「えっ、あの店、閉店しちゃうの? しばらく行ってないけど、いいお店だったのに」とか惜しんで騒ぐ奴ほどぜんぜんその店に通ってなくて、通わないからその店がつぶれるということをうぬらは知っているのか。
「逢いたかったのに」とかいうガールほど滅多に逢いに来ないから、逢えなくなる時にはなんだか惜しく感じるようなのだが、寂しく感じるのはおまえのせいなのだ、逢いたいなら少しでもそれを感じたときに逢いに来い今日来い今来い、と僕は声を大にしてここでいいたいのだけれど、こんなところで声を大にして申し上げたところで誰にも届かないのは自分でも先刻承知の助である。
それから僕には1年に一度、電話で会話をするかしないか程度の親友がいることもついで程度に申し上げておきたいのだけれど、こんなどうでもいい豆知識を蓄えたところで何の役にも立たないことも申し上げておきたい。
新しい街に引っ越して1ヶ月が過ぎようとしている。
いけ好かない部分もある街ではあるが、このアパートの部屋はたいそう気に入った。
猫は場所に懐くというが、つまりはそういうことだ。
ここは見晴らしがいいし、ひとりで暮らすには十二分な広さがある。
引っ越して直後にスイッチを入れたファンヒータは煙をもくもくと上げて停止したものの、代わりに導入した3つの暖房器具は心地よく部屋をあたためてくれる。
僕は僕の行きたい場所にゆく。
僕は僕の棲みたい場所に棲む。
僕は僕の逢いたい人に逢う。
僕は僕のしたいことをする。
僕は僕の食べたいものを食べる。
僕は僕の飲みたいものを飲む。
僕は僕の生きたいように生きる。
これまでもそうだったし、これからもそうだろう。
だから、僕に逢いたいというガールは僕に逢えばいいと思うし、僕は僕の逢いたいガールには必ず逢う。
その上、僕は抱きたいと思うガールを抱く。
しごく自然だと僕は思っているが、他の人がそれをどう思うかはその人の自由だ。
繰り返しになるかもしれないが、念のため書いておこう。
僕は僕の見たい景色を見る。
僕は僕の棲みたい場所に棲む。
僕は僕の暮らしたいように暮らす。
僕は僕の友達を友達にする。
僕は僕の見たいものを見る。
僕は僕の感じたいように感じる。
僕は僕の触れたいものに触れる。
僕は僕のありたいようにある。
いいだろうか。
誰かや何かに左右されたりはしないのだ。
なぜなら僕は僕だから。
悔しかったら、お前はお前であるべきだ。
俺は悔しくはないぜ。
なぜなら俺は俺だから。
悲しかったら、お前はお前であるべきだ。
俺は悲しくはないぜ。
なぜなら俺は俺だから。
つらいとき、悲しいとき、くやしいとき。よく考えるがいい。
それはお前がお前ではないからなんだ。
お前がお前であれば、怖い事なんてないはずだぜ。
したくないことや、自分が望んでいないと思いこんでいることを自分で招いているから、自分がつらくなるんだ。
やりたいことをやって失敗したら、痛くも痒くもないはずなんだ。
失敗しても、やりたいことをやった快感が、まずあるはずなんだ。
その快感が感じられないのだとしたら、お前がやったことは、お前がやりたいと「思わされていた」ことなんだ。
「こうすれば成功する」と思いこんでいてそれをする場合、したいことは「成功すること」であって、「それをすること」をしたいわけではないんだ。
そんな奴が成功するほど、世の中は甘くないぜ。
そんな奴が成功するほど、世の中は甘くないぜ。
そんな奴が成功するほど、世の中は甘くないぜ。
そんな奴が成功するほど、世の中は甘くないぜ。
不幸になりたくない奴が幸せになれるほど、世の中は甘くないぜ。
「褒められたい」奴が幸せになれるほど、世の中は甘くないぜ。
「羨まれたい」奴が幸せになれるほど、世の中は甘くないぜ。
やりたいことをやった奴だけが幸せになれるんだ。
ひとつ問いたいことがある。
お前は今日、何を見ていた。
お前の見たいものを見ていたか。
お前の感じたいように感じていたか。
ひとつ言っておきたいことがある。
俺は今日、見たいものを見ていたぜ。
俺は今日、感じたいように感じていたぜ。
俺を敵対視する奴らや、俺を無能扱いする奴らは、今も昔もいるけれど。
それどころか、俺のことなどまったく知らない奴らがそれこそごまんといるわけだけれど。
自分が見たいものを見たいように見て、感じたいことを感じたいように感じていれば。
自分以外の人間が、見たいものを見たいように見て、感じたいことを感じたいように感じることがしごく普通のことに思えてくるはずなんだ。
それはお前が見たいものを見ることや、感じたいことを感じることとは、まったくリンクしないことだし、たとえその対象がお前自身であったとしても、お前自身の価値にも意味にも、まったく関係ないことなんだ。
俺が「いい景色だな」と思ったところで景色は喜んだりしない。
俺が「厭な天気だな」と思ったところで天気は悩んだりしない。
だからお前が悲しんだところで、その対象は一緒に悲しんだりしない。
お前が悩んだところで、その対象は一緒に悩んだりしない。
お前が憎んだところで、その対象は気にしたりはしない。
お前が微笑んだところで、その対象はお前に好意を感じたりはしない。
なのでもう一度申し上げますが。
オマエは、オマエの見たいものを見るべきで。
オマエは、オマエの感じたいように感じるべきなのではないのでしょうか。
