動画を動画としてリリースせず。
リンクのアタマ文字をわざわざ検索回避のために削除したりせず。
リンク先の内容にはたいして触れようともせず。
リンク先について誰かに紹介するつもりもまったくなく。
自分で思ったことを思ったように思えばいいんじゃないでしょうか、おもに僕は。

そしてオマエはオマエの思ったように思えばよろしいのだと思います。
誰に言わなくてもいいし、誰に認めてもらわなくてもいい。
誰に理解されなくてもいいし、誰の共感を得る必要もない。
ただただ、忘れずにいてほしいのです。

オマエの思ったことは、オマエの思ったことであって、他のダレカの思ったことではないのです。
当たり前のことなのですが、ワタシなどはついつい忘れてしまうのです。
ワタシの思ったことは、ワタシの中でかき消されてしまうのです。

ダレカの反対意見や、ヤツラの同調圧力や、ワタシの(おもにあさっての方向に)空気読んじゃう能力によって。
ワタシの思ったことは、ワタシの手でコロされてしまうことがあるのです。

オマエはオマエの思ったことを、オマエの思ったとおりに思って、それを大事にする権利があるのです。
むつかしい概念を除くと、オマエは思ったことを大事にすることが大切なのです。

自分の考えを大事にしすぎて有刺鉄線を巻き付けた棍棒みたいになっている人もいますけれど、それはそれでいいのです。
ほうっておけば周囲は血まみれです。
そういう場所には無理に近づかずに、距離を置いて、そっと。

そっとひとりでいられる場所を探せばよいのです。

それは孤独な作業でしょう。
見つかった場所もおなじく孤独でしょう。

でも。
もう血は流れない。

寒いかもしれない。
乾いているかもしれない。

ならば火を焚いて湯を沸かしましょう。
それができないときもあるでしょう。
ならばそっと涙を流しましょう。

きっとあたたかくなるから。
きっとかわきはおさまるから。

 体内時計が狂ってしまって、眠れない。
 ひどく疲れているはずで、身体のあちこちは変形し、こわばり、痛むけれど、アタマが眠れない。
 食事の最中に眠くなり、2時間くらい床に転がっていたのだけれど、寒さと床の硬さで目覚めてシャワーを浴びたら眠れなくなった。

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   0600 起床。
0615-0630 家を出る。
0720-0750 職場付近のコンビニに到着し、大抵は仮眠を取る。
0800-1400 就労。
1400-1500 休憩という名の作業時間。食事をする時間などない。
1500-2100 就労。かなりの頻度で22時近くに終わることもある。
2200-0100 帰宅。洗濯。食事。シャワー。そして就寝。ときどきずれ込む。

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 通勤時間は通常、90分前後かかる道程。
 60分前後に圧縮されているのは、なんというか、自動車を速く走らせることができるから、ではある。
 とはいえとても怖い。
 怖いけれど、悠長に運転することなどはできない。睡眠時間も食事の時間もぎりぎりだから。
 それに眠くなるから。

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 目の前にある物事の苦しさについて、具体的に、固有名詞まで用いて記録することについて、僕は自分自身に対して抑制が掛かっている。
 具体的に書くことは、ときに下品だ。

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 とても疲れていて、何かをする気力が起こらない。
 思考をうまく整理できない。
 記憶がぐにゃぐにゃしている。
喫煙が趣味である。

最近はミニシガーにも手を出しているし、ストックを熟成しよう、なんて考えまで起こり始めた。

なにより、パイプ煙草は消費が遅い。
1缶50gが灰になるのに、単純計算でも15~20ボウル、毎日一回、1時間以上の喫煙時間があったとして3週間近くかかることになる。

新しい銘柄を見かけて興味を持って購入しても、実際にそれを吸うのは数ヶ月先、なんてこともあるし、つぎつぎストックの種類が増えるから1缶がなかなか終わらない。

シガーだって、ミニシガーでも1本1時間近く掛けて僕は吸う。
両切りショートピースを吸い終わるのでも、一本あたり15分程度はかかる。
吸うのが遅いといえばその通りだけれど、煙草の美味しい喫み方というのは、まさにそのスロースモーキングなのではある。

通常サイズのシガーなら、2時間近く保つこともある。
たびたび途中で火を点けなおすこともあるが、パイプ煙草で慣れているし、恥ずかしいとも思わない。

しかし僕には、喫煙友達がいない。
周囲に喫煙者はいるのだけれど、その喫煙経験を、より豊かにしたいと思っている人が、どうやらいないのである。

たいていはシガレットで満足しているようだし、その喫い方も僕からすると煙草殺しなものだ。
ゆっくり吸うことができないようだし、煙草の味を本当に知っているのかと疑いたくなることもある。

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お茶の時間、お酒の時間、ディナの時間と同じように、時間をかけて向き合うだけの奥行きがそこにはあると、僕には思える。

ちなみに、ベッドの上でも「時間がかかり過ぎる」と苦情を受けた経験がある。

なにせこの世はスピード社会だ。
煙草は5分程度も吸えば十分だし、食餌は空腹が満たせれば十分、セックスなどは排泄よろしく「用」さえ済ませればそれでよい、という風潮なのだろう。

おかげで僕は朝食と昼食を抜くことになるし、勤務の休憩時間であっても煙草を愉しむ余裕はない。
ディナは睡眠時間を削るから最低限の栄養を摂っているかどうかも分からず眠ることになる。

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おそらく僕は多趣味なのだろう。

料理が好きだし、食器が好きだし、陶芸が好きだ。
煙草が好きで、お酒が好きで、食事が好きだ。
異性が好きで、同性が好きで、動物が好きで、そのカラダが好きで、スキンシップやマッサージをするのが好きだ。

なにかを作ること、考察すること、調整すること、という一連のサイクルが好きだ。

未来を予測すること、過去に思いを巡らせることが好きだ。

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インスタントなものにはインスタントなものの良さがある。

のんびり、ゆっくりの中には、味わいがある。

だけれどほとんどの人は、大味で、スピードファストなものしか感じられなくなっているのかな、と思うことがある。

ちなみに今日は、モンテクリストのミニシガー。
一昨日のコイーバのミニシガーも美味しかった。

一本30分以上は愉しめる。

価格は一本あたり150~300円程度なので、ちょっとしたカフェやお酒、軽食と比しても高いものではないと思うのだけれど、いかがなのでしょう。
::誇り? そんなものが何になる。
誇りが空腹を満たすか?
誇りが屍人を蘇らせるか?
生者にも死者にも役に立たないものを依りどころにすることに、いったいなんの意味がある。





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集団には穴がある。
その穴は必ず発生してしまうもので、そして途方もなく深い。
その穴に、ときどき、個体は落ちてゆく。
落ちた個体が助かることは、まず、ない。

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人が2人手を取り合えば、最低でもひとり、多ければ2、3人の人が中に入ることのできるスペースができる。
多くの人が手を取り合えば、その中に、より多くの人が入ることができるだろう。

その囲いは人を守るために使われる防壁かもしれない。
団結は集団の発展に使われる能力かもしれない。

そしてその輪は、誰かを飲み込む、穴かもしれない。

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人間が集団を作るのは、あるいは社会性を持つ生物(昆虫や菌類も含まれる)がコロニィを構築するのは、それが生存に適しているからだ。

コロニィともなれば、集団が1つの個体としての生態を持ち、発生、成長、死までの時間的変化を持つ場合が少なくない。

とくに成長(発展)段階では様々な機能や能力を新たに獲得し、あるいは既存の能力を発展させ、単一の個体が集まっただけではとうてい不可能な影響力を持つこともある。

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では社会が、あるいは集団が衰退してゆくときはどうだろう。

互いに手を取り合い、足りないものを補い合い、相互に補完していたはずの集団が、それまで抱え、処理しきれていたタスクが過重になる。
包括的な視点を持つものが少なければ、タスクと能力の差を見極めることはむつかしい。

集団の補完能力によって保護されていた弱者としての個体は、集団の能力の低下によって保護されることなく最終的に死を迎える。
情緒的にいうならば、死よりひどい状況も存在するだろう。

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家族や会社、地域社会や国家は、衰退期になれば必然的に大きな穴を作ることになる。
手をつないでいた人が多ければ多いほど。
輪が大きければ大きいほど。
そこに呑み込まれる人は多くなる。

管理のためのムダなタスクはないだろうか。
新しい機能を作るのではなく、既存の機能を統合して、組織の触手をスリム化できないだろうか。

そして弱者は、本当に守る価値があるのだろうか。

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なぜ弱者を守るのだろう。
なぜ弱者を守る必要があるのだろう。
誰のために。
何のために。

その根底にあるのが倫理観や道徳観だとしたら、それはあなたが本当に持っているものだろうか。
自分の中から、生み出された情緒だろうか。

もしも社会が衰退してゆく中で、それでも社会を存続させたいと思うなら、弱者は自ら身を引く必要があるだろう。
かつて社会の発展に帰依したことがあろうとなかろうと、その社会を生かすためには、社会を活用しない選択が必要なのではないだろうか。

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僕は遺伝性の持病で、80代まで生きるのがやっとである。
通常は60代で死ぬし、社会的リソースとしての役割を果たせるのは50代までの可能性もある。

仮に60代から20年間、社会に養ってもらって生きる意味(あるいは価値、目的)が僕にはない。

そういうものを持たないように、つまりは生きることに過剰に執着しないように、これまで生きてきた中で選択してきた結果だともいえる。

もちろんヒマの潰し方はいくらでも心得ているし、長期的に達成したい目標のようなものもある。
しかし僕の目的が達成できたからといって、社会に劇的な変化を起こすことはまずないと思うし、ヒマを潰すだけの余生というのは、無価値とはいわないまでも退廃的ではある。

社会から、自由意志のもと、自ら身を引く選択があって然るべきだと僕がよくいうのはそのためである。

自分の為でもあるし、それは社会のためでもあると思っている。

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弱者を守る必要が、僕は倫理観や道徳観ではなく、あると思う。
社会発展の機能として考えれば、弱者はリソースの消耗をより多く招く存在ではある。

必要とは、言いかえれば義務のことだ。

人がもし、自分の自由意志において弱者を守るとき、守る者自身の高貴さが守られる。
弱者に限らず、利己を最優先し、他者をかえりみない行為は結局のところ、そのものの品位をただただ落としてゆく。

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結果的にそれは、自傷行為と同じなのだ。
他者を犠牲にすることに無神経でいられるのは、ある種のステータスかもしれない(それらを周囲から許されることに甘んじていられるだけの、何らかの価値を持っているという意味で)。

しかしそうした人から、僕は下品さを強く感じる。
(隠し子がいるという噂のある人物がこれを書いています)

品があるというのは、他者に譲る気持ちや慮る気持ちがあるということだと僕は思う。
品がないというのは、それらがないということになるだろう。

他人に譲らなければ、場合によっては、奪われ、傷つけられたと相手が感じる場面もあるだろう。

そういう気持ちや行為は、伝播するものだ。

あの人もしているから。
私がされたから。

そんな基準で、自身の品位を貶めている人も少なくはないと思う。
いちばんの問題は、それらが、無自覚に行われ、正当化されていることだ。
(もしかしたら僕は、品位に対して過敏にすぎるのかもしれないが)

見目が悪いだけではない、それこそ荒んだありようが、そこには展開されるだろう。

>>>

弱肉強食の世界。
一個の人体をしてもそうで、もっとも弱い部分から綻び、朽ちる。

再生能力がない、あるいは弱い部分であれば、その部分の機能はまず再生することのないまま、個体は永らえることになる。

おそらく朽ちゆく個体はそれでよいのだろう。
朽ちゆくコロニィはそれでよいのだろう。

しかし、もし人為的にコロニィの寿命を永続、あるいはせめても延命したいとするならば、相応の制御を、誰かがしなくてはならない。
あるいは恒常的なモデルを、そこに内包される各要素が自覚的、自発的に具現できるなら理想的ではないだろうか。

>>>

文明の発達によって、欠けた部分のある者でも、それなりに生きられる社会ができた。
その社会に甘えることによって人は、欠けていることが当然で、それによる不具合など感じない存在になったのかもしれない。

自然治癒力が低くても生きていける。
動植物を狩ることができなくても生きていける。
自分が知らない誰かを守らなくても、誰かがその人を守り、あるいは社会が、自分のことも守ってくれる。

くれるはず。

だから。
欠けていても問題などない。

自分に欠けているものなどあるはずがない。
自分が間違っているわけがない。
自分は常に正しくて、だから十分に価値がある。
コロニィの仕組みなんてブラックボックスのことなど、考えもしない。

そんな、欠損を持つものが輪を作る。
欠損を内側に向けて。
自分の目的と都合だけを考えて。

そのときできる穴は、本来よりも大きな穴だ。

>>>

集団には穴がある。
その穴は必ず発生してしまうもので、そして途方もなく深い。
その穴に、ときどき、個体は落ちてゆく。
落ちた個体が助かることは、まず、ない。

私が皆と同じ方向を向いたとき、その背後には、私の欠損が作った穴が口を開けていることだろう。

あなたはどこを向いているのだろう。

視野から外れた背後の、微かな咀嚼音が聞こえるだろうか。
その口は、誰の口だろう。





>>>

::うぬらに誇りはないのか。
名もなき弱き者たちを、守り助ける義務を忘れたのか。
自らの存在する意味を、役割を、忘れたのか。
私利私欲と他者の血にまみれた獣に成り下がったか。
20171012

ウィスキー、サラミ、シガー。
ときどき柿ピー。

休日といえば介護か引越し、という生活を1年半以上も送っていて、そのことは少なからず僕を底抜けにげんなりさせる。

>>>

独りの自由で孤独な日々。

他人がどう言おうと、どう思おうと、その日1にちを自分で選びとっているという確信とヨロコビ。

私自身が許さないかぎり、自分は誰のリソースにも成りさがったりしないという矜恃。
何かと交換に手放したつもりも、売り払ったはずもない。

なのにほんの1時間ですら、のんびり、ぼんやりとした気持ちで遠い世界や、抽象的な概念に浸ることが許されない。

もちろん、そんな愚にもつかない、カネにもならないことに心血を注ぐ必要などないではないかという向きもあるとは思う。

でも本当に?

それの用途のない時代に発見された電気だって揶揄されたではないか。

四則演算が、そもそも数値の概念が、ない時代から人類は生きてきたのだ。

>>>

医療技術の発達によって、個々人の人格が肉体よりも先に崩壊し、あるいは少なくともほころびるようになった現在、医師たちは延命治療を「しない」という選択をサゼッションするようになってきている。

やがて先進国は、生命というメディアの上に「人格」がないならば、その生命は仮にヒトであったとしても「個人」たり得ない、という自明の概念を浸透させるだろう。
「脳死」という定義がもたらされた段階で、これらはすでに起こっていたことだけれど「個人」が何に宿るのかということについては、形而の境界がいまだに不明瞭なのだろう。

だって、記憶が人間の脳のどのあたりにあるかということが分かっていても、それがどんなフォーマットで、どのように格納され、どんな手続きによって取り出されるのか(少なくとも表向きには)解明されていない以上、人間の記憶はブラックボックスのままで、記憶による定量化された価値観の重み付けと、価値観の集積による人格形成に至る関数が解明されていないのが現状で、ヒトは「個人」の個人たる根拠と境界を明確にできないがゆえに「個人」とその根底を為すはずの人格を定義できないのだから。

そうした量子的な存在である「個人」を、しかしヒトは感覚的に理解し(あるいはそのつもりになっ)て、たとえ抽象的にであっても定義しているのが現代の社会。

そして「老い」によって曖昧に境界を失いつつある個人とその成立要件である人格を保持するために支払われる、個々人、もしくは社会的なリソースは、最終的に社会そのものの定量的な物質を、社会そのものの推進力としてではなく消耗してゆく。

端的にいえば、生命倫理が旧来のカタチから変革しないかぎり、死にかけた人間を物質的に保持するためだけに、多くの人間の時間と経済が消耗されてゆき、保持された死にかけの人間が果たして人格を適切に保持した「個人」なのか、それとも単なる「生体(生命活動を続けるだけの物体)」なのかは曖昧に定義できないまま、社会そのものが疲弊して痩せ衰える運命にあると僕は思っている。

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さて。

個人とは何だろう。

人格とは何だろう。

生命とは何だろう。

倫理とは何だろう。

社会とは何だろう。

経済とは何だろう。

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いずれAIにも、人格権が認められるかもしれないと僕は思っている。
でもそのとき、人類は、人格の意味を刷新する必要に迫られる。
つまり、人格と非人格の境界とその定義を明確にする必要に迫られる。
(定量的にではなく量子的にであれ)

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死というのは、あるいは生というのは、しかし量子的に、観察上(客観的に)はディジタルな側面がある一方で、しかし主観的にはアナログなのだ。

毎日たくさんの細胞が死にながら、生命活動が維持されている。
死んだとされる個体の肉体の多くの部分は、まだ生体としては生きている。

どこからどこまでがその個体の死で、どこからどこまでがその個体の生なのだろう。

抽象的で曖昧だ。
だからヒトはそこに挑むのかもしれない。

でも、挑もうと挑まなかろうと、現象はそこにあって、社会はそれを内包しながら、時間の概念によって直線的に後戻りなどできずに進んでゆく。

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僕には、何も考えず、ただただ日々を、追われるように、ただただ生きるという選択肢も当然ながら与えられている。
おそらく抗うことなく生きる道もあるだろう。

しかし果たして、それは生だろうか。

何も生み出しはしないことを考えるのは、そんなにも役に立たず、非生産的で、愚にもつかないことだろうか。

いや仮にそうだとして。

ならば生産的で、利口な手法と道筋は、いったい誰が知っているというのだろう。
いったいだれが示してくれるのだろう。

あなたか?

それとも政治家か?

1日経つごと、社会は1日ぶん進み、僕らの寿命は減り、つまり僕らは1日ぶん、賢くあったほうが望ましい。

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どこからどこまでがその人格の生で、どこからどこまでがその人格の死だろう。

だから人格は、自らの死を、自ら定義する必要がある。

曖昧で抽象的なものにメスを入れ、2つに切り分けるのは、他ならぬ知性の能力なのだから。

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僕は今日を生きる。
あるいは今日、死ぬかどうかを決める。

生きるとは、漫然と、今日も明日も生きることを指すのではない。
生きることと死ぬことを切り分けて、どちらに自分がいるかを決めることではないだろうか。

葉巻の煙が美味しいから、今も生きているものと想像する。

ヒトがヒトを生きる必要があるように、猫は猫を生きる必要がある。
観察者が観察したときに初めて生きているか死んでいるかが決まるような生き方を、神をも恐れぬ傲慢な僕は許すことができないのだと思う。
以前棲んでいた街の裏山をドライブしていたのである。
自動車二台がどうにもすれ違えないような、へんぴな集落が、当時の棲家から30分も走らない場所にあるのである。

手書きの大きな看板に「銀杏、大粒。100g 100円」とある。
どこでもいいから私とどこかに行かないとビョーキになるぞ、と脅しをかけていたガールに尋ねると「面白そうだから行ってみたい」という。

駐車場もないので大きく迂回してもう一度前を通り、畑の横に車を停める(もっとも車は我々の乗っているもの以外、ほとんど見ていない)。

看板を横道に逸れてゆくと、先にあるのはただの民家である。山奥だから当然だけれど。

20代の頃の僕なら、引きこもりで人見知りだから、こんなところには来ない。
来ても車を降りない。
降りてもここで引き返す。
だって民家だもん。

でも営業職経験後の僕は、なんなく家の網戸になっている窓やらドアの隙間やらを、吠え立てる犬ころを無視して瞬時に探し出し、そこから中に声をかける。
「こんにちは~! 銀杏、ください」

かくして、格安にして、見たこともないような大粒の銀杏を手に入れたのである。
生まれてこのかた、売り物でも、貰い物でも、見たことがない。

しかし帰宅していざ調理する段になって身をもって知る。
大粒の銀杏は、殻も硬いのだ。

電子レンジで加熱すれば簡単だよぅ、とガールはメール越しに教えてくれたが(近年、デートは明るいうちに送り届けて夜はひとりで過ごすのが僕のスタイルである)その方法で、僕は成功した試しがない。

それにしても殻が硬いので、おなじみの方法にアレンジを重ね、とうとう銀杏の実の、N極S極を判別できるようになったのである。

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N極。
殻が厚い。
殻のエッジはぼやけていて、先端部をよく見ると、梅の種のようにしわしわしている。
剥いたときに白っぽい薄皮がある側。
この薄皮は、繊毛で殻に密着していることも多い。

S極。
殻が薄い。
殻のエッジはピンとしていて、先端に行くほどエッジがくっきりしている。
剥いたときに殻が剥がれやすく、薄皮に繊毛がないため茶色い。

殻付きの実、全体を見るとN極は尖っている。
S極は丸みを帯びている。

N極は上を向いて、軸に近かったものと思われる。
殻が硬くシワがあるのは、そこから生長するためだろう。

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さてこの銀杏を、フライパンの上でから炒りするのである。
殻ごと、中火くらいで、よく回し混ぜながら。
殻が程よく焦げ色になったあたりで火を止め、あるなら軍手をして、ペンチやニッパ、あるいはキッチンはさみで、N極の先端数ミリの殻を切り割る。

それから、ペンチやプライヤ、キッチンはさみの殻割り部分を使って、半分よりN極側の殻をはさみ割り、全体の殻を剥く。

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剥き終わる頃にはゲンナリしているが、銀杏自身も熱のせいで少し乾燥していることだろう。
薄皮付きの実をボウルなどに入れ、湯(熱湯でなくても問題ない)に浸けて30分くらい置く。
僕はこの間にシャワーを浴びた。

シャワーを出たら銀杏から湯を切り、ふたたびフライパンで弱めの中火くらいでから炒りしつつ、かるく塩をふる。
水気がフライパンになくなるあたりで油(私の家にはオリーブオイルとごま油しかないので今回はごま油)をかけ混ぜ、さらにしばらく炒る。

最後に味見をして、味が薄かったら塩をふりかけてできあがり。

いやうまいのなんの。
子供の頃、迷子になったことがある。

母親と離れてしまったことが悲しくて、ひとりぼっちであることが寂しくて、ここがどこであるのか不安で、無事に帰れないのではないかと心細くて、僕は泣いた記憶がある。

孤独は恐ろしくて、さみしいものなのだと、僕は思っていた。

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大人になった僕は思う。

誰かといるから悲しくなるのだ。
誰かといるから寂しくなるのだ。
居場所があるから不安になるのだ。
帰る場所があるから心細いのだ。

ほんとうにひとりぼっちなら。
悲しくはならない。
寂しくはならない。
不安にならない。
心細くもならない。



ひとりだったら、大丈夫なのだ。
チョコレート。
テキーラ。
缶ピース。
ラム(バカルディ)。
お月様。

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つまりは月見酒であり、ガールがいないベランダは寒いのであり、ここは私の家ではないのである。

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人格の多くは記憶によって形成されるのだと、14歳の青猫少年は思い至ったものである。

その予測は実に正しかった。

記憶が失われてもなお、生への執着が消えない人間を見ていると、どうにもやるせない感情が芽生える。

かつてのそれは、怒りに似ていた。
殺意にも似た、怒りだ。
いつしかそれは、憐れみに変わった。
拾ったところで助かる見込みのない捨て猫を見るような、憐れみだ。
同時にそれはおかしみに変わった。
もう、当人と呼べるだけの人格が存在していないように観察されるが、しかし当の本人はどうだろう。
今も自分は自分だと強く思っていることだろう。

殺意にも似たおかしみを感じて、だから僕はそばに寄り添うという選択をする。
排泄物と死の匂いがする。

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もう僕は自分の2/3を生きた。
犬のように短い生命であることは最初から分かっていた。
だから、同じ時間を多重に生きようと思った。
ヒトとして、ケモノとして。
オトコとして、オンナとして。
色を持つ者として、色のない物として。
温度を時に失い、湿度を時に持たずに。

天命を知るにはまだ早いとは思うが、メトセラほど長生きできるはずもない。
なにせ僕は業が深いから。

それでも僕がこうして生きている理由は至極単純で、生きていることが楽しいからだ。

どんな悲しみも、どんな虚しさも、どんな孤独も、どんな痛みも、どんな飢餓も、どんな狂気も、僕を殺さなかった。
おそらく、僕が自分を好きにすぎるから、その自己愛のゆえに、僕は自分を生かす道を探してしまうのだろう、無意識に。

でも肉体が滅べば人格は消える。
僕たちという人格は僕を十分に楽しんだけれど、おそらく自身の死さえも、最初から楽しんでいるのだ。

>>>

多くの人は、自身が世を去る日を知らないという。
それはそれで幸せなことなのかもしれない。

人間は偉そうにあれこれ言うものだけれど、自身の生と死さえコントロールできない、未熟で不完全な存在なのだ。

終わりの分からないコースを走りながら、やれ努力だ、目標だと競い合う。
誰かに勝って、自分を誇示して、それで何かが得られるのだとしたら、たいそうおトクである。

>>>

量子論的に、この世界はヴァーチュアルなものらしい。
非常に哲学的ではあるけれど、僕も、他の多くと同じように、所詮は自分の主観にしか興味がないのだ。

客観なんてコトバは、主観しか知らない知性にしか思いつかないだろう。
なぜって最初から客観を知っていたら、それは主観として、その人格の中に生きるから。

>>>

あなたはダレを生きているの?

>>>

私は、たぶん、誰でもない。
私ですら、たぶん、ない。
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20170918
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
一意的な良識について。
SUBTITLE:
~ compressed composite possession. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Lead Division *<< //

::ならばこれからは、「理」の代わりに「無理」が横行する世界になるのだろうか。それとも「理(ことわり)」と信じていたことが実際は、冷厳な現実を見ようとしない人々の気分を良くするぐらいの役割しか果たしていなかった、幻影でしかなかったのか。



// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
170915

 先日、とあるニュースをネットで見かけたとき、その記者の使っていた言葉が妙に気になった。
 気になった、といっても悪い意味ではない。
「一意的な良識」というのがそれだったように思う。
 その一文では「一意的な良識などによって窮屈な思いをしている人が少なからずいる」というようなことが表記されていたように記憶している。

 記事の本文についてはとうに忘れてしまったのだが、その表現は妙に印象に残った。
 言い得て妙。
 なんだ、たったひとことで言い表せるんじゃないか、と。

 戦後生まれの団塊世代が世相の中心となり、団塊ジュニア世代が世を牽引している昨今。
 ちなみに僕は団塊ジュニア世代に位置しているものと推察する。
 けれども、そこに醸されている不気味さを僕は子どもの頃から感じていた。
 戦争が終わって、基本的には大切にされ、経済成長と相まってわがままを享受した世代。
 そういう世代に育てられた団塊ジュニア世代の子育てについて、僕は僕なりに予測をしていたし、だからこそ自分は(早々にこの世から去るという高い可能性も含めて)結婚と子育てから遠ざかっておこうと考えていた(隠し子はいるらしいが)。

>>>

 多様性を担保するだけの人口という分母があったから、社会は資本の豊かさを背景に多様性を実現した。
 多種多様の人が容易に情報交換をする(できるようになった)中で、良識は多様性という個々のゆらぎを認め(できることなら尊重し)つつ、人々は感情や倫理に緩衝エリアを持っているべきなのだと僕は思っている。

 しかしどうだろう。
 なんとも非寛容で、下世話な世の中ではないだろうか。

 じつに隠し子がいると申し上げると眉をひそめる人の多いことよ(笑)。
(真偽は本人も分からないのだからどうにもならないのだが)

 冗談はともかく、メディアというメディアが「不倫だ」と騒ぎ立てたりするのは、僕にはよく分からない。
 おそらく大衆がそれに強く反応し(つまりは潜在的にそれを求め)ているからなのだとは思うが、芸能情報誌のゴシップじみた話題を大衆という大衆が望んでいるのだとしたら早晩この国は滅ぶのではないだろうか。
 他人の不倫についてあれこれ熱く論じるなどというのは、端的にいえば他人の恋愛やセックスについて熱く論じるということである。
 僕も自分のことを相当下世話な人間だとは思っていたけれど、そこまではしたないことはできない。

 たとえば大でも小でもいい、排泄行為そのものについて、やれ「こういう風に」「こういう姿勢で」「どこに力を入れて」なんて、いい大人に指導するオトナがいるだろうか。
(同様の理屈にもとづいて、僕は思春期になる以前から、いわゆる「下ネタ」が苦手である。品がないし面白くもない。知的にも性的にも興奮しない。脳のどこにも電流が流れない)
 たしかに排泄「前後」の流儀についてならば公衆衛生上も意義のある話ができるだろう。

 たとえば(今は主流になっているのか分からないが)男性は排尿をする際も、できるだけ座ってした方が衛生的だし掃除をしやすい。
 排泄後、もしもトイレを汚してしまったら、すみやかに掃除をするのは精神的にも細菌的にも衛生的である。
(そのようなわけで、僕はたいていコンビニなどのトイレを借りると掃除をしはじめるところから始まってしまい、なかなか出てこないことがある。不倫だの不適切な発言だのを論じるよりも、トイレを綺麗に使える人間をひとりでも増やす方が、世のため人のためであると僕は信じてるのね)

 不倫について話を戻すとするならば、ひとりひとりがその要素である公衆に向かって不倫を語ること、語らせることの下世話さ、品のなさが実に情けないことだと僕は思う。
 もちろん、ほとんど9割方の人間は、他人の不倫なんてどうでもいいと思っているとは思う。
 芸能人が不倫をしようが、政治家が不倫をしようが、芸能人は芸能に精を出せばいいではないか(下ネタではない)、政治家は政治生命をまっとうすればいいではないか(性的な意味ではない)。

 誰かに不倫を勧めるつもりもないし、不倫が素晴らしいとも、汚らわしいとも僕は思わない。よって否定もしない。
 したい人は勝手にすればいいし、その行為そのものによって誰かが損害を被るならば、当事者たちが相応に賠償すればいいだろう。
 親でも配偶者でも身内でもない誰かの不倫によって、私は損害を被らない。
 では友達だったらどうなのかと問われるかもしれないが、それだって僕の知ったことではない。
 僕と彼ら(あるいは彼女たち)が恋愛関係だったとしても、僕は特に気にしない可能性がある。

 リベラルを気取っているわけではない。
 恋愛やら婚姻契約やらについて、僕は僕なりの考え方があるというだけだし、それを誰かに開陳するほど悪趣味にはなりたくないし、誰かに強制するほど阿呆でもないというだけだ。

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「一意的な良識」によって、人はそのありようを規定の枠にはめることの窮屈さを味わうだろう。
 赤子が電車で泣いただとか、赤子に授乳するような場面を見たとして、僕は何とも思わない。
 誰かが普通に生きているだけじゃないか。
 他人の生きていることに対して勝手に不快感を覚えて相手を攻撃するのは愚行だと僕は思うが、人々はそういった攻防について、どこかの国の主導者だけでは足りないのだろうか。

 一人が苦言を公表すれば、それで「不謹慎だから」「不適切だから」となってしまって、誰もが他人の空気を読むことに必死で雁字搦めになってしまう。

 僕は基本的に愚劣なガキ(年齢を問わない)が嫌いなので、そういうイキモノの棲息する場所には近づかないようにしている。
 一方で良識を持つ人たち(年齢/性別/国籍を問わない)は大好きだし、僕自身には希少な存在なので、そういう人にはこちらから会いに行くこともある。
(座布団の上で寝ているばかりではないのだ)

「まともな人」のほうが多くて、だからそうした人たちはいちいち「下世話だ」なんて騒いだりしないのだと僕は想像する。
 下世話なことで騒いでいるのは下世話な人間同士なのだと僕は思いたいし、実際にそうだろう。
 僕の知っている良識人たちは、たとえば雇用問題や法規との兼ね合いのむつかしさなどについて卑近な例から高尚な推察、短長期的な希望や憶測について語ってくれたりする。

 そう考えると僕は今回、ずいぶんと野蛮で下品なことをしていることになる。
 思っていることを言葉にするというのはそういうことだ。

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 たとえば「I love you.」は基本的に野蛮で下品だ。
 だから公衆の面前で、僕はそれを言えない。
 暗闇で。二人きりで。耳元で。
 そんな場面でしか口にできない臆病者というのが僕の正体だと思っていい。

 もしそれを公衆の面前で言えるなら、その行為は素敵だとは思う。勇敢だとは思う。
 でもそれは、その行為の野蛮さや下品さを知っていて、ためにある高いハードルを乗り越えることの勇敢さであり、乗り越えられたことの素敵さだろう。

 生まれてこのかた、それが当たり前のように生きてきた人間がそれをしたところで、面白みも何もない。








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::では、二十一世紀に突入した今現在の現実は何だろう。
 一、結局は軍事力で決まるということ
 二、アメリカ合衆国への一極集中
 三、国連の非力
 四、日本の無力
 これらこそが、「見たいと思わなくても見るしかない現実」であって、それが今、話し合いによる解決、アメリカへの一極集中を排する多極化、世界の諸問題の解決の場としての国連、世界平和に貢献する日本、等々の「見たいと思ってきた現実」を突き崩してしまったのである。






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[出典]
~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「イラク戦争を見ながら」From「日本人へ ~ リーダー篇 ~」(p.12-13)
(著作:塩野 七生 / 発行:文藝春秋)
によりました。

なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。






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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
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[Cat-Ego-Lies]







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死は蔓延る。


汝(な)が名を名乗れ。

一族郎党その血を根絶やしにしてやろう。

うぬらが気にするともなしに引き継いできた脈を。
うぬらがただのお飾りにしてきたその血を。
その名を。

我が指に触れさせよ。


穢れとともに絶やしてやろう。

汝らの血を。
汝らの名を。