::「そもそも、なぜ抵抗しなかったのでしょうか?」
 弁護人が言った。もしシェルが身分を操作したり、レイプしたり、車に閉じ込めたりしたなら、少女は抵抗していたはずだと。検事が反論する間、バロットは施設を思い出していた。年中、ソーシャルワーカーから「お前は悪い子だ」と言われていた頃のことを。
 ワーカーにはそうでない者もいたが【そうである】者のほうが格段に影響力を持っていた。夜、二段ベッドの下の段で寝ている子供を、ワーカーの男がレイプしても、上の段の子供は恐怖に震えながら寝たふりをするしかなかった。みなそこで金もなく捨てられる恐怖を覚え、金ももらえず好きなようにされる屈辱と恐怖を覚えた。
 中には施設に順応する子もいた。権力というものを知る子が。だが大半は何とか逃げようとした。日常的に四方からナイフを突きつけられたような状況で、衣食住とあらゆる娯楽と友人関係をいいように操作され、挙げ句に少しも抵抗の道を示してくれなかった大人からなぜ抵抗しなかったかと訊かれたところで、バロットの返答は沈黙(サイレンス)以外になかった。






151107

 細い。
 なにがといって、ウエストが、である。細い。
 しかしながら華奢なのかというとそうでもなくて、油圧シャフトを組み合わせた機械のような形態を窺い知ることができる。
 が、それにしてもウエストが細い。

 ほとんどのスラックスが握り拳が3つは入りそうだし、ベルトを締めて一番内側で留めても、まだゆるゆるしているのである。

>>>

 ある領域で人間を観察していると、個々人の境界設定に特徴があり、僕の持つそれとは少々異なっていたり、同じようであったりする。

 ここでいう個人の境界設定の定義というのは、個人の境界を成す境界面を、それぞれ(第一人者的/第三者的)にどのように認識し、どのように規定するかということ。
 そしてその境界面がどのように外部へ影響を及ぼし、どのように外部からの影響を受けるか、ということに当然ながら問題は波及する。
 そう、波のようにそれは力を受けたり発したりすることが多いと僕は認識しているのだけれど、それさえ波動系ではなく、粒子系の伝達をする人もいるようだ。
(波と粒子のイメージとしては下記URLの内容が個人的には分かりやすいかもしれないと感じた。
参照:http://taste.sakura.ne.jp/static/farm/science/wave_particle_duality.html

 ざっと観察した範囲で、この境界設定の方法は外骨格生物系と内骨格生物系に分かれるがそれは後述。

 そもそも個人境界設定というのは、他者がいなければ始まらない、かというとそうでもない。
 他者の定義がまずあって、現実の、実体を伴う他者がいて初めて他者というものが個人の中に発生し、境界設定が必要になる場合、というのが一般的ではある。
 人間は生まれながらにして(おおよそほとんどの場合においては)他者がまず存在しているから、この認識が広範囲において一般的であるとされるのは当然だろう。

 一方で、他者という実体が伴わなくても、個人の中で他者の存在を仮定することで、自身の境界設定が可能になるのもまた事実。

 前者は実体を伴っていて(おおよそほとんどの場合においては)生まれたときから多かれ少なかれ境界設定が外部から行われるのに対して、後者は実体を必要とせず、後天的に(おそらく思春期前後に形成される思考の中で)内部から設定されてゆく。

>>>

 そもそも、外部と内部の境界(自己と他者の境界)面というのは、TPOによって、状況によって、相手によって、自分の立場によって、大きく変わるのではないだろうか。

 たとえば家の中では裸で過ごすことも多い私だけれど、外に出るときはスーツが多い、とか。
 ジョギングをするときはスポーツウェアで、仕事の時はスカートが多いけれど、帰宅するとまず着替える、という人もいるだろう。
 自転車で通勤するときの僕は上下ともサイクルウェアだけれど、勤務中は業務に則した服装に着替えるし、ジェームスボンドは潜水服の下にタキシードを着ているものだ。

 そう。服装もまた自分と他者や環境を隔てる境界であり、あるいは目に見えない心理的区画や認識領域についても同様のことがいえる。
 親(特に哺乳類の母親)の多くは、子供を自分の領域に、自分の一部として含んで認識しているように観察される。
 組織や国家のリーダーは(やはり全てではないかもしれないが)そこに含まれる一人一人を、自分自身のように大切に思っているものだと思う。
 中には人類すべて、あるいは生き物すべてを、自身や自分の親族のように感じることのできる人もいるだろう。
 簡単にいうと、これは存在ではなくて、状態である。


 このように自己認識の境界は状況で変わるのだから、それはあるようでいてない。ないようでいてある。
「辛そうで辛くない、少し辛いラー油」というのが以前あったように「有りそうで無い、少しある個人境界面」という存在がここで浮き彫りになるわけである。
 だからといって彫刻刀を持って、僕がそれを彫り出したりしているわけではないので誤解のないように。え、そんな誤解はしない?

>>>

 さてもこの境界面設定というもの。
 僕はかなりフリーダムな人間関係の中で生きてきたので、周囲から(たとえ親とされる人間であっても)何かを強要されることによって、制限されることがほとんどなかった。
 つまり外部から強く境界設定の影響を受けることがなかった。
(子供の頃からの親の不在をありがたいことだと僕が感じる理由のひとつである)

 人間関係で周囲(たいていは親や家族、友人や先生、上司や恋人などだろうか)から境界設定を受ける人、受け続けている人、受け続けてきた人というのは、まず他者ありきである。
 他者があって、境界設定を強制されて、それでやっと自分の境界が認識できるようだ。
 僕からすると柵で囲われた家畜のように思えなくもないのだけれど、まぁ、それは仕方ないよね(口調が変)。

 外部から設定(あるいは強要)されるものだから、必ず実体を伴うし、それを仮想する必要はない。
 むしろ仮想他者によって自律的に形成される個人境界面など単なるまやかしごとでなはいかと、こうした人たちは笑うだろう。

 外部から設定されるため、その境界はかなり明確であり、それゆえに行動として具現しやすい。
 たとえば「上着のボタンは必要もないのに外さない」「スカートは膝上10センチより短くしてはならず、膝下10センチより長くしてもならない」「靴下は白いハイソックスとする(ただし黒いニーソックスは例外とする)」といったように。

 極論かもしれないし、そうであると信じたいのだけれど、こうした人たちは、境界を他者に押しつけることによって、他者を規定し、他者から境界を押しつけられることで自己を規定する足がかりにしているように観察される。
 規定の根源にあるのはすなわち興味関心であり、あるいは愛情表現であると認識(ありていにいうと誤認)しているように見えることさえある。
 つまり境界面を押しつけたり押しつけられたりすることによって、自分や他者の境界面を「より明確に」規定しようとして、その行為全体が人間関係だと認識しているように観察されるのである。

 もっともこれにも問題点はあって、境界というのは明確にしようとすればするほど、その厳密なラインがぼやけてしまうもので、駅のホームでも僕などは「黄色い線の内側」がどこを指しているのかを考えると夜も眠れなくなりそうなほど、おもしろおかしい気持ちになってしまったりする(そして夜にはそんなことは忘れてぐっすり眠る)し、「前向き駐車」の意味がやっぱりどうにも分からなかったりする。え、これは境界問題とは関係ない?

 仮想他者でとりあえずの境界設定をする場合(ま、こんな程度でとりあえず不快を生むことはないだろう)というある程度のラインを踏まえてゆく。
 もちろん、それでも誰かの不興を買うことはある。
 シャツのボタンを閉めすぎるのがよくないこともあるし、恋人が多すぎるのが問題になることもある。
 それとてTPOでなんとでもするのは、僕にとって境界面がそもそもあやふやで、どうでもいいものだからだ。

 その場をやり過ごすためであれば、境界面などその場で作ってしまってもいい。
 本当に必要な本質を満たすことができるのであれば、表面のことはどうでもいい。
 というのが極論的な内部設定型の境界面設定方式の根底にあるとした場合、ある程度のアウトラインで境界を設定し、あとは現物合わせで何とでも対応しましょう、ということになる。

 外部強制型の境界設定をしている人からすると、非常識なほどいい加減であるけれど、逆に内部設定型の人が外部強制型の人を見ると、その人間関係は窮屈でキモチワルい。

 もちろんこれは極端なパターンを定義しただけだから、誰かが100%外部強制型であるはずもなく、また誰かが100%フリーダムな内部設定型であるはずもない。
 人はそれぞれにそれぞれの割合で、外部からの強制を受けて、内部からの境界を予測も含めてしているものだと思う。
 どちらが一概に優れているというものでもない。窮屈なほうは明白だが。

>>>

 外骨格生物系の個人境界設定とは、すなわち外部からの強制による境界設定を一般とする認識のことだ。
 そこでは境界が外側から決められていて、もちろん他者にもそういう接し方をすることになる。
「これはこうでなくてはならない」「こうでなければあなたをあなたとして認めない」
 とまぁ、そういうことです。
 与えられ、受け取ってきたものを、ストレートに他者に与える。とても分かりやすいですね。
 こうした手法は境界が非常に明確で、バカにも対応しやすい利便性を持っているものの、ワタクシなどには少々窮屈に思えるのですがここでの私見は不要ですか、そうですか。

 たとえばカブトムシなどを見ると分かりやすい。
 充分な栄養状態と適切な環境を与えた場合、ほとんどの個体は同じようなサイズと外観に育つ。
 べつにクローンではないはずなのだけれど、そうなる。
 これが外骨格生物系の個人境界設定にも同じように作用しているのではないかと僕は感じる。

 他者に規格を与え、他者から規格を受けることによって、確かに「誰も」「何も」考えなくて済むのではある。
 それではそこに出来上がるのはいったい何なのかというと、個を喪失したかのように画一的な「規格どおりの誰か」なのである。

 よって他者から境界設定をされることでしか自己認識をできなかった人間というのは、ある程度以上の大人になってから自己認識の境界面が自分で設定できないという類のアイデンティティ不全で自殺したり、あるいはモノやお金に対する異常なほどの執着によって自身の境界を保とうとする。


 内骨格系の個人境界設定は、制限がない。
 太ったイヌもいれば痩せたオオカミもいるのと一緒で、自分の芯にある骨格が支えることのできる限りにおいて、自由に存在することができる。
 制限がない、は言い過ぎた。制限が緩い、といったところだろうか。

 しかし自律が必然的に必要で、考えなしでテキトーに、というわけにはなかなかいかない。
 ある程度のフィードバックに伴う自律性が系として出来上がってしまえば、ほとんどのことは勘でどうにでもなるのだけれど、それが形成されるにはアタマを使うだけではどうにもならないような気がする。

 それでも、続けていれば何となく身につくものだ。


 もし仮に、自分が外骨格型で内骨格型の比重を高くしたいとか、あるいは逆に内骨格型から外骨格型にシフトしたいという場合は、とりあえずしてみようとすれば何とかなると思う。
 自分はこういうものだと制限し続けているのは、本当のところ、いったい誰なのか、ときどき立ち止まって考えた方がいい。
 それは本当に他者なのか。それは本当に自分なのか。
 どこからどこまでが社会で、どこからどこまでが自分なのか。
 その境界は、いったいどこにあるというのか。

 もちろん自分の中に骨格がありさえすれば、そんなフレーム問題などは取るに足らない些事でしかないのだけれど。

>>>

 体重は61kgを行ったり来たりしている。63kgにするのはもう諦めた。
 体脂肪率は16%を切らないのでこれはよしとしよう。
 骨格筋率が38%を越えて計上されることがしばしば。そろそろ腹筋が付いたのだろうか。
 観察するに、贅肉は減ったのだけれど、そもそも自分の身体をしげしげ眺める習慣がないのでよくわからない。










::──その言い訳(エクスキューズ)は知ってる。【あなたたち男はいつも、お前もそれを望んでたって私に言うから。】






冒頭引用は
「第3章:発動 Crank-up」(p.161-162)

文末引用は
「第2章:混合気 Mixture」(p.86)

From「マルドゥック・スクランブル[完全版] The 1st Compression - 圧縮」
(著作:冲方 丁/ 発行:早川書房)
によりました。

 なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて、傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。








170424

 どんなカタチであれ、自分をひけらかしたくはないと思う。

>>>

 自慢をしたくない。
 自身が他者をして羨むこと、そこに潜む欲があって、つまりは自分が羨んだことをして、他者に羨まれたいという歪んだ欲望を持ちたくない。

 欲というのはもっと純粋なもので、自己完結が可能なものだ。
 自分がステキだと思う。自分が素晴らしいと思う。
 もうそれだけで充分にステキで素晴らしいことなのだから、わざわざ誰かにひけらかす必要などない。
 ステキで素晴らしいものごとで満たされた自分を、誰かに見せるなんてもったいないことだし、誰かに見せることで拡大欲求や承認欲求を満たすために自分が素晴らしいと思う対象を利用するという行為は、幼稚でとても恥ずかしいことだと僕は思う。
(でも、新しいMacを買ったら普通に自慢すると思うが)

 自分の知識も経験も立場も所有物も知識も知見も、すべては自分という船の積載物であって、つまるところは船体であるところの自身の肉体的特性(若さであるとか、外見の善し悪しであるとか、健康であるとか病気であるとか)も、付随的な要素であり、船にとって大事なことは「どこに向かって」「どのくらいの速度で」動いているか。すなわちベクトルの問題なのである。

 よって老いていようと若かろうと、この先何年生きられようと、外見が美しかろうと醜かろうと、その船がどこに向かっていて(向かうことができるか、ではない)、どこに到着するつもりなのか、ということが姿勢(英語にするとスタンス)としての美しさを示すものであって、素晴らしい積み荷を積んだ船が、今まさに沈没しようとしているならば、その船は素晴らしく救いようのない、船としての機能を全うすることもできない泥舟も同然なのである。

>>>

 積載物の価値の高さや船体そのものの優位を語ることと同様、その劣位を語ることもまた、周囲の否定(「そんなことないよ!」「まだ若いよ!」「醜くなんかないよ!」「やればできるよ!」「生きてるだけで素晴らしいよ!」etc,etc……)を誘おうとしている点においてみすぼらしい。

 つまり、自分の素晴らしさや愚鈍さなんてものは、語るほどに恥ずかしく、みすぼらしい行為なのである。
 では翻って、他者を語る行為はどうなのか。
 これもまた、語るという行為によって、相対速度が観察者の目には発生してしまう。

 僕が「自慢をする人は恥ずかしい」と言うことによって「自慢をしないボクはだから美しくて素晴らしい」と語っているかのように見えてしまうことが往々にしてある。
 これが僕を時に悩ませるのではある。

>>>

 僕は、観察された事象(自己顕示欲を満たす行為)と、そこに含まれる法則性(歪んだ欲はカコワルイ)を明示したいだけであって、明示している僕を誇示したいわけではない。

 ひけらかすことなく、のんびりぼんやりしていたい。

 他人からは「あの猫はネズミも捕まえないで、昼寝ばかりしているごくつぶしではないか」と非難されるような生き方をしたい。
 そして背伸びをすると、背中の体毛が陽光を反射して、きらきらと輝くようでありたい。
 あくびをすると、牙がぬらりと光っているようでありたい。

>>>

 僕は僕の行く場所を知っている。
 あるいは少なくとも、自分が本当に行きたい場所を知っている。
 でも、それは誰かに教えなくてはならないものではないと思うし、説明したところで通じるものだとは思えない。
 他者に見えるのは、僕のどう猛な牙、もしくはきらびやかな背中、あるいはキュートな肛門、ないしぴんと張られた尻尾であって、僕が見ている視線の先ではないのだ。

 だから僕は僕の向かう先について、適切な説明をする必要はないし、する必要があったところですることはできない。
 なぜならそれは他者に共有可能な情報ではないし、そもそも共有可能な言語に翻訳できるとは限らないのだから。
 結果的に、彼らは僕のことを自由に、思い思いに、それぞれの主観で、いいようにも悪いようにも評価するだろう。

 彼らが見ているのは僕の積み荷だ。
 あるいは彼ら自身の積み荷に対する欲しか見えていないかもしれない。

 だから僕は、彼らの言葉を聞かない。
 聞くに値しないのだ。

>>>

 自分を見せないというのは、自分を見ないことではないし、相手を見ないことでもない。
 ただ自分を見せようとする欲求に含まれる虚飾を、ていねいに分離したいだけなのである。

 それを損な生き方だとする人もいるだろう。
 誤解を自ら招くような行為だと諭す人もいる。
 それは本当に、相対速度的な問題なのだと僕は言いたいのだけれど、面倒だから説明しない。
 彼らはそれを理解できない。

 素晴らしい積み荷があるとして、それを隠すのは損なのだろうか。
 たいしたことのない積み荷を飾り立てて、それをひけらかすのがそんなにステキだろうか。

 そんないきかたを、ぼくはしたくない。






// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20170312
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
恋する気持ちと明日の意味と。
SUBTITLE:
~ Silent recipient. ~
Written by 黒猫

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
「この人と一緒に進んで行けば。今日を共に過ごしたら。明日を二人で迎えたら。もしかしたら昨日までと違う世界が見えるんじゃないかな」

 恋する気持ちを端的に表すと、そんなひと言に集約されるのではないかと今日の僕は思っている。

 イコとヨルダが手を繋いで進んで行ったのは。
 シータがパズーの手を取ったのは。
 サーバルちゃんが、かばんちゃんと共に進むことを選んだのは。
 モロの君がアシタカに向かって「黙れ小僧!」と一喝したのは。

 最後の例外はともかく。
 安堵するでもなく安住していて、にもかかわらず退屈している現在のこと。
 齢を無駄に重ねるにつれ、意味もなく不安を覚えることもある未知のこと。
 過去の意味さえ、自分の都合に合わせて編纂されて。

 しかしその瞬間から以降を肯定的に、かつ期待して、自ら望んでさえしまう心持ち。
 それが恋なのではないのかと僕は思うのだ。

>>>

 今の会社に入社してから最初に、弟子が僕にした質問は「青猫さん、恋人、何人増えましたか」であった。
 そして当時の僕は、実に、人を信じることのできない呪いが掛かっていたのではある。

 恋をしない心の機能というものを逆説的に、人を信じる、未来を希望する気持ちや素養の剥落であると考えるならば。
 すなわち僕は人を信じ、未来を希望し、楽観する機能を失っているのではある。
 それ以外のほとんどすべてについて、他を圧倒するほど楽観的であるにもかかわらず。

 僕の恋人は、増えていないのである、今なお。

 もちろん悲観しているわけではない。恋人なんてものは勝手に増えるのである。
 モテを身に着けている僕にとって、それは呼吸をしているだけで勝手に増えてゆくものなのである。

>>>

 未来を楽観すること、繰り返される今日に希望を持つこと、誰かを信じること。
 違う今を感じること、過去の可能性に気が付くこと、自分を誤魔化さないこと。

 もしも自分の力だけでそこに到達できないのなら、そのときは誰かの手を掴めばいいのだ。

 そして新しい同僚ができた僕は思う。
「お前の手だけは取らねぇからな!」

 第一。
 彼は男だ。

 僕の恋人は、まだ増えそうにない。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]

[ Cross Link ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]






//EOF
170329

 同僚の話や介護の話、新しい食器や調理器具の話、ガールフレンドや僕の遺伝性高脂血症と悪玉コレステロールの数値の変化についてなど、語りたいことはいくらでもあるのだけれどいかんせん僕には時間がない。
 喩えるならば天竺を目指す玄蔵法師のように、あるいは60代前半で年金を貰うより早くこの世を去る私の血族のように、あるいは花束を貰うより早く知性を失ってゆくアルジャーノンのように。

 そんな僕が本日、この場を借りて申し上げたいのは、このところ、僕がほぼ毎日(といってもたかだか3日ほどのことであるが)ステーキを食べており、しかもほぼ毎日(といってもたかだか3日ほどのことであるが)ステーキを焼いており、そしておそらくは明日も僕はステーキ肉を買って焼いて食べるであろうという事実についてである。

 実にこの瞬間も、僕はステーキ肉を咀嚼しながら書いているのである。
 しかも、和牛、とか、霜降り、とか、そういうのではない。
 アメリカンビーフ。できればブロックのロース、なければモモ肉。厚みは30mm程度もしくはそれ以上。重量は300g以上。
 
 カタマリ肉の筋に、ハサミを入れる。
 室温に戻して、適切な重量の塩を振り、フライパンで焼く。
 フランベとかめんどくせぇ真似はしない。
 ラムならあるが、めんどくせぇ真似はしない。
 とにかく、肉を上手に、つまるところ美味く焼くことが今の僕にはすべてなのである。

 そのステーキ肉を焼く練習をかれこれ3日は続けている。
 明日も焼けば4日(もしかしたら5日)連続である。
 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20170203
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
 鉄瓶と白湯の冬
SUBTITLE:
~ Winter hardware. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Lead Division *<< //


::お客さまに対する最高のサービスは、「自分がお客さまだったら」という気持ちになることから始まると、つねづね僕は思っているが、それはこんなひとときからも培われるのではないだろうか。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 白湯が好きなのである。
 昨年、ちょっとした金物屋(おどろくなかれ、それは現代まれに見る商店、正真正銘の金物屋さんである)と親しくなった(僕はコンビニのパートさんにもすぐに覚えられてしまったりするタイプの人間である)ついでに、あるとき鉄瓶を買った。

 いわゆる南部鉄器である。
 ホームセンタなどで売っているやかんはせいぜい2、3千円だが、僕の買った鉄瓶はより1リットルほどの容量で(およそ)1万円だった。
 けれども鉄瓶で沸かしたお湯は美味しいものだと聞いていた。
 一方、行方の知れなくなったかつての師がかつて「安物の鉄器の材料なんて、スクラップになった自動車だかなんだか分からないんだから買うもんじゃない」と言っていたことが妙に耳に残っていて、だからちゃんとした鉄瓶が欲しかったのではある。

 しかしながら実に、鉄瓶というのは「育てる」道具なのだった。
 まるで(喫煙具の)パイプのようですらある。
 人間に限っていうなら「完成品」が好みなのにもかかわらず、道具についてはこうした手間の掛かるものに魅せられてしまうのだろうか僕は。
 パイプの場合はカーボンや香りがパイプ本体に蓄積される。
 鉄瓶の場合は内壁にミネラル分が湯垢として蓄積される。
 その課程を「育てる」というのであり、鉄瓶の場合は分厚く蓄積されたそれによって、いっそう錆びにくくなり、湯の味もまろやかになるというのである。

 幸か不幸か、このマンションの水は(おそらく貯水タンクのせいで)やたらとミネラル分が高いように感じる。
 塩素分はそれほどではないように思うものの、とにかくそのままでは雑味がひどくて美味しくないので、浄水器を取り付けている。
 結果的にミネラル分も低下してしまうのが仇になったか、それよりなにより使い方を誤ったからか、二度ほど、内側に赤錆がひどく浮いてしまった。

 幸い説明書に「赤錆が浮いたときに黒錆にするための手法」が書いてあったので、手間は掛かるもののそれを実践すれば、赤錆おそるるに足らず、ということも分かってきた。

 ストーブ(現在エアコンを除いて3つある暖房器具の1つ)で数日かけてミネラル分が濃縮された湯を煮詰めてゆけば、簡単に湯垢の層を作ることができることも分かった。
(ミネラル分が濃縮された水は、しかし元が水道水のためか、美味しくないが)

 白湯健康法みたいなお話は、ネット上にもあれこれ点在しているが、つまるところあたたかいものを身体に入れれば、当然体温は上昇するから代謝も良くなるというしごく自然のことを大げさに健康法ぶって吹聴しているだけだと僕は思っている。
 そもそも東洋医学では、飲食物も含めて身体を冷やすな、というのが基本である。

>>>

 化学に詳しい人ならば、鉄が錆びるのは「錆びた方が安定するから」ということが容易に理解できるだろう。
 すなわち、きちんと錆びていない鉄は、不安定なのである。
 不安定な物質は、あるいは人がそうであるように、何かと結合することで安定する(あるいはしようとする)。
 すなわち鉄瓶で湧かした水が美味しく感じられるのは、そうした「不安定な雑味をもたらす物質」が鉄と結合するからなのだろうという予測も可能である(詳しくは調べていないが)。

>>>

 僕は誰かに白湯や鉄瓶をオススメするつもりはまったくない。
 鉄瓶は手が掛かる。喫煙具のパイプと同じくらい手間が掛かる。
 でも、僕は白湯が好きだし、鉄瓶を買って良かったと思っている。
 ストーブの上で、加湿器がわりにやかんと並べて使っているくらいである。

 おかげで毎日、湯沸かしと白湯呑みがはかどっている。
 白湯が好きな僕は、鉄瓶が好きである。
 アルコールを飲んだ夜更け(ほぼ毎晩である)、床にもぐり込んだあとの暗闇で、ちびちびとすする白湯はもう、それはそれはおいしいものなのである。

 ちなみに僕は、水の味(正確には水の美味しさ)の分からない人間は、どんなに偉そうなことを言っていても見下してしまう。
 水には味がないなんていうのはもってのほか。
 だってそれは、鈍感ということであって、鈍感な人間は、すなわちセンスがそれだけ鈍いのだから。
 自分の身体感覚の鈍い人間が、いったい何を偉そうにおっしゃるのかと思う。

 味が分からないというのは、目が悪いとか耳が悪いのと同じように、外界からの情報伝達が劣っているのだ。
(そして嗅覚と同じくらい、とても原始的で本能的な感覚である)
 どんなにニュースを集めていても、どんなに人の噂に敏くても、どんなに万象を知ったように言っていても、肌で感じた言葉にはとうていかなわない。
 だから、知ったようなことを言う人間と、身をもって知ったことを言う人間は、仮に同じことを言ってもまったく違って聞こえる。
 まるでそれは、白湯と水道水のように、似て非なるものに、僕には感じられる。








// ----- >>* Escort Division *<< //


::僕は調理に携わらないホールの人間でも、自分の店のメニューの味は知っておくべきだと思う。注文を受けたとき、「この料理はこんな味で、こんな食感で……」とわかっていれば、料理に対する愛情も湧く。お客さまにたずねられれば、その料理の説明もできるだろうし、お客さまがどんな様子で食べているのか気にもなる。




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 文頭文末の引用は、
「パネトーネ ~ Panettone ~」
From「落合シェフの美味しすぎるイタリア料理」(p.192-193)
(著作:落合 務 / 発行:KKベストセラーズ)
 によりました。


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
[ Cross Link ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]
  -Convertor-

[Object]
  -Dish-Night-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]







//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20170109
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
あなたの手駒の真ん中で。
SUBTITLE:
~ Pawnshop? or Pornshop? ~

Written by Bluecat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::<アラトさんには、この全自動の世界が“くだらないもの”に見えますか?>




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 いつになくヴァージニア煙草(Rattray’s Marlin flake)で休日の朝(といっても昼近い)をスタート。
 カレンダ的には三連休だけれど、最近の僕は休日の半分を介護に費やしている。

 小学校に入学する前に母がいなくなり、30歳になる前に父を亡くしたので、介護なんてものが僕の人生に関わり合おうなどとはこれっぽっちも考えていなかった。
 そんなものは遠い国のニュースのように巷(みなとと読んでもいいんじゃないかな)で騒がれ、人づてに僕の耳のうぶ毛を微かにふるわせる程度の、ささやかな影響力しか持たないものだと思っていたのである。

 第一、僕は新しい街に越してきたばかりである。まだ半年も経っていない。
 よって書架もしつらえられておらず、ゆえに大半の書物は今も倉庫兼クローゼットルームの押し入れの中にうずたかく積まれている。
 パソコンだって、モニタがやっと3つ設置されたものの、きちんと配線されて画像を映しているのは1台だけである。
 台所と寝室はなんとか暮らせる程度に配置が安定してきたが、未施工の棚などを挙げたらきりがない。
 仕事はそれなりに忙しいし(それでものんびりぼんやりに心がけているけれど)、今月の中下旬には資格試験もある。

 で、休日の半分は介護なのである。
 もっとも入浴介助であるとか、そういった重いものではない。
 簡単にいえば家事手伝いである。
 料理や掃除といった、比較的好きなものであるから、さほど苦には感じない。

 が、自動車で片道1時間以上かけて移動し、道中に必要な用具や材料を購入し(食材や調味料はまだしも、掃除の材料は僕にとっては妥協できない対象である。とくに重曹、クエン酸、いくつかの蝋、メラミンスポンジ、無水エタノールとパーツクリーナは欠かせない)、実作業4時間程度を確保する(本当は6時間くらい、休憩なしの通しで作業したいのだけれど、なにせ茶を飲め、食事をしろ、休憩しなさいとお節介を焼かれる)のが精一杯である。
 昨年夏にはおよそ18枚の網戸の網を張り替えたのだが、実に2週間(つまり2日間、各5時間ほどで計10時間)を費やした。

 この「休憩・食事」という時間が、いかんせん面倒である。
 ある程度の糖分と水分摂取で8時間は稼働できる僕にとって、空腹でもなければ疲れてもいない状態で強要される休憩や食事は、単に集中の妨げであり、眠気の発生によってやる気を削ぐ原因でしかない。
 でも、こまめに休んで、こまめに食事をする体質の人には分からないのである。
 僕はなにもすべての人が休憩も食事もしないで働くべきだと思っているのではない。そんな体質の人がかなり少ないことは、これまでの経験でよく理解している。
 ただ、僕はそうした「ちょっとヘンな体質」の持ち主であり、その体質に合わせた仕事の仕方があり、それに合わせた休息の仕方があるのである。

 だから肉食獣のように、空腹の時にこそ「わしっ」と通しで限界まで仕事をして、集中力が完全に切れたり身体が完全に疲れ切ったあたりで食事(やガールやアルコールやレディやニコチンやガールやお風呂やベッド)を与えて、放っておけばどこでも(主にレディの膝や腕や胸やお腹の上で)眠るのである。

 そのあたりを理解してもらえるならば相互理解がはかどるのではないだろうか。
 そうすると昼休みにも平気で仕事をし続ける人や、定時になるとスパッとやる気をなくして帰宅する人、休日夜間の勤務もまったく気にしない人など当たり前に多様性があり、それぞれに考えや体質があることを容認できるようになるのではないだろうか。

>>>

 ところで今思ったのだけれど、ヴァージニア煙草をパイプで喫むときに、シナモンパウダなどをアクセントにふりかけても美味しいのではないだろうか。
 試してみようと思ったのだが、我が家にシナモンパウダなんて高級品はなかった。

>>>

 そのようなわけで3連休の最後の一日は、割り切れない余りとして、久しぶりののんびりぼんやりタイムに費やされている。

 よくよく考えると、結婚すれば親が増える。
 おおかたの人の親は、僕の親のように、さらりと僕との縁が遠くなってみたり、するりとうつしみに別れを告げてみたりはしないだろう。
 僕から言わせると、しぶとく生きている人間があまりにも多い。

 そこから転じて考えれば、バツ1~2で子持ち(どうせなら成人済み)で両親が他界している女性と結婚すればラクなんじゃね? ついでに眼鏡が似合ってアタマがよくて、貧乳じゃなくて、気立てがよければ最高じゃね? と先日弟子に提案したところ、苦虫を噛みつぶしたような顔をされた。

 ……ああ。言いたいことは分からないではないよ。
 キミにはまだ早いだろうことは理解しているよ。

 それでも多くの場合、時代は僕のあとをついてくるわけで、これからは「バツ1親なし子持ち(成人済み)+オプション」が結婚相手のトレンドになるのではないだろうか。

>>>

 ついつい真面目なことばかり普段は考えているから、たまの休みにはこんないい加減な極論を言いたくなってしまうのである。
 悪いのは僕ではないし、普段からこんなに不真面目な人間なわけではないのだ。
 たまになのだ。先っぽだけ! 先っぽだけなのだ。






(「真夜中のマシンガン」をついつい「真夜中のレイルガン」と口ずさんでしまう。それ、対人兵器ちゃうやん?)








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::「自動化とは、人間の仕事をマニュアルに整理して、それを機械的になぞるサイクルを作るということです。対人分野でも、この自動化は、外食チェーン店やフランチャイズ型小売店のマニュアルの高度化で、二十世紀から百年以上も続いています。広い問題として、人間よりも、透明性の高い手続きに従う、手続きに忠実な、“かたち”に期待するほうが、楽なのです」




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[出典]
~ List of Cite ~
 文頭文末の引用は、
『Phase 4「automatic world」』(文頭部 p.132、文末部 p.131)
From「BEATLESS」(著作:長谷 敏司 / 発行:角川書店)
 によりました。






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//TimeLine:20170106
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TITLE:
チーズのピッツァにひと工夫。
SUBTITLE:
~ Other way? ~
Written by 黒猫


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::「オチアイ、人生は短いんだぜ。楽しまなきゃ損じゃないか」




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//[Body]
170106

 寒い。
 昨日などは、ふつうに雪がちらついていた。

 街に降りてきて、会社のそばにある陶器の商店を覗く。
 なんでも6月に閉店するとかで、全品半額セールをしている。
 実に、7桁の商品なども取り扱っているような、陶器だらけの店である。

 そこにあった清水焼の酒器セットで日本酒を飲んでいる。
 定価は2万円近くだったが、その店で、いちばん目についたものだった。

 いたずらに陶芸など習ったのが悪いのである。
 まるっとしたコノハズクのような徳利の愛らしい造形、アイボリーをベースにしたグリーンとグレイの釉薬の風景はもちろん、器の薄さから見てもよい器だと思い購入した。
 釉に幾分の泡立ちが見えるのが残念といえば残念だけれど、なにぶんにも半額である。こちらも片目をつむって購入しようではないか。

 しかしそのまるっとした徳利はふたつ、おなじく丸みを帯びたシンプルな猪口は5つ。 半分にしようもないセットであり、しかも徳利がふたつの酒器セットというのもめずらしいといえばめずらしい。
 おそらく、私のようなドジな人間のために、徳利にも予備を、という発想で生まれたのかもしれない。

>>>

 4種のチーズのピッツァ(クアトロ・フォルマッジ)が安売りしていたので買う。
 黒胡椒が添付されていたのだけれど、個人的にはもうひと味ほしいところ。

 チーズ+黒胡椒。
 ご存じの方も多いかもしれない、そこにプラスすべきはハチミツである。

 試しに、軽くトーストしたパンの上にチーズ(適当に切ったカマンベールなどもよい)を載せて、さらに軽く焦げ目がつくまでトースト。
 焼き上がりにハチミツと黒胡椒をかけて伸ばして食べれば、僕の言っていることが分かると思う。

「甘い+辛い+しょっぱい=無敵」というのは、きんぴらゴボウなどの和風レシピにも見られる、オーソドックスな王道である。

>>>

 僕に陶芸を教えた師は、昨年5月、他界した。
 どんなに見た目のよい陶器でも、本当に技術の要るのはただただ薄く作ることなのだと、教えてくれたのは彼である。

 器などで酒の味が良くなることはない、と思う人もいるだろう。僕もそう思う。

 そして実に舌触りの悪い器や分厚い陶器、味気ないガラスコップで味わう酒は、最終的にそこにある本来の味を、舌触りを、濁すのではある。

 味の変わらない酒器をつくることは、そのくらい、むつかしいことなのだと僕は思う。
 なるほど、そんなことを知らないのもひとつのヨロコビだろう。
 ならば、そんなことを知るのもひとつのヨロコビではないだろうか。

 県庁所在地なのに、この街の目抜き通りには、シャッタを下ろしたままの店も少なからずある。
 あの店の老夫婦も、同様の道を選んだのだろう。








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[出典]
~ List of Cite ~
 引用は、
「イタリア人の人生観」From「落合シェフの美味しすぎるイタリア料理」(p.92)
(著作:落合 務 / 発行:KKベストセラーズ)
 によりました。




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  -Cooking-Diary-

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//TimeLine:20170103
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TITLE:
虚無の闇はあなたを嗤うか
SUBTITLE:
~ Macedonia di frutta ~
Written by 黒猫


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::人間は生きている限り、食べなきゃいけない。なら毎日食っても飽きなくて、美味しい料理を食べるのが人間の幸せだ。せっかく作るなら、幸せになれる料理を作ってお客様に食べさせてあげるのが本望というもんだろう。
 イタリア料理を勉強してみようと思ったのは、そのときだった。それは今まで知らなかったイタリア料理の世界が僕の前に扉を開けた瞬間でもあった。




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//[Body]
170102

 オカネモチになろうプログラムがだいたい軌道に乗って手を離れてしまって退屈してきたので、ふたたびモテになろうプログラムを考えている昨今。
 モテってなんだっけ……としばらく悩んだりするものの、端的に定義するならば「異性に『抱かれたい』と思われること」なのではないかと思わなくもないが、果たしてそんなに短絡なものだっただろうか。

>>>

 僕の棲むこのマンションはおよそ築40年の鉄筋コンクリート製で、システムキッチンが若干小ぶりで拡張性に乏しいことと、浴室が(バストイレ別であるものの当時の汎用型ユニットバスの宿命として)狭いことには少々辟易している。
 特に湯船の狭さは致命的で、これでは絶対、ガールと一緒にお風呂に入ることができない。
 ガールの身体を洗ったりするのが趣味の僕にとっては少々致命的ではあるものの、これは諦めた。
 ガールと一緒にお風呂に入る趣味なんてなかったことにしておけば、こんな不便は感じないのだ。
 いずれにしてもリフォームされて現代風にはなっているが、時代が作り出したしがらみのような設計についてはいかんともしがたいのだろう。
 おかげで、乾燥洗濯機の導入は先送りになってしまった。

 およそ2~3人の世帯向けに作られていたように思えるこの家は、したがってひとりで暮らすには少々広すぎる感覚を持つのが普通なのかもしれないが、僕にはちょうどいい。
 ベランダもL字に大きく取られていて、自転車が14台くらい置けそうなので実にいいと思う。

 欠点もいくつかあるが、それ以外はおおむね、いい感じである。
 広いし、景色も見晴らしも良い。
 どうせなら、毎日眺める風景は、素敵なものであるのに越したことはない。
 そういう意味で高い場所に暮らすことはそれなりのアドバンテージを持つだろう、特に僕のようになんとかとケムリが好む場所を嬉しく感じるイキモノにとっては。

>>>

 僕もオスのはしくれなので、かつて恋人だった女のことを思い出すことがある。
 といっても相貌失認の傾向のある僕のことである。顔などまず思い出せない。
(じつのところ、ある程度おぼえている女性もいないわけではないのだけれど、覚えることも可能だなどと書こうものなら、めざとくあざとく阿呆な恋人の幾人かは「私の顔も覚えてくれなきゃいやだ」くらいに騒ぎ立てるに違いないのであるから、そんなことは明言できないのだ)

 恋人のことで僕が思い出せるのは、肌と髪の質感と感触。そして彼女たちに対する僕の感情だ。
 とくに僕がおよそ明確に記憶しているのが、肩と腕と首の、皮膚から骨までの深さと感触だ。
 硬いもの、やわらかいもの、深いもの、浅いもの、とがっているもの、丸いもの、くっきりしているもの、茫洋としているもの、とにかく個体差が圧倒的だと僕は感じる。

 感情については、ステレオタイプに作られていない僕の感覚を上手く言葉にすることがむつかしい部分もあるし、それでもそれを言葉にして書いたこともあったのだけれど、昔の工場とともに消してしまった上、書いたところで伝わるとは思えないし、それどころか生半可に言葉面だけ見て僕を嗤う類の人間がいることも心得ているのであまり書きたくはない。

 のだけれど、あえてあらためて言葉にするならば、
「どんな感じに大事に思っていたか」という表記になるかもしれない。
 それは情欲に関する類のものでもなければ、独占欲などとも縁遠い。
 もっとあわあわとしていて、明確な願望や欲にはならない類の、上澄みのような感覚だ。

 とはいえ、それをして嗤う人間は僕を嗤う。
 彼らのいわく「人間はそんなファンタジィなイキモノではない」
 彼らのいわく「そんな綺麗事で物事は済むはずがない」
 彼らのいわく「そんな曖昧さで自分の汚さを濁すべきではない」 
 etc.etc...
 まぁそこまで即物的で俗物まみれの自分を肯定できるなら、それはそれでシアワセなことだろうとは思うのだけれど、いちいち他人をあげつらって嗤うことで慰みものにするあたり、とにかくおめでたいことよ。

 ファンタジィもなく、綺麗事もなく、曖昧さも許されず、汚さを拭うことも良しとされないならば、それは単なるケモノではないか。
 無論、ケモノが悪いとは思わない。
 ただ、ケモノであろうとすることだけがあたかも正しいことであるかのように振る舞い他人を蔑む彼らの精神構造は、ヒッピーに似て非なる歪みを含んでいて、もはや語るに値しない。

>>>

 とにかく僕は、感傷的に彼女たちを思い出したりはしない。
 そうではなくて彼女たちに向かっていた自分の感覚や感情を、ホルマリン漬けの標本のように取り出して観察して、再確認する。
「どっかで生きてるんだろうなぁ」
「シアワセだったらいいんじゃねぇ?」
 程度の、まったくの強い感情も感傷も含まない、追憶でも回想でもない、再認識。

 あのとき僕は彼女たちのことを確かに大切に思っていたし、それは時間や状況が変わることで変化するものではないのだと、少なくとも僕は思い、感じる。

>>>

 寒い夜のベランダで屋外用ストーブに当たりながら、遠い山の裾野に広がる夜景を眺めてパイプ煙草を喫みつつ、僕はぼんやりと思い出す。
 ああ、僕にはそういう感情が、たしかにあったっけなぁ、と。
 そういう感情の拠り所で、源泉である個体が、いたんだったっけなぁ、と。

 恋愛感情などというものは、たしかに遠くから見れば、夜景のように滑稽だ。
 山々から降りてくる夜気はこんなに寒々しいのに、あの揺らめく光どもときたら、これっぽっちも、この身はおろか、この心さえ、暖めてくれたりはしないのだから。

 ただまぁ僕は冬の申し子であり、月の使いであり、人の皮を被った猫であるから、その程度のことはさほどの問題もないのだけれど。

 馬鹿馬鹿しいファンタジィ?
 
 リアリスト面した「お利口さん」たちは、なるほど僕を訳知り顔で嗤わないではいられない。
 一方の僕は、彼らを嗤う必要すらない。
 なぜなら僕は彼らのルールに従うことはできないし、従う必要もないからだ。

 彼らはファンタジィを知らないし、ケモノのことも知らない。
 孤独も知らないから、自分の感情のことも知らない。
 知っていれば正しいとか、偉いというものでもない。
 だから僕は、誰を嗤う必要もない。













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::考えてみれば、フランス料理も素晴らしかったが、昼、夜、食べ続けるのは正直キツかった。自分が有名レストランばかり選んでしまったこともあるが……。でも、イタリアのメシは毎日食っても飽きないのだ。食事って本来そういうもんなんじゃないか、と僕はそのとき気がついた。




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[出典]
~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「ローマでの4日間が運命を変えた!」
From「落合シェフの美味しすぎるイタリア料理」(p.128-129)
(著作:落合 務 / 発行:KKベストセラーズ)
 によりました。








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「えっ、あの店、閉店しちゃうの? しばらく行ってないけど、いいお店だったのに」とか惜しんで騒ぐ奴ほどぜんぜんその店に通ってなくて、通わないからその店がつぶれるということをうぬらは知っているのか。

「逢いたかったのに」とかいうガールほど滅多に逢いに来ないから、逢えなくなる時にはなんだか惜しく感じるようなのだが、寂しく感じるのはおまえのせいなのだ、逢いたいなら少しでもそれを感じたときに逢いに来い今日来い今来い、と僕は声を大にしてここでいいたいのだけれど、こんなところで声を大にして申し上げたところで誰にも届かないのは自分でも先刻承知の助である。

 それから僕には1年に一度、電話で会話をするかしないか程度の親友がいることもついで程度に申し上げておきたいのだけれど、こんなどうでもいい豆知識を蓄えたところで何の役にも立たないことも申し上げておきたい。

 新しい街に引っ越して1ヶ月が過ぎようとしている。
 いけ好かない部分もある街ではあるが、このアパートの部屋はたいそう気に入った。

 猫は場所に懐くというが、つまりはそういうことだ。
 ここは見晴らしがいいし、ひとりで暮らすには十二分な広さがある。
 引っ越して直後にスイッチを入れたファンヒータは煙をもくもくと上げて停止したものの、代わりに導入した3つの暖房器具は心地よく部屋をあたためてくれる。

 僕は僕の行きたい場所にゆく。
 僕は僕の棲みたい場所に棲む。
 僕は僕の逢いたい人に逢う。
 僕は僕のしたいことをする。
 僕は僕の食べたいものを食べる。
 僕は僕の飲みたいものを飲む。
 僕は僕の生きたいように生きる。

 これまでもそうだったし、これからもそうだろう。

 だから、僕に逢いたいというガールは僕に逢えばいいと思うし、僕は僕の逢いたいガールには必ず逢う。
 その上、僕は抱きたいと思うガールを抱く。
 しごく自然だと僕は思っているが、他の人がそれをどう思うかはその人の自由だ。

 繰り返しになるかもしれないが、念のため書いておこう。

 僕は僕の見たい景色を見る。
 僕は僕の棲みたい場所に棲む。
 僕は僕の暮らしたいように暮らす。
 僕は僕の友達を友達にする。
 僕は僕の見たいものを見る。
 僕は僕の感じたいように感じる。
 僕は僕の触れたいものに触れる。
 僕は僕のありたいようにある。

 いいだろうか。
 誰かや何かに左右されたりはしないのだ。
 なぜなら僕は僕だから。

 悔しかったら、お前はお前であるべきだ。
 俺は悔しくはないぜ。
 なぜなら俺は俺だから。

 悲しかったら、お前はお前であるべきだ。
 俺は悲しくはないぜ。
 なぜなら俺は俺だから。

 つらいとき、悲しいとき、くやしいとき。よく考えるがいい。
 それはお前がお前ではないからなんだ。
 お前がお前であれば、怖い事なんてないはずだぜ。

 したくないことや、自分が望んでいないと思いこんでいることを自分で招いているから、自分がつらくなるんだ。
 やりたいことをやって失敗したら、痛くも痒くもないはずなんだ。
 失敗しても、やりたいことをやった快感が、まずあるはずなんだ。
 その快感が感じられないのだとしたら、お前がやったことは、お前がやりたいと「思わされていた」ことなんだ。
「こうすれば成功する」と思いこんでいてそれをする場合、したいことは「成功すること」であって、「それをすること」をしたいわけではないんだ。

 そんな奴が成功するほど、世の中は甘くないぜ。
 そんな奴が成功するほど、世の中は甘くないぜ。
 そんな奴が成功するほど、世の中は甘くないぜ。
 そんな奴が成功するほど、世の中は甘くないぜ。

 不幸になりたくない奴が幸せになれるほど、世の中は甘くないぜ。
「褒められたい」奴が幸せになれるほど、世の中は甘くないぜ。
「羨まれたい」奴が幸せになれるほど、世の中は甘くないぜ。

 やりたいことをやった奴だけが幸せになれるんだ。

 ひとつ問いたいことがある。
 お前は今日、何を見ていた。

 お前の見たいものを見ていたか。
 お前の感じたいように感じていたか。

 ひとつ言っておきたいことがある。
 俺は今日、見たいものを見ていたぜ。
 俺は今日、感じたいように感じていたぜ。

 俺を敵対視する奴らや、俺を無能扱いする奴らは、今も昔もいるけれど。
 それどころか、俺のことなどまったく知らない奴らがそれこそごまんといるわけだけれど。

 自分が見たいものを見たいように見て、感じたいことを感じたいように感じていれば。
 自分以外の人間が、見たいものを見たいように見て、感じたいことを感じたいように感じることがしごく普通のことに思えてくるはずなんだ。

 それはお前が見たいものを見ることや、感じたいことを感じることとは、まったくリンクしないことだし、たとえその対象がお前自身であったとしても、お前自身の価値にも意味にも、まったく関係ないことなんだ。

 俺が「いい景色だな」と思ったところで景色は喜んだりしない。
 俺が「厭な天気だな」と思ったところで天気は悩んだりしない。

 だからお前が悲しんだところで、その対象は一緒に悲しんだりしない。
 お前が悩んだところで、その対象は一緒に悩んだりしない。
 お前が憎んだところで、その対象は気にしたりはしない。
 お前が微笑んだところで、その対象はお前に好意を感じたりはしない。

 なのでもう一度申し上げますが。

 オマエは、オマエの見たいものを見るべきで。
 オマエは、オマエの感じたいように感じるべきなのではないのでしょうか。