::<人間による自律を期待して一度停止して、条件を変えて仕切り直すという選択肢を、私は取ることができます。量によって愛が担保されるのであれば、知性体が多数いることには意義があり、一つの正答よりも多数の誤答が選ばれることは、充分な妥当性があります>
160107
人間不信という関数を含んだプログラムが、思考という回路に常駐している。
僕というシステムに含まれたサブシステムのほとんど全てが、その関数の欺瞞に対して警告を発している。
苦痛だ。
欺瞞と知っているコードがのうのうと自分の中を走っていることが許し難い。
まるでウィルスに冒されたアプリケーションを、それと知っているのに使い続けなくてはいけないようなものだ。
不快だ。
いつも通りの引数を渡したのにもかかわらず、いびつさを抱える関数の戻り値はどれも不正解で、ために不採用なのだけれど、それでも吐き出された戻り値は僕の心にぶつかって、衝撃を与え、波動を伝える。
それなのにこの関数を排斥するなり、置き換えるなりの仕組みが整わない。
それはずっと、今も続いている。
けれども僕は知っている。
そんな関数は、いずれなくなる。
なぜなら僕は、一度はそれを経験し、その自己矛盾の欺瞞をデバッグすることで最適化を図ったからだ。
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子供の頃、まだ漢字も知らないうちから、僕は大人を信じていなかった。
しかし自分と同じ年齢域や血縁上おなじくそれに属する子供も信じなかった。
性別というものがある程度の意味を持ち始めた頃の僕の混乱については書いたことがある。
僕は自分の性別はもちろん、同性を信じなかった。
しかし(当然だけれど)異性からは異性に属する者として扱われた。
僕は自分を信じなかった。
だから同じように、他人を信じなかった。
他人を信じないから、自分を信じることなどできなかった。
自分を信じないから、何も信じられなかった。
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人間不信という概念は、自己矛盾をはらんでいる。
人間を信じるという行為は、通常、人間しか行わない。
それは比較的高度な思考基盤を必要とし、意思によって実行される見えない行為だからだ。
当然「人間」という集合に自身が含まれる以上、人間不信という概念は、それを抱える自身にも降りかかり、単純明快なパラドクスを起こす。
不信であるという対象に自分が含まれるとき、自分の持つ不信という認識に対しても同じように不信という反応を示すのが普通だろう。
それを起こさず当たり前のように人間不信というプログラムを走らせることのできる人間を僕は何人か知っているけれど、たいていはまともな社会生活を送ることのできる狂人、もしくは異常者だ。
その程度の欺瞞など、しかし社会はあっさりと受け入れて流れて行く。
彼ら/彼女たちの何が狂っているといって、パラドクスを自分の中で見事にねじ曲げて真っ直ぐにしているのが狂っている。
彼らの「人間不信」は単なる演技に過ぎなくて、そこで演じられる不信の対象は「甘えたい他者」でしかないとさえ思える。
「信じられない」のではなくて「甘えさせてもらえない」という真意が見え透いて空々しい。
「信じたい」という意思などなく、出まかせに粉飾された自意識が鼻につく。
しかもその甘えに自分は気がついておらず、それどころか自分は被害者ヅラをしてときに対象を憎んでさえいる。
「人間」という集合の定義もされていないし、自己の定義を放り出している上、他者の定義が曖昧で、不信の意味を取り違えている。
だから身勝手な愚か者ほど「人間不信」なんて言葉に浸ることができる。
そこにあるのは、排他的でご都合主義的な自己保存のプログラムでしかない。
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動物は人間に懐いたりするけれど、それは信じているからではない。
経験上、その瞬間の人間が自分にとって有益かどうかを判断しているに過ぎない。
だから普通は、それが飼い主であっても、怒られれば逃げたり隠れたりしようとする。
信じているから近づいてきたりするのではなく、有益だから、役に立つから、自分に得だから近づいてくるだけである。
もちろん、人間と動物との間にも信頼関係を構築することはできる。
しかし、苦痛を与えられてもそれに耐えることができたり、さらにはそれが自身にとって意味のある行為なのだと理解できるまでの信頼関係を構築するのは、容易なことではない。
たとえば動物病院に行くとそれがよくわかる。
飼い主が、苦痛も含めて躾をしていない動物というのは、結局のところ人間を信じていない。
人間が自分に苦痛を与えるのは、自分が悪いことをしたからだとは考えない。
まして成獣ともなれば、そんなことを躾けることは不可能だ。
だから自身に苦痛を与える者は敵だと考え、噛みついたり、ひっかいたりする。
飼い主が何を言おうと、もはや関係ない。
そのときのそれは、ペットではなく、ただの獣だ。
躾のされていない獣は、だから悲しい。
人間に懐くことを知らないまま路地裏に逃げる痩せ細った野良犬や野良猫を見るのと同じ気持ちだ。
彼らは、痩せ細って、疑うことしか知らないまま死んで行くのだ。
助ければ助けたで、たとえば置き餌することさえも、他の人間や、あるいはその動物自身をも、 最終的には苦しめることになる。
だから、存在そのものを放置するよりない。
それは、少なくとも僕にとっては、多少なりとも悲しいことだ。
動物同士の集団の中でさえ、躾が身につかず、はぐれる個体は当然いる。
彼らは孤独に死ぬしかないのだ。
躾のされていない獣は、だから悲しい。
人間に愛され、また人間を慕い続けることを知っている動物に比べて、あるいは人間との関わりなど持たず、同胞と共に野生の中で暮らし続ける動物たちと比べても。
だから躾のされていないペットは悲しい。
餌を与えられて太っただけの、それは孤独な獣でしかないのだから。
愛玩という欲を満たすための糧食にされる、それは家畜でしかないのだから。
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今の僕は、人間不信という変なプログラムを抱えてしまっている。
おかしなミラーリングでもしたのかもしれない。
いうなれば価値観の拾い食いのようなもので、それが今まで構築したシステムの中で消化不良を起こしている。
当たり前だ。
人間不信の概念には重大な欠陥がある。
僕の内側のほとんどはそれを知っていて、その欺瞞に対して警告を発し続ける。
にもかかわらず他者をみだりに信頼できないという条件反射は一種の感情の作用でもあるから、今の僕はその欺瞞を抱えたまま、その反射を無視することでしか対応できない。
仕事であってさえ他者とほとんど接することのない現在の環境は、そういう意味ではありがたい。
なるべく誰にも関わりたくない。
そう思うのは、不自然だろうか。
感情だろうが価値観だろうが、僕は行為の一部としてコントロールする。
だからいずれ、こんな感覚も消えると知っている。
もしそうでないなら救いがない。
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自分と他人は同じ類のものだと僕は考える。
一方で、自分と他人はまったく違うものだと考える人もいる。
これらは、まったく逆のことを言っているように思える人もいるとは思う。
でも僕にはこれらが全く同じことを言っているように思えて仕方ない。
日本語を勉強し直せと、学校の先生になら言われるかもしれない。
しかし考えてもみると、どうして他人と自分が違うものだと思うのだろう。
身体の組成はほとんど一緒で、遺伝子も9割方は同じものだろう。
考え方は人それぞれ多少の違いはあるかもしれないが、たいていの生きた人間は自分の身体を刃物で刺されれば痛みも感じるしショックも受ける。
誰だって争いごとは嫌いだろうし、できることなら心地よく日々を過ごしたいだろうと思う。
なるべくなら人から愛されていたいと思うものだと思うし、できることなら他の誰かをできるだけ多く愛していたいと思うのではないだろうか。
もちろん個々の差異は知っている。
ことあるごと他者との考え方についての違いをまざまざと感じて僕は生きてきた。
けれどもきっとそれだって、誰でも同じだろう。
当たり前のことなのだ。
つまり個々に差異があることが、結局のところ「個々に差異があるという同一性」を生んでいる。
あなたと私は違うね、という同一性だ。違うということが同じなのだ。
これが翻って、あなたと私は同じだね、という感覚に(僕の場合は)収まる。
自分という存在は特別なものだという意識が、結果的に猥雑で没個性的な意識に過ぎないのと同じように。
違うという、差異を主張し、それによって自己を確立したり世界を定義しようとする行為は、 なんとも幼稚に映る。
そんなのは当たり前のこと。
わざわざ主張する価値もないし、他者に説明する必要も、説得する意味もない。
それでも時折、声高に申し立てる人もいるのだ。
「私とあなたはそもそも違う人間なのだから」と。
考え方も経歴も出生も生い立ちも違う。
国籍も違えば文化も違うし性別も違えば習慣が違うし年齢も違えば経験も違う。
ええ。ええ。
そもそも種族が違いますよ僕は猫ですからね。
という心の言葉を僕は飲み込む。
「そもそも違う」なんて当たり前のことをわざわざ議題のテーブルに載せてくるような愚者には、この冗句(本当は冗句ではないのだけれど)を言っても通用しない。
そもそもというのなら、そういうタイプの人間どもとはそもそも次元が違うのだ(言った、言ったよ。今、言い切ったよ)。
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私とあなたは違う。
あの国とこの国は違う。
この次元とあの次元は違う。
人間と猫は違う。
男と女は違う。
東と西は違う。
北と南は違う。
僕は、つい笑ってしまう。
できることなら問いたいのだ。
本当に? と。
陸と海とは違うというけれど、では海と湾の違いは? その境は?
湾と川の違いは。その境は。
湖と海の違いは。湖と池の違いは。池と大きな水たまりの違いは。
小さな水たまりと、そうでない地面の違いは。
結論として乱暴なことを言いますが。
海も陸も一緒じゃねーか!
ああ、もちろん。もちろん。
分かるんですよ。違いますよね、陸と海。ね。海水と淡水も違うし。はいはい分かりますよ。陸と海は違いますよね。はいはい。陸と海、ドライ&ウェットね、はいはい。
ホワイト・アンド・ブラックというのがね、仮装大賞の演目に昔ありましてね、テレビでね。あ、古くて分かんないですよね。
要はそのくらいどうでもいい違い。
違うことはよく分かるんですけれども、そこに含まれる、あるいはそれを含んでいる同一性、統一性、そういうものについて考えると、違いというものは、たとえそれらが対立関係にあったとしても、結局同じことにしか思えないのだ。
たとえるならコインの裏と表のように。
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欺瞞を含むコードがたとえ今の僕を支配していたとしても。
僕は忘れていない。
他のすべてを忘れても、けっして忘れたりしない。
僕は人間を信じていた。
僕は大人を信じていた。
僕は子供を信じていた。
僕は他者を信じていた。
僕は同性を信じていた。
僕は異性を信じていた。
僕は自分を信じていた。
僕は猫を信じている。
猫と、猫の神様を。
::心臓すらないレイシアはそれでも言う。
「魂はありません」
アラトは天を仰いだ。
浮ついていたからこそ、突き落とされた痛みがいや増して、目を閉じる。まぶたの裏に、迷ったとき浮かぶのは、彼にとってのスタートラインだ。赤黒い爆発と、しっぽを振る白い犬を思い出す。ほぅと温かい息が漏れる。しっぽを振る楽しそうな“振る舞い”に、ちいさかったアラトは 救われた。自分から始めようと思えた。
彼には、意味なんてなくても手を伸ばせる。
「魂がないからって響かないわけじゃない」
自分に腹が立った。アラトは子どもの頃、あの白い犬の魂なんて見たことはなかった。それでも、楽しそうな様子に勇気をもらった。
「それでも、僕のこころは動いたんだ」
文頭引用は、
『Last Phase「image and life」』(p.642)
文末引用は、
『Phase 1「contact」』(p.35-36)
ともに
「BEATLESS」(著作:長谷 敏司 / 発行:角川書店)
によりました。
