20171012

ウィスキー、サラミ、シガー。
ときどき柿ピー。

休日といえば介護か引越し、という生活を1年半以上も送っていて、そのことは少なからず僕を底抜けにげんなりさせる。

>>>

独りの自由で孤独な日々。

他人がどう言おうと、どう思おうと、その日1にちを自分で選びとっているという確信とヨロコビ。

私自身が許さないかぎり、自分は誰のリソースにも成りさがったりしないという矜恃。
何かと交換に手放したつもりも、売り払ったはずもない。

なのにほんの1時間ですら、のんびり、ぼんやりとした気持ちで遠い世界や、抽象的な概念に浸ることが許されない。

もちろん、そんな愚にもつかない、カネにもならないことに心血を注ぐ必要などないではないかという向きもあるとは思う。

でも本当に?

それの用途のない時代に発見された電気だって揶揄されたではないか。

四則演算が、そもそも数値の概念が、ない時代から人類は生きてきたのだ。

>>>

医療技術の発達によって、個々人の人格が肉体よりも先に崩壊し、あるいは少なくともほころびるようになった現在、医師たちは延命治療を「しない」という選択をサゼッションするようになってきている。

やがて先進国は、生命というメディアの上に「人格」がないならば、その生命は仮にヒトであったとしても「個人」たり得ない、という自明の概念を浸透させるだろう。
「脳死」という定義がもたらされた段階で、これらはすでに起こっていたことだけれど「個人」が何に宿るのかということについては、形而の境界がいまだに不明瞭なのだろう。

だって、記憶が人間の脳のどのあたりにあるかということが分かっていても、それがどんなフォーマットで、どのように格納され、どんな手続きによって取り出されるのか(少なくとも表向きには)解明されていない以上、人間の記憶はブラックボックスのままで、記憶による定量化された価値観の重み付けと、価値観の集積による人格形成に至る関数が解明されていないのが現状で、ヒトは「個人」の個人たる根拠と境界を明確にできないがゆえに「個人」とその根底を為すはずの人格を定義できないのだから。

そうした量子的な存在である「個人」を、しかしヒトは感覚的に理解し(あるいはそのつもりになっ)て、たとえ抽象的にであっても定義しているのが現代の社会。

そして「老い」によって曖昧に境界を失いつつある個人とその成立要件である人格を保持するために支払われる、個々人、もしくは社会的なリソースは、最終的に社会そのものの定量的な物質を、社会そのものの推進力としてではなく消耗してゆく。

端的にいえば、生命倫理が旧来のカタチから変革しないかぎり、死にかけた人間を物質的に保持するためだけに、多くの人間の時間と経済が消耗されてゆき、保持された死にかけの人間が果たして人格を適切に保持した「個人」なのか、それとも単なる「生体(生命活動を続けるだけの物体)」なのかは曖昧に定義できないまま、社会そのものが疲弊して痩せ衰える運命にあると僕は思っている。

>>>

さて。

個人とは何だろう。

人格とは何だろう。

生命とは何だろう。

倫理とは何だろう。

社会とは何だろう。

経済とは何だろう。

>>>

いずれAIにも、人格権が認められるかもしれないと僕は思っている。
でもそのとき、人類は、人格の意味を刷新する必要に迫られる。
つまり、人格と非人格の境界とその定義を明確にする必要に迫られる。
(定量的にではなく量子的にであれ)

>>>

死というのは、あるいは生というのは、しかし量子的に、観察上(客観的に)はディジタルな側面がある一方で、しかし主観的にはアナログなのだ。

毎日たくさんの細胞が死にながら、生命活動が維持されている。
死んだとされる個体の肉体の多くの部分は、まだ生体としては生きている。

どこからどこまでがその個体の死で、どこからどこまでがその個体の生なのだろう。

抽象的で曖昧だ。
だからヒトはそこに挑むのかもしれない。

でも、挑もうと挑まなかろうと、現象はそこにあって、社会はそれを内包しながら、時間の概念によって直線的に後戻りなどできずに進んでゆく。

>>>

僕には、何も考えず、ただただ日々を、追われるように、ただただ生きるという選択肢も当然ながら与えられている。
おそらく抗うことなく生きる道もあるだろう。

しかし果たして、それは生だろうか。

何も生み出しはしないことを考えるのは、そんなにも役に立たず、非生産的で、愚にもつかないことだろうか。

いや仮にそうだとして。

ならば生産的で、利口な手法と道筋は、いったい誰が知っているというのだろう。
いったいだれが示してくれるのだろう。

あなたか?

それとも政治家か?

1日経つごと、社会は1日ぶん進み、僕らの寿命は減り、つまり僕らは1日ぶん、賢くあったほうが望ましい。

>>>

どこからどこまでがその人格の生で、どこからどこまでがその人格の死だろう。

だから人格は、自らの死を、自ら定義する必要がある。

曖昧で抽象的なものにメスを入れ、2つに切り分けるのは、他ならぬ知性の能力なのだから。

>>>

僕は今日を生きる。
あるいは今日、死ぬかどうかを決める。

生きるとは、漫然と、今日も明日も生きることを指すのではない。
生きることと死ぬことを切り分けて、どちらに自分がいるかを決めることではないだろうか。

葉巻の煙が美味しいから、今も生きているものと想像する。

ヒトがヒトを生きる必要があるように、猫は猫を生きる必要がある。
観察者が観察したときに初めて生きているか死んでいるかが決まるような生き方を、神をも恐れぬ傲慢な僕は許すことができないのだと思う。
以前棲んでいた街の裏山をドライブしていたのである。
自動車二台がどうにもすれ違えないような、へんぴな集落が、当時の棲家から30分も走らない場所にあるのである。

手書きの大きな看板に「銀杏、大粒。100g 100円」とある。
どこでもいいから私とどこかに行かないとビョーキになるぞ、と脅しをかけていたガールに尋ねると「面白そうだから行ってみたい」という。

駐車場もないので大きく迂回してもう一度前を通り、畑の横に車を停める(もっとも車は我々の乗っているもの以外、ほとんど見ていない)。

看板を横道に逸れてゆくと、先にあるのはただの民家である。山奥だから当然だけれど。

20代の頃の僕なら、引きこもりで人見知りだから、こんなところには来ない。
来ても車を降りない。
降りてもここで引き返す。
だって民家だもん。

でも営業職経験後の僕は、なんなく家の網戸になっている窓やらドアの隙間やらを、吠え立てる犬ころを無視して瞬時に探し出し、そこから中に声をかける。
「こんにちは~! 銀杏、ください」

かくして、格安にして、見たこともないような大粒の銀杏を手に入れたのである。
生まれてこのかた、売り物でも、貰い物でも、見たことがない。

しかし帰宅していざ調理する段になって身をもって知る。
大粒の銀杏は、殻も硬いのだ。

電子レンジで加熱すれば簡単だよぅ、とガールはメール越しに教えてくれたが(近年、デートは明るいうちに送り届けて夜はひとりで過ごすのが僕のスタイルである)その方法で、僕は成功した試しがない。

それにしても殻が硬いので、おなじみの方法にアレンジを重ね、とうとう銀杏の実の、N極S極を判別できるようになったのである。

>>>

N極。
殻が厚い。
殻のエッジはぼやけていて、先端部をよく見ると、梅の種のようにしわしわしている。
剥いたときに白っぽい薄皮がある側。
この薄皮は、繊毛で殻に密着していることも多い。

S極。
殻が薄い。
殻のエッジはピンとしていて、先端に行くほどエッジがくっきりしている。
剥いたときに殻が剥がれやすく、薄皮に繊毛がないため茶色い。

殻付きの実、全体を見るとN極は尖っている。
S極は丸みを帯びている。

N極は上を向いて、軸に近かったものと思われる。
殻が硬くシワがあるのは、そこから生長するためだろう。

>>>

さてこの銀杏を、フライパンの上でから炒りするのである。
殻ごと、中火くらいで、よく回し混ぜながら。
殻が程よく焦げ色になったあたりで火を止め、あるなら軍手をして、ペンチやニッパ、あるいはキッチンはさみで、N極の先端数ミリの殻を切り割る。

それから、ペンチやプライヤ、キッチンはさみの殻割り部分を使って、半分よりN極側の殻をはさみ割り、全体の殻を剥く。

>>>

剥き終わる頃にはゲンナリしているが、銀杏自身も熱のせいで少し乾燥していることだろう。
薄皮付きの実をボウルなどに入れ、湯(熱湯でなくても問題ない)に浸けて30分くらい置く。
僕はこの間にシャワーを浴びた。

シャワーを出たら銀杏から湯を切り、ふたたびフライパンで弱めの中火くらいでから炒りしつつ、かるく塩をふる。
水気がフライパンになくなるあたりで油(私の家にはオリーブオイルとごま油しかないので今回はごま油)をかけ混ぜ、さらにしばらく炒る。

最後に味見をして、味が薄かったら塩をふりかけてできあがり。

いやうまいのなんの。
子供の頃、迷子になったことがある。

母親と離れてしまったことが悲しくて、ひとりぼっちであることが寂しくて、ここがどこであるのか不安で、無事に帰れないのではないかと心細くて、僕は泣いた記憶がある。

孤独は恐ろしくて、さみしいものなのだと、僕は思っていた。

>>>

大人になった僕は思う。

誰かといるから悲しくなるのだ。
誰かといるから寂しくなるのだ。
居場所があるから不安になるのだ。
帰る場所があるから心細いのだ。

ほんとうにひとりぼっちなら。
悲しくはならない。
寂しくはならない。
不安にならない。
心細くもならない。



ひとりだったら、大丈夫なのだ。
チョコレート。
テキーラ。
缶ピース。
ラム(バカルディ)。
お月様。

>>>

つまりは月見酒であり、ガールがいないベランダは寒いのであり、ここは私の家ではないのである。

>>>

人格の多くは記憶によって形成されるのだと、14歳の青猫少年は思い至ったものである。

その予測は実に正しかった。

記憶が失われてもなお、生への執着が消えない人間を見ていると、どうにもやるせない感情が芽生える。

かつてのそれは、怒りに似ていた。
殺意にも似た、怒りだ。
いつしかそれは、憐れみに変わった。
拾ったところで助かる見込みのない捨て猫を見るような、憐れみだ。
同時にそれはおかしみに変わった。
もう、当人と呼べるだけの人格が存在していないように観察されるが、しかし当の本人はどうだろう。
今も自分は自分だと強く思っていることだろう。

殺意にも似たおかしみを感じて、だから僕はそばに寄り添うという選択をする。
排泄物と死の匂いがする。

>>>

もう僕は自分の2/3を生きた。
犬のように短い生命であることは最初から分かっていた。
だから、同じ時間を多重に生きようと思った。
ヒトとして、ケモノとして。
オトコとして、オンナとして。
色を持つ者として、色のない物として。
温度を時に失い、湿度を時に持たずに。

天命を知るにはまだ早いとは思うが、メトセラほど長生きできるはずもない。
なにせ僕は業が深いから。

それでも僕がこうして生きている理由は至極単純で、生きていることが楽しいからだ。

どんな悲しみも、どんな虚しさも、どんな孤独も、どんな痛みも、どんな飢餓も、どんな狂気も、僕を殺さなかった。
おそらく、僕が自分を好きにすぎるから、その自己愛のゆえに、僕は自分を生かす道を探してしまうのだろう、無意識に。

でも肉体が滅べば人格は消える。
僕たちという人格は僕を十分に楽しんだけれど、おそらく自身の死さえも、最初から楽しんでいるのだ。

>>>

多くの人は、自身が世を去る日を知らないという。
それはそれで幸せなことなのかもしれない。

人間は偉そうにあれこれ言うものだけれど、自身の生と死さえコントロールできない、未熟で不完全な存在なのだ。

終わりの分からないコースを走りながら、やれ努力だ、目標だと競い合う。
誰かに勝って、自分を誇示して、それで何かが得られるのだとしたら、たいそうおトクである。

>>>

量子論的に、この世界はヴァーチュアルなものらしい。
非常に哲学的ではあるけれど、僕も、他の多くと同じように、所詮は自分の主観にしか興味がないのだ。

客観なんてコトバは、主観しか知らない知性にしか思いつかないだろう。
なぜって最初から客観を知っていたら、それは主観として、その人格の中に生きるから。

>>>

あなたはダレを生きているの?

>>>

私は、たぶん、誰でもない。
私ですら、たぶん、ない。
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20170918
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
一意的な良識について。
SUBTITLE:
~ compressed composite possession. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Lead Division *<< //

::ならばこれからは、「理」の代わりに「無理」が横行する世界になるのだろうか。それとも「理(ことわり)」と信じていたことが実際は、冷厳な現実を見ようとしない人々の気分を良くするぐらいの役割しか果たしていなかった、幻影でしかなかったのか。



// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
170915

 先日、とあるニュースをネットで見かけたとき、その記者の使っていた言葉が妙に気になった。
 気になった、といっても悪い意味ではない。
「一意的な良識」というのがそれだったように思う。
 その一文では「一意的な良識などによって窮屈な思いをしている人が少なからずいる」というようなことが表記されていたように記憶している。

 記事の本文についてはとうに忘れてしまったのだが、その表現は妙に印象に残った。
 言い得て妙。
 なんだ、たったひとことで言い表せるんじゃないか、と。

 戦後生まれの団塊世代が世相の中心となり、団塊ジュニア世代が世を牽引している昨今。
 ちなみに僕は団塊ジュニア世代に位置しているものと推察する。
 けれども、そこに醸されている不気味さを僕は子どもの頃から感じていた。
 戦争が終わって、基本的には大切にされ、経済成長と相まってわがままを享受した世代。
 そういう世代に育てられた団塊ジュニア世代の子育てについて、僕は僕なりに予測をしていたし、だからこそ自分は(早々にこの世から去るという高い可能性も含めて)結婚と子育てから遠ざかっておこうと考えていた(隠し子はいるらしいが)。

>>>

 多様性を担保するだけの人口という分母があったから、社会は資本の豊かさを背景に多様性を実現した。
 多種多様の人が容易に情報交換をする(できるようになった)中で、良識は多様性という個々のゆらぎを認め(できることなら尊重し)つつ、人々は感情や倫理に緩衝エリアを持っているべきなのだと僕は思っている。

 しかしどうだろう。
 なんとも非寛容で、下世話な世の中ではないだろうか。

 じつに隠し子がいると申し上げると眉をひそめる人の多いことよ(笑)。
(真偽は本人も分からないのだからどうにもならないのだが)

 冗談はともかく、メディアというメディアが「不倫だ」と騒ぎ立てたりするのは、僕にはよく分からない。
 おそらく大衆がそれに強く反応し(つまりは潜在的にそれを求め)ているからなのだとは思うが、芸能情報誌のゴシップじみた話題を大衆という大衆が望んでいるのだとしたら早晩この国は滅ぶのではないだろうか。
 他人の不倫についてあれこれ熱く論じるなどというのは、端的にいえば他人の恋愛やセックスについて熱く論じるということである。
 僕も自分のことを相当下世話な人間だとは思っていたけれど、そこまではしたないことはできない。

 たとえば大でも小でもいい、排泄行為そのものについて、やれ「こういう風に」「こういう姿勢で」「どこに力を入れて」なんて、いい大人に指導するオトナがいるだろうか。
(同様の理屈にもとづいて、僕は思春期になる以前から、いわゆる「下ネタ」が苦手である。品がないし面白くもない。知的にも性的にも興奮しない。脳のどこにも電流が流れない)
 たしかに排泄「前後」の流儀についてならば公衆衛生上も意義のある話ができるだろう。

 たとえば(今は主流になっているのか分からないが)男性は排尿をする際も、できるだけ座ってした方が衛生的だし掃除をしやすい。
 排泄後、もしもトイレを汚してしまったら、すみやかに掃除をするのは精神的にも細菌的にも衛生的である。
(そのようなわけで、僕はたいていコンビニなどのトイレを借りると掃除をしはじめるところから始まってしまい、なかなか出てこないことがある。不倫だの不適切な発言だのを論じるよりも、トイレを綺麗に使える人間をひとりでも増やす方が、世のため人のためであると僕は信じてるのね)

 不倫について話を戻すとするならば、ひとりひとりがその要素である公衆に向かって不倫を語ること、語らせることの下世話さ、品のなさが実に情けないことだと僕は思う。
 もちろん、ほとんど9割方の人間は、他人の不倫なんてどうでもいいと思っているとは思う。
 芸能人が不倫をしようが、政治家が不倫をしようが、芸能人は芸能に精を出せばいいではないか(下ネタではない)、政治家は政治生命をまっとうすればいいではないか(性的な意味ではない)。

 誰かに不倫を勧めるつもりもないし、不倫が素晴らしいとも、汚らわしいとも僕は思わない。よって否定もしない。
 したい人は勝手にすればいいし、その行為そのものによって誰かが損害を被るならば、当事者たちが相応に賠償すればいいだろう。
 親でも配偶者でも身内でもない誰かの不倫によって、私は損害を被らない。
 では友達だったらどうなのかと問われるかもしれないが、それだって僕の知ったことではない。
 僕と彼ら(あるいは彼女たち)が恋愛関係だったとしても、僕は特に気にしない可能性がある。

 リベラルを気取っているわけではない。
 恋愛やら婚姻契約やらについて、僕は僕なりの考え方があるというだけだし、それを誰かに開陳するほど悪趣味にはなりたくないし、誰かに強制するほど阿呆でもないというだけだ。

>>>

「一意的な良識」によって、人はそのありようを規定の枠にはめることの窮屈さを味わうだろう。
 赤子が電車で泣いただとか、赤子に授乳するような場面を見たとして、僕は何とも思わない。
 誰かが普通に生きているだけじゃないか。
 他人の生きていることに対して勝手に不快感を覚えて相手を攻撃するのは愚行だと僕は思うが、人々はそういった攻防について、どこかの国の主導者だけでは足りないのだろうか。

 一人が苦言を公表すれば、それで「不謹慎だから」「不適切だから」となってしまって、誰もが他人の空気を読むことに必死で雁字搦めになってしまう。

 僕は基本的に愚劣なガキ(年齢を問わない)が嫌いなので、そういうイキモノの棲息する場所には近づかないようにしている。
 一方で良識を持つ人たち(年齢/性別/国籍を問わない)は大好きだし、僕自身には希少な存在なので、そういう人にはこちらから会いに行くこともある。
(座布団の上で寝ているばかりではないのだ)

「まともな人」のほうが多くて、だからそうした人たちはいちいち「下世話だ」なんて騒いだりしないのだと僕は想像する。
 下世話なことで騒いでいるのは下世話な人間同士なのだと僕は思いたいし、実際にそうだろう。
 僕の知っている良識人たちは、たとえば雇用問題や法規との兼ね合いのむつかしさなどについて卑近な例から高尚な推察、短長期的な希望や憶測について語ってくれたりする。

 そう考えると僕は今回、ずいぶんと野蛮で下品なことをしていることになる。
 思っていることを言葉にするというのはそういうことだ。

>>>

 たとえば「I love you.」は基本的に野蛮で下品だ。
 だから公衆の面前で、僕はそれを言えない。
 暗闇で。二人きりで。耳元で。
 そんな場面でしか口にできない臆病者というのが僕の正体だと思っていい。

 もしそれを公衆の面前で言えるなら、その行為は素敵だとは思う。勇敢だとは思う。
 でもそれは、その行為の野蛮さや下品さを知っていて、ためにある高いハードルを乗り越えることの勇敢さであり、乗り越えられたことの素敵さだろう。

 生まれてこのかた、それが当たり前のように生きてきた人間がそれをしたところで、面白みも何もない。








// ----- >>* Escort Division *<< //

::では、二十一世紀に突入した今現在の現実は何だろう。
 一、結局は軍事力で決まるということ
 二、アメリカ合衆国への一極集中
 三、国連の非力
 四、日本の無力
 これらこそが、「見たいと思わなくても見るしかない現実」であって、それが今、話し合いによる解決、アメリカへの一極集中を排する多極化、世界の諸問題の解決の場としての国連、世界平和に貢献する日本、等々の「見たいと思ってきた現実」を突き崩してしまったのである。






// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「イラク戦争を見ながら」From「日本人へ ~ リーダー篇 ~」(p.12-13)
(著作:塩野 七生 / 発行:文藝春秋)
によりました。

なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]







//EOF
死は蔓延る。


汝(な)が名を名乗れ。

一族郎党その血を根絶やしにしてやろう。

うぬらが気にするともなしに引き継いできた脈を。
うぬらがただのお飾りにしてきたその血を。
その名を。

我が指に触れさせよ。


穢れとともに絶やしてやろう。

汝らの血を。
汝らの名を。
何度となく壊れる私の家のMacは、またも致命的な状態になっているのだけれど、仕事や介護に忙殺されそうで(死んではいないが少し間違うと死ぬか殺すかはしそうであり)とてもではないが Macの修理にかまけている時間はない。
もとよりインターネッポーを漂う時間は僅かにしかない。
そのうえギターのコードを覚えている時間もまったくなくて、僕のギターテクニックは劣化の一途を辿っている。

あと5年(長くてもあと10年)以内に早隠居し、ろくに貰えないであろう公的年金を受け取るより前にこの世(あるいはこの国)を去る予定で人生設計をしている私にとって、つまりこの数年は我慢をしておくに越したことはない。

まぁ今まで好き勝手に生きて来たし、また好き勝手に生きるんだから数年くらいはいいかな、どうせ好き勝手に生きちゃうんだろうし好き勝手に死ぬんだし。
ただ僕が死ぬと妹が後追い自殺をしかねないのが最大のネックとなっていて、僕は容易に死ぬことを選べない。
あと死ぬなと弟子がうるさい。

>>>

この世に残したいいくつかの技術のひとつに、乾麺の食べ方がある。

今回はそのうちのひとつ、ロングパスタについて語りたい。

ちなみに僕は1.5ミリから1.6ミリのパスタが好きである。
ショートだとペンネはかろうじて許すがほとんどのマカロニは許さない。
つまるところ、ガールの髪型はショートがいいというのは「ショートの似合うキュートなガールはすべからくロングも似合うから」という理論に裏打ちされている。

逆説的にロングで美味しいパスタのソースはショートで使ってもたいていは美味しいものの、小麦の味の良し悪しが大事なので味気ないパスタ(安くても美味しいものがあり、高くても味気ないものがある)は食べないほうがよい。

まずは茹で方。これが9割がたの美味しさを決める。
湯はほどほど多めにする。
うどんと違い、多すぎるのも考えものである。
火にかけて沸騰するより前(私は火にかけてすぐ)に塩を入れる。量はソースのタイプや味や量、なにより麺の太さによっても変わるから研鑽あるのみ。
麺がどうしてもくっつく、という場合は、使う麺を変えるか湯の量を増やしたほうがいい。
あと、うどんや蕎麦ではないのだから、茹でている間はこまめに菜箸などで回して撹拌する。最低でも1分に1度は。
麺を茹でている間に、市販のパスタソースを別鍋で温める。
自作のトマトソースや和風ソースなどを作ってあるならそれでもよい。

袋に書いてある2分前には鍋から引き上げる。
(フライパンを使って和えるタイプは3分前でもよい)
このときコップ1杯ぶんくらいの茹で汁をとっておく。

麺を皿に盛ってオリーブオイルを大さじ1から好きなだけ、回しかける。
上から茹で汁をかける。
少ないよりは多いくらいのほうがいい。
その上からソースをかける。
最後にコショウなどを軽くかける。
ペッパーミルがない場合は辛くなるだけで薄っぺらな香りしかしないので、なにもしない方がいい。

最初はぼりぼりとした歯応えが味わえる。
硬いのがイヤな人は茹ですぎたウドンでも食え。
アルデンテとはこのくらい硬いのだと僕は思うよ(口調が変)。

次第に適当な歯応えになってゆく。
ソースと麺の味も混ざって変わってゆく。
塩ゆでしただけの麺がちゃんと美味しいなら、このくらいのほうがいいんじゃないかと思う。
コショウは途中から振って、さらに飽きたらそこでチーズをかける、という食べ方もある。

最初からなんでも掛けまくるようなはしたない食べ方はどうかと思うよ。
蕎麦つゆにありとあらゆる薬味を入れて、わさびも溶きまくっちゃうような食べ方が好きな人は仕方ないけれど。

>>>

世間の死生観が、やっと変わりつつある(変わらざるを得ない)段階に来たと僕は思う。
父上を弔った当時、家族葬なんて言葉はなくて密葬と呼ぶしかなかったし、散骨も珍しかった。

きっともっと変わるだろう。
人口が増え、高齢化が進行している現在、相対的に長寿と死の価値はますます下がる。
命の値段はその総数が増えるほど下がってゆく。
だから誰かが自分の命を高価にするためには、それを下支えするだけの担保が必要になる。
総数が少なかった頃は、そんな必要などなかったのに。

WHOの手引きなのか、酒とタバコはますます嫌われているが、誰が、何のために世界的な健康寿命を延ばしたがっているのかを考え始めてもいいのではないだろうか。

やがて安楽死を認めるようになるのではないだろうか。
(この国ではまだ無理かもしれないが、それでも、この国に必要な変化の1つだとは思う)
自我や記憶、統合的かつ高度な知的機能を失ってなお生きている人というのは、脳死さながらの生ける屍だからだ。

僕は幸い、他より早く死ぬ。

いくら今から薬を飲んでも(できる限り飲むようにはしているが)避けられないだろう。
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:170820
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
今日のお酒とおとも

SUBTITLE:
~ Today’s headliner ~
Written by 黒猫


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 スーパーで買ってきたキュウリやナスなんてものを、常温の野菜置き場(もしくは俺の家の冷蔵庫)に放置しようものなら24時間もする頃には、しおしおとしてしまうものなのである。たいていの場合。

 しかしながら活きのいい野菜はちょっと違う。
 昨晩はもやしひと袋を炒める時間すらなかったので、完全放置になっていたことよ。

 かくして本日あわてて調理をしようと袋を開けてみたのであるが。
 キュウリはとげとげしくも凛としており、ナスはとぅるんとした光沢を放っている。

 もう一日おいて、アクを落ち着かせようか一瞬悩んだが、明日は夕飯(むしろ夜食)を食べる時間すらアヤシイ(といってもよくよく考えると明後日は休みだった)ので調理を開始。

>>>

 ちなみに今日は、地元限定ともいえる「群馬泉」の本醸造(普段は本当に地元限定の特別純米を呑んでいるが、転職したてで引越しを控えていてお金がないので格下げした)。
 それから「麦とホップ:黒」(僕の買い物圏で、唯一の黒ビールっぽい飲み物。他のスタウトはギネスだけなので諸般の事情により格下げしている)。

>>>

 冷蔵庫から豆腐を出し、皿に持って傾斜のある場所で水を切る。
(これは普段のことなので、普段は書いていなかった)

 キュウリは4本あったので、1本は野菜スティック的に適当な感じを目指して切り、適当なグラスに常温のまま立てる。
(キュウリを冷やすとキュウリの味が薄くなる)
 3本は面が大きくなる鋭角の乱切りにし(本当は袋に入れて棒で叩きたかったが、設備の問題で諦めた。鋭角乱切りはすぐに食べたかったので、塩の浸透速度を上げるのが狙い)てビニル袋に入れる。
 種を取ってハサミで輪切りにした赤唐辛子(私の家には輪切り唐辛子とかいうものがない。枝付き唐辛子から切り離した唐辛子をいつも加工しているので、唐辛子作業のあとに目が痒くなったりぱやぱや的なサムシングが発生する場合は、かなり深刻な状況になることについて悩む)とめんつゆ少々と塩(めんつゆに塩をわざわざ足すのは、めんつゆの味と色に染めすぎないためであると同時に、味の浸透を早めるため。相反する効果を狙っている)を上から放り込み、軽く和えてから空気を抜いて口をテキトーに結う。
 それを同じサイズのビニル袋に入れて、もう一度かるく全体を混ぜるように揉み、冷蔵庫に放置する。

 茄子は半分に切って、5mm間隔くらい(アバウトでいい)で浅く皮目に包丁を入れる。
(飾り包丁ではなく、火の通りを良くし、皮を噛み切りやすくするため)
 焼き網(https://www.amazon.co.jp/dp/B003WMC6F0/ ちょっと高いが耐久性も高く、非常にすぐれた製品)で切り目を先に強火で焼き、焦げ目がついたら皮目を一部が焦げるくらいまで焼きつける。

 焼いている間に、味噌・めんつゆ少々・おろし生姜・みりんを合わせた調味料を作る。
 焼きたても冷めても美味しいので、適当に皿に取る。

 手が空いたら、徳利が入る小鍋に湯を沸かし、徳利に酒を入れる。
(湯が沸騰するまで、徳利は鍋に入れない)
 鍋が沸騰したら、火を止めて徳利を鍋に入れる。タイマーは4minを2回(途中で混ぜるため)か、8minを1回。

>>>

 冷凍庫からビール用のグラス(ワタスのバアイは陶器の器)を出して「麦ホ」を泡立つように注ぎ、机の上に置く。
 そこから泡が落ち着くまでに、一昨日のみょうがのめんつゆ漬け、スティック状のキュウリとマヨネーズ、焼き上がったナスと付ける甘味噌(というか舐めたら生姜で辛かった)と箸を机に置いて、準備万端。

 呑んでいる途中でキッチンタイマーが鳴ったら徳利を引き上げ、お猪口と一緒に机に置く。

 ある程度の時間が経ったら、冷蔵庫から浅漬け(にしては急速なので塩辛め)のキュウリを袋から取り出して、面倒だからみょうがの入っていたタッパーに山積みにする。

 あたたかいもの、冷たいもの。
 味の変化を楽しみながら、ブログに書いてやるかという親切心を奮い立たせる。

>>>

 料理化学についてよく知っている人にとっては、馬鹿馬鹿しいくらいのレシピでありメニューであり蛇足が多いが、料理をよく知っている人には(これは無駄な情報だ)と回れ右をさせる効果があり、料理を知りたいのに知る事のできないガールや、焼き茄子の下ごしらえで皮目を切る理由や、乱切りの面を広くすることによる効果についてうといガール、浸透圧に関する理解に乏しいガール、温度と味覚や素材の味について無知なガール、なにより「青猫様と一夜を共にしてみたいけど、お料理とかよく分かんないからどうしよう!」なんていう救えないガールの一助になればと思い、蛇足のような補足が削除されないまま公開されることになった。






// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]
  -Transistor-

[Object]
  -Night-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]





//EOF
170818

 ガールと温泉(といってもカポーで混浴に入って キャッキャウフフ なんて破廉恥なことはしない。というか混浴もなければカポー風呂があるわけでもない、山奥の日帰り温泉であり、僕らの他にはお年寄りしかいないような施設だった)に行ったついで、わさび菜とシシトウとミョウガとキュウリとかぼちゃを買う。
 ひと山100円とか200円なので、思うさま買う。ちょう安い。

 ガールの街に夕刻には送り届けて、私は一路自宅へ(ふたつみっつ先の街に棲んでいるので)。

 ミョウガは洗ってタッパーに入れて、軽くめんつゆをふって冷蔵庫に。
(今日食べるものは別タッパーで半分に切って同様の処理)

 わさび菜は5mmくらいの間隔で切ってボウルに取り、酒とみりんとめんつゆと醤油を煮切ったものを振りかけて和え、タッパーに移して冷蔵庫に。

 シシトウは楊枝で穴を開けて、素焼きにして、味噌とみりんと砂糖と生姜を合わせた調味料少量と和えて(大量にあったので)半分くらいはタッパーに移して、残りを皿に盛りつけ。

 日本酒をお気に入りの徳利に注いでいただいております。

 あと、手羽先のポトフ風スープが今日で3日目なので、これを完全に片付ける予定です。
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20170531
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
あなたは私の役に立たない
SUBTITLE:
~ not so dusty. ~
Written by 黒猫


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 同性に対する恋情というのは、川で見つけたとても綺麗な石ころのようだ。

 それは何の役にも立たない。何に使うこともできない。
 誰かに見せびらかそうにも、たいていの場合「ふうん」というような感じがせいぜいで、全くもって他人と価値観を共有することなどできない。
 自分自身だって、どうしたものかという感じなのである。
 そういうものだから、自宅に持ち帰って、自室に飾る人もほとんどいない。
 持ち帰って飾ってあるそれを他人に見られると、かなりの確率で怪訝な顔をされる。
「何で家の中にただの石ころを置いているの?」と。

 正直なところ、彼に恋慕の情を持っていても、僕には使い道がない。
 彼と恋人になりたいわけでもないし、彼に対して肉欲が起こることもない。
 手を繋いだり、くっつくのは相手が許してくれる限り他の男友達にもする(僕は親しい人に触れたり、触れられたりするのが好きな)ので、恋情とは関係がない。
 所有欲も独占欲も発生しない。
 ただただ慕わしいのである。

 メールしたり、話をしたり、買い物したり(僕と彼はそれぞれの晩ごはんの食材や酒を集めるため、タイミングが合うと一緒にスーパーで買い物をしたりする)、外で飲んでバカ話をしたり、外を歩いてふざけあったりするのが(スーツに水を吐きかけられたり、自販機で「今日は特別、奢ってやるよ!」と言って買ったコーラを思い切り振りながら満面の笑みを浮かべつつこちらに向かって来るようなことをしない限りにおいては)とても楽しくて、嬉しい。

 こういう慕わしさは、たぶん、子供の頃から感情としては持っていたと思う。
 ただ、それを発露させるべき対象が、僕にはあまりいなかった。

 たとえば中学生や高校生、すなわち10代の頃、僕は友達に対してそんな慕わしさを感じていた。
 彼らはとても親しい存在で、楽しくて、一緒にいるのが嬉しかったし、同時にときどき、とても煩わしくて厄介だった。
 ちなみに10代の頃から、あるいはそれ以前から、男友達の身体に触れるのは嫌いではない。
 性的な意味は一切なく、単なる「慕わしさ」が満たされるという意味において。
 だから僕が物理的に至近距離になったり、物理的に接触することを許してくれて、かつその意味を正当に理解できる(あるいはせめて肉体的/精神的に許容できる)人だけが僕の友人を続けられることが多い。

 4人姉妹に囲まれて育ったただ1人の男の子、という出自を話すと理解してくれる人もいるし、そうでない人もいる。
 僕にはよく分からないが、でも確かに、子供の頃から姉妹間の距離は物理的に近かったし、今でも僕と妹との距離は物理的に近くてもお互い抵抗がほとんどない。
(厳密に性的な意味を一切含まない状況において)

 彼もたまたま僕の特性を許容してくれるので(重ね重ね申し上げるが、少なくとも僕は性的にはストレートであり、それ以外ではないものの)ついつい至近距離になったりしてしまう。
 酔って足元が危うげなときは、手ぐらい繋いでると思う。

 もっともたいていは50cm以上離れているのが普通だ。当たり前である。

 会社を辞める数日前、一緒に飲んだ帰りに握手を求められて、僕はそのあとハグを求めた。
 許容されたので、ハグをして「Kさんと離れ離れになるのはとても辛い(からい、ではない)です」と伝えた。
 できるだけ小さな声で。

 僕は自分の中の慕わしい気持ちを、相手の迷惑にならない範囲においては、できる限り正直に伝えたいと思ってしまう性分なので。
 それでもすぐには言えなくて。
 僕が言いだすまでに彼は2度ほど身体を離そうとした。

 ようやく解放された彼は「大丈夫だよ。俺もいずれはちゃんと戻ってくるし、忘年会は向こうに呼ぶし」と言った。

 新しい会社でのスタートを半月先に控えた僕は、介護対象の伯父と叔母の家で週の半分を過ごす。

 まだ在職中の彼と、朝な夕な、メールや電話で話をする。
(もっとも、長電話をしてくるのは、いつも彼の方なのだ)

 彼とバス停前でハグしたとき、僕のスーツは水で濡れていた。
 ホントに酔ったついでにふざけて水を吐いたりするようなバカはバスに轢かれて死ねばいいのに、と今でも思っている。

>>>

 感情というのは。
 他人というのは。
 自分の存在というのは。

 役に立たなくてはいけないものなのだろうか。
 使い道があるほうが素晴らしいのだろうか。
 それはなぜだろう。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

[ Parallel Line ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]



//EOF