::「そもそも、なぜ抵抗しなかったのでしょうか?」
 弁護人が言った。もしシェルが身分を操作したり、レイプしたり、車に閉じ込めたりしたなら、少女は抵抗していたはずだと。検事が反論する間、バロットは施設を思い出していた。年中、ソーシャルワーカーから「お前は悪い子だ」と言われていた頃のことを。
 ワーカーにはそうでない者もいたが【そうである】者のほうが格段に影響力を持っていた。夜、二段ベッドの下の段で寝ている子供を、ワーカーの男がレイプしても、上の段の子供は恐怖に震えながら寝たふりをするしかなかった。みなそこで金もなく捨てられる恐怖を覚え、金ももらえず好きなようにされる屈辱と恐怖を覚えた。
 中には施設に順応する子もいた。権力というものを知る子が。だが大半は何とか逃げようとした。日常的に四方からナイフを突きつけられたような状況で、衣食住とあらゆる娯楽と友人関係をいいように操作され、挙げ句に少しも抵抗の道を示してくれなかった大人からなぜ抵抗しなかったかと訊かれたところで、バロットの返答は沈黙(サイレンス)以外になかった。






151107

 細い。
 なにがといって、ウエストが、である。細い。
 しかしながら華奢なのかというとそうでもなくて、油圧シャフトを組み合わせた機械のような形態を窺い知ることができる。
 が、それにしてもウエストが細い。

 ほとんどのスラックスが握り拳が3つは入りそうだし、ベルトを締めて一番内側で留めても、まだゆるゆるしているのである。

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 ある領域で人間を観察していると、個々人の境界設定に特徴があり、僕の持つそれとは少々異なっていたり、同じようであったりする。

 ここでいう個人の境界設定の定義というのは、個人の境界を成す境界面を、それぞれ(第一人者的/第三者的)にどのように認識し、どのように規定するかということ。
 そしてその境界面がどのように外部へ影響を及ぼし、どのように外部からの影響を受けるか、ということに当然ながら問題は波及する。
 そう、波のようにそれは力を受けたり発したりすることが多いと僕は認識しているのだけれど、それさえ波動系ではなく、粒子系の伝達をする人もいるようだ。
(波と粒子のイメージとしては下記URLの内容が個人的には分かりやすいかもしれないと感じた。
参照:http://taste.sakura.ne.jp/static/farm/science/wave_particle_duality.html

 ざっと観察した範囲で、この境界設定の方法は外骨格生物系と内骨格生物系に分かれるがそれは後述。

 そもそも個人境界設定というのは、他者がいなければ始まらない、かというとそうでもない。
 他者の定義がまずあって、現実の、実体を伴う他者がいて初めて他者というものが個人の中に発生し、境界設定が必要になる場合、というのが一般的ではある。
 人間は生まれながらにして(おおよそほとんどの場合においては)他者がまず存在しているから、この認識が広範囲において一般的であるとされるのは当然だろう。

 一方で、他者という実体が伴わなくても、個人の中で他者の存在を仮定することで、自身の境界設定が可能になるのもまた事実。

 前者は実体を伴っていて(おおよそほとんどの場合においては)生まれたときから多かれ少なかれ境界設定が外部から行われるのに対して、後者は実体を必要とせず、後天的に(おそらく思春期前後に形成される思考の中で)内部から設定されてゆく。

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 そもそも、外部と内部の境界(自己と他者の境界)面というのは、TPOによって、状況によって、相手によって、自分の立場によって、大きく変わるのではないだろうか。

 たとえば家の中では裸で過ごすことも多い私だけれど、外に出るときはスーツが多い、とか。
 ジョギングをするときはスポーツウェアで、仕事の時はスカートが多いけれど、帰宅するとまず着替える、という人もいるだろう。
 自転車で通勤するときの僕は上下ともサイクルウェアだけれど、勤務中は業務に則した服装に着替えるし、ジェームスボンドは潜水服の下にタキシードを着ているものだ。

 そう。服装もまた自分と他者や環境を隔てる境界であり、あるいは目に見えない心理的区画や認識領域についても同様のことがいえる。
 親(特に哺乳類の母親)の多くは、子供を自分の領域に、自分の一部として含んで認識しているように観察される。
 組織や国家のリーダーは(やはり全てではないかもしれないが)そこに含まれる一人一人を、自分自身のように大切に思っているものだと思う。
 中には人類すべて、あるいは生き物すべてを、自身や自分の親族のように感じることのできる人もいるだろう。
 簡単にいうと、これは存在ではなくて、状態である。


 このように自己認識の境界は状況で変わるのだから、それはあるようでいてない。ないようでいてある。
「辛そうで辛くない、少し辛いラー油」というのが以前あったように「有りそうで無い、少しある個人境界面」という存在がここで浮き彫りになるわけである。
 だからといって彫刻刀を持って、僕がそれを彫り出したりしているわけではないので誤解のないように。え、そんな誤解はしない?

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 さてもこの境界面設定というもの。
 僕はかなりフリーダムな人間関係の中で生きてきたので、周囲から(たとえ親とされる人間であっても)何かを強要されることによって、制限されることがほとんどなかった。
 つまり外部から強く境界設定の影響を受けることがなかった。
(子供の頃からの親の不在をありがたいことだと僕が感じる理由のひとつである)

 人間関係で周囲(たいていは親や家族、友人や先生、上司や恋人などだろうか)から境界設定を受ける人、受け続けている人、受け続けてきた人というのは、まず他者ありきである。
 他者があって、境界設定を強制されて、それでやっと自分の境界が認識できるようだ。
 僕からすると柵で囲われた家畜のように思えなくもないのだけれど、まぁ、それは仕方ないよね(口調が変)。

 外部から設定(あるいは強要)されるものだから、必ず実体を伴うし、それを仮想する必要はない。
 むしろ仮想他者によって自律的に形成される個人境界面など単なるまやかしごとでなはいかと、こうした人たちは笑うだろう。

 外部から設定されるため、その境界はかなり明確であり、それゆえに行動として具現しやすい。
 たとえば「上着のボタンは必要もないのに外さない」「スカートは膝上10センチより短くしてはならず、膝下10センチより長くしてもならない」「靴下は白いハイソックスとする(ただし黒いニーソックスは例外とする)」といったように。

 極論かもしれないし、そうであると信じたいのだけれど、こうした人たちは、境界を他者に押しつけることによって、他者を規定し、他者から境界を押しつけられることで自己を規定する足がかりにしているように観察される。
 規定の根源にあるのはすなわち興味関心であり、あるいは愛情表現であると認識(ありていにいうと誤認)しているように見えることさえある。
 つまり境界面を押しつけたり押しつけられたりすることによって、自分や他者の境界面を「より明確に」規定しようとして、その行為全体が人間関係だと認識しているように観察されるのである。

 もっともこれにも問題点はあって、境界というのは明確にしようとすればするほど、その厳密なラインがぼやけてしまうもので、駅のホームでも僕などは「黄色い線の内側」がどこを指しているのかを考えると夜も眠れなくなりそうなほど、おもしろおかしい気持ちになってしまったりする(そして夜にはそんなことは忘れてぐっすり眠る)し、「前向き駐車」の意味がやっぱりどうにも分からなかったりする。え、これは境界問題とは関係ない?

 仮想他者でとりあえずの境界設定をする場合(ま、こんな程度でとりあえず不快を生むことはないだろう)というある程度のラインを踏まえてゆく。
 もちろん、それでも誰かの不興を買うことはある。
 シャツのボタンを閉めすぎるのがよくないこともあるし、恋人が多すぎるのが問題になることもある。
 それとてTPOでなんとでもするのは、僕にとって境界面がそもそもあやふやで、どうでもいいものだからだ。

 その場をやり過ごすためであれば、境界面などその場で作ってしまってもいい。
 本当に必要な本質を満たすことができるのであれば、表面のことはどうでもいい。
 というのが極論的な内部設定型の境界面設定方式の根底にあるとした場合、ある程度のアウトラインで境界を設定し、あとは現物合わせで何とでも対応しましょう、ということになる。

 外部強制型の境界設定をしている人からすると、非常識なほどいい加減であるけれど、逆に内部設定型の人が外部強制型の人を見ると、その人間関係は窮屈でキモチワルい。

 もちろんこれは極端なパターンを定義しただけだから、誰かが100%外部強制型であるはずもなく、また誰かが100%フリーダムな内部設定型であるはずもない。
 人はそれぞれにそれぞれの割合で、外部からの強制を受けて、内部からの境界を予測も含めてしているものだと思う。
 どちらが一概に優れているというものでもない。窮屈なほうは明白だが。

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 外骨格生物系の個人境界設定とは、すなわち外部からの強制による境界設定を一般とする認識のことだ。
 そこでは境界が外側から決められていて、もちろん他者にもそういう接し方をすることになる。
「これはこうでなくてはならない」「こうでなければあなたをあなたとして認めない」
 とまぁ、そういうことです。
 与えられ、受け取ってきたものを、ストレートに他者に与える。とても分かりやすいですね。
 こうした手法は境界が非常に明確で、バカにも対応しやすい利便性を持っているものの、ワタクシなどには少々窮屈に思えるのですがここでの私見は不要ですか、そうですか。

 たとえばカブトムシなどを見ると分かりやすい。
 充分な栄養状態と適切な環境を与えた場合、ほとんどの個体は同じようなサイズと外観に育つ。
 べつにクローンではないはずなのだけれど、そうなる。
 これが外骨格生物系の個人境界設定にも同じように作用しているのではないかと僕は感じる。

 他者に規格を与え、他者から規格を受けることによって、確かに「誰も」「何も」考えなくて済むのではある。
 それではそこに出来上がるのはいったい何なのかというと、個を喪失したかのように画一的な「規格どおりの誰か」なのである。

 よって他者から境界設定をされることでしか自己認識をできなかった人間というのは、ある程度以上の大人になってから自己認識の境界面が自分で設定できないという類のアイデンティティ不全で自殺したり、あるいはモノやお金に対する異常なほどの執着によって自身の境界を保とうとする。


 内骨格系の個人境界設定は、制限がない。
 太ったイヌもいれば痩せたオオカミもいるのと一緒で、自分の芯にある骨格が支えることのできる限りにおいて、自由に存在することができる。
 制限がない、は言い過ぎた。制限が緩い、といったところだろうか。

 しかし自律が必然的に必要で、考えなしでテキトーに、というわけにはなかなかいかない。
 ある程度のフィードバックに伴う自律性が系として出来上がってしまえば、ほとんどのことは勘でどうにでもなるのだけれど、それが形成されるにはアタマを使うだけではどうにもならないような気がする。

 それでも、続けていれば何となく身につくものだ。


 もし仮に、自分が外骨格型で内骨格型の比重を高くしたいとか、あるいは逆に内骨格型から外骨格型にシフトしたいという場合は、とりあえずしてみようとすれば何とかなると思う。
 自分はこういうものだと制限し続けているのは、本当のところ、いったい誰なのか、ときどき立ち止まって考えた方がいい。
 それは本当に他者なのか。それは本当に自分なのか。
 どこからどこまでが社会で、どこからどこまでが自分なのか。
 その境界は、いったいどこにあるというのか。

 もちろん自分の中に骨格がありさえすれば、そんなフレーム問題などは取るに足らない些事でしかないのだけれど。

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 体重は61kgを行ったり来たりしている。63kgにするのはもう諦めた。
 体脂肪率は16%を切らないのでこれはよしとしよう。
 骨格筋率が38%を越えて計上されることがしばしば。そろそろ腹筋が付いたのだろうか。
 観察するに、贅肉は減ったのだけれど、そもそも自分の身体をしげしげ眺める習慣がないのでよくわからない。










::──その言い訳(エクスキューズ)は知ってる。【あなたたち男はいつも、お前もそれを望んでたって私に言うから。】






冒頭引用は
「第3章:発動 Crank-up」(p.161-162)

文末引用は
「第2章:混合気 Mixture」(p.86)

From「マルドゥック・スクランブル[完全版] The 1st Compression - 圧縮」
(著作:冲方 丁/ 発行:早川書房)
によりました。

 なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて、傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。