// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180601
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
条件分岐を持たない狂気。
SUBTITLE:
~ See a condition. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

様(を)見ろ【ざまをみろ】
人の失敗不運に対して,心中愉快だと思いながら発するののしりの言葉。それ見たことか。

>>>

 電話の向こうの弟子の声は、ひどく落胆している様子ではあった。
 けれども、以前、恋人にフラれたときほどひどいものではなかったから、今回もせせら笑ってやった。

 どうも話しにくそうにしているので、しばらくバカ話をしていたら、ようやく核心を話す気になったらしい。
 なんでも学生時代からの友人に、自分の信仰の話をしたら(別にその宗教に勧誘したとかではないらしい。まぁ、したとしたらもっと面白いと思うが)それ以来、電話を掛けても出なくなってしまったらしい。

 ふたたびせせら笑ってやった。

>>>

 かつて彼をフった恋人はといえば、彼が生まれつきの骨格による障害で長期の休職をせざるを得なくなったときに(つまりは彼が精神的にも肉体的にも社会的にも辛い状況になったときに)「あなたのような人とは結婚できそうにないから別れる(実際にはもっと、それらしくて長たらしい説明や理由付けがあったらしいが、聞いた範囲で私がショートに説明するとそうなる)」と言われたそうな。

 あのときも私はさんざ嗤ってやったことよ。
 愉快で仕方なかった。
 滑稽で仕方なかった。
 もしかしたら、実際に電話口で、嗤いながら言ってやったかもしれない。
「ざまあみろ」
 と。

>>>

 僕は信心なんてこれっぽっちもない人間で、悪魔に魂を売るくらいは平気でする一方、猫の神様(という独自の信仰があってだな)を崇め奉っている。なんなら自分が司祭だといってもいいかもしれない。
 友達や知り合いに誘われて、宗教施設(やれ教会だのなんだのといわれる、べらぼうに広大な敷地とやけにお金のかかった巨大な建物がだいたい共通している)に面白半分で行くこともある。
 施設内は、清潔で静謐なことが多い。
 少なくともパチンコ屋だとか、風俗店なんかよりはよほどもまともな場所だと思う。
 お金を取られることもまずない。
 エライヒトの説法も、面白いことだってある。
 注意深く耳を傾ければ、なかなか良いことを言っていることだってある。

 誘われれば、しばらくの長期にわたってその「教え」とやらに付き合ってやることもある。
 あまり時間を浪費させるような連中はまっぴらごめんだけれど(生きるために宗教があるならそれは「まっとう」だけれど、宗教のために生きることを強要するようなのは奴隷制と変わらないから)、そういうのだって「そういうやり方に付き合わされるのはまっぴらごめんだ」と言ってやれば、だいたい皆おとなしくなるものだ。

 なぜそんなことをするのかといえば、私はそれでも何かを知りたいからだ。
 敬遠しているものごとの中に、もしかしたら思いも寄らないカタチで、自分の求めている究極的な答えがあるかもしれない。
 あるいはそういうものに対しての姿勢を、誰かの背中から知る事ができるかもしれない。
(もっとも、今までのところを有り体にいえば、ろくでもない姿勢以外というのは、あまり見ていない。まぁどの宗教がどうだ、ということを具体的に言うには、僕は自身があまりにも軽薄だから言わない)

 宗教なんぞにどれだけ脚を突っ込んでも、僕は自分が変わらないことを知っている。
 なぜといって僕には猫の神様がいるから。
 猫の神様が僕の中にいて、僕は猫の神様を信じる自分を信じているから。
 あるいは他の何かを信じてもよいし、いっそ猫の神様を捨てる自由さえあるわけだけれど、それでも僕に何を求めることもしない猫の神様(信仰心すら必要ない)を崇拝しようと勝手に決めているからである。
 つまり僕には最初から、猫の神様さえいない。
 だから自覚的に、僕は自分が変わらないことを知っているし、他の人間だって同じように変わらないことを知っている。

 じゃあどうして宗教に人々が惹かれるかといえば、いろんな側面があるとは思うが、先に僕が述べたように、何か学べるものがあるからだろう。
 教えてもらうのではなくて、学ぶことができるのなら、好きな場所で好きに学べばいいと思う。
 だから信仰を持つ人を僕は毛嫌いしない。
 ときには科学だってひとつの信仰のように思えることがあるし、この国では経済が相当に宗教じみているし、恋愛を崇拝する人もいる。
 一時(バブル経済の頃)は生命倫理がそのまま宗教じみていたこともあったが、今はどうだ。
 経済という宗教の力が医療という宗教の力と結びつき「すぎていて」自分を助けてくれないから、皆が皆、自らの命さえほどほどにしてこの世を去りたいと願っている。
(おおむね年寄りはそう言っているし、僕もその意見には賛同する)

 彼らには信仰もなかったし、崇拝を理解する知恵さえなかったから、自分が何を信じているかすら正しくは理解していなかった。
 だから信じる対象を彼らは容易く見失って、路頭に迷う。
 投資詐欺の被害ににだって喜び勇んで飛び込むし、医療が自分を救うだなんて本気で信じている。

 ワケの分からない潔癖症で宗教の免疫がないから、おかしなものを信じる人もかなりいるように観察される。
 科学(あるいは「科学的」というもの)が何であるかを知らない人たちは、自分たちの健康も医療行為でアウトソーシングする。
 経済に取り憑かれた亡者たちは経済活動さえアウトソーシングする。しないではいられない。もはや狂気的である。
 そこの主体に「自分」があたかもいるような顔をしているが、実のところ、中身は空洞でぺらっぺらの金メッキが表面上輝いているだけに感じられる人は少なくない。
(余談になるが僕はお金が悪いと言うつもりもないし、それを憎むつもりもない。お金はただのお金でしかない。ただしお金に使われる者は死者も同然だと言っている)

>>>

 さて。
 私がなぜ、何をせせら嗤ったか。
 もうお分かりだろう。

 弟子のことを見ず、彼の周辺情報だけで彼を判断するような人間は、友達でも何でもない、ただの知り合い以下なのだ。
 弟子の、あるいは彼と一緒に歩むことそのものの幸せではなく、結婚というステータスとそこにまつわる経済活動にしか幸せを見いだせなかった女など、とっとと別れて正解なワケだから、フられて正解なのだ。

 まさにちょうラッキー。
 彼は僕と違って真面目だし、アタマもいいし、相当な努力家だし、すごく真剣に彼女の幸せについて考えていて、その中のひとつのありようとして結婚を考えていた。
 顔だって悪くない。学歴だって僕よりは高学歴だ。以前より条件のいい(そして何より彼自身が楽しめる)仕事にも復職した。
(それなのに彼が僕の弟子なのにはワケがあるのだが、それは今回の話には関係がないからしない)

 彼は、お金に使われるような人間ではないし、結婚というステータスに支配されるような愚図でもないし、宗教や信仰に自分をコントロールされるような弱い人間などでもない。

 私は電話口で嗤ったことだ。
 口汚く罵ってやりたい気持ちをぐっとこらえて、高らかに嗤ってやった。

「愚図どもは毎回オマエの価値が分からずに立ち去ってゆくんだ。オマエを何かに利用できると無意識に考えているようなクズが身の回りからまた1人いなくなることを喜べ」と。

 宗教を毛嫌いして信仰する人を差別視する人間は、反宗教という信仰を無自覚に(そしてちょう熱烈に信奉)することで、支配されている。
 結婚や経済というステータスに目がくらんで相手(という人間)を見ない女は、結局いつか相手を見限るし、いつまでも自分自身を傷つけ続ける。

 彼ら彼女たちは自分を知らない。自分がしていることも、自分が支配されていることも知らない。
 だから相対的に、他者が何かに支配されていることを毛嫌いする。
 極めて平和で愚かな生ける死者たちだ。

 己も知らず、ゆえに他者への寛容もない彼らを、僕は嗤ったのだ。

>>>

 できることなら彼ら/彼女たちがいつか、己の生きる道と己の生命を、正しく発見できることを(僕の場合は猫の神様に)祈る。
 もう方向転換ができる年齢ではないかもしれないし、老い先が長いわけではないかもしれないし、選択肢も(自ら潰しているせいで)さほど多くはないかもしれないけれど。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF


灯りを消そう

あなたが眠るまで

私が起きるまで

灯りを消そう

あなたが眠っても

私が起きるまで



灯りを消せばあなたは消える。
灯りを消したわたしはのこる。



灯りを消そう

あなたが眠るまで

灯りを消そう

あなたが眠っても

灯りを消そう

私が起きてから

灯りを消そう

私が眠るまで



明かりに固執してあなたは
暗闇にとけこんでわたしは



灯りを消すから

あなたは眠るといい

灯りを消すから

みんな眠るといい

灯りを消すから

何も残らない

闇を見通せないあなたには

もうなにも見えない

あなたには

もうなにも見えない




 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180526
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
君だけじゃダメみたい。
SUBTITLE:
~ Then only us. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Cautionary Notices Division *<< //
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 この文書はセックスや暴力、虐待、自己否定感についての記述があります。

 精神的ストレス耐性の低い方が読むことで、強い不快感や嫌悪感、不安、恐怖、孤独や絶望を発生させる恐れがあります。
 精神的外傷やそれに類する精神的圧迫感があり、それが完全に治癒していない場合や対処法を身に付けていない場合、また現時点で不安や孤独感を感じている方などは読み進めないことをおすすめします。
 途中で、冷静な気分を保てなくなった場合は、どうかただちにこのページを閉じて、自分の心を休めることに注力してください。
 あたたかいココアでも飲みながら、猫の画像とかをWebで拾って眺めると良いのです。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




































// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 4日間ほど自己嫌悪していて、しばらく口がきけなかった。
 もとより僕は自己嫌悪や自己憐憫というのをほとんどしない。
(初めて猫を殺したときに自己嫌悪をした気もするけれど、記憶が遠くて思い出せない。)

 それらはナルシシズムだからほとんど何の役にも立たないし、他者の害になることはあっても利になることはまずないと思っている。
 しかもナルシシズムの中でも格別醜悪なのがそのふたつだと認識している。
 自分の肉体美に酔っているくらいの方がまだ健全だ。
 とにかく自己嫌悪と自己憐憫はいずれもナルシシズムの一形態ではあるが、本来的な「自分好き」とはほど遠い。
 だから、自己嫌悪した(あるいはしかけた)自分に対して僕はひどく驚いて、自己嫌悪する自分に自己嫌悪しそうになった。
 自己嫌悪無限ループ。
 まさにナルシシズムの極致。
 いやだよそんなの!

 たしかに僕は「自分好き」である部分も含めて自分を好きだけれど(そしてときどき他者からナルシストだと言われるけれど)実のところナルシシズムは好きではない。
 だってそれはただの陶酔だから。
 酔っ払いの錯覚だから。
 湾曲認識だから。
 曲解であって思い込みであって現実逃避だから。

>>>

 モテというのは技術だ。
 だからそれは才能や体質や生い立ちや性別や学歴に関係なく身に付けることができる。
 老若男女は関係ない。
 若い人には若い人の魅力があり、老いた人には老いた人の魅力がある。男には男の、女には女の魅力がある。
 美しい外見には美しい外見の、醜い外見には醜い外見の魅力が(たとえ本人が無自覚であったり否定的であったとしても)存在する。(そもそも美醜はどこまでも個人的な感覚だ)
 身に付いた技術は磨くこともできる。
 基礎を覚えて応用を編み出すこともできる。
 先端の何かを取り込むこともできる。

 でも、僕は忘れていた。

 技術は、すべて諸刃の剣だ。
 たとえばナイフは果物の皮をむくこともできるし、人を刺し殺すこともできる。
 たとえば車で遠くに行くこともできるし、人を轢き殺すこともできる。
 重機で建物を作ることもできるし、人を圧殺すこともできる。
 火薬で花火を作ることもできるし、爆弾を作ることもできる。
 塩でも砂糖でもアイスピックでも玉ねぎでも。
 はたまた靴ひもだろうと蜂蜜だろうと食器洗い洗剤だろうとチョコレートだろうとなんだろうと、それで何かを殺すことができる。
 つまりは使い方次第で。

 使い方を間違えてはいけないのだ。
 でも僕は間違えたのだ。
(アライさんではないのだ)

>>>

 気が付くと僕は自分がヤリチン(下品な表現で申し訳ないが、蔑称として考えればやむなしと認識した)である(あった)ことに気が付いた。
 もちろん恋愛感情というのは、双方向性がなければ(片思いになってしまって)成り立たない。
 だから相手も僕に何かを求めてこそ成り立つのではある。
 当然、僕も相手を求めた。その半分は立証実験として。

 そして理屈が立証され再現性を確認するうちに、僕は自分がモテなのだと錯覚した。
 ヤリチンになって、ナルシシズムの領域に踏み込んで、自分の陶酔のために相手を利用した。
 少なくともそういう側面は否定できずに存在した。

 モテというのは定量化できない。
 様々な知識や技術や能力や性格や弱点や劣等感や外見、意識や感情や認識の傾向。
(「劣等感」は一般に認識されている「コンプレックス」という名詞で呼んでもいいのだけれど、本来の言葉の意味とは異なる日本特有の方言であり、厳密な「劣等コンプレックス」の表記は長たらしいのでいずれも僕はなるべく使わないようにしている)
 そうしたものから複合的にできあがっていて、なおかつテストの点数のように0〜100までが直線的に並んでいるわけではない。
 受け取る側との相性で、まったく同じ特徴が利点になることも欠点になることもある。
 だから恋人の数が多いからといって、それが男として(あるいは女として)優れていることにも魅力的であることにもならない。
 技術的観察対象が多いことはサンプリングとしては優位だけれど、逆にいえば相手と自分の関係をサンプルにしているということになる。
 ある意味、相手に失礼な行為だ。

 なにしろナルシシズムは(ごまかしたり、他者をエサにする点で)褒められたものではない。
 それに他人を自分の道具にすることは(お互いの了解の上で「遊び」としてするのでないかぎり)たとえ相手がそれを望んでいるとしてもあまり良いことではない。
(なぜならその望みもまたナルシシズムに起因しているから)

>>>

 ナルシシズムが嫌われるのは、自分自身を好きだから、ではない。
 まわりの人から愛されている自分好きの人なんてごまんといる。
 それどころか、むしろちゃんと自分のことを好きな人でなければまともに誰かに好かれることはできない。

 ナルシシズムが本能的嫌悪を誘うのは、自分自身が不在な人間が、自己不在であるはずの自分に陶酔しているからだ。
 先ほどの自己嫌悪はどうだろう。
 客観的に自分を見つめて、もしも嫌悪すべき行動や思考、思想があったなら。
 単純に、今から改めればいい。
 死んでいるわけではないなら今日があって明日がある。
 今から変えれば未来は違うものになる。

 でも、どうしてもその行動や思考や思想を改められない人もいる。
 そういう人たちは、自分の行動や考えを憎みながら、それをすることをやめられない。
 やめてしまうと、その行動や考えの対象を憎むことができなくなるから。
 自分自身のアイデンティティがその憎しみに紐づけられているから、やめるわけにはいかない。
 すくなくとも本人は、そう感じている。心の奥底から。

 たとえば虐待癖(DVといえば分かりやすいか)などもそうだろう。
 虐待している間、その人はその人の正義の感情で煮えたぎっている。
 だから(好きであるという甘い糖衣に包まれた)憎むべき対象や状況があれば、それを正義という名目の怒りの矛先にする。
 どんなにそのあと自己嫌悪をしたとしても、その大元である行動や考えが本来的に独善的であり、その根源にある憎しみを手放して、たとえば無関心になったり、あるいは「本当の意味で愛する」ことができなければそのループは続く。

 自分がこんなに怒るのは、相手が悪いから、と思っているから。
 そうすると自分は簡単に正義になるし、その怒りを相手に発散することは正当な行為に思える。
 でもどうだろう。

 実際のところ、ほとんどの人間は、自分が怒りたいから怒っているだけだ。
 なぜなら、同じ傾向の感情の発露は他にもあるから。
 一般的なのは悲しみだろう。
 怒れない人は悲しんで涙を流す。悲しむことさえできない人は笑う。笑うこともできない人は無表情。
 必ずしも、その憎むべき状況や対象や感情に対して、怒る必要があるわけではない。
 選択された怒りだ。選択しているのは自分だ。

>>>

 ではなぜ「怒りを選択して」しまうのか。
 単純に憎しみの感情に起因していて、憎しみが支配欲にも紐付いて暴力的に発露するからだろう。
 自分に対象を支配するだけの力があると思っている人は、怒る。
 自分に対象を支配する力がないと思っている人は、悲しむ。
 そんなふうに思える。
 
 ビジネスシーンでもプライベートでもいい。
 人が個人的に理不尽を感じる(個人的でない理不尽感なんて、きっとない)とき、人は対象にある人を憎むのだ。
 自分の思う理屈で動かない子どもであるとか、自分の理想から離れようとする恋人だとか、自分の知っているカタチの敬意を示さない人間であるとかを。
 支配して思い通りにしたいという欲望を憎しみで包んで。
 その憎しみは、自分を見つめるいい機会ではあるのだけれど、多くの大人はそんなことはしない。
 自分の中の道理に従って(相手の道理を理解しようとすることなどまずなく)相手を断罪する。

 そりゃそうだ。自分の道理に反するものなんて、考えるのも煩わしい。
 自分の考える正義の真逆の正義なんて、理解したら自分の正義の根拠が崩れかねない。
 正しいのは自分だ。
 間違っているのは相手だ。
 だから、自分は、相手を裁く権利がある。裁かなくてはいけない。罰を与えなくてはいけない。その力が自分にはある。
 さあ怒ろう。怒鳴ろう。相手をねじ伏せよう。蹂躙して、正義のなんたるかを思い知らせてやろう。

>>>

 ……。
 いったいどこに「自分」がいるのだろう。
 相手がいて、相手に対する(正確には相手にこちらが投影している)憎しみがあって、憎しみに対して攻撃するための正義があって。
 仮に自分に属しているものがあるとするならば、その憎しみや怒りがそれなのだ。

 自分の環境や周囲の人間の中に憎むべきなにかを見つけて、それを攻撃して快楽を得たいだけではないか。
 憎しみの根源が自分で見つけられないから、それを許すことができないだけではないか。
 その根源が自分の中にあるから、それを見つめるのができないだけではないか。

 自己嫌悪も同様で、その憎しみの根源は、目に見えているものよりもずっと深くにある。
 自分の言動や情動の、そのまた奥に、自分の望みがあって、絶望があって、それでも渇望して。だから断ち切れなくて。
 自分を見ない自己嫌悪は、だからどんなに深く落ち込んでいるように思えても、単純な陶酔にすぎない。
 自分の行いや過去の情景とそこに付随した感情に酔っているだけだ。
 そこよりずっと深くに眠っている自分を見ないから、同じことを繰り返す。

 人は、憎悪する対象を、渇望する。どこまでも、その憎しみを手放したくない。
 その渇きは憎しみであると同時に、愛されたいという欲求でもあるから。
 愛して欲しくて憎んでいるのだ。
 憎しみが愛(されること)の代償行為になっていて、スライドされた感情になお執着している。
 ああ、おぞましい。

 よって自己嫌悪をする自分に自己嫌悪するなんて、もってのほかの愚行だということもおわかりいただけるだろう。
 そこには嫌悪の感情があるのに、僕は自己嫌悪する自分さえ見ていない。
 自己嫌悪する自分に対する嫌悪感に酔っているだけだ。

 自分を嫌悪する自分が愛しいとか、そんな自分を誰かから愛されたい(慰められたい)とかいうレベルではない。
 自己嫌悪の根源にある憎悪の対象(今回の僕の場合を具体的にいうと「他者を介在しなければ成り立たない性愛を通して、自分の価値が相対的に高いと錯覚し、にもかかわらず他者の人格を無視して道具化している」こと)とその根源にある欲求(「自分は他の人よりも優れている」あるいは「誰かから愛されている」「愛されるに値する」と自己認識したい。さらにいえば他者から評価されたい)という甘くて辛くて苦くてどす黒い、とにかくひどい味とにおいのする工業用アルコールのようなものだ。

 相手もいない。
 自分もいない。
 そんな宇宙空間のような宙ぶらりんの世界で、他人の存在そのものを道具に仕立て上げて、自分の欲望(性欲ではなくてもっと根源的な欲求)を投影して、満足している世界。

 そこには相手はもちろん、自分自身も存在しない。
 それほどまでに自分が好きかといわれると、実のところ、僕は自分の真ん中なんてこれっぽっちもない、空虚な人間なのだし、それも含めて僕自身を好きではある。大好きではある。愛してはいる。
 でも僕には自認する自分の性別さえない。
 それでも僕の自我は、僕という肉体と僕という思考回路にのみ存在して、その外にはどうやっても出られないから、これを愛するしかない。
 この自我がここにあるがゆえに。

>>>

 仮に僕がからっぽでなかったとしても、あるいはからっぽでなければなおさら、僕は自我に負わされた潜在的な穴をふさぐために、自分を愛する必要がある。
 ただ問題は、自己愛は、自分の手だけで完結していなければならないことだ。
 自己完結しているなんて、自慰行為だと嗤う人もいるかもしれない。

 でも、他人がいないと完結しない自己愛は、他者に依存しなければ成り立たない自己愛だ。
 それは愛ではなくて執着になるし、執着は軸がずれれば憎悪になる。

 誰もいなくても。
 何があっても、何もなくても。
 無条件で自分を愛しているほうが、条件付きで愛しているよりも健全だ。
 それはなにも、自分だけではなくて、他者に対してだって同じなのだ。

 僕は実験の途中で、おかしな条件を自分に課してしまった。
 最初は冗談だったかもしれない。あるいは他者の言葉だっただろうか。
 でも、最終的にはその条件を自分で信じてしまった。
 誰の言葉であったかなんて関係はない。
 自分が何を信じたかだ。

>>>

 僕が人間不信になったのは。
 自分以外の誰かを信じられなくなったのではない。
 自分以外のすべての人間を信じられなくなったのではない。

 僕が自分を信じられなくなったのだ。

 そして僕からは猫がいなくなった。

 さよなら。猫のいた私。

>>>

 そして僕は条件付きで(自分に)愛されている(あるいはそう思いこんでいる)自分と、その条件に気が付いて、そんな益体もないものを信じることをやめた。

 他人から突きつけられた条件だったのかもしれないし、自分から設定した条件だったのかもしれない。
 あえて今回は僕がヤリチンであったことを槍玉に挙げているが、実際は、それだけではないかもしれないし、そもそも違う何かを別のフィクションで隠蔽しているかもしれない。
 僕がオープンなWeb上で、そこまでプライベートをさらけ出しているとは限らないし、あるいは純然と吐露しているかもしれない。

 大事なことは、人には愛されたいという欲求がどうやらあって、それがこじれるとけっこう簡単に憎しみに変わるということ。
 そして愛されたいという欲求は、愛することでしか満たされないという、すごくシンプルなことを僕が思い出したということ。

>>>

 不思議なのだけれど(そして案外、信じてくれる人がときどきいてくれるのだけれど)僕の中にはほんとうに猫がいる。
 あるいはそんな気がすることがある。

 僕の中に猫がいるとき、僕は寂しさや恐怖や不安に過剰に反応しなくて済むようになる。
 孤独を感じないし、なかなか楽しいし、いろいろな発見もある。

 誰がそばにいても、猫(ここでは「僕の中の猫」を指している)がいないときの僕は、本当に不安定で、なにもかもが恐ろしくて、歪んでいて、憎かった。
 だから僕は最初、その誰かが不安定で、恐ろしくて、歪んでいるのだと思ってそれを憎んだ。
 やがて僕は、自分が不安定で、恐ろしいもので、歪んでいて、憎むべきものなのかと思った。

 でもそうじゃない。
 もちろん不安定な人間はいるし、歪んでいる人はいるし、恐ろしい人もいるし、憎むべきものもある。
 でもそういうものには、用心して近づいて、サンプリングしたら離れるべきなのだ。
 不快だったらすぐに離れるべきなのだ。

 ついついその穴を探りたくなることもあるかもしれないけれど。
 穴は他者に開いているのではなくて、自分の中にあるのだ。
 好奇心は結構だけれど、執着してはいけないし、なにより他者を道具にしてはいけない。

>>>

 自己嫌悪してしばらくして、答えが見つかって。
 猫が戻ってきた。

 僕が猫なのか、猫が僕なのか。
 やはり僕には分からない。

 さようなら。
 私のいない猫。

 こんにちは。
 猫と私。








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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180501
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
液体のようにいれたらいいのに。
SUBTITLE:
~ Like a liquid for my heart. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180501

 ここ数ヶ月、叔母からの電話を無視している。
 単純に面倒だからであり、労力に見合っただけの精神的なヨロコビがない。
 僕自身は基本方針として、精神的なヨロコビのために自分のありとあらゆるリソースを消費することにしている。

 もちろん、苦痛だけれどもしなくてはならない、ということもある。
 たとえばいくつかの役所での手続きであるとかがそれである。
 でも、それ自体も楽しみ方はいくらでもある。

 叔母との関係は、どうも楽しめない。
 感謝されないから、というわけではない。
 叔母は、僕の労をねぎらってくれるし、感謝の言葉も掛けてくれる。
 経費が掛かった場合、それを請求すれば支払ってもくれるだろう。
 いちばんの問題は他人を思うように動かそうという無駄な煩悩が強いこと。
 二番目はひとこと余計に言ってしまう愚かさ。

>>>

 他人を支配したがる人間の多くは、どういうわけか自分でやらない。
 自分でした方が早くて正確で楽しくて心地よいものが手に入るのに、どういうわけかそれをしない。
 彼ら(彼女たち)が手に入れたいのは「誰かをして私にさせた」ということも込みにした結果なのだろう。

 僕にはにわかに信じがたいのだけれど。

 たとえば僕が恋人に「コーヒーを淹れてくれ」と頼んだとする。(今までの人生にもなかったし、この先もまずありえない依頼だが、ここは設定なのであきらめよう)
 100%僕の気持ちを満たしてくれるコーヒーが出てくることはない。
 僕が恋人にポトフを作ってくれと頼もうが、僕のWeb文書のタグ付けを頼もうが、100円ショップでの買い物を頼もうが、どれもこれも100%気持ちを満たす結果は得られない。
「買い物もか!」と驚く人もいるかもしれないが、自分以外の誰かに買い物を頼むのは、存外気を揉む。
 ちゃんとたどり着けただろうか、目的のものは見つかっただろうか、途中で事故や事件に遭ったりしていないだろうか、お財布はちゃんと持っただろうか、体調が悪くなったりしていないだろうか、といった具合に。
 待っているぶん、その時間がつらいのだから、一緒に出かけるか、独りで出かけることになる。
 最善は恋人が来る前に自分で済ませておくことである。

 単純に、業務上の仕事であれば、僕より早くて正確で最適な出力ができる人を僕は少なからず知っている。
(もっとも今の職場はきわめて特殊な環境なので、同僚が一人もいないが)
 けれどもプライベートだと、僕にとって最適な出力を僕以上にできる人間がいるとは、経験上とうてい思えない。
 ストライクゾーンが狭いことは認める。広くとることは容易で、極めて有効な手段だ。他人に任せる場合は。
 でも、他人がしてくれることに満足することと己の満足を追求することは異なることで、ために合致することは少ない、と僕は感じる。

>>>

 叔母を個人的に嫌う理由はたいしてない。
 もうじき(少なくとも僕よりは先に)死ぬ人だし、害もない。
 両親のいない僕のことを少なからず気に掛けてくれていることも知っている。
 ただ、介護に関連したこの数年間で、少々お互い踏み込みすぎたのが実際のところだろう。

 正直なところ、僕は誰かと一緒に暮らすということができないのではないかとさえ思う。
 べつに叔母の作った料理や、出すお茶、洗濯の仕上がりや洗濯機の使用方法に苦言を呈したことはない。

 他人に自分の満足を求める行為の愚かさ(あるいは確率の低さ)を僕は知っているつもりだ。
 だから不満であることが当然であって、他人が自分のために何かしてくれること自体、その時点で嬉しいことではあるのだ。

 ここまでの論調でいくと、僕は他人を「僕よりも無能で役に立たなくて、繊細にして博識なる僕に満足をもたらすことなどできない」と言っているように思えるかもしれない。
 実際その通りなのだけれど、だからといって僕は彼ら(あるいは彼女たち)を馬鹿にしているわけではないし、僕の方が優れていると思っているわけでもない。
 単純に「僕という個人を満足させる」という目的そのものがあまりにも複雑であるために、その目的を果たすことにおいて他者にはそれがむつかしい、という当たり前のことを言っているだけである。

>>>

 しかし叔母は、私を支配したがる。
 私の家系の血を引いているから、やれ煙草を吸うな酒を飲むなと、まるで中高生のように言われる。
 害になるのは十分に承知していて、僕は僕の死生観に基づいて寿命を浪費しているのだから、そこはそっとしておいてほしい。
 ただでさえ、僕は基本的に、世間から隠れて飲酒喫煙をしているのだから。
 買い物を頼まれて買ったとしても、ものに対する基準が異なるらしく(こんな高いものは不要だ)などと陰に罵られる(残念なことに、人との接触をなるべく控えている僕の耳にも入ってしまう)。
 こういう、他人の時間を自分の時間と勘違いしている人間というのが、どうしても苦手なのである。

 僕はモテのわりに(自分で言うか)人を誘って遊びに出かけたり、デートに誘うことが少ない。
 それはつまり、相手のことが好きではないとか会いたくないとかではなく、安易に自分のために使いたくないのである。
 けれども(家族も含めた)他人の時間を自分の時間と履き違えるタイプの人間というのは、仮にお金にシビアであったとしても、きちんと約束の時間を守る人間だったとしても、他人のリソースにはルーズなのだ。

 人間の一生は、有限である。
 それは自分も他人も一緒だろう。

 なるべくなら、自分の持っている時間は嬉しいことや楽しいことで満たしたい、というのは誰でも同じように思っていることだろう。
 誰かが楽しんだり喜んだりするために時間を使えるのなら、それは素敵なことだと僕は思う。
(ために僕は、誰かのために買い物をしたり、料理を作ったり、掃除をしたりすることはまったくもって苦にならない。たいていの労働もそうした側面に目を向ければ驚くほど楽しい)
 ただ、僕のように自分の満足がきわめて複雑であることをきちんと認識している人は思ったより少ないし、それを提示しながら他人を使役して学習させることのできる人なんて、僕も含めてほとんどいないのだ。

 彼ら(あるいは彼女たち)は自分の過不足のために他人を使役し、それに感謝こそするけれど満足はしない。
 この「感謝こそすれど満足しない」というのは、僕のこれまで言っていることと一緒で、つまるところ他人を使役することに抵抗がない(あるいはヨロコビがある)だけに厄介だ。

 けれどもそうしたあたりまえの事実をわざわざ、自分の価値観をなかなか変えたがらない類の頑固な、なおかつ老い先の短い人に言って聞かせて納得させるものだろうか。
 僕はそうも思わない。
 僕が絶対に正しいという自信もない。

 こういう姿勢というのは、誰かに教わることもあるかもしれないが、多くは自省して身につくものではないだろうか。
 わざわざ目上の人に言わなくてはならないこと自体、そうとうに悩ましいことである。

>>>

 とまぁ、こんな感じであれこれ悩んでしまう。
 子どものいない叔母夫婦の、介護以外にも面倒なことを手伝ってしまったので、なんというか、複雑な心境であることは否めない。
 結果的に、僕は気持ちよく彼女たちに使役されることができない。
 なぜなら満足のレベルが理解できないから。
 そんなこんなを考えていると、どうにも気が重くなって、最近は自閉している。

 ひとりを無視し始めると、どうにも気が重い。
 なんとかしなくてはと思いつつ、留守録さえ聞く気にならない連休である。
 放っておけば、自閉が進んで鬱病チックになってくる。
 そういう自分の性質は心得ている。
 ひとりの電話を無視し続ければ、他の人の電話を取るのも面倒になるのだ。

>>>

 ことほどさよう、誰かを満足させることはむつかしい。
 どんなに美味しい料理を作ったとしても、たとえば人参が嫌いな人にポトフを食べさせるのがむつかしいというようなことはある。
 誰かの十全な満足を考えるとき、あるいは誰かの充分な幸福を考えるとき、だから、誰かといることの複雑さや、誰かと長く一緒に生きることの恐ろしさを思う。
 それは自分の十全な満足を考え、自分の充分な幸福を考えるのとはまったく異なることだから。

 簡単な言葉で言うと、ちょうめんどくせぇ。

 僕のような人間は、ちょっと気の利いたデザートのように、たまに誰かのテーブルに載る程度がちょうどいいのだろうと思う。
 少なくともこれまでのところ、僕のヘンタイっぷりにまともに付き合えた人間は一人しかいないわけだから。
 おおかたの人間は「あなたは何を言っているのか分からない」と言い出すのだ。たとえば叔母がそうであったように。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]




//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180425
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
そして誰もいらなくなった。
SUBTITLE:
~ And then there were no needs. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180425

 雨のち晴。

>>>

 以前、あるネットゲームで知り合って、そうこうするうちに私に恋した人に話したことがある。
「AIは、肉体労働から人間を解放するより先に、知的/知識産業を席巻するだろう。もしそうならなければ、単純に適性を超越した制御がなされていることになる」と。

 そのとき私が喩えとして言ったのは「既定の枠を持っていて、その中での大量の情報を処理する業務、たとえば司法関連なんて最適だろう」ということだった。

 ブログでも書いたことがあっただろうか。
 よく覚えていないのだけれど。

 これはコンピュータの特性を考えるとしごく自然である。
 入力され、演算し、出力する。
 このメモリとCPUさえあれば(局所的ではあるが)完結する基本動作が、コンピュータの能力である。

 現実世界で歩いたり、あるいは誰かと会話するというのは、非常に複雑な処理の上に成り立つ行為だ。
 もちろんそこにも「出力←演算←入力」のループは存在する。
 しかし情報の処理だけで済むルーチンと、それを現実世界で遅滞なく処理しうるルーチンというのは、求められるハードルの高さが異なる。

 なにせ現実世界では物体が存在し、それに対してミスなく(補正し続けて)アクセスする行為は、枠組みを超えた外力に対する処理も不可欠で、ために無制限に複雑化しうる。

 たとえば誰かと会話をしている最中に、他の誰かが割り込んできた場合。
 たとえば走っている最中に、着地した場所が柔らかく沈みこんだり、動いたりした場合。

 ところがAIがたとえば陪審員をする場合は、情報の入力とその判断だけで処理が終了する。
 情感豊かにエンターテインメントに興じるタイプの人間が(そうそういるとは思えないが仮に)いても、情感を理解せず、そこから入力される値と法を規定した(多種多様かつ複雑怪奇な)文言や(長々積み重なって検索も困難な)判例から導かれる境界条件によって論理演算ができるだろう。

>>>

 法というのは言葉とその言葉を用いることで表現される概念によって成り立っていて、一文がどんなに複雑であっても、一意的な価値にたいしての線引きが明確になされることになる。
 言葉というのは、単なる記号だけれど、記号を組み合わせることで記号そのもの以上の意味を持つ。
 たとえば「言葉」という言葉は、文字だけでなく音声なども含めた「他者に伝達可能で再現性の高い記号や信号の連なり」を意味している。
「言葉」という文字列は「言葉」という文字列(記号)でしかないが、そこに含まれる意味は、その文字列という記号を超越して(あるいは無視して)存在する、ということ。知的生命体の皆さんには当たり前ですね。

 法はそのなかで、言葉によって物や行為や概念を明確に規定し、そのありようの合否を規定し、適切あるいは不適であった場合の処遇を規定するものである。
(どうぞここに羅列された記号から、うまく意味を抽出できる人が一人くらいはいますように)

 その一部に法律があり、国家が司法機関をもって裁定をするわけではある。

 それらの法は、言葉が概念や意味という曖昧模糊としたものを含んでしまうがために人間を困惑させ、あるいは境界条件を明確にしようとするために複雑怪奇になりがちである。
 しかし複数の意味を含む場合であっても、その境界条件を明確にできる(むしろそうせざるを得ない)コンピュータの場合、どれほど言い回しが複雑になろうが(仮に(カッコ)がいくつ入れ子になろうが)判例のデータベースがどれほど大量であろうが、短時間のうちに与えられた値が「論理式における最適解の範囲内かどうか」を判定するだろう。

 人間は、情感や情状、経験則や世相に応じて、その解を採用するかどうか、また解に至る過程を解析し(あるいはさせ)条文などの解釈に変位を加えるかどうかを考えるだけで済む。

 機械が故障した原因を調べて分解修理したり、知り合いと道端で世間話をしたり、誰かに代わって買い物に出かけたり、人間に代わって自動車を走らせるより、よほど安全で簡単にそれをすることができるのである、本来は。

 でも、世の中からいきなり弁護士だとか裁判官だとか陪審員だとかをAIに替えたので不要になりましたみなさんさよーならー、とはいかない。
 なぜなら彼らも仕事だから。
 それに「機械に自分の法的合否を判定される」ことに対して、人間がそれを許せるかどうかという問題もある。

 結果として、既存の知的/知識産業においてAIが急激に浸透するよりは、より高度ではあるけれど物理的負荷の高い肉体労働に利用されるのだろう、と思っていた。

 でも、実際は未知の知的/知識産業での足場を固めつつある。
 たとえば研究開発などがそうだ。
 確かに人力よりはるかに効率が良い。

 そしてやがては人間のグローバルシミュレートも可能になって、確率的な範囲を持った大勢がどういった動向にあるときに、どのようなニーズが潜在し、どのような具現によってどんな方向性に導くことが可能か、といったモデル構築もできるだろう。

 当然、人間と付き合うよりも、AIと付き合う方が、快適で、安全で、割安で、便利で、安心、ということになる。
 少なくとも僕は、AIが友人や恋人になるとしても、まったく違和感を感じない程度には鈍感だし、人間よりもいいんじゃないかと思っている。

 あるいはそうした「AIと意思疎通ができる人間であること」は、最先端デジタル機器を使いこなす人間がそうでない人間から見ると特殊であったように、ある種の特別な能力としての(あってもなくてもどうでもいいような)地位を獲得するかもしれない。

>>>

 個人的な事情でゲームを継続してプレイできなくなったため、ゲームで知り合った彼とは疎遠になってしまった。
 もっとも、たびたびメールのやりとりをする関係ではあったのだが、私のプライベートがあまりにも多忙になってしまって(それゆえゲームもできなくなってしまって)返事をしていないのである。

 ちなみに「彼」と書いたのは誤字ではない。
 ゲームをプレイする時その多く、私はプレイヤーである自分を女性として演じている。
 女性を演じてもモテになる、というのも僕にとっては比較的容易に思えることなのだけれど、そのあたりについてはまた後日に。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]
  -Reactor-

[Object]
  -Computer-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180424
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
平面世界に落下する直線。
SUBTITLE:
~ Squared sequency. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180424

 雨。
 湿気が街をヴェールのように覆う、優しくて穏やかで、でもどこか所在なさそうな、雨。
 まぁ「はっきりしないお天気」なんていう言い方もできるわけですが。

 昨今の陽射しはあたたかさよりも日陰に隠れる怠惰を叱責するような苛烈さを感じるし、雨にしても街を行き交う人々を鞭打ち、人の建立した傲慢を押し流したいかのような無慈悲さを感じる。
 それに比べれば、この降っているのかよく分からない、上がるような様子もいまひとつ感じられない、という雨はたおやかで心地よい。
 はっきりしないこと、白黒のつかないことが悪し様に批判されることも多い日々の世相に思いを巡らせたのち、少し仮眠を取った。

>>>

 以前、一度だけ「音声ブログ」的なものを試したことがある。
 たぶん Evernote あたりで試したのだろう。
 このブログ上にリンクを張り付けた。

 内容はいつものとおりくだらないことを羅列しているが、けものフレンズについてのくだりは表現が充分ではなかったと思うので文書化したいと思っている。

 とにかくいつものとおりエントリィに対する反響や評価、つまるところの閲覧数やらコメントには何の期待もしていないし価値も見出していない。
 どういうわけかコンテンツのメッセージや表現のクオリティが高いことによって評価の絶対数は多くなるかもしれない半面、長期的には次第にクオリティを下げる方向に作用する。
 おそらく、誰でもそうなるとは思えない。
 単に僕という人間の弱さが露呈しているのだろう。
 他者の視線を必要以上に意識してしまう自意識過剰な性格が、多くの場合、災いばかりを招き寄せる経験則から、僕はなるべく目立たないことに注力し、目立ってしまっても気にしない事を意識し、他者の視線や評価を無視することに価値を置く。
 すでにこの時点で相当な矛盾を内包していて面白いのだけれど、今回のテーマはそこにはない(今回に限らずテーマそのものが基本的には存在しないのだが)。

>>>
 
 音声ブログというのは一時期、局所的に流行した。
 たとえば僕の思考の作った文章に興味を持った人間が、僕そのものに興味を持って、それが高じて(程度がひどくなる、という意味で捉えると面白い)僕の周辺情報までを希求する。
 どんな顔なのか、どんな声なのか、どんな肌なのか、どんな骨(あるいは骨格)なのか、オカネモチなのか、どんな場所に棲んでいるのか、どんな発明をしているのか、どんな料理を作るのか、どんな手をしているのか、どんな肉体なのか(ホントに猫なの?)、どんな服を着ているのか、どんな仕事をしているのか、どんな友達がどれくらいいるのか、どんな恋人が何人いるのか(27人です)、どんな家族構成なのか、どんな生い立ちなのか、etc.ETC...(誤字(綴りは一緒だが大文字にするとまったく別物になってしまう)は相変わらずわざと)

 そのニーズを満たすためのちょっとした読者サービス、あるいは書き手の「タイピングが面倒だ」という怠惰に適応したツールとして、音声ログは一定量の必要性を獲得したのだろうか。

 しかし実際のところはどうだろう。
 僕は自分で音声ログを作り公開したものの、すぐに(こりゃだめだ)と思った。
 口語かつ普段のラフな(そのうえ完全に散文的な)トークを展開できるのはいいけれど、いかんせん校正する術に乏しい。
 あらかじめ原稿か、せめてもテーマをメモしておけばよいかもしれないが「とりあえずちょっと書いてみる」というノリでレコーディングを開始すると収拾がつかなくなる(こんなことになるのは僕だけでしょうか(生徒会長立候補口調))。
 ラジオ番組でもあるまいしBGMやらジングルで盛りたてれば過剰な虚飾が興醒めだし、だからといって上記の通りテーマを決めてのソロトークには限界がある。音声的には間ができることもしばしばである。
(実のところ僕は1時間にわたる収録を一度しているのだが、容量の関係で非公開になっている。しかもそれは運転中に録音したため、途中で「あ、あいつ危ないなぁ」といった発言があったり、安全確認や右左折時にかなり長い沈黙が訪れたりしている)
 ほどよい雰囲気の収録をするには、誰かしらのゲストか、相応のシナリオを用意しておく必要がある。
(ゲストが存在しても、僕の会話はテーマが拡散しがちなので、軌道修正が得意な、あるいは紆余曲折する内容にフィットできる人物でなくてはならない)

 聞いてみても同様で、先送りが出来ないわけではないもののインデクスないから、飛びすぎたり、手前すぎたりする。
 全体像がつかみにくいから、そのときの話がどのような意味を持つのかわかりにくい。

 とにかくシーケンシャルなメディア(あるいはコンテンツ)の弱点がこれでもかというくらい露呈するのである。

>>>

 文章というのを「文のまとまり」、文を「意味を持つ単語と接続のまとまり」と考えた場合、その記述様式は基本的にシーケンシャルである。
 あるいは条件分岐を持たせる場合の文法も(前述の「あるいは」がそうであるように)存在するが、コンピュータプログラムのように「分岐されなかった文は処理に上らず考慮されない」ということは原則として、ない。

 シーケンシャルにすべてを読み、かつそこから意味を読み取って、全体を俯瞰してはじめて文章というものは機能する。はず。ではないだろうか。という気がする。
 だんだん気が弱くなっている。どうしたものか。

 というのが僕の思考の特徴といえば特徴で、どんどん分散して横道に入ってしまう。
 左折を4回繰り返せば元の道に戻る、なんていう理屈もまったく通じることなく、いわば3次元的に、どこかあさっての方向に行ってしまう。

 さてもこのように平面的な広がりを文章の意味が持っている場合。
(その広がりに必要なのは広さではなく、深さや未踏域であるかどうかが大事だと僕は思うのだが)
 直線的な機能しか持たないメディアであるところの音声(まぁ、多くの映像もそうだが)は、メディアの次元が低い、といえる。

 要所要所でその先のコンテンツを選択することが可能なゲームは、自由度においては次元が高いが、再現能力は低いように思える。

 再現能力を持つゲーム……。
 あ。
 いわゆるエロゲですか?

>>>

 いずれにしても、文章というのは不思議なもので、内容は(基本として)直線的なのに、読み手の再生自由度が平面的になっている。
 僕にとって文章を書くというのは(テーマが決まっているのでもないかぎり)その再生自由度に従って平面分散する。
 でも、かつてに比べると、そもそものアタマの回転が衰えてきた。
 平行分散でものを考えるのは、もう、ハード的に限界かもしれない。

>>>

 僕は雨が好きだ。
 はっきりしないお天気というものの中にいると、本当に安心する。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Rain-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180422
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
私をカラダで再生させて。
SUBTITLE:
~ Resurrects me. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180423

 のんびりぼんやり月曜日。
 とはいえ前職における肉体の酷使により、かなりのダメージが蓄積していることが分かってきた。

 とりあえず内臓がどうにもならない。
 もともと弱い消化器系は、食肉に特化した食生活にみごとに順応したが、肝臓と腎臓のダメージが想像以上だ。

 約一年、頻繁に内出血していた(打ち身、打撲、生傷は絶えなかったし、派手に転んで出血したまま業務を続行し、帰宅してから肌に張りついた血まみれロングのステテコを引き剥がし(そのせいで新たに流れる血液に関しては気にせずシャワーを浴びる)こともあった)ことと、継続的な筋肉疲労(筋肉痛も含む)による老廃物の蓄積およびその排出が間に合わない状況(水を飲む時間もないことがあった)、さらには食事(と睡眠)の時間がきわめて限定的であったため、より高カロリィな食事を短時間で摂取する必要があったことも影響している。

 いやぁ、キツかった。

>>>

 もしも記憶がなくなったら。
 私は私の肉体だけを頼りに、私という人格を再構成できるだろうか。

 記憶喪失という言葉は知っているが、その症状にかかっている人間を実際に見たことはない。

 物語に登場する記憶喪失の人物たちはしかし、たとえば学習した言語を忘れたりはしていないから、他者との意思疎通はできる。
 運動を駆使する能力を忘れて、歩く事もままならないという人は見たことがない。

 いずれも脳の機能であり、記憶によるものも少なくないだろう。
(小鹿のように生まれてすぐに立って歩いて、さらにはガウタマシッダールタのように喋り出せた人なら話は別だが)

 物語の中で、肉体の能力を駆使したり(たとえば武術の達人がとっさに己の身をかばったり)することはあるし、それをきっかけに他の記憶がよみがえることもあるように思うが、あれは身体(新皮質よりも下位の反射神経系のようなもの)が記憶しているのだろうか。
 あるいは仮に、そうした下位の系から記憶を瞬発的に反復することでより高位の系へのルートが確立する(神経系の物理的特性として)のかもしれない。

 まぁ、若いころから物忘ればかりの僕にとっては、神経系のルートが確立しない、なんてことはざらであり、恋人や家族の顔はもちろんのこと、いつでも何かしら記憶を喪失しているようなのではあるのだが。

 具体的な記憶がなくても、抽象的な記憶(価値観や概念)があれば、人は人格を構成できる。
 親の顔を記憶しなくても、親に対する感情などを通して親という価値観を作れば、それがその人の(この場合は親に対する)性格の特性になりうる。

 一方で具象の記憶は、肉体的な運動のトリガとして紐付けることなどは可能だとは思うが、それをいくらかき集めても人格を構成できるようには思えない。
 友達の顔を100人覚えたからといって、友達がたくさんできるような性格になれるとはかぎらない。

 たとえばボールが飛んでくるイメージ(記憶)があったとして、どういうわけか反射的に避けてしまう程度の記憶を僕らは持っているわけだけれど、それは赤ん坊のころには持っていなかったように思う(少なくとも僕は「ボールがぶつかると痛い=危ない」という記憶が3歳くらいまではなかった)し、仮にその記憶があったところで「ボール嫌い」という価値観を形成することまでは可能だとしても、価値観なしに(イメージからダイレクトに)人格を構成することは不可能だろう。

 つまるところ物語における記憶喪失というのは具象記憶の一部(あるいは全部)が欠落し、にもかかわらず抽象的な記憶(とそこから構築される価値観などによって構成された人格)が部分的に残っている人のことをいうのかもしれない。

 彼らはそこから欠落した人格を再構成して元通りになったりするし、欠落した状態のまま発生した新しい体験によって、まったく別の人格に変貌したりもする。

 しかしこんなことは記憶を失わなくても可能ではないだろうか。

 たとえば昨日まではとっても素敵に見えていたガールが、ひょんなことからただの異常者としか思えなくなるようなことってない? ないよね(僕はあるけど)。

 ニュースで事件があると、たいていは「物騒だなぁ」「怖いなぁ」「なんでそんなことをするの」という反応をする人によって社会が構成されている(ように各自がその場は演じているように僕には認識される)けれど、表層意識で「いいぞやっちまえ!」とか「まぁ、そういうこともあるよね」とかいう気持ちをきちんと把握して、あるいは模擬的にでも形成して、具象記憶からの価値観形成に複数の方向性を持たせておけば、それはその人の人格の豊かさになると僕は考えているのね(口調が変)。

 もちろん僕も社会人として社会に適応しているフリをして毎日を過ごしているわけで、まぁ、そう簡単に思ったことを全部ストレートに表現するかといえば、これが案外してしまって周囲から白い目で見られたりすることがあるわけだけれど、「いい/悪い」「好き/嫌い」の境界線や枠組みから少し離れたところに自分の知性(あるいは意識)を置いておいてもいいんじゃないでしょうか、と思ったりはする。
 現実に、10年以上前ならば「人間はある程度の年齢になったらちゃっちゃか死んじゃったほうがいいよね」なんて言おうものなら総スカンを食らうまでのことはなくても白い目で見られることは多かった。実に多かった(しみじみ)。
 あれは(当時)比較的若い人間であるところの僕が発言しているという事象がより事態を悪化させていたのかもしれないけれど、僕にしてみればその言葉の意味に今も昔も彼我の差なんてない。
 バブルのころより医学は進歩したというのに、不老不死の夢を追うどころかそれに疲れてしまった人も少なくないようで「ある程度になったら、ささっと死にたいわ」なんて平気で言っているのを聞くようになった。

 そうなると天邪鬼の僕などは「人間はもっと無駄にとりあえず滅多やたらと手当たり次第に何はともあれ長生きしていた方がいいんじゃない? 生きていることにこそ人間の価値があるよ!」なんて、思ってもいない事を言いたくなってしまうのである。

 まぁ、それもこれも、どういうわけだか僕の中に内蔵されている「思っていることと真逆のことくらいは、とりあえず同時に考えよう」という回路に原因があるわけで……。

 この回路がなければ、僕はもっと確固たる意志を持って、明瞭な目標に向かって日々邁進しちゃうような、ファイトー!いっぱーつ!的な、スポーツマンシップに則った、分かりやすくて熱血でために単純である意味純粋で周囲の理解を得やすい(分かりやすい)人格を構築していられたのかもしれないのだけれど。

 うまいこと記憶(ごとその回路を)喪失しないものだろうか。

 しないな。

 それに、この優柔不断で複雑怪奇(に見えるときがあるというだけで本当はとてもシンプルなのですよ)な私を、私自身は気に入っているわけであり。

>>>

 内臓が不調な結果として酒が不味い。
 少なくとも、以前のように美味しく感じない。
 よって、しばらくお酒を控えている。
 
 さらには花粉症があり、内服薬を飲んだのが悪く(もともと内服系抗ヒスタミン剤は私の粘膜の分泌液にこっぴどい副作用をもたらすことは分かっていたのに)、結果として今でも変な咳が止まらない。

 薬効が終って両方の鼻が詰まった段階でも副作用が収まらない(副作用の時間の方が倍以上あった)ため、異常に咽喉が乾燥した状態が続き、風邪(的なもの)をひいたりもした。
 粘膜系の異常はまだ続いている。

 最近の目標は「周囲の人間に煙たがられて嫌われて死ぬこと」なので、もっといやな奴、迷惑な奴になるべく、どんな人格構成をすればいいのか、ときどき考えるようにしている。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180422
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
毒と欲とが身を滅ぼす。
SUBTITLE:
~ Carry the torch. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180422

 晴れ。
 とても良い天気なので、掃除と洗濯をする。
 久しぶりに、きちんとしたカフェラテを作ってパイプ煙草に火を着けている。

 この家に越してきて1年以上経っているというのに、本棚ひとつ設置できていない。
 同様に、コーヒー豆は2年近く前のものだし、パイプ煙草を喫むのは半年ぶりくらいにもなろうか。

 嗜好品を消費せずしてなんの愉悦だろうか。
 ギターだって弦を消耗するというのに。

>>>

 シリアの内戦のおかげで、いよいよ一部のパイプ煙草が製造を中止することになるようだ。
 ラタキアと呼ばれる、薫香ゆたかな煙草葉の名産地が、シリアである。
 もっともラタキア葉なんてものはパイプ煙草でも喫まないかぎり、とんと見聞きすることはないはずだ。
 太平洋の片隅の小国に棲む僕が、海の向こうの遠い国の内戦になんて、普段なら興味も示さない。

 内戦というのがそもそも理解できない。
 クーデターによって樹立した現政権であるとか、原理主義的な反体制派にはじまりいくつもの反体制組織がそれぞれの思惑で活動していることであるとか、その根底に宗教/民族的文化があることであるとか、とにかく遠い。
 日本における過去のクーデターは失敗したはずだし、表向きは独裁国家などとは縁遠い民主主義的な法治国家である。
 その上、この国における現在の最大の宗教(あるいは国教)は経済であるから即物的で即仏的である。

 ゆえにその文化の根底がどうしても理解できない。

 でも経済はその概念を保有するほとんどすべての国に通用する科学であり宗教であり技術であり力であるから、彼の地において、かなりの国が干渉している。
 どのような思惑であるかなど、僕のような小市民には知る術もない。
 ロシアのジャーナリストは定期的に不審な死を遂げるのがこの世界の習わしのようだし、昨今はデリカシィを持たない権力者が下半身の欲に負けたことで失脚することも多いようだ。
 国民の敵意を俊敏に忖度する能力に長けている様子だけれど、某大国の大統領はそういうのはまったく意に介さないあたり、かえって政治家としては評価できると思えるときがある。

 政治家というものを「政治という運動をさせるための道具」だと考えれば、燃費が悪かろうと、多少の故障を起こそうと、どんな廃棄物を産出しようと、運動が適切かつ高出力に為されればそれでいいのではある。
 もちろん、エコでメインテナンスフリーでクリーンでハイブリッドで高性能であったなら、それに越したことはないのだけれど。
 排気に若干黒煙が混じるとか、スラッジがちょっと溜まったとか、そんな程度で「クリーンじゃないという批判があると運転出力に支障をきたすので辞めます」という部品よりは、煙が出ようが燃料が切れるか破壊されるまではきちんと運転を続ける方が優秀ではないだろうか。
 まぁ、アイドルグループのように投票で価値が決まる人気商売だから仕方ないのかもしれないが。

>>>

 煙草のあとは、カフェインとアルコールがWHOの目の敵にされることは疑う余地のなさそうなところであり、それに迎合してなのか、先進国であるところの日本でも多くの人が煙草を手放し、さらに多くの人が煙草を毛嫌いしている。
 電子煙草の普及も進み、いずれ煙草というのに火を使うなんていう風景はなかなか見られないものになるだろう。
 スイッチひとつでニコチンを含んだ水蒸気的なサムシングが吹き出す仕組みだ。
 現に、近所のひなびた止まり木に腰掛けて、缶ピースとマッチを取り出すと、目上の人からも珍しがられる。
 まして葉巻やパイプ煙草となると、目にすることも少ないようだ。

 火口の長いライターは今後も生き残るだろうけれど、シガレットライターは絶滅危惧種になる気がする。
 まさかチャッカマン的なもので火を着けるような冗談を日常にする人は少ないであろうし。

 煙草なんて嗜好品だ。
 酒も同様で、だからわざわざ好きでもない人間にむりやり喫ませるようなものではない。
 お酌文化と同様、煙草を出したらすかさず火を着けるような人間(特に職業人)を僕は好まない。
 そういう意味では、多少は文化が進んだようにも思う。
 異性(あるいは同性)との性的な関係だって同様だ。
 他人に無理強いするようなものではないし、自分が嗜むぶんには「嗜み」のなんたるかを知らなくてはならないはずだ。
 なにより嗜好品というのはすべからく毒を含んでいることは知っておいて然るべきなのだけれど。
 度を超した毒と欲は身を滅ぼすし、潔癖な人はそれに対する耐性のなさが身を滅ぼす。

 ともあれ嫌煙派/嫌酒派の過剰なまでのバッシングを浴びるのは正直、私ではない誰かであってほしい。
 もうこの先20年くらいしか生きないのだし、公の場では大人の、しかも喫煙や飲酒が許可されているような場所でしか嗜まないようにしているのだから。

 余談だけれど、僕はお酒が好きなわりに、酔って自制が利かなくなったり、下半身の欲求が強くなったり(つまりは上半身の抑制がなくなるのだろうけれど)ということがない。
 上半身の抑制が利かなくなるときは、すでに下半身も相当に抑制が利かない。

 わからない。
 ほんとうに、分からない。
 ボクにはさっぱり、ワケが分からない。

>>>

「君じゃなきゃダメみたい」の前奏は弾けるようになったのだけれど、その先がまったく進まない。
 動画を見て地道に練習する、というのが苦手なのかもしれない。
 タブ譜を探す方がよいのか、少々迷うところではある。

 ショートシガー1本とパイプ1ボウルを喫む。
 パイプは貴重なシリアンラタキアを追加でブレンドした965だ。

 いずれなくなるからといって、喫まない理由はどこにもない。
 希少なものは、その希少を味わうためにあるのであって、ありがたがって飾っておくためにあるのではない。
 自分の命もそうでしょう?








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]







//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180418
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
眠りの森の底なしの沼。
SUBTITLE:
~ Marionette in the deep forest. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 どういうわけか分からないのだけれど、どうしようもないほどの睡魔に支配されて眠ってしまうことがある。
 おそらくそういう経験は誰にだってあるだろう。
 たとえばひどく疲れたときなどがそうだ。

 でも、僕の泥のような眠りは、肉体的な疲れとはまったくの無関係に僕を支配してしまうことがあって。

 たとえばむかし、父親が死んでひと月ほどたってからの半年以上を、僕はひたすら眠って過ごしたことがある。
 今思い起こせば、それはいわゆる鬱病の一種だったのかもしれない。
 僕は家からほとんど出ることなく、誰にも(妹にも恋人にもほとんど会うことなく)、備蓄のわずかな食料や洗剤を頼りに生活した。
 といっても食事は2、3日に一度食べれば充分だったし、シャワーも数日浴びないようになった。
 とうぜん掃除なんてしなかったし、畳の上に毛布一枚だけで(布団やベッドのマットレスを当時どうしていたのか、よく分からない)寝ていた。
 着替えもしなかった。
 ただただ混濁した意識と眠りが僕を支配した。
 喉もほとんど渇かなかったから、トイレに行くことも少なかった。
 昼も夜もなかったから、子どもの頃の出来事だって季節くらいは覚えているのに、あの当時のことは父親が死んだ梅雨のころを起点に算出する以外に方法がない。
 秋だったか、春だったか、冬だったか。

 あるときようやく起きた僕は、あまりに眠り続けたために栄養を失調しかけていて、立ち上がるのもやっとで慌てて口にした食べ物(なんだったかは記憶にない)のほとんどを消化できずに排出し、それからまた眠って、おかゆのような消化の良いものからリハビリをすることになった。
 歯が痩せて、虫歯の詰め物の金属が次々と外れた。
 それでもまだ、誰にも会いたくなかった。
 電話の音がするたび無視したそれは数十件の着信とメッセージが積み重なっていて、まるで冷蔵庫の奥の賞味期限の表示さえかすれた「謎の食品」のように、箸でつまんで捨てられるものなら捨てたかった。
 誰とも話したくなかった。
 誰にも触れてほしくなかった。
 自分の肌の感触でさえ、そこにあることが耐えられなかった。
 だからただただ自分を忘れるためだけに、僕は眠り続けた。そんな気がする。

 当時の僕の恋人は、特に何を言うことも問うこともなく、かいがいしく僕の世話をすることもなく、ただただ鬱蒼とした深い森のように散らかる部屋で眠りつづける僕を放置してくれた。
(おそらく彼女も忙しかったのだろうとは思う。たしか、そうだった気がする)
 メールもひと月に1、2回あった程度だったろうか。返事はほとんどしなかったし、たとえしたとしても数日は経過したあとだったと思う。

>>>

 あれから僕はどういうわけだかモテになって、人と会うことに何の抵抗もなくなって、本来的な引きこもりであることを誰かに打ち明けても嘘だと言われる始末である。

 でも。

 ときどきふと息をついたとき。

 いつもより長い眠りをとったとき。

 ひとりで冷たい夜空を見ているとき。

 暗闇の部屋でじっとうずくまるとき。

 あの、どうしようもない、呑み込まれるような底なしの無気力につながる糸がそこに見つかるときがある。

 現実だってひとつの糸で、その糸は「どこか」や「だれか」や「なにか」や「いつか」に繋がっていて、その糸が自分の指や身体に巻き付いているから、向こうが引っ張ったり自分が引っ張ったりすれば連動するものと皆は思っている。
 でもそれらの糸は簡単に切れる。
 切れないと思っている人はとても幸せな人だと僕は思う。
 他人が何の用だか知らないが電話やメールを送ってくることなんていくらでもある。
 でもそれは「こっち」の、つまりは「ここ」にいる僕の用ではなくて、「あちら」の「ここにいない」先方の、あるいは僕の用なのだ。
「ここ」にいる僕は、それらの糸が厭になったら、切ってしまえる。誰だってそうだろう。
 ただただその糸を大事だと思っているから大事にしているだけで。大事にしないといけないと思いこんでいるから大事にしているだけで。

 あるいはもしかしたら、失踪する人の気持ちというのは、そういうものなのではないかと僕は思う。
 日常であるとか、常識であるとか、一般であるとか、そうした表層の世界とそれらの点から無数に伸びた糸の数々が自分の身体の一点一点に縫い付けられて。
 何の気もなくその表層の「役割」をいつもどおりに演じることにおいては一切の障害にならないその無数の糸が自分を操ってくれて。
 実のところ「役割」に疑問を感じたときに、あるいは表層であるとか、自分を規定するポイントのピントが合わなくなったときに。
 ただの道路の白線以下の、なんの意味も持たないただの糸でしかないようにしか感じられなくなるのではないだろうか。

 あの点とこの点を結ぶ糸はだから。
 私がこの点に自分を規定しているときには機能するけれど。
 そもそも私はその点に果たしているのだろうか。
 それとも私はその点にいると思っているだけなのだろうか。
 その点にいることが、一体誰にとって価値のあることなのだろうか。
 私が私であることが、一体どれだけ意味を持っているのだろうか。

 とまあそんな感じに思えてくると、糸の意味が突然自分の中でぐらりと揺らいでしまって。

 もちろんたいていの人は、その糸を外すことができないのだけれど。
 あまりにも多くの糸が絡んでいるから、右の糸を外そうとすると左の糸が邪魔になってしまったりして。

 でも僕のように糸が少ないイキモノは。
 現実とおぼしき世界に繋がっている糸の拘束力が弱くて、得体の知れない暗闇につながる糸がそのぶんはっきりと見えるのかもしれない。
 その糸がどこに繋がっていても、あるいはどこに繋がっていなくてもまったく問題のないくらいに。
 なぜといって、その糸は「繋がらないこと」に繋がっているように僕には思える。
 すべての意味が瓦解する場所というのはそういうものではないのだろうか。

 こちらから糸をひっぱるのは、なんだかとても身勝手な気がして。
 向こうから糸をひっぱられて動くのは、なんだかとても面倒な気がして。
 自分の欲で誰かを動かすことも、誰かの欲で自分が動くことも、同じくらい、浅はかで、空しくて、身勝手で、カタチばかりのような気がして。
 だから糸をぶつぶつと切ってしまって、振り切ってしまって、どこか遠くに行ってしまったりするのではないだろうか。

 どこに行っても、結局自分がいる場所からは離れられないから。
 だから自分と自分自身を繋ぐ糸も切ってしまうのではないだろうか。

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 いつだったか。

 恋人にひどく怒られていて、その最中に、僕は眠ってしまったことがある。

 多くの人がおそらくそうであるように、恋人はさらに怒った。

 僕は。
 そうなのだ僕は。

 普段あまりにも怒らないからよく分からないけれど、仮に僕が怒っている最中に恋人が寝てしまったら(ああ、疲れてしまったんだな)と思って眠らせるように思う。
 ところが怒れるガールたちは僕をたたき起こす。
 ほんとうに叩く場合もあるし、モノを投げたり、さらなる大声を僕にたたきつけたりすることもある。

 今でいうところの発達障害ぎみな僕は、こんな話はどうでもいいから眠ろう、と思って眠っているのではなくて。
 本当のところ、考えて、悩んで、共感しようとやっきになっているうちに思考がループするようになって(なぜなら自分には想像の域を出ないような感覚を感覚しなくてはならないからなのだが)、結果として何らかのアウトプット(たとえば返事であるとか)ができなくなったり、挙げ句の果てにはどうしようもない睡魔に支配されて眠ってしまったりするのではある。

 でも、そんなことはその時点の僕にはどうしても説明することができないし、冷静に考えて、そんな説明を聞いてもその時点の恋人が理解できるとも思えない。
 処理と条件がスタックを重ねてオーバフローして、僕は睡魔に打ち倒される。
 恋人は自分がないがしろにされたと思いこんで、僕を物理的に(あるいは精神的に)叩き起こす。
 でも僕は自分の糸を次々に切ってしまうことでしか自分を守れなくなっていて。
 だから眠ってしまう。
 こんな説明をいったい誰が理解できるというのだろうか。

 僕は僕の好きな人の怒りにおよそ完全な共感をしつつ、その怒りにまったく同調しないで自分を保ちたいと心底望んでいるにもかかわらず、そうある自信がないのである。本能的に。

>>>

 いつだったろう。

 だれだったろう。

 気が付いたら、その恋人は一緒に寝てくれていた気がする。

 彼女はそれから、あまり怒らなくなった(ような気がする)。

 僕としては、もっと怒ってもらって構わなかった。

 気に入らないときは、怒ったり、泣いたりしてもらえるほうが、僕は嬉しいと感じるタイプの人間みたいだ。

 おそらくそのほうが、分からないなりに、僕には分かるからだろう。

 でも彼女には、僕のような異常な(あるいは少なくとも偏向している)タイプの人間を見たことがなかったし、理解もできなかったし、想像もつかなかったのだろう。

 多分に、僕はあちこちがおかしいのではある。

 食欲はないし、怒りの感情が個人にぶつけられないし、攻撃的になることができない(強迫的に抑制されている)し、分からないこと(あるいは分かってはいけないこと)がループし始めると異常な睡魔に支配されて、しまいに貧血を起こしたりする。
 説明したって分かるものではないと思うから、もはや説明する気も起きなくて。
 だから触れない程度の距離まで人から離れているようにはしている。
 興味を持つことと理解できることは、多くの人にとって、違うことなのだから。

 もっとも僕にとっては、一般的な人の(つまりは偏向していない)パターンは基本的に理解できるはずなのだけれど。
 たぶん、強い怒りであるとか、悲しみであるとか、憎しみであるとかは。
 あまりに強い場合はトレースしてはいけない対象になっているのかもしれない。

 理由を僕は知っているのだけれど。
 それを解除する方法を知らない。
 解除できないことを不便だと思ったこともない。

 多くの人が自分に繋がっている糸を切らない理由は、単に「不便ではないから」なのではないだろうか。

 とにかく僕は。

 もっと怒ってもらってよかったし、そうしてほしかった。

 もっと泣いてもらってよかったし、そうしてほしかった。

 それは僕が失った感情の幾つかに繋がっていると思うから。

 いつも笑っていてくれなくてもよかった。

 いつも許してくれなくてもよかった。

 どこまでも愛そうとしてくれなくてよかった。

 それは僕の中に残った感情の幾つかだから。

 できることもできないことも。

 したいこともしたくないことも。

 もっと、ありのままでいてくれたら、もっとよかった。

 でも、僕のことを好きであるが故にそうできないその人のことを、それはそれで僕はたいそういとおしく思っている。

 もちろん今でも。

>>>

 僕はあまりにもたくさんの糸を切ってしまうから。

 そうしたちいさいことに繋がる糸を、たくさん彼女と結んでいたかった。

 現実との糸に意味が見えなくなりがちなら。

 現実に繋がっている彼女に、結びつくことができればよかった。

 そうすれば世界は味を持ち、温度を持ち、湿度を持ち、色を発し、音を発するだろうから。

 でもきっと僕は、まさかここでというタイミングで、その糸を自分から切った。

 日々は眠いばかりだ。








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//TimeLine:20180408
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TITLE:
生きるも良し、死ぬも良し
SUBTITLE:
~ Blood or flat. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 遺伝性の高脂血症(脂質異常症)である。
 父方の兄弟のほとんどは60代の半ばには死んだ。
 健康に気を遣って気を遣って残っている3人も、脂質異常である。
 ステント術をしても血管が再び詰まる。バイパス術をしても詰まる。
 菜食をしていても、煙草を吸わなくても、酒を飲まなくても、運動をしていても詰まる。
 これまで脳の血管の塞栓による死者はなく、皆、冠動脈に重篤な障害が現れる。
 もっとも80を過ぎると、どうやら肺や脳の血管が梗塞を起こし、心疾患以上にやっかいな生存者が出来上がるようだ。

 BMIが20を切ることもある僕とて例外ではなく、20代の頃から健康診断のたびに保険医に「要精検」と書かれた紙を渡されたものである。
 むろん、医者になどわざわざ掛かったことはなかったのだが、一昨年だったか、転職先の組合の保険医から直接電話が掛かってきて、医者に行くように言われ、以来、投薬治療をしている。
 もっとも、薬をひと月飲まなくても死ぬことはない。
 一方で、長期的に蓄積した場合、異常が出たときにはすでに手遅れで一気に死ぬ。

 父はバイパス術をした冠動脈のひとつが閉塞してきたため、ステント術を行い、おそらく血栓が脳に飛んで機能を損失し、最後は多臓器不全で死んだ。
 大量の薬を抱え、ときに大量の機械に繋がれ、それでも死ぬのが僕らの運命である。
 焼いた父上の骨は、薬品に含まれる微量の金属によって色が付いていた。
 色が付くほど、蓄積するのである。

>>>

 かつては不治の病だった脂質異常症を原因とする虚血性心疾患なども、対症療法にはじまって多くの手段が確立した。
 なにより当時は心筋梗塞という以外に病名もなく、脂質異常症なるものは中性脂肪やコレステロール(さらにはその善玉やら悪玉やら)の解明が進んでから生まれた名称である。
 たまたま医療の進歩とともに父は生きて、そして死んだ。

 同じ血を引く大人たちは、誰ともなしに遺伝性だと言った。
 ただ当時は、症状のまったく出ていない大人たちもいたから「太らなければ大丈夫だ」というような思い込みがあったのかもしれない。

 太っていない叔父や伯母は、たしかに心筋梗塞の重篤な症状は出なかった。
 水際で食い止められたのかもしれない(実際に、ステント術やらバイパス術はもれなく受けているから)。
 ただし80歳を超えたあたりから、今度は他の血管が詰まるようになる。
 肺や脳だ。
 今のところ、そこまでくると手が付けられない。

 僕は自分で自分のこともできなくなって、人格の一部が崩壊して、それでも生きる気には、やはりならない。

 80代まで永らえる道と、60代で世を去る方なら、僕は後者の方がいいと思って生きてきたし、今はもっと早くてもいいと思っている。

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 僕の死生観は、他者には少しばかりエキセントリックに映るようで、多くの人は、僕の見てきたものや感じてきたことや、生命とそれに付随するものに対しての価値観を知らないから、それを無視して長生きをした方が良いというのである。
 家族を持った方が良いというのである。
 振り返ると、例外はなかった。

 死ぬほうは簡単である。

 残されたものが大変なのだ。
 当人だって障害者と健常者の狭間にある時期が大変だし、それが世に言う「働き盛り」に当たりでもしたら、時間的にも経済的にも、おそろしい損失を生むのだ。
 そしてそれは自分だけではなく、周囲の人間にまで波及するのだ。

「人はひとりで生きているのではない」とはよく言ったもので、まったくその通りだろう。
 だからこそ、ひとりで生きてひとりで死ぬ方が良いこともあるのだと、僕は思って生きてきた。今もたいして変わらない。

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 幸か不幸か、中性脂肪の数値は、正常域の下限を下回っている。
 僕の血液は、悪玉コレステロール(LDL)だけが、正常域の上限の2倍以上の数値になっている。
 善玉コレステロールも上限から2倍近い数値なので、総コレステロールは(医者が驚くくらい)異常な数値になる。

 それとて気にしていないし、煙草も酒もやめるつもりは毛頭ない。
 ときどき薬を飲むのを忘れるが、いったい私が死んだところで、妹や姉がアホ面並べてわぁわぁ泣くだけのことだと思う。

 できれば彼女たち(とくに妹)が死ぬところまで看取ってやりたいとは思うが、あれは僕とは血が違うらしいから、とうてい無理だろう。
 妹が死ぬのを待つためだけに長生きするほど酔狂にもなれない。

 願わくばこの血が、早く根絶せんことを。
 あるいはこの血が役立つような世の中には、二度とならないことを。








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