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recollection.
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~ recollection. ~
Written by BlueCat


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 お祝いにお酒を贈るのだと言ってきかない。

 数日前、意識を取り戻し、昨日から喋ることが出来るようになった伯母のことである。
 右脳の半分近くが出血によって圧迫され、緊急手術のあとにはぽっかりとした空洞ができていた。
 当然のように左半身は麻痺しており自分の意思で動かすことは出来ない。

 しかし触れば感触はわかるようで、話しかければ反応する。
 喉が渇いて、お腹が空いたと言い、直後に、とても眠いと言い残して眠ってしまう。
(搬送後から今もって、水を飲むことも許されていない)

 死ぬかと思っていたが、存外たくましいようである。

 その伯母が言う。
 あなたの結婚のお祝いに、お酒を贈るのだと。

 ああ。その話はずいぶん昔のことですよ(しかも最終的に結婚してないし)。
 とは思うものの、それをいちいち指摘する気にもならないので放っている。
「うんうん。ありがとう。退院したら、頂きにあがります」と。

 僕だけではなく、妹にも看護婦にも、顔を見るたび言っているらしく、妹から驚きのメールが届いた。
「猫くん(彼女は僕をくん付けで呼ぶ)、結婚するの?!」

 どうやら妹は、相当ショックを受けた(僕が結婚することではなくて、伯母の記憶がかなり混乱していることに、である)ようで、夜になっても寝付けなかったのか、電話を掛けてくる始末。
 悩みは旦那に相談しろよ、と思いつつも、酒を片手に笑い飛ばす。

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 この数日は、遠方から従姉妹がやたらと押しかけてきて困った。
 なにせ相手はICUに入っているのだ。
 通常は一親等までしか入室を許可されないところ、たまたま一親等の親族がどこにもいない上、妻方傍系の私と妹しか対応していないがために、甥と姪(書面上)はオッケー、というのを拡大解釈したような扱いになってしまったことよ。
 もっとも、伯母は今生き残っている叔父と叔母がそれぞれ脳梗塞やら脳内出血を起こしたときにも、それはそれは甲斐甲斐しく尽力したようではあるから、それらの子(僕にとっての従姉妹)が心配するのは無理もないことなのかもしれない。

 僕からすれば、ICUの患者を見舞うこと自体ちょっとした非常識なことではある(意味が分からない人はべつによいです)。
 もちろん意識は比較的明晰で、身体的に重篤な人もいれば、伯母のように脳の機能が損なわれている者もいる。
 親族が呼びかけることがきっかけで、意識が戻るケースもないとはいえないだろう。
 だから多くの人は、重篤な人が相手であっても、いやだからこそ、見舞いに行き来する。

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 正直なところ、僕は普段行き来のない人が入院しようが見舞いに出かけたりはしない。
 当然ではないか。
 見ず知らずの他人が入院したって誰も見舞いに行ったりはしない(知らない人だから当然だけれど)。
 今は顔も合わせなくなった学生時代の友人が、入院しようが死のうが、いちいち見舞いや葬儀に出かけたりはしない。
 親だとしたって、まぁ、葬儀は別にしても、見舞いはどちらでもよいような気がする。
 
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 生きる者たちが、自身も含めた生命活動に対して、どんな幻想を抱こうと、それはそれでその個体の自由だ。
 生命倫理も同様、社会が個体にどれほど刷り込みを行おうと、激昂すれば平気で他人を殺せる人はそれなりの数がいるし、殺さないのは単なる利己的な計算の結果に過ぎない個体もいる。
 激昂したついでに自傷/自死的行為を行って怒りを示す者もいる。
 そんなことをいう僕自身、激しい感情に駆られる前に高確率で笑い出す。
 どうやらそれが安全弁らしい。
 ほかに感情の吐露の方法を知らない。最近では多少の演技は出来るようになった方だが、それでも世間一般とは齟齬があるらしく、自分でも気が付かないうちに相手が怒り出したりすることもある。

 泣いたり笑ったり怒ったり。
 いずれも結構である。

 特定のパターンにおいて、自分と同じ感情表現をしない人間を快く思わない人間がいるのも決して不自然とは思わない。
 多少不寛容だとは思うが、均質な人間を生み出すための教育を繰り返した文化背景がこの国にある以上、表面上の均質を重視するあまり、日陰に強い澱みが生まれたとしても不思議ではないし、表だっては主観的な審判による均質性を持たないことを理由に他者を非難するのも道理ではある。
 均質、常識、一般、当たり前、そういう表皮だけを、中身を定義することもなく、曖昧なまま重視されてきたのだから。

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 伯母は半分近く死んでいて、半分以上は生きている。
 重なり合った部分は同時に存在していて、そんなのはこれを書いている僕自身にすら適用できる判断基準だ。

 いろいろなことがとてもややこしくて煩わしい。

 僕は三親等以上離れた、利害関係が本来希薄なはずの、子どもがいないというだけの夫婦に何年も振り回されていることになるし、僕がたまたま今まで家庭を持たずにいることが、この場所にいる確率を格段に高くした。
 あるいは半年前なら、僕は京都で暮らす可能性も高かった(転職先の都合で)。

 この街はもうじき2年になるが、うまく眠れないから、やはりダメだと思う。
 ベランダは広いのだけれど、街が近すぎる。
 陽射しが強いし、夜も明るい。
 水の音が聞こえないし、山を撫でる風のせせらぎも聞こえない。
 夜中に不如帰が鳴くこともない。
 たびたびパトカーや救急車のサイレンが、締め切った窓とカーテンを突き抜けて、僕の鼓膜を揺する。

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 数年ぶりに救急車に乗ったとき、ああ。ぼくは僕らはどうしてこんなに救急車であるとか病院であるとかに縁があるのか、と思ったものではある。
 でもそう。僕自身が理由で乗ることになったのは、もっと昔のこと。そしてせいぜいが2度か3度の話。

 いろいろなことが曖昧になって。
 復讐したいものがなんだったのかおぼろになって。
 そうすれば、生きる気力なんてどこにもなくなって。

 憎む対象のない世界は、なんて平和で、なんてつまらないものか。

 嫌いなものがあることが許せない性格だから。
 つぎつぎ同化する術を身に付けて。
 つぎつぎ境界を曖昧にする知識を身に付けて。
 まるで界面活性剤のように。

 分離することなくひとつながりになったところで、成分濃度の強い層では当然のように、相反する成分とは相容れなくて。
 そういう全体を眺めていると、本当に、なんともいえない気分になる。
 笑いもこぼれないし、涙も浮かばない。
 ただただ表情もなく、悲しみさえ感じられないことが、もしかしたら悲しいことなのだと、少し感じる。

 空虚な様を嗤うがいい。泣くがいい。貶みあるいは怒るがいい。あるいはただただ無感情に眺めるがいい。

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 何年かに一度、こういうことは僕の中を巡る。
 僕はそういうとき、たいていは無気力で、何もできないことが多い。あるいは「多かった」。
 もう僕は、それらにさえ支配されるのを嫌っているのか、あるいは面倒だと感じているのか、あくまでマイペースに、自分のありようであることにした。

 長い夏休みのように。

 僕は、太陽にも月にも雨にも風にも他人にも時間にも感情にも干渉されることなく眠って起きて。

 仮に今の僕に人間的な活動が認められるとしたら、それは起きたらすぐにギターを弾き始めるという、一般的な人からするとはなはだ不可解な行動だろう。

 人々の考えることは僕にはよく分からない。
 人々の記憶を僕は読むことができないし、追体験することもできないから。
 だから他人の感覚を理解することもできない。よく分からない。
 それが可能だと思っている人もいるのだろうとは思う。おそらく「均質性」を信じているのだろう。
 あるいは、多少は、分からないでもない。
 身体に火をつけられれば熱いと感じるし、気温が下がれば寒いと感じる。
 でも世の中には、身体が傷つくことを喜ぶタイプの人間もいるし、僕のように空腹(および満腹)をうまく感じないタイプの人間もいる。
 感覚とそれに紐づけられた感情は、必ずしも一致するとは限らない。

 そんな例外なんかいちいち考えていたらきりがないから社会は均質性を重んじたはずだし、やがて文化的に豊かになる課程で、均質性とは異なる方向性である「多様性」を認めないと息苦しいことに気が付いたのだろう。
 いずれも両極端な動きになるとは思う。
 均質性と多様性を、同じ比重で、同じ範囲に、つまりは「同時に重ねて」見たり感じたりするような判断基準や感覚基盤を、多くの人は持たないように観察される。
 すべてのことは主観によって一意的(かつ感情的)に決めつけられることが多いようだ。
 感情的でない場合は、一意性を失って、単一の事象であっても複数の意味を持ちうることが「可能性として」見えるだろう。
 そうなると、感情を持って一意的に決定されていることの方が色濃くて、それに対する意見を強く大きな声で訴える個体の方が事象を断定する意味ではより強くなる。

 原始的だけれど、そもそも人間というのは原始的なのだ。

 本来は、どんな人も、他人と重なるだけの均質性を持ちうる(たとえば火をつければ熱いと感じる場合が多い)し、他人と重ならない多様性(たとえばギターを弾くとか)も持ちうる。
 それらは単一の人間や、単一の事象、単一の言葉や単一の感覚にも存在しうる。

 でもそんなことを感覚しているとキリがなくて。
 意味はやがて意味を失ってしまいかねない。
 きっと面倒だから、一意的に取り扱った方がラクだから、人はそういう余計ともいえる要素を除外してしまったのだろうし、除外してしまうのだろう。

 何が正しいとか、そんなふうには思わない。思えない。

 ただ僕は夜になっても眠れないし、日中に眠くなるし、身体の不具合は積み重なってゆくし、いろいろなことが壊れていて、直し方がうまく分からない。

>>>

 いつか棲んでいた、山と河のそばにあった僕の部屋は、とても素敵な場所で。

 夜中に月明かりで目覚めたり。
 不如帰の鳴き声を聴いて眠った。

 いろいろなことが今より少し静かになったら。

 静かな場所を探して、そこで暮らそう。
 好きなことをして、あまり人と接することなく、静かに暮らしていたい。








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