// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180308
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
そんなに自分のことが好き?
SUBTITLE:
~ Love me much, love me ever. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 およそ1ヶ月ぶりに部屋の掃除をし、およそ2年ぶりにのんびり昼寝をする。
 昨日は数ヶ月ぶりに長風呂(およそ2時間)をしたのでコンディションはかなりよくなった。

>>>

 僕は自分大好き人間として認識されている。たぶん。あるいはブログの上では。
 先日も自動車内で歌を歌っていて(このブログを読んでいる人の一部は知っているかもしれないが、信号待ちで停車中であってもおかまいなしのちょっとした熱唱っぷりであり、ある種の「アブナイ人」だと認識される可能性が高い)、そのとき「ああ、自分の声っていいなぁ、嫌いじゃないなぁ」と思った。
 もちろん内耳に反響する声(骨導音)と外耳でただ聴く声(気導音)は違うから、「ああ私の声はこんなふうに他の人に聞こえてるんだ……ショック!」と落ち込む類の人もいるようだが、発想を逆にすればまったくノー問題である。

「この声(骨導音のほう)は、世界でただひとり、俺しか聴けないんだ! この素晴らしい声(自分で言うかふつう)を(少なくとも僕だけは)もっと聴きたい!
 だけど他の人は聴けないんだよね、ぷぷぷー、残念でしたー!」
 といった具合に。

 まぁ、少なからず誇張はしているつもりだし、誇張の結果として少なからず病的になっていることは認めるが、おおむねこんな感じである。

 そりゃあ他の人から「君の声って軽薄だよね」とか、「あなたの声を聴いていると、すごく気分が悪くなる」とか言われたらちょっとショックだけれど、たいていの人はそんなことを言わない。
 たいていは他人の声質になんてたいして注意を払っていない。
 だからもし自分の声を録音で聴いて(うっわ、こんな声だったのかショック! もう誰にも聴かせたくない)とか思ったとしても、そんなことを思っているのはアナタしかいないのではある。
 だって前述の通り、他の人はあなたのその気導声音を聞いて「あなたの声」と認識しているのだから。
 だからその声でショックを受けるのはアナタ以外にはいない。
 ゆえにあなたは、自分自身の骨導声音を聴くことができるのは自分しかいないという事実を客観的に知るべきであり、そのとき(場合によっては)「この骨導声音を聞くことのできるただひとりの存在である自分ちょうラッキー!」とか思えるのではないだろうか。
 え、思えない?
 僕はちょうラッキーって思っているんだけど。

 ちなみにあるガールに、
「青猫様の胸に耳を当てているときに聞こえる青猫様の声は、青猫様の聴いているご自身の声と一緒なのかもしれませんね」
 と言われたことがある気がするが、ないかもしれないし、ただの捏造かもしれない。
 どっちにしても僕は自分の胸に耳を当てることが物理的に(存命中は)不可能なので「ワカラン」と答えた気がする。

>>>

 さて。
 旧来のY!ブログがリニュアルされて、システムが変更されようとしているこのタイミングで(多くの人は意味が分からないとは思うが、僕が勝手に作ったこのブログのタグ機能は意味を為さなくなるということである)僕が文書をそれでもリリースすることにはまったくなんの意味もない。
 のだけれど、今回は性同一性障害についての話などを含めつつ、この「自分好き」の加減について話してゆきたい。ゆきたいだけで、そうはならないかもしれないし、そもそも読者がいないことは僕自身がよーーーーく知っているからそのつもりで。

 性同一性障害というのは乱暴にいってしまえば「自分の性別、おかしくね?」ということである。あえて砕け散ったような言い回しをしてみたものの、聞こえがよいものではないことは否定できないし、論点はそこにはない。なにより「くだけた」の強調の仕方が間違っている。
 一部の読者は知っているかもしれないが、僕自身は(諸般の事情により)子どもの頃から自分のことを女だと思っていたため、一種の性不一致に悩んだことがある。
 それまでは家族の中でも、友人関係も含め女性ばかりに囲まれていたものが、ある日突然「はい、青猫くんはこっちー」と、男の子と分類され、その集団に放り込まれたときの混乱と不安と恐怖。

 ちなみに当時の家族構成は父と母と3人の姉と妹である。
 父親と接する時間は少なかったし、とにかく女まみれであったことよ(遠い目)。

 けれども僕は最終的に男性である自分を「これでいいかな」と思うようになった。
 だいたい30代になる頃には自分の性別に慣れたし、半ばを過ぎると性別なんてどうでもよくなった。
 なぜなら女好きだから。しごく単純である。
 男性にも平気で恋情を抱くことはあるが、ニクタイカンケーへの欲求は抱かない。
 肉体の性別はどうやってもオトコであるから、周囲からは男性と識別されるし、仕種や言葉遣いに無意識に現れる「オネェっぽさ」もネタと考えればそれはそれでコミュニケーションツールとして使える。
 それに肉体の性別を女性にしてしまったら、ねんごろなガールとぱやぱやできないのである。
 そもそも精神的な性別が判然としているわけでもないのだから、これはこれでいいか、となった。

 客観的には「青猫は男性である」というのがスタートラインで、
 次いで「青猫はオネェっぽい(ナヨナヨしている、フニャフニャしている、何を考えているか分からない、などと評されることもある)オトコである」と認識されるようになる。
 べつにそれはそれで僕のキャラだから、いまさらマッチョな人格を持つ術もない。
 その土台がない。意識がない。価値観もない。よって継続的にそんな性格になることは困難である。
 時代の風潮も、セクシャリティについては緩くなってきた。
 性染色体異常についてはさほど認知が広がっていないと思うが、学校で「生物」という学科を習うより早くそうした情報(一時、父親が科学誌を定期購読していたので)に触れていた僕にとって、人間が肉眼で認識できる範囲は、世界のうちでもさほど大きいわけではなく、またそこで認識されることがすべて真実であるとは限らない、というのが基本だった。
(だから僕は量子力学的にネコでもありヒトでもある、という波動方程式の解を導くことができた、などと嘘をついてみる)

>>>

 一般に人間、個々人は、その個体の視点から肉眼(あるいはまぁ、耳とか鼻とか舌とか)によって認識されたことを事実だと認識する。
 そこに錯覚や誤認、死角や誤解が含まれている可能性をきちんと把握して、検証する人はさほど多くはない。
 心理的な思い込みから妄執にいたるまで、自分の感覚や認識を離れて見ることのできない人は思ったより多く、にもかかわらずそういう人ほど物事を主張する声が大きい。

 さて、ここに青猫氏が居て(さぁ、赤いザブトンにちょこんと座った僕を思い浮かべてみよう。しっぽをときおりぱたぱたさせて、キミの瞳を凝視している)、人はそれを見て「オマエはオトコだ」と認識する。
 なぜなら僕のカラダはヒトの男のSO・RE・DA!

 人間に見える。
 男に見える。
 すなわち「青猫は男性である」と認識される。

 青猫氏は、子どもの頃の家庭環境がちょっとだけ偏っていたので、自分の性的認識の構築が他の多くの人より比較的あいまいにできている。
 だから彼の内面世界において「O・TO・KO!」としての一般認識に合致しうるキャラクタを構築できていない。
 女については大量のデータが揃っていたので、それらをもとに自分の人格を形成した結果、肉体と精神の性的意味づけが相違した。

 ちなみに僕は周囲から「オネェっぽい」といわれようと「男らしい」といわれようと「かっこいい」といわれようと「かわいい」といわれようとあまり気にしない。
 他人の評価は他人の感覚だから、僕はどちらでもかまわない。
 たとえば他人がものすごく辛いカレーを食べてひぃひぃ言っていても、それは他人が辛いのであって僕が辛いのではない。
 僕が辛いと感じるときだけ僕は辛いと認識すればいいので、他人がなにをどう認識していても、それは事実認識の判断材料になっても事実そのものとして認識すべき対象ではない。

 周囲から「オネェっぽいオッサン」と認識されたとき。
 このとき僕は自分の性的アイデンティティについて、他人に開陳すべきだろうか。
「いやぁ僕は子どもの頃から自分が女だと思っていたことがあって、今は性的にはどっちでもいいかな、って思っているんです」なんて。

 あるいは僕が自身を女性だと思っていた場合はどうだろう。
「私の性別は、あなたの言っているそれとは違うのです」と主張するのは。
 奥ゆかしい僕にはむつかしい。はっきりいって無理だ。もとより無意味だと感じる。

 もちろん誰だって自意識的な性認識は何らかのカタチで持っているものだと思うし、持っていてもいいと思う。持っていて然るべきだといってもいいかもしれない。叱るべきとはいっていない。
 でも、それを他人にも認めてもらって、そのように扱ってほしい、という意識が、僕には少々理解しがたい。
 心情的に、そういう気持ちが分からないではない。
「認識してほしい」とは「理解してほしい」であり「受け容れてほしい」のである。
 要は「愛してほしい」のである。
「ワタシという性的マイノリティを愛せよ!(命令形)」と言っているのである。

>>>

 僕は自分が好きである。
 かなり好きであるし、それを素直に自己認識し、ストレートに周囲にも表現している。
 アタマワルイ人と思われているときもあるようだけれど、それはそれでその人の認識なので「僕には手出しができない」。

 もとより僕自身が愛されるに足るかどうか、僕自身を他の人が好ましく思うかどうかは、他人が決めることなのだ。当たり前のことである。
 だから僕を嫌いな人がいたとして、僕は気にならない。それはその人の価値観だから、それでいいと思う。
 無理をしてまで好かれる必要はないし、僕を嫌っているというだけの理由でその人を嫌う理由にはならない。

 自身が性的(あるいはその他の価値観で)マイノリティだったとして、それにたいして十全な理解や愛や寛容を求め、強制したところで、手に入るのは薄気味悪い愛想笑いだけのように僕には思える。
 同性に恋愛したことのない人にとって、同性に慕情を抱くこと自体が理解できないのと同じように。
 理解できなければ、人間は非難したり差別したり迫害したりもするだろう。
 過剰な拒否反応を示すこともあるだろう。
 それによって辛い(カレーの話ではないので、ここでは「つらい」と読みましょう)思いをすることもあるだろう。
 今はもう、ほとんどの人格/価値観に起因したマイノリティも(法に触れない限りは)「隠すべきだ」という時代ではなくなった。
 べつにオープンにしていていいと思うし、自身が抑圧する必要もないとは思う。

 ただ反動形成的に、愛や理解を強要する姿は、僕には少々滑稽で、なにより幼稚に映る。
 ガキがセックスを語るなよ。とまぁ、そんなふうに思っているわけではないのだけれど。
「聞いて、聞いて?」「わかって、わかって?」
 なんてまぁ、ねんごろなガールに言われるぶんには甘やかしちゃうぞ! なんて気持ちにもなるけれど、たかだかマイノリティな価値観に属しているだけの赤の他人(それも多くは成人だ)が、広く世間に求めるようなことだろうか。
 そういうマイノリティな価値観があるのは解るよ、認めるよ、というのも価値観ならば、そんなのは認められないし、気色悪い、と思うのだって価値観なのだから。
「これが認められないなんておかしい!」なんて一意的な良識を振りかざして、誰か(あるいは何か)を攻撃するのは、どうなのかなぁ、なんて僕は思ってしまうのね。

 そんな懸命に他人に愛されようとしなくても、他人に認められなくても、自分を認められる自分がいれば、自分を愛せる自分がいれば、スマートに生きられるのではないのでしょうか。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180223
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ご名湯でご名答
SUBTITLE:
~ wish or wash ? ~
Written by 黒猫


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 ガールに
「ねぇ、青猫〜。一緒にお風呂に入ろうよぅ」と提案される。
 英語に訳すとプロポーズであるが、すなわち提案である。

「ありがたく拝命賜りたく存じますが、現在の拙宅のユニットバスはバストイレは別であるものの40年ほど前の型式でありまして、物理的にコンパクトで最低限の用途むけに設えてあるため、ご一緒の入浴は困難にござる」
 といった具合に、慎重に、事実を踏まえたうえで、余計なことは語らず、相手の心情をなるべく傷つけないように配慮した上で、丁重に事態を沈静化するもくろみでワタクシも答えて曰く、なのである。
 日本語が変なのは仕様なのでござる。

 するとガールの答えて曰く。
「あなたの家だとベッドと寝室があるからダメ!」であると。

 一緒にお風呂に入りたいとアナタがおっしゃっているのはアレですか、僕の知っている「一緒にお風呂」と違うナニカなのでしょうか。

 おおガール。
 文脈から察するに「私(ガール)はガメラと一緒にお風呂に入りたい」と青猫に提案しているのでしょうか。
 あるいはガメラ以外(かつワタクシ以外)のゴジラかナニカ(あるいは誰か)と一緒にお風呂に入りたいと懇願されているのでしょうか私は。ガールから。

 それとも「青猫はスリジャヤワルダナプラコッテと一緒にお風呂に入るべきだよ」と提案されているのでしょうか。
 あるいはスリジャヤワルダナプラコッテ以外のンジャメナかナニカ(あるいは誰か)と一緒にお風呂に入るべきだよ、とサゼッションされているのでしょうか私はガールから。

 だってベッドと寝室は却下だけれど一緒にお風呂に入りたいなんていう心情は、なかなか想像できないわけですよ、ええ。
 あるいは「寝室とベッドを取り除いた家で暮らせオマエは!」という呪いなのかもしれない。呪詛か。
 呪詛ではなくて「私の会社の事務所で暮らしなさいあなた、猫でしょう?」という誘いなのかもしれない。そう考えればそれはそれで素敵かもしれない。
 しかしそれは「一緒にお風呂に入ろうよぅ」(小さい「ぅ」が付いていることはかなり重要なことなのであえて外していない)と相反する。
 というよりそんな提案(英語に訳すとプロポーズ)は不要ではないか。
 単に「私の事務所(ベッドも寝室もない)で眠りなさいアナタ」と言えばいいではないか。

 つまりそもそもの提案であるところの「一緒にお風呂に入ろうよ」の主語(誰が)と述語(誰と、あるいはナニと)がはっきりすれば、この問題は解決するのである。
 名探偵もびっくりの真実が(おおよそ)ひとつ(くらい)だけ見えてくるわけなのである。

 しかし僕もかれこれ20年以上は猫として生きているわけで。
 ここで素直に、自分に正直に、「Hey,ガール。ユーの提案しているのは、つまるところ、誰が、誰と一緒にお風呂に入るべきなんだい?」なんて尋ねようものならこの世の終わりがそこに待っている。いいね?
 もしもここに10代のうら若きボーイがいるならば、ああいるならば。
 僕は彼に教えておきたい。
 そんなことは口が裂けても尋ねてはいけない。
 とくにジャパニーズのガールにはダメだ。
 デリカシィ(珍味の意味ではない)のないオトコだと思われて、どういうわけか嫌われる運命しかそこには待っていない。
 そこはワビ=サビの世界であって、シンプルに自分の疑問を口にしてはいけないのだ。
 少なくとも安易にカールの本心など尋ねようものならば、ガールから[1:睨まれる]から[9:捨てゼリフとともに去られる]までの処罰が待っている。

 もっとも欧州圏のガールなら誘い水である可能性もあるわけで、よってもう少しひねった解答(いやぁ、いくらこのあいだドバイの別荘の屋上に設置したジャグジーでも、スリジャヤワルダナプラコッテ全土は入りきらないし、仮に入ったとしても君の入る余地はないよ?)をしてもいいし、むしろそんな程度の解答ならしない方がいいかもしれないし、任務の成否を問わず当局は君の生命と恋愛の行方を保障しないのでそのつもりで。成功を祈る。

>>>

 よくよく確認した(僕は9本の尻尾に相応した命があるから生き存えたものの、尻尾も退化したような諸君にオススメはしない)ところ「ガールは僕(青猫)と一緒に、時空的に同じ湯船のお風呂に入りたいがベッドインしたいわけではない」という明確なお答えをいただいた。
 バスルームでも欲情するタイプのオスがいるではないか、という設問にたいしては「アナタはそういうイキモノではない」という的確な洞察に基づいた回答をいただいた。
 もはや目的が分からない。ああ、はいはい、風呂ね、風呂。そんな感じである。

 しかしね、ぼかぁ、このところ、寝食するヒマもないほど忙殺されておるのだよ仕事に。
 とぼそっとつぶやく僕を無視してガールは「日帰りで、貸し切りの露天風呂がある温泉があるから一緒に行こうよぅ!」と提案(英訳するとプロポーズ)してくるのである。ぜったい俺が運転するだろ、行き帰り。

>>>

 かようにガールというのはミステリアスなイキモノなのではある。
 日帰りとはいえ、家族風呂という名目とはいえ、混浴の、休憩室付きの露天風呂を温泉施設のフロントというパブリックスペースで申し出る恥ずかしさというのはまた格別である。
 穢れた諸兄はなんとも思わないやもしれぬが、ワタクシは猫なので。
 しかしガールにそんな恥ずかしい思いをさせるわけにはいかないので、慣れた(ふうな)顔で「この露天の個室。2時間で」と言いましたよ。ええ、言いましたよ。
 ぱやぱやしに来たんじゃねぇよ! 風呂だよ風呂入りに来たんだよ! ガールからお風呂に誘われたから風呂に入りに来たんだよ!
 と叫びたい気持ちをぐっとこらえて。(叫んだら逆効果だから)

 緊張のあまり温泉の具合をほとんど忘れてしまったことよ。




// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Cat-
// ----- >>* Categorize Division *<< //



//EOF
ほんとうのことなどわからなくても。
ほんとのできごとがわからなくても。

ほんとうのきもちがわからなくても。
ほんとのことばがつたわらなくても。

きみがこきゅうをしているとわかっただけで。

くらやみにやさしくほのおがともったようだ。



いきてる?

うん、そう。
そうだね。

ううん。

わたしは、もう。
いきてはいないよ。
動画を動画としてリリースせず。
リンクのアタマ文字をわざわざ検索回避のために削除したりせず。
リンク先の内容にはたいして触れようともせず。
リンク先について誰かに紹介するつもりもまったくなく。
自分で思ったことを思ったように思えばいいんじゃないでしょうか、おもに僕は。

そしてオマエはオマエの思ったように思えばよろしいのだと思います。
誰に言わなくてもいいし、誰に認めてもらわなくてもいい。
誰に理解されなくてもいいし、誰の共感を得る必要もない。
ただただ、忘れずにいてほしいのです。

オマエの思ったことは、オマエの思ったことであって、他のダレカの思ったことではないのです。
当たり前のことなのですが、ワタシなどはついつい忘れてしまうのです。
ワタシの思ったことは、ワタシの中でかき消されてしまうのです。

ダレカの反対意見や、ヤツラの同調圧力や、ワタシの(おもにあさっての方向に)空気読んじゃう能力によって。
ワタシの思ったことは、ワタシの手でコロされてしまうことがあるのです。

オマエはオマエの思ったことを、オマエの思ったとおりに思って、それを大事にする権利があるのです。
むつかしい概念を除くと、オマエは思ったことを大事にすることが大切なのです。

自分の考えを大事にしすぎて有刺鉄線を巻き付けた棍棒みたいになっている人もいますけれど、それはそれでいいのです。
ほうっておけば周囲は血まみれです。
そういう場所には無理に近づかずに、距離を置いて、そっと。

そっとひとりでいられる場所を探せばよいのです。

それは孤独な作業でしょう。
見つかった場所もおなじく孤独でしょう。

でも。
もう血は流れない。

寒いかもしれない。
乾いているかもしれない。

ならば火を焚いて湯を沸かしましょう。
それができないときもあるでしょう。
ならばそっと涙を流しましょう。

きっとあたたかくなるから。
きっとかわきはおさまるから。

 体内時計が狂ってしまって、眠れない。
 ひどく疲れているはずで、身体のあちこちは変形し、こわばり、痛むけれど、アタマが眠れない。
 食事の最中に眠くなり、2時間くらい床に転がっていたのだけれど、寒さと床の硬さで目覚めてシャワーを浴びたら眠れなくなった。

>>>

   0600 起床。
0615-0630 家を出る。
0720-0750 職場付近のコンビニに到着し、大抵は仮眠を取る。
0800-1400 就労。
1400-1500 休憩という名の作業時間。食事をする時間などない。
1500-2100 就労。かなりの頻度で22時近くに終わることもある。
2200-0100 帰宅。洗濯。食事。シャワー。そして就寝。ときどきずれ込む。

>>>

 通勤時間は通常、90分前後かかる道程。
 60分前後に圧縮されているのは、なんというか、自動車を速く走らせることができるから、ではある。
 とはいえとても怖い。
 怖いけれど、悠長に運転することなどはできない。睡眠時間も食事の時間もぎりぎりだから。
 それに眠くなるから。

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 目の前にある物事の苦しさについて、具体的に、固有名詞まで用いて記録することについて、僕は自分自身に対して抑制が掛かっている。
 具体的に書くことは、ときに下品だ。

>>>

 とても疲れていて、何かをする気力が起こらない。
 思考をうまく整理できない。
 記憶がぐにゃぐにゃしている。
喫煙が趣味である。

最近はミニシガーにも手を出しているし、ストックを熟成しよう、なんて考えまで起こり始めた。

なにより、パイプ煙草は消費が遅い。
1缶50gが灰になるのに、単純計算でも15~20ボウル、毎日一回、1時間以上の喫煙時間があったとして3週間近くかかることになる。

新しい銘柄を見かけて興味を持って購入しても、実際にそれを吸うのは数ヶ月先、なんてこともあるし、つぎつぎストックの種類が増えるから1缶がなかなか終わらない。

シガーだって、ミニシガーでも1本1時間近く掛けて僕は吸う。
両切りショートピースを吸い終わるのでも、一本あたり15分程度はかかる。
吸うのが遅いといえばその通りだけれど、煙草の美味しい喫み方というのは、まさにそのスロースモーキングなのではある。

通常サイズのシガーなら、2時間近く保つこともある。
たびたび途中で火を点けなおすこともあるが、パイプ煙草で慣れているし、恥ずかしいとも思わない。

しかし僕には、喫煙友達がいない。
周囲に喫煙者はいるのだけれど、その喫煙経験を、より豊かにしたいと思っている人が、どうやらいないのである。

たいていはシガレットで満足しているようだし、その喫い方も僕からすると煙草殺しなものだ。
ゆっくり吸うことができないようだし、煙草の味を本当に知っているのかと疑いたくなることもある。

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お茶の時間、お酒の時間、ディナの時間と同じように、時間をかけて向き合うだけの奥行きがそこにはあると、僕には思える。

ちなみに、ベッドの上でも「時間がかかり過ぎる」と苦情を受けた経験がある。

なにせこの世はスピード社会だ。
煙草は5分程度も吸えば十分だし、食餌は空腹が満たせれば十分、セックスなどは排泄よろしく「用」さえ済ませればそれでよい、という風潮なのだろう。

おかげで僕は朝食と昼食を抜くことになるし、勤務の休憩時間であっても煙草を愉しむ余裕はない。
ディナは睡眠時間を削るから最低限の栄養を摂っているかどうかも分からず眠ることになる。

>>>

おそらく僕は多趣味なのだろう。

料理が好きだし、食器が好きだし、陶芸が好きだ。
煙草が好きで、お酒が好きで、食事が好きだ。
異性が好きで、同性が好きで、動物が好きで、そのカラダが好きで、スキンシップやマッサージをするのが好きだ。

なにかを作ること、考察すること、調整すること、という一連のサイクルが好きだ。

未来を予測すること、過去に思いを巡らせることが好きだ。

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インスタントなものにはインスタントなものの良さがある。

のんびり、ゆっくりの中には、味わいがある。

だけれどほとんどの人は、大味で、スピードファストなものしか感じられなくなっているのかな、と思うことがある。

ちなみに今日は、モンテクリストのミニシガー。
一昨日のコイーバのミニシガーも美味しかった。

一本30分以上は愉しめる。

価格は一本あたり150~300円程度なので、ちょっとしたカフェやお酒、軽食と比しても高いものではないと思うのだけれど、いかがなのでしょう。
::誇り? そんなものが何になる。
誇りが空腹を満たすか?
誇りが屍人を蘇らせるか?
生者にも死者にも役に立たないものを依りどころにすることに、いったいなんの意味がある。





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集団には穴がある。
その穴は必ず発生してしまうもので、そして途方もなく深い。
その穴に、ときどき、個体は落ちてゆく。
落ちた個体が助かることは、まず、ない。

>>>

人が2人手を取り合えば、最低でもひとり、多ければ2、3人の人が中に入ることのできるスペースができる。
多くの人が手を取り合えば、その中に、より多くの人が入ることができるだろう。

その囲いは人を守るために使われる防壁かもしれない。
団結は集団の発展に使われる能力かもしれない。

そしてその輪は、誰かを飲み込む、穴かもしれない。

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人間が集団を作るのは、あるいは社会性を持つ生物(昆虫や菌類も含まれる)がコロニィを構築するのは、それが生存に適しているからだ。

コロニィともなれば、集団が1つの個体としての生態を持ち、発生、成長、死までの時間的変化を持つ場合が少なくない。

とくに成長(発展)段階では様々な機能や能力を新たに獲得し、あるいは既存の能力を発展させ、単一の個体が集まっただけではとうてい不可能な影響力を持つこともある。

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では社会が、あるいは集団が衰退してゆくときはどうだろう。

互いに手を取り合い、足りないものを補い合い、相互に補完していたはずの集団が、それまで抱え、処理しきれていたタスクが過重になる。
包括的な視点を持つものが少なければ、タスクと能力の差を見極めることはむつかしい。

集団の補完能力によって保護されていた弱者としての個体は、集団の能力の低下によって保護されることなく最終的に死を迎える。
情緒的にいうならば、死よりひどい状況も存在するだろう。

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家族や会社、地域社会や国家は、衰退期になれば必然的に大きな穴を作ることになる。
手をつないでいた人が多ければ多いほど。
輪が大きければ大きいほど。
そこに呑み込まれる人は多くなる。

管理のためのムダなタスクはないだろうか。
新しい機能を作るのではなく、既存の機能を統合して、組織の触手をスリム化できないだろうか。

そして弱者は、本当に守る価値があるのだろうか。

>>>

なぜ弱者を守るのだろう。
なぜ弱者を守る必要があるのだろう。
誰のために。
何のために。

その根底にあるのが倫理観や道徳観だとしたら、それはあなたが本当に持っているものだろうか。
自分の中から、生み出された情緒だろうか。

もしも社会が衰退してゆく中で、それでも社会を存続させたいと思うなら、弱者は自ら身を引く必要があるだろう。
かつて社会の発展に帰依したことがあろうとなかろうと、その社会を生かすためには、社会を活用しない選択が必要なのではないだろうか。

>>>

僕は遺伝性の持病で、80代まで生きるのがやっとである。
通常は60代で死ぬし、社会的リソースとしての役割を果たせるのは50代までの可能性もある。

仮に60代から20年間、社会に養ってもらって生きる意味(あるいは価値、目的)が僕にはない。

そういうものを持たないように、つまりは生きることに過剰に執着しないように、これまで生きてきた中で選択してきた結果だともいえる。

もちろんヒマの潰し方はいくらでも心得ているし、長期的に達成したい目標のようなものもある。
しかし僕の目的が達成できたからといって、社会に劇的な変化を起こすことはまずないと思うし、ヒマを潰すだけの余生というのは、無価値とはいわないまでも退廃的ではある。

社会から、自由意志のもと、自ら身を引く選択があって然るべきだと僕がよくいうのはそのためである。

自分の為でもあるし、それは社会のためでもあると思っている。

>>>

弱者を守る必要が、僕は倫理観や道徳観ではなく、あると思う。
社会発展の機能として考えれば、弱者はリソースの消耗をより多く招く存在ではある。

必要とは、言いかえれば義務のことだ。

人がもし、自分の自由意志において弱者を守るとき、守る者自身の高貴さが守られる。
弱者に限らず、利己を最優先し、他者をかえりみない行為は結局のところ、そのものの品位をただただ落としてゆく。

>>>

結果的にそれは、自傷行為と同じなのだ。
他者を犠牲にすることに無神経でいられるのは、ある種のステータスかもしれない(それらを周囲から許されることに甘んじていられるだけの、何らかの価値を持っているという意味で)。

しかしそうした人から、僕は下品さを強く感じる。
(隠し子がいるという噂のある人物がこれを書いています)

品があるというのは、他者に譲る気持ちや慮る気持ちがあるということだと僕は思う。
品がないというのは、それらがないということになるだろう。

他人に譲らなければ、場合によっては、奪われ、傷つけられたと相手が感じる場面もあるだろう。

そういう気持ちや行為は、伝播するものだ。

あの人もしているから。
私がされたから。

そんな基準で、自身の品位を貶めている人も少なくはないと思う。
いちばんの問題は、それらが、無自覚に行われ、正当化されていることだ。
(もしかしたら僕は、品位に対して過敏にすぎるのかもしれないが)

見目が悪いだけではない、それこそ荒んだありようが、そこには展開されるだろう。

>>>

弱肉強食の世界。
一個の人体をしてもそうで、もっとも弱い部分から綻び、朽ちる。

再生能力がない、あるいは弱い部分であれば、その部分の機能はまず再生することのないまま、個体は永らえることになる。

おそらく朽ちゆく個体はそれでよいのだろう。
朽ちゆくコロニィはそれでよいのだろう。

しかし、もし人為的にコロニィの寿命を永続、あるいはせめても延命したいとするならば、相応の制御を、誰かがしなくてはならない。
あるいは恒常的なモデルを、そこに内包される各要素が自覚的、自発的に具現できるなら理想的ではないだろうか。

>>>

文明の発達によって、欠けた部分のある者でも、それなりに生きられる社会ができた。
その社会に甘えることによって人は、欠けていることが当然で、それによる不具合など感じない存在になったのかもしれない。

自然治癒力が低くても生きていける。
動植物を狩ることができなくても生きていける。
自分が知らない誰かを守らなくても、誰かがその人を守り、あるいは社会が、自分のことも守ってくれる。

くれるはず。

だから。
欠けていても問題などない。

自分に欠けているものなどあるはずがない。
自分が間違っているわけがない。
自分は常に正しくて、だから十分に価値がある。
コロニィの仕組みなんてブラックボックスのことなど、考えもしない。

そんな、欠損を持つものが輪を作る。
欠損を内側に向けて。
自分の目的と都合だけを考えて。

そのときできる穴は、本来よりも大きな穴だ。

>>>

集団には穴がある。
その穴は必ず発生してしまうもので、そして途方もなく深い。
その穴に、ときどき、個体は落ちてゆく。
落ちた個体が助かることは、まず、ない。

私が皆と同じ方向を向いたとき、その背後には、私の欠損が作った穴が口を開けていることだろう。

あなたはどこを向いているのだろう。

視野から外れた背後の、微かな咀嚼音が聞こえるだろうか。
その口は、誰の口だろう。





>>>

::うぬらに誇りはないのか。
名もなき弱き者たちを、守り助ける義務を忘れたのか。
自らの存在する意味を、役割を、忘れたのか。
私利私欲と他者の血にまみれた獣に成り下がったか。
20171012

ウィスキー、サラミ、シガー。
ときどき柿ピー。

休日といえば介護か引越し、という生活を1年半以上も送っていて、そのことは少なからず僕を底抜けにげんなりさせる。

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独りの自由で孤独な日々。

他人がどう言おうと、どう思おうと、その日1にちを自分で選びとっているという確信とヨロコビ。

私自身が許さないかぎり、自分は誰のリソースにも成りさがったりしないという矜恃。
何かと交換に手放したつもりも、売り払ったはずもない。

なのにほんの1時間ですら、のんびり、ぼんやりとした気持ちで遠い世界や、抽象的な概念に浸ることが許されない。

もちろん、そんな愚にもつかない、カネにもならないことに心血を注ぐ必要などないではないかという向きもあるとは思う。

でも本当に?

それの用途のない時代に発見された電気だって揶揄されたではないか。

四則演算が、そもそも数値の概念が、ない時代から人類は生きてきたのだ。

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医療技術の発達によって、個々人の人格が肉体よりも先に崩壊し、あるいは少なくともほころびるようになった現在、医師たちは延命治療を「しない」という選択をサゼッションするようになってきている。

やがて先進国は、生命というメディアの上に「人格」がないならば、その生命は仮にヒトであったとしても「個人」たり得ない、という自明の概念を浸透させるだろう。
「脳死」という定義がもたらされた段階で、これらはすでに起こっていたことだけれど「個人」が何に宿るのかということについては、形而の境界がいまだに不明瞭なのだろう。

だって、記憶が人間の脳のどのあたりにあるかということが分かっていても、それがどんなフォーマットで、どのように格納され、どんな手続きによって取り出されるのか(少なくとも表向きには)解明されていない以上、人間の記憶はブラックボックスのままで、記憶による定量化された価値観の重み付けと、価値観の集積による人格形成に至る関数が解明されていないのが現状で、ヒトは「個人」の個人たる根拠と境界を明確にできないがゆえに「個人」とその根底を為すはずの人格を定義できないのだから。

そうした量子的な存在である「個人」を、しかしヒトは感覚的に理解し(あるいはそのつもりになっ)て、たとえ抽象的にであっても定義しているのが現代の社会。

そして「老い」によって曖昧に境界を失いつつある個人とその成立要件である人格を保持するために支払われる、個々人、もしくは社会的なリソースは、最終的に社会そのものの定量的な物質を、社会そのものの推進力としてではなく消耗してゆく。

端的にいえば、生命倫理が旧来のカタチから変革しないかぎり、死にかけた人間を物質的に保持するためだけに、多くの人間の時間と経済が消耗されてゆき、保持された死にかけの人間が果たして人格を適切に保持した「個人」なのか、それとも単なる「生体(生命活動を続けるだけの物体)」なのかは曖昧に定義できないまま、社会そのものが疲弊して痩せ衰える運命にあると僕は思っている。

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さて。

個人とは何だろう。

人格とは何だろう。

生命とは何だろう。

倫理とは何だろう。

社会とは何だろう。

経済とは何だろう。

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いずれAIにも、人格権が認められるかもしれないと僕は思っている。
でもそのとき、人類は、人格の意味を刷新する必要に迫られる。
つまり、人格と非人格の境界とその定義を明確にする必要に迫られる。
(定量的にではなく量子的にであれ)

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死というのは、あるいは生というのは、しかし量子的に、観察上(客観的に)はディジタルな側面がある一方で、しかし主観的にはアナログなのだ。

毎日たくさんの細胞が死にながら、生命活動が維持されている。
死んだとされる個体の肉体の多くの部分は、まだ生体としては生きている。

どこからどこまでがその個体の死で、どこからどこまでがその個体の生なのだろう。

抽象的で曖昧だ。
だからヒトはそこに挑むのかもしれない。

でも、挑もうと挑まなかろうと、現象はそこにあって、社会はそれを内包しながら、時間の概念によって直線的に後戻りなどできずに進んでゆく。

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僕には、何も考えず、ただただ日々を、追われるように、ただただ生きるという選択肢も当然ながら与えられている。
おそらく抗うことなく生きる道もあるだろう。

しかし果たして、それは生だろうか。

何も生み出しはしないことを考えるのは、そんなにも役に立たず、非生産的で、愚にもつかないことだろうか。

いや仮にそうだとして。

ならば生産的で、利口な手法と道筋は、いったい誰が知っているというのだろう。
いったいだれが示してくれるのだろう。

あなたか?

それとも政治家か?

1日経つごと、社会は1日ぶん進み、僕らの寿命は減り、つまり僕らは1日ぶん、賢くあったほうが望ましい。

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どこからどこまでがその人格の生で、どこからどこまでがその人格の死だろう。

だから人格は、自らの死を、自ら定義する必要がある。

曖昧で抽象的なものにメスを入れ、2つに切り分けるのは、他ならぬ知性の能力なのだから。

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僕は今日を生きる。
あるいは今日、死ぬかどうかを決める。

生きるとは、漫然と、今日も明日も生きることを指すのではない。
生きることと死ぬことを切り分けて、どちらに自分がいるかを決めることではないだろうか。

葉巻の煙が美味しいから、今も生きているものと想像する。

ヒトがヒトを生きる必要があるように、猫は猫を生きる必要がある。
観察者が観察したときに初めて生きているか死んでいるかが決まるような生き方を、神をも恐れぬ傲慢な僕は許すことができないのだと思う。
以前棲んでいた街の裏山をドライブしていたのである。
自動車二台がどうにもすれ違えないような、へんぴな集落が、当時の棲家から30分も走らない場所にあるのである。

手書きの大きな看板に「銀杏、大粒。100g 100円」とある。
どこでもいいから私とどこかに行かないとビョーキになるぞ、と脅しをかけていたガールに尋ねると「面白そうだから行ってみたい」という。

駐車場もないので大きく迂回してもう一度前を通り、畑の横に車を停める(もっとも車は我々の乗っているもの以外、ほとんど見ていない)。

看板を横道に逸れてゆくと、先にあるのはただの民家である。山奥だから当然だけれど。

20代の頃の僕なら、引きこもりで人見知りだから、こんなところには来ない。
来ても車を降りない。
降りてもここで引き返す。
だって民家だもん。

でも営業職経験後の僕は、なんなく家の網戸になっている窓やらドアの隙間やらを、吠え立てる犬ころを無視して瞬時に探し出し、そこから中に声をかける。
「こんにちは~! 銀杏、ください」

かくして、格安にして、見たこともないような大粒の銀杏を手に入れたのである。
生まれてこのかた、売り物でも、貰い物でも、見たことがない。

しかし帰宅していざ調理する段になって身をもって知る。
大粒の銀杏は、殻も硬いのだ。

電子レンジで加熱すれば簡単だよぅ、とガールはメール越しに教えてくれたが(近年、デートは明るいうちに送り届けて夜はひとりで過ごすのが僕のスタイルである)その方法で、僕は成功した試しがない。

それにしても殻が硬いので、おなじみの方法にアレンジを重ね、とうとう銀杏の実の、N極S極を判別できるようになったのである。

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N極。
殻が厚い。
殻のエッジはぼやけていて、先端部をよく見ると、梅の種のようにしわしわしている。
剥いたときに白っぽい薄皮がある側。
この薄皮は、繊毛で殻に密着していることも多い。

S極。
殻が薄い。
殻のエッジはピンとしていて、先端に行くほどエッジがくっきりしている。
剥いたときに殻が剥がれやすく、薄皮に繊毛がないため茶色い。

殻付きの実、全体を見るとN極は尖っている。
S極は丸みを帯びている。

N極は上を向いて、軸に近かったものと思われる。
殻が硬くシワがあるのは、そこから生長するためだろう。

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さてこの銀杏を、フライパンの上でから炒りするのである。
殻ごと、中火くらいで、よく回し混ぜながら。
殻が程よく焦げ色になったあたりで火を止め、あるなら軍手をして、ペンチやニッパ、あるいはキッチンはさみで、N極の先端数ミリの殻を切り割る。

それから、ペンチやプライヤ、キッチンはさみの殻割り部分を使って、半分よりN極側の殻をはさみ割り、全体の殻を剥く。

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剥き終わる頃にはゲンナリしているが、銀杏自身も熱のせいで少し乾燥していることだろう。
薄皮付きの実をボウルなどに入れ、湯(熱湯でなくても問題ない)に浸けて30分くらい置く。
僕はこの間にシャワーを浴びた。

シャワーを出たら銀杏から湯を切り、ふたたびフライパンで弱めの中火くらいでから炒りしつつ、かるく塩をふる。
水気がフライパンになくなるあたりで油(私の家にはオリーブオイルとごま油しかないので今回はごま油)をかけ混ぜ、さらにしばらく炒る。

最後に味見をして、味が薄かったら塩をふりかけてできあがり。

いやうまいのなんの。
子供の頃、迷子になったことがある。

母親と離れてしまったことが悲しくて、ひとりぼっちであることが寂しくて、ここがどこであるのか不安で、無事に帰れないのではないかと心細くて、僕は泣いた記憶がある。

孤独は恐ろしくて、さみしいものなのだと、僕は思っていた。

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大人になった僕は思う。

誰かといるから悲しくなるのだ。
誰かといるから寂しくなるのだ。
居場所があるから不安になるのだ。
帰る場所があるから心細いのだ。

ほんとうにひとりぼっちなら。
悲しくはならない。
寂しくはならない。
不安にならない。
心細くもならない。



ひとりだったら、大丈夫なのだ。