::「実生活の役に立たないからこそ、数学の秩序は美しいのだ」
と、博士が言っていたのを思い出す。
「素数の性質が明らかになったとしても、生活が便利になる訳でも、お金が儲かる訳でもない。もちろんいくら世界に背を向けようと、結果的に数学の発見が現実に応用される場合はいくらでもあるだろう。楕円の研究は惑星の軌道となり、非ユークリッド幾何学はアインシュタインによって宇宙の形を提示した。素数でさえ、暗号の基本となって戦争の片棒を担いでいる。醜いことだ。しかしそれは数学の目的ではない。真実を見出すことのみが目的なのだ」




 色相マップというのが、実はなかなかニガテである。
 思ったような色を、うまくピンポイントに出せない。
 かといって数値入力でピンポイントできるほどの勘を、今の僕は失っている。
 色相マップによるカラーピッキング。
 古典的にして保守的な手段ではあるが、グラフィカルでいっそ直感的な気もする。
 メーカの提示する「直感的」が、まぁ、どれくらい押しつけがましい「直感的」であるかは別にしても。

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 保守的ということがどういうものなのかといえば、それは端的には、変化を嫌い、できうる限りそれを避けようとすることなのだろう。
 齢を重ねるごと、人は保守的になるというのは、その意味で実に合理的ではある。
 一朝一夕に「はい、では今までの私の考えはなかったことにしましょう」というように、すっと切り替えができるわけではない。
 たとえばひとつの判断を、決断を、下すことそのものはきわめて短時間に行うことができるとしても、その結果は、その分岐の先は、瞬間や短時間などではなく、短くとも数時間、長ければ数十年も自分自身に影響を及ぼし続けることがある。
 そうした中で人は新たなことを学習して自分の中に蓄積し続けるわけだけれど、その蓄積は必ずといっていいほど次の決断のために行われるわけだ。そうした蓄積をもって人は判断を下すわけだから。

 ために定見を持たないというのは綺麗にしなやかなようでいて、ある意味、無責任で、考えなしなありようなのかもしれない。
 最近、つと思った。

 もとより僕は頑固な方であり(「かた」と敬語にしてもよい)、それを自覚していたからこそ定見を持たないようにと努めていたのではある。
 一方(つまりは自分の立場や知見)からの考えだけで物事を推し量ることがいかに短絡的であるかをおそらく何らかの経験を通して知ったからではあろう。
 あるいは、誰かから一方的に(つまりはその人の立場や知見に基づいて)物事を推し量られ、それによって何かしらを押しつけられることに単純な怒りを覚えたその、反動形成なのかもしれない。

 前者であるならば、確かにそれは思慮深い。
 自身の一方的で押しつけがましいありようを自覚し、内省し、それを中和することによって、物事がよりよい影響を相互に及ぼしやすくなるであろう、少なくともそうなる可能性が高いかもしれない、という考察の結果としてもたらされた無定見であるならば、それは確かに思慮深いようにも思える。

 しかし後者であるならば、これは由々しき問題かもしれない。
 つまるところそれは、単に反抗の一形態でしかない。
 反抗ならば反抗らしく、一方的に押しつけられた考え方に対して、反駁をするべきであるのだ。
「私はそうは思わない。私はこう思っている。なぜならこういう理由があるから」と。
 それが定見であるかどうかは別にしても自分の考えがある中で、他者の(これまた定見であるのか、それともその場の思いつきであるのかは別にして)定義なり判断なりに対して何らの反論を行わないというのは、それはそれでひとつの怠惰のカタチなのではないだろうか。

 反論に値しない、その程度の時間や手間を掛ける価値もないようなどうでもいい議論というのは実にたくさんある。
 掛けたコストに見合うリターンがどう転んでも見込めない(せいぜいちっぽけな自尊心が、ささやかな議論の勝利によって短期的に満たされるという程度の)ことも少なくないだろう。

 仮にそうだとしても、では一方的に押しつけられた価値観を、カタチだけでも飲み込んだフリをして、心の中でアカンベーをするのは、果たして「綺麗でしなやか」なのだろうか。
 それはカタチの上では反抗をしていないにもかかわらず、自分のちっぽけな自尊心を満たし、ささやかで巧妙な手段によって相手にそれを悟らせない、ある意味で平和的な解決なのかもしれない。
 綺麗かもしれないし、しなやかかもしれない、けれど狡猾で、もっといえば卑怯だ。さらにいえば相手に対して不誠実でさえある。
 もちろん、そもそもの段階で相手が誠実な気持ちで思いやりを持って、自身の定見に基づいて真っ正面から向き合ってその「何か」を言っているのかという問題はある。
 どういうわけかは分からないけれど、言葉はどんどん安くなって、易くなって、文字通りに「あることないこと」人は伝えることができるようになり、「あることないこと」伝える人が増えたようにも思える。

 あるいは心の中でアカンベーさえしないことはどうだろう。
 たしかに定見はないのかもしれないが、では最初に自分の中でかすかにであれ感じた反発は、いったいどこからどのようにして、そもそもなぜ生まれてきたものなのだろうか。

 その「何か」は簡単に言葉にできないものだったのかもしれない。
 しかし簡単に言葉にできなかったからといって、それは、私の中で、私の手によって、簡単に殺してしまってよいものだったのだろうか。
 あるいはその殺しによって汚れた手をして、相手にその殺しの責をなすりつけてよいものなのだろうか。
 殺した原因をつくったのは、ほんとうに相手なのだろうか。
 少なくとも殺したのは自分の手なのである。
 自分の中のその「何か」を殺す遠因をつくったのは、確かに相手なのかもしれない。
 では自分はそれ(自分の中の「何か」)をみすみす殺させて良かったのだろうか。少なくとも殺したのは自分の手であり、つまりは自分の意思である。

 そこまで考えて、僕は、はっとしたのだ。
 もしも僕が「定見を持たず」「しなやか」なフリをして、誰かの意見に耳を傾けつつそれに追従し、にもかかわらず本心は異なるものを持っていたことがあるのだとすれば。
 さらにいえば、その本心に気付いてか気付かずか、それを黙殺していたとするならば。
 僕を殺しているのは、殺し続けているのは、誰かではなく、僕自身なのだと。
 自分を殺すことで誰かをバカにする免罪符をつくり、あるいは誰かに殺されたと錯覚することで誰かを加害者に仕立て上げるような愚かしいことをしているのは自分なのではないのか。

 なんと恐ろしいことをしているのだと。

 そしてそれは、全くなかったなどと、僕には言えないのだ。
 僕は確実に、ことなかれと思って自分自身を殺したことがあり、心の中でアカンベさえすることなく黙殺したことさえあり、アカンベする場合であっても、あるいはそれをしないまま自分を殺した場合であっても、それは相手が悪いものだと思っていたのである。

 なんと恐ろしいことなのだろう。

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 とまぁこのように「うまく言葉にならないもの」を、多少なりとも分かりやすいようにと説明をすることが僕にもできないわけではない。
 しかしこれまでの経験上、20人中16人は話している最中に「こいつ理屈っぽいなぁ」という態度を示し、そのうち13人は「理屈っぽくて付き合いきれん」という態度を示し、さらにそのうち9人はこちらを無視し、さらにそのうち5人(つまるところ4人に1人)は嫌悪感を示す。

 嫌悪されて嬉しいと思うほど僕も人間ができあがっているわけではないが、僕にも嫌いなものはあるから、嫌悪するのは(つまりされるのは)仕方がない。
 これはどうにもできないから、受け入れるしかないし、僕はその嫌悪感を尊重することさえできる。単にこちらから余計なアクセスをしなければよいのだ。
 しかし、理屈っぽいのかもしれないけれど、その根底にあるのは「理屈っぽくないこと」なのではある。
 直感的で、アナログで、ために複雑で、捉えようによって(つまり解像度によって)繊細なこと。
 それを、僕にとってはできる限りの解像度で(荒くすることは受け手の誰にでもできることのはずだから)言葉によって説明をしようとする。

 そうするとそれは、論理的で、デジタルで、ためにより複雑で、しかし直截的であるから繊細ではないことになる。
 直感的なものが直観的に変換されるわけだ。
 たとえば色にしても、3ビットで8色(ブラック/ブルー/レッド/マゼンタ/グリーン/シアン/イエロー/ホワイト)の定義をしていた頃の色はシンプルだけれど、より複雑な色調(極端に48bitカラーであるならば 000000000000 ~ FFFFFFFFFFFF の間の任意の中間色)は相対的に複雑なものではある。
(それでもデジタルで、つまりは複雑だけれど論理的で、直截的なのではある。少なくともアナログで絵の具を混ぜるよりは)
 料理に喩えるなら、炒り卵とスクランブルエッグと目玉焼きと固ゆで卵と温泉卵の違いと言ってもいいかもしれない。
 乱暴な人はどこまでも乱暴に「青は青だろ」と言い放つ。
「卵料理なんてどれも一緒だ」と言い放つのと同様に。
 しかし多くの人は目玉焼き(それも半熟か固焼きかで好みが分かれる)とスクランブルエッグを「全く別のもの」と認識し、つまりそれぞれに好みが分かれる。
 色や感情や感覚にしても同様で、どこまでも乱暴にすることは可能だし、どこまでも自分の中の感覚を厳密に捉えて表現し、それを共有しようとすることは可能で、実際に20人に1人くらいの人(希望的観測も含めるので実はもっと少ないだろう)は「ああ、あれでしょ!」と説明する途中には理解してくれることがある。

 実のところ人間の感覚するものとは、文字通りに感覚的で、ために直感的なものなのだ。
 もちろん相手が聞きたい内容でもないのに、僕がこうやって余計な説明を始めたら、それはもう、本当に迷惑なことだろうとは思う。
(中にはそれこそを面白がってくれる人がいることも知っている。それさえ含めて嫌う人はとことん嫌うであろうことも)
 しかしたとえば尋ねられた内容などに対して、僕の中に存在している相反する感覚などをきちんと説明しないと細かいニュアンスまでがきちんと伝わらないと僕が思ったならば(つまり、単純な好き/嫌いであるとか、GO/STOPであるとか、ではない部分まできちんと共有する必要があると僕が判断したならば)僕はそれを説明する。せざるを得ない。
 なぜならば(これも極端な例だけれど)僕の「NO」はときに「YES」であり、僕の「YES」は「NO」を含むことがあるから。
「嫌よ嫌よも好きのうち」という言葉にもあるとおり(サンプルが不適切だけれど)、そうした物事に含まれる機微の実体を他者に伝えようとするならばそれはやはり言葉に頼るしかなくて、するとそれは複雑な機微を含むために大きく回った表現をする必要があったり、余計で不適切な具体例や喩え話を持ち出したりしなくてはならなくなるのだ。

 だって「あなたの好きな食べ物とその好きな気持ちをパントマイムか私に対するスキンシップで表現してください。パントマイムか、スキンシップで」と言われても困るだろう。
 少なくとも僕なら困る。いくらなんでも無理がある。

 もっとも尋ねられた内容に対して答えている最中に、相手の理解能力(つまりは解像度や記憶容量)の上限を超えてしまったりすることがあり、その結果「理屈っぽい」「話が分からない」「むつかしく言い過ぎ」などという非難を受けることがあるのではある。もちろん、その気持ちは良く分かるのだけれど。

 単純にYESかNOか、という問いであれば、それは単純に答えられる。それは直感で済む問題だからだ。
 そして「おまえらこれをどう思う?」とか「あなたはそのことについてどう考えているのか」などと問われれば、それに対して「どう思うか」と「なぜそう思うか」はセットになっていなければ伝わらないことも多いのではないかと思う。
 その「なぜ」の部分を省略することによって誤解が生まれるのは、少なくとも僕のこれまでの人生ではかなりの主流を占めていた。

 たとえば「昨今マスコミで騒がれている有名人の不倫についてどう思いますか」という問いに対して、僕は「別にどうでもいいんじゃない? 私やあなたの生命に関わることじゃないし」と答えるだろう。
 そして同時にその「どうでもいい」について、実は「どうでもよくない」が含まれる。
 逆説的に「どうでもよくない」の中に「どうでもいい」が含まれている。
 解像度の高い人は「うんうん。その『どうでもよくないところ』をもっと聞かせてよ」となって、話しがより深いところに進む。
 解像度の低い人は「え?(困惑)どっちなのそれ?」となって、フリダシに戻る。

 僕から言わせれば、そんな機微の仕組みも理解できず、理解しようともしないバカが悪い。
 質問に対する答えを理解できないのは、多くの場合、回答者が悪いのではなくて質問が悪いのだ。
 にもかかわらず、何故か世俗の質問者というのは「自分は立場が上だから質問できる」と勘違いしているフシがある。
 たしかにずけずけ無遠慮な質問をする人間が世俗には確実に存在していて、そういう人たちはどういうわけかさまざまな領域において「そういう権利が自分にはある」という確固とした勘違いをしているためになんだかエラソーなのではある。

 学究の徒という存在のいる領域に足を踏み込めば、質問者と回答者は常に対等であり、あるいは教えを乞うものが立場としては下であり、何より絶対なのは質問者でも回答者でも、さらにいえば解答や正解でさえもなく、ただただ真実真理のみである、ということがわかるはずなのだけれど。
 大学などという「学究の徒のすくつ(ATOKだと変換できてしまう)」みたいな場所を経由して生産された人間でさえ、たやすくその罠にかかるものであるらしく、社会の仕組みの複雑さに僕は思いを馳せる次第である。

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 かように、僕には定見を持たないように努力しようという定見がある。
 矛盾しているが、比較的すっきりした矛盾であり、もっと複雑怪奇に矛盾していてもいいとさえ思っている。
 自分の持つ定見が強いからこそ、一刀両断するのが容易だからこそ、ことを複雑に、矛盾させた方が面白いのであるし、じつにそのほうが物事を如実に(つまりはより正確に)表現できるのでもある。
 なぜなら人間や社会というものは、複雑で、矛盾しているから。当たり前ではないか。
 それを「単純だ」「首尾一貫している」などと思い違いをしているから、物事の答えは単純でシンプルなものだと思っている。
 そんなふうに物事を荒っぽい解像度で認識できる自分の単純さ(そしてその単純さを導き出しているところの、実は非常に矛盾していて、異常なほどまで複雑な自身というシステム)をよく認識して欲しいものだとは思う。

 変化することを僕は嫌わないし、むしろ好むと、ときどき僕は書いている。
(知らない人は、古い青猫工場を順番に読むことが今はできないので2年くらいROMるしかない)
 自分の中の判断基準などというものは、所詮は真実真理のうちのごくわずかなかけらを持ち合わせているに過ぎない。誰しも事実はそうなのではないだろうか。
 人間の判断能力などというのは、不確かな基礎の上に、曖昧模糊とした判断基準を噛ませて、その結果という柱を載せて、都合という梁でつなぎ合わせて成り立っている、それはそれは不安定なビルディングなのではないのか。
 しかしそれを拠り所にするしかない場面ばかりだ、というのもまた事実。

 それならそれで、せめて、その事実を、事実として認識するくらいの謙虚さは持っていていいと僕は思う。
 もっとも、そんな事実さえ残らないほど目の粗い、ザルな解像度の人間も、まぁ、いないわけではないのだ。
 そうなると、僕は、話が通じないが故に自分の意見を言わぬまま飲み込み、相手の意見は言われるまま飲み込み、となる。
 言い続けてもいいのだけれど、相手に聞く耳がない場合、馬に念仏、猫に小判、何も通じず、価値は逆転しさえする。
 ただ、今後は、せめて、心の中で強くアカンベしたり、中指を立てたりすることを忘れずにいようと思った。

 相手の価値観に飲み込まれてゆくのは確かに楽しい。
 そこには自分が変化することによって生まれる、自分の知らない新しさが、確かにあるのだ。
 でもその一方で(どんなに頑固で変わらないことが分かっているにしても)自分自身のかけらを、あろうことか自分自身の手で殺してはいけないのだ。
 飲み込むことと、飲み込まれることは、そのくらいには違うことなのだ。

 相手がバカでザルならばこそ、僕は自分の中の曖昧模糊として複雑怪奇で繊細な中間色の数々を、自分の手で守らないといけないのだ。

 色相マップで色を探しながら、見つからないことに悩みつつ、短い時間(およそ30秒ほどだろうか)でそれらを想った。

 人生はやはり長さなどではない。
 長いだけで何の発見もない人生よりは、短くても何も持たなくても、いつも何かを発見できる生き方がいい。

 もし今日死ぬなら、今日の発見を。



 それにしても、思った色が見つからない。
 願わくば、もし今日死ぬなら、今日の発見を。









::もちろん素数を見つけたときは気分がいい。ならば素数でなかった時、落胆するかと言えば、決してそうではない。素数の予想が外れた場合には、またそれなりの収穫がある。11と31を掛け合わせると、かくも紛らわしい偽素数が誕生するのかということは新鮮な発見であり、素数に最も似た偽素数を作り出す法則はないのだろうか、という思いがけない方向性を示してくれる。







 冒頭、文末の引用は、
「博士の愛した数式」(p.177-178)(著作:小川 洋子 / 発行:新潮文庫)
 によりました。








::<人間による自律を期待して一度停止して、条件を変えて仕切り直すという選択肢を、私は取ることができます。量によって愛が担保されるのであれば、知性体が多数いることには意義があり、一つの正答よりも多数の誤答が選ばれることは、充分な妥当性があります>






160107

 人間不信という関数を含んだプログラムが、思考という回路に常駐している。
 僕というシステムに含まれたサブシステムのほとんど全てが、その関数の欺瞞に対して警告を発している。

 苦痛だ。
 欺瞞と知っているコードがのうのうと自分の中を走っていることが許し難い。
 まるでウィルスに冒されたアプリケーションを、それと知っているのに使い続けなくてはいけないようなものだ。

 不快だ。
 いつも通りの引数を渡したのにもかかわらず、いびつさを抱える関数の戻り値はどれも不正解で、ために不採用なのだけれど、それでも吐き出された戻り値は僕の心にぶつかって、衝撃を与え、波動を伝える。
 それなのにこの関数を排斥するなり、置き換えるなりの仕組みが整わない。

 それはずっと、今も続いている。
 けれども僕は知っている。
 そんな関数は、いずれなくなる。
 なぜなら僕は、一度はそれを経験し、その自己矛盾の欺瞞をデバッグすることで最適化を図ったからだ。

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 子供の頃、まだ漢字も知らないうちから、僕は大人を信じていなかった。
 しかし自分と同じ年齢域や血縁上おなじくそれに属する子供も信じなかった。
 性別というものがある程度の意味を持ち始めた頃の僕の混乱については書いたことがある。
 僕は自分の性別はもちろん、同性を信じなかった。
 しかし(当然だけれど)異性からは異性に属する者として扱われた。

 僕は自分を信じなかった。
 だから同じように、他人を信じなかった。
 他人を信じないから、自分を信じることなどできなかった。
 自分を信じないから、何も信じられなかった。

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 人間不信という概念は、自己矛盾をはらんでいる。
 人間を信じるという行為は、通常、人間しか行わない。
 それは比較的高度な思考基盤を必要とし、意思によって実行される見えない行為だからだ。

 当然「人間」という集合に自身が含まれる以上、人間不信という概念は、それを抱える自身にも降りかかり、単純明快なパラドクスを起こす。
 不信であるという対象に自分が含まれるとき、自分の持つ不信という認識に対しても同じように不信という反応を示すのが普通だろう。

 それを起こさず当たり前のように人間不信というプログラムを走らせることのできる人間を僕は何人か知っているけれど、たいていはまともな社会生活を送ることのできる狂人、もしくは異常者だ。
 その程度の欺瞞など、しかし社会はあっさりと受け入れて流れて行く。

 彼ら/彼女たちの何が狂っているといって、パラドクスを自分の中で見事にねじ曲げて真っ直ぐにしているのが狂っている。
 彼らの「人間不信」は単なる演技に過ぎなくて、そこで演じられる不信の対象は「甘えたい他者」でしかないとさえ思える。
「信じられない」のではなくて「甘えさせてもらえない」という真意が見え透いて空々しい。
「信じたい」という意思などなく、出まかせに粉飾された自意識が鼻につく。
 しかもその甘えに自分は気がついておらず、それどころか自分は被害者ヅラをしてときに対象を憎んでさえいる。
「人間」という集合の定義もされていないし、自己の定義を放り出している上、他者の定義が曖昧で、不信の意味を取り違えている。
 だから身勝手な愚か者ほど「人間不信」なんて言葉に浸ることができる。
 そこにあるのは、排他的でご都合主義的な自己保存のプログラムでしかない。

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 動物は人間に懐いたりするけれど、それは信じているからではない。
 経験上、その瞬間の人間が自分にとって有益かどうかを判断しているに過ぎない。
 だから普通は、それが飼い主であっても、怒られれば逃げたり隠れたりしようとする。
 信じているから近づいてきたりするのではなく、有益だから、役に立つから、自分に得だから近づいてくるだけである。

 もちろん、人間と動物との間にも信頼関係を構築することはできる。
 しかし、苦痛を与えられてもそれに耐えることができたり、さらにはそれが自身にとって意味のある行為なのだと理解できるまでの信頼関係を構築するのは、容易なことではない。
 たとえば動物病院に行くとそれがよくわかる。

 飼い主が、苦痛も含めて躾をしていない動物というのは、結局のところ人間を信じていない。
 人間が自分に苦痛を与えるのは、自分が悪いことをしたからだとは考えない。
 まして成獣ともなれば、そんなことを躾けることは不可能だ。
 だから自身に苦痛を与える者は敵だと考え、噛みついたり、ひっかいたりする。
 飼い主が何を言おうと、もはや関係ない。
 そのときのそれは、ペットではなく、ただの獣だ。

 躾のされていない獣は、だから悲しい。
 人間に懐くことを知らないまま路地裏に逃げる痩せ細った野良犬や野良猫を見るのと同じ気持ちだ。
 彼らは、痩せ細って、疑うことしか知らないまま死んで行くのだ。
 助ければ助けたで、たとえば置き餌することさえも、他の人間や、あるいはその動物自身をも、 最終的には苦しめることになる。
 だから、存在そのものを放置するよりない。
 それは、少なくとも僕にとっては、多少なりとも悲しいことだ。

 動物同士の集団の中でさえ、躾が身につかず、はぐれる個体は当然いる。
 彼らは孤独に死ぬしかないのだ。

 躾のされていない獣は、だから悲しい。
 人間に愛され、また人間を慕い続けることを知っている動物に比べて、あるいは人間との関わりなど持たず、同胞と共に野生の中で暮らし続ける動物たちと比べても。

 だから躾のされていないペットは悲しい。
 餌を与えられて太っただけの、それは孤独な獣でしかないのだから。
 愛玩という欲を満たすための糧食にされる、それは家畜でしかないのだから。

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 今の僕は、人間不信という変なプログラムを抱えてしまっている。
 おかしなミラーリングでもしたのかもしれない。
 いうなれば価値観の拾い食いのようなもので、それが今まで構築したシステムの中で消化不良を起こしている。

 当たり前だ。
 人間不信の概念には重大な欠陥がある。
 僕の内側のほとんどはそれを知っていて、その欺瞞に対して警告を発し続ける。

 にもかかわらず他者をみだりに信頼できないという条件反射は一種の感情の作用でもあるから、今の僕はその欺瞞を抱えたまま、その反射を無視することでしか対応できない。
仕事であってさえ他者とほとんど接することのない現在の環境は、そういう意味ではありがたい。
 なるべく誰にも関わりたくない。
 そう思うのは、不自然だろうか。

 感情だろうが価値観だろうが、僕は行為の一部としてコントロールする。
 だからいずれ、こんな感覚も消えると知っている。
 もしそうでないなら救いがない。

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 自分と他人は同じ類のものだと僕は考える。
 一方で、自分と他人はまったく違うものだと考える人もいる。
 これらは、まったく逆のことを言っているように思える人もいるとは思う。
 でも僕にはこれらが全く同じことを言っているように思えて仕方ない。

 日本語を勉強し直せと、学校の先生になら言われるかもしれない。
 しかし考えてもみると、どうして他人と自分が違うものだと思うのだろう。
 身体の組成はほとんど一緒で、遺伝子も9割方は同じものだろう。
 考え方は人それぞれ多少の違いはあるかもしれないが、たいていの生きた人間は自分の身体を刃物で刺されれば痛みも感じるしショックも受ける。
 誰だって争いごとは嫌いだろうし、できることなら心地よく日々を過ごしたいだろうと思う。
 なるべくなら人から愛されていたいと思うものだと思うし、できることなら他の誰かをできるだけ多く愛していたいと思うのではないだろうか。

 もちろん個々の差異は知っている。
 ことあるごと他者との考え方についての違いをまざまざと感じて僕は生きてきた。
 けれどもきっとそれだって、誰でも同じだろう。
 当たり前のことなのだ。

 つまり個々に差異があることが、結局のところ「個々に差異があるという同一性」を生んでいる。
 あなたと私は違うね、という同一性だ。違うということが同じなのだ。
 これが翻って、あなたと私は同じだね、という感覚に(僕の場合は)収まる。

 自分という存在は特別なものだという意識が、結果的に猥雑で没個性的な意識に過ぎないのと同じように。
 違うという、差異を主張し、それによって自己を確立したり世界を定義しようとする行為は、 なんとも幼稚に映る。

 そんなのは当たり前のこと。
 わざわざ主張する価値もないし、他者に説明する必要も、説得する意味もない。

 それでも時折、声高に申し立てる人もいるのだ。
「私とあなたはそもそも違う人間なのだから」と。
 考え方も経歴も出生も生い立ちも違う。
 国籍も違えば文化も違うし性別も違えば習慣が違うし年齢も違えば経験も違う。

 ええ。ええ。
 そもそも種族が違いますよ僕は猫ですからね。
 という心の言葉を僕は飲み込む。
「そもそも違う」なんて当たり前のことをわざわざ議題のテーブルに載せてくるような愚者には、この冗句(本当は冗句ではないのだけれど)を言っても通用しない。
 そもそもというのなら、そういうタイプの人間どもとはそもそも次元が違うのだ(言った、言ったよ。今、言い切ったよ)。

>>>

 私とあなたは違う。
 あの国とこの国は違う。
 この次元とあの次元は違う。
 人間と猫は違う。
 男と女は違う。
 東と西は違う。
 北と南は違う。

 僕は、つい笑ってしまう。
 できることなら問いたいのだ。
 本当に? と。

 陸と海とは違うというけれど、では海と湾の違いは? その境は?
 湾と川の違いは。その境は。
 湖と海の違いは。湖と池の違いは。池と大きな水たまりの違いは。
 小さな水たまりと、そうでない地面の違いは。

 結論として乱暴なことを言いますが。

 海も陸も一緒じゃねーか!

 ああ、もちろん。もちろん。
 分かるんですよ。違いますよね、陸と海。ね。海水と淡水も違うし。はいはい分かりますよ。陸と海は違いますよね。はいはい。陸と海、ドライ&ウェットね、はいはい。
 ホワイト・アンド・ブラックというのがね、仮装大賞の演目に昔ありましてね、テレビでね。あ、古くて分かんないですよね。

 要はそのくらいどうでもいい違い。
 違うことはよく分かるんですけれども、そこに含まれる、あるいはそれを含んでいる同一性、統一性、そういうものについて考えると、違いというものは、たとえそれらが対立関係にあったとしても、結局同じことにしか思えないのだ。
 たとえるならコインの裏と表のように。

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 欺瞞を含むコードがたとえ今の僕を支配していたとしても。
 僕は忘れていない。
 他のすべてを忘れても、けっして忘れたりしない。

 僕は人間を信じていた。
 僕は大人を信じていた。
 僕は子供を信じていた。
 僕は他者を信じていた。
 僕は同性を信じていた。
 僕は異性を信じていた。
 僕は自分を信じていた。

 僕は猫を信じている。

 猫と、猫の神様を。








::心臓すらないレイシアはそれでも言う。
「魂はありません」
 アラトは天を仰いだ。
 浮ついていたからこそ、突き落とされた痛みがいや増して、目を閉じる。まぶたの裏に、迷ったとき浮かぶのは、彼にとってのスタートラインだ。赤黒い爆発と、しっぽを振る白い犬を思い出す。ほぅと温かい息が漏れる。しっぽを振る楽しそうな“振る舞い”に、ちいさかったアラトは 救われた。自分から始めようと思えた。
 彼には、意味なんてなくても手を伸ばせる。
「魂がないからって響かないわけじゃない」
 自分に腹が立った。アラトは子どもの頃、あの白い犬の魂なんて見たことはなかった。それでも、楽しそうな様子に勇気をもらった。
「それでも、僕のこころは動いたんだ」








文頭引用は、
『Last Phase「image and life」』(p.642)
文末引用は、
『Phase 1「contact」』(p.35-36)

ともに
「BEATLESS」(著作:長谷 敏司 / 発行:角川書店)
によりました。








::女性型の義体を捨てねえのも、時計の鎖が締まるように細い腕にこだわってたからじゃねえのか?
義体や脳殻は換えられるだろ、でもよ、代わりがきかないものもあるだろうが。




130723

 晴れ。暑くなる気配。

 ガンで入院していた友人が、先週末退院したと電話を受けた。
 齢50を超えて性風俗業をするのは本当に大変だと思う(彼女は元締めではない)。
 しばらく休業になっている(あたりまえだ)彼女は、もはや風俗嬢ではなくただの友人と表記したほうがよさそうだ。
(念のため書き添えておくと、彼女は仕事で知り合った友人であって、恋人には含まれていない。誤解のないように)

>>>

 僕は特定の人間の「道具存在」になるとき、自分の価値観を完全に抑える。
 他者が「YES」と言ったとき、僕の価値観で「NO」であっても(これが実に往々にしてあるが)それを抑えて「YES」を飲み込む。
 徹頭徹尾「YES」を飲み込む。

 たいていこんなことをする前に、人は拒絶反応を起こす。
 これが自我を形成しているといってもいい。
 身体の抗体反応がそうであるように、拒絶排除を行わなければ、自分(という肉体/精神構成)は他者に乗っ取られてしまう。
 価値観は、思考や精神活動の、最初の抗体反応だといえるだろう。
(ちなみに、価値観は記憶と意味づけによって構成されるので、記憶を持たないものは価値観を持たないと僕は考える。また人格(=自我)というものは価値観の集合によって構成されていると思っている)

 当然、消化できない価値観を飲み込めば、僕だって消化不良を起こす。
 それでも僕は、それが必要だと思えばそれを飲み込み続ける。
 自分自身が本来持っている価値観を別の場所で(たとえばブログに書き連ねるなどして)できるだけ保護しつつ活動を抑制し、外側の僕は消化不良の価値観を消化できるまで飲み込み続ける。

 この期間、僕には本来の「NO」価値観と、無理矢理飲み込んでいて苦しい「YES」価値観が同居している。
 このふたつの価値観は、互いに互いを攻撃する。反発し、打ち消そうとする。
 新しい記憶と意味づけを構築中の「YES」価値観は、僕にとってはかりそめの、作りかけの、そしてあまり好ましいものではない価値観セットだ。
 だから僕は既存の記憶と意味づけによって強化されている「NO」価値観セットを応援して、「YES」を壊してしまいたい気持ちがある。
 一方で「YES」価値観を構築するのにはそれなりの目的や意味がある(意味については今は理解できていないけれど)からしているわけなので「YES」を守って、「NO」の価値観とその類縁を一度壊さなくてはならない。
 自分で自分の愛用していた既存の価値観を、正反対の価値観側から壊すことも多いこの作業は、かなりの苦痛を伴う。
 伴うどころか苦痛そのものといってもいい。

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 僕のブログを読んでいる人は、僕の我がどれだけ強いか分かると思う。
 僕も僕なりにそれを理解している。
 それなのに僕は自分の価値観をまるでデパートの商品棚のように拡充したい(理由はいずれ)。
 そのために相反する価値観を、必要と感じると僕は飲み込んでゆく。

 すると既存の価値観は(たとえ一時的にであれ)完全に否定されて、記憶とセットになっていた意味づけが揺らぎはじめる。
 僕は自分の自我(=人格)の境界が把握できなくなり、混乱し始める。

 どこからどこまでが僕で、どこからどこまでが僕でない領域か、自分ではわからなくなってくる。
 定期的に文書を書くことで、僕は(僕にとって)既存の価値観を保持しようとするけれど、その行ったり来たりは僕の自我はもちろん、それぞれの価値観そのものにとっても非常に苦痛であり、結果的に、価値観という部品から見た僕という人格本体の信頼性を損なう行為でもある。

 ざっと観察している範囲で、こんなばかげたことをしている人はめったに見かけない。
 人はそれぞれ、自分のなかで構築され、醸成された自分の価値観をずっと大事に自分の人格にひきつけ、その集合体を自分とみなして生きている。
 わざわざ相反する価値観を取り込むために、既存の価値観を引き剥がして価値観の拡大を行う人は非常に少ない。
(まして自発的に、自覚の上でそれを行っている人に直接出会ったことはない)

>>>

 二律背反とその付随情報で記憶はさらに混乱し、価値観は混沌とし、人格が不明瞭になり、僕は自分の領域がわからなくなる。
 連続的にこれを行うと、精神的な拒絶反応だけで各種の動物的な欲求が不全を起こしたり、幻聴などの感覚異常が起こることもある(もちろん、経験済みなので次第に対処も分かるようになるが)。

 ために僕は自分の身体を撫でる。
 そこには皮膚があり、確かな感覚がある。
 それが絶対的な感覚で、皮膚が外界と自分の境界であると信じられる。
 ココロではなく、カラダを信じれば、僕は自分とその境界を保てる。
 思考や価値観、頭の中だけで出来上がった各種の情報は、一種の妄想や幻覚だとさえ思える。

 肉体の上に精神活動と思考が成り立っている。
 僕は思考が肉体をコントロールすることもあると知っているけれど、多く支配的なのは肉体のほうだ。
 心臓だろうとなんだろうと、思考しなくても働く。
 自動車を運転するような比較的高度な活動も、半無意識レベルにまで自動化できる。
(運転中しながら仮眠を取ったり読書をしたりする僕のような人は珍しいと思うが)
 そのインフラを提供しているのは、ほかならぬ肉体そのものだ。

 そのくらい意識というのは脆弱なのに我が物顔をして「自分が!自分が!」とまくしたてるのである。
 精神状態や思考、価値観がどんなに変容しようとも、自分の肉体がここにある限り、僕は僕のまま、いずれ僕自身を復元するだろう。

>>>

 同じことを、僕は恋人に対しても思っている。
 意識と同様、肉体は(良きにつけ悪しきにつけ)変容してゆく。
 それでも肉体が損なわれない限り、そこで再び核となる本質は復元される。

 たとえば精神が傷つくとき、人は身体を意識/無意識を問わず傷つける。
 胃潰瘍になる人もいるだろうし、記憶障害を起こす者もいる。免疫が弱くなるのはもちろん、僕のように粘膜が弱くなる人もいるだろう(不思議と胃粘膜は大丈夫だ)。
 あるいは自傷行為や、ひどい場合は自殺さえする。
 それによって精神と肉体のバランスを取ろうとするのだ。
 つまり逆を言えば、意識/無意識を問わず自分の身体を守れるらならば、その精神を守ることができる。

 意識が朦朧としても、自分の身体だけは守ろうと、今の僕は活動する。
 意志や意識を失うことがあっても、餓死しかかって身体の機能を損なったりしなければ、かなりの短期間で僕は自分の精神を復旧するだろう。

 だから身近な人の身体を、できるかぎり健康な状態に保とうと僕は考えるし、恋人には身体を(あるいはその健康な状態を)自衛するための知恵や習慣を教える。
 心が傷ついているならば、身体が悪く変化しないようにケアをする。
 僕はたびたび「カラダだけ」といっているが、まぁ、つまり「だけ」っていうのは誇張しすぎですね。
「カラダばっかり」くらいでいいと思います。いろいろな意味で。

 ちなみに「恋人に求めているのはカラダだけ」(不本意にも五八五(字余り)で語呂がいい(不本意にも六七五(字余り)で語呂がいい))は、修飾語が非常に足りていない文章であることがようやく理解いただけたものと思う(まぁ、理解されていないほうが面白いけれど)

>>>

 彼女たち(なぜか複数形)と一緒にいるうちに、その価値観は自然と入ってくるし、僕はそれをなんとも思わず飲み込むこともできる。
 僕よりゆるやかな速度かもしれないけれど、恋人は恋人でミラーリングが起こるので、価値観が徐々に似通うことになる。
(ミラーリングが起こらない人もいるが、その理由やメカニズムについては今回説明しない)

 今の日本において多くの人は、肉体が、壊滅的に損なわれる経験をしない。
 だから、本当に精神の一部が壊滅的に損なわれる経験をしないのではないかと思う。
 もちろんそれは豊かなことだし、賞賛されるべき文明のありようだ。

 価値観や記憶を骨肉ごとごっそりと削り取られるような経験がどういうものかは、知らない方が幸せだろう。
 自分の価値観が誰かに傷つけられた、と騒ぎ合うくらいの世の中は、ずっと幸せなのだ。

>>>

 スケジュールノートに書いてあったスケジュールとタスクをごっそり忘れて大失態を繰り返し、昼食を摂らずに一日が終わろうとしている。
 ていねいに手をかけるべき仕事に時間をかけられない。これらは他人を信頼して任せるべきなのだろうか。
 しかしパートさんが一人、このタイミングで身内にご不幸があり、しばらく休業することになった。
 ああ。その仕事。もちろん私ならできます。

 時系列の感覚が混乱してどのくらいだろう。混乱しているから分からない。

 ただ、ものすごい空腹を感じているので、僕は明日も元気です。









::状況に応じて義体も脳殻も変えてきた……。なら記憶も変えるまでよ。








引用は、
「攻殻機動隊 ~ Stand Alone Complex ~ 第24話:孤城落日 ~ ANNIHILATION ~」
によりました。



 
(20130723。青猫工場初出)







 


::Hey、チャンピオン。
 周到にトラップを仕掛けて手出しが出来ないように用意したコーナーポストに獲物を追い込む気分はどうだい?
 Hey、チャンピオン。
 かりそめのリングで借り物のグラブを使って、手枷足枷を付けた手負いを追い込む気分はどうだい?
 Hey、チャンピオン。
 イカレたフットワークで相手を追い込み、イカしたペースを自称するそのパンチを繰り出す気分はどうだい?

 痛くないと思ってるのかい?
 俺が不死身だと思ってるのかい?
 俺を獣だと思ってるのかい?
 俺をカモだと思ってるのかい?




 どういうわけか、今日も昨日と同じ道を走る。
 立ち寄るガソリンスタンドまで一緒である。
 紅葉の気配が、そこかしこの植物から感じられる。
 それは死の気配でもあり、すなわち紅葉とは最期の彩りなのだろう。

>>>

 子供の頃、僕に子守歌を聴かせてくれたり、あるいは絵本を読んでくれた女がいた。
 僕はそれを記憶していて、比較的鮮明にそれを思い出せる。
 ただそれが、母だったのか、姉だったのかがうまく思い出せない。

 僕の視覚記憶の異常は先天的なものらしく、やはり顔を思い出すことはできない。
 ただ、覚えている。
 眠る時間だというのに、歌を歌ったり話しをするのはやめてほしい、と思ったことを。
 そしてそれをうまく言葉にすることができなかったことを。

 思い起こすと年齢の概念がなかったし、僕は上手に話すことも出来なかった。
 たぶん2歳くらいだったのだろうか。

 隣で妹が眠り(僕は眠ったふりをして)ようやく静かになった部屋を、その人物(姉なのか、母なのか)が、電気を消して去っていって、そうして僕はようやくと眠りに就くことができた。

 子供の頃から、音と光に過敏だったのかもしれない。

>>>

 僕が母親に抱かれて、初めて授乳されているのが、僕の思い出せるもっとも古い記憶だ。
 もちろん当時の母親の顔など覚えていないが、初めてだと断言できるのは理由がある。
 僕は赤ん坊の頃、母乳アレルギーで(今がどうかは知らない)、粉ミルクさえ飲めなかった。
 仕方なく、きなこを溶いたようなものを飲んでいたらしい。

 まさか赤子の頃から大豆製品で育っていたとは!
 と、驚いたりはしないものの、母乳アレルギーによって僕がお腹を壊したものやら、それとも皮膚炎ができたものやら、その顛末を僕は知らない。

 不思議と、母(とおぼしき女)に抱かれていた(あるいはおんぶされていた)記憶は、他にもいくつか覚えている。
 その大半において、その時点での僕は言葉を話せなかったし、複雑な概念はもとより、現在持っている基本的な知識なども持っていなかった。

 そしていつも、僕の身近には、猫がいた。
 三角の耳で、にぃにぃと鳴く、例のあれである。

>>>

 夕暮れの雲は詩的な色を反射して漂っているが、僕はそのスケールを知っている。
 あれらは、人間の作り出した建造物よりもはるかに大きく、雪を生成して含有するほど冷たく、ちょっとした飛行機よりも速く、希薄な空気という苛烈な環境そのものとして存在している。
 儚くもなければ、幻想的でもない。
 目の前にあったら卒倒するほどの存在なのだ、あれは。

 それでも僕は、それを美しいと思う。

>>>

 ただ、あの当時から思っていたのは「この人たちは、なぜこうした様式を大事にしているのだろう」という漠然とした疑問だった。

 夜に眠り、朝に目覚め、仕事をし、休み、食事をし、死を悲しみ、生を喜ぶ。
 様々な欲と、様々な正義。様々な疑問と、様々な恐れ。
 それらをないまぜに複雑に絡み合う様相をして、あの当時の僕は、今の僕であればため息に該当するであろう自己表現をすら知らぬまま淡々と眺めていた。

>>>

 こうした乳幼児の記憶を持っていることに対して、特殊なことだと思う人もいるようだ。
 恋人の中には僕を「天才だ」と称した人もいるほどである。

 ただ僕の場合、たまたまある時期からぷつりと両親の記憶が途切れる。
 通常はその後も記憶が上書きされるのに対して、僕の記憶は上書きされようがなかった。それだけなのだ。

 知っていること。記憶していること。
 それが素晴らしいことだと勝手に思い込んでいる人はいるだろう。
 そうした人たちは、知らないことや忘れていること、分からないことのアドバンテージを理解していないことがほとんどだ。

 何かを知ることによって、知らなかったときのことを忘れてしまう。
 何かを思い出すことによって、忘れていたときのことが分からなくなってしまう。
 何かを理解することによって、理解できなかった頃のことをが理解できなくなってしまう。

 逆もまた然りで、
 何かを知らないことによって、知ることや知っている人を拒否してしまう。
 何かを忘れることによって、知っていた頃のことを否定してしまう。
 何かを理解しないことによって、理解することを否定してしまう。

 こうなってしまえば、これらはただ立場を交換されただけであって、双方の位置を理解することのできる立場(互換性)を持っているわけではないことになる。
 つまり、知っていることも知らないことも、たいした違いなどないことになる。

 優れた師というものは、無知から知への道を小さな声で隣を歩きながら案内できる者のことであって、知という地点から大声で指図して招集命令する者のことではないのだ。

>>>

 帰宅して、バップアップ用HDDを解体処分。
 バックアップ用は残りひとつ。
 メインシステムのストレージをすべて分解すれば、これで跡形もなくなる。






::Hey、チャンピオン。
 視界が赤いぜ。
 Hey、チャンピオン。
 真っ直ぐに立っていられないぜ。
 Hey、チャンピオン。
 格好がついて嬉しいかい?

 Hey、チャンピオン。
 アンタの勝ちだぜ。
 Hey、チャンピオン。
 俺がここに来たわけを知っているかい?
 Hey、チャンピオン。
 アンタと戦いに来たわけじゃないのさ。

 血も涙もないと思っていたかい?
 血も涙も涸れちまったと思っていたかい?

 Hey、チャンピオン。
 アンタの勝ちだぜ。
 だけどHey、チャンピオン。
 俺がここに来たわけを知っているかい?

 Hey、チャンピオン。
 アンタと戦いに来たわけじゃないのさ。

 Hey、チャンピオン。
 アンタと戦いに来たわけじゃないのさ。







::「そもそも、なぜ抵抗しなかったのでしょうか?」
 弁護人が言った。もしシェルが身分を操作したり、レイプしたり、車に閉じ込めたりしたなら、少女は抵抗していたはずだと。検事が反論する間、バロットは施設を思い出していた。年中、ソーシャルワーカーから「お前は悪い子だ」と言われていた頃のことを。
 ワーカーにはそうでない者もいたが【そうである】者のほうが格段に影響力を持っていた。夜、二段ベッドの下の段で寝ている子供を、ワーカーの男がレイプしても、上の段の子供は恐怖に震えながら寝たふりをするしかなかった。みなそこで金もなく捨てられる恐怖を覚え、金ももらえず好きなようにされる屈辱と恐怖を覚えた。
 中には施設に順応する子もいた。権力というものを知る子が。だが大半は何とか逃げようとした。日常的に四方からナイフを突きつけられたような状況で、衣食住とあらゆる娯楽と友人関係をいいように操作され、挙げ句に少しも抵抗の道を示してくれなかった大人からなぜ抵抗しなかったかと訊かれたところで、バロットの返答は沈黙(サイレンス)以外になかった。






151107

 細い。
 なにがといって、ウエストが、である。細い。
 しかしながら華奢なのかというとそうでもなくて、油圧シャフトを組み合わせた機械のような形態を窺い知ることができる。
 が、それにしてもウエストが細い。

 ほとんどのスラックスが握り拳が3つは入りそうだし、ベルトを締めて一番内側で留めても、まだゆるゆるしているのである。

>>>

 ある領域で人間を観察していると、個々人の境界設定に特徴があり、僕の持つそれとは少々異なっていたり、同じようであったりする。

 ここでいう個人の境界設定の定義というのは、個人の境界を成す境界面を、それぞれ(第一人者的/第三者的)にどのように認識し、どのように規定するかということ。
 そしてその境界面がどのように外部へ影響を及ぼし、どのように外部からの影響を受けるか、ということに当然ながら問題は波及する。
 そう、波のようにそれは力を受けたり発したりすることが多いと僕は認識しているのだけれど、それさえ波動系ではなく、粒子系の伝達をする人もいるようだ。
(波と粒子のイメージとしては下記URLの内容が個人的には分かりやすいかもしれないと感じた。
参照:http://taste.sakura.ne.jp/static/farm/science/wave_particle_duality.html

 ざっと観察した範囲で、この境界設定の方法は外骨格生物系と内骨格生物系に分かれるがそれは後述。

 そもそも個人境界設定というのは、他者がいなければ始まらない、かというとそうでもない。
 他者の定義がまずあって、現実の、実体を伴う他者がいて初めて他者というものが個人の中に発生し、境界設定が必要になる場合、というのが一般的ではある。
 人間は生まれながらにして(おおよそほとんどの場合においては)他者がまず存在しているから、この認識が広範囲において一般的であるとされるのは当然だろう。

 一方で、他者という実体が伴わなくても、個人の中で他者の存在を仮定することで、自身の境界設定が可能になるのもまた事実。

 前者は実体を伴っていて(おおよそほとんどの場合においては)生まれたときから多かれ少なかれ境界設定が外部から行われるのに対して、後者は実体を必要とせず、後天的に(おそらく思春期前後に形成される思考の中で)内部から設定されてゆく。

>>>

 そもそも、外部と内部の境界(自己と他者の境界)面というのは、TPOによって、状況によって、相手によって、自分の立場によって、大きく変わるのではないだろうか。

 たとえば家の中では裸で過ごすことも多い私だけれど、外に出るときはスーツが多い、とか。
 ジョギングをするときはスポーツウェアで、仕事の時はスカートが多いけれど、帰宅するとまず着替える、という人もいるだろう。
 自転車で通勤するときの僕は上下ともサイクルウェアだけれど、勤務中は業務に則した服装に着替えるし、ジェームスボンドは潜水服の下にタキシードを着ているものだ。

 そう。服装もまた自分と他者や環境を隔てる境界であり、あるいは目に見えない心理的区画や認識領域についても同様のことがいえる。
 親(特に哺乳類の母親)の多くは、子供を自分の領域に、自分の一部として含んで認識しているように観察される。
 組織や国家のリーダーは(やはり全てではないかもしれないが)そこに含まれる一人一人を、自分自身のように大切に思っているものだと思う。
 中には人類すべて、あるいは生き物すべてを、自身や自分の親族のように感じることのできる人もいるだろう。
 簡単にいうと、これは存在ではなくて、状態である。


 このように自己認識の境界は状況で変わるのだから、それはあるようでいてない。ないようでいてある。
「辛そうで辛くない、少し辛いラー油」というのが以前あったように「有りそうで無い、少しある個人境界面」という存在がここで浮き彫りになるわけである。
 だからといって彫刻刀を持って、僕がそれを彫り出したりしているわけではないので誤解のないように。え、そんな誤解はしない?

>>>

 さてもこの境界面設定というもの。
 僕はかなりフリーダムな人間関係の中で生きてきたので、周囲から(たとえ親とされる人間であっても)何かを強要されることによって、制限されることがほとんどなかった。
 つまり外部から強く境界設定の影響を受けることがなかった。
(子供の頃からの親の不在をありがたいことだと僕が感じる理由のひとつである)

 人間関係で周囲(たいていは親や家族、友人や先生、上司や恋人などだろうか)から境界設定を受ける人、受け続けている人、受け続けてきた人というのは、まず他者ありきである。
 他者があって、境界設定を強制されて、それでやっと自分の境界が認識できるようだ。
 僕からすると柵で囲われた家畜のように思えなくもないのだけれど、まぁ、それは仕方ないよね(口調が変)。

 外部から設定(あるいは強要)されるものだから、必ず実体を伴うし、それを仮想する必要はない。
 むしろ仮想他者によって自律的に形成される個人境界面など単なるまやかしごとでなはいかと、こうした人たちは笑うだろう。

 外部から設定されるため、その境界はかなり明確であり、それゆえに行動として具現しやすい。
 たとえば「上着のボタンは必要もないのに外さない」「スカートは膝上10センチより短くしてはならず、膝下10センチより長くしてもならない」「靴下は白いハイソックスとする(ただし黒いニーソックスは例外とする)」といったように。

 極論かもしれないし、そうであると信じたいのだけれど、こうした人たちは、境界を他者に押しつけることによって、他者を規定し、他者から境界を押しつけられることで自己を規定する足がかりにしているように観察される。
 規定の根源にあるのはすなわち興味関心であり、あるいは愛情表現であると認識(ありていにいうと誤認)しているように見えることさえある。
 つまり境界面を押しつけたり押しつけられたりすることによって、自分や他者の境界面を「より明確に」規定しようとして、その行為全体が人間関係だと認識しているように観察されるのである。

 もっともこれにも問題点はあって、境界というのは明確にしようとすればするほど、その厳密なラインがぼやけてしまうもので、駅のホームでも僕などは「黄色い線の内側」がどこを指しているのかを考えると夜も眠れなくなりそうなほど、おもしろおかしい気持ちになってしまったりする(そして夜にはそんなことは忘れてぐっすり眠る)し、「前向き駐車」の意味がやっぱりどうにも分からなかったりする。え、これは境界問題とは関係ない?

 仮想他者でとりあえずの境界設定をする場合(ま、こんな程度でとりあえず不快を生むことはないだろう)というある程度のラインを踏まえてゆく。
 もちろん、それでも誰かの不興を買うことはある。
 シャツのボタンを閉めすぎるのがよくないこともあるし、恋人が多すぎるのが問題になることもある。
 それとてTPOでなんとでもするのは、僕にとって境界面がそもそもあやふやで、どうでもいいものだからだ。

 その場をやり過ごすためであれば、境界面などその場で作ってしまってもいい。
 本当に必要な本質を満たすことができるのであれば、表面のことはどうでもいい。
 というのが極論的な内部設定型の境界面設定方式の根底にあるとした場合、ある程度のアウトラインで境界を設定し、あとは現物合わせで何とでも対応しましょう、ということになる。

 外部強制型の境界設定をしている人からすると、非常識なほどいい加減であるけれど、逆に内部設定型の人が外部強制型の人を見ると、その人間関係は窮屈でキモチワルい。

 もちろんこれは極端なパターンを定義しただけだから、誰かが100%外部強制型であるはずもなく、また誰かが100%フリーダムな内部設定型であるはずもない。
 人はそれぞれにそれぞれの割合で、外部からの強制を受けて、内部からの境界を予測も含めてしているものだと思う。
 どちらが一概に優れているというものでもない。窮屈なほうは明白だが。

>>>

 外骨格生物系の個人境界設定とは、すなわち外部からの強制による境界設定を一般とする認識のことだ。
 そこでは境界が外側から決められていて、もちろん他者にもそういう接し方をすることになる。
「これはこうでなくてはならない」「こうでなければあなたをあなたとして認めない」
 とまぁ、そういうことです。
 与えられ、受け取ってきたものを、ストレートに他者に与える。とても分かりやすいですね。
 こうした手法は境界が非常に明確で、バカにも対応しやすい利便性を持っているものの、ワタクシなどには少々窮屈に思えるのですがここでの私見は不要ですか、そうですか。

 たとえばカブトムシなどを見ると分かりやすい。
 充分な栄養状態と適切な環境を与えた場合、ほとんどの個体は同じようなサイズと外観に育つ。
 べつにクローンではないはずなのだけれど、そうなる。
 これが外骨格生物系の個人境界設定にも同じように作用しているのではないかと僕は感じる。

 他者に規格を与え、他者から規格を受けることによって、確かに「誰も」「何も」考えなくて済むのではある。
 それではそこに出来上がるのはいったい何なのかというと、個を喪失したかのように画一的な「規格どおりの誰か」なのである。

 よって他者から境界設定をされることでしか自己認識をできなかった人間というのは、ある程度以上の大人になってから自己認識の境界面が自分で設定できないという類のアイデンティティ不全で自殺したり、あるいはモノやお金に対する異常なほどの執着によって自身の境界を保とうとする。


 内骨格系の個人境界設定は、制限がない。
 太ったイヌもいれば痩せたオオカミもいるのと一緒で、自分の芯にある骨格が支えることのできる限りにおいて、自由に存在することができる。
 制限がない、は言い過ぎた。制限が緩い、といったところだろうか。

 しかし自律が必然的に必要で、考えなしでテキトーに、というわけにはなかなかいかない。
 ある程度のフィードバックに伴う自律性が系として出来上がってしまえば、ほとんどのことは勘でどうにでもなるのだけれど、それが形成されるにはアタマを使うだけではどうにもならないような気がする。

 それでも、続けていれば何となく身につくものだ。


 もし仮に、自分が外骨格型で内骨格型の比重を高くしたいとか、あるいは逆に内骨格型から外骨格型にシフトしたいという場合は、とりあえずしてみようとすれば何とかなると思う。
 自分はこういうものだと制限し続けているのは、本当のところ、いったい誰なのか、ときどき立ち止まって考えた方がいい。
 それは本当に他者なのか。それは本当に自分なのか。
 どこからどこまでが社会で、どこからどこまでが自分なのか。
 その境界は、いったいどこにあるというのか。

 もちろん自分の中に骨格がありさえすれば、そんなフレーム問題などは取るに足らない些事でしかないのだけれど。

>>>

 体重は61kgを行ったり来たりしている。63kgにするのはもう諦めた。
 体脂肪率は16%を切らないのでこれはよしとしよう。
 骨格筋率が38%を越えて計上されることがしばしば。そろそろ腹筋が付いたのだろうか。
 観察するに、贅肉は減ったのだけれど、そもそも自分の身体をしげしげ眺める習慣がないのでよくわからない。










::──その言い訳(エクスキューズ)は知ってる。【あなたたち男はいつも、お前もそれを望んでたって私に言うから。】






冒頭引用は
「第3章:発動 Crank-up」(p.161-162)

文末引用は
「第2章:混合気 Mixture」(p.86)

From「マルドゥック・スクランブル[完全版] The 1st Compression - 圧縮」
(著作:冲方 丁/ 発行:早川書房)
によりました。

 なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて、傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。








170424

 どんなカタチであれ、自分をひけらかしたくはないと思う。

>>>

 自慢をしたくない。
 自身が他者をして羨むこと、そこに潜む欲があって、つまりは自分が羨んだことをして、他者に羨まれたいという歪んだ欲望を持ちたくない。

 欲というのはもっと純粋なもので、自己完結が可能なものだ。
 自分がステキだと思う。自分が素晴らしいと思う。
 もうそれだけで充分にステキで素晴らしいことなのだから、わざわざ誰かにひけらかす必要などない。
 ステキで素晴らしいものごとで満たされた自分を、誰かに見せるなんてもったいないことだし、誰かに見せることで拡大欲求や承認欲求を満たすために自分が素晴らしいと思う対象を利用するという行為は、幼稚でとても恥ずかしいことだと僕は思う。
(でも、新しいMacを買ったら普通に自慢すると思うが)

 自分の知識も経験も立場も所有物も知識も知見も、すべては自分という船の積載物であって、つまるところは船体であるところの自身の肉体的特性(若さであるとか、外見の善し悪しであるとか、健康であるとか病気であるとか)も、付随的な要素であり、船にとって大事なことは「どこに向かって」「どのくらいの速度で」動いているか。すなわちベクトルの問題なのである。

 よって老いていようと若かろうと、この先何年生きられようと、外見が美しかろうと醜かろうと、その船がどこに向かっていて(向かうことができるか、ではない)、どこに到着するつもりなのか、ということが姿勢(英語にするとスタンス)としての美しさを示すものであって、素晴らしい積み荷を積んだ船が、今まさに沈没しようとしているならば、その船は素晴らしく救いようのない、船としての機能を全うすることもできない泥舟も同然なのである。

>>>

 積載物の価値の高さや船体そのものの優位を語ることと同様、その劣位を語ることもまた、周囲の否定(「そんなことないよ!」「まだ若いよ!」「醜くなんかないよ!」「やればできるよ!」「生きてるだけで素晴らしいよ!」etc,etc……)を誘おうとしている点においてみすぼらしい。

 つまり、自分の素晴らしさや愚鈍さなんてものは、語るほどに恥ずかしく、みすぼらしい行為なのである。
 では翻って、他者を語る行為はどうなのか。
 これもまた、語るという行為によって、相対速度が観察者の目には発生してしまう。

 僕が「自慢をする人は恥ずかしい」と言うことによって「自慢をしないボクはだから美しくて素晴らしい」と語っているかのように見えてしまうことが往々にしてある。
 これが僕を時に悩ませるのではある。

>>>

 僕は、観察された事象(自己顕示欲を満たす行為)と、そこに含まれる法則性(歪んだ欲はカコワルイ)を明示したいだけであって、明示している僕を誇示したいわけではない。

 ひけらかすことなく、のんびりぼんやりしていたい。

 他人からは「あの猫はネズミも捕まえないで、昼寝ばかりしているごくつぶしではないか」と非難されるような生き方をしたい。
 そして背伸びをすると、背中の体毛が陽光を反射して、きらきらと輝くようでありたい。
 あくびをすると、牙がぬらりと光っているようでありたい。

>>>

 僕は僕の行く場所を知っている。
 あるいは少なくとも、自分が本当に行きたい場所を知っている。
 でも、それは誰かに教えなくてはならないものではないと思うし、説明したところで通じるものだとは思えない。
 他者に見えるのは、僕のどう猛な牙、もしくはきらびやかな背中、あるいはキュートな肛門、ないしぴんと張られた尻尾であって、僕が見ている視線の先ではないのだ。

 だから僕は僕の向かう先について、適切な説明をする必要はないし、する必要があったところですることはできない。
 なぜならそれは他者に共有可能な情報ではないし、そもそも共有可能な言語に翻訳できるとは限らないのだから。
 結果的に、彼らは僕のことを自由に、思い思いに、それぞれの主観で、いいようにも悪いようにも評価するだろう。

 彼らが見ているのは僕の積み荷だ。
 あるいは彼ら自身の積み荷に対する欲しか見えていないかもしれない。

 だから僕は、彼らの言葉を聞かない。
 聞くに値しないのだ。

>>>

 自分を見せないというのは、自分を見ないことではないし、相手を見ないことでもない。
 ただ自分を見せようとする欲求に含まれる虚飾を、ていねいに分離したいだけなのである。

 それを損な生き方だとする人もいるだろう。
 誤解を自ら招くような行為だと諭す人もいる。
 それは本当に、相対速度的な問題なのだと僕は言いたいのだけれど、面倒だから説明しない。
 彼らはそれを理解できない。

 素晴らしい積み荷があるとして、それを隠すのは損なのだろうか。
 たいしたことのない積み荷を飾り立てて、それをひけらかすのがそんなにステキだろうか。

 そんないきかたを、ぼくはしたくない。






// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20170312
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
恋する気持ちと明日の意味と。
SUBTITLE:
~ Silent recipient. ~
Written by 黒猫

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
「この人と一緒に進んで行けば。今日を共に過ごしたら。明日を二人で迎えたら。もしかしたら昨日までと違う世界が見えるんじゃないかな」

 恋する気持ちを端的に表すと、そんなひと言に集約されるのではないかと今日の僕は思っている。

 イコとヨルダが手を繋いで進んで行ったのは。
 シータがパズーの手を取ったのは。
 サーバルちゃんが、かばんちゃんと共に進むことを選んだのは。
 モロの君がアシタカに向かって「黙れ小僧!」と一喝したのは。

 最後の例外はともかく。
 安堵するでもなく安住していて、にもかかわらず退屈している現在のこと。
 齢を無駄に重ねるにつれ、意味もなく不安を覚えることもある未知のこと。
 過去の意味さえ、自分の都合に合わせて編纂されて。

 しかしその瞬間から以降を肯定的に、かつ期待して、自ら望んでさえしまう心持ち。
 それが恋なのではないのかと僕は思うのだ。

>>>

 今の会社に入社してから最初に、弟子が僕にした質問は「青猫さん、恋人、何人増えましたか」であった。
 そして当時の僕は、実に、人を信じることのできない呪いが掛かっていたのではある。

 恋をしない心の機能というものを逆説的に、人を信じる、未来を希望する気持ちや素養の剥落であると考えるならば。
 すなわち僕は人を信じ、未来を希望し、楽観する機能を失っているのではある。
 それ以外のほとんどすべてについて、他を圧倒するほど楽観的であるにもかかわらず。

 僕の恋人は、増えていないのである、今なお。

 もちろん悲観しているわけではない。恋人なんてものは勝手に増えるのである。
 モテを身に着けている僕にとって、それは呼吸をしているだけで勝手に増えてゆくものなのである。

>>>

 未来を楽観すること、繰り返される今日に希望を持つこと、誰かを信じること。
 違う今を感じること、過去の可能性に気が付くこと、自分を誤魔化さないこと。

 もしも自分の力だけでそこに到達できないのなら、そのときは誰かの手を掴めばいいのだ。

 そして新しい同僚ができた僕は思う。
「お前の手だけは取らねぇからな!」

 第一。
 彼は男だ。

 僕の恋人は、まだ増えそうにない。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]

[ Cross Link ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]






//EOF
170329

 同僚の話や介護の話、新しい食器や調理器具の話、ガールフレンドや僕の遺伝性高脂血症と悪玉コレステロールの数値の変化についてなど、語りたいことはいくらでもあるのだけれどいかんせん僕には時間がない。
 喩えるならば天竺を目指す玄蔵法師のように、あるいは60代前半で年金を貰うより早くこの世を去る私の血族のように、あるいは花束を貰うより早く知性を失ってゆくアルジャーノンのように。

 そんな僕が本日、この場を借りて申し上げたいのは、このところ、僕がほぼ毎日(といってもたかだか3日ほどのことであるが)ステーキを食べており、しかもほぼ毎日(といってもたかだか3日ほどのことであるが)ステーキを焼いており、そしておそらくは明日も僕はステーキ肉を買って焼いて食べるであろうという事実についてである。

 実にこの瞬間も、僕はステーキ肉を咀嚼しながら書いているのである。
 しかも、和牛、とか、霜降り、とか、そういうのではない。
 アメリカンビーフ。できればブロックのロース、なければモモ肉。厚みは30mm程度もしくはそれ以上。重量は300g以上。
 
 カタマリ肉の筋に、ハサミを入れる。
 室温に戻して、適切な重量の塩を振り、フライパンで焼く。
 フランベとかめんどくせぇ真似はしない。
 ラムならあるが、めんどくせぇ真似はしない。
 とにかく、肉を上手に、つまるところ美味く焼くことが今の僕にはすべてなのである。

 そのステーキ肉を焼く練習をかれこれ3日は続けている。
 明日も焼けば4日(もしかしたら5日)連続である。
 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20170203
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
 鉄瓶と白湯の冬
SUBTITLE:
~ Winter hardware. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Lead Division *<< //


::お客さまに対する最高のサービスは、「自分がお客さまだったら」という気持ちになることから始まると、つねづね僕は思っているが、それはこんなひとときからも培われるのではないだろうか。




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//[Body]
 白湯が好きなのである。
 昨年、ちょっとした金物屋(おどろくなかれ、それは現代まれに見る商店、正真正銘の金物屋さんである)と親しくなった(僕はコンビニのパートさんにもすぐに覚えられてしまったりするタイプの人間である)ついでに、あるとき鉄瓶を買った。

 いわゆる南部鉄器である。
 ホームセンタなどで売っているやかんはせいぜい2、3千円だが、僕の買った鉄瓶はより1リットルほどの容量で(およそ)1万円だった。
 けれども鉄瓶で沸かしたお湯は美味しいものだと聞いていた。
 一方、行方の知れなくなったかつての師がかつて「安物の鉄器の材料なんて、スクラップになった自動車だかなんだか分からないんだから買うもんじゃない」と言っていたことが妙に耳に残っていて、だからちゃんとした鉄瓶が欲しかったのではある。

 しかしながら実に、鉄瓶というのは「育てる」道具なのだった。
 まるで(喫煙具の)パイプのようですらある。
 人間に限っていうなら「完成品」が好みなのにもかかわらず、道具についてはこうした手間の掛かるものに魅せられてしまうのだろうか僕は。
 パイプの場合はカーボンや香りがパイプ本体に蓄積される。
 鉄瓶の場合は内壁にミネラル分が湯垢として蓄積される。
 その課程を「育てる」というのであり、鉄瓶の場合は分厚く蓄積されたそれによって、いっそう錆びにくくなり、湯の味もまろやかになるというのである。

 幸か不幸か、このマンションの水は(おそらく貯水タンクのせいで)やたらとミネラル分が高いように感じる。
 塩素分はそれほどではないように思うものの、とにかくそのままでは雑味がひどくて美味しくないので、浄水器を取り付けている。
 結果的にミネラル分も低下してしまうのが仇になったか、それよりなにより使い方を誤ったからか、二度ほど、内側に赤錆がひどく浮いてしまった。

 幸い説明書に「赤錆が浮いたときに黒錆にするための手法」が書いてあったので、手間は掛かるもののそれを実践すれば、赤錆おそるるに足らず、ということも分かってきた。

 ストーブ(現在エアコンを除いて3つある暖房器具の1つ)で数日かけてミネラル分が濃縮された湯を煮詰めてゆけば、簡単に湯垢の層を作ることができることも分かった。
(ミネラル分が濃縮された水は、しかし元が水道水のためか、美味しくないが)

 白湯健康法みたいなお話は、ネット上にもあれこれ点在しているが、つまるところあたたかいものを身体に入れれば、当然体温は上昇するから代謝も良くなるというしごく自然のことを大げさに健康法ぶって吹聴しているだけだと僕は思っている。
 そもそも東洋医学では、飲食物も含めて身体を冷やすな、というのが基本である。

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 化学に詳しい人ならば、鉄が錆びるのは「錆びた方が安定するから」ということが容易に理解できるだろう。
 すなわち、きちんと錆びていない鉄は、不安定なのである。
 不安定な物質は、あるいは人がそうであるように、何かと結合することで安定する(あるいはしようとする)。
 すなわち鉄瓶で湧かした水が美味しく感じられるのは、そうした「不安定な雑味をもたらす物質」が鉄と結合するからなのだろうという予測も可能である(詳しくは調べていないが)。

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 僕は誰かに白湯や鉄瓶をオススメするつもりはまったくない。
 鉄瓶は手が掛かる。喫煙具のパイプと同じくらい手間が掛かる。
 でも、僕は白湯が好きだし、鉄瓶を買って良かったと思っている。
 ストーブの上で、加湿器がわりにやかんと並べて使っているくらいである。

 おかげで毎日、湯沸かしと白湯呑みがはかどっている。
 白湯が好きな僕は、鉄瓶が好きである。
 アルコールを飲んだ夜更け(ほぼ毎晩である)、床にもぐり込んだあとの暗闇で、ちびちびとすする白湯はもう、それはそれはおいしいものなのである。

 ちなみに僕は、水の味(正確には水の美味しさ)の分からない人間は、どんなに偉そうなことを言っていても見下してしまう。
 水には味がないなんていうのはもってのほか。
 だってそれは、鈍感ということであって、鈍感な人間は、すなわちセンスがそれだけ鈍いのだから。
 自分の身体感覚の鈍い人間が、いったい何を偉そうにおっしゃるのかと思う。

 味が分からないというのは、目が悪いとか耳が悪いのと同じように、外界からの情報伝達が劣っているのだ。
(そして嗅覚と同じくらい、とても原始的で本能的な感覚である)
 どんなにニュースを集めていても、どんなに人の噂に敏くても、どんなに万象を知ったように言っていても、肌で感じた言葉にはとうていかなわない。
 だから、知ったようなことを言う人間と、身をもって知ったことを言う人間は、仮に同じことを言ってもまったく違って聞こえる。
 まるでそれは、白湯と水道水のように、似て非なるものに、僕には感じられる。








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::僕は調理に携わらないホールの人間でも、自分の店のメニューの味は知っておくべきだと思う。注文を受けたとき、「この料理はこんな味で、こんな食感で……」とわかっていれば、料理に対する愛情も湧く。お客さまにたずねられれば、その料理の説明もできるだろうし、お客さまがどんな様子で食べているのか気にもなる。




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[出典]
~ List of Cite ~
 文頭文末の引用は、
「パネトーネ ~ Panettone ~」
From「落合シェフの美味しすぎるイタリア料理」(p.192-193)
(著作:落合 務 / 発行:KKベストセラーズ)
 によりました。


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//TimeLine:20170109
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TITLE:
あなたの手駒の真ん中で。
SUBTITLE:
~ Pawnshop? or Pornshop? ~

Written by Bluecat

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::<アラトさんには、この全自動の世界が“くだらないもの”に見えますか?>




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//[Body]
 いつになくヴァージニア煙草(Rattray’s Marlin flake)で休日の朝(といっても昼近い)をスタート。
 カレンダ的には三連休だけれど、最近の僕は休日の半分を介護に費やしている。

 小学校に入学する前に母がいなくなり、30歳になる前に父を亡くしたので、介護なんてものが僕の人生に関わり合おうなどとはこれっぽっちも考えていなかった。
 そんなものは遠い国のニュースのように巷(みなとと読んでもいいんじゃないかな)で騒がれ、人づてに僕の耳のうぶ毛を微かにふるわせる程度の、ささやかな影響力しか持たないものだと思っていたのである。

 第一、僕は新しい街に越してきたばかりである。まだ半年も経っていない。
 よって書架もしつらえられておらず、ゆえに大半の書物は今も倉庫兼クローゼットルームの押し入れの中にうずたかく積まれている。
 パソコンだって、モニタがやっと3つ設置されたものの、きちんと配線されて画像を映しているのは1台だけである。
 台所と寝室はなんとか暮らせる程度に配置が安定してきたが、未施工の棚などを挙げたらきりがない。
 仕事はそれなりに忙しいし(それでものんびりぼんやりに心がけているけれど)、今月の中下旬には資格試験もある。

 で、休日の半分は介護なのである。
 もっとも入浴介助であるとか、そういった重いものではない。
 簡単にいえば家事手伝いである。
 料理や掃除といった、比較的好きなものであるから、さほど苦には感じない。

 が、自動車で片道1時間以上かけて移動し、道中に必要な用具や材料を購入し(食材や調味料はまだしも、掃除の材料は僕にとっては妥協できない対象である。とくに重曹、クエン酸、いくつかの蝋、メラミンスポンジ、無水エタノールとパーツクリーナは欠かせない)、実作業4時間程度を確保する(本当は6時間くらい、休憩なしの通しで作業したいのだけれど、なにせ茶を飲め、食事をしろ、休憩しなさいとお節介を焼かれる)のが精一杯である。
 昨年夏にはおよそ18枚の網戸の網を張り替えたのだが、実に2週間(つまり2日間、各5時間ほどで計10時間)を費やした。

 この「休憩・食事」という時間が、いかんせん面倒である。
 ある程度の糖分と水分摂取で8時間は稼働できる僕にとって、空腹でもなければ疲れてもいない状態で強要される休憩や食事は、単に集中の妨げであり、眠気の発生によってやる気を削ぐ原因でしかない。
 でも、こまめに休んで、こまめに食事をする体質の人には分からないのである。
 僕はなにもすべての人が休憩も食事もしないで働くべきだと思っているのではない。そんな体質の人がかなり少ないことは、これまでの経験でよく理解している。
 ただ、僕はそうした「ちょっとヘンな体質」の持ち主であり、その体質に合わせた仕事の仕方があり、それに合わせた休息の仕方があるのである。

 だから肉食獣のように、空腹の時にこそ「わしっ」と通しで限界まで仕事をして、集中力が完全に切れたり身体が完全に疲れ切ったあたりで食事(やガールやアルコールやレディやニコチンやガールやお風呂やベッド)を与えて、放っておけばどこでも(主にレディの膝や腕や胸やお腹の上で)眠るのである。

 そのあたりを理解してもらえるならば相互理解がはかどるのではないだろうか。
 そうすると昼休みにも平気で仕事をし続ける人や、定時になるとスパッとやる気をなくして帰宅する人、休日夜間の勤務もまったく気にしない人など当たり前に多様性があり、それぞれに考えや体質があることを容認できるようになるのではないだろうか。

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 ところで今思ったのだけれど、ヴァージニア煙草をパイプで喫むときに、シナモンパウダなどをアクセントにふりかけても美味しいのではないだろうか。
 試してみようと思ったのだが、我が家にシナモンパウダなんて高級品はなかった。

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 そのようなわけで3連休の最後の一日は、割り切れない余りとして、久しぶりののんびりぼんやりタイムに費やされている。

 よくよく考えると、結婚すれば親が増える。
 おおかたの人の親は、僕の親のように、さらりと僕との縁が遠くなってみたり、するりとうつしみに別れを告げてみたりはしないだろう。
 僕から言わせると、しぶとく生きている人間があまりにも多い。

 そこから転じて考えれば、バツ1~2で子持ち(どうせなら成人済み)で両親が他界している女性と結婚すればラクなんじゃね? ついでに眼鏡が似合ってアタマがよくて、貧乳じゃなくて、気立てがよければ最高じゃね? と先日弟子に提案したところ、苦虫を噛みつぶしたような顔をされた。

 ……ああ。言いたいことは分からないではないよ。
 キミにはまだ早いだろうことは理解しているよ。

 それでも多くの場合、時代は僕のあとをついてくるわけで、これからは「バツ1親なし子持ち(成人済み)+オプション」が結婚相手のトレンドになるのではないだろうか。

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 ついつい真面目なことばかり普段は考えているから、たまの休みにはこんないい加減な極論を言いたくなってしまうのである。
 悪いのは僕ではないし、普段からこんなに不真面目な人間なわけではないのだ。
 たまになのだ。先っぽだけ! 先っぽだけなのだ。






(「真夜中のマシンガン」をついつい「真夜中のレイルガン」と口ずさんでしまう。それ、対人兵器ちゃうやん?)








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::「自動化とは、人間の仕事をマニュアルに整理して、それを機械的になぞるサイクルを作るということです。対人分野でも、この自動化は、外食チェーン店やフランチャイズ型小売店のマニュアルの高度化で、二十世紀から百年以上も続いています。広い問題として、人間よりも、透明性の高い手続きに従う、手続きに忠実な、“かたち”に期待するほうが、楽なのです」




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[出典]
~ List of Cite ~
 文頭文末の引用は、
『Phase 4「automatic world」』(文頭部 p.132、文末部 p.131)
From「BEATLESS」(著作:長谷 敏司 / 発行:角川書店)
 によりました。






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