// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180501
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
液体のようにいれたらいいのに。
SUBTITLE:
~ Like a liquid for my heart. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180501

 ここ数ヶ月、叔母からの電話を無視している。
 単純に面倒だからであり、労力に見合っただけの精神的なヨロコビがない。
 僕自身は基本方針として、精神的なヨロコビのために自分のありとあらゆるリソースを消費することにしている。

 もちろん、苦痛だけれどもしなくてはならない、ということもある。
 たとえばいくつかの役所での手続きであるとかがそれである。
 でも、それ自体も楽しみ方はいくらでもある。

 叔母との関係は、どうも楽しめない。
 感謝されないから、というわけではない。
 叔母は、僕の労をねぎらってくれるし、感謝の言葉も掛けてくれる。
 経費が掛かった場合、それを請求すれば支払ってもくれるだろう。
 いちばんの問題は他人を思うように動かそうという無駄な煩悩が強いこと。
 二番目はひとこと余計に言ってしまう愚かさ。

>>>

 他人を支配したがる人間の多くは、どういうわけか自分でやらない。
 自分でした方が早くて正確で楽しくて心地よいものが手に入るのに、どういうわけかそれをしない。
 彼ら(彼女たち)が手に入れたいのは「誰かをして私にさせた」ということも込みにした結果なのだろう。

 僕にはにわかに信じがたいのだけれど。

 たとえば僕が恋人に「コーヒーを淹れてくれ」と頼んだとする。(今までの人生にもなかったし、この先もまずありえない依頼だが、ここは設定なのであきらめよう)
 100%僕の気持ちを満たしてくれるコーヒーが出てくることはない。
 僕が恋人にポトフを作ってくれと頼もうが、僕のWeb文書のタグ付けを頼もうが、100円ショップでの買い物を頼もうが、どれもこれも100%気持ちを満たす結果は得られない。
「買い物もか!」と驚く人もいるかもしれないが、自分以外の誰かに買い物を頼むのは、存外気を揉む。
 ちゃんとたどり着けただろうか、目的のものは見つかっただろうか、途中で事故や事件に遭ったりしていないだろうか、お財布はちゃんと持っただろうか、体調が悪くなったりしていないだろうか、といった具合に。
 待っているぶん、その時間がつらいのだから、一緒に出かけるか、独りで出かけることになる。
 最善は恋人が来る前に自分で済ませておくことである。

 単純に、業務上の仕事であれば、僕より早くて正確で最適な出力ができる人を僕は少なからず知っている。
(もっとも今の職場はきわめて特殊な環境なので、同僚が一人もいないが)
 けれどもプライベートだと、僕にとって最適な出力を僕以上にできる人間がいるとは、経験上とうてい思えない。
 ストライクゾーンが狭いことは認める。広くとることは容易で、極めて有効な手段だ。他人に任せる場合は。
 でも、他人がしてくれることに満足することと己の満足を追求することは異なることで、ために合致することは少ない、と僕は感じる。

>>>

 叔母を個人的に嫌う理由はたいしてない。
 もうじき(少なくとも僕よりは先に)死ぬ人だし、害もない。
 両親のいない僕のことを少なからず気に掛けてくれていることも知っている。
 ただ、介護に関連したこの数年間で、少々お互い踏み込みすぎたのが実際のところだろう。

 正直なところ、僕は誰かと一緒に暮らすということができないのではないかとさえ思う。
 べつに叔母の作った料理や、出すお茶、洗濯の仕上がりや洗濯機の使用方法に苦言を呈したことはない。

 他人に自分の満足を求める行為の愚かさ(あるいは確率の低さ)を僕は知っているつもりだ。
 だから不満であることが当然であって、他人が自分のために何かしてくれること自体、その時点で嬉しいことではあるのだ。

 ここまでの論調でいくと、僕は他人を「僕よりも無能で役に立たなくて、繊細にして博識なる僕に満足をもたらすことなどできない」と言っているように思えるかもしれない。
 実際その通りなのだけれど、だからといって僕は彼ら(あるいは彼女たち)を馬鹿にしているわけではないし、僕の方が優れていると思っているわけでもない。
 単純に「僕という個人を満足させる」という目的そのものがあまりにも複雑であるために、その目的を果たすことにおいて他者にはそれがむつかしい、という当たり前のことを言っているだけである。

>>>

 しかし叔母は、私を支配したがる。
 私の家系の血を引いているから、やれ煙草を吸うな酒を飲むなと、まるで中高生のように言われる。
 害になるのは十分に承知していて、僕は僕の死生観に基づいて寿命を浪費しているのだから、そこはそっとしておいてほしい。
 ただでさえ、僕は基本的に、世間から隠れて飲酒喫煙をしているのだから。
 買い物を頼まれて買ったとしても、ものに対する基準が異なるらしく(こんな高いものは不要だ)などと陰に罵られる(残念なことに、人との接触をなるべく控えている僕の耳にも入ってしまう)。
 こういう、他人の時間を自分の時間と勘違いしている人間というのが、どうしても苦手なのである。

 僕はモテのわりに(自分で言うか)人を誘って遊びに出かけたり、デートに誘うことが少ない。
 それはつまり、相手のことが好きではないとか会いたくないとかではなく、安易に自分のために使いたくないのである。
 けれども(家族も含めた)他人の時間を自分の時間と履き違えるタイプの人間というのは、仮にお金にシビアであったとしても、きちんと約束の時間を守る人間だったとしても、他人のリソースにはルーズなのだ。

 人間の一生は、有限である。
 それは自分も他人も一緒だろう。

 なるべくなら、自分の持っている時間は嬉しいことや楽しいことで満たしたい、というのは誰でも同じように思っていることだろう。
 誰かが楽しんだり喜んだりするために時間を使えるのなら、それは素敵なことだと僕は思う。
(ために僕は、誰かのために買い物をしたり、料理を作ったり、掃除をしたりすることはまったくもって苦にならない。たいていの労働もそうした側面に目を向ければ驚くほど楽しい)
 ただ、僕のように自分の満足がきわめて複雑であることをきちんと認識している人は思ったより少ないし、それを提示しながら他人を使役して学習させることのできる人なんて、僕も含めてほとんどいないのだ。

 彼ら(あるいは彼女たち)は自分の過不足のために他人を使役し、それに感謝こそするけれど満足はしない。
 この「感謝こそすれど満足しない」というのは、僕のこれまで言っていることと一緒で、つまるところ他人を使役することに抵抗がない(あるいはヨロコビがある)だけに厄介だ。

 けれどもそうしたあたりまえの事実をわざわざ、自分の価値観をなかなか変えたがらない類の頑固な、なおかつ老い先の短い人に言って聞かせて納得させるものだろうか。
 僕はそうも思わない。
 僕が絶対に正しいという自信もない。

 こういう姿勢というのは、誰かに教わることもあるかもしれないが、多くは自省して身につくものではないだろうか。
 わざわざ目上の人に言わなくてはならないこと自体、そうとうに悩ましいことである。

>>>

 とまぁ、こんな感じであれこれ悩んでしまう。
 子どものいない叔母夫婦の、介護以外にも面倒なことを手伝ってしまったので、なんというか、複雑な心境であることは否めない。
 結果的に、僕は気持ちよく彼女たちに使役されることができない。
 なぜなら満足のレベルが理解できないから。
 そんなこんなを考えていると、どうにも気が重くなって、最近は自閉している。

 ひとりを無視し始めると、どうにも気が重い。
 なんとかしなくてはと思いつつ、留守録さえ聞く気にならない連休である。
 放っておけば、自閉が進んで鬱病チックになってくる。
 そういう自分の性質は心得ている。
 ひとりの電話を無視し続ければ、他の人の電話を取るのも面倒になるのだ。

>>>

 ことほどさよう、誰かを満足させることはむつかしい。
 どんなに美味しい料理を作ったとしても、たとえば人参が嫌いな人にポトフを食べさせるのがむつかしいというようなことはある。
 誰かの十全な満足を考えるとき、あるいは誰かの充分な幸福を考えるとき、だから、誰かといることの複雑さや、誰かと長く一緒に生きることの恐ろしさを思う。
 それは自分の十全な満足を考え、自分の充分な幸福を考えるのとはまったく異なることだから。

 簡単な言葉で言うと、ちょうめんどくせぇ。

 僕のような人間は、ちょっと気の利いたデザートのように、たまに誰かのテーブルに載る程度がちょうどいいのだろうと思う。
 少なくともこれまでのところ、僕のヘンタイっぷりにまともに付き合えた人間は一人しかいないわけだから。
 おおかたの人間は「あなたは何を言っているのか分からない」と言い出すのだ。たとえば叔母がそうであったように。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]




//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180425
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
そして誰もいらなくなった。
SUBTITLE:
~ And then there were no needs. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180425

 雨のち晴。

>>>

 以前、あるネットゲームで知り合って、そうこうするうちに私に恋した人に話したことがある。
「AIは、肉体労働から人間を解放するより先に、知的/知識産業を席巻するだろう。もしそうならなければ、単純に適性を超越した制御がなされていることになる」と。

 そのとき私が喩えとして言ったのは「既定の枠を持っていて、その中での大量の情報を処理する業務、たとえば司法関連なんて最適だろう」ということだった。

 ブログでも書いたことがあっただろうか。
 よく覚えていないのだけれど。

 これはコンピュータの特性を考えるとしごく自然である。
 入力され、演算し、出力する。
 このメモリとCPUさえあれば(局所的ではあるが)完結する基本動作が、コンピュータの能力である。

 現実世界で歩いたり、あるいは誰かと会話するというのは、非常に複雑な処理の上に成り立つ行為だ。
 もちろんそこにも「出力←演算←入力」のループは存在する。
 しかし情報の処理だけで済むルーチンと、それを現実世界で遅滞なく処理しうるルーチンというのは、求められるハードルの高さが異なる。

 なにせ現実世界では物体が存在し、それに対してミスなく(補正し続けて)アクセスする行為は、枠組みを超えた外力に対する処理も不可欠で、ために無制限に複雑化しうる。

 たとえば誰かと会話をしている最中に、他の誰かが割り込んできた場合。
 たとえば走っている最中に、着地した場所が柔らかく沈みこんだり、動いたりした場合。

 ところがAIがたとえば陪審員をする場合は、情報の入力とその判断だけで処理が終了する。
 情感豊かにエンターテインメントに興じるタイプの人間が(そうそういるとは思えないが仮に)いても、情感を理解せず、そこから入力される値と法を規定した(多種多様かつ複雑怪奇な)文言や(長々積み重なって検索も困難な)判例から導かれる境界条件によって論理演算ができるだろう。

>>>

 法というのは言葉とその言葉を用いることで表現される概念によって成り立っていて、一文がどんなに複雑であっても、一意的な価値にたいしての線引きが明確になされることになる。
 言葉というのは、単なる記号だけれど、記号を組み合わせることで記号そのもの以上の意味を持つ。
 たとえば「言葉」という言葉は、文字だけでなく音声なども含めた「他者に伝達可能で再現性の高い記号や信号の連なり」を意味している。
「言葉」という文字列は「言葉」という文字列(記号)でしかないが、そこに含まれる意味は、その文字列という記号を超越して(あるいは無視して)存在する、ということ。知的生命体の皆さんには当たり前ですね。

 法はそのなかで、言葉によって物や行為や概念を明確に規定し、そのありようの合否を規定し、適切あるいは不適であった場合の処遇を規定するものである。
(どうぞここに羅列された記号から、うまく意味を抽出できる人が一人くらいはいますように)

 その一部に法律があり、国家が司法機関をもって裁定をするわけではある。

 それらの法は、言葉が概念や意味という曖昧模糊としたものを含んでしまうがために人間を困惑させ、あるいは境界条件を明確にしようとするために複雑怪奇になりがちである。
 しかし複数の意味を含む場合であっても、その境界条件を明確にできる(むしろそうせざるを得ない)コンピュータの場合、どれほど言い回しが複雑になろうが(仮に(カッコ)がいくつ入れ子になろうが)判例のデータベースがどれほど大量であろうが、短時間のうちに与えられた値が「論理式における最適解の範囲内かどうか」を判定するだろう。

 人間は、情感や情状、経験則や世相に応じて、その解を採用するかどうか、また解に至る過程を解析し(あるいはさせ)条文などの解釈に変位を加えるかどうかを考えるだけで済む。

 機械が故障した原因を調べて分解修理したり、知り合いと道端で世間話をしたり、誰かに代わって買い物に出かけたり、人間に代わって自動車を走らせるより、よほど安全で簡単にそれをすることができるのである、本来は。

 でも、世の中からいきなり弁護士だとか裁判官だとか陪審員だとかをAIに替えたので不要になりましたみなさんさよーならー、とはいかない。
 なぜなら彼らも仕事だから。
 それに「機械に自分の法的合否を判定される」ことに対して、人間がそれを許せるかどうかという問題もある。

 結果として、既存の知的/知識産業においてAIが急激に浸透するよりは、より高度ではあるけれど物理的負荷の高い肉体労働に利用されるのだろう、と思っていた。

 でも、実際は未知の知的/知識産業での足場を固めつつある。
 たとえば研究開発などがそうだ。
 確かに人力よりはるかに効率が良い。

 そしてやがては人間のグローバルシミュレートも可能になって、確率的な範囲を持った大勢がどういった動向にあるときに、どのようなニーズが潜在し、どのような具現によってどんな方向性に導くことが可能か、といったモデル構築もできるだろう。

 当然、人間と付き合うよりも、AIと付き合う方が、快適で、安全で、割安で、便利で、安心、ということになる。
 少なくとも僕は、AIが友人や恋人になるとしても、まったく違和感を感じない程度には鈍感だし、人間よりもいいんじゃないかと思っている。

 あるいはそうした「AIと意思疎通ができる人間であること」は、最先端デジタル機器を使いこなす人間がそうでない人間から見ると特殊であったように、ある種の特別な能力としての(あってもなくてもどうでもいいような)地位を獲得するかもしれない。

>>>

 個人的な事情でゲームを継続してプレイできなくなったため、ゲームで知り合った彼とは疎遠になってしまった。
 もっとも、たびたびメールのやりとりをする関係ではあったのだが、私のプライベートがあまりにも多忙になってしまって(それゆえゲームもできなくなってしまって)返事をしていないのである。

 ちなみに「彼」と書いたのは誤字ではない。
 ゲームをプレイする時その多く、私はプレイヤーである自分を女性として演じている。
 女性を演じてもモテになる、というのも僕にとっては比較的容易に思えることなのだけれど、そのあたりについてはまた後日に。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]
  -Reactor-

[Object]
  -Computer-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180424
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
平面世界に落下する直線。
SUBTITLE:
~ Squared sequency. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180424

 雨。
 湿気が街をヴェールのように覆う、優しくて穏やかで、でもどこか所在なさそうな、雨。
 まぁ「はっきりしないお天気」なんていう言い方もできるわけですが。

 昨今の陽射しはあたたかさよりも日陰に隠れる怠惰を叱責するような苛烈さを感じるし、雨にしても街を行き交う人々を鞭打ち、人の建立した傲慢を押し流したいかのような無慈悲さを感じる。
 それに比べれば、この降っているのかよく分からない、上がるような様子もいまひとつ感じられない、という雨はたおやかで心地よい。
 はっきりしないこと、白黒のつかないことが悪し様に批判されることも多い日々の世相に思いを巡らせたのち、少し仮眠を取った。

>>>

 以前、一度だけ「音声ブログ」的なものを試したことがある。
 たぶん Evernote あたりで試したのだろう。
 このブログ上にリンクを張り付けた。

 内容はいつものとおりくだらないことを羅列しているが、けものフレンズについてのくだりは表現が充分ではなかったと思うので文書化したいと思っている。

 とにかくいつものとおりエントリィに対する反響や評価、つまるところの閲覧数やらコメントには何の期待もしていないし価値も見出していない。
 どういうわけかコンテンツのメッセージや表現のクオリティが高いことによって評価の絶対数は多くなるかもしれない半面、長期的には次第にクオリティを下げる方向に作用する。
 おそらく、誰でもそうなるとは思えない。
 単に僕という人間の弱さが露呈しているのだろう。
 他者の視線を必要以上に意識してしまう自意識過剰な性格が、多くの場合、災いばかりを招き寄せる経験則から、僕はなるべく目立たないことに注力し、目立ってしまっても気にしない事を意識し、他者の視線や評価を無視することに価値を置く。
 すでにこの時点で相当な矛盾を内包していて面白いのだけれど、今回のテーマはそこにはない(今回に限らずテーマそのものが基本的には存在しないのだが)。

>>>
 
 音声ブログというのは一時期、局所的に流行した。
 たとえば僕の思考の作った文章に興味を持った人間が、僕そのものに興味を持って、それが高じて(程度がひどくなる、という意味で捉えると面白い)僕の周辺情報までを希求する。
 どんな顔なのか、どんな声なのか、どんな肌なのか、どんな骨(あるいは骨格)なのか、オカネモチなのか、どんな場所に棲んでいるのか、どんな発明をしているのか、どんな料理を作るのか、どんな手をしているのか、どんな肉体なのか(ホントに猫なの?)、どんな服を着ているのか、どんな仕事をしているのか、どんな友達がどれくらいいるのか、どんな恋人が何人いるのか(27人です)、どんな家族構成なのか、どんな生い立ちなのか、etc.ETC...(誤字(綴りは一緒だが大文字にするとまったく別物になってしまう)は相変わらずわざと)

 そのニーズを満たすためのちょっとした読者サービス、あるいは書き手の「タイピングが面倒だ」という怠惰に適応したツールとして、音声ログは一定量の必要性を獲得したのだろうか。

 しかし実際のところはどうだろう。
 僕は自分で音声ログを作り公開したものの、すぐに(こりゃだめだ)と思った。
 口語かつ普段のラフな(そのうえ完全に散文的な)トークを展開できるのはいいけれど、いかんせん校正する術に乏しい。
 あらかじめ原稿か、せめてもテーマをメモしておけばよいかもしれないが「とりあえずちょっと書いてみる」というノリでレコーディングを開始すると収拾がつかなくなる(こんなことになるのは僕だけでしょうか(生徒会長立候補口調))。
 ラジオ番組でもあるまいしBGMやらジングルで盛りたてれば過剰な虚飾が興醒めだし、だからといって上記の通りテーマを決めてのソロトークには限界がある。音声的には間ができることもしばしばである。
(実のところ僕は1時間にわたる収録を一度しているのだが、容量の関係で非公開になっている。しかもそれは運転中に録音したため、途中で「あ、あいつ危ないなぁ」といった発言があったり、安全確認や右左折時にかなり長い沈黙が訪れたりしている)
 ほどよい雰囲気の収録をするには、誰かしらのゲストか、相応のシナリオを用意しておく必要がある。
(ゲストが存在しても、僕の会話はテーマが拡散しがちなので、軌道修正が得意な、あるいは紆余曲折する内容にフィットできる人物でなくてはならない)

 聞いてみても同様で、先送りが出来ないわけではないもののインデクスないから、飛びすぎたり、手前すぎたりする。
 全体像がつかみにくいから、そのときの話がどのような意味を持つのかわかりにくい。

 とにかくシーケンシャルなメディア(あるいはコンテンツ)の弱点がこれでもかというくらい露呈するのである。

>>>

 文章というのを「文のまとまり」、文を「意味を持つ単語と接続のまとまり」と考えた場合、その記述様式は基本的にシーケンシャルである。
 あるいは条件分岐を持たせる場合の文法も(前述の「あるいは」がそうであるように)存在するが、コンピュータプログラムのように「分岐されなかった文は処理に上らず考慮されない」ということは原則として、ない。

 シーケンシャルにすべてを読み、かつそこから意味を読み取って、全体を俯瞰してはじめて文章というものは機能する。はず。ではないだろうか。という気がする。
 だんだん気が弱くなっている。どうしたものか。

 というのが僕の思考の特徴といえば特徴で、どんどん分散して横道に入ってしまう。
 左折を4回繰り返せば元の道に戻る、なんていう理屈もまったく通じることなく、いわば3次元的に、どこかあさっての方向に行ってしまう。

 さてもこのように平面的な広がりを文章の意味が持っている場合。
(その広がりに必要なのは広さではなく、深さや未踏域であるかどうかが大事だと僕は思うのだが)
 直線的な機能しか持たないメディアであるところの音声(まぁ、多くの映像もそうだが)は、メディアの次元が低い、といえる。

 要所要所でその先のコンテンツを選択することが可能なゲームは、自由度においては次元が高いが、再現能力は低いように思える。

 再現能力を持つゲーム……。
 あ。
 いわゆるエロゲですか?

>>>

 いずれにしても、文章というのは不思議なもので、内容は(基本として)直線的なのに、読み手の再生自由度が平面的になっている。
 僕にとって文章を書くというのは(テーマが決まっているのでもないかぎり)その再生自由度に従って平面分散する。
 でも、かつてに比べると、そもそものアタマの回転が衰えてきた。
 平行分散でものを考えるのは、もう、ハード的に限界かもしれない。

>>>

 僕は雨が好きだ。
 はっきりしないお天気というものの中にいると、本当に安心する。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Rain-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180422
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
私をカラダで再生させて。
SUBTITLE:
~ Resurrects me. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180423

 のんびりぼんやり月曜日。
 とはいえ前職における肉体の酷使により、かなりのダメージが蓄積していることが分かってきた。

 とりあえず内臓がどうにもならない。
 もともと弱い消化器系は、食肉に特化した食生活にみごとに順応したが、肝臓と腎臓のダメージが想像以上だ。

 約一年、頻繁に内出血していた(打ち身、打撲、生傷は絶えなかったし、派手に転んで出血したまま業務を続行し、帰宅してから肌に張りついた血まみれロングのステテコを引き剥がし(そのせいで新たに流れる血液に関しては気にせずシャワーを浴びる)こともあった)ことと、継続的な筋肉疲労(筋肉痛も含む)による老廃物の蓄積およびその排出が間に合わない状況(水を飲む時間もないことがあった)、さらには食事(と睡眠)の時間がきわめて限定的であったため、より高カロリィな食事を短時間で摂取する必要があったことも影響している。

 いやぁ、キツかった。

>>>

 もしも記憶がなくなったら。
 私は私の肉体だけを頼りに、私という人格を再構成できるだろうか。

 記憶喪失という言葉は知っているが、その症状にかかっている人間を実際に見たことはない。

 物語に登場する記憶喪失の人物たちはしかし、たとえば学習した言語を忘れたりはしていないから、他者との意思疎通はできる。
 運動を駆使する能力を忘れて、歩く事もままならないという人は見たことがない。

 いずれも脳の機能であり、記憶によるものも少なくないだろう。
(小鹿のように生まれてすぐに立って歩いて、さらにはガウタマシッダールタのように喋り出せた人なら話は別だが)

 物語の中で、肉体の能力を駆使したり(たとえば武術の達人がとっさに己の身をかばったり)することはあるし、それをきっかけに他の記憶がよみがえることもあるように思うが、あれは身体(新皮質よりも下位の反射神経系のようなもの)が記憶しているのだろうか。
 あるいは仮に、そうした下位の系から記憶を瞬発的に反復することでより高位の系へのルートが確立する(神経系の物理的特性として)のかもしれない。

 まぁ、若いころから物忘ればかりの僕にとっては、神経系のルートが確立しない、なんてことはざらであり、恋人や家族の顔はもちろんのこと、いつでも何かしら記憶を喪失しているようなのではあるのだが。

 具体的な記憶がなくても、抽象的な記憶(価値観や概念)があれば、人は人格を構成できる。
 親の顔を記憶しなくても、親に対する感情などを通して親という価値観を作れば、それがその人の(この場合は親に対する)性格の特性になりうる。

 一方で具象の記憶は、肉体的な運動のトリガとして紐付けることなどは可能だとは思うが、それをいくらかき集めても人格を構成できるようには思えない。
 友達の顔を100人覚えたからといって、友達がたくさんできるような性格になれるとはかぎらない。

 たとえばボールが飛んでくるイメージ(記憶)があったとして、どういうわけか反射的に避けてしまう程度の記憶を僕らは持っているわけだけれど、それは赤ん坊のころには持っていなかったように思う(少なくとも僕は「ボールがぶつかると痛い=危ない」という記憶が3歳くらいまではなかった)し、仮にその記憶があったところで「ボール嫌い」という価値観を形成することまでは可能だとしても、価値観なしに(イメージからダイレクトに)人格を構成することは不可能だろう。

 つまるところ物語における記憶喪失というのは具象記憶の一部(あるいは全部)が欠落し、にもかかわらず抽象的な記憶(とそこから構築される価値観などによって構成された人格)が部分的に残っている人のことをいうのかもしれない。

 彼らはそこから欠落した人格を再構成して元通りになったりするし、欠落した状態のまま発生した新しい体験によって、まったく別の人格に変貌したりもする。

 しかしこんなことは記憶を失わなくても可能ではないだろうか。

 たとえば昨日まではとっても素敵に見えていたガールが、ひょんなことからただの異常者としか思えなくなるようなことってない? ないよね(僕はあるけど)。

 ニュースで事件があると、たいていは「物騒だなぁ」「怖いなぁ」「なんでそんなことをするの」という反応をする人によって社会が構成されている(ように各自がその場は演じているように僕には認識される)けれど、表層意識で「いいぞやっちまえ!」とか「まぁ、そういうこともあるよね」とかいう気持ちをきちんと把握して、あるいは模擬的にでも形成して、具象記憶からの価値観形成に複数の方向性を持たせておけば、それはその人の人格の豊かさになると僕は考えているのね(口調が変)。

 もちろん僕も社会人として社会に適応しているフリをして毎日を過ごしているわけで、まぁ、そう簡単に思ったことを全部ストレートに表現するかといえば、これが案外してしまって周囲から白い目で見られたりすることがあるわけだけれど、「いい/悪い」「好き/嫌い」の境界線や枠組みから少し離れたところに自分の知性(あるいは意識)を置いておいてもいいんじゃないでしょうか、と思ったりはする。
 現実に、10年以上前ならば「人間はある程度の年齢になったらちゃっちゃか死んじゃったほうがいいよね」なんて言おうものなら総スカンを食らうまでのことはなくても白い目で見られることは多かった。実に多かった(しみじみ)。
 あれは(当時)比較的若い人間であるところの僕が発言しているという事象がより事態を悪化させていたのかもしれないけれど、僕にしてみればその言葉の意味に今も昔も彼我の差なんてない。
 バブルのころより医学は進歩したというのに、不老不死の夢を追うどころかそれに疲れてしまった人も少なくないようで「ある程度になったら、ささっと死にたいわ」なんて平気で言っているのを聞くようになった。

 そうなると天邪鬼の僕などは「人間はもっと無駄にとりあえず滅多やたらと手当たり次第に何はともあれ長生きしていた方がいいんじゃない? 生きていることにこそ人間の価値があるよ!」なんて、思ってもいない事を言いたくなってしまうのである。

 まぁ、それもこれも、どういうわけだか僕の中に内蔵されている「思っていることと真逆のことくらいは、とりあえず同時に考えよう」という回路に原因があるわけで……。

 この回路がなければ、僕はもっと確固たる意志を持って、明瞭な目標に向かって日々邁進しちゃうような、ファイトー!いっぱーつ!的な、スポーツマンシップに則った、分かりやすくて熱血でために単純である意味純粋で周囲の理解を得やすい(分かりやすい)人格を構築していられたのかもしれないのだけれど。

 うまいこと記憶(ごとその回路を)喪失しないものだろうか。

 しないな。

 それに、この優柔不断で複雑怪奇(に見えるときがあるというだけで本当はとてもシンプルなのですよ)な私を、私自身は気に入っているわけであり。

>>>

 内臓が不調な結果として酒が不味い。
 少なくとも、以前のように美味しく感じない。
 よって、しばらくお酒を控えている。
 
 さらには花粉症があり、内服薬を飲んだのが悪く(もともと内服系抗ヒスタミン剤は私の粘膜の分泌液にこっぴどい副作用をもたらすことは分かっていたのに)、結果として今でも変な咳が止まらない。

 薬効が終って両方の鼻が詰まった段階でも副作用が収まらない(副作用の時間の方が倍以上あった)ため、異常に咽喉が乾燥した状態が続き、風邪(的なもの)をひいたりもした。
 粘膜系の異常はまだ続いている。

 最近の目標は「周囲の人間に煙たがられて嫌われて死ぬこと」なので、もっといやな奴、迷惑な奴になるべく、どんな人格構成をすればいいのか、ときどき考えるようにしている。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180422
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
毒と欲とが身を滅ぼす。
SUBTITLE:
~ Carry the torch. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180422

 晴れ。
 とても良い天気なので、掃除と洗濯をする。
 久しぶりに、きちんとしたカフェラテを作ってパイプ煙草に火を着けている。

 この家に越してきて1年以上経っているというのに、本棚ひとつ設置できていない。
 同様に、コーヒー豆は2年近く前のものだし、パイプ煙草を喫むのは半年ぶりくらいにもなろうか。

 嗜好品を消費せずしてなんの愉悦だろうか。
 ギターだって弦を消耗するというのに。

>>>

 シリアの内戦のおかげで、いよいよ一部のパイプ煙草が製造を中止することになるようだ。
 ラタキアと呼ばれる、薫香ゆたかな煙草葉の名産地が、シリアである。
 もっともラタキア葉なんてものはパイプ煙草でも喫まないかぎり、とんと見聞きすることはないはずだ。
 太平洋の片隅の小国に棲む僕が、海の向こうの遠い国の内戦になんて、普段なら興味も示さない。

 内戦というのがそもそも理解できない。
 クーデターによって樹立した現政権であるとか、原理主義的な反体制派にはじまりいくつもの反体制組織がそれぞれの思惑で活動していることであるとか、その根底に宗教/民族的文化があることであるとか、とにかく遠い。
 日本における過去のクーデターは失敗したはずだし、表向きは独裁国家などとは縁遠い民主主義的な法治国家である。
 その上、この国における現在の最大の宗教(あるいは国教)は経済であるから即物的で即仏的である。

 ゆえにその文化の根底がどうしても理解できない。

 でも経済はその概念を保有するほとんどすべての国に通用する科学であり宗教であり技術であり力であるから、彼の地において、かなりの国が干渉している。
 どのような思惑であるかなど、僕のような小市民には知る術もない。
 ロシアのジャーナリストは定期的に不審な死を遂げるのがこの世界の習わしのようだし、昨今はデリカシィを持たない権力者が下半身の欲に負けたことで失脚することも多いようだ。
 国民の敵意を俊敏に忖度する能力に長けている様子だけれど、某大国の大統領はそういうのはまったく意に介さないあたり、かえって政治家としては評価できると思えるときがある。

 政治家というものを「政治という運動をさせるための道具」だと考えれば、燃費が悪かろうと、多少の故障を起こそうと、どんな廃棄物を産出しようと、運動が適切かつ高出力に為されればそれでいいのではある。
 もちろん、エコでメインテナンスフリーでクリーンでハイブリッドで高性能であったなら、それに越したことはないのだけれど。
 排気に若干黒煙が混じるとか、スラッジがちょっと溜まったとか、そんな程度で「クリーンじゃないという批判があると運転出力に支障をきたすので辞めます」という部品よりは、煙が出ようが燃料が切れるか破壊されるまではきちんと運転を続ける方が優秀ではないだろうか。
 まぁ、アイドルグループのように投票で価値が決まる人気商売だから仕方ないのかもしれないが。

>>>

 煙草のあとは、カフェインとアルコールがWHOの目の敵にされることは疑う余地のなさそうなところであり、それに迎合してなのか、先進国であるところの日本でも多くの人が煙草を手放し、さらに多くの人が煙草を毛嫌いしている。
 電子煙草の普及も進み、いずれ煙草というのに火を使うなんていう風景はなかなか見られないものになるだろう。
 スイッチひとつでニコチンを含んだ水蒸気的なサムシングが吹き出す仕組みだ。
 現に、近所のひなびた止まり木に腰掛けて、缶ピースとマッチを取り出すと、目上の人からも珍しがられる。
 まして葉巻やパイプ煙草となると、目にすることも少ないようだ。

 火口の長いライターは今後も生き残るだろうけれど、シガレットライターは絶滅危惧種になる気がする。
 まさかチャッカマン的なもので火を着けるような冗談を日常にする人は少ないであろうし。

 煙草なんて嗜好品だ。
 酒も同様で、だからわざわざ好きでもない人間にむりやり喫ませるようなものではない。
 お酌文化と同様、煙草を出したらすかさず火を着けるような人間(特に職業人)を僕は好まない。
 そういう意味では、多少は文化が進んだようにも思う。
 異性(あるいは同性)との性的な関係だって同様だ。
 他人に無理強いするようなものではないし、自分が嗜むぶんには「嗜み」のなんたるかを知らなくてはならないはずだ。
 なにより嗜好品というのはすべからく毒を含んでいることは知っておいて然るべきなのだけれど。
 度を超した毒と欲は身を滅ぼすし、潔癖な人はそれに対する耐性のなさが身を滅ぼす。

 ともあれ嫌煙派/嫌酒派の過剰なまでのバッシングを浴びるのは正直、私ではない誰かであってほしい。
 もうこの先20年くらいしか生きないのだし、公の場では大人の、しかも喫煙や飲酒が許可されているような場所でしか嗜まないようにしているのだから。

 余談だけれど、僕はお酒が好きなわりに、酔って自制が利かなくなったり、下半身の欲求が強くなったり(つまりは上半身の抑制がなくなるのだろうけれど)ということがない。
 上半身の抑制が利かなくなるときは、すでに下半身も相当に抑制が利かない。

 わからない。
 ほんとうに、分からない。
 ボクにはさっぱり、ワケが分からない。

>>>

「君じゃなきゃダメみたい」の前奏は弾けるようになったのだけれど、その先がまったく進まない。
 動画を見て地道に練習する、というのが苦手なのかもしれない。
 タブ譜を探す方がよいのか、少々迷うところではある。

 ショートシガー1本とパイプ1ボウルを喫む。
 パイプは貴重なシリアンラタキアを追加でブレンドした965だ。

 いずれなくなるからといって、喫まない理由はどこにもない。
 希少なものは、その希少を味わうためにあるのであって、ありがたがって飾っておくためにあるのではない。
 自分の命もそうでしょう?








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~ Junction Box ~
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//TimeLine:20180418
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
眠りの森の底なしの沼。
SUBTITLE:
~ Marionette in the deep forest. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 どういうわけか分からないのだけれど、どうしようもないほどの睡魔に支配されて眠ってしまうことがある。
 おそらくそういう経験は誰にだってあるだろう。
 たとえばひどく疲れたときなどがそうだ。

 でも、僕の泥のような眠りは、肉体的な疲れとはまったくの無関係に僕を支配してしまうことがあって。

 たとえばむかし、父親が死んでひと月ほどたってからの半年以上を、僕はひたすら眠って過ごしたことがある。
 今思い起こせば、それはいわゆる鬱病の一種だったのかもしれない。
 僕は家からほとんど出ることなく、誰にも(妹にも恋人にもほとんど会うことなく)、備蓄のわずかな食料や洗剤を頼りに生活した。
 といっても食事は2、3日に一度食べれば充分だったし、シャワーも数日浴びないようになった。
 とうぜん掃除なんてしなかったし、畳の上に毛布一枚だけで(布団やベッドのマットレスを当時どうしていたのか、よく分からない)寝ていた。
 着替えもしなかった。
 ただただ混濁した意識と眠りが僕を支配した。
 喉もほとんど渇かなかったから、トイレに行くことも少なかった。
 昼も夜もなかったから、子どもの頃の出来事だって季節くらいは覚えているのに、あの当時のことは父親が死んだ梅雨のころを起点に算出する以外に方法がない。
 秋だったか、春だったか、冬だったか。

 あるときようやく起きた僕は、あまりに眠り続けたために栄養を失調しかけていて、立ち上がるのもやっとで慌てて口にした食べ物(なんだったかは記憶にない)のほとんどを消化できずに排出し、それからまた眠って、おかゆのような消化の良いものからリハビリをすることになった。
 歯が痩せて、虫歯の詰め物の金属が次々と外れた。
 それでもまだ、誰にも会いたくなかった。
 電話の音がするたび無視したそれは数十件の着信とメッセージが積み重なっていて、まるで冷蔵庫の奥の賞味期限の表示さえかすれた「謎の食品」のように、箸でつまんで捨てられるものなら捨てたかった。
 誰とも話したくなかった。
 誰にも触れてほしくなかった。
 自分の肌の感触でさえ、そこにあることが耐えられなかった。
 だからただただ自分を忘れるためだけに、僕は眠り続けた。そんな気がする。

 当時の僕の恋人は、特に何を言うことも問うこともなく、かいがいしく僕の世話をすることもなく、ただただ鬱蒼とした深い森のように散らかる部屋で眠りつづける僕を放置してくれた。
(おそらく彼女も忙しかったのだろうとは思う。たしか、そうだった気がする)
 メールもひと月に1、2回あった程度だったろうか。返事はほとんどしなかったし、たとえしたとしても数日は経過したあとだったと思う。

>>>

 あれから僕はどういうわけだかモテになって、人と会うことに何の抵抗もなくなって、本来的な引きこもりであることを誰かに打ち明けても嘘だと言われる始末である。

 でも。

 ときどきふと息をついたとき。

 いつもより長い眠りをとったとき。

 ひとりで冷たい夜空を見ているとき。

 暗闇の部屋でじっとうずくまるとき。

 あの、どうしようもない、呑み込まれるような底なしの無気力につながる糸がそこに見つかるときがある。

 現実だってひとつの糸で、その糸は「どこか」や「だれか」や「なにか」や「いつか」に繋がっていて、その糸が自分の指や身体に巻き付いているから、向こうが引っ張ったり自分が引っ張ったりすれば連動するものと皆は思っている。
 でもそれらの糸は簡単に切れる。
 切れないと思っている人はとても幸せな人だと僕は思う。
 他人が何の用だか知らないが電話やメールを送ってくることなんていくらでもある。
 でもそれは「こっち」の、つまりは「ここ」にいる僕の用ではなくて、「あちら」の「ここにいない」先方の、あるいは僕の用なのだ。
「ここ」にいる僕は、それらの糸が厭になったら、切ってしまえる。誰だってそうだろう。
 ただただその糸を大事だと思っているから大事にしているだけで。大事にしないといけないと思いこんでいるから大事にしているだけで。

 あるいはもしかしたら、失踪する人の気持ちというのは、そういうものなのではないかと僕は思う。
 日常であるとか、常識であるとか、一般であるとか、そうした表層の世界とそれらの点から無数に伸びた糸の数々が自分の身体の一点一点に縫い付けられて。
 何の気もなくその表層の「役割」をいつもどおりに演じることにおいては一切の障害にならないその無数の糸が自分を操ってくれて。
 実のところ「役割」に疑問を感じたときに、あるいは表層であるとか、自分を規定するポイントのピントが合わなくなったときに。
 ただの道路の白線以下の、なんの意味も持たないただの糸でしかないようにしか感じられなくなるのではないだろうか。

 あの点とこの点を結ぶ糸はだから。
 私がこの点に自分を規定しているときには機能するけれど。
 そもそも私はその点に果たしているのだろうか。
 それとも私はその点にいると思っているだけなのだろうか。
 その点にいることが、一体誰にとって価値のあることなのだろうか。
 私が私であることが、一体どれだけ意味を持っているのだろうか。

 とまあそんな感じに思えてくると、糸の意味が突然自分の中でぐらりと揺らいでしまって。

 もちろんたいていの人は、その糸を外すことができないのだけれど。
 あまりにも多くの糸が絡んでいるから、右の糸を外そうとすると左の糸が邪魔になってしまったりして。

 でも僕のように糸が少ないイキモノは。
 現実とおぼしき世界に繋がっている糸の拘束力が弱くて、得体の知れない暗闇につながる糸がそのぶんはっきりと見えるのかもしれない。
 その糸がどこに繋がっていても、あるいはどこに繋がっていなくてもまったく問題のないくらいに。
 なぜといって、その糸は「繋がらないこと」に繋がっているように僕には思える。
 すべての意味が瓦解する場所というのはそういうものではないのだろうか。

 こちらから糸をひっぱるのは、なんだかとても身勝手な気がして。
 向こうから糸をひっぱられて動くのは、なんだかとても面倒な気がして。
 自分の欲で誰かを動かすことも、誰かの欲で自分が動くことも、同じくらい、浅はかで、空しくて、身勝手で、カタチばかりのような気がして。
 だから糸をぶつぶつと切ってしまって、振り切ってしまって、どこか遠くに行ってしまったりするのではないだろうか。

 どこに行っても、結局自分がいる場所からは離れられないから。
 だから自分と自分自身を繋ぐ糸も切ってしまうのではないだろうか。

>>>

 いつだったか。

 恋人にひどく怒られていて、その最中に、僕は眠ってしまったことがある。

 多くの人がおそらくそうであるように、恋人はさらに怒った。

 僕は。
 そうなのだ僕は。

 普段あまりにも怒らないからよく分からないけれど、仮に僕が怒っている最中に恋人が寝てしまったら(ああ、疲れてしまったんだな)と思って眠らせるように思う。
 ところが怒れるガールたちは僕をたたき起こす。
 ほんとうに叩く場合もあるし、モノを投げたり、さらなる大声を僕にたたきつけたりすることもある。

 今でいうところの発達障害ぎみな僕は、こんな話はどうでもいいから眠ろう、と思って眠っているのではなくて。
 本当のところ、考えて、悩んで、共感しようとやっきになっているうちに思考がループするようになって(なぜなら自分には想像の域を出ないような感覚を感覚しなくてはならないからなのだが)、結果として何らかのアウトプット(たとえば返事であるとか)ができなくなったり、挙げ句の果てにはどうしようもない睡魔に支配されて眠ってしまったりするのではある。

 でも、そんなことはその時点の僕にはどうしても説明することができないし、冷静に考えて、そんな説明を聞いてもその時点の恋人が理解できるとも思えない。
 処理と条件がスタックを重ねてオーバフローして、僕は睡魔に打ち倒される。
 恋人は自分がないがしろにされたと思いこんで、僕を物理的に(あるいは精神的に)叩き起こす。
 でも僕は自分の糸を次々に切ってしまうことでしか自分を守れなくなっていて。
 だから眠ってしまう。
 こんな説明をいったい誰が理解できるというのだろうか。

 僕は僕の好きな人の怒りにおよそ完全な共感をしつつ、その怒りにまったく同調しないで自分を保ちたいと心底望んでいるにもかかわらず、そうある自信がないのである。本能的に。

>>>

 いつだったろう。

 だれだったろう。

 気が付いたら、その恋人は一緒に寝てくれていた気がする。

 彼女はそれから、あまり怒らなくなった(ような気がする)。

 僕としては、もっと怒ってもらって構わなかった。

 気に入らないときは、怒ったり、泣いたりしてもらえるほうが、僕は嬉しいと感じるタイプの人間みたいだ。

 おそらくそのほうが、分からないなりに、僕には分かるからだろう。

 でも彼女には、僕のような異常な(あるいは少なくとも偏向している)タイプの人間を見たことがなかったし、理解もできなかったし、想像もつかなかったのだろう。

 多分に、僕はあちこちがおかしいのではある。

 食欲はないし、怒りの感情が個人にぶつけられないし、攻撃的になることができない(強迫的に抑制されている)し、分からないこと(あるいは分かってはいけないこと)がループし始めると異常な睡魔に支配されて、しまいに貧血を起こしたりする。
 説明したって分かるものではないと思うから、もはや説明する気も起きなくて。
 だから触れない程度の距離まで人から離れているようにはしている。
 興味を持つことと理解できることは、多くの人にとって、違うことなのだから。

 もっとも僕にとっては、一般的な人の(つまりは偏向していない)パターンは基本的に理解できるはずなのだけれど。
 たぶん、強い怒りであるとか、悲しみであるとか、憎しみであるとかは。
 あまりに強い場合はトレースしてはいけない対象になっているのかもしれない。

 理由を僕は知っているのだけれど。
 それを解除する方法を知らない。
 解除できないことを不便だと思ったこともない。

 多くの人が自分に繋がっている糸を切らない理由は、単に「不便ではないから」なのではないだろうか。

 とにかく僕は。

 もっと怒ってもらってよかったし、そうしてほしかった。

 もっと泣いてもらってよかったし、そうしてほしかった。

 それは僕が失った感情の幾つかに繋がっていると思うから。

 いつも笑っていてくれなくてもよかった。

 いつも許してくれなくてもよかった。

 どこまでも愛そうとしてくれなくてよかった。

 それは僕の中に残った感情の幾つかだから。

 できることもできないことも。

 したいこともしたくないことも。

 もっと、ありのままでいてくれたら、もっとよかった。

 でも、僕のことを好きであるが故にそうできないその人のことを、それはそれで僕はたいそういとおしく思っている。

 もちろん今でも。

>>>

 僕はあまりにもたくさんの糸を切ってしまうから。

 そうしたちいさいことに繋がる糸を、たくさん彼女と結んでいたかった。

 現実との糸に意味が見えなくなりがちなら。

 現実に繋がっている彼女に、結びつくことができればよかった。

 そうすれば世界は味を持ち、温度を持ち、湿度を持ち、色を発し、音を発するだろうから。

 でもきっと僕は、まさかここでというタイミングで、その糸を自分から切った。

 日々は眠いばかりだ。








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~ Junction Box ~
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//TimeLine:20180408
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TITLE:
生きるも良し、死ぬも良し
SUBTITLE:
~ Blood or flat. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 遺伝性の高脂血症(脂質異常症)である。
 父方の兄弟のほとんどは60代の半ばには死んだ。
 健康に気を遣って気を遣って残っている3人も、脂質異常である。
 ステント術をしても血管が再び詰まる。バイパス術をしても詰まる。
 菜食をしていても、煙草を吸わなくても、酒を飲まなくても、運動をしていても詰まる。
 これまで脳の血管の塞栓による死者はなく、皆、冠動脈に重篤な障害が現れる。
 もっとも80を過ぎると、どうやら肺や脳の血管が梗塞を起こし、心疾患以上にやっかいな生存者が出来上がるようだ。

 BMIが20を切ることもある僕とて例外ではなく、20代の頃から健康診断のたびに保険医に「要精検」と書かれた紙を渡されたものである。
 むろん、医者になどわざわざ掛かったことはなかったのだが、一昨年だったか、転職先の組合の保険医から直接電話が掛かってきて、医者に行くように言われ、以来、投薬治療をしている。
 もっとも、薬をひと月飲まなくても死ぬことはない。
 一方で、長期的に蓄積した場合、異常が出たときにはすでに手遅れで一気に死ぬ。

 父はバイパス術をした冠動脈のひとつが閉塞してきたため、ステント術を行い、おそらく血栓が脳に飛んで機能を損失し、最後は多臓器不全で死んだ。
 大量の薬を抱え、ときに大量の機械に繋がれ、それでも死ぬのが僕らの運命である。
 焼いた父上の骨は、薬品に含まれる微量の金属によって色が付いていた。
 色が付くほど、蓄積するのである。

>>>

 かつては不治の病だった脂質異常症を原因とする虚血性心疾患なども、対症療法にはじまって多くの手段が確立した。
 なにより当時は心筋梗塞という以外に病名もなく、脂質異常症なるものは中性脂肪やコレステロール(さらにはその善玉やら悪玉やら)の解明が進んでから生まれた名称である。
 たまたま医療の進歩とともに父は生きて、そして死んだ。

 同じ血を引く大人たちは、誰ともなしに遺伝性だと言った。
 ただ当時は、症状のまったく出ていない大人たちもいたから「太らなければ大丈夫だ」というような思い込みがあったのかもしれない。

 太っていない叔父や伯母は、たしかに心筋梗塞の重篤な症状は出なかった。
 水際で食い止められたのかもしれない(実際に、ステント術やらバイパス術はもれなく受けているから)。
 ただし80歳を超えたあたりから、今度は他の血管が詰まるようになる。
 肺や脳だ。
 今のところ、そこまでくると手が付けられない。

 僕は自分で自分のこともできなくなって、人格の一部が崩壊して、それでも生きる気には、やはりならない。

 80代まで永らえる道と、60代で世を去る方なら、僕は後者の方がいいと思って生きてきたし、今はもっと早くてもいいと思っている。

>>>

 僕の死生観は、他者には少しばかりエキセントリックに映るようで、多くの人は、僕の見てきたものや感じてきたことや、生命とそれに付随するものに対しての価値観を知らないから、それを無視して長生きをした方が良いというのである。
 家族を持った方が良いというのである。
 振り返ると、例外はなかった。

 死ぬほうは簡単である。

 残されたものが大変なのだ。
 当人だって障害者と健常者の狭間にある時期が大変だし、それが世に言う「働き盛り」に当たりでもしたら、時間的にも経済的にも、おそろしい損失を生むのだ。
 そしてそれは自分だけではなく、周囲の人間にまで波及するのだ。

「人はひとりで生きているのではない」とはよく言ったもので、まったくその通りだろう。
 だからこそ、ひとりで生きてひとりで死ぬ方が良いこともあるのだと、僕は思って生きてきた。今もたいして変わらない。

>>>

 幸か不幸か、中性脂肪の数値は、正常域の下限を下回っている。
 僕の血液は、悪玉コレステロール(LDL)だけが、正常域の上限の2倍以上の数値になっている。
 善玉コレステロールも上限から2倍近い数値なので、総コレステロールは(医者が驚くくらい)異常な数値になる。

 それとて気にしていないし、煙草も酒もやめるつもりは毛頭ない。
 ときどき薬を飲むのを忘れるが、いったい私が死んだところで、妹や姉がアホ面並べてわぁわぁ泣くだけのことだと思う。

 できれば彼女たち(とくに妹)が死ぬところまで看取ってやりたいとは思うが、あれは僕とは血が違うらしいから、とうてい無理だろう。
 妹が死ぬのを待つためだけに長生きするほど酔狂にもなれない。

 願わくばこの血が、早く根絶せんことを。
 あるいはこの血が役立つような世の中には、二度とならないことを。








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~ Junction Box ~

[ Traffics ]

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[Engineer]

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  -Poison-
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//TimeLine:20180308
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
そんなに自分のことが好き?
SUBTITLE:
~ Love me much, love me ever. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 およそ1ヶ月ぶりに部屋の掃除をし、およそ2年ぶりにのんびり昼寝をする。
 昨日は数ヶ月ぶりに長風呂(およそ2時間)をしたのでコンディションはかなりよくなった。

>>>

 僕は自分大好き人間として認識されている。たぶん。あるいはブログの上では。
 先日も自動車内で歌を歌っていて(このブログを読んでいる人の一部は知っているかもしれないが、信号待ちで停車中であってもおかまいなしのちょっとした熱唱っぷりであり、ある種の「アブナイ人」だと認識される可能性が高い)、そのとき「ああ、自分の声っていいなぁ、嫌いじゃないなぁ」と思った。
 もちろん内耳に反響する声(骨導音)と外耳でただ聴く声(気導音)は違うから、「ああ私の声はこんなふうに他の人に聞こえてるんだ……ショック!」と落ち込む類の人もいるようだが、発想を逆にすればまったくノー問題である。

「この声(骨導音のほう)は、世界でただひとり、俺しか聴けないんだ! この素晴らしい声(自分で言うかふつう)を(少なくとも僕だけは)もっと聴きたい!
 だけど他の人は聴けないんだよね、ぷぷぷー、残念でしたー!」
 といった具合に。

 まぁ、少なからず誇張はしているつもりだし、誇張の結果として少なからず病的になっていることは認めるが、おおむねこんな感じである。

 そりゃあ他の人から「君の声って軽薄だよね」とか、「あなたの声を聴いていると、すごく気分が悪くなる」とか言われたらちょっとショックだけれど、たいていの人はそんなことを言わない。
 たいていは他人の声質になんてたいして注意を払っていない。
 だからもし自分の声を録音で聴いて(うっわ、こんな声だったのかショック! もう誰にも聴かせたくない)とか思ったとしても、そんなことを思っているのはアナタしかいないのではある。
 だって前述の通り、他の人はあなたのその気導声音を聞いて「あなたの声」と認識しているのだから。
 だからその声でショックを受けるのはアナタ以外にはいない。
 ゆえにあなたは、自分自身の骨導声音を聴くことができるのは自分しかいないという事実を客観的に知るべきであり、そのとき(場合によっては)「この骨導声音を聞くことのできるただひとりの存在である自分ちょうラッキー!」とか思えるのではないだろうか。
 え、思えない?
 僕はちょうラッキーって思っているんだけど。

 ちなみにあるガールに、
「青猫様の胸に耳を当てているときに聞こえる青猫様の声は、青猫様の聴いているご自身の声と一緒なのかもしれませんね」
 と言われたことがある気がするが、ないかもしれないし、ただの捏造かもしれない。
 どっちにしても僕は自分の胸に耳を当てることが物理的に(存命中は)不可能なので「ワカラン」と答えた気がする。

>>>

 さて。
 旧来のY!ブログがリニュアルされて、システムが変更されようとしているこのタイミングで(多くの人は意味が分からないとは思うが、僕が勝手に作ったこのブログのタグ機能は意味を為さなくなるということである)僕が文書をそれでもリリースすることにはまったくなんの意味もない。
 のだけれど、今回は性同一性障害についての話などを含めつつ、この「自分好き」の加減について話してゆきたい。ゆきたいだけで、そうはならないかもしれないし、そもそも読者がいないことは僕自身がよーーーーく知っているからそのつもりで。

 性同一性障害というのは乱暴にいってしまえば「自分の性別、おかしくね?」ということである。あえて砕け散ったような言い回しをしてみたものの、聞こえがよいものではないことは否定できないし、論点はそこにはない。なにより「くだけた」の強調の仕方が間違っている。
 一部の読者は知っているかもしれないが、僕自身は(諸般の事情により)子どもの頃から自分のことを女だと思っていたため、一種の性不一致に悩んだことがある。
 それまでは家族の中でも、友人関係も含め女性ばかりに囲まれていたものが、ある日突然「はい、青猫くんはこっちー」と、男の子と分類され、その集団に放り込まれたときの混乱と不安と恐怖。

 ちなみに当時の家族構成は父と母と3人の姉と妹である。
 父親と接する時間は少なかったし、とにかく女まみれであったことよ(遠い目)。

 けれども僕は最終的に男性である自分を「これでいいかな」と思うようになった。
 だいたい30代になる頃には自分の性別に慣れたし、半ばを過ぎると性別なんてどうでもよくなった。
 なぜなら女好きだから。しごく単純である。
 男性にも平気で恋情を抱くことはあるが、ニクタイカンケーへの欲求は抱かない。
 肉体の性別はどうやってもオトコであるから、周囲からは男性と識別されるし、仕種や言葉遣いに無意識に現れる「オネェっぽさ」もネタと考えればそれはそれでコミュニケーションツールとして使える。
 それに肉体の性別を女性にしてしまったら、ねんごろなガールとぱやぱやできないのである。
 そもそも精神的な性別が判然としているわけでもないのだから、これはこれでいいか、となった。

 客観的には「青猫は男性である」というのがスタートラインで、
 次いで「青猫はオネェっぽい(ナヨナヨしている、フニャフニャしている、何を考えているか分からない、などと評されることもある)オトコである」と認識されるようになる。
 べつにそれはそれで僕のキャラだから、いまさらマッチョな人格を持つ術もない。
 その土台がない。意識がない。価値観もない。よって継続的にそんな性格になることは困難である。
 時代の風潮も、セクシャリティについては緩くなってきた。
 性染色体異常についてはさほど認知が広がっていないと思うが、学校で「生物」という学科を習うより早くそうした情報(一時、父親が科学誌を定期購読していたので)に触れていた僕にとって、人間が肉眼で認識できる範囲は、世界のうちでもさほど大きいわけではなく、またそこで認識されることがすべて真実であるとは限らない、というのが基本だった。
(だから僕は量子力学的にネコでもありヒトでもある、という波動方程式の解を導くことができた、などと嘘をついてみる)

>>>

 一般に人間、個々人は、その個体の視点から肉眼(あるいはまぁ、耳とか鼻とか舌とか)によって認識されたことを事実だと認識する。
 そこに錯覚や誤認、死角や誤解が含まれている可能性をきちんと把握して、検証する人はさほど多くはない。
 心理的な思い込みから妄執にいたるまで、自分の感覚や認識を離れて見ることのできない人は思ったより多く、にもかかわらずそういう人ほど物事を主張する声が大きい。

 さて、ここに青猫氏が居て(さぁ、赤いザブトンにちょこんと座った僕を思い浮かべてみよう。しっぽをときおりぱたぱたさせて、キミの瞳を凝視している)、人はそれを見て「オマエはオトコだ」と認識する。
 なぜなら僕のカラダはヒトの男のSO・RE・DA!

 人間に見える。
 男に見える。
 すなわち「青猫は男性である」と認識される。

 青猫氏は、子どもの頃の家庭環境がちょっとだけ偏っていたので、自分の性的認識の構築が他の多くの人より比較的あいまいにできている。
 だから彼の内面世界において「O・TO・KO!」としての一般認識に合致しうるキャラクタを構築できていない。
 女については大量のデータが揃っていたので、それらをもとに自分の人格を形成した結果、肉体と精神の性的意味づけが相違した。

 ちなみに僕は周囲から「オネェっぽい」といわれようと「男らしい」といわれようと「かっこいい」といわれようと「かわいい」といわれようとあまり気にしない。
 他人の評価は他人の感覚だから、僕はどちらでもかまわない。
 たとえば他人がものすごく辛いカレーを食べてひぃひぃ言っていても、それは他人が辛いのであって僕が辛いのではない。
 僕が辛いと感じるときだけ僕は辛いと認識すればいいので、他人がなにをどう認識していても、それは事実認識の判断材料になっても事実そのものとして認識すべき対象ではない。

 周囲から「オネェっぽいオッサン」と認識されたとき。
 このとき僕は自分の性的アイデンティティについて、他人に開陳すべきだろうか。
「いやぁ僕は子どもの頃から自分が女だと思っていたことがあって、今は性的にはどっちでもいいかな、って思っているんです」なんて。

 あるいは僕が自身を女性だと思っていた場合はどうだろう。
「私の性別は、あなたの言っているそれとは違うのです」と主張するのは。
 奥ゆかしい僕にはむつかしい。はっきりいって無理だ。もとより無意味だと感じる。

 もちろん誰だって自意識的な性認識は何らかのカタチで持っているものだと思うし、持っていてもいいと思う。持っていて然るべきだといってもいいかもしれない。叱るべきとはいっていない。
 でも、それを他人にも認めてもらって、そのように扱ってほしい、という意識が、僕には少々理解しがたい。
 心情的に、そういう気持ちが分からないではない。
「認識してほしい」とは「理解してほしい」であり「受け容れてほしい」のである。
 要は「愛してほしい」のである。
「ワタシという性的マイノリティを愛せよ!(命令形)」と言っているのである。

>>>

 僕は自分が好きである。
 かなり好きであるし、それを素直に自己認識し、ストレートに周囲にも表現している。
 アタマワルイ人と思われているときもあるようだけれど、それはそれでその人の認識なので「僕には手出しができない」。

 もとより僕自身が愛されるに足るかどうか、僕自身を他の人が好ましく思うかどうかは、他人が決めることなのだ。当たり前のことである。
 だから僕を嫌いな人がいたとして、僕は気にならない。それはその人の価値観だから、それでいいと思う。
 無理をしてまで好かれる必要はないし、僕を嫌っているというだけの理由でその人を嫌う理由にはならない。

 自身が性的(あるいはその他の価値観で)マイノリティだったとして、それにたいして十全な理解や愛や寛容を求め、強制したところで、手に入るのは薄気味悪い愛想笑いだけのように僕には思える。
 同性に恋愛したことのない人にとって、同性に慕情を抱くこと自体が理解できないのと同じように。
 理解できなければ、人間は非難したり差別したり迫害したりもするだろう。
 過剰な拒否反応を示すこともあるだろう。
 それによって辛い(カレーの話ではないので、ここでは「つらい」と読みましょう)思いをすることもあるだろう。
 今はもう、ほとんどの人格/価値観に起因したマイノリティも(法に触れない限りは)「隠すべきだ」という時代ではなくなった。
 べつにオープンにしていていいと思うし、自身が抑圧する必要もないとは思う。

 ただ反動形成的に、愛や理解を強要する姿は、僕には少々滑稽で、なにより幼稚に映る。
 ガキがセックスを語るなよ。とまぁ、そんなふうに思っているわけではないのだけれど。
「聞いて、聞いて?」「わかって、わかって?」
 なんてまぁ、ねんごろなガールに言われるぶんには甘やかしちゃうぞ! なんて気持ちにもなるけれど、たかだかマイノリティな価値観に属しているだけの赤の他人(それも多くは成人だ)が、広く世間に求めるようなことだろうか。
 そういうマイノリティな価値観があるのは解るよ、認めるよ、というのも価値観ならば、そんなのは認められないし、気色悪い、と思うのだって価値観なのだから。
「これが認められないなんておかしい!」なんて一意的な良識を振りかざして、誰か(あるいは何か)を攻撃するのは、どうなのかなぁ、なんて僕は思ってしまうのね。

 そんな懸命に他人に愛されようとしなくても、他人に認められなくても、自分を認められる自分がいれば、自分を愛せる自分がいれば、スマートに生きられるのではないのでしょうか。








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//TimeLine:20180223
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TITLE:
ご名湯でご名答
SUBTITLE:
~ wish or wash ? ~
Written by 黒猫


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 ガールに
「ねぇ、青猫〜。一緒にお風呂に入ろうよぅ」と提案される。
 英語に訳すとプロポーズであるが、すなわち提案である。

「ありがたく拝命賜りたく存じますが、現在の拙宅のユニットバスはバストイレは別であるものの40年ほど前の型式でありまして、物理的にコンパクトで最低限の用途むけに設えてあるため、ご一緒の入浴は困難にござる」
 といった具合に、慎重に、事実を踏まえたうえで、余計なことは語らず、相手の心情をなるべく傷つけないように配慮した上で、丁重に事態を沈静化するもくろみでワタクシも答えて曰く、なのである。
 日本語が変なのは仕様なのでござる。

 するとガールの答えて曰く。
「あなたの家だとベッドと寝室があるからダメ!」であると。

 一緒にお風呂に入りたいとアナタがおっしゃっているのはアレですか、僕の知っている「一緒にお風呂」と違うナニカなのでしょうか。

 おおガール。
 文脈から察するに「私(ガール)はガメラと一緒にお風呂に入りたい」と青猫に提案しているのでしょうか。
 あるいはガメラ以外(かつワタクシ以外)のゴジラかナニカ(あるいは誰か)と一緒にお風呂に入りたいと懇願されているのでしょうか私は。ガールから。

 それとも「青猫はスリジャヤワルダナプラコッテと一緒にお風呂に入るべきだよ」と提案されているのでしょうか。
 あるいはスリジャヤワルダナプラコッテ以外のンジャメナかナニカ(あるいは誰か)と一緒にお風呂に入るべきだよ、とサゼッションされているのでしょうか私はガールから。

 だってベッドと寝室は却下だけれど一緒にお風呂に入りたいなんていう心情は、なかなか想像できないわけですよ、ええ。
 あるいは「寝室とベッドを取り除いた家で暮らせオマエは!」という呪いなのかもしれない。呪詛か。
 呪詛ではなくて「私の会社の事務所で暮らしなさいあなた、猫でしょう?」という誘いなのかもしれない。そう考えればそれはそれで素敵かもしれない。
 しかしそれは「一緒にお風呂に入ろうよぅ」(小さい「ぅ」が付いていることはかなり重要なことなのであえて外していない)と相反する。
 というよりそんな提案(英語に訳すとプロポーズ)は不要ではないか。
 単に「私の事務所(ベッドも寝室もない)で眠りなさいアナタ」と言えばいいではないか。

 つまりそもそもの提案であるところの「一緒にお風呂に入ろうよ」の主語(誰が)と述語(誰と、あるいはナニと)がはっきりすれば、この問題は解決するのである。
 名探偵もびっくりの真実が(おおよそ)ひとつ(くらい)だけ見えてくるわけなのである。

 しかし僕もかれこれ20年以上は猫として生きているわけで。
 ここで素直に、自分に正直に、「Hey,ガール。ユーの提案しているのは、つまるところ、誰が、誰と一緒にお風呂に入るべきなんだい?」なんて尋ねようものならこの世の終わりがそこに待っている。いいね?
 もしもここに10代のうら若きボーイがいるならば、ああいるならば。
 僕は彼に教えておきたい。
 そんなことは口が裂けても尋ねてはいけない。
 とくにジャパニーズのガールにはダメだ。
 デリカシィ(珍味の意味ではない)のないオトコだと思われて、どういうわけか嫌われる運命しかそこには待っていない。
 そこはワビ=サビの世界であって、シンプルに自分の疑問を口にしてはいけないのだ。
 少なくとも安易にカールの本心など尋ねようものならば、ガールから[1:睨まれる]から[9:捨てゼリフとともに去られる]までの処罰が待っている。

 もっとも欧州圏のガールなら誘い水である可能性もあるわけで、よってもう少しひねった解答(いやぁ、いくらこのあいだドバイの別荘の屋上に設置したジャグジーでも、スリジャヤワルダナプラコッテ全土は入りきらないし、仮に入ったとしても君の入る余地はないよ?)をしてもいいし、むしろそんな程度の解答ならしない方がいいかもしれないし、任務の成否を問わず当局は君の生命と恋愛の行方を保障しないのでそのつもりで。成功を祈る。

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 よくよく確認した(僕は9本の尻尾に相応した命があるから生き存えたものの、尻尾も退化したような諸君にオススメはしない)ところ「ガールは僕(青猫)と一緒に、時空的に同じ湯船のお風呂に入りたいがベッドインしたいわけではない」という明確なお答えをいただいた。
 バスルームでも欲情するタイプのオスがいるではないか、という設問にたいしては「アナタはそういうイキモノではない」という的確な洞察に基づいた回答をいただいた。
 もはや目的が分からない。ああ、はいはい、風呂ね、風呂。そんな感じである。

 しかしね、ぼかぁ、このところ、寝食するヒマもないほど忙殺されておるのだよ仕事に。
 とぼそっとつぶやく僕を無視してガールは「日帰りで、貸し切りの露天風呂がある温泉があるから一緒に行こうよぅ!」と提案(英訳するとプロポーズ)してくるのである。ぜったい俺が運転するだろ、行き帰り。

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 かようにガールというのはミステリアスなイキモノなのではある。
 日帰りとはいえ、家族風呂という名目とはいえ、混浴の、休憩室付きの露天風呂を温泉施設のフロントというパブリックスペースで申し出る恥ずかしさというのはまた格別である。
 穢れた諸兄はなんとも思わないやもしれぬが、ワタクシは猫なので。
 しかしガールにそんな恥ずかしい思いをさせるわけにはいかないので、慣れた(ふうな)顔で「この露天の個室。2時間で」と言いましたよ。ええ、言いましたよ。
 ぱやぱやしに来たんじゃねぇよ! 風呂だよ風呂入りに来たんだよ! ガールからお風呂に誘われたから風呂に入りに来たんだよ!
 と叫びたい気持ちをぐっとこらえて。(叫んだら逆効果だから)

 緊張のあまり温泉の具合をほとんど忘れてしまったことよ。




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[NEXUS]
~ Junction Box ~

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[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Cat-
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ほんとうのことなどわからなくても。
ほんとのできごとがわからなくても。

ほんとうのきもちがわからなくても。
ほんとのことばがつたわらなくても。

きみがこきゅうをしているとわかっただけで。

くらやみにやさしくほのおがともったようだ。



いきてる?

うん、そう。
そうだね。

ううん。

わたしは、もう。
いきてはいないよ。