::女性型の義体を捨てねえのも、時計の鎖が締まるように細い腕にこだわってたからじゃねえのか?
義体や脳殻は換えられるだろ、でもよ、代わりがきかないものもあるだろうが。




130723

 晴れ。暑くなる気配。

 ガンで入院していた友人が、先週末退院したと電話を受けた。
 齢50を超えて性風俗業をするのは本当に大変だと思う(彼女は元締めではない)。
 しばらく休業になっている(あたりまえだ)彼女は、もはや風俗嬢ではなくただの友人と表記したほうがよさそうだ。
(念のため書き添えておくと、彼女は仕事で知り合った友人であって、恋人には含まれていない。誤解のないように)

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 僕は特定の人間の「道具存在」になるとき、自分の価値観を完全に抑える。
 他者が「YES」と言ったとき、僕の価値観で「NO」であっても(これが実に往々にしてあるが)それを抑えて「YES」を飲み込む。
 徹頭徹尾「YES」を飲み込む。

 たいていこんなことをする前に、人は拒絶反応を起こす。
 これが自我を形成しているといってもいい。
 身体の抗体反応がそうであるように、拒絶排除を行わなければ、自分(という肉体/精神構成)は他者に乗っ取られてしまう。
 価値観は、思考や精神活動の、最初の抗体反応だといえるだろう。
(ちなみに、価値観は記憶と意味づけによって構成されるので、記憶を持たないものは価値観を持たないと僕は考える。また人格(=自我)というものは価値観の集合によって構成されていると思っている)

 当然、消化できない価値観を飲み込めば、僕だって消化不良を起こす。
 それでも僕は、それが必要だと思えばそれを飲み込み続ける。
 自分自身が本来持っている価値観を別の場所で(たとえばブログに書き連ねるなどして)できるだけ保護しつつ活動を抑制し、外側の僕は消化不良の価値観を消化できるまで飲み込み続ける。

 この期間、僕には本来の「NO」価値観と、無理矢理飲み込んでいて苦しい「YES」価値観が同居している。
 このふたつの価値観は、互いに互いを攻撃する。反発し、打ち消そうとする。
 新しい記憶と意味づけを構築中の「YES」価値観は、僕にとってはかりそめの、作りかけの、そしてあまり好ましいものではない価値観セットだ。
 だから僕は既存の記憶と意味づけによって強化されている「NO」価値観セットを応援して、「YES」を壊してしまいたい気持ちがある。
 一方で「YES」価値観を構築するのにはそれなりの目的や意味がある(意味については今は理解できていないけれど)からしているわけなので「YES」を守って、「NO」の価値観とその類縁を一度壊さなくてはならない。
 自分で自分の愛用していた既存の価値観を、正反対の価値観側から壊すことも多いこの作業は、かなりの苦痛を伴う。
 伴うどころか苦痛そのものといってもいい。

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 僕のブログを読んでいる人は、僕の我がどれだけ強いか分かると思う。
 僕も僕なりにそれを理解している。
 それなのに僕は自分の価値観をまるでデパートの商品棚のように拡充したい(理由はいずれ)。
 そのために相反する価値観を、必要と感じると僕は飲み込んでゆく。

 すると既存の価値観は(たとえ一時的にであれ)完全に否定されて、記憶とセットになっていた意味づけが揺らぎはじめる。
 僕は自分の自我(=人格)の境界が把握できなくなり、混乱し始める。

 どこからどこまでが僕で、どこからどこまでが僕でない領域か、自分ではわからなくなってくる。
 定期的に文書を書くことで、僕は(僕にとって)既存の価値観を保持しようとするけれど、その行ったり来たりは僕の自我はもちろん、それぞれの価値観そのものにとっても非常に苦痛であり、結果的に、価値観という部品から見た僕という人格本体の信頼性を損なう行為でもある。

 ざっと観察している範囲で、こんなばかげたことをしている人はめったに見かけない。
 人はそれぞれ、自分のなかで構築され、醸成された自分の価値観をずっと大事に自分の人格にひきつけ、その集合体を自分とみなして生きている。
 わざわざ相反する価値観を取り込むために、既存の価値観を引き剥がして価値観の拡大を行う人は非常に少ない。
(まして自発的に、自覚の上でそれを行っている人に直接出会ったことはない)

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 二律背反とその付随情報で記憶はさらに混乱し、価値観は混沌とし、人格が不明瞭になり、僕は自分の領域がわからなくなる。
 連続的にこれを行うと、精神的な拒絶反応だけで各種の動物的な欲求が不全を起こしたり、幻聴などの感覚異常が起こることもある(もちろん、経験済みなので次第に対処も分かるようになるが)。

 ために僕は自分の身体を撫でる。
 そこには皮膚があり、確かな感覚がある。
 それが絶対的な感覚で、皮膚が外界と自分の境界であると信じられる。
 ココロではなく、カラダを信じれば、僕は自分とその境界を保てる。
 思考や価値観、頭の中だけで出来上がった各種の情報は、一種の妄想や幻覚だとさえ思える。

 肉体の上に精神活動と思考が成り立っている。
 僕は思考が肉体をコントロールすることもあると知っているけれど、多く支配的なのは肉体のほうだ。
 心臓だろうとなんだろうと、思考しなくても働く。
 自動車を運転するような比較的高度な活動も、半無意識レベルにまで自動化できる。
(運転中しながら仮眠を取ったり読書をしたりする僕のような人は珍しいと思うが)
 そのインフラを提供しているのは、ほかならぬ肉体そのものだ。

 そのくらい意識というのは脆弱なのに我が物顔をして「自分が!自分が!」とまくしたてるのである。
 精神状態や思考、価値観がどんなに変容しようとも、自分の肉体がここにある限り、僕は僕のまま、いずれ僕自身を復元するだろう。

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 同じことを、僕は恋人に対しても思っている。
 意識と同様、肉体は(良きにつけ悪しきにつけ)変容してゆく。
 それでも肉体が損なわれない限り、そこで再び核となる本質は復元される。

 たとえば精神が傷つくとき、人は身体を意識/無意識を問わず傷つける。
 胃潰瘍になる人もいるだろうし、記憶障害を起こす者もいる。免疫が弱くなるのはもちろん、僕のように粘膜が弱くなる人もいるだろう(不思議と胃粘膜は大丈夫だ)。
 あるいは自傷行為や、ひどい場合は自殺さえする。
 それによって精神と肉体のバランスを取ろうとするのだ。
 つまり逆を言えば、意識/無意識を問わず自分の身体を守れるらならば、その精神を守ることができる。

 意識が朦朧としても、自分の身体だけは守ろうと、今の僕は活動する。
 意志や意識を失うことがあっても、餓死しかかって身体の機能を損なったりしなければ、かなりの短期間で僕は自分の精神を復旧するだろう。

 だから身近な人の身体を、できるかぎり健康な状態に保とうと僕は考えるし、恋人には身体を(あるいはその健康な状態を)自衛するための知恵や習慣を教える。
 心が傷ついているならば、身体が悪く変化しないようにケアをする。
 僕はたびたび「カラダだけ」といっているが、まぁ、つまり「だけ」っていうのは誇張しすぎですね。
「カラダばっかり」くらいでいいと思います。いろいろな意味で。

 ちなみに「恋人に求めているのはカラダだけ」(不本意にも五八五(字余り)で語呂がいい(不本意にも六七五(字余り)で語呂がいい))は、修飾語が非常に足りていない文章であることがようやく理解いただけたものと思う(まぁ、理解されていないほうが面白いけれど)

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 彼女たち(なぜか複数形)と一緒にいるうちに、その価値観は自然と入ってくるし、僕はそれをなんとも思わず飲み込むこともできる。
 僕よりゆるやかな速度かもしれないけれど、恋人は恋人でミラーリングが起こるので、価値観が徐々に似通うことになる。
(ミラーリングが起こらない人もいるが、その理由やメカニズムについては今回説明しない)

 今の日本において多くの人は、肉体が、壊滅的に損なわれる経験をしない。
 だから、本当に精神の一部が壊滅的に損なわれる経験をしないのではないかと思う。
 もちろんそれは豊かなことだし、賞賛されるべき文明のありようだ。

 価値観や記憶を骨肉ごとごっそりと削り取られるような経験がどういうものかは、知らない方が幸せだろう。
 自分の価値観が誰かに傷つけられた、と騒ぎ合うくらいの世の中は、ずっと幸せなのだ。

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 スケジュールノートに書いてあったスケジュールとタスクをごっそり忘れて大失態を繰り返し、昼食を摂らずに一日が終わろうとしている。
 ていねいに手をかけるべき仕事に時間をかけられない。これらは他人を信頼して任せるべきなのだろうか。
 しかしパートさんが一人、このタイミングで身内にご不幸があり、しばらく休業することになった。
 ああ。その仕事。もちろん私ならできます。

 時系列の感覚が混乱してどのくらいだろう。混乱しているから分からない。

 ただ、ものすごい空腹を感じているので、僕は明日も元気です。









::状況に応じて義体も脳殻も変えてきた……。なら記憶も変えるまでよ。








引用は、
「攻殻機動隊 ~ Stand Alone Complex ~ 第24話:孤城落日 ~ ANNIHILATION ~」
によりました。



 
(20130723。青猫工場初出)