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//TimeLine:20180825
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TITLE:

SUBTITLE:
~ on no account. ~
Written by BlueCat


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//[Body]
 自分の書いた文章が誰かに読まれることと、誰かに読ませる(あるいは読んでもらう)こととは少し違う。
 そしてなおかつ誰かに読まれることは、それを想定していない場合、勝手に読まれたということになるだろうし、それが普通であるのがこの世の理ならば、少なからず乱暴というか、無思慮というか、暴力的というか、ひどいものだと僕は思う。

>>>

 文字はときに信用できない。

 たとえば自分の書いた文章であったとしても。
 仮にそれがどんなにプライベートに、そのときのことを正直に書いたものであったとしても。
 いや正直だからこそ余計に、プライベートだからこそ余計に、信用できないものになる。

 たとえばその日にあったことを日記に書く。
 それに付随する感情を書く。
 それらは書いたその瞬間から変化してしまう。
 なぜといって、書いている自分が変化してしまうから。

 変わらないでいられる人もいるだろう。
 現実が変わるはずもないという人は多いだろう。

 でも、僕にはそうは思えない。

 たしかに今日の為替レートであるとか、天気であるとかは、記録しても変わらないだろう。
 でも世の中にあって、生活の中で、そんなデジタルな情報ばかりではないのも事実だ。
 晴れのような曇りもあれば、曇りのような晴れもある。曇りのような雨もあれば、雨のような晴れもある。
 そのとき、日記に曇りのち天気雨、みたいに書いてもいいのかもしれない。
 でも、今日の天気のすべてを書くこともできない。

 だから記述される情報はいつも部分的/限定的で。
 そこから付随した(あるいは記録したかった)情報のすべてを完全に再現することは、書いた本人にさえできない。
 読んだ人間は、記録されている部分的な情報から、勝手に自分の感情や経験に従って記録されていない情報までを再構築することになる。
 もちろん、それは何ら不自然ではない。

>>>

 プライベートな文章というのは、だから、何らの補足をしない。
 誰かに説明するための記録ではないからだ。
 他人が読む場合は、前提条件を明らかにしたり、一般論とその事象に固有の個別論を分けて説明する必要があったりする。
 そういった補足のない文章を勝手に読んで、勝手に解釈した人から、勝手に抗議された経験が、僕にはある。

 たとえば他人(友人であるとか、恋人であるとか、あるいは赤の他人でもいい)が自分の携帯端末を開いて、さまざまなアカウントにアクセスするのに似ているかもしれない。
 あるいはもっと端的に、強姦に等しいかもしれない。
 そのくらい野蛮で、無思慮で、幼稚で、凶悪だと僕は思う。

 でも文章は、たいていの場合、無造作に、ほとんどなんのセキュリティもなく、置かれている。
 とくにプライベートなものは、プライベートなスペースに置かれることによって、セキュリティが保たれる。
 携帯端末は持ち歩くものだし、Web上のアカウントはパブリックな場所で薄膜を隔てて存在している。
 危険が予測されるものには、相応のセキュリティが確保される。

 実のところ、プライベートな空間は、それだけで基本的なセキュリティが確保されている。
 たとえば自宅の書架のような場所は、Web上の情報とは比べものにならないくらい、まともなセキュリティが確保されている。
 電子化が進み、ネットワークによって人が繋がり、情報が(薄膜で守られていてもいなくても)開示されている今ではなおさら、ハード的に確保されたセキュリティに勝るものはない。

 僕がそうした無思慮な誰かによる暴力的な閲覧行為を受けたことで学んだことのひとつは、セキュリティにはたいした意味がない、ということだ。

 たとえばどんな服装をしていても。
 極端な話、銃器で武装していても。
 強姦される人は強姦される。

 パスワードで保護していても。
 ガジェットによるハードを介した暗号化を施しても。
 物理的に厳重な鍵を用意しても。
 セキュリティは非合法に突破される。

 確実なのは、何も持たないことだ。
 外に出ないこと。
 誰であろうと、物理的にも精神的にも接触しないこと。
 言葉なんか書かないこと。
 超本格的な引きこもりではあるけれど、それが一番安全である。
 何も思わず、何も感じずにいられれば、もう完璧である。
 もちろん、そうまでして生きる意味など微塵もないとは思うが。

>>>

 暴力的な閲覧行為を受けたことで学んだもうひとつのことは、自分以外の人間を信頼することは意味がないということだ。
 そうした無思慮で暴力的な傾向は、外側からはなかなか判別しにくい。とくに僕のようにぼんやり生きている人間には致命的に判別できない。

 ぼんやり生きている方が悪い、という意見もあるだろう。
 ならば僕は死にたい。死んだ方がましだと思う。
 ぼんやり他人を信じて生きていられない世界なんて滅びればいいし、滅びるわけにはいかないのなら(もちろん当たり前に滅びないし滅びるわけにはいかないから)自分が死んだ方がましだと素直に思う。

 手当たり次第に誰彼かまわず疑ってかかるような人間になって、そんなみすぼらしい生き方をしてまでちっぽけな自我や所有物を守るくらいなら、自分の身体も含めて持たない方がましだ。

 ただ、自殺するのは手間がかかる。

 不憫なことではあるが、ある程度以上の周到な用意が必要だ。
 単に今生きて、明日も生きるのとはわけが違う。
 困ったことに生きている方が死ぬよりもラクなのだ。少なくとも現在のこの国のこのエリアでは。
 だって葬儀の手配であるとか、遺品(になるであろう品物)の整理であるとか、それ以外の財産の処理であるとかを考えなくてはならない。
(基本的に、誰かを頼るという考えが、子どもの頃から僕にはないので)
 遺書を書かなきゃだし、場合によっては公正証書遺言を残さなきゃだし、葬儀の相談に行かなきゃだし、自殺の段取りも考えなきゃならない。
 生活用品の整理をして、アパートの解約をして、銀行口座その他諸々の解約をして、ゴミを整理して、遺品を収める倉庫を借りて、そこに移送しなきゃならない。
 周囲の人に気づかれずに。仕事なんかの日常生活をできるかぎり続けたまま。
(日常生活をきちんと送っていないと周囲に怪しまれるから。あと、死ぬのに必要な費用を稼ぐ必要があるから)
 そうやって周到に死のうと考えた場合、その準備には3ヶ月は必要なのである。
 死ぬために3ヶ月は、それ以前よりも注意深く、真面目に生きなくてはならないのである。
 ちょうめんどうである。

 ラクをしたくて(あるいは真面目で真摯な気持ちで)死にたいはずが、ぜんぜんラクじゃない(真摯な気持ちにもなれない)から死ねないのである。生きてる方がラクなのである。
 これを堕落と取るか、大人になったと評価するかは分かれるところだろうけれど、問題はそういうことではない。

 ときどき(弟子あたりに)『そんな簡単に「死んだ方がまし」とか言わないでください』なんて文句を言われる(前述の通り、手順まで考えているからその通り話す)ものの、もしもこの国で死ぬ方がラクだったら、あるいは僕の周辺の状況にとって僕が死んだ方がラクならば『そんな簡単に生きていないでください』と文句を言われるだろう。
(現に僕は「死にたい」と相談に来るほとんどの人に「こんなところに来てる場合じゃないよ。何しに来たの? 死ねば」と答えている)

 身の回りの誰かが死ぬと悲しい、というタイプの人間はいるし、残念ながら僕を対象にした場合にもわずかながら存在していて本当に鬱陶しい。
 彼らは僕が生きている方が精神的にもストレスが少なくてラクなのである。逆説的に、僕が死ぬと面倒なのである。
 面倒だから、死ぬことをやんわりと拒否する。自分にとってラクだからというだけの理由で僕に生きている方を選ばせようとする。
(極論だけれど面白いからいいや)

 そういう意味では豊かな国だと思うし、豊かな国になったと思う。
 おそらく世界中で、少なくとも先進国ならばそういう指向を持っているだろうと僕は思う。
 ただ、まぁ、その理想なり指向なりは現実と重ね合わせるとどうしてもいびつな部分ができてしまうのだろう。

 だって戦時下で、自分が生きることで必死だったら、他人が生きようが死のうが関係ないもの。
 逆に、目の前の人が死んでくれたら(いろいろな意味で)食糧が増える可能性だってあるわけで、そういう状況は「生きる方が死ぬよりも困難な状態」なわけであって、そういうレベルを脱却している、平和的な社会だと認識することができる。実に豊かである。

 ただまぁ、死にたいという人を簡単に死なせることができない不自由さ、不便さ、貧しさを抱えていると僕は思ってしまう。
 自死の意思を持つことや実行することは、自由でも便利でも豊かでもない、という人がいるのも分かるけれど、選択する余地もなく否定されて強制される社会や人間関係は僕には窮屈である。

 そういった諸々も考えて、身の回りの人間をできるかぎり少なくしている。

>>>

 いつからか流行りだした「ミニマム」だとか「ミニマリスト」の人たちが、どうしてそんな情報を発信しているのか(あるいはメディアが発信させているのか。ならばなぜそれに乗って発信させられてしまうのか)、ちょっと僕には想像ができない。
 めんどうくさいじゃんか。

 まぁ、ファッションであるとか、ジェスチュアだというのなら理解できなくもないのだけれど。
(ファッションの一部や、ジェスチュアのほとんどは、それを受け止める人間がいてはじめて成り立つものだから)
 あれがひとつの哲学であるとか、生き方であるのだとしたら、そんなの誰かに発信するなんてちょっと想像がつかない。
 なぜって、哲学であるとか、生き方であるとかは、自己完結するから。
 誰かに承認されたり、誰かに理解してもらったり、まして誰かに紹介して「そっか! うんうん、あるある、わかる!」と賛同してもらえることを前提にするものではない。
 自分が「こうしたほうがラクだよなぁ」と思ったことをするのが哲学であるとか生き方であるとかのように思うのだけれど。

 仮にものすごく真面目な人がいたとして、その人は真面目な方が、ラクなわけです。
 苦労するのが好きな人っていて、そういう人は、苦労していない状態が苦痛なわけです。苦労するとラクなわけです。
 むつかしいことを考えたり、自分の方針を貫く人は、そういうことをしないよりも、するほうがラクなワケです。しないと苦痛なわけです。するほうが自然なわけです。
 でしょう?

 水は低きに流れるというけれど、必ずしも低い=悪いのではなくて、ラク=悪いでもなくて、単に力学的に自然な状態、ということで考えれば「ラク=自然」ということでよいわけです。
 自然にしていること。
 無理なく続けてしまうこと。
 やめようとすると苦痛になることがあるわけです。
 逆に、意識しないとできないこと。
 続けるのが無理なこと。
 やめたほうが気持ちがラクになることもあるわけです。

 こうしたものは人それぞれだから、誰かに押しつけられるのは非常に苦痛なものだし、逆説的に、誰かに押しつけるものでもないでしょう?

>>>

 そういうことが分からない人間も、おそらくはいる。
 そういう人は、結局、誰かに何かを押しつけたり、あるいは誰かに何かを押しつけられたと不満を募らせて生きていく。
 べつに言ってませんよ。
 誰かに性器を押しつけたり、押しつけられたと不満を募らせて、なんて。
 そして僕自身は、誰かに性器を押しつけたり、押しつけられたと不満を募らせるつもりもないのです。

 ただ、誰かに何かを強制されるのは、本当にイヤだなぁ、って昔から思っていたなぁ、って最近思うのです。
 暴力的なのも、無思慮なのも、本当にイヤだなぁって。
 暴力的で、無思慮なことをしておいて、自分が被害者みたいに振る舞ったりなんかしてたらもう最悪ですよ。
(あえて抽象的に書いていますけれど、そういう事象が、恐らく、ないわけではないでしょうし)

 誰かにされるのもイヤだし、誰かにしてしまう可能性も考えると、うかうか電車になんか乗れませんよ。

 もしかしたら、そういうのをする人って、孤独に耐えられないのかなぁ、って思ったりします。
 誰かに何かを押しつけるのも、押しつけられるのも、ラクではないことだから。
 ラクではないのに、ラクではない場所に自分を連れて行ってしまうのは、ビョーキなのでしょうから。
 寂しい、とか、孤独に耐えられない、っていうのは立派にビョーキなのだと僕は思うのです。

 人的ミニマリストって、もしかして健全なのではないでしょうか(結論?)。

>>>

 こういうことを好き勝手書いていて、僕の思っていることとは無関係に好き勝手な解釈をされて、なぜか怒られたりするのです。
 まるで私が道ばたで誰かを強姦したかのような勢いで(俺は何もしていない!)。

 分かりますよ。
 その方(ほう、と読んでも、かた、と読んでも意味が通じる)がラクなのでしょうから。
 でも時々思います。
 裏庭に穴掘って掘ったスコップで殴って気絶させて埋めてやるぞ、って。
 準備が面倒だからしませんけれどね。
 僕みたいな人間は、そっちのほうがラクだったら、ついうっかりしちゃいそうで、ときどき自分が怖いです。
 どう考えても準備が面倒だからしませんけれどね。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]






//EOF
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//TimeLine:20180804
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
recollection.
SUBTITLE:
~ recollection. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 お祝いにお酒を贈るのだと言ってきかない。

 数日前、意識を取り戻し、昨日から喋ることが出来るようになった伯母のことである。
 右脳の半分近くが出血によって圧迫され、緊急手術のあとにはぽっかりとした空洞ができていた。
 当然のように左半身は麻痺しており自分の意思で動かすことは出来ない。

 しかし触れば感触はわかるようで、話しかければ反応する。
 喉が渇いて、お腹が空いたと言い、直後に、とても眠いと言い残して眠ってしまう。
(搬送後から今もって、水を飲むことも許されていない)

 死ぬかと思っていたが、存外たくましいようである。

 その伯母が言う。
 あなたの結婚のお祝いに、お酒を贈るのだと。

 ああ。その話はずいぶん昔のことですよ(しかも最終的に結婚してないし)。
 とは思うものの、それをいちいち指摘する気にもならないので放っている。
「うんうん。ありがとう。退院したら、頂きにあがります」と。

 僕だけではなく、妹にも看護婦にも、顔を見るたび言っているらしく、妹から驚きのメールが届いた。
「猫くん(彼女は僕をくん付けで呼ぶ)、結婚するの?!」

 どうやら妹は、相当ショックを受けた(僕が結婚することではなくて、伯母の記憶がかなり混乱していることに、である)ようで、夜になっても寝付けなかったのか、電話を掛けてくる始末。
 悩みは旦那に相談しろよ、と思いつつも、酒を片手に笑い飛ばす。

>>>

 この数日は、遠方から従姉妹がやたらと押しかけてきて困った。
 なにせ相手はICUに入っているのだ。
 通常は一親等までしか入室を許可されないところ、たまたま一親等の親族がどこにもいない上、妻方傍系の私と妹しか対応していないがために、甥と姪(書面上)はオッケー、というのを拡大解釈したような扱いになってしまったことよ。
 もっとも、伯母は今生き残っている叔父と叔母がそれぞれ脳梗塞やら脳内出血を起こしたときにも、それはそれは甲斐甲斐しく尽力したようではあるから、それらの子(僕にとっての従姉妹)が心配するのは無理もないことなのかもしれない。

 僕からすれば、ICUの患者を見舞うこと自体ちょっとした非常識なことではある(意味が分からない人はべつによいです)。
 もちろん意識は比較的明晰で、身体的に重篤な人もいれば、伯母のように脳の機能が損なわれている者もいる。
 親族が呼びかけることがきっかけで、意識が戻るケースもないとはいえないだろう。
 だから多くの人は、重篤な人が相手であっても、いやだからこそ、見舞いに行き来する。

>>>

 正直なところ、僕は普段行き来のない人が入院しようが見舞いに出かけたりはしない。
 当然ではないか。
 見ず知らずの他人が入院したって誰も見舞いに行ったりはしない(知らない人だから当然だけれど)。
 今は顔も合わせなくなった学生時代の友人が、入院しようが死のうが、いちいち見舞いや葬儀に出かけたりはしない。
 親だとしたって、まぁ、葬儀は別にしても、見舞いはどちらでもよいような気がする。
 
>>>

 生きる者たちが、自身も含めた生命活動に対して、どんな幻想を抱こうと、それはそれでその個体の自由だ。
 生命倫理も同様、社会が個体にどれほど刷り込みを行おうと、激昂すれば平気で他人を殺せる人はそれなりの数がいるし、殺さないのは単なる利己的な計算の結果に過ぎない個体もいる。
 激昂したついでに自傷/自死的行為を行って怒りを示す者もいる。
 そんなことをいう僕自身、激しい感情に駆られる前に高確率で笑い出す。
 どうやらそれが安全弁らしい。
 ほかに感情の吐露の方法を知らない。最近では多少の演技は出来るようになった方だが、それでも世間一般とは齟齬があるらしく、自分でも気が付かないうちに相手が怒り出したりすることもある。

 泣いたり笑ったり怒ったり。
 いずれも結構である。

 特定のパターンにおいて、自分と同じ感情表現をしない人間を快く思わない人間がいるのも決して不自然とは思わない。
 多少不寛容だとは思うが、均質な人間を生み出すための教育を繰り返した文化背景がこの国にある以上、表面上の均質を重視するあまり、日陰に強い澱みが生まれたとしても不思議ではないし、表だっては主観的な審判による均質性を持たないことを理由に他者を非難するのも道理ではある。
 均質、常識、一般、当たり前、そういう表皮だけを、中身を定義することもなく、曖昧なまま重視されてきたのだから。

>>>

 伯母は半分近く死んでいて、半分以上は生きている。
 重なり合った部分は同時に存在していて、そんなのはこれを書いている僕自身にすら適用できる判断基準だ。

 いろいろなことがとてもややこしくて煩わしい。

 僕は三親等以上離れた、利害関係が本来希薄なはずの、子どもがいないというだけの夫婦に何年も振り回されていることになるし、僕がたまたま今まで家庭を持たずにいることが、この場所にいる確率を格段に高くした。
 あるいは半年前なら、僕は京都で暮らす可能性も高かった(転職先の都合で)。

 この街はもうじき2年になるが、うまく眠れないから、やはりダメだと思う。
 ベランダは広いのだけれど、街が近すぎる。
 陽射しが強いし、夜も明るい。
 水の音が聞こえないし、山を撫でる風のせせらぎも聞こえない。
 夜中に不如帰が鳴くこともない。
 たびたびパトカーや救急車のサイレンが、締め切った窓とカーテンを突き抜けて、僕の鼓膜を揺する。

>>>

 数年ぶりに救急車に乗ったとき、ああ。ぼくは僕らはどうしてこんなに救急車であるとか病院であるとかに縁があるのか、と思ったものではある。
 でもそう。僕自身が理由で乗ることになったのは、もっと昔のこと。そしてせいぜいが2度か3度の話。

 いろいろなことが曖昧になって。
 復讐したいものがなんだったのかおぼろになって。
 そうすれば、生きる気力なんてどこにもなくなって。

 憎む対象のない世界は、なんて平和で、なんてつまらないものか。

 嫌いなものがあることが許せない性格だから。
 つぎつぎ同化する術を身に付けて。
 つぎつぎ境界を曖昧にする知識を身に付けて。
 まるで界面活性剤のように。

 分離することなくひとつながりになったところで、成分濃度の強い層では当然のように、相反する成分とは相容れなくて。
 そういう全体を眺めていると、本当に、なんともいえない気分になる。
 笑いもこぼれないし、涙も浮かばない。
 ただただ表情もなく、悲しみさえ感じられないことが、もしかしたら悲しいことなのだと、少し感じる。

 空虚な様を嗤うがいい。泣くがいい。貶みあるいは怒るがいい。あるいはただただ無感情に眺めるがいい。

>>>

 何年かに一度、こういうことは僕の中を巡る。
 僕はそういうとき、たいていは無気力で、何もできないことが多い。あるいは「多かった」。
 もう僕は、それらにさえ支配されるのを嫌っているのか、あるいは面倒だと感じているのか、あくまでマイペースに、自分のありようであることにした。

 長い夏休みのように。

 僕は、太陽にも月にも雨にも風にも他人にも時間にも感情にも干渉されることなく眠って起きて。

 仮に今の僕に人間的な活動が認められるとしたら、それは起きたらすぐにギターを弾き始めるという、一般的な人からするとはなはだ不可解な行動だろう。

 人々の考えることは僕にはよく分からない。
 人々の記憶を僕は読むことができないし、追体験することもできないから。
 だから他人の感覚を理解することもできない。よく分からない。
 それが可能だと思っている人もいるのだろうとは思う。おそらく「均質性」を信じているのだろう。
 あるいは、多少は、分からないでもない。
 身体に火をつけられれば熱いと感じるし、気温が下がれば寒いと感じる。
 でも世の中には、身体が傷つくことを喜ぶタイプの人間もいるし、僕のように空腹(および満腹)をうまく感じないタイプの人間もいる。
 感覚とそれに紐づけられた感情は、必ずしも一致するとは限らない。

 そんな例外なんかいちいち考えていたらきりがないから社会は均質性を重んじたはずだし、やがて文化的に豊かになる課程で、均質性とは異なる方向性である「多様性」を認めないと息苦しいことに気が付いたのだろう。
 いずれも両極端な動きになるとは思う。
 均質性と多様性を、同じ比重で、同じ範囲に、つまりは「同時に重ねて」見たり感じたりするような判断基準や感覚基盤を、多くの人は持たないように観察される。
 すべてのことは主観によって一意的(かつ感情的)に決めつけられることが多いようだ。
 感情的でない場合は、一意性を失って、単一の事象であっても複数の意味を持ちうることが「可能性として」見えるだろう。
 そうなると、感情を持って一意的に決定されていることの方が色濃くて、それに対する意見を強く大きな声で訴える個体の方が事象を断定する意味ではより強くなる。

 原始的だけれど、そもそも人間というのは原始的なのだ。

 本来は、どんな人も、他人と重なるだけの均質性を持ちうる(たとえば火をつければ熱いと感じる場合が多い)し、他人と重ならない多様性(たとえばギターを弾くとか)も持ちうる。
 それらは単一の人間や、単一の事象、単一の言葉や単一の感覚にも存在しうる。

 でもそんなことを感覚しているとキリがなくて。
 意味はやがて意味を失ってしまいかねない。
 きっと面倒だから、一意的に取り扱った方がラクだから、人はそういう余計ともいえる要素を除外してしまったのだろうし、除外してしまうのだろう。

 何が正しいとか、そんなふうには思わない。思えない。

 ただ僕は夜になっても眠れないし、日中に眠くなるし、身体の不具合は積み重なってゆくし、いろいろなことが壊れていて、直し方がうまく分からない。

>>>

 いつか棲んでいた、山と河のそばにあった僕の部屋は、とても素敵な場所で。

 夜中に月明かりで目覚めたり。
 不如帰の鳴き声を聴いて眠った。

 いろいろなことが今より少し静かになったら。

 静かな場所を探して、そこで暮らそう。
 好きなことをして、あまり人と接することなく、静かに暮らしていたい。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]




//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180731
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:

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~ Reflection. ~
Written by


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 転んで打ちどころが悪くて死ぬ(あるいは瀕死の重傷を負う)、なんてことはそうそうあるものではない、と思っている僕の身の回りでそれが起こるのは今回が3回目である。

 1度目は懇意にしていただいていたお客さま。
 2度目は自分の上司であり趣味の師でもあった社長。
 3度目の今回は介護対象の伯母。

 延命措置を嫌う我々の一族ではあるが、延命と救命の境目なんて、普段から死に対して目を凝らしている僕にさえ、きちんと見分けられるとは限らない。
 妻方傍系にあたるにもかかわらず、認知症が進行し続けている伯父の施設入所の諸手続まで代理で行うことになった(なぜか伯父の入所と伯母の救急搬送は同日だった)僕の驚きと不運を知れ。
 それが昨日のことだ。

>>>

 振り返るに、15年前に死んだ僕の父上はたいそう子孝行な方(かた、と読む)であり、僕が2歳の頃から何度となく入退院を繰り返し、生死を彷徨う大手術(当時の冠動脈バイパス手術は、心停止を人為的に起こして行った。今は知らない)や半年以上にわたる入院生活と仕事と子育て(彼は子どもたちがわーきゃーうるさいので、離婚後後妻を取らなかった/取れなかった)を両立したりしたものの、入退院から葬儀に至るまで、さほどの迷惑を掛けなかった人なのだと最近は分かるようになった。
(なにぶん、親の死に目というのは、通常、多くても2度くらいしか立ち会うことが出来ない)
 ちなみに僕はふつーの子どもと違って、自分の父親をこれっぽっちも尊敬していない(父上とか言っているのは単なるブラックジョークである)。母親に関しては、何の思い入れもないので、話題にも上らない。

>>>

 父は、勝手に入院して、勝手に退院して、勝手に手術をしてもらっていた。
 今と違って、入院や手術にあたって、インフォームドコンセントであるとか、保証人であるとか、同意書であるとかを必要としない時代のことであるからなおさら。
 僕と妹は、病室に、タオル一本、パジャマ一着、持っていったこともなければ持ち帰ったこともない。
 書類ひとつ書いたことはないし、一円たりとも立て替えたことさえない。

 そうしたひとつひとつのむつかしいことや面倒なことから、父上は、僕らを遠ざけてくれていた。
 自身の手で、できうるすべてを、自身で行っていた。
(実のところ、暗躍している女性の陰を僕は知っていたのだけれども)

 大まかな方針から事細かな指示に至るまで、柔軟性をもって書かれた遺書(というより葬儀指示書)は入院のたびにある場所を教えられ、あるいは確認され、死んだ場合にはあらためて読むようにと、あらかじめ内容を教えられていた。
(公正証書遺言ではないから法的拘束力は低いが、日常の教育としてはむしろ適切である)

 かくして父上には墓がないし戒名もない。
 おかげで僕はお盆がただの連休になるし面倒な親戚づきあいもほとんどしないで済んでいる。
 海に散骨されず、手元に残った骨は分骨され、僕の持ち分は、僕が死ぬときにともに燃やされ、こんどはひとかけらも残さず、どこかに散骨されるだろう。
(遺書というのはそういうことに使うものである)

>>>

 伯父と伯母を悪く言うつもりはない。
 多くの人は、父上のように思い切りよく「はい死にましたー」なんてならない。
 とくに今の医療のもとで、死は「生と無」をつなぐ、グラデーションのような帯状に分布していて、どのポイントからその個体の死を示すのかなんて、明確な答えなどはない。
 だから、助かるものを助ける救命と、助からないものをただ存えさせる延命との境界も、曖昧なのだ。

>>>

 どういうめぐりあわせなのか、現在の勤務先の社長も、高度脳機能障害を起こしているように観察される。
 認知症も含め、僕はこの5年ほど、そうした人たちに振り回され続けているといっても過言ではない。
(認知症ではないただの白痴も含めれば、さらに人数が増える)

>>>

 彼らは言葉が通じない。
 だから僕は人間に不信を抱くよりほかないし、僕自身の言葉に対する自信を失う。
 僕は人間を信じなくなり、言葉を信じなくなる。
 言葉を信じなくなれば、必然、言葉を記録することはなくなる。
 だから僕は、今ではほとんど何も書かなくなった。

 言葉を綴った後にあるのは、いつも、後悔や不快、否定や非難である。
 勝手にそれを読む人間がいて、たいていそういう人間は無遠慮に勝手な解釈を加えて、どういうわけか僕は非難される。
 なぜだろう。

 海賊に陵辱されながら「オマエは悪い奴だ」と耳元で言われるようなものだ。

 抵抗の果てに暴力とともに男根を突き立てられて、断罪を宣言される屈辱と無力感。
 彼のものが人間でないならばなぜ私は断罪される必要があるだろう。
 彼のものが人間であるならばなぜ私は辱めを受ける必要があるだろう。
 私が人間であるならばなぜ彼のものは私をモノのように扱うのだろう。
 私が人間でないならばなぜ彼のものは私に苦しみを感じさせるのだろう。

 僕は人間を信じない。
 僕は人間が作ったものを信じない。

 僕が仮に(そう。仮に、である)そう思ったとして、何の不思議があるだろう。

 僕は僕の人間性(あるいは僕が人間であること)を否定され、あるいは僕は僕以外の誰かの人間性(つまりはその人が人間であること)を否定せざるを得ない状況に置かれたのである。
 この場合、人間は不信の対象になる。

 たとえば法や経済といった「人間のみが作りうるもの」について、それは人間が「根底にあるものを信じているからこそ」存続しうる仕組みではある。
 あるいは言葉といった「人間のみが作りうるもの」について。
 あるいは信用や信頼や愛情といった「人間のみが認知しうるもの」について。

>>>

 逆説的に、僕は彼らと言葉を通わせないことによって。
 つまり彼らの言葉を使わないことによって、彼らを否定していることくらいは表現できるかもしれない。
 あるいは彼らを否定している気分くらいは味わえるかもしれない。

 彼らの言葉を否定しよう。
 彼らを否定しよう。
 人間を否定しよう。

 なあに、簡単なことだ。

 僕が人間でなくなりさえすれば、それで事は足りるではないか。

>>>

 いつかもそう思ったのだろうか。

 よく分からない。
 思い出せない。

 にゃー。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]


[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]




//EOF



180710

 僕が使っているPCは、OSを問わず、だいたい誰も使えなくなるようだ。
 アプリケーションを開くまでは何とかなるが、IDやパスワードを正しく入力できない。
 日本語を入力して検索しようにも、できない。ショートカットキーが知っているものと全然違う。
 マウスの挙動は不審で、残像も見えない。
 大体の人が、ものすごく気持ち悪い思いをするらしく、僕に訪ねてくる。
「青猫さん、コンピュータが使えないのですが」

 僕からすると寝耳に水である。
 使えるし、使っていたし、使っている。
 そのつもりで席を外し(あるいは休暇を取り、あるいは退職し)たはずが、上記の通りの言われようなのである。
 特にWindowsは、一般的な会社にも浸透しているぶん「自分の思っている通りに使える」と思う人が多いようで始末が悪い。

 中にはあからさまに「壊した」とまで言う人が出る始末。
 僕としては、困らないようにとデスクトップに必ず手がかりを(「キーボード操作がうまくいかない場合は」などのフォルダにReadmeやらレジストリファイルなどを名前まで丁寧に付けたうえで)置いておくのだけれど、誰も気がつかないらしい。
 デスクトップの真ん中に、デフォルトではない色のフォルダを置いてあったりするのに、誰も読まないようだ。

 なにせキーボードの配列が違ったり、タスクバーの存在があらぬところから出てきたり、マウスポインタがワープしたり、ウィンドウのタイトルバーが小さすぎてコントロールできなかったりする。
 まぁ、よしんば(超絶死語)、キーボード配列が変わっていたら使えない、という言い分は分からないでもない。
 僕だって、レジストリのイカれたキーボード配列なんて使う気にはならない。
 Dvorakがどれだけマイナーな存在かも知っているし、レジストリを平気でいじってしまうことの申し訳なさを感じてもいる。
(だから対応策を用意しているわけで)

 でもそれ以外の、たとえばタスクバーの位置であるとか自動開閉は予測できていいと思うし、マウス速度だって自分の好みに調整する方法くらい知っていていいと思う。
 タイトルバーが小さすぎるのは申し訳ないと思うが、文句あるならいいモニタを用意しといてほしいと(ちょっぴり)思う。
 ちなみに僕は、タイトルバーの右上の3つのボタンを使わない。
 閉じるときはキーボードショートカットを使うし、最大化はタイトルバーをドラッグする。
 最小化なんて使う意味が分からない。
(すべて最小化してデスクトップを表示する場合はショートカットを使うが、そうでなければタスクバーからアクセスしたいウィンドウを指定するから、アクティブウィンドウを最小化する目的が想定できない)

 もちろんそれを使う、多用する、愛用している、という人がいるとは思う。
 GUIの基本理念は、すべての人に、わかりやすく、多様な機能を(たとえ重複しても)提供することにあると僕は思う。
 僕にとって無駄な機能が、すべての人に不要だなんて僕は思っていない。
 誰かにとって大事な機能かもしれないし、その機能の価値を(僕個人には無駄だとしても)僕は理解できる。

 ショートカットなんて言われても分からない、という人がいるのも当然だし、それを非難するつもりもない。
 コンピュータに対する無知は恥ずべきものではないし、あるいは知っていることが特段すごいことだとも思わない。
 最小化ボタンが役立たずだ、とは思っていないし、それを使う人が(コンピュータの操作が苦手な可能性も含めて)無能だと思っているわけではないし、同様にショートカットを多用したりキーボード配列を変更してしまう自分が有能だと勘違いしているわけではない。

 ただ個々人が、個々人の使いやすい環境を構築できるのがコンピュータのありようなのだ。
 自分に合わない環境だというただそれだけで「壊された」とか「使えなくされた」とか言われるとちょっと困る。
 普段使わない人に限って、そういう事を言う。

 もちろん、もちろん。

 キーボードの配列は(無意識的に強制的に選択の余地なく与えられていると皆さんも思わされている悪名高き)QWERTYだけ。
 タスクバーは画面下で固定表示。
 ウィンドウの外観はデフォルトのちょっとちゃらちゃらしたやつ。
 バックグラウンドは……まさか、草原?(分かる人は笑うところです)
 そういうデフォルトの環境に慣れ親しんでいる人がいるとしても、それはそれで結構なことだとは思うのだ。
 作業領域のこととか、そういうことを考えないで済むなら、それはそれで幸せなことなのだ。

 僕はウィンドウはクラシック表示に未だに変えてしまうし、バックグラウンドは真っ黒。
 タイトルバーは前述の通り、可能な限りの最小サイズ。
 モニタスリープも「画像オフ」で、スクリーンセーバなんて使わない。
 だって電源が入っているかどうかなんて、ちょっとマウスに触れたり、本体や周辺機器のインジケータを見れば分かるのだから。

 でも、そういう「余計な」使い方を好まない人や、自分の知らない外観に単純に嫌悪感を示す人もいて、まぁ、人種差別みたいなものだなぁ、なんて僕などは思ってしまうのだけれど。

 コンピュータを使う上での共通認識にこの「パーソナライズ」という意識が欠如しているように感じることは多い。
 なぜ使いやすくしないのか。

 そういう人たちをよく観察すると、だいたい、自分で考えず、何を工夫することもなく、誰か、あるいは何かに言われるままに物事を進めている。
 なるほど、お役所勤めには向いているようだけれど、なればなおさら、エンジニアである僕とはウマが合わなさそうだと感じた昨今である。




[要修正]
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180702
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
キャベツ畑につかまった。
SUBTITLE:
~ monomaniac loved for cabbage. ~
Written by 黒猫


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180702

 気に入った料理があると、しばらくそれを食べ続けてしまう。
 もやし炒めを2週間食べ続けたりしたことがある。
 ステーキ肉を週に3,4日は焼いてしまう生活を2ヶ月ほど続けたことがある。
 インスタントラーメン生活2週間。
 目玉焼き(6〜7個一度に焼いて食べる)生活1週間(2週目は無理だった)。
 もやしナムル1週間。
 オクラの大根おろし和え2週間。
 ポトフ、週半分以上2ヶ月。
 肉を炒めて塩胡椒で食べる生活、ほぼ連日3ヶ月強。

 あるときは新しい料理スキルを身に付けるため。
 あるときはゲームや趣味やその他諸々の時間を捻出するため。
 またあるときは経済的に逼迫したため。
 そして多くの場合、ただ単純にカラダがそれを求めるため。
 僕は同じモノを食べ続ける。

>>>

 キャベツだ。
 いつだろう。
 先々週くらいからだろうか。
 キャベツである。

 最初は居酒屋のお通しだった。
 店の特製もろみ味噌と自家製マヨネーズが添えてある。
 これが地味に旨かった。
 店もよかった。
 頼むと帰りに味噌をテイクアウトすることもできる。しかも無料である。

 持って帰ってきた味噌を、美味い野菜を売っている店(キャベツ農家のある県である。農産品直売所なんてそこらへんにごろごろしている)で買ったキャベツに少しつけて食べる。

 うまい。

>>>

 最初の頃は、それでも1/3玉くらいを食べれば満足していた。
 いくらお酒も飲んでいるとはいえ、カロリィが少ない気がするからである。
(偏食による栄養の偏りを僕はあまり気にしない。問題があれば勝手にカラダが訴えてくるものなのだから)
 キャベツがメインの食生活なんて、なんて貧相だろう。そんな先入観がどこにもなかったとはいえない。

 ちょうど昼食を抜くことが会社で正式に承認され(考えられないかもしれないが、食事を抜こうにも抜けない職場の雰囲気というものがあるし、そういうものをデフォルトで持っている職場が存在する)て、僕は晴れて一日ほぼ一食生活に戻ることができた。
 なのにそこで僕のカラダが要求しているのがキャベツ。である。
 むつかしいことは何もない。
 キャベツを洗って、ひと玉まな板の上に置く。
 それから幅3〜4cmにして切る。
 芯が気になる場合などは、ちょっと斜めに切ったりもするが、美味しいキャベツは芯まで美味しいから気にする必要はない。
 美味しくない芯だったら、簡単に折って取り外せる。

>>>

 実のところ、マヨネーズだって自分で作ることができないわけではない。
 しかし正直に申し上げると、僕はマヨネーズを作るのは得意ではない。
 どうしても味で市販品に負ける。
 うまく乳化しないで、ただただカサだけが増すこともあるし、それでモノになればいいが、どうにもならないときもある。

 べつに「なんだ青猫様ったら、あれもこれも自作できる風なことを言っておいて、ほんとは出来ないこともあるんだ、かわいい(はぁと)」みたいな反応を狙っているのではない。
 単純に、上手に、作れないこともある、だけだ。

>>>

 気が付けば、一日に食べるキャベツの量は1/2、2/3と増えてゆき。
 とうとう1玉、食べてしまうようになった。

 店の土産のもろみ味噌が切れたときは、自宅の味噌に麹の漬け物床を加え、チリペッパー(粉末状)を混ぜたもの。
 それからマヨネーズにコショウを混ぜたもの。

 これでもう充分である。

 1玉食べると、豆腐も食べられなくなる。
 このまま痩せるかというとそういうこともなく、僕の骨格上限すれすれの体重は68kgのまま維持されている。

 ほのかに甘やかな味。
 ぺらぺらとしっかりした食感。
 ぱりぱりとソリッドな歯ごたえ。

 もういい加減、飽きて欲しいのですが。

 それでも今日も、キャベツを食べてしまうのです。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -黒猫-

[InterMethod]

[Module]
  -Generator-

[Object]
  -Dish-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180624
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
なぜ飽きないのだろう。
SUBTITLE:
~  ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180624

 毎日、同じ曲を聴き、歌い、弾く。
 何度も何度も、何度も。
 風邪や歌いすぎ(おい)で声が出ないときでも曲を聴き、ギターを弾く。
 同じ曲である。
 これをほぼ毎日、半年ほど繰り返している。

>>>

 たまには僕の身体に関する理解を更新しよう。
 なんでこんなことをするかというと、自分で自分の身体のことを整理しないと、周囲の情報に流されるからだ。
 今まで他者から言われてきた情報のうち「三食食べないと身体に悪い」とか「糖分の取りすぎ(当社比)は身体に悪い」などは完全に僕の身体に当てはまらなかった。

 よくよく考えてみると、僕は子どもの頃から朝食をほとんど食べなかった。
 小学生の頃は異常なほどの痩せ型体質のせいでどうやら虐待の可能性を教師に疑われていたフシもあり、家庭訪問でもないのに先生が家に尋ねてくることもあった。
(当時はまったく考えもしなかったが、今考えると用もなくそんなことをする教師はいない)

 子どもの頃から極端に胃腸が弱い。これが事の発端だろう。
 胃が消化できないことが多い。
 もとより胃酸の分泌が少なかったり、胃酸そのものが薄いのかもしれない。
 いちばん可能性が高いのは消化酵素の分泌が少ないこと。

 僕は母乳アレルギーのせいで母乳をほとんど飲まずに成長した。
 そこに含まれるはずの抗体がないせいなのか、長年病気にかかりやすかったし、ホルモンバランスも安定せず、僕の身体の発達は同年代の男性のそれと比べても少し変わっていたと思う。
 これは想像に過ぎないが消化酵素など、後天的に親から受け継ぐべき特性の幾つかを享受しなかった可能性はある。

 消化酵素のいくつかは唾液にも含まれる。
 僕は子どもの頃から白米をあまり食べなかった。なぜといってまったく味を感じないからだ。
 アルファ化されたデンプン質に対して、糖に分解する酵素の分泌はもとより、唾液そのものの分泌が少なかったのではないだろうか。
(母乳を摂らない子どもには虫歯になりやすい傾向がある。相関性を調べたことはないが、唾液の分泌が少ない個体は虫歯にかかりやすい傾向もある)

 胃液の分泌そのものが少ないことも影響してか、僕はほとんど空腹を感じたことがない。
 空腹に胃酸が過分泌される気持ち悪さは感じても、それを空腹と捉えることもできない。
(胃袋に負圧が発生した場合は胃袋に空気を取り込んだりすればおさまる)
 よって、他人が「充分な食事」と見なす量の食事をすることができなかった。なにせ空腹ではないのだから。

 もちろん父親は(虐待の疑いを掛けられつつも(笑))いたく僕のことを気に掛けていたりはしたものだが、なにせ「お腹が空いた」なんてことは言わない。
 ときどき充分とおぼしき量を食べることもあるが、大抵はわずかな量を食べて終わりである。勧めても食べない。
 ちなみに小学生の頃の僕は、週に一度くらいしか大便をする必要がなかった。
 便秘ではなく、単に食事が少なかったのではあるが、その自覚はなかった。

 当時の僕は糖分を主な栄養源にしていたように思う。
 唾液も胃酸も消化能力に乏しければ、当然ながら腸が吸収する栄養素も少なくなる。
 一方で、糖は手軽だ。炭水化物を唾液で分解するより手っ取り早いし、胃腸への負担も軽い。
(僕は炭水化物を摂取すると、とんでもなく身体が重くなり眠くなる。運転しながら眠るなんてざらなため、この特性を知っている人は僕の運転で昼食を摂る場合にはかなり気を遣ってくれるし僕も炭水化物を避ける)

 今でこそカーボハイドレイト(炭水化物)の摂りすぎが身体によくないなんていう説が流行しているが、これは日本人の身体が肉食化した証だろう。
 農耕民族時代は、米を主食にするようなサイクルが身体にできていたはずだ。
 そういう時代ではなくなり食生活が変化し、肉体に変化が生じた結果、炭水化物の吸収量が体質に合わなくなったのだろう。

 かくいう僕は肉も嫌いだったから、魚や豆腐を好んで食べたし野菜にも好き嫌いはほとんどなかった。米は味が分からないのであまり食べなかったが。

>>>

 この年齢になって、新しい問題が発覚した。
 僕の身体は空腹と同じくらい、満腹を理解しない。
 そりゃそうだ。胃袋の負圧を空腹と理解しない以上、胃袋の膨満感ごときを満腹と理解するはずもない。
 幸い、過剰に食べているとたいていは眠くなるから、最悪でも眠くなったら食事を切り上げる。
 ちなみに僕の一般的な食事にかかる時間は一回あたり1〜3時間である。

 昼食などを摂ると、だいたい人より食べるのが遅い。
 麺類だけはものすごい速度で食べることができるが、これは麺類がのびたときの味が嫌いなためで、防衛的に早食いをしてしまう。
 大量の食事を15分や30分程度で掻き込むように食べる人を見ていると、ときどき気分が悪くなってしまう。
 その人が悪いわけではないので一度も指摘したことはない。

>>>

 ここまで羅列しただけで、どうも他の人とは組成が違うと感じる。
 生まれが違うのかもしれないし、育ちのせいもあるだろう。
 なにせ僕は白米を好まない。憎んでいるとまでは言わないが、僕の身体にとって好ましいとは感じていない。

 僕にとっての空腹感は、毛細血管をふくむ血流の変化による皮膚や筋細胞のしびれ、血圧や血糖値の低下による立ちくらみ、不要と思えるときの急激な体温の上昇によって感覚される。
 これだけでもたぶん異常なのだろう。医者に行けと言われるのだろう。
 では医者に行って薬でも飲めば治るのだろうか。
 そうも思えない。
 第一、現状で食欲だけが人並みになった場合、満腹感はどうなるのだろう。毎回、膨満感を通り越して眠くなまで食べたり飲んだりしていたら、さすがに僕でも太る。
 一日一食でも身体が動くような仕組みに出来上がっているのだから、それを崩す必要はないし、今までもなかったように思う。

 ちなみに学校で給食が出ていたときは、一日二食。
 高校からは昼を抜くことも多かった。
 弁当を作るのは(自分しかいないため)面倒だったし、作っても自分の満足の行くものを作ることができたためしはない。
(比較対象が父親だからだろうか。彼は本当にお弁当を作ることに掛けては相当な腕前の持ち主だったと今も思う)

 社会人になってからは昼食を摂ることもある(身体の状態で判断したり、TPOで避けられない場合もある)し、必要がなければ食べなくて問題がない。

 食事をしないと身体が動かないとか、アタマが働かないという人がいるが、僕は少々いぶかしくそれを思っている。
 実際は「身体が動かない」とか「アタマが働かない」状態を経験したことがなくて、なんとなく「そんな気がする」から言っているのではないかと。

 ちなみに僕は無給で自転車を走らせ続けてハンガーノックを起こし、本当に数時間カラダが動かなくなったことがあるが、アタマが働かなくなったことは寝不足や泥酔、興味のないことについて考えるのでもないかぎり経験はない。
 たぶん空腹でアタマが働かない、というのは「胃袋の違和感に気を取られる」といった程度のことなのではないかと想像する。
 低血糖で脳さえ供給不足になっていれば、空腹がどうのと言う前に貧血で倒れると思うのだけれど。
(学生の頃はときどき倒れたので今は倒れる前に自覚できるが)

>>>

 僕と一緒にガールが過ごす場合、僕の体質を知らないとたいていは低血糖で具合を悪くする。
 そうならないように僕も気を付けるようにはしているのだが、ときどき忘れる。いろいろ熱中することがあるからだ。
 馴れたガールは「一緒に食事に誘う」「おやつを持参する」などの対処法を身に付けるようになる。
 僕は昼食を摂れない体質というわけではない。ただ摂らない方が都合が悪くなることがないし、摂る必要も感じないというだけだ。
 それに稚魚だって卵黄嚢を抱えて生きるのだ。100%僕の体質のせいにしないで欲しいとはちょっと思う。

>>>

 この体質はもしかして遺伝性なのかとも思ったのだが、親戚を見回しても、こんな特異な体質の人はいないようだ。
(根掘り葉掘り聞いて回ったわけではないが、周囲の僕に向ける視線からそれを察することができるくらいには僕もオトナになった)
 なので僕は今のところ、これを母乳を摂取しなかったことがきっかけで起こった結果だと思っている。

 食事を取らないからといって、瞬発的なパフォーマンスを必要とするときにそれができないということもない。
(持久力は少ないが、長時間の肉体労働のときはあらかじめ食事を取るようにしている)

>>>

 今日も8時間くらい弾いただろうか。
 だんだんスムーズに弾けるようになっている。
 歩みは遅いけれど、少しずつ、できるようになっているから楽しいのかもしれない。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Music-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180623
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
本日の青猫:180623
SUBTITLE:
~  ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180623

 書きたいことがたくさんある。
 たくさんありすぎて、何から書いていいかわからない。
 しかも、書いているうちにどうでもよくなってしまうこともしばしばだ。
(もちろんそれは散漫になりがちな僕の思考回路のせいでもあるのだけれど)

 でも、言葉にすることは本当にむつかしい。
 どうして皆、簡単に言葉を使って、自分の思っていることのほとんど、あるいはすべてを表現しているのか(あるいはそういう気持ちになれるのか)僕には分からない。

>>>

 僕の知る多くの人間は、あまりに容易く言葉を使う。
 あまり深く考えている様子もなく、伝わる言葉の意味に奥行きもさほどない。
 もちろん「昨日、トイレの電気を消し忘れたでしょう? それより、そろそろゴミ袋がなくなるから会社の帰りに買ってきて」というような一方通行のやりとりに、人生の深奥に至るような秩序であるとか、曇天に差し込む一条の陽射しのようなきらめきを求めても仕方がない。

 中には熟考しているのか、そもそも何も考えていないのか、ほとんど無口な人もいる(僕は後者に該当する)し、はっとするようなレトリックを使ったり、シンプルな言葉にしたたかな優しさを感じさせる人もいることはいる。
 でも、そんなことは稀で、段ボールを再生してできあがったトイレットペーパーのように、軽く流されて人畜無害に分解されて益体もなく霧散する言葉がほとんどだ。
 なかには芳香剤のような鼻につく臭いを残すモノもあるけれど、あれなどはいったい誰が得をするのだろう。

 幸いなことに、僕は自分の所有する日常のほとんどすべてを自分でコントロールできるようにしているし、おかげで(たとえ恋人が多くても)友人は少ないわけであり、僕自身はその方が落ち着く。

>>>

 ということで今、書きたいことを羅列してみよう。

○ギターの音が変わってきた。
 ほとんど毎日「君じゃなきゃダメみたい」を弾いている。
 多いときは一日8時間以上弾いている。
 進歩は遅いが、Aメロまでは何とか弾けるようになってきた。(サビがあって、2番のAメロは1番と違って、間奏があって、とまぁ、先が長いには長い)
 左指の表皮が変わってきたのもあるが、右手の親指、人差し指、中指だけ爪を伸ばすことにした。
 おかげでタイピングは非常にしづらくなったが、ギターを弾くときにさまざまな表情を出せるようになった、という話。

○性的自我に関する考察。
 LGBTに関連したニュースなどを見るたびに(なんでそんなこと主張するんだろう)と思って違和感を感じるワタクシです。
 性的自意識というのは、べつに他人の認識や評価によって固定するモノではないのだから、自分が「私は男だ」「私は女だ」と思うならそう思えばいいのであって、周囲に同意を強く求めないと自己認識が崩壊するならそういう自己認識はいちど壊した方がいいんじゃないの? なんて思ってしまったりするわけです。
 法的に、戸籍的に、男であろうが女であろうが、まず最初にあなたはあなただろう。あなたが自分を規定することができるならば、他人の規定は意味を為さないだろうし、社会にいちいち自分のアイデンティティを標榜するなよ恥ずかしい、俺なんか猫なのにほとんど誰にも認識されてないんだぜ標榜なんてしても理解されないし恥ずかしいからしないんだぜなんて思ってしまうのです。
 まぁ半分は冗談にしても。
 そんなこんなで僕自身の性的自我について考えてみたところ、どうやら僕には性的自我というものがほとんど存在しないことに気が付いた昨今。
 そっか、性的自我という業を背負ったみんなは辛いわけなのだ、と理解した話。

○けものフレンズの話。
 上記の性的自我に関連したスピンオフ。
 性的自我を持たないせいで、いろいろな誤解を受けることもあるわけだけれど(そして僕はそういうのは一切気にしないけれど)性的自我がある場合とない場合で、けものフレンズのような「登場キャラに性差がない」物語の意味合いについて書いておきながら、最後は大石昌良さんの音楽が素敵であることを訴えるだけ訴えてどうでもいい終わりにしたい。

○大石昌良さんの音楽について。
 けものフレンズの話からさらに脱線して、大石昌良さんの音楽をただただ紹介して愛でる企画。
 ピエロを演奏しているときの、ほんとうに楽しそうな様子であるとか、(けものフレンズの曲を覚えようとしていたはずが)「君じゃなきゃダメみたい」はイントロからとんでもなく初見殺しであるのと同時に、覚え始めると指と耳がひどく気持ちよいこととか、「ファイヤー」のような演奏のトリッキィさについて書くだけ書いて「多田くんは恋をしない」の主題歌「オトモダチフィルム」に至ってやっと歌詞が素晴らしいと思えるようになったという感想に到達してさらっと終わる予定。

○リアリストは自称をしない(シリーズ)。
 リアリストの多くはどういうわけか拝金主義的になりがちである。そこにしかリアルはないのか。
 しかし人間は根源的な哲学的命題として自分の主観を通してしか「現実」を定義できない。
 量子論的にもこの世界がヴァーチャルであるという説があるくらいで(まぁ、それはいくらなんでも極端にせよ)。
 すなわちリアリストの見ている現実がどのくらい「現実」なのか、その定義はどんなであり、どのくらい確固としているのか。
 主観の中に存在する客観性が、どのくらい確かな客観性なのか。そもそも主観の中で観察される客体とは、どのくらい主観に依存しないものなのか。
 という、読む人をして「うわぁ、青猫ワールドが濃ゆいからブラウザバックしよう」と思わせる記述を並べたあとに「自称リアリストの拝金主義」と「自称リアリストのゲーム嫌い(VR嫌い)」「自称リアリストの主観的快楽主義とその自画自賛」について解説し、リアリストも結局は主観の中に存在するヴァーチャルな価値観に踊らされているのではないかという現実に深くメスを入れようと考えただけで実際にはメスも入れなければかすりもしないかもしれないシリーズ。
 ちなみにリアリストは「自称○○」という自己表現をしない(ように観察される)。
 ヴァーチャルを認める人は自分がヴァーチャルを感覚しているという謙虚さがあるから。
 ちなみに僕は自称ねこです。ねこはいます。

○HSPとnotHSPの境界線。
 最近HSPを標榜する人をWeb上で見ることがあった。
 分類的には僕もHSPになるだろうとは思う。
 基本的にHSPとは(先天性)身体的特性と、(後天性)認識パターン特性があるように思える。
 HSPに該当する人は割合的にそんなに過小なわけではなく、血液型のような単なる個性でしかないように観察される。
 だとしたら「私、血液がO型なの!」みたいな、過剰な自意識表現ははずかしいのではないか、という個人的な感想を含めつつ、HSPとそうでない人の境界線を探り「そんな境界線なんかねーよ!」という結論を導くまでがテンプレのおふざけ文書。

○煙草の火はいつか消えるか。
 昨今の電子煙草の浸透以前から、ライターメイカは縮小の一途を辿っている。
 こだわりもなく使い捨てられるライターの数々。ボタンひとつで煙的な蒸気を発生させる電子煙草。
 一時期流行したオイルライターさえ見かけることは少なくなったし、質のよい高額なガスライターを見かける機会は減った。
 煙草だけでなくアルコールさえも「大人のもの」「男のもの」というイメージやステータスは遠い昔に崩壊し「自制できない人のもの」「健康を損なうリスクを持つ忌まわしいもの」としての地位を確立しつつある。
 ということについて、ぼんやり考えたもの。
 じゃあ「健康的なもの」はさぞや人類の輝かしい未来に帰依するんだろうなぁ、という皮肉を込めて。
 あ、あと部長にシガーを教えたい。

○それでも僕は食べたくない。
 一日三食健康法みたいな既成概念に毒された人たちの手で僕がどれほど困惑しているかについてはたびたび書いている。
 そもそもその既成概念はどこからやってきて、なぜそうまで彼らがそれに毒されているのかに関する考察。
 そして僕がどうして一日一食の生活を送るようになったのか、子どもの頃のことから振り返って綴る、僕以外の人間にとってはどうでもいいような僕の身体の特性に関する現時点でのまとめ。

○シアワセってなんだっけ?
 ぽん酢しょうゆなんてものを買いもしなければ持ちもしない僕のような人間が、現時点で振り返る人間(あるいは猫)のシアワセについて。

○AIは人間を超えるか。
 まぁもちろん超えるわけだけれど、人間のコミュニケーションをする相手として設計されたヴァーチャルな人格に対して、人間がどのような反応を示し、また最終的にはどのような共生社会が生まれるかについて、ぼんやりと考えるもの。
 人間の人間性とはどのように定義されるか。
 また人間社会というのがどういった要件によって満たされ、その要件の中で人間がどのようなカタチを持っているべきであったかを鋭くえぐって見せるフリをして曖昧に逃げ、人工知能から発展した知能が動物的な不確定性をどのように乱数化してシミュレートすればより「人間らしく」なるかなどを考えつつ、猫の居場所について考察したい。

○Doki Doki Literature Club! とその取り巻きが素晴らしいことについて。
 主観と客観やリアリスト問題(笑)に関連した項目。
 ちなみにプレイするなら、Web上の一切の情報を得る前にプレイすべき。

>>>

 だいたいこのくらいか。なんだ少ないじゃないか。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180601
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
条件分岐を持たない狂気。
SUBTITLE:
~ See a condition. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

様(を)見ろ【ざまをみろ】
人の失敗不運に対して,心中愉快だと思いながら発するののしりの言葉。それ見たことか。

>>>

 電話の向こうの弟子の声は、ひどく落胆している様子ではあった。
 けれども、以前、恋人にフラれたときほどひどいものではなかったから、今回もせせら笑ってやった。

 どうも話しにくそうにしているので、しばらくバカ話をしていたら、ようやく核心を話す気になったらしい。
 なんでも学生時代からの友人に、自分の信仰の話をしたら(別にその宗教に勧誘したとかではないらしい。まぁ、したとしたらもっと面白いと思うが)それ以来、電話を掛けても出なくなってしまったらしい。

 ふたたびせせら笑ってやった。

>>>

 かつて彼をフった恋人はといえば、彼が生まれつきの骨格による障害で長期の休職をせざるを得なくなったときに(つまりは彼が精神的にも肉体的にも社会的にも辛い状況になったときに)「あなたのような人とは結婚できそうにないから別れる(実際にはもっと、それらしくて長たらしい説明や理由付けがあったらしいが、聞いた範囲で私がショートに説明するとそうなる)」と言われたそうな。

 あのときも私はさんざ嗤ってやったことよ。
 愉快で仕方なかった。
 滑稽で仕方なかった。
 もしかしたら、実際に電話口で、嗤いながら言ってやったかもしれない。
「ざまあみろ」
 と。

>>>

 僕は信心なんてこれっぽっちもない人間で、悪魔に魂を売るくらいは平気でする一方、猫の神様(という独自の信仰があってだな)を崇め奉っている。なんなら自分が司祭だといってもいいかもしれない。
 友達や知り合いに誘われて、宗教施設(やれ教会だのなんだのといわれる、べらぼうに広大な敷地とやけにお金のかかった巨大な建物がだいたい共通している)に面白半分で行くこともある。
 施設内は、清潔で静謐なことが多い。
 少なくともパチンコ屋だとか、風俗店なんかよりはよほどもまともな場所だと思う。
 お金を取られることもまずない。
 エライヒトの説法も、面白いことだってある。
 注意深く耳を傾ければ、なかなか良いことを言っていることだってある。

 誘われれば、しばらくの長期にわたってその「教え」とやらに付き合ってやることもある。
 あまり時間を浪費させるような連中はまっぴらごめんだけれど(生きるために宗教があるならそれは「まっとう」だけれど、宗教のために生きることを強要するようなのは奴隷制と変わらないから)、そういうのだって「そういうやり方に付き合わされるのはまっぴらごめんだ」と言ってやれば、だいたい皆おとなしくなるものだ。

 なぜそんなことをするのかといえば、私はそれでも何かを知りたいからだ。
 敬遠しているものごとの中に、もしかしたら思いも寄らないカタチで、自分の求めている究極的な答えがあるかもしれない。
 あるいはそういうものに対しての姿勢を、誰かの背中から知る事ができるかもしれない。
(もっとも、今までのところを有り体にいえば、ろくでもない姿勢以外というのは、あまり見ていない。まぁどの宗教がどうだ、ということを具体的に言うには、僕は自身があまりにも軽薄だから言わない)

 宗教なんぞにどれだけ脚を突っ込んでも、僕は自分が変わらないことを知っている。
 なぜといって僕には猫の神様がいるから。
 猫の神様が僕の中にいて、僕は猫の神様を信じる自分を信じているから。
 あるいは他の何かを信じてもよいし、いっそ猫の神様を捨てる自由さえあるわけだけれど、それでも僕に何を求めることもしない猫の神様(信仰心すら必要ない)を崇拝しようと勝手に決めているからである。
 つまり僕には最初から、猫の神様さえいない。
 だから自覚的に、僕は自分が変わらないことを知っているし、他の人間だって同じように変わらないことを知っている。

 じゃあどうして宗教に人々が惹かれるかといえば、いろんな側面があるとは思うが、先に僕が述べたように、何か学べるものがあるからだろう。
 教えてもらうのではなくて、学ぶことができるのなら、好きな場所で好きに学べばいいと思う。
 だから信仰を持つ人を僕は毛嫌いしない。
 ときには科学だってひとつの信仰のように思えることがあるし、この国では経済が相当に宗教じみているし、恋愛を崇拝する人もいる。
 一時(バブル経済の頃)は生命倫理がそのまま宗教じみていたこともあったが、今はどうだ。
 経済という宗教の力が医療という宗教の力と結びつき「すぎていて」自分を助けてくれないから、皆が皆、自らの命さえほどほどにしてこの世を去りたいと願っている。
(おおむね年寄りはそう言っているし、僕もその意見には賛同する)

 彼らには信仰もなかったし、崇拝を理解する知恵さえなかったから、自分が何を信じているかすら正しくは理解していなかった。
 だから信じる対象を彼らは容易く見失って、路頭に迷う。
 投資詐欺の被害ににだって喜び勇んで飛び込むし、医療が自分を救うだなんて本気で信じている。

 ワケの分からない潔癖症で宗教の免疫がないから、おかしなものを信じる人もかなりいるように観察される。
 科学(あるいは「科学的」というもの)が何であるかを知らない人たちは、自分たちの健康も医療行為でアウトソーシングする。
 経済に取り憑かれた亡者たちは経済活動さえアウトソーシングする。しないではいられない。もはや狂気的である。
 そこの主体に「自分」があたかもいるような顔をしているが、実のところ、中身は空洞でぺらっぺらの金メッキが表面上輝いているだけに感じられる人は少なくない。
(余談になるが僕はお金が悪いと言うつもりもないし、それを憎むつもりもない。お金はただのお金でしかない。ただしお金に使われる者は死者も同然だと言っている)

>>>

 さて。
 私がなぜ、何をせせら嗤ったか。
 もうお分かりだろう。

 弟子のことを見ず、彼の周辺情報だけで彼を判断するような人間は、友達でも何でもない、ただの知り合い以下なのだ。
 弟子の、あるいは彼と一緒に歩むことそのものの幸せではなく、結婚というステータスとそこにまつわる経済活動にしか幸せを見いだせなかった女など、とっとと別れて正解なワケだから、フられて正解なのだ。

 まさにちょうラッキー。
 彼は僕と違って真面目だし、アタマもいいし、相当な努力家だし、すごく真剣に彼女の幸せについて考えていて、その中のひとつのありようとして結婚を考えていた。
 顔だって悪くない。学歴だって僕よりは高学歴だ。以前より条件のいい(そして何より彼自身が楽しめる)仕事にも復職した。
(それなのに彼が僕の弟子なのにはワケがあるのだが、それは今回の話には関係がないからしない)

 彼は、お金に使われるような人間ではないし、結婚というステータスに支配されるような愚図でもないし、宗教や信仰に自分をコントロールされるような弱い人間などでもない。

 私は電話口で嗤ったことだ。
 口汚く罵ってやりたい気持ちをぐっとこらえて、高らかに嗤ってやった。

「愚図どもは毎回オマエの価値が分からずに立ち去ってゆくんだ。オマエを何かに利用できると無意識に考えているようなクズが身の回りからまた1人いなくなることを喜べ」と。

 宗教を毛嫌いして信仰する人を差別視する人間は、反宗教という信仰を無自覚に(そしてちょう熱烈に信奉)することで、支配されている。
 結婚や経済というステータスに目がくらんで相手(という人間)を見ない女は、結局いつか相手を見限るし、いつまでも自分自身を傷つけ続ける。

 彼ら彼女たちは自分を知らない。自分がしていることも、自分が支配されていることも知らない。
 だから相対的に、他者が何かに支配されていることを毛嫌いする。
 極めて平和で愚かな生ける死者たちだ。

 己も知らず、ゆえに他者への寛容もない彼らを、僕は嗤ったのだ。

>>>

 できることなら彼ら/彼女たちがいつか、己の生きる道と己の生命を、正しく発見できることを(僕の場合は猫の神様に)祈る。
 もう方向転換ができる年齢ではないかもしれないし、老い先が長いわけではないかもしれないし、選択肢も(自ら潰しているせいで)さほど多くはないかもしれないけれど。








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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
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[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
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[Cat-Ego-Lies]





//EOF


灯りを消そう

あなたが眠るまで

私が起きるまで

灯りを消そう

あなたが眠っても

私が起きるまで



灯りを消せばあなたは消える。
灯りを消したわたしはのこる。



灯りを消そう

あなたが眠るまで

灯りを消そう

あなたが眠っても

灯りを消そう

私が起きてから

灯りを消そう

私が眠るまで



明かりに固執してあなたは
暗闇にとけこんでわたしは



灯りを消すから

あなたは眠るといい

灯りを消すから

みんな眠るといい

灯りを消すから

何も残らない

闇を見通せないあなたには

もうなにも見えない

あなたには

もうなにも見えない




 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180526
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
君だけじゃダメみたい。
SUBTITLE:
~ Then only us. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Cautionary Notices Division *<< //
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 この文書はセックスや暴力、虐待、自己否定感についての記述があります。

 精神的ストレス耐性の低い方が読むことで、強い不快感や嫌悪感、不安、恐怖、孤独や絶望を発生させる恐れがあります。
 精神的外傷やそれに類する精神的圧迫感があり、それが完全に治癒していない場合や対処法を身に付けていない場合、また現時点で不安や孤独感を感じている方などは読み進めないことをおすすめします。
 途中で、冷静な気分を保てなくなった場合は、どうかただちにこのページを閉じて、自分の心を休めることに注力してください。
 あたたかいココアでも飲みながら、猫の画像とかをWebで拾って眺めると良いのです。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




































// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 4日間ほど自己嫌悪していて、しばらく口がきけなかった。
 もとより僕は自己嫌悪や自己憐憫というのをほとんどしない。
(初めて猫を殺したときに自己嫌悪をした気もするけれど、記憶が遠くて思い出せない。)

 それらはナルシシズムだからほとんど何の役にも立たないし、他者の害になることはあっても利になることはまずないと思っている。
 しかもナルシシズムの中でも格別醜悪なのがそのふたつだと認識している。
 自分の肉体美に酔っているくらいの方がまだ健全だ。
 とにかく自己嫌悪と自己憐憫はいずれもナルシシズムの一形態ではあるが、本来的な「自分好き」とはほど遠い。
 だから、自己嫌悪した(あるいはしかけた)自分に対して僕はひどく驚いて、自己嫌悪する自分に自己嫌悪しそうになった。
 自己嫌悪無限ループ。
 まさにナルシシズムの極致。
 いやだよそんなの!

 たしかに僕は「自分好き」である部分も含めて自分を好きだけれど(そしてときどき他者からナルシストだと言われるけれど)実のところナルシシズムは好きではない。
 だってそれはただの陶酔だから。
 酔っ払いの錯覚だから。
 湾曲認識だから。
 曲解であって思い込みであって現実逃避だから。

>>>

 モテというのは技術だ。
 だからそれは才能や体質や生い立ちや性別や学歴に関係なく身に付けることができる。
 老若男女は関係ない。
 若い人には若い人の魅力があり、老いた人には老いた人の魅力がある。男には男の、女には女の魅力がある。
 美しい外見には美しい外見の、醜い外見には醜い外見の魅力が(たとえ本人が無自覚であったり否定的であったとしても)存在する。(そもそも美醜はどこまでも個人的な感覚だ)
 身に付いた技術は磨くこともできる。
 基礎を覚えて応用を編み出すこともできる。
 先端の何かを取り込むこともできる。

 でも、僕は忘れていた。

 技術は、すべて諸刃の剣だ。
 たとえばナイフは果物の皮をむくこともできるし、人を刺し殺すこともできる。
 たとえば車で遠くに行くこともできるし、人を轢き殺すこともできる。
 重機で建物を作ることもできるし、人を圧殺すこともできる。
 火薬で花火を作ることもできるし、爆弾を作ることもできる。
 塩でも砂糖でもアイスピックでも玉ねぎでも。
 はたまた靴ひもだろうと蜂蜜だろうと食器洗い洗剤だろうとチョコレートだろうとなんだろうと、それで何かを殺すことができる。
 つまりは使い方次第で。

 使い方を間違えてはいけないのだ。
 でも僕は間違えたのだ。
(アライさんではないのだ)

>>>

 気が付くと僕は自分がヤリチン(下品な表現で申し訳ないが、蔑称として考えればやむなしと認識した)である(あった)ことに気が付いた。
 もちろん恋愛感情というのは、双方向性がなければ(片思いになってしまって)成り立たない。
 だから相手も僕に何かを求めてこそ成り立つのではある。
 当然、僕も相手を求めた。その半分は立証実験として。

 そして理屈が立証され再現性を確認するうちに、僕は自分がモテなのだと錯覚した。
 ヤリチンになって、ナルシシズムの領域に踏み込んで、自分の陶酔のために相手を利用した。
 少なくともそういう側面は否定できずに存在した。

 モテというのは定量化できない。
 様々な知識や技術や能力や性格や弱点や劣等感や外見、意識や感情や認識の傾向。
(「劣等感」は一般に認識されている「コンプレックス」という名詞で呼んでもいいのだけれど、本来の言葉の意味とは異なる日本特有の方言であり、厳密な「劣等コンプレックス」の表記は長たらしいのでいずれも僕はなるべく使わないようにしている)
 そうしたものから複合的にできあがっていて、なおかつテストの点数のように0〜100までが直線的に並んでいるわけではない。
 受け取る側との相性で、まったく同じ特徴が利点になることも欠点になることもある。
 だから恋人の数が多いからといって、それが男として(あるいは女として)優れていることにも魅力的であることにもならない。
 技術的観察対象が多いことはサンプリングとしては優位だけれど、逆にいえば相手と自分の関係をサンプルにしているということになる。
 ある意味、相手に失礼な行為だ。

 なにしろナルシシズムは(ごまかしたり、他者をエサにする点で)褒められたものではない。
 それに他人を自分の道具にすることは(お互いの了解の上で「遊び」としてするのでないかぎり)たとえ相手がそれを望んでいるとしてもあまり良いことではない。
(なぜならその望みもまたナルシシズムに起因しているから)

>>>

 ナルシシズムが嫌われるのは、自分自身を好きだから、ではない。
 まわりの人から愛されている自分好きの人なんてごまんといる。
 それどころか、むしろちゃんと自分のことを好きな人でなければまともに誰かに好かれることはできない。

 ナルシシズムが本能的嫌悪を誘うのは、自分自身が不在な人間が、自己不在であるはずの自分に陶酔しているからだ。
 先ほどの自己嫌悪はどうだろう。
 客観的に自分を見つめて、もしも嫌悪すべき行動や思考、思想があったなら。
 単純に、今から改めればいい。
 死んでいるわけではないなら今日があって明日がある。
 今から変えれば未来は違うものになる。

 でも、どうしてもその行動や思考や思想を改められない人もいる。
 そういう人たちは、自分の行動や考えを憎みながら、それをすることをやめられない。
 やめてしまうと、その行動や考えの対象を憎むことができなくなるから。
 自分自身のアイデンティティがその憎しみに紐づけられているから、やめるわけにはいかない。
 すくなくとも本人は、そう感じている。心の奥底から。

 たとえば虐待癖(DVといえば分かりやすいか)などもそうだろう。
 虐待している間、その人はその人の正義の感情で煮えたぎっている。
 だから(好きであるという甘い糖衣に包まれた)憎むべき対象や状況があれば、それを正義という名目の怒りの矛先にする。
 どんなにそのあと自己嫌悪をしたとしても、その大元である行動や考えが本来的に独善的であり、その根源にある憎しみを手放して、たとえば無関心になったり、あるいは「本当の意味で愛する」ことができなければそのループは続く。

 自分がこんなに怒るのは、相手が悪いから、と思っているから。
 そうすると自分は簡単に正義になるし、その怒りを相手に発散することは正当な行為に思える。
 でもどうだろう。

 実際のところ、ほとんどの人間は、自分が怒りたいから怒っているだけだ。
 なぜなら、同じ傾向の感情の発露は他にもあるから。
 一般的なのは悲しみだろう。
 怒れない人は悲しんで涙を流す。悲しむことさえできない人は笑う。笑うこともできない人は無表情。
 必ずしも、その憎むべき状況や対象や感情に対して、怒る必要があるわけではない。
 選択された怒りだ。選択しているのは自分だ。

>>>

 ではなぜ「怒りを選択して」しまうのか。
 単純に憎しみの感情に起因していて、憎しみが支配欲にも紐付いて暴力的に発露するからだろう。
 自分に対象を支配するだけの力があると思っている人は、怒る。
 自分に対象を支配する力がないと思っている人は、悲しむ。
 そんなふうに思える。
 
 ビジネスシーンでもプライベートでもいい。
 人が個人的に理不尽を感じる(個人的でない理不尽感なんて、きっとない)とき、人は対象にある人を憎むのだ。
 自分の思う理屈で動かない子どもであるとか、自分の理想から離れようとする恋人だとか、自分の知っているカタチの敬意を示さない人間であるとかを。
 支配して思い通りにしたいという欲望を憎しみで包んで。
 その憎しみは、自分を見つめるいい機会ではあるのだけれど、多くの大人はそんなことはしない。
 自分の中の道理に従って(相手の道理を理解しようとすることなどまずなく)相手を断罪する。

 そりゃそうだ。自分の道理に反するものなんて、考えるのも煩わしい。
 自分の考える正義の真逆の正義なんて、理解したら自分の正義の根拠が崩れかねない。
 正しいのは自分だ。
 間違っているのは相手だ。
 だから、自分は、相手を裁く権利がある。裁かなくてはいけない。罰を与えなくてはいけない。その力が自分にはある。
 さあ怒ろう。怒鳴ろう。相手をねじ伏せよう。蹂躙して、正義のなんたるかを思い知らせてやろう。

>>>

 ……。
 いったいどこに「自分」がいるのだろう。
 相手がいて、相手に対する(正確には相手にこちらが投影している)憎しみがあって、憎しみに対して攻撃するための正義があって。
 仮に自分に属しているものがあるとするならば、その憎しみや怒りがそれなのだ。

 自分の環境や周囲の人間の中に憎むべきなにかを見つけて、それを攻撃して快楽を得たいだけではないか。
 憎しみの根源が自分で見つけられないから、それを許すことができないだけではないか。
 その根源が自分の中にあるから、それを見つめるのができないだけではないか。

 自己嫌悪も同様で、その憎しみの根源は、目に見えているものよりもずっと深くにある。
 自分の言動や情動の、そのまた奥に、自分の望みがあって、絶望があって、それでも渇望して。だから断ち切れなくて。
 自分を見ない自己嫌悪は、だからどんなに深く落ち込んでいるように思えても、単純な陶酔にすぎない。
 自分の行いや過去の情景とそこに付随した感情に酔っているだけだ。
 そこよりずっと深くに眠っている自分を見ないから、同じことを繰り返す。

 人は、憎悪する対象を、渇望する。どこまでも、その憎しみを手放したくない。
 その渇きは憎しみであると同時に、愛されたいという欲求でもあるから。
 愛して欲しくて憎んでいるのだ。
 憎しみが愛(されること)の代償行為になっていて、スライドされた感情になお執着している。
 ああ、おぞましい。

 よって自己嫌悪をする自分に自己嫌悪するなんて、もってのほかの愚行だということもおわかりいただけるだろう。
 そこには嫌悪の感情があるのに、僕は自己嫌悪する自分さえ見ていない。
 自己嫌悪する自分に対する嫌悪感に酔っているだけだ。

 自分を嫌悪する自分が愛しいとか、そんな自分を誰かから愛されたい(慰められたい)とかいうレベルではない。
 自己嫌悪の根源にある憎悪の対象(今回の僕の場合を具体的にいうと「他者を介在しなければ成り立たない性愛を通して、自分の価値が相対的に高いと錯覚し、にもかかわらず他者の人格を無視して道具化している」こと)とその根源にある欲求(「自分は他の人よりも優れている」あるいは「誰かから愛されている」「愛されるに値する」と自己認識したい。さらにいえば他者から評価されたい)という甘くて辛くて苦くてどす黒い、とにかくひどい味とにおいのする工業用アルコールのようなものだ。

 相手もいない。
 自分もいない。
 そんな宇宙空間のような宙ぶらりんの世界で、他人の存在そのものを道具に仕立て上げて、自分の欲望(性欲ではなくてもっと根源的な欲求)を投影して、満足している世界。

 そこには相手はもちろん、自分自身も存在しない。
 それほどまでに自分が好きかといわれると、実のところ、僕は自分の真ん中なんてこれっぽっちもない、空虚な人間なのだし、それも含めて僕自身を好きではある。大好きではある。愛してはいる。
 でも僕には自認する自分の性別さえない。
 それでも僕の自我は、僕という肉体と僕という思考回路にのみ存在して、その外にはどうやっても出られないから、これを愛するしかない。
 この自我がここにあるがゆえに。

>>>

 仮に僕がからっぽでなかったとしても、あるいはからっぽでなければなおさら、僕は自我に負わされた潜在的な穴をふさぐために、自分を愛する必要がある。
 ただ問題は、自己愛は、自分の手だけで完結していなければならないことだ。
 自己完結しているなんて、自慰行為だと嗤う人もいるかもしれない。

 でも、他人がいないと完結しない自己愛は、他者に依存しなければ成り立たない自己愛だ。
 それは愛ではなくて執着になるし、執着は軸がずれれば憎悪になる。

 誰もいなくても。
 何があっても、何もなくても。
 無条件で自分を愛しているほうが、条件付きで愛しているよりも健全だ。
 それはなにも、自分だけではなくて、他者に対してだって同じなのだ。

 僕は実験の途中で、おかしな条件を自分に課してしまった。
 最初は冗談だったかもしれない。あるいは他者の言葉だっただろうか。
 でも、最終的にはその条件を自分で信じてしまった。
 誰の言葉であったかなんて関係はない。
 自分が何を信じたかだ。

>>>

 僕が人間不信になったのは。
 自分以外の誰かを信じられなくなったのではない。
 自分以外のすべての人間を信じられなくなったのではない。

 僕が自分を信じられなくなったのだ。

 そして僕からは猫がいなくなった。

 さよなら。猫のいた私。

>>>

 そして僕は条件付きで(自分に)愛されている(あるいはそう思いこんでいる)自分と、その条件に気が付いて、そんな益体もないものを信じることをやめた。

 他人から突きつけられた条件だったのかもしれないし、自分から設定した条件だったのかもしれない。
 あえて今回は僕がヤリチンであったことを槍玉に挙げているが、実際は、それだけではないかもしれないし、そもそも違う何かを別のフィクションで隠蔽しているかもしれない。
 僕がオープンなWeb上で、そこまでプライベートをさらけ出しているとは限らないし、あるいは純然と吐露しているかもしれない。

 大事なことは、人には愛されたいという欲求がどうやらあって、それがこじれるとけっこう簡単に憎しみに変わるということ。
 そして愛されたいという欲求は、愛することでしか満たされないという、すごくシンプルなことを僕が思い出したということ。

>>>

 不思議なのだけれど(そして案外、信じてくれる人がときどきいてくれるのだけれど)僕の中にはほんとうに猫がいる。
 あるいはそんな気がすることがある。

 僕の中に猫がいるとき、僕は寂しさや恐怖や不安に過剰に反応しなくて済むようになる。
 孤独を感じないし、なかなか楽しいし、いろいろな発見もある。

 誰がそばにいても、猫(ここでは「僕の中の猫」を指している)がいないときの僕は、本当に不安定で、なにもかもが恐ろしくて、歪んでいて、憎かった。
 だから僕は最初、その誰かが不安定で、恐ろしくて、歪んでいるのだと思ってそれを憎んだ。
 やがて僕は、自分が不安定で、恐ろしいもので、歪んでいて、憎むべきものなのかと思った。

 でもそうじゃない。
 もちろん不安定な人間はいるし、歪んでいる人はいるし、恐ろしい人もいるし、憎むべきものもある。
 でもそういうものには、用心して近づいて、サンプリングしたら離れるべきなのだ。
 不快だったらすぐに離れるべきなのだ。

 ついついその穴を探りたくなることもあるかもしれないけれど。
 穴は他者に開いているのではなくて、自分の中にあるのだ。
 好奇心は結構だけれど、執着してはいけないし、なにより他者を道具にしてはいけない。

>>>

 自己嫌悪してしばらくして、答えが見つかって。
 猫が戻ってきた。

 僕が猫なのか、猫が僕なのか。
 やはり僕には分からない。

 さようなら。
 私のいない猫。

 こんにちは。
 猫と私。








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