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~ Reflection. ~
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転んで打ちどころが悪くて死ぬ(あるいは瀕死の重傷を負う)、なんてことはそうそうあるものではない、と思っている僕の身の回りでそれが起こるのは今回が3回目である。
1度目は懇意にしていただいていたお客さま。
2度目は自分の上司であり趣味の師でもあった社長。
3度目の今回は介護対象の伯母。
延命措置を嫌う我々の一族ではあるが、延命と救命の境目なんて、普段から死に対して目を凝らしている僕にさえ、きちんと見分けられるとは限らない。
妻方傍系にあたるにもかかわらず、認知症が進行し続けている伯父の施設入所の諸手続まで代理で行うことになった(なぜか伯父の入所と伯母の救急搬送は同日だった)僕の驚きと不運を知れ。
それが昨日のことだ。
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振り返るに、15年前に死んだ僕の父上はたいそう子孝行な方(かた、と読む)であり、僕が2歳の頃から何度となく入退院を繰り返し、生死を彷徨う大手術(当時の冠動脈バイパス手術は、心停止を人為的に起こして行った。今は知らない)や半年以上にわたる入院生活と仕事と子育て(彼は子どもたちがわーきゃーうるさいので、離婚後後妻を取らなかった/取れなかった)を両立したりしたものの、入退院から葬儀に至るまで、さほどの迷惑を掛けなかった人なのだと最近は分かるようになった。
(なにぶん、親の死に目というのは、通常、多くても2度くらいしか立ち会うことが出来ない)
ちなみに僕はふつーの子どもと違って、自分の父親をこれっぽっちも尊敬していない(父上とか言っているのは単なるブラックジョークである)。母親に関しては、何の思い入れもないので、話題にも上らない。
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父は、勝手に入院して、勝手に退院して、勝手に手術をしてもらっていた。
今と違って、入院や手術にあたって、インフォームドコンセントであるとか、保証人であるとか、同意書であるとかを必要としない時代のことであるからなおさら。
僕と妹は、病室に、タオル一本、パジャマ一着、持っていったこともなければ持ち帰ったこともない。
書類ひとつ書いたことはないし、一円たりとも立て替えたことさえない。
そうしたひとつひとつのむつかしいことや面倒なことから、父上は、僕らを遠ざけてくれていた。
自身の手で、できうるすべてを、自身で行っていた。
(実のところ、暗躍している女性の陰を僕は知っていたのだけれども)
大まかな方針から事細かな指示に至るまで、柔軟性をもって書かれた遺書(というより葬儀指示書)は入院のたびにある場所を教えられ、あるいは確認され、死んだ場合にはあらためて読むようにと、あらかじめ内容を教えられていた。
(公正証書遺言ではないから法的拘束力は低いが、日常の教育としてはむしろ適切である)
かくして父上には墓がないし戒名もない。
おかげで僕はお盆がただの連休になるし面倒な親戚づきあいもほとんどしないで済んでいる。
海に散骨されず、手元に残った骨は分骨され、僕の持ち分は、僕が死ぬときにともに燃やされ、こんどはひとかけらも残さず、どこかに散骨されるだろう。
(遺書というのはそういうことに使うものである)
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伯父と伯母を悪く言うつもりはない。
多くの人は、父上のように思い切りよく「はい死にましたー」なんてならない。
とくに今の医療のもとで、死は「生と無」をつなぐ、グラデーションのような帯状に分布していて、どのポイントからその個体の死を示すのかなんて、明確な答えなどはない。
だから、助かるものを助ける救命と、助からないものをただ存えさせる延命との境界も、曖昧なのだ。
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どういうめぐりあわせなのか、現在の勤務先の社長も、高度脳機能障害を起こしているように観察される。
認知症も含め、僕はこの5年ほど、そうした人たちに振り回され続けているといっても過言ではない。
(認知症ではないただの白痴も含めれば、さらに人数が増える)
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彼らは言葉が通じない。
だから僕は人間に不信を抱くよりほかないし、僕自身の言葉に対する自信を失う。
僕は人間を信じなくなり、言葉を信じなくなる。
言葉を信じなくなれば、必然、言葉を記録することはなくなる。
だから僕は、今ではほとんど何も書かなくなった。
言葉を綴った後にあるのは、いつも、後悔や不快、否定や非難である。
勝手にそれを読む人間がいて、たいていそういう人間は無遠慮に勝手な解釈を加えて、どういうわけか僕は非難される。
なぜだろう。
海賊に陵辱されながら「オマエは悪い奴だ」と耳元で言われるようなものだ。
抵抗の果てに暴力とともに男根を突き立てられて、断罪を宣言される屈辱と無力感。
彼のものが人間でないならばなぜ私は断罪される必要があるだろう。
彼のものが人間であるならばなぜ私は辱めを受ける必要があるだろう。
私が人間であるならばなぜ彼のものは私をモノのように扱うのだろう。
私が人間でないならばなぜ彼のものは私に苦しみを感じさせるのだろう。
僕は人間を信じない。
僕は人間が作ったものを信じない。
僕が仮に(そう。仮に、である)そう思ったとして、何の不思議があるだろう。
僕は僕の人間性(あるいは僕が人間であること)を否定され、あるいは僕は僕以外の誰かの人間性(つまりはその人が人間であること)を否定せざるを得ない状況に置かれたのである。
この場合、人間は不信の対象になる。
たとえば法や経済といった「人間のみが作りうるもの」について、それは人間が「根底にあるものを信じているからこそ」存続しうる仕組みではある。
あるいは言葉といった「人間のみが作りうるもの」について。
あるいは信用や信頼や愛情といった「人間のみが認知しうるもの」について。
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逆説的に、僕は彼らと言葉を通わせないことによって。
つまり彼らの言葉を使わないことによって、彼らを否定していることくらいは表現できるかもしれない。
あるいは彼らを否定している気分くらいは味わえるかもしれない。
彼らの言葉を否定しよう。
彼らを否定しよう。
人間を否定しよう。
なあに、簡単なことだ。
僕が人間でなくなりさえすれば、それで事は足りるではないか。
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いつかもそう思ったのだろうか。
よく分からない。
思い出せない。
にゃー。
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