそれを思っている。
 実際は「身体が動かない」とか「アタマが働かない」状態を経験したことがなくて、なんとなく「そんな気がする」から言っているのではないかと。

 ちなみに僕は無給で自転車を走らせ続けてハンガーノックを起こし、本当に数時間カラダが動かなくなったことがあるが、アタマが働かなくなったことは寝不足や泥酔、興味のないことについて考えるのでもないかぎり経験はない。
 たぶん空腹でアタマが働かない、というのは「胃袋の違和感に気を取られる」といった程度のことなのではないかと想像する。
 低血糖で脳さえ供給不足になっていれば、空腹がどうのと言う前に貧血で倒れると思うのだけれど。
(学生の頃はときどき倒れたので今は倒れる前に自覚できるが)

>>>

 僕と一緒にガールが過ごす場合、僕の体質を知らないとたいていは低血糖で具合を悪くする。
 そうならないように僕も気を付けるようにはしているのだが、ときどき忘れる。いろいろ熱中することがあるからだ。
 馴れたガールは「一緒に食事に誘う」「おやつを持参する」などの対処法を身に付けるようになる。
 僕は昼食を摂れない体質というわけではない。ただ摂らない方が都合が悪くなることがないし、摂る必要も感じないというだけだ。
 それに稚魚だって卵黄嚢を抱えて生きるのだ。100%僕の体質のせいにしないで欲しいとはちょっと思う。

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 この体質はもしかして遺伝性なのかとも思ったのだが、親戚を見回しても、こんな特異な体質の人はいないようだ。
(根掘り葉掘り聞いて回ったわけではないが、周囲の僕に向ける視線からそれを察することができるくらいには僕もオトナになった)
 なので僕は今のところ、これを母乳を摂取しなかったことがきっかけで起こった結果だと思っている。

 食事を取らないからといって、瞬発的なパフォーマンスを必要とするときにそれができないということもない。
(持久力は少ないが、長時間の肉体労働のときはあらかじめ食事を取るようにしている)

>>>

 今日も8時間くらい弾いただろうか。
 だんだんスムーズに弾けるようになっている。
 歩みは遅いけれど、少しずつ、できるようになっているから楽しいのかもしれない。








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本日の青猫:180623
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180623

 書きたいことがたくさんある。
 たくさんありすぎて、何から書いていいかわからない。
 しかも、書いているうちにどうでもよくなってしまうこともしばしばだ。
(もちろんそれは散漫になりがちな僕の思考回路のせいでもあるのだけれど)

 でも、言葉にすることは本当にむつかしい。
 どうして皆、簡単に言葉を使って、自分の思っていることのほとんど、あるいはすべてを表現しているのか(あるいはそういう気持ちになれるのか)僕には分からない。

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 僕の知る多くの人間は、あまりに容易く言葉を使う。
 あまり深く考えている様子もなく、伝わる言葉の意味に奥行きもさほどない。
 もちろん「昨日、トイレの電気を消し忘れたでしょう? それより、そろそろゴミ袋がなくなるから会社の帰りに買ってきて」というような一方通行のやりとりに、人生の深奥に至るような秩序であるとか、曇天に差し込む一条の陽射しのようなきらめきを求めても仕方がない。

 中には熟考しているのか、そもそも何も考えていないのか、ほとんど無口な人もいる(僕は後者に該当する)し、はっとするようなレトリックを使ったり、シンプルな言葉にしたたかな優しさを感じさせる人もいることはいる。
 でも、そんなことは稀で、段ボールを再生してできあがったトイレットペーパーのように、軽く流されて人畜無害に分解されて益体もなく霧散する言葉がほとんどだ。
 なかには芳香剤のような鼻につく臭いを残すモノもあるけれど、あれなどはいったい誰が得をするのだろう。

 幸いなことに、僕は自分の所有する日常のほとんどすべてを自分でコントロールできるようにしているし、おかげで(たとえ恋人が多くても)友人は少ないわけであり、僕自身はその方が落ち着く。

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 ということで今、書きたいことを羅列してみよう。

○ギターの音が変わってきた。
 ほとんど毎日「君じゃなきゃダメみたい」を弾いている。
 多いときは一日8時間以上弾いている。
 進歩は遅いが、Aメロまでは何とか弾けるようになってきた。(サビがあって、2番のAメロは1番と違って、間奏があって、とまぁ、先が長いには長い)
 左指の表皮が変わってきたのもあるが、右手の親指、人差し指、中指だけ爪を伸ばすことにした。
 おかげでタイピングは非常にしづらくなったが、ギターを弾くときにさまざまな表情を出せるようになった、という話。

○性的自我に関する考察。
 LGBTに関連したニュースなどを見るたびに(なんでそんなこと主張するんだろう)と思って違和感を感じるワタクシです。
 性的自意識というのは、べつに他人の認識や評価によって固定するモノではないのだから、自分が「私は男だ」「私は女だ」と思うならそう思えばいいのであって、周囲に同意を強く求めないと自己認識が崩壊するならそういう自己認識はいちど壊した方がいいんじゃないの? なんて思ってしまったりするわけです。
 法的に、戸籍的に、男であろうが女であろうが、まず最初にあなたはあなただろう。あなたが自分を規定することができるならば、他人の規定は意味を為さないだろうし、社会にいちいち自分のアイデンティティを標榜するなよ恥ずかしい、俺なんか猫なのにほとんど誰にも認識されてないんだぜ標榜なんてしても理解されないし恥ずかしいからしないんだぜなんて思ってしまうのです。
 まぁ半分は冗談にしても。
 そんなこんなで僕自身の性的自我について考えてみたところ、どうやら僕には性的自我というものがほとんど存在しないことに気が付いた昨今。
 そっか、性的自我という業を背負ったみんなは辛いわけなのだ、と理解した話。

○けものフレンズの話。
 上記の性的自我に関連したスピンオフ。
 性的自我を持たないせいで、いろいろな誤解を受けることもあるわけだけれど(そして僕はそういうのは一切気にしないけれど)性的自我がある場合とない場合で、けものフレンズのような「登場キャラに性差がない」物語の意味合いについて書いておきながら、最後は大石昌良さんの音楽が素敵であることを訴えるだけ訴えてどうでもいい終わりにしたい。

○大石昌良さんの音楽について。
 けものフレンズの話からさらに脱線して、大石昌良さんの音楽をただただ紹介して愛でる企画。
 ピエロを演奏しているときの、ほんとうに楽しそうな様子であるとか、(けものフレンズの曲を覚えようとしていたはずが)「君じゃなきゃダメみたい」はイントロからとんでもなく初見殺しであるのと同時に、覚え始めると指と耳がひどく気持ちよいこととか、「ファイヤー」のような演奏のトリッキィさについて書くだけ書いて「多田くんは恋をしない」の主題歌「オトモダチフィルム」に至ってやっと歌詞が素晴らしいと思えるようになったという感想に到達してさらっと終わる予定。

○リアリストは自称をしない(シリーズ)。
 リアリストの多くはどういうわけか拝金主義的になりがちである。そこにしかリアルはないのか。
 しかし人間は根源的な哲学的命題として自分の主観を通してしか「現実」を定義できない。
 量子論的にもこの世界がヴァーチャルであるという説があるくらいで(まぁ、それはいくらなんでも極端にせよ)。
 すなわちリアリストの見ている現実がどのくらい「現実」なのか、その定義はどんなであり、どのくらい確固としているのか。
 主観の中に存在する客観性が、どのくらい確かな客観性なのか。そもそも主観の中で観察される客体とは、どのくらい主観に依存しないものなのか。
 という、読む人をして「うわぁ、青猫ワールドが濃ゆいからブラウザバックしよう」と思わせる記述を並べたあとに「自称リアリストの拝金主義」と「自称リアリストのゲーム嫌い(VR嫌い)」「自称リアリストの主観的快楽主義とその自画自賛」について解説し、リアリストも結局は主観の中に存在するヴァーチャルな価値観に踊らされているのではないかという現実に深くメスを入れようと考えただけで実際にはメスも入れなければかすりもしないかもしれないシリーズ。
 ちなみにリアリストは「自称○○」という自己表現をしない(ように観察される)。
 ヴァーチャルを認める人は自分がヴァーチャルを感覚しているという謙虚さがあるから。
 ちなみに僕は自称ねこです。ねこはいます。

○HSPとnotHSPの境界線。
 最近HSPを標榜する人をWeb上で見ることがあった。
 分類的には僕もHSPになるだろうとは思う。
 基本的にHSPとは(先天性)身体的特性と、(後天性)認識パターン特性があるように思える。
 HSPに該当する人は割合的にそんなに過小なわけではなく、血液型のような単なる個性でしかないように観察される。
 だとしたら「私、血液がO型なの!」みたいな、過剰な自意識表現ははずかしいのではないか、という個人的な感想を含めつつ、HSPとそうでない人の境界線を探り「そんな境界線なんかねーよ!」という結論を導くまでがテンプレのおふざけ文書。

○煙草の火はいつか消えるか。
 昨今の電子煙草の浸透以前から、ライターメイカは縮小の一途を辿っている。
 こだわりもなく使い捨てられるライターの数々。ボタンひとつで煙的な蒸気を発生させる電子煙草。
 一時期流行したオイルライターさえ見かけることは少なくなったし、質のよい高額なガスライターを見かける機会は減った。
 煙草だけでなくアルコールさえも「大人のもの」「男のもの」というイメージやステータスは遠い昔に崩壊し「自制できない人のもの」「健康を損なうリスクを持つ忌まわしいもの」としての地位を確立しつつある。
 ということについて、ぼんやり考えたもの。
 じゃあ「健康的なもの」はさぞや人類の輝かしい未来に帰依するんだろうなぁ、という皮肉を込めて。
 あ、あと部長にシガーを教えたい。

○それでも僕は食べたくない。
 一日三食健康法みたいな既成概念に毒された人たちの手で僕がどれほど困惑しているかについてはたびたび書いている。
 そもそもその既成概念はどこからやってきて、なぜそうまで彼らがそれに毒されているのかに関する考察。
 そして僕がどうして一日一食の生活を送るようになったのか、子どもの頃のことから振り返って綴る、僕以外の人間にとってはどうでもいいような僕の身体の特性に関する現時点でのまとめ。

○シアワセってなんだっけ?
 ぽん酢しょうゆなんてものを買いもしなければ持ちもしない僕のような人間が、現時点で振り返る人間(あるいは猫)のシアワセについて。

○AIは人間を超えるか。
 まぁもちろん超えるわけだけれど、人間のコミュニケーションをする相手として設計されたヴァーチャルな人格に対して、人間がどのような反応を示し、また最終的にはどのような共生社会が生まれるかについて、ぼんやりと考えるもの。
 人間の人間性とはどのように定義されるか。
 また人間社会というのがどういった要件によって満たされ、その要件の中で人間がどのようなカタチを持っているべきであったかを鋭くえぐって見せるフリをして曖昧に逃げ、人工知能から発展した知能が動物的な不確定性をどのように乱数化してシミュレートすればより「人間らしく」なるかなどを考えつつ、猫の居場所について考察したい。

○Doki Doki Literature Club! とその取り巻きが素晴らしいことについて。
 主観と客観やリアリスト問題(笑)に関連した項目。
 ちなみにプレイするなら、Web上の一切の情報を得る前にプレイすべき。

>>>

 だいたいこのくらいか。なんだ少ないじゃないか。








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