170424
どんなカタチであれ、自分をひけらかしたくはないと思う。
>>>
自慢をしたくない。
自身が他者をして羨むこと、そこに潜む欲があって、つまりは自分が羨んだことをして、他者に羨まれたいという歪んだ欲望を持ちたくない。
欲というのはもっと純粋なもので、自己完結が可能なものだ。
自分がステキだと思う。自分が素晴らしいと思う。
もうそれだけで充分にステキで素晴らしいことなのだから、わざわざ誰かにひけらかす必要などない。
ステキで素晴らしいものごとで満たされた自分を、誰かに見せるなんてもったいないことだし、誰かに見せることで拡大欲求や承認欲求を満たすために自分が素晴らしいと思う対象を利用するという行為は、幼稚でとても恥ずかしいことだと僕は思う。
(でも、新しいMacを買ったら普通に自慢すると思うが)
自分の知識も経験も立場も所有物も知識も知見も、すべては自分という船の積載物であって、つまるところは船体であるところの自身の肉体的特性(若さであるとか、外見の善し悪しであるとか、健康であるとか病気であるとか)も、付随的な要素であり、船にとって大事なことは「どこに向かって」「どのくらいの速度で」動いているか。すなわちベクトルの問題なのである。
よって老いていようと若かろうと、この先何年生きられようと、外見が美しかろうと醜かろうと、その船がどこに向かっていて(向かうことができるか、ではない)、どこに到着するつもりなのか、ということが姿勢(英語にするとスタンス)としての美しさを示すものであって、素晴らしい積み荷を積んだ船が、今まさに沈没しようとしているならば、その船は素晴らしく救いようのない、船としての機能を全うすることもできない泥舟も同然なのである。
>>>
積載物の価値の高さや船体そのものの優位を語ることと同様、その劣位を語ることもまた、周囲の否定(「そんなことないよ!」「まだ若いよ!」「醜くなんかないよ!」「やればできるよ!」「生きてるだけで素晴らしいよ!」etc,etc……)を誘おうとしている点においてみすぼらしい。
つまり、自分の素晴らしさや愚鈍さなんてものは、語るほどに恥ずかしく、みすぼらしい行為なのである。
では翻って、他者を語る行為はどうなのか。
これもまた、語るという行為によって、相対速度が観察者の目には発生してしまう。
僕が「自慢をする人は恥ずかしい」と言うことによって「自慢をしないボクはだから美しくて素晴らしい」と語っているかのように見えてしまうことが往々にしてある。
これが僕を時に悩ませるのではある。
>>>
僕は、観察された事象(自己顕示欲を満たす行為)と、そこに含まれる法則性(歪んだ欲はカコワルイ)を明示したいだけであって、明示している僕を誇示したいわけではない。
ひけらかすことなく、のんびりぼんやりしていたい。
他人からは「あの猫はネズミも捕まえないで、昼寝ばかりしているごくつぶしではないか」と非難されるような生き方をしたい。
そして背伸びをすると、背中の体毛が陽光を反射して、きらきらと輝くようでありたい。
あくびをすると、牙がぬらりと光っているようでありたい。
>>>
僕は僕の行く場所を知っている。
あるいは少なくとも、自分が本当に行きたい場所を知っている。
でも、それは誰かに教えなくてはならないものではないと思うし、説明したところで通じるものだとは思えない。
他者に見えるのは、僕のどう猛な牙、もしくはきらびやかな背中、あるいはキュートな肛門、ないしぴんと張られた尻尾であって、僕が見ている視線の先ではないのだ。
だから僕は僕の向かう先について、適切な説明をする必要はないし、する必要があったところですることはできない。
なぜならそれは他者に共有可能な情報ではないし、そもそも共有可能な言語に翻訳できるとは限らないのだから。
結果的に、彼らは僕のことを自由に、思い思いに、それぞれの主観で、いいようにも悪いようにも評価するだろう。
彼らが見ているのは僕の積み荷だ。
あるいは彼ら自身の積み荷に対する欲しか見えていないかもしれない。
だから僕は、彼らの言葉を聞かない。
聞くに値しないのだ。
>>>
自分を見せないというのは、自分を見ないことではないし、相手を見ないことでもない。
ただ自分を見せようとする欲求に含まれる虚飾を、ていねいに分離したいだけなのである。
それを損な生き方だとする人もいるだろう。
誤解を自ら招くような行為だと諭す人もいる。
それは本当に、相対速度的な問題なのだと僕は言いたいのだけれど、面倒だから説明しない。
彼らはそれを理解できない。
素晴らしい積み荷があるとして、それを隠すのは損なのだろうか。
たいしたことのない積み荷を飾り立てて、それをひけらかすのがそんなにステキだろうか。
そんないきかたを、ぼくはしたくない。
