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//TimeLine:20180702
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TITLE:
キャベツ畑につかまった。
SUBTITLE:
~ monomaniac loved for cabbage. ~
Written by 黒猫


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180702

 気に入った料理があると、しばらくそれを食べ続けてしまう。
 もやし炒めを2週間食べ続けたりしたことがある。
 ステーキ肉を週に3,4日は焼いてしまう生活を2ヶ月ほど続けたことがある。
 インスタントラーメン生活2週間。
 目玉焼き(6〜7個一度に焼いて食べる)生活1週間(2週目は無理だった)。
 もやしナムル1週間。
 オクラの大根おろし和え2週間。
 ポトフ、週半分以上2ヶ月。
 肉を炒めて塩胡椒で食べる生活、ほぼ連日3ヶ月強。

 あるときは新しい料理スキルを身に付けるため。
 あるときはゲームや趣味やその他諸々の時間を捻出するため。
 またあるときは経済的に逼迫したため。
 そして多くの場合、ただ単純にカラダがそれを求めるため。
 僕は同じモノを食べ続ける。

>>>

 キャベツだ。
 いつだろう。
 先々週くらいからだろうか。
 キャベツである。

 最初は居酒屋のお通しだった。
 店の特製もろみ味噌と自家製マヨネーズが添えてある。
 これが地味に旨かった。
 店もよかった。
 頼むと帰りに味噌をテイクアウトすることもできる。しかも無料である。

 持って帰ってきた味噌を、美味い野菜を売っている店(キャベツ農家のある県である。農産品直売所なんてそこらへんにごろごろしている)で買ったキャベツに少しつけて食べる。

 うまい。

>>>

 最初の頃は、それでも1/3玉くらいを食べれば満足していた。
 いくらお酒も飲んでいるとはいえ、カロリィが少ない気がするからである。
(偏食による栄養の偏りを僕はあまり気にしない。問題があれば勝手にカラダが訴えてくるものなのだから)
 キャベツがメインの食生活なんて、なんて貧相だろう。そんな先入観がどこにもなかったとはいえない。

 ちょうど昼食を抜くことが会社で正式に承認され(考えられないかもしれないが、食事を抜こうにも抜けない職場の雰囲気というものがあるし、そういうものをデフォルトで持っている職場が存在する)て、僕は晴れて一日ほぼ一食生活に戻ることができた。
 なのにそこで僕のカラダが要求しているのがキャベツ。である。
 むつかしいことは何もない。
 キャベツを洗って、ひと玉まな板の上に置く。
 それから幅3〜4cmにして切る。
 芯が気になる場合などは、ちょっと斜めに切ったりもするが、美味しいキャベツは芯まで美味しいから気にする必要はない。
 美味しくない芯だったら、簡単に折って取り外せる。

>>>

 実のところ、マヨネーズだって自分で作ることができないわけではない。
 しかし正直に申し上げると、僕はマヨネーズを作るのは得意ではない。
 どうしても味で市販品に負ける。
 うまく乳化しないで、ただただカサだけが増すこともあるし、それでモノになればいいが、どうにもならないときもある。

 べつに「なんだ青猫様ったら、あれもこれも自作できる風なことを言っておいて、ほんとは出来ないこともあるんだ、かわいい(はぁと)」みたいな反応を狙っているのではない。
 単純に、上手に、作れないこともある、だけだ。

>>>

 気が付けば、一日に食べるキャベツの量は1/2、2/3と増えてゆき。
 とうとう1玉、食べてしまうようになった。

 店の土産のもろみ味噌が切れたときは、自宅の味噌に麹の漬け物床を加え、チリペッパー(粉末状)を混ぜたもの。
 それからマヨネーズにコショウを混ぜたもの。

 これでもう充分である。

 1玉食べると、豆腐も食べられなくなる。
 このまま痩せるかというとそういうこともなく、僕の骨格上限すれすれの体重は68kgのまま維持されている。

 ほのかに甘やかな味。
 ぺらぺらとしっかりした食感。
 ぱりぱりとソリッドな歯ごたえ。

 もういい加減、飽きて欲しいのですが。

 それでも今日も、キャベツを食べてしまうのです。








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~ Junction Box ~
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  -黒猫-

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//TimeLine:20180624
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TITLE:
なぜ飽きないのだろう。
SUBTITLE:
~  ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180624

 毎日、同じ曲を聴き、歌い、弾く。
 何度も何度も、何度も。
 風邪や歌いすぎ(おい)で声が出ないときでも曲を聴き、ギターを弾く。
 同じ曲である。
 これをほぼ毎日、半年ほど繰り返している。

>>>

 たまには僕の身体に関する理解を更新しよう。
 なんでこんなことをするかというと、自分で自分の身体のことを整理しないと、周囲の情報に流されるからだ。
 今まで他者から言われてきた情報のうち「三食食べないと身体に悪い」とか「糖分の取りすぎ(当社比)は身体に悪い」などは完全に僕の身体に当てはまらなかった。

 よくよく考えてみると、僕は子どもの頃から朝食をほとんど食べなかった。
 小学生の頃は異常なほどの痩せ型体質のせいでどうやら虐待の可能性を教師に疑われていたフシもあり、家庭訪問でもないのに先生が家に尋ねてくることもあった。
(当時はまったく考えもしなかったが、今考えると用もなくそんなことをする教師はいない)

 子どもの頃から極端に胃腸が弱い。これが事の発端だろう。
 胃が消化できないことが多い。
 もとより胃酸の分泌が少なかったり、胃酸そのものが薄いのかもしれない。
 いちばん可能性が高いのは消化酵素の分泌が少ないこと。

 僕は母乳アレルギーのせいで母乳をほとんど飲まずに成長した。
 そこに含まれるはずの抗体がないせいなのか、長年病気にかかりやすかったし、ホルモンバランスも安定せず、僕の身体の発達は同年代の男性のそれと比べても少し変わっていたと思う。
 これは想像に過ぎないが消化酵素など、後天的に親から受け継ぐべき特性の幾つかを享受しなかった可能性はある。

 消化酵素のいくつかは唾液にも含まれる。
 僕は子どもの頃から白米をあまり食べなかった。なぜといってまったく味を感じないからだ。
 アルファ化されたデンプン質に対して、糖に分解する酵素の分泌はもとより、唾液そのものの分泌が少なかったのではないだろうか。
(母乳を摂らない子どもには虫歯になりやすい傾向がある。相関性を調べたことはないが、唾液の分泌が少ない個体は虫歯にかかりやすい傾向もある)

 胃液の分泌そのものが少ないことも影響してか、僕はほとんど空腹を感じたことがない。
 空腹に胃酸が過分泌される気持ち悪さは感じても、それを空腹と捉えることもできない。
(胃袋に負圧が発生した場合は胃袋に空気を取り込んだりすればおさまる)
 よって、他人が「充分な食事」と見なす量の食事をすることができなかった。なにせ空腹ではないのだから。

 もちろん父親は(虐待の疑いを掛けられつつも(笑))いたく僕のことを気に掛けていたりはしたものだが、なにせ「お腹が空いた」なんてことは言わない。
 ときどき充分とおぼしき量を食べることもあるが、大抵はわずかな量を食べて終わりである。勧めても食べない。
 ちなみに小学生の頃の僕は、週に一度くらいしか大便をする必要がなかった。
 便秘ではなく、単に食事が少なかったのではあるが、その自覚はなかった。

 当時の僕は糖分を主な栄養源にしていたように思う。
 唾液も胃酸も消化能力に乏しければ、当然ながら腸が吸収する栄養素も少なくなる。
 一方で、糖は手軽だ。炭水化物を唾液で分解するより手っ取り早いし、胃腸への負担も軽い。
(僕は炭水化物を摂取すると、とんでもなく身体が重くなり眠くなる。運転しながら眠るなんてざらなため、この特性を知っている人は僕の運転で昼食を摂る場合にはかなり気を遣ってくれるし僕も炭水化物を避ける)

 今でこそカーボハイドレイト(炭水化物)の摂りすぎが身体によくないなんていう説が流行しているが、これは日本人の身体が肉食化した証だろう。
 農耕民族時代は、米を主食にするようなサイクルが身体にできていたはずだ。
 そういう時代ではなくなり食生活が変化し、肉体に変化が生じた結果、炭水化物の吸収量が体質に合わなくなったのだろう。

 かくいう僕は肉も嫌いだったから、魚や豆腐を好んで食べたし野菜にも好き嫌いはほとんどなかった。米は味が分からないのであまり食べなかったが。

>>>

 この年齢になって、新しい問題が発覚した。
 僕の身体は空腹と同じくらい、満腹を理解しない。
 そりゃそうだ。胃袋の負圧を空腹と理解しない以上、胃袋の膨満感ごときを満腹と理解するはずもない。
 幸い、過剰に食べているとたいていは眠くなるから、最悪でも眠くなったら食事を切り上げる。
 ちなみに僕の一般的な食事にかかる時間は一回あたり1〜3時間である。

 昼食などを摂ると、だいたい人より食べるのが遅い。
 麺類だけはものすごい速度で食べることができるが、これは麺類がのびたときの味が嫌いなためで、防衛的に早食いをしてしまう。
 大量の食事を15分や30分程度で掻き込むように食べる人を見ていると、ときどき気分が悪くなってしまう。
 その人が悪いわけではないので一度も指摘したことはない。

>>>

 ここまで羅列しただけで、どうも他の人とは組成が違うと感じる。
 生まれが違うのかもしれないし、育ちのせいもあるだろう。
 なにせ僕は白米を好まない。憎んでいるとまでは言わないが、僕の身体にとって好ましいとは感じていない。

 僕にとっての空腹感は、毛細血管をふくむ血流の変化による皮膚や筋細胞のしびれ、血圧や血糖値の低下による立ちくらみ、不要と思えるときの急激な体温の上昇によって感覚される。
 これだけでもたぶん異常なのだろう。医者に行けと言われるのだろう。
 では医者に行って薬でも飲めば治るのだろうか。
 そうも思えない。
 第一、現状で食欲だけが人並みになった場合、満腹感はどうなるのだろう。毎回、膨満感を通り越して眠くなまで食べたり飲んだりしていたら、さすがに僕でも太る。
 一日一食でも身体が動くような仕組みに出来上がっているのだから、それを崩す必要はないし、今までもなかったように思う。

 ちなみに学校で給食が出ていたときは、一日二食。
 高校からは昼を抜くことも多かった。
 弁当を作るのは(自分しかいないため)面倒だったし、作っても自分の満足の行くものを作ることができたためしはない。
(比較対象が父親だからだろうか。彼は本当にお弁当を作ることに掛けては相当な腕前の持ち主だったと今も思う)

 社会人になってからは昼食を摂ることもある(身体の状態で判断したり、TPOで避けられない場合もある)し、必要がなければ食べなくて問題がない。

 食事をしないと身体が動かないとか、アタマが働かないという人がいるが、僕は少々いぶかしくそれを思っている。
 実際は「身体が動かない」とか「アタマが働かない」状態を経験したことがなくて、なんとなく「そんな気がする」から言っているのではないかと。

 ちなみに僕は無給で自転車を走らせ続けてハンガーノックを起こし、本当に数時間カラダが動かなくなったことがあるが、アタマが働かなくなったことは寝不足や泥酔、興味のないことについて考えるのでもないかぎり経験はない。
 たぶん空腹でアタマが働かない、というのは「胃袋の違和感に気を取られる」といった程度のことなのではないかと想像する。
 低血糖で脳さえ供給不足になっていれば、空腹がどうのと言う前に貧血で倒れると思うのだけれど。
(学生の頃はときどき倒れたので今は倒れる前に自覚できるが)

>>>

 僕と一緒にガールが過ごす場合、僕の体質を知らないとたいていは低血糖で具合を悪くする。
 そうならないように僕も気を付けるようにはしているのだが、ときどき忘れる。いろいろ熱中することがあるからだ。
 馴れたガールは「一緒に食事に誘う」「おやつを持参する」などの対処法を身に付けるようになる。
 僕は昼食を摂れない体質というわけではない。ただ摂らない方が都合が悪くなることがないし、摂る必要も感じないというだけだ。
 それに稚魚だって卵黄嚢を抱えて生きるのだ。100%僕の体質のせいにしないで欲しいとはちょっと思う。

>>>

 この体質はもしかして遺伝性なのかとも思ったのだが、親戚を見回しても、こんな特異な体質の人はいないようだ。
(根掘り葉掘り聞いて回ったわけではないが、周囲の僕に向ける視線からそれを察することができるくらいには僕もオトナになった)
 なので僕は今のところ、これを母乳を摂取しなかったことがきっかけで起こった結果だと思っている。

 食事を取らないからといって、瞬発的なパフォーマンスを必要とするときにそれができないということもない。
(持久力は少ないが、長時間の肉体労働のときはあらかじめ食事を取るようにしている)

>>>

 今日も8時間くらい弾いただろうか。
 だんだんスムーズに弾けるようになっている。
 歩みは遅いけれど、少しずつ、できるようになっているから楽しいのかもしれない。








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//TimeLine:20180623
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TITLE:
本日の青猫:180623
SUBTITLE:
~  ~
Written by BlueCat


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//[Body]
180623

 書きたいことがたくさんある。
 たくさんありすぎて、何から書いていいかわからない。
 しかも、書いているうちにどうでもよくなってしまうこともしばしばだ。
(もちろんそれは散漫になりがちな僕の思考回路のせいでもあるのだけれど)

 でも、言葉にすることは本当にむつかしい。
 どうして皆、簡単に言葉を使って、自分の思っていることのほとんど、あるいはすべてを表現しているのか(あるいはそういう気持ちになれるのか)僕には分からない。

>>>

 僕の知る多くの人間は、あまりに容易く言葉を使う。
 あまり深く考えている様子もなく、伝わる言葉の意味に奥行きもさほどない。
 もちろん「昨日、トイレの電気を消し忘れたでしょう? それより、そろそろゴミ袋がなくなるから会社の帰りに買ってきて」というような一方通行のやりとりに、人生の深奥に至るような秩序であるとか、曇天に差し込む一条の陽射しのようなきらめきを求めても仕方がない。

 中には熟考しているのか、そもそも何も考えていないのか、ほとんど無口な人もいる(僕は後者に該当する)し、はっとするようなレトリックを使ったり、シンプルな言葉にしたたかな優しさを感じさせる人もいることはいる。
 でも、そんなことは稀で、段ボールを再生してできあがったトイレットペーパーのように、軽く流されて人畜無害に分解されて益体もなく霧散する言葉がほとんどだ。
 なかには芳香剤のような鼻につく臭いを残すモノもあるけれど、あれなどはいったい誰が得をするのだろう。

 幸いなことに、僕は自分の所有する日常のほとんどすべてを自分でコントロールできるようにしているし、おかげで(たとえ恋人が多くても)友人は少ないわけであり、僕自身はその方が落ち着く。

>>>

 ということで今、書きたいことを羅列してみよう。

○ギターの音が変わってきた。
 ほとんど毎日「君じゃなきゃダメみたい」を弾いている。
 多いときは一日8時間以上弾いている。
 進歩は遅いが、Aメロまでは何とか弾けるようになってきた。(サビがあって、2番のAメロは1番と違って、間奏があって、とまぁ、先が長いには長い)
 左指の表皮が変わってきたのもあるが、右手の親指、人差し指、中指だけ爪を伸ばすことにした。
 おかげでタイピングは非常にしづらくなったが、ギターを弾くときにさまざまな表情を出せるようになった、という話。

○性的自我に関する考察。
 LGBTに関連したニュースなどを見るたびに(なんでそんなこと主張するんだろう)と思って違和感を感じるワタクシです。
 性的自意識というのは、べつに他人の認識や評価によって固定するモノではないのだから、自分が「私は男だ」「私は女だ」と思うならそう思えばいいのであって、周囲に同意を強く求めないと自己認識が崩壊するならそういう自己認識はいちど壊した方がいいんじゃないの? なんて思ってしまったりするわけです。
 法的に、戸籍的に、男であろうが女であろうが、まず最初にあなたはあなただろう。あなたが自分を規定することができるならば、他人の規定は意味を為さないだろうし、社会にいちいち自分のアイデンティティを標榜するなよ恥ずかしい、俺なんか猫なのにほとんど誰にも認識されてないんだぜ標榜なんてしても理解されないし恥ずかしいからしないんだぜなんて思ってしまうのです。
 まぁ半分は冗談にしても。
 そんなこんなで僕自身の性的自我について考えてみたところ、どうやら僕には性的自我というものがほとんど存在しないことに気が付いた昨今。
 そっか、性的自我という業を背負ったみんなは辛いわけなのだ、と理解した話。

○けものフレンズの話。
 上記の性的自我に関連したスピンオフ。
 性的自我を持たないせいで、いろいろな誤解を受けることもあるわけだけれど(そして僕はそういうのは一切気にしないけれど)性的自我がある場合とない場合で、けものフレンズのような「登場キャラに性差がない」物語の意味合いについて書いておきながら、最後は大石昌良さんの音楽が素敵であることを訴えるだけ訴えてどうでもいい終わりにしたい。

○大石昌良さんの音楽について。
 けものフレンズの話からさらに脱線して、大石昌良さんの音楽をただただ紹介して愛でる企画。
 ピエロを演奏しているときの、ほんとうに楽しそうな様子であるとか、(けものフレンズの曲を覚えようとしていたはずが)「君じゃなきゃダメみたい」はイントロからとんでもなく初見殺しであるのと同時に、覚え始めると指と耳がひどく気持ちよいこととか、「ファイヤー」のような演奏のトリッキィさについて書くだけ書いて「多田くんは恋をしない」の主題歌「オトモダチフィルム」に至ってやっと歌詞が素晴らしいと思えるようになったという感想に到達してさらっと終わる予定。

○リアリストは自称をしない(シリーズ)。
 リアリストの多くはどういうわけか拝金主義的になりがちである。そこにしかリアルはないのか。
 しかし人間は根源的な哲学的命題として自分の主観を通してしか「現実」を定義できない。
 量子論的にもこの世界がヴァーチャルであるという説があるくらいで(まぁ、それはいくらなんでも極端にせよ)。
 すなわちリアリストの見ている現実がどのくらい「現実」なのか、その定義はどんなであり、どのくらい確固としているのか。
 主観の中に存在する客観性が、どのくらい確かな客観性なのか。そもそも主観の中で観察される客体とは、どのくらい主観に依存しないものなのか。
 という、読む人をして「うわぁ、青猫ワールドが濃ゆいからブラウザバックしよう」と思わせる記述を並べたあとに「自称リアリストの拝金主義」と「自称リアリストのゲーム嫌い(VR嫌い)」「自称リアリストの主観的快楽主義とその自画自賛」について解説し、リアリストも結局は主観の中に存在するヴァーチャルな価値観に踊らされているのではないかという現実に深くメスを入れようと考えただけで実際にはメスも入れなければかすりもしないかもしれないシリーズ。
 ちなみにリアリストは「自称○○」という自己表現をしない(ように観察される)。
 ヴァーチャルを認める人は自分がヴァーチャルを感覚しているという謙虚さがあるから。
 ちなみに僕は自称ねこです。ねこはいます。

○HSPとnotHSPの境界線。
 最近HSPを標榜する人をWeb上で見ることがあった。
 分類的には僕もHSPになるだろうとは思う。
 基本的にHSPとは(先天性)身体的特性と、(後天性)認識パターン特性があるように思える。
 HSPに該当する人は割合的にそんなに過小なわけではなく、血液型のような単なる個性でしかないように観察される。
 だとしたら「私、血液がO型なの!」みたいな、過剰な自意識表現ははずかしいのではないか、という個人的な感想を含めつつ、HSPとそうでない人の境界線を探り「そんな境界線なんかねーよ!」という結論を導くまでがテンプレのおふざけ文書。

○煙草の火はいつか消えるか。
 昨今の電子煙草の浸透以前から、ライターメイカは縮小の一途を辿っている。
 こだわりもなく使い捨てられるライターの数々。ボタンひとつで煙的な蒸気を発生させる電子煙草。
 一時期流行したオイルライターさえ見かけることは少なくなったし、質のよい高額なガスライターを見かける機会は減った。
 煙草だけでなくアルコールさえも「大人のもの」「男のもの」というイメージやステータスは遠い昔に崩壊し「自制できない人のもの」「健康を損なうリスクを持つ忌まわしいもの」としての地位を確立しつつある。
 ということについて、ぼんやり考えたもの。
 じゃあ「健康的なもの」はさぞや人類の輝かしい未来に帰依するんだろうなぁ、という皮肉を込めて。
 あ、あと部長にシガーを教えたい。

○それでも僕は食べたくない。
 一日三食健康法みたいな既成概念に毒された人たちの手で僕がどれほど困惑しているかについてはたびたび書いている。
 そもそもその既成概念はどこからやってきて、なぜそうまで彼らがそれに毒されているのかに関する考察。
 そして僕がどうして一日一食の生活を送るようになったのか、子どもの頃のことから振り返って綴る、僕以外の人間にとってはどうでもいいような僕の身体の特性に関する現時点でのまとめ。

○シアワセってなんだっけ?
 ぽん酢しょうゆなんてものを買いもしなければ持ちもしない僕のような人間が、現時点で振り返る人間(あるいは猫)のシアワセについて。

○AIは人間を超えるか。
 まぁもちろん超えるわけだけれど、人間のコミュニケーションをする相手として設計されたヴァーチャルな人格に対して、人間がどのような反応を示し、また最終的にはどのような共生社会が生まれるかについて、ぼんやりと考えるもの。
 人間の人間性とはどのように定義されるか。
 また人間社会というのがどういった要件によって満たされ、その要件の中で人間がどのようなカタチを持っているべきであったかを鋭くえぐって見せるフリをして曖昧に逃げ、人工知能から発展した知能が動物的な不確定性をどのように乱数化してシミュレートすればより「人間らしく」なるかなどを考えつつ、猫の居場所について考察したい。

○Doki Doki Literature Club! とその取り巻きが素晴らしいことについて。
 主観と客観やリアリスト問題(笑)に関連した項目。
 ちなみにプレイするなら、Web上の一切の情報を得る前にプレイすべき。

>>>

 だいたいこのくらいか。なんだ少ないじゃないか。








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~ Junction Box ~
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TITLE:
条件分岐を持たない狂気。
SUBTITLE:
~ See a condition. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

様(を)見ろ【ざまをみろ】
人の失敗不運に対して,心中愉快だと思いながら発するののしりの言葉。それ見たことか。

>>>

 電話の向こうの弟子の声は、ひどく落胆している様子ではあった。
 けれども、以前、恋人にフラれたときほどひどいものではなかったから、今回もせせら笑ってやった。

 どうも話しにくそうにしているので、しばらくバカ話をしていたら、ようやく核心を話す気になったらしい。
 なんでも学生時代からの友人に、自分の信仰の話をしたら(別にその宗教に勧誘したとかではないらしい。まぁ、したとしたらもっと面白いと思うが)それ以来、電話を掛けても出なくなってしまったらしい。

 ふたたびせせら笑ってやった。

>>>

 かつて彼をフった恋人はといえば、彼が生まれつきの骨格による障害で長期の休職をせざるを得なくなったときに(つまりは彼が精神的にも肉体的にも社会的にも辛い状況になったときに)「あなたのような人とは結婚できそうにないから別れる(実際にはもっと、それらしくて長たらしい説明や理由付けがあったらしいが、聞いた範囲で私がショートに説明するとそうなる)」と言われたそうな。

 あのときも私はさんざ嗤ってやったことよ。
 愉快で仕方なかった。
 滑稽で仕方なかった。
 もしかしたら、実際に電話口で、嗤いながら言ってやったかもしれない。
「ざまあみろ」
 と。

>>>

 僕は信心なんてこれっぽっちもない人間で、悪魔に魂を売るくらいは平気でする一方、猫の神様(という独自の信仰があってだな)を崇め奉っている。なんなら自分が司祭だといってもいいかもしれない。
 友達や知り合いに誘われて、宗教施設(やれ教会だのなんだのといわれる、べらぼうに広大な敷地とやけにお金のかかった巨大な建物がだいたい共通している)に面白半分で行くこともある。
 施設内は、清潔で静謐なことが多い。
 少なくともパチンコ屋だとか、風俗店なんかよりはよほどもまともな場所だと思う。
 お金を取られることもまずない。
 エライヒトの説法も、面白いことだってある。
 注意深く耳を傾ければ、なかなか良いことを言っていることだってある。

 誘われれば、しばらくの長期にわたってその「教え」とやらに付き合ってやることもある。
 あまり時間を浪費させるような連中はまっぴらごめんだけれど(生きるために宗教があるならそれは「まっとう」だけれど、宗教のために生きることを強要するようなのは奴隷制と変わらないから)、そういうのだって「そういうやり方に付き合わされるのはまっぴらごめんだ」と言ってやれば、だいたい皆おとなしくなるものだ。

 なぜそんなことをするのかといえば、私はそれでも何かを知りたいからだ。
 敬遠しているものごとの中に、もしかしたら思いも寄らないカタチで、自分の求めている究極的な答えがあるかもしれない。
 あるいはそういうものに対しての姿勢を、誰かの背中から知る事ができるかもしれない。
(もっとも、今までのところを有り体にいえば、ろくでもない姿勢以外というのは、あまり見ていない。まぁどの宗教がどうだ、ということを具体的に言うには、僕は自身があまりにも軽薄だから言わない)

 宗教なんぞにどれだけ脚を突っ込んでも、僕は自分が変わらないことを知っている。
 なぜといって僕には猫の神様がいるから。
 猫の神様が僕の中にいて、僕は猫の神様を信じる自分を信じているから。
 あるいは他の何かを信じてもよいし、いっそ猫の神様を捨てる自由さえあるわけだけれど、それでも僕に何を求めることもしない猫の神様(信仰心すら必要ない)を崇拝しようと勝手に決めているからである。
 つまり僕には最初から、猫の神様さえいない。
 だから自覚的に、僕は自分が変わらないことを知っているし、他の人間だって同じように変わらないことを知っている。

 じゃあどうして宗教に人々が惹かれるかといえば、いろんな側面があるとは思うが、先に僕が述べたように、何か学べるものがあるからだろう。
 教えてもらうのではなくて、学ぶことができるのなら、好きな場所で好きに学べばいいと思う。
 だから信仰を持つ人を僕は毛嫌いしない。
 ときには科学だってひとつの信仰のように思えることがあるし、この国では経済が相当に宗教じみているし、恋愛を崇拝する人もいる。
 一時(バブル経済の頃)は生命倫理がそのまま宗教じみていたこともあったが、今はどうだ。
 経済という宗教の力が医療という宗教の力と結びつき「すぎていて」自分を助けてくれないから、皆が皆、自らの命さえほどほどにしてこの世を去りたいと願っている。
(おおむね年寄りはそう言っているし、僕もその意見には賛同する)

 彼らには信仰もなかったし、崇拝を理解する知恵さえなかったから、自分が何を信じているかすら正しくは理解していなかった。
 だから信じる対象を彼らは容易く見失って、路頭に迷う。
 投資詐欺の被害ににだって喜び勇んで飛び込むし、医療が自分を救うだなんて本気で信じている。

 ワケの分からない潔癖症で宗教の免疫がないから、おかしなものを信じる人もかなりいるように観察される。
 科学(あるいは「科学的」というもの)が何であるかを知らない人たちは、自分たちの健康も医療行為でアウトソーシングする。
 経済に取り憑かれた亡者たちは経済活動さえアウトソーシングする。しないではいられない。もはや狂気的である。
 そこの主体に「自分」があたかもいるような顔をしているが、実のところ、中身は空洞でぺらっぺらの金メッキが表面上輝いているだけに感じられる人は少なくない。
(余談になるが僕はお金が悪いと言うつもりもないし、それを憎むつもりもない。お金はただのお金でしかない。ただしお金に使われる者は死者も同然だと言っている)

>>>

 さて。
 私がなぜ、何をせせら嗤ったか。
 もうお分かりだろう。

 弟子のことを見ず、彼の周辺情報だけで彼を判断するような人間は、友達でも何でもない、ただの知り合い以下なのだ。
 弟子の、あるいは彼と一緒に歩むことそのものの幸せではなく、結婚というステータスとそこにまつわる経済活動にしか幸せを見いだせなかった女など、とっとと別れて正解なワケだから、フられて正解なのだ。

 まさにちょうラッキー。
 彼は僕と違って真面目だし、アタマもいいし、相当な努力家だし、すごく真剣に彼女の幸せについて考えていて、その中のひとつのありようとして結婚を考えていた。
 顔だって悪くない。学歴だって僕よりは高学歴だ。以前より条件のいい(そして何より彼自身が楽しめる)仕事にも復職した。
(それなのに彼が僕の弟子なのにはワケがあるのだが、それは今回の話には関係がないからしない)

 彼は、お金に使われるような人間ではないし、結婚というステータスに支配されるような愚図でもないし、宗教や信仰に自分をコントロールされるような弱い人間などでもない。

 私は電話口で嗤ったことだ。
 口汚く罵ってやりたい気持ちをぐっとこらえて、高らかに嗤ってやった。

「愚図どもは毎回オマエの価値が分からずに立ち去ってゆくんだ。オマエを何かに利用できると無意識に考えているようなクズが身の回りからまた1人いなくなることを喜べ」と。

 宗教を毛嫌いして信仰する人を差別視する人間は、反宗教という信仰を無自覚に(そしてちょう熱烈に信奉)することで、支配されている。
 結婚や経済というステータスに目がくらんで相手(という人間)を見ない女は、結局いつか相手を見限るし、いつまでも自分自身を傷つけ続ける。

 彼ら彼女たちは自分を知らない。自分がしていることも、自分が支配されていることも知らない。
 だから相対的に、他者が何かに支配されていることを毛嫌いする。
 極めて平和で愚かな生ける死者たちだ。

 己も知らず、ゆえに他者への寛容もない彼らを、僕は嗤ったのだ。

>>>

 できることなら彼ら/彼女たちがいつか、己の生きる道と己の生命を、正しく発見できることを(僕の場合は猫の神様に)祈る。
 もう方向転換ができる年齢ではないかもしれないし、老い先が長いわけではないかもしれないし、選択肢も(自ら潰しているせいで)さほど多くはないかもしれないけれど。








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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
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[Cat-Ego-Lies]





//EOF


灯りを消そう

あなたが眠るまで

私が起きるまで

灯りを消そう

あなたが眠っても

私が起きるまで



灯りを消せばあなたは消える。
灯りを消したわたしはのこる。



灯りを消そう

あなたが眠るまで

灯りを消そう

あなたが眠っても

灯りを消そう

私が起きてから

灯りを消そう

私が眠るまで



明かりに固執してあなたは
暗闇にとけこんでわたしは



灯りを消すから

あなたは眠るといい

灯りを消すから

みんな眠るといい

灯りを消すから

何も残らない

闇を見通せないあなたには

もうなにも見えない

あなたには

もうなにも見えない




 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180526
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
君だけじゃダメみたい。
SUBTITLE:
~ Then only us. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Cautionary Notices Division *<< //
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 この文書はセックスや暴力、虐待、自己否定感についての記述があります。

 精神的ストレス耐性の低い方が読むことで、強い不快感や嫌悪感、不安、恐怖、孤独や絶望を発生させる恐れがあります。
 精神的外傷やそれに類する精神的圧迫感があり、それが完全に治癒していない場合や対処法を身に付けていない場合、また現時点で不安や孤独感を感じている方などは読み進めないことをおすすめします。
 途中で、冷静な気分を保てなくなった場合は、どうかただちにこのページを閉じて、自分の心を休めることに注力してください。
 あたたかいココアでも飲みながら、猫の画像とかをWebで拾って眺めると良いのです。

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//[Body]
 4日間ほど自己嫌悪していて、しばらく口がきけなかった。
 もとより僕は自己嫌悪や自己憐憫というのをほとんどしない。
(初めて猫を殺したときに自己嫌悪をした気もするけれど、記憶が遠くて思い出せない。)

 それらはナルシシズムだからほとんど何の役にも立たないし、他者の害になることはあっても利になることはまずないと思っている。
 しかもナルシシズムの中でも格別醜悪なのがそのふたつだと認識している。
 自分の肉体美に酔っているくらいの方がまだ健全だ。
 とにかく自己嫌悪と自己憐憫はいずれもナルシシズムの一形態ではあるが、本来的な「自分好き」とはほど遠い。
 だから、自己嫌悪した(あるいはしかけた)自分に対して僕はひどく驚いて、自己嫌悪する自分に自己嫌悪しそうになった。
 自己嫌悪無限ループ。
 まさにナルシシズムの極致。
 いやだよそんなの!

 たしかに僕は「自分好き」である部分も含めて自分を好きだけれど(そしてときどき他者からナルシストだと言われるけれど)実のところナルシシズムは好きではない。
 だってそれはただの陶酔だから。
 酔っ払いの錯覚だから。
 湾曲認識だから。
 曲解であって思い込みであって現実逃避だから。

>>>

 モテというのは技術だ。
 だからそれは才能や体質や生い立ちや性別や学歴に関係なく身に付けることができる。
 老若男女は関係ない。
 若い人には若い人の魅力があり、老いた人には老いた人の魅力がある。男には男の、女には女の魅力がある。
 美しい外見には美しい外見の、醜い外見には醜い外見の魅力が(たとえ本人が無自覚であったり否定的であったとしても)存在する。(そもそも美醜はどこまでも個人的な感覚だ)
 身に付いた技術は磨くこともできる。
 基礎を覚えて応用を編み出すこともできる。
 先端の何かを取り込むこともできる。

 でも、僕は忘れていた。

 技術は、すべて諸刃の剣だ。
 たとえばナイフは果物の皮をむくこともできるし、人を刺し殺すこともできる。
 たとえば車で遠くに行くこともできるし、人を轢き殺すこともできる。
 重機で建物を作ることもできるし、人を圧殺すこともできる。
 火薬で花火を作ることもできるし、爆弾を作ることもできる。
 塩でも砂糖でもアイスピックでも玉ねぎでも。
 はたまた靴ひもだろうと蜂蜜だろうと食器洗い洗剤だろうとチョコレートだろうとなんだろうと、それで何かを殺すことができる。
 つまりは使い方次第で。

 使い方を間違えてはいけないのだ。
 でも僕は間違えたのだ。
(アライさんではないのだ)

>>>

 気が付くと僕は自分がヤリチン(下品な表現で申し訳ないが、蔑称として考えればやむなしと認識した)である(あった)ことに気が付いた。
 もちろん恋愛感情というのは、双方向性がなければ(片思いになってしまって)成り立たない。
 だから相手も僕に何かを求めてこそ成り立つのではある。
 当然、僕も相手を求めた。その半分は立証実験として。

 そして理屈が立証され再現性を確認するうちに、僕は自分がモテなのだと錯覚した。
 ヤリチンになって、ナルシシズムの領域に踏み込んで、自分の陶酔のために相手を利用した。
 少なくともそういう側面は否定できずに存在した。

 モテというのは定量化できない。
 様々な知識や技術や能力や性格や弱点や劣等感や外見、意識や感情や認識の傾向。
(「劣等感」は一般に認識されている「コンプレックス」という名詞で呼んでもいいのだけれど、本来の言葉の意味とは異なる日本特有の方言であり、厳密な「劣等コンプレックス」の表記は長たらしいのでいずれも僕はなるべく使わないようにしている)
 そうしたものから複合的にできあがっていて、なおかつテストの点数のように0〜100までが直線的に並んでいるわけではない。
 受け取る側との相性で、まったく同じ特徴が利点になることも欠点になることもある。
 だから恋人の数が多いからといって、それが男として(あるいは女として)優れていることにも魅力的であることにもならない。
 技術的観察対象が多いことはサンプリングとしては優位だけれど、逆にいえば相手と自分の関係をサンプルにしているということになる。
 ある意味、相手に失礼な行為だ。

 なにしろナルシシズムは(ごまかしたり、他者をエサにする点で)褒められたものではない。
 それに他人を自分の道具にすることは(お互いの了解の上で「遊び」としてするのでないかぎり)たとえ相手がそれを望んでいるとしてもあまり良いことではない。
(なぜならその望みもまたナルシシズムに起因しているから)

>>>

 ナルシシズムが嫌われるのは、自分自身を好きだから、ではない。
 まわりの人から愛されている自分好きの人なんてごまんといる。
 それどころか、むしろちゃんと自分のことを好きな人でなければまともに誰かに好かれることはできない。

 ナルシシズムが本能的嫌悪を誘うのは、自分自身が不在な人間が、自己不在であるはずの自分に陶酔しているからだ。
 先ほどの自己嫌悪はどうだろう。
 客観的に自分を見つめて、もしも嫌悪すべき行動や思考、思想があったなら。
 単純に、今から改めればいい。
 死んでいるわけではないなら今日があって明日がある。
 今から変えれば未来は違うものになる。

 でも、どうしてもその行動や思考や思想を改められない人もいる。
 そういう人たちは、自分の行動や考えを憎みながら、それをすることをやめられない。
 やめてしまうと、その行動や考えの対象を憎むことができなくなるから。
 自分自身のアイデンティティがその憎しみに紐づけられているから、やめるわけにはいかない。
 すくなくとも本人は、そう感じている。心の奥底から。

 たとえば虐待癖(DVといえば分かりやすいか)などもそうだろう。
 虐待している間、その人はその人の正義の感情で煮えたぎっている。
 だから(好きであるという甘い糖衣に包まれた)憎むべき対象や状況があれば、それを正義という名目の怒りの矛先にする。
 どんなにそのあと自己嫌悪をしたとしても、その大元である行動や考えが本来的に独善的であり、その根源にある憎しみを手放して、たとえば無関心になったり、あるいは「本当の意味で愛する」ことができなければそのループは続く。

 自分がこんなに怒るのは、相手が悪いから、と思っているから。
 そうすると自分は簡単に正義になるし、その怒りを相手に発散することは正当な行為に思える。
 でもどうだろう。

 実際のところ、ほとんどの人間は、自分が怒りたいから怒っているだけだ。
 なぜなら、同じ傾向の感情の発露は他にもあるから。
 一般的なのは悲しみだろう。
 怒れない人は悲しんで涙を流す。悲しむことさえできない人は笑う。笑うこともできない人は無表情。
 必ずしも、その憎むべき状況や対象や感情に対して、怒る必要があるわけではない。
 選択された怒りだ。選択しているのは自分だ。

>>>

 ではなぜ「怒りを選択して」しまうのか。
 単純に憎しみの感情に起因していて、憎しみが支配欲にも紐付いて暴力的に発露するからだろう。
 自分に対象を支配するだけの力があると思っている人は、怒る。
 自分に対象を支配する力がないと思っている人は、悲しむ。
 そんなふうに思える。
 
 ビジネスシーンでもプライベートでもいい。
 人が個人的に理不尽を感じる(個人的でない理不尽感なんて、きっとない)とき、人は対象にある人を憎むのだ。
 自分の思う理屈で動かない子どもであるとか、自分の理想から離れようとする恋人だとか、自分の知っているカタチの敬意を示さない人間であるとかを。
 支配して思い通りにしたいという欲望を憎しみで包んで。
 その憎しみは、自分を見つめるいい機会ではあるのだけれど、多くの大人はそんなことはしない。
 自分の中の道理に従って(相手の道理を理解しようとすることなどまずなく)相手を断罪する。

 そりゃそうだ。自分の道理に反するものなんて、考えるのも煩わしい。
 自分の考える正義の真逆の正義なんて、理解したら自分の正義の根拠が崩れかねない。
 正しいのは自分だ。
 間違っているのは相手だ。
 だから、自分は、相手を裁く権利がある。裁かなくてはいけない。罰を与えなくてはいけない。その力が自分にはある。
 さあ怒ろう。怒鳴ろう。相手をねじ伏せよう。蹂躙して、正義のなんたるかを思い知らせてやろう。

>>>

 ……。
 いったいどこに「自分」がいるのだろう。
 相手がいて、相手に対する(正確には相手にこちらが投影している)憎しみがあって、憎しみに対して攻撃するための正義があって。
 仮に自分に属しているものがあるとするならば、その憎しみや怒りがそれなのだ。

 自分の環境や周囲の人間の中に憎むべきなにかを見つけて、それを攻撃して快楽を得たいだけではないか。
 憎しみの根源が自分で見つけられないから、それを許すことができないだけではないか。
 その根源が自分の中にあるから、それを見つめるのができないだけではないか。

 自己嫌悪も同様で、その憎しみの根源は、目に見えているものよりもずっと深くにある。
 自分の言動や情動の、そのまた奥に、自分の望みがあって、絶望があって、それでも渇望して。だから断ち切れなくて。
 自分を見ない自己嫌悪は、だからどんなに深く落ち込んでいるように思えても、単純な陶酔にすぎない。
 自分の行いや過去の情景とそこに付随した感情に酔っているだけだ。
 そこよりずっと深くに眠っている自分を見ないから、同じことを繰り返す。

 人は、憎悪する対象を、渇望する。どこまでも、その憎しみを手放したくない。
 その渇きは憎しみであると同時に、愛されたいという欲求でもあるから。
 愛して欲しくて憎んでいるのだ。
 憎しみが愛(されること)の代償行為になっていて、スライドされた感情になお執着している。
 ああ、おぞましい。

 よって自己嫌悪をする自分に自己嫌悪するなんて、もってのほかの愚行だということもおわかりいただけるだろう。
 そこには嫌悪の感情があるのに、僕は自己嫌悪する自分さえ見ていない。
 自己嫌悪する自分に対する嫌悪感に酔っているだけだ。

 自分を嫌悪する自分が愛しいとか、そんな自分を誰かから愛されたい(慰められたい)とかいうレベルではない。
 自己嫌悪の根源にある憎悪の対象(今回の僕の場合を具体的にいうと「他者を介在しなければ成り立たない性愛を通して、自分の価値が相対的に高いと錯覚し、にもかかわらず他者の人格を無視して道具化している」こと)とその根源にある欲求(「自分は他の人よりも優れている」あるいは「誰かから愛されている」「愛されるに値する」と自己認識したい。さらにいえば他者から評価されたい)という甘くて辛くて苦くてどす黒い、とにかくひどい味とにおいのする工業用アルコールのようなものだ。

 相手もいない。
 自分もいない。
 そんな宇宙空間のような宙ぶらりんの世界で、他人の存在そのものを道具に仕立て上げて、自分の欲望(性欲ではなくてもっと根源的な欲求)を投影して、満足している世界。

 そこには相手はもちろん、自分自身も存在しない。
 それほどまでに自分が好きかといわれると、実のところ、僕は自分の真ん中なんてこれっぽっちもない、空虚な人間なのだし、それも含めて僕自身を好きではある。大好きではある。愛してはいる。
 でも僕には自認する自分の性別さえない。
 それでも僕の自我は、僕という肉体と僕という思考回路にのみ存在して、その外にはどうやっても出られないから、これを愛するしかない。
 この自我がここにあるがゆえに。

>>>

 仮に僕がからっぽでなかったとしても、あるいはからっぽでなければなおさら、僕は自我に負わされた潜在的な穴をふさぐために、自分を愛する必要がある。
 ただ問題は、自己愛は、自分の手だけで完結していなければならないことだ。
 自己完結しているなんて、自慰行為だと嗤う人もいるかもしれない。

 でも、他人がいないと完結しない自己愛は、他者に依存しなければ成り立たない自己愛だ。
 それは愛ではなくて執着になるし、執着は軸がずれれば憎悪になる。

 誰もいなくても。
 何があっても、何もなくても。
 無条件で自分を愛しているほうが、条件付きで愛しているよりも健全だ。
 それはなにも、自分だけではなくて、他者に対してだって同じなのだ。

 僕は実験の途中で、おかしな条件を自分に課してしまった。
 最初は冗談だったかもしれない。あるいは他者の言葉だっただろうか。
 でも、最終的にはその条件を自分で信じてしまった。
 誰の言葉であったかなんて関係はない。
 自分が何を信じたかだ。

>>>

 僕が人間不信になったのは。
 自分以外の誰かを信じられなくなったのではない。
 自分以外のすべての人間を信じられなくなったのではない。

 僕が自分を信じられなくなったのだ。

 そして僕からは猫がいなくなった。

 さよなら。猫のいた私。

>>>

 そして僕は条件付きで(自分に)愛されている(あるいはそう思いこんでいる)自分と、その条件に気が付いて、そんな益体もないものを信じることをやめた。

 他人から突きつけられた条件だったのかもしれないし、自分から設定した条件だったのかもしれない。
 あえて今回は僕がヤリチンであったことを槍玉に挙げているが、実際は、それだけではないかもしれないし、そもそも違う何かを別のフィクションで隠蔽しているかもしれない。
 僕がオープンなWeb上で、そこまでプライベートをさらけ出しているとは限らないし、あるいは純然と吐露しているかもしれない。

 大事なことは、人には愛されたいという欲求がどうやらあって、それがこじれるとけっこう簡単に憎しみに変わるということ。
 そして愛されたいという欲求は、愛することでしか満たされないという、すごくシンプルなことを僕が思い出したということ。

>>>

 不思議なのだけれど(そして案外、信じてくれる人がときどきいてくれるのだけれど)僕の中にはほんとうに猫がいる。
 あるいはそんな気がすることがある。

 僕の中に猫がいるとき、僕は寂しさや恐怖や不安に過剰に反応しなくて済むようになる。
 孤独を感じないし、なかなか楽しいし、いろいろな発見もある。

 誰がそばにいても、猫(ここでは「僕の中の猫」を指している)がいないときの僕は、本当に不安定で、なにもかもが恐ろしくて、歪んでいて、憎かった。
 だから僕は最初、その誰かが不安定で、恐ろしくて、歪んでいるのだと思ってそれを憎んだ。
 やがて僕は、自分が不安定で、恐ろしいもので、歪んでいて、憎むべきものなのかと思った。

 でもそうじゃない。
 もちろん不安定な人間はいるし、歪んでいる人はいるし、恐ろしい人もいるし、憎むべきものもある。
 でもそういうものには、用心して近づいて、サンプリングしたら離れるべきなのだ。
 不快だったらすぐに離れるべきなのだ。

 ついついその穴を探りたくなることもあるかもしれないけれど。
 穴は他者に開いているのではなくて、自分の中にあるのだ。
 好奇心は結構だけれど、執着してはいけないし、なにより他者を道具にしてはいけない。

>>>

 自己嫌悪してしばらくして、答えが見つかって。
 猫が戻ってきた。

 僕が猫なのか、猫が僕なのか。
 やはり僕には分からない。

 さようなら。
 私のいない猫。

 こんにちは。
 猫と私。








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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180501
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
液体のようにいれたらいいのに。
SUBTITLE:
~ Like a liquid for my heart. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180501

 ここ数ヶ月、叔母からの電話を無視している。
 単純に面倒だからであり、労力に見合っただけの精神的なヨロコビがない。
 僕自身は基本方針として、精神的なヨロコビのために自分のありとあらゆるリソースを消費することにしている。

 もちろん、苦痛だけれどもしなくてはならない、ということもある。
 たとえばいくつかの役所での手続きであるとかがそれである。
 でも、それ自体も楽しみ方はいくらでもある。

 叔母との関係は、どうも楽しめない。
 感謝されないから、というわけではない。
 叔母は、僕の労をねぎらってくれるし、感謝の言葉も掛けてくれる。
 経費が掛かった場合、それを請求すれば支払ってもくれるだろう。
 いちばんの問題は他人を思うように動かそうという無駄な煩悩が強いこと。
 二番目はひとこと余計に言ってしまう愚かさ。

>>>

 他人を支配したがる人間の多くは、どういうわけか自分でやらない。
 自分でした方が早くて正確で楽しくて心地よいものが手に入るのに、どういうわけかそれをしない。
 彼ら(彼女たち)が手に入れたいのは「誰かをして私にさせた」ということも込みにした結果なのだろう。

 僕にはにわかに信じがたいのだけれど。

 たとえば僕が恋人に「コーヒーを淹れてくれ」と頼んだとする。(今までの人生にもなかったし、この先もまずありえない依頼だが、ここは設定なのであきらめよう)
 100%僕の気持ちを満たしてくれるコーヒーが出てくることはない。
 僕が恋人にポトフを作ってくれと頼もうが、僕のWeb文書のタグ付けを頼もうが、100円ショップでの買い物を頼もうが、どれもこれも100%気持ちを満たす結果は得られない。
「買い物もか!」と驚く人もいるかもしれないが、自分以外の誰かに買い物を頼むのは、存外気を揉む。
 ちゃんとたどり着けただろうか、目的のものは見つかっただろうか、途中で事故や事件に遭ったりしていないだろうか、お財布はちゃんと持っただろうか、体調が悪くなったりしていないだろうか、といった具合に。
 待っているぶん、その時間がつらいのだから、一緒に出かけるか、独りで出かけることになる。
 最善は恋人が来る前に自分で済ませておくことである。

 単純に、業務上の仕事であれば、僕より早くて正確で最適な出力ができる人を僕は少なからず知っている。
(もっとも今の職場はきわめて特殊な環境なので、同僚が一人もいないが)
 けれどもプライベートだと、僕にとって最適な出力を僕以上にできる人間がいるとは、経験上とうてい思えない。
 ストライクゾーンが狭いことは認める。広くとることは容易で、極めて有効な手段だ。他人に任せる場合は。
 でも、他人がしてくれることに満足することと己の満足を追求することは異なることで、ために合致することは少ない、と僕は感じる。

>>>

 叔母を個人的に嫌う理由はたいしてない。
 もうじき(少なくとも僕よりは先に)死ぬ人だし、害もない。
 両親のいない僕のことを少なからず気に掛けてくれていることも知っている。
 ただ、介護に関連したこの数年間で、少々お互い踏み込みすぎたのが実際のところだろう。

 正直なところ、僕は誰かと一緒に暮らすということができないのではないかとさえ思う。
 べつに叔母の作った料理や、出すお茶、洗濯の仕上がりや洗濯機の使用方法に苦言を呈したことはない。

 他人に自分の満足を求める行為の愚かさ(あるいは確率の低さ)を僕は知っているつもりだ。
 だから不満であることが当然であって、他人が自分のために何かしてくれること自体、その時点で嬉しいことではあるのだ。

 ここまでの論調でいくと、僕は他人を「僕よりも無能で役に立たなくて、繊細にして博識なる僕に満足をもたらすことなどできない」と言っているように思えるかもしれない。
 実際その通りなのだけれど、だからといって僕は彼ら(あるいは彼女たち)を馬鹿にしているわけではないし、僕の方が優れていると思っているわけでもない。
 単純に「僕という個人を満足させる」という目的そのものがあまりにも複雑であるために、その目的を果たすことにおいて他者にはそれがむつかしい、という当たり前のことを言っているだけである。

>>>

 しかし叔母は、私を支配したがる。
 私の家系の血を引いているから、やれ煙草を吸うな酒を飲むなと、まるで中高生のように言われる。
 害になるのは十分に承知していて、僕は僕の死生観に基づいて寿命を浪費しているのだから、そこはそっとしておいてほしい。
 ただでさえ、僕は基本的に、世間から隠れて飲酒喫煙をしているのだから。
 買い物を頼まれて買ったとしても、ものに対する基準が異なるらしく(こんな高いものは不要だ)などと陰に罵られる(残念なことに、人との接触をなるべく控えている僕の耳にも入ってしまう)。
 こういう、他人の時間を自分の時間と勘違いしている人間というのが、どうしても苦手なのである。

 僕はモテのわりに(自分で言うか)人を誘って遊びに出かけたり、デートに誘うことが少ない。
 それはつまり、相手のことが好きではないとか会いたくないとかではなく、安易に自分のために使いたくないのである。
 けれども(家族も含めた)他人の時間を自分の時間と履き違えるタイプの人間というのは、仮にお金にシビアであったとしても、きちんと約束の時間を守る人間だったとしても、他人のリソースにはルーズなのだ。

 人間の一生は、有限である。
 それは自分も他人も一緒だろう。

 なるべくなら、自分の持っている時間は嬉しいことや楽しいことで満たしたい、というのは誰でも同じように思っていることだろう。
 誰かが楽しんだり喜んだりするために時間を使えるのなら、それは素敵なことだと僕は思う。
(ために僕は、誰かのために買い物をしたり、料理を作ったり、掃除をしたりすることはまったくもって苦にならない。たいていの労働もそうした側面に目を向ければ驚くほど楽しい)
 ただ、僕のように自分の満足がきわめて複雑であることをきちんと認識している人は思ったより少ないし、それを提示しながら他人を使役して学習させることのできる人なんて、僕も含めてほとんどいないのだ。

 彼ら(あるいは彼女たち)は自分の過不足のために他人を使役し、それに感謝こそするけれど満足はしない。
 この「感謝こそすれど満足しない」というのは、僕のこれまで言っていることと一緒で、つまるところ他人を使役することに抵抗がない(あるいはヨロコビがある)だけに厄介だ。

 けれどもそうしたあたりまえの事実をわざわざ、自分の価値観をなかなか変えたがらない類の頑固な、なおかつ老い先の短い人に言って聞かせて納得させるものだろうか。
 僕はそうも思わない。
 僕が絶対に正しいという自信もない。

 こういう姿勢というのは、誰かに教わることもあるかもしれないが、多くは自省して身につくものではないだろうか。
 わざわざ目上の人に言わなくてはならないこと自体、そうとうに悩ましいことである。

>>>

 とまぁ、こんな感じであれこれ悩んでしまう。
 子どものいない叔母夫婦の、介護以外にも面倒なことを手伝ってしまったので、なんというか、複雑な心境であることは否めない。
 結果的に、僕は気持ちよく彼女たちに使役されることができない。
 なぜなら満足のレベルが理解できないから。
 そんなこんなを考えていると、どうにも気が重くなって、最近は自閉している。

 ひとりを無視し始めると、どうにも気が重い。
 なんとかしなくてはと思いつつ、留守録さえ聞く気にならない連休である。
 放っておけば、自閉が進んで鬱病チックになってくる。
 そういう自分の性質は心得ている。
 ひとりの電話を無視し続ければ、他の人の電話を取るのも面倒になるのだ。

>>>

 ことほどさよう、誰かを満足させることはむつかしい。
 どんなに美味しい料理を作ったとしても、たとえば人参が嫌いな人にポトフを食べさせるのがむつかしいというようなことはある。
 誰かの十全な満足を考えるとき、あるいは誰かの充分な幸福を考えるとき、だから、誰かといることの複雑さや、誰かと長く一緒に生きることの恐ろしさを思う。
 それは自分の十全な満足を考え、自分の充分な幸福を考えるのとはまったく異なることだから。

 簡単な言葉で言うと、ちょうめんどくせぇ。

 僕のような人間は、ちょっと気の利いたデザートのように、たまに誰かのテーブルに載る程度がちょうどいいのだろうと思う。
 少なくともこれまでのところ、僕のヘンタイっぷりにまともに付き合えた人間は一人しかいないわけだから。
 おおかたの人間は「あなたは何を言っているのか分からない」と言い出すのだ。たとえば叔母がそうであったように。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]




//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180425
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
そして誰もいらなくなった。
SUBTITLE:
~ And then there were no needs. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180425

 雨のち晴。

>>>

 以前、あるネットゲームで知り合って、そうこうするうちに私に恋した人に話したことがある。
「AIは、肉体労働から人間を解放するより先に、知的/知識産業を席巻するだろう。もしそうならなければ、単純に適性を超越した制御がなされていることになる」と。

 そのとき私が喩えとして言ったのは「既定の枠を持っていて、その中での大量の情報を処理する業務、たとえば司法関連なんて最適だろう」ということだった。

 ブログでも書いたことがあっただろうか。
 よく覚えていないのだけれど。

 これはコンピュータの特性を考えるとしごく自然である。
 入力され、演算し、出力する。
 このメモリとCPUさえあれば(局所的ではあるが)完結する基本動作が、コンピュータの能力である。

 現実世界で歩いたり、あるいは誰かと会話するというのは、非常に複雑な処理の上に成り立つ行為だ。
 もちろんそこにも「出力←演算←入力」のループは存在する。
 しかし情報の処理だけで済むルーチンと、それを現実世界で遅滞なく処理しうるルーチンというのは、求められるハードルの高さが異なる。

 なにせ現実世界では物体が存在し、それに対してミスなく(補正し続けて)アクセスする行為は、枠組みを超えた外力に対する処理も不可欠で、ために無制限に複雑化しうる。

 たとえば誰かと会話をしている最中に、他の誰かが割り込んできた場合。
 たとえば走っている最中に、着地した場所が柔らかく沈みこんだり、動いたりした場合。

 ところがAIがたとえば陪審員をする場合は、情報の入力とその判断だけで処理が終了する。
 情感豊かにエンターテインメントに興じるタイプの人間が(そうそういるとは思えないが仮に)いても、情感を理解せず、そこから入力される値と法を規定した(多種多様かつ複雑怪奇な)文言や(長々積み重なって検索も困難な)判例から導かれる境界条件によって論理演算ができるだろう。

>>>

 法というのは言葉とその言葉を用いることで表現される概念によって成り立っていて、一文がどんなに複雑であっても、一意的な価値にたいしての線引きが明確になされることになる。
 言葉というのは、単なる記号だけれど、記号を組み合わせることで記号そのもの以上の意味を持つ。
 たとえば「言葉」という言葉は、文字だけでなく音声なども含めた「他者に伝達可能で再現性の高い記号や信号の連なり」を意味している。
「言葉」という文字列は「言葉」という文字列(記号)でしかないが、そこに含まれる意味は、その文字列という記号を超越して(あるいは無視して)存在する、ということ。知的生命体の皆さんには当たり前ですね。

 法はそのなかで、言葉によって物や行為や概念を明確に規定し、そのありようの合否を規定し、適切あるいは不適であった場合の処遇を規定するものである。
(どうぞここに羅列された記号から、うまく意味を抽出できる人が一人くらいはいますように)

 その一部に法律があり、国家が司法機関をもって裁定をするわけではある。

 それらの法は、言葉が概念や意味という曖昧模糊としたものを含んでしまうがために人間を困惑させ、あるいは境界条件を明確にしようとするために複雑怪奇になりがちである。
 しかし複数の意味を含む場合であっても、その境界条件を明確にできる(むしろそうせざるを得ない)コンピュータの場合、どれほど言い回しが複雑になろうが(仮に(カッコ)がいくつ入れ子になろうが)判例のデータベースがどれほど大量であろうが、短時間のうちに与えられた値が「論理式における最適解の範囲内かどうか」を判定するだろう。

 人間は、情感や情状、経験則や世相に応じて、その解を採用するかどうか、また解に至る過程を解析し(あるいはさせ)条文などの解釈に変位を加えるかどうかを考えるだけで済む。

 機械が故障した原因を調べて分解修理したり、知り合いと道端で世間話をしたり、誰かに代わって買い物に出かけたり、人間に代わって自動車を走らせるより、よほど安全で簡単にそれをすることができるのである、本来は。

 でも、世の中からいきなり弁護士だとか裁判官だとか陪審員だとかをAIに替えたので不要になりましたみなさんさよーならー、とはいかない。
 なぜなら彼らも仕事だから。
 それに「機械に自分の法的合否を判定される」ことに対して、人間がそれを許せるかどうかという問題もある。

 結果として、既存の知的/知識産業においてAIが急激に浸透するよりは、より高度ではあるけれど物理的負荷の高い肉体労働に利用されるのだろう、と思っていた。

 でも、実際は未知の知的/知識産業での足場を固めつつある。
 たとえば研究開発などがそうだ。
 確かに人力よりはるかに効率が良い。

 そしてやがては人間のグローバルシミュレートも可能になって、確率的な範囲を持った大勢がどういった動向にあるときに、どのようなニーズが潜在し、どのような具現によってどんな方向性に導くことが可能か、といったモデル構築もできるだろう。

 当然、人間と付き合うよりも、AIと付き合う方が、快適で、安全で、割安で、便利で、安心、ということになる。
 少なくとも僕は、AIが友人や恋人になるとしても、まったく違和感を感じない程度には鈍感だし、人間よりもいいんじゃないかと思っている。

 あるいはそうした「AIと意思疎通ができる人間であること」は、最先端デジタル機器を使いこなす人間がそうでない人間から見ると特殊であったように、ある種の特別な能力としての(あってもなくてもどうでもいいような)地位を獲得するかもしれない。

>>>

 個人的な事情でゲームを継続してプレイできなくなったため、ゲームで知り合った彼とは疎遠になってしまった。
 もっとも、たびたびメールのやりとりをする関係ではあったのだが、私のプライベートがあまりにも多忙になってしまって(それゆえゲームもできなくなってしまって)返事をしていないのである。

 ちなみに「彼」と書いたのは誤字ではない。
 ゲームをプレイする時その多く、私はプレイヤーである自分を女性として演じている。
 女性を演じてもモテになる、というのも僕にとっては比較的容易に思えることなのだけれど、そのあたりについてはまた後日に。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]
  -Reactor-

[Object]
  -Computer-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180424
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
平面世界に落下する直線。
SUBTITLE:
~ Squared sequency. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180424

 雨。
 湿気が街をヴェールのように覆う、優しくて穏やかで、でもどこか所在なさそうな、雨。
 まぁ「はっきりしないお天気」なんていう言い方もできるわけですが。

 昨今の陽射しはあたたかさよりも日陰に隠れる怠惰を叱責するような苛烈さを感じるし、雨にしても街を行き交う人々を鞭打ち、人の建立した傲慢を押し流したいかのような無慈悲さを感じる。
 それに比べれば、この降っているのかよく分からない、上がるような様子もいまひとつ感じられない、という雨はたおやかで心地よい。
 はっきりしないこと、白黒のつかないことが悪し様に批判されることも多い日々の世相に思いを巡らせたのち、少し仮眠を取った。

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 以前、一度だけ「音声ブログ」的なものを試したことがある。
 たぶん Evernote あたりで試したのだろう。
 このブログ上にリンクを張り付けた。

 内容はいつものとおりくだらないことを羅列しているが、けものフレンズについてのくだりは表現が充分ではなかったと思うので文書化したいと思っている。

 とにかくいつものとおりエントリィに対する反響や評価、つまるところの閲覧数やらコメントには何の期待もしていないし価値も見出していない。
 どういうわけかコンテンツのメッセージや表現のクオリティが高いことによって評価の絶対数は多くなるかもしれない半面、長期的には次第にクオリティを下げる方向に作用する。
 おそらく、誰でもそうなるとは思えない。
 単に僕という人間の弱さが露呈しているのだろう。
 他者の視線を必要以上に意識してしまう自意識過剰な性格が、多くの場合、災いばかりを招き寄せる経験則から、僕はなるべく目立たないことに注力し、目立ってしまっても気にしない事を意識し、他者の視線や評価を無視することに価値を置く。
 すでにこの時点で相当な矛盾を内包していて面白いのだけれど、今回のテーマはそこにはない(今回に限らずテーマそのものが基本的には存在しないのだが)。

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 音声ブログというのは一時期、局所的に流行した。
 たとえば僕の思考の作った文章に興味を持った人間が、僕そのものに興味を持って、それが高じて(程度がひどくなる、という意味で捉えると面白い)僕の周辺情報までを希求する。
 どんな顔なのか、どんな声なのか、どんな肌なのか、どんな骨(あるいは骨格)なのか、オカネモチなのか、どんな場所に棲んでいるのか、どんな発明をしているのか、どんな料理を作るのか、どんな手をしているのか、どんな肉体なのか(ホントに猫なの?)、どんな服を着ているのか、どんな仕事をしているのか、どんな友達がどれくらいいるのか、どんな恋人が何人いるのか(27人です)、どんな家族構成なのか、どんな生い立ちなのか、etc.ETC...(誤字(綴りは一緒だが大文字にするとまったく別物になってしまう)は相変わらずわざと)

 そのニーズを満たすためのちょっとした読者サービス、あるいは書き手の「タイピングが面倒だ」という怠惰に適応したツールとして、音声ログは一定量の必要性を獲得したのだろうか。

 しかし実際のところはどうだろう。
 僕は自分で音声ログを作り公開したものの、すぐに(こりゃだめだ)と思った。
 口語かつ普段のラフな(そのうえ完全に散文的な)トークを展開できるのはいいけれど、いかんせん校正する術に乏しい。
 あらかじめ原稿か、せめてもテーマをメモしておけばよいかもしれないが「とりあえずちょっと書いてみる」というノリでレコーディングを開始すると収拾がつかなくなる(こんなことになるのは僕だけでしょうか(生徒会長立候補口調))。
 ラジオ番組でもあるまいしBGMやらジングルで盛りたてれば過剰な虚飾が興醒めだし、だからといって上記の通りテーマを決めてのソロトークには限界がある。音声的には間ができることもしばしばである。
(実のところ僕は1時間にわたる収録を一度しているのだが、容量の関係で非公開になっている。しかもそれは運転中に録音したため、途中で「あ、あいつ危ないなぁ」といった発言があったり、安全確認や右左折時にかなり長い沈黙が訪れたりしている)
 ほどよい雰囲気の収録をするには、誰かしらのゲストか、相応のシナリオを用意しておく必要がある。
(ゲストが存在しても、僕の会話はテーマが拡散しがちなので、軌道修正が得意な、あるいは紆余曲折する内容にフィットできる人物でなくてはならない)

 聞いてみても同様で、先送りが出来ないわけではないもののインデクスないから、飛びすぎたり、手前すぎたりする。
 全体像がつかみにくいから、そのときの話がどのような意味を持つのかわかりにくい。

 とにかくシーケンシャルなメディア(あるいはコンテンツ)の弱点がこれでもかというくらい露呈するのである。

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 文章というのを「文のまとまり」、文を「意味を持つ単語と接続のまとまり」と考えた場合、その記述様式は基本的にシーケンシャルである。
 あるいは条件分岐を持たせる場合の文法も(前述の「あるいは」がそうであるように)存在するが、コンピュータプログラムのように「分岐されなかった文は処理に上らず考慮されない」ということは原則として、ない。

 シーケンシャルにすべてを読み、かつそこから意味を読み取って、全体を俯瞰してはじめて文章というものは機能する。はず。ではないだろうか。という気がする。
 だんだん気が弱くなっている。どうしたものか。

 というのが僕の思考の特徴といえば特徴で、どんどん分散して横道に入ってしまう。
 左折を4回繰り返せば元の道に戻る、なんていう理屈もまったく通じることなく、いわば3次元的に、どこかあさっての方向に行ってしまう。

 さてもこのように平面的な広がりを文章の意味が持っている場合。
(その広がりに必要なのは広さではなく、深さや未踏域であるかどうかが大事だと僕は思うのだが)
 直線的な機能しか持たないメディアであるところの音声(まぁ、多くの映像もそうだが)は、メディアの次元が低い、といえる。

 要所要所でその先のコンテンツを選択することが可能なゲームは、自由度においては次元が高いが、再現能力は低いように思える。

 再現能力を持つゲーム……。
 あ。
 いわゆるエロゲですか?

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 いずれにしても、文章というのは不思議なもので、内容は(基本として)直線的なのに、読み手の再生自由度が平面的になっている。
 僕にとって文章を書くというのは(テーマが決まっているのでもないかぎり)その再生自由度に従って平面分散する。
 でも、かつてに比べると、そもそものアタマの回転が衰えてきた。
 平行分散でものを考えるのは、もう、ハード的に限界かもしれない。

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 僕は雨が好きだ。
 はっきりしないお天気というものの中にいると、本当に安心する。








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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Object]
  -Rain-Tool-
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[Cat-Ego-Lies]





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//TimeLine:20180422
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
私をカラダで再生させて。
SUBTITLE:
~ Resurrects me. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
180423

 のんびりぼんやり月曜日。
 とはいえ前職における肉体の酷使により、かなりのダメージが蓄積していることが分かってきた。

 とりあえず内臓がどうにもならない。
 もともと弱い消化器系は、食肉に特化した食生活にみごとに順応したが、肝臓と腎臓のダメージが想像以上だ。

 約一年、頻繁に内出血していた(打ち身、打撲、生傷は絶えなかったし、派手に転んで出血したまま業務を続行し、帰宅してから肌に張りついた血まみれロングのステテコを引き剥がし(そのせいで新たに流れる血液に関しては気にせずシャワーを浴びる)こともあった)ことと、継続的な筋肉疲労(筋肉痛も含む)による老廃物の蓄積およびその排出が間に合わない状況(水を飲む時間もないことがあった)、さらには食事(と睡眠)の時間がきわめて限定的であったため、より高カロリィな食事を短時間で摂取する必要があったことも影響している。

 いやぁ、キツかった。

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 もしも記憶がなくなったら。
 私は私の肉体だけを頼りに、私という人格を再構成できるだろうか。

 記憶喪失という言葉は知っているが、その症状にかかっている人間を実際に見たことはない。

 物語に登場する記憶喪失の人物たちはしかし、たとえば学習した言語を忘れたりはしていないから、他者との意思疎通はできる。
 運動を駆使する能力を忘れて、歩く事もままならないという人は見たことがない。

 いずれも脳の機能であり、記憶によるものも少なくないだろう。
(小鹿のように生まれてすぐに立って歩いて、さらにはガウタマシッダールタのように喋り出せた人なら話は別だが)

 物語の中で、肉体の能力を駆使したり(たとえば武術の達人がとっさに己の身をかばったり)することはあるし、それをきっかけに他の記憶がよみがえることもあるように思うが、あれは身体(新皮質よりも下位の反射神経系のようなもの)が記憶しているのだろうか。
 あるいは仮に、そうした下位の系から記憶を瞬発的に反復することでより高位の系へのルートが確立する(神経系の物理的特性として)のかもしれない。

 まぁ、若いころから物忘ればかりの僕にとっては、神経系のルートが確立しない、なんてことはざらであり、恋人や家族の顔はもちろんのこと、いつでも何かしら記憶を喪失しているようなのではあるのだが。

 具体的な記憶がなくても、抽象的な記憶(価値観や概念)があれば、人は人格を構成できる。
 親の顔を記憶しなくても、親に対する感情などを通して親という価値観を作れば、それがその人の(この場合は親に対する)性格の特性になりうる。

 一方で具象の記憶は、肉体的な運動のトリガとして紐付けることなどは可能だとは思うが、それをいくらかき集めても人格を構成できるようには思えない。
 友達の顔を100人覚えたからといって、友達がたくさんできるような性格になれるとはかぎらない。

 たとえばボールが飛んでくるイメージ(記憶)があったとして、どういうわけか反射的に避けてしまう程度の記憶を僕らは持っているわけだけれど、それは赤ん坊のころには持っていなかったように思う(少なくとも僕は「ボールがぶつかると痛い=危ない」という記憶が3歳くらいまではなかった)し、仮にその記憶があったところで「ボール嫌い」という価値観を形成することまでは可能だとしても、価値観なしに(イメージからダイレクトに)人格を構成することは不可能だろう。

 つまるところ物語における記憶喪失というのは具象記憶の一部(あるいは全部)が欠落し、にもかかわらず抽象的な記憶(とそこから構築される価値観などによって構成された人格)が部分的に残っている人のことをいうのかもしれない。

 彼らはそこから欠落した人格を再構成して元通りになったりするし、欠落した状態のまま発生した新しい体験によって、まったく別の人格に変貌したりもする。

 しかしこんなことは記憶を失わなくても可能ではないだろうか。

 たとえば昨日まではとっても素敵に見えていたガールが、ひょんなことからただの異常者としか思えなくなるようなことってない? ないよね(僕はあるけど)。

 ニュースで事件があると、たいていは「物騒だなぁ」「怖いなぁ」「なんでそんなことをするの」という反応をする人によって社会が構成されている(ように各自がその場は演じているように僕には認識される)けれど、表層意識で「いいぞやっちまえ!」とか「まぁ、そういうこともあるよね」とかいう気持ちをきちんと把握して、あるいは模擬的にでも形成して、具象記憶からの価値観形成に複数の方向性を持たせておけば、それはその人の人格の豊かさになると僕は考えているのね(口調が変)。

 もちろん僕も社会人として社会に適応しているフリをして毎日を過ごしているわけで、まぁ、そう簡単に思ったことを全部ストレートに表現するかといえば、これが案外してしまって周囲から白い目で見られたりすることがあるわけだけれど、「いい/悪い」「好き/嫌い」の境界線や枠組みから少し離れたところに自分の知性(あるいは意識)を置いておいてもいいんじゃないでしょうか、と思ったりはする。
 現実に、10年以上前ならば「人間はある程度の年齢になったらちゃっちゃか死んじゃったほうがいいよね」なんて言おうものなら総スカンを食らうまでのことはなくても白い目で見られることは多かった。実に多かった(しみじみ)。
 あれは(当時)比較的若い人間であるところの僕が発言しているという事象がより事態を悪化させていたのかもしれないけれど、僕にしてみればその言葉の意味に今も昔も彼我の差なんてない。
 バブルのころより医学は進歩したというのに、不老不死の夢を追うどころかそれに疲れてしまった人も少なくないようで「ある程度になったら、ささっと死にたいわ」なんて平気で言っているのを聞くようになった。

 そうなると天邪鬼の僕などは「人間はもっと無駄にとりあえず滅多やたらと手当たり次第に何はともあれ長生きしていた方がいいんじゃない? 生きていることにこそ人間の価値があるよ!」なんて、思ってもいない事を言いたくなってしまうのである。

 まぁ、それもこれも、どういうわけだか僕の中に内蔵されている「思っていることと真逆のことくらいは、とりあえず同時に考えよう」という回路に原因があるわけで……。

 この回路がなければ、僕はもっと確固たる意志を持って、明瞭な目標に向かって日々邁進しちゃうような、ファイトー!いっぱーつ!的な、スポーツマンシップに則った、分かりやすくて熱血でために単純である意味純粋で周囲の理解を得やすい(分かりやすい)人格を構築していられたのかもしれないのだけれど。

 うまいこと記憶(ごとその回路を)喪失しないものだろうか。

 しないな。

 それに、この優柔不断で複雑怪奇(に見えるときがあるというだけで本当はとてもシンプルなのですよ)な私を、私自身は気に入っているわけであり。

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 内臓が不調な結果として酒が不味い。
 少なくとも、以前のように美味しく感じない。
 よって、しばらくお酒を控えている。
 
 さらには花粉症があり、内服薬を飲んだのが悪く(もともと内服系抗ヒスタミン剤は私の粘膜の分泌液にこっぴどい副作用をもたらすことは分かっていたのに)、結果として今でも変な咳が止まらない。

 薬効が終って両方の鼻が詰まった段階でも副作用が収まらない(副作用の時間の方が倍以上あった)ため、異常に咽喉が乾燥した状態が続き、風邪(的なもの)をひいたりもした。
 粘膜系の異常はまだ続いている。

 最近の目標は「周囲の人間に煙たがられて嫌われて死ぬこと」なので、もっといやな奴、迷惑な奴になるべく、どんな人格構成をすればいいのか、ときどき考えるようにしている。








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