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//TimeLine:20180825
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~ on no account. ~
Written by BlueCat
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自分の書いた文章が誰かに読まれることと、誰かに読ませる(あるいは読んでもらう)こととは少し違う。
そしてなおかつ誰かに読まれることは、それを想定していない場合、勝手に読まれたということになるだろうし、それが普通であるのがこの世の理ならば、少なからず乱暴というか、無思慮というか、暴力的というか、ひどいものだと僕は思う。
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文字はときに信用できない。
たとえば自分の書いた文章であったとしても。
仮にそれがどんなにプライベートに、そのときのことを正直に書いたものであったとしても。
いや正直だからこそ余計に、プライベートだからこそ余計に、信用できないものになる。
たとえばその日にあったことを日記に書く。
それに付随する感情を書く。
それらは書いたその瞬間から変化してしまう。
なぜといって、書いている自分が変化してしまうから。
変わらないでいられる人もいるだろう。
現実が変わるはずもないという人は多いだろう。
でも、僕にはそうは思えない。
たしかに今日の為替レートであるとか、天気であるとかは、記録しても変わらないだろう。
でも世の中にあって、生活の中で、そんなデジタルな情報ばかりではないのも事実だ。
晴れのような曇りもあれば、曇りのような晴れもある。曇りのような雨もあれば、雨のような晴れもある。
そのとき、日記に曇りのち天気雨、みたいに書いてもいいのかもしれない。
でも、今日の天気のすべてを書くこともできない。
だから記述される情報はいつも部分的/限定的で。
そこから付随した(あるいは記録したかった)情報のすべてを完全に再現することは、書いた本人にさえできない。
読んだ人間は、記録されている部分的な情報から、勝手に自分の感情や経験に従って記録されていない情報までを再構築することになる。
もちろん、それは何ら不自然ではない。
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プライベートな文章というのは、だから、何らの補足をしない。
誰かに説明するための記録ではないからだ。
他人が読む場合は、前提条件を明らかにしたり、一般論とその事象に固有の個別論を分けて説明する必要があったりする。
そういった補足のない文章を勝手に読んで、勝手に解釈した人から、勝手に抗議された経験が、僕にはある。
たとえば他人(友人であるとか、恋人であるとか、あるいは赤の他人でもいい)が自分の携帯端末を開いて、さまざまなアカウントにアクセスするのに似ているかもしれない。
あるいはもっと端的に、強姦に等しいかもしれない。
そのくらい野蛮で、無思慮で、幼稚で、凶悪だと僕は思う。
でも文章は、たいていの場合、無造作に、ほとんどなんのセキュリティもなく、置かれている。
とくにプライベートなものは、プライベートなスペースに置かれることによって、セキュリティが保たれる。
携帯端末は持ち歩くものだし、Web上のアカウントはパブリックな場所で薄膜を隔てて存在している。
危険が予測されるものには、相応のセキュリティが確保される。
実のところ、プライベートな空間は、それだけで基本的なセキュリティが確保されている。
たとえば自宅の書架のような場所は、Web上の情報とは比べものにならないくらい、まともなセキュリティが確保されている。
電子化が進み、ネットワークによって人が繋がり、情報が(薄膜で守られていてもいなくても)開示されている今ではなおさら、ハード的に確保されたセキュリティに勝るものはない。
僕がそうした無思慮な誰かによる暴力的な閲覧行為を受けたことで学んだことのひとつは、セキュリティにはたいした意味がない、ということだ。
たとえばどんな服装をしていても。
極端な話、銃器で武装していても。
強姦される人は強姦される。
パスワードで保護していても。
ガジェットによるハードを介した暗号化を施しても。
物理的に厳重な鍵を用意しても。
セキュリティは非合法に突破される。
確実なのは、何も持たないことだ。
外に出ないこと。
誰であろうと、物理的にも精神的にも接触しないこと。
言葉なんか書かないこと。
超本格的な引きこもりではあるけれど、それが一番安全である。
何も思わず、何も感じずにいられれば、もう完璧である。
もちろん、そうまでして生きる意味など微塵もないとは思うが。
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暴力的な閲覧行為を受けたことで学んだもうひとつのことは、自分以外の人間を信頼することは意味がないということだ。
そうした無思慮で暴力的な傾向は、外側からはなかなか判別しにくい。とくに僕のようにぼんやり生きている人間には致命的に判別できない。
ぼんやり生きている方が悪い、という意見もあるだろう。
ならば僕は死にたい。死んだ方がましだと思う。
ぼんやり他人を信じて生きていられない世界なんて滅びればいいし、滅びるわけにはいかないのなら(もちろん当たり前に滅びないし滅びるわけにはいかないから)自分が死んだ方がましだと素直に思う。
手当たり次第に誰彼かまわず疑ってかかるような人間になって、そんなみすぼらしい生き方をしてまでちっぽけな自我や所有物を守るくらいなら、自分の身体も含めて持たない方がましだ。
ただ、自殺するのは手間がかかる。
不憫なことではあるが、ある程度以上の周到な用意が必要だ。
単に今生きて、明日も生きるのとはわけが違う。
困ったことに生きている方が死ぬよりもラクなのだ。少なくとも現在のこの国のこのエリアでは。
だって葬儀の手配であるとか、遺品(になるであろう品物)の整理であるとか、それ以外の財産の処理であるとかを考えなくてはならない。
(基本的に、誰かを頼るという考えが、子どもの頃から僕にはないので)
遺書を書かなきゃだし、場合によっては公正証書遺言を残さなきゃだし、葬儀の相談に行かなきゃだし、自殺の段取りも考えなきゃならない。
生活用品の整理をして、アパートの解約をして、銀行口座その他諸々の解約をして、ゴミを整理して、遺品を収める倉庫を借りて、そこに移送しなきゃならない。
周囲の人に気づかれずに。仕事なんかの日常生活をできるかぎり続けたまま。
(日常生活をきちんと送っていないと周囲に怪しまれるから。あと、死ぬのに必要な費用を稼ぐ必要があるから)
そうやって周到に死のうと考えた場合、その準備には3ヶ月は必要なのである。
死ぬために3ヶ月は、それ以前よりも注意深く、真面目に生きなくてはならないのである。
ちょうめんどうである。
ラクをしたくて(あるいは真面目で真摯な気持ちで)死にたいはずが、ぜんぜんラクじゃない(真摯な気持ちにもなれない)から死ねないのである。生きてる方がラクなのである。
これを堕落と取るか、大人になったと評価するかは分かれるところだろうけれど、問題はそういうことではない。
ときどき(弟子あたりに)『そんな簡単に「死んだ方がまし」とか言わないでください』なんて文句を言われる(前述の通り、手順まで考えているからその通り話す)ものの、もしもこの国で死ぬ方がラクだったら、あるいは僕の周辺の状況にとって僕が死んだ方がラクならば『そんな簡単に生きていないでください』と文句を言われるだろう。
(現に僕は「死にたい」と相談に来るほとんどの人に「こんなところに来てる場合じゃないよ。何しに来たの? 死ねば」と答えている)
身の回りの誰かが死ぬと悲しい、というタイプの人間はいるし、残念ながら僕を対象にした場合にもわずかながら存在していて本当に鬱陶しい。
彼らは僕が生きている方が精神的にもストレスが少なくてラクなのである。逆説的に、僕が死ぬと面倒なのである。
面倒だから、死ぬことをやんわりと拒否する。自分にとってラクだからというだけの理由で僕に生きている方を選ばせようとする。
(極論だけれど面白いからいいや)
そういう意味では豊かな国だと思うし、豊かな国になったと思う。
おそらく世界中で、少なくとも先進国ならばそういう指向を持っているだろうと僕は思う。
ただ、まぁ、その理想なり指向なりは現実と重ね合わせるとどうしてもいびつな部分ができてしまうのだろう。
だって戦時下で、自分が生きることで必死だったら、他人が生きようが死のうが関係ないもの。
逆に、目の前の人が死んでくれたら(いろいろな意味で)食糧が増える可能性だってあるわけで、そういう状況は「生きる方が死ぬよりも困難な状態」なわけであって、そういうレベルを脱却している、平和的な社会だと認識することができる。実に豊かである。
ただまぁ、死にたいという人を簡単に死なせることができない不自由さ、不便さ、貧しさを抱えていると僕は思ってしまう。
自死の意思を持つことや実行することは、自由でも便利でも豊かでもない、という人がいるのも分かるけれど、選択する余地もなく否定されて強制される社会や人間関係は僕には窮屈である。
そういった諸々も考えて、身の回りの人間をできるかぎり少なくしている。
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いつからか流行りだした「ミニマム」だとか「ミニマリスト」の人たちが、どうしてそんな情報を発信しているのか(あるいはメディアが発信させているのか。ならばなぜそれに乗って発信させられてしまうのか)、ちょっと僕には想像ができない。
めんどうくさいじゃんか。
まぁ、ファッションであるとか、ジェスチュアだというのなら理解できなくもないのだけれど。
(ファッションの一部や、ジェスチュアのほとんどは、それを受け止める人間がいてはじめて成り立つものだから)
あれがひとつの哲学であるとか、生き方であるのだとしたら、そんなの誰かに発信するなんてちょっと想像がつかない。
なぜって、哲学であるとか、生き方であるとかは、自己完結するから。
誰かに承認されたり、誰かに理解してもらったり、まして誰かに紹介して「そっか! うんうん、あるある、わかる!」と賛同してもらえることを前提にするものではない。
自分が「こうしたほうがラクだよなぁ」と思ったことをするのが哲学であるとか生き方であるとかのように思うのだけれど。
仮にものすごく真面目な人がいたとして、その人は真面目な方が、ラクなわけです。
苦労するのが好きな人っていて、そういう人は、苦労していない状態が苦痛なわけです。苦労するとラクなわけです。
むつかしいことを考えたり、自分の方針を貫く人は、そういうことをしないよりも、するほうがラクなワケです。しないと苦痛なわけです。するほうが自然なわけです。
でしょう?
水は低きに流れるというけれど、必ずしも低い=悪いのではなくて、ラク=悪いでもなくて、単に力学的に自然な状態、ということで考えれば「ラク=自然」ということでよいわけです。
自然にしていること。
無理なく続けてしまうこと。
やめようとすると苦痛になることがあるわけです。
逆に、意識しないとできないこと。
続けるのが無理なこと。
やめたほうが気持ちがラクになることもあるわけです。
こうしたものは人それぞれだから、誰かに押しつけられるのは非常に苦痛なものだし、逆説的に、誰かに押しつけるものでもないでしょう?
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そういうことが分からない人間も、おそらくはいる。
そういう人は、結局、誰かに何かを押しつけたり、あるいは誰かに何かを押しつけられたと不満を募らせて生きていく。
べつに言ってませんよ。
誰かに性器を押しつけたり、押しつけられたと不満を募らせて、なんて。
そして僕自身は、誰かに性器を押しつけたり、押しつけられたと不満を募らせるつもりもないのです。
ただ、誰かに何かを強制されるのは、本当にイヤだなぁ、って昔から思っていたなぁ、って最近思うのです。
暴力的なのも、無思慮なのも、本当にイヤだなぁって。
暴力的で、無思慮なことをしておいて、自分が被害者みたいに振る舞ったりなんかしてたらもう最悪ですよ。
(あえて抽象的に書いていますけれど、そういう事象が、恐らく、ないわけではないでしょうし)
誰かにされるのもイヤだし、誰かにしてしまう可能性も考えると、うかうか電車になんか乗れませんよ。
もしかしたら、そういうのをする人って、孤独に耐えられないのかなぁ、って思ったりします。
誰かに何かを押しつけるのも、押しつけられるのも、ラクではないことだから。
ラクではないのに、ラクではない場所に自分を連れて行ってしまうのは、ビョーキなのでしょうから。
寂しい、とか、孤独に耐えられない、っていうのは立派にビョーキなのだと僕は思うのです。
人的ミニマリストって、もしかして健全なのではないでしょうか(結論?)。
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こういうことを好き勝手書いていて、僕の思っていることとは無関係に好き勝手な解釈をされて、なぜか怒られたりするのです。
まるで私が道ばたで誰かを強姦したかのような勢いで(俺は何もしていない!)。
分かりますよ。
その方(ほう、と読んでも、かた、と読んでも意味が通じる)がラクなのでしょうから。
でも時々思います。
裏庭に穴掘って掘ったスコップで殴って気絶させて埋めてやるぞ、って。
準備が面倒だからしませんけれどね。
僕みたいな人間は、そっちのほうがラクだったら、ついうっかりしちゃいそうで、ときどき自分が怖いです。
どう考えても準備が面倒だからしませんけれどね。
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