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//TimeLine:20161108
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TITLE:
本日の青猫 161108
SUBTITLE:
~ Seven Colors. ~
Written by BlueCat


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::たかだかこの水分70%ほどのアミノ基系の肉体に、ついでのように付加された思考回路によって生み出されている僕の思考は、果たしてどれくらい「まとも」あるいは「まともではない」のだろうか。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 引っ越しも終わって家の中はごみ箱のような、ビッグバンモデルの初期状態のような、おもちゃ箱をひっくり返したような。
 つまるところ、これからいろんな変化が待っているよ、という状態である。

 厄年や感傷性についてや、厄年や(酔っているので二度書いた)磨く趣味や書架についての書きかけの日記を放り出して、今日は今日の日記を書こうかとも思ったのだけれど、さして変わりなどないのだ。

 どのくらいまともに日記を書いていないのか、僕は正確には覚えていない。
(ログを見ればすぐに分かるが、酔っているので、あえてそれをしていない)
 いろいろ書きたいことはあるが、特に書いておきたいのは、僕に生七味唐辛子を送ってくれたガールのことである。

 本日、新しい街のスーパーに出かけてそれを見つけて思った。
「高い!」と。
 でも、かのガールは、それを薬味にした料理を一緒に食べては「美味しいですね」と笑いかけてくれたものだ。

>>>

 この街は物価が高い。
 そのわりに、いい肉も、いい野菜も、なかなか手に入らない。
 これが都市部なのか、とも思う。地方だけれど。

 窓から見える夜景は綺麗だが、都会の利点なんてその程度なのだろう。
 幸い、窓から山は見えるし、近所に河もある。
 駅まで歩いて3分だったのが最低でも10分はかかるようになったのには辟易しているが、食材がよそよそしく都会じみているのには本気でいらだちを覚える。

 分解できない家具を5階の高さに運ぶのには、本当に苦労した。

>>>

 冬だ。
 紅葉はろくでもなかったが、これから本格的に冬になる。
 冬と月と猫の申し子として卯年の蟹座のO型に生まれた僕は思う。
 イェーイ!(死語)冬だ。と。














// ----- >
>* Escort Division *<< //

::そんなにまでして、僕らは、僕らである必要があるのだろうか。
 どうして彼らはそうまでして、彼らである必要があるのだろうか。




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
それが悪夢なら醒めないで。 ~ I won’t be cooldown. ~
From「青猫工場 ~ Bluecat Engineering ~」
 によりました。






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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
[ Cross Link ]
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[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Cat-Memory-Night-





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//TimeLine:20161002
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TITLE:
それが悪夢なら醒めないで。
SUBTITLE:
~ I won’t be cooldown. ~
Written by BlueCat


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::日本の工業力としては四発が無理であったから、海軍が双発を要求したことも止むを得なかった。しかし“攻撃機”であるから、分厚い装甲防弾を拒否し、疑いを抱くものに対しては、
「命が惜しいか!」
 の一喝で沈黙させた思想は批判に値する。
 タフなボクサーのように、たたかれてもたたかれてもダウンせず、最後の勝利を獲得する者がついに生き延びる冷厳な事実を認めなければ、論理の退却である。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 新しい街での夜を、2度ほど過ごした。
 家財の移動は3割程度が終了。
 早朝、出勤時にアパートから家財(多くは本である)を運び出し、就業後に室内に運び込み、そのまま泊まったり、以前のアパートに戻って翌日のための積み込みなどをしている。

 20年近くのあいだテレビ以外の家電を買い換える必要には迫られなかったのだが、今回、洗濯機を洗濯乾燥機に買い換えることにした。
 9kgというから、ひとり暮らし向けの商品ではないのだけれど、時間短縮にはこの上ない効果を発揮するという結論から購入を決定した。

 一時期流行った「長生きしたい」という潮流の多くは、何年にも渡って少しでも長く、一日でも多く生きていたい、という考え方に染まっていた。
 ようやく時代が(僕の思想に)追いついたようで、お年寄りも、若い人も、最近は「長生きしてもしかたがないから、ほどほどに生きていたい」と言うようになった。
 もっともこれは、僕の周囲のサンプリングの結果であって、すべての人がそうであるとは僕も思っていないし、「とにかく一日でも長生きしたい」という人が僕の周りにいなくなったわけでもない。

 身体もアタマも不自由になって、それでも長生きしていたところでたいした意味はない。
 たとえば病院のベッドで意識不明の状態で、たくさんの機械が身体に繋がって永らえていたとしても、それをして本当に生きているのか死んでいるのか、判断するのはむつかしい。
 むろんそんな状態は経験しない方がいいし、そんな状態の人を見る機会も少ないとは思うが、たまたま僕はそういう状態の肉親をひと月ほど看ていたし、とうとう意識が戻ることなく他界した彼にとってのそのひと月は、どういった意味を持っていたのかと思ったこともある。

 自由な時間を作るためにテクノロジィがあるのだとするならば、乾燥しない洗濯機より、乾燥する洗濯機は自由な時間を生み出し、結果的に、同じ日時に死ぬとしても、僕の自由な時間は増えることになり、洗濯乾燥機を持つ僕は、持たなかった僕よりも長生きしたことになる。
 蛇にたとえるならば、アタマから尻尾までの長さなどではなく、密度が大事だといえるだろう。

>>>

 それにしても、どこにいっても狭い世界で生まれ育ってきた人間はいるもので、彼らの見てきた世界が狭ければ狭いほど、どうしようもないくらい彼らはそれを当たり前のことだと考え、そして彼らにとってはあまりにも当たり前であるあまり、他者にそれを強要したがるものらしい。
 例外を知らないこと、想定外の体験に乏しいこと。これらはすべて自分の見てきた領域の狭さに起因している。
 狭い領域の恒常的な常識は、確かに揺るがないものかもしれないけれど、より広い領域において、絶対的な融通が利くとは限らないものである。

 たとえば異性経験の多い人は「こういうのが好きで喜んでくれる女性がいるのは事実だけれど、逆に嫌う人もいる」と考えることができるが、異性経験の少ない人は「こうすれば喜ぶに決まっている」と決めつけていて、結果としてうまくいくこともある反面、失敗することもある。
 にもかかわらず、その失敗から彼らが学ぶことは少ない。
 なぜなら彼らは自分自身の考え方に固執するあまり、学ぶ姿勢を持つどころか、そうした発想さえ持たないのだ。

 考え方によって事象はすぐに変わらないだろうけれど、それに対する姿勢や反省によって、事象は長い時間の中で全く異なるものになると僕は思う。

 しかしそうした、狭い領域での考え方で凝り固まった人たちの集団がときどきあることも事実で、なんというか戦慄を覚えるのである。
 子どもの頃は分からなかったのだけれど、大人になればなるほど、そういう人たちの群れが確実に存在していることに気が付くからだ。
 彼らは、僕のようにうまく集団になじめない人間を目ざとく見つけ、あれこれと難癖を付けては自分の価値観を押しつける。場合によっては集団でそれを行う。

 しかし同時に彼らの多くは非常にパターン化されているので、仮に集団の中で浮いて、つまはじきにされて、無能扱いされていたとしても気にすることなく観察を続けることで、必然的にウィークポイントが浮き彫りになる。
 的確なタイミングを逃さずそれを利用することができるならば、それ相応の復讐を果たすことができるだろう。

 しかし自分を自分として、確固としたまま持つことができない僕は思う。
 果たしておかしいのは、本当に彼らなのだろうか。
 まともであるとか、バカであるとかいうことのすべてが相対的で、つまり一方が他方をして「おかしい」「バカだ」と思うときには必ず反対に「おかしい」「バカだ」と思うものであるという仮説(検証していないので仮説である)を僕は持っていて、それに従うなら、彼らが僕をおかしいと思い、それにともなって僕が彼らをおかしいと思うことはしごく自然なことであるものの、客観的な観察を行うとしたら「どちらも間違っていない」あるいは「どちらもおかしい」という結論を僕は導き出してしまう(そして彼らは導き出していないように観察される)。

 たかだかこの水分70%ほどのアミノ基系の肉体に、ついでのように付加された思考回路によって生み出されている僕の思考は、果たしてどれくらい「まとも」あるいは「まともではない」のだろうか。
 他の個体の感覚や思考についてを、正確にトレースすることはできないが、彼我の差は、そんなに圧倒的に遠いものなのだろうか。
 そんなにまでして、僕らは、僕らである必要があるのだろうか。
 どうして彼らはそうまでして、彼らである必要があるのだろうか。

 死ぬまでの間(正確には思考が正常に働くことのできる間)に抱える思考や記憶は、確かに固有のパターンを作る。
 でも僕は、自分の持つそれにさえ、没入できない。

>>>

 ところでこのふた月ほど、青猫工場がネットストーキングされている。
 僕が何も書いていないものだから、ほとんどはトップページを(主に電信柱やブロック塀の陰から)じーっと見ているようなのである。
 アクセス解析によれば30代の女性のようではあるが、僕自身のIDが女性の性別を持っていることを考えると、モニタの向こうで青猫工場をうかがっている誰かが果たして女性であるかどうかは定かではないし、サダ力(さだりょく)でもなければ佐田力(さだちから)さんでもない。

 シュレディンガーの青猫工場は、観察者によって存在や状態が固定されるのを拒む性質を持つため「てやんでぇ! 今日も明日も明後日も、何も書かねーよ、バーカバーカ!」と思っていた(決して仕事や恋愛や引っ越しやぱやぱやが忙しくて何も書けなかったわけではない)ものの、書けるときには書こうと思ったのではあるが、いかんせん、観察者が電信柱の陰からじーっとこちらの様子を(無言で! しかも無言で!)窺っているとなると、なんとも薄気味悪いのではある(ただし美人なら例外として認める)。

 安否を気遣う場合であれば、コメントなりメールなりで「青猫様、お元気でいらっしゃいますか。私です(といっても初めて書き込みいたします)」とか言ってくれれば分かりやすいのではあるが、そういうアプローチ一切なしで2ヶ月以上もほぼ毎日(僕が何も書かなくても)観察されているというこの薄気味の悪さが分かるであろうか。
 一見さんなら一見さんで、何かしら他の文書ページを開いたりするものであるが、そういった行動も一切ないあたり、もしかしたら初歩的なボットを誰かが開発して青猫工場を観察させているのではないかと思ったりする反面、僕は僕の性質上、それ以外の可能性についても思いを馳せてしまうのである。

 たとえば、ブログにいわゆる「内緒コメント」ができることを知らない可能性も否定できない。
 たとえば、分かりやすくそのへんに明示されていたはずの僕のメールアドレスを知らない可能性も否定できない。
 たとえば、何らかの脳機能障害によって、言葉を文字にする能力を持たないのかもしれない(たまたまこの猫の絵が気に入って、毎日見に来ている人がいるとして、僕は驚かない)。

 強いていうならば、僕は、僕自身の境界を明確には持たず、あるいは良くいえば限界を持たないのかもしれない。
 けれどそれは、出力がないことでもあるように思える。
 そしてそれらは同時に、僕というものの輪郭を、非常に曖昧にしてもいる。
 結局、皮膚だけが僕と僕以外の境界として機能しているのだろうか。

 いずれにしても、その人物がもしも単一である(なおかつ日本語を読解することができる)とするならば、僕は以下の言葉を伝えたいと思う。

「2ヶ月以上のあいだ、ほとんど毎日、何の変化もない青猫工場を見ていて、あなた自身に何らかの発見や変化が、この青猫工場からもたらされましたか?
 もしも何の発見も、変化もなかったのなら、もう見るのはやめるべきです。あなたの人生を、そんなことで無駄にするべきではないと思います」

>>>

 インターネットがもたらした脊髄反射的なインタラクティヴィティによって、人は優しさを失ったという説がある。
 しかし人をファシズムに走らせるのは、その当人の想像力の欠如もしくは過剰であって、テクノロジィそのものではない。
 ナイフだろうと火薬だろうと、使い方しだいで誰かを殺す道具にもなれば、ファンタジィを生むツールにもなる。
 言葉(言語という意味ではなく、僕らが普通に発言する「ことば」そのものだ)もしかり。
 金言を生み出せないなら、沈黙するより他にないから、僕はたいてい、沈黙している。



 新しい街の夜景は、なかなか綺麗だ。








// ----- >>* Escort Division *<< //


::一式陸攻の乗員は七名で、四発なみの武装すなわち七・七ミリ機銃三梃、二〇ミリ機関砲二門で身を固めていた。これだけの武装を持っていたら、攻撃する敵攻撃機に火の雨を浴びせることができたはずである。ところが、自機の翼の中に火の海になる根源があっては、しょせんはスポンサーの発想からして食いちがっていた。それが本庄さんのために惜しまれるのである。
 一式陸攻の裏方として、量産に向くような機体に仕立てた工作技術者の努力を忘れてはなるまい。太い胴体は厚板で滑らかに仕上がり、整備も楽であった。後の空技廠設計の銀河は、工作はもちろん整備も整備員を困らせたという。
 これは当然で軍と民間の技術者では立場が完全にちがう。それは体質的なもので、図面や実物ぐらいで見習えるものではない。




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~

文頭文末の引用は、
「葉巻の夢」
From「ヒコーキの心」(p.219-220)(著作:佐貫 亦男 / 発行:光人社NF文庫)
 によりました。






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//TimeLine:20160828

// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
好きだった。
SUBTITLE:
~ Love you little, love you long. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //

::お待ち下さい! いついかなる時でも、私を信じて疑わない部下への信頼。それこそ私が今まで築き上げてきた財産の全てです! それを……!

::どうやら、その財産を使う時が来たようじゃないか。手筈は私が整える。君は部下を召集しておきたまえ。
 案ずるな、君がいれば部隊は再建できよう。



// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 この街に暮らすようになったのはかれこれ20年ほども前のことで。
 つまるところ僕は自分の人生の半分くらいをここで生きてきたことになる。およそひとりで。

 僕の使う「およそひとり」というのが、僕以外の多くの人の語るところの「およそひとり」というのとは少々異なるようだということを、最近の僕は認識できるようになった。
 いかんせん、僕は僕の人生しか知らないがために、他の人のいう「およそひとり」というものが、僕に当てはまる「およそひとり」におよそ等しいものだとてっきり思ってしまうきらいがあったのではある。

 たいてい人の「およそひとり」というのは、今現在ひとり暮らしをしているとか、経済的・精神的に親から独立しているとか、現在恋人がいないとか、そういう「ひとり」である。
 実際のところ親元を離れても、たまに実家に帰って、しかもその上その実家に寝泊まりできる類の人は少なからずいるようだ。

 僕が実家を離れたのは、数年行方知れずだった姉が、いつの間にか結婚して離婚して再婚した挙げ句にまた離婚して出戻ってきた上、僕の部屋の半分以上を占拠したがために僕がダブルベッドを広げて眠ることも、友人を招いて溜まり場にすることもできなくなったことが発端ではある。
 そして実に、実家に帰っても、かつての僕の部屋に仮に入ることがあっても、僕はもう二度と、そこを「僕の居場所」としては認識できなくなっていて、ために父や妹と一緒に食事をすることはあっても(果たしてそんなことは一度もなかったかもしれないが)、寝泊まりすることは決してなかった。
 ちなみに僕が家を出て1年もしないうちに、件の姉はまた出奔し、行方が知れなくなった。

>>>

 猫は場所に居着くという。
 たしかに僕はこの街がとても気に入った。
 裏に山があって、近くに河があって、どの市街地からも均等に離れたこの安普請のアパートは、にもかかわらず駅から数分の場所にあり、ほどよい距離にコンビニもスーパもホームセンタもあって、実に棲み心地のよい場所であった。
 ひとたび自分の場所が決まってしまえば、それ以外の場所は、僕にとっては、僕の場所ではない。
 だから、実家にも、長居することができなかった。

 子どもの頃に離婚した母は長女の家に暮らしていて、つまるところ物理的にはさほど遠い場所に住んでいるわけではないものの、時間的あるいは精神的な距離は(とくに軋轢があるわけではないものの、親子として暮らした期間の数倍の空白が横たわっているために)けっして近いわけではない。
 やがて僕の父は死に、行く末を心配していた妹はきちんと素敵な旦那様と結婚して幸せに暮らしている。
 実家はもうない。

 物理的な帰る場所は自分の選んだこの場所しかなく、子どもの頃の「家族」という記憶の拠り所を僕は持っていない。
 僕にはこれしかないから、これが普通だと思っていて、だから家族や、その記憶を持っている人をうらやましいと思ったことはない。
 使い道の分からない大きな道具を持っている人を見てうらやましく思う人などいない。
 ただ「なんだか重そうだな」と思うだけだ。

 しかしその「重み」を知るものたちの言う「およそひとり」というのは、つまるところ拠り所があって、そこから離れていることを指している。
 まるで引力圏に漂う衛星のように、彼ら(あるいは彼女たち)は「そこ」と自分の間にある重力の存在に縛られ、そして同時にそれに依存してもいる。
 一方、そんな重みを知らない僕の「およそひとり」というのは、つまるところ拠り所などハナからないという、近いも遠いもなく、帰る場所もはじまりの場所もない「およそひとり」なのではある。
 依存するべき引力もなく、ために縛られず、ために自由なのではあるが、彼ら(あるいは彼女たち)のある種贅沢ともいえる「引力病」は理解できない。

 親がいようが恋人がいようが配偶者がいようが、本質的な部分で、人間は「およそひとり」ではある。
 しかしその一方、遠い記憶の中に拠り所があるというのは、僕にたとえるなら、皮膚の奥に感覚的に帰る場所を持っているのと同じようなものなのではないだろうか。
 僕はそれを自分の感覚とその記憶の中にだけ持っている。
 多くの人は(すべての人だとは思っていない。そう思えるほどおこがましくなりたくないし、自分を特別扱いしたいわけでもない)自分と他人の関係の記憶の中に帰属する場所を持っている。

>>>

 僕はこの街が好きで。
 この街を好きなった僕を好きだった。僕は僕の拠り所だった。

 それでも現実は面倒なもので、あれこれと理由をつけては他人を思うようにコントロールしたがるものらしい。

 そんなわけで、僕はこの街から出て行くことになった。
 僕はこの街を出て行くことにした。

 これからは見知らぬ街で、見知らぬ山を眺め、見知らぬ河の波を見つめることになる。

>>>

 いつだったか
「あなたにも友達くらいいるでしょう? どうして大切なことを相談したりしないの? 楽しいときだけ一緒に遊ぶのが友達なの? 困ったことがあるなら専門家に相談するとかだってあるでしょう?」と嗤われたことがある。

 たとえばだけれど、僕の場合、友達や弟子から相談された場合、次のようにしか答えないし、そのように答えてきた。
「俺ならこんなふうにするよ。でも俺はお前じゃないし、お前は俺じゃない。
 俺に言えないお前の事情があるかもしれないし、お前のすべてが俺に理解できるとは思っていない。
 だからお前にお前の考えや希望があって、それが仮に俺の考えと正反対だとしたら、自分の考えを優先したほうがいい。俺はお前の考えを応援する」

 つまり僕の中でこんなふうだから、自分の考えがあるなら僕は友人に意見を求める必要がない。
 考えがないのだとしたら悩まないのだから、友人に相談する必要がない。
 結果として、僕は友人に相談する必要がない。
 実際、僕はBPやTUから、重要な相談事というのをされたことがない。
 されたとしても答えは上記の通りだし、男なら自分のことくらい自分で決めろよ、とは思う。

 じつに10代の頃の友人(当時のTUである)からは
「青猫は悩んでいても、苦しそうにしていても俺たちに何も相談してくれない」
 と言われたこともある。

 僕にとって、友達というのは、相談相手ではない。
 同列にいる者であって、先人ではない。
 では先人なら相談するのかというと、先人は先人で、自分の感覚や経験に左右されがちなのが人間の常であるから、そういう固着した視点しか持っていない(要はバカな)人に教えを仰ぐほど愚かでもない。

 それに困ったとき、苦しいときに利用するのが友人だろうか。
 たしかにそう考えると、友達というのはすぐれた財産かもしれない。
 しかし財産ってなんだろう。ずいぶんみすぼらしく下品な価値基準のように僕には思える。

 さらに付け加えるならば、僕の人生についての専門家なんてものは、どこにもいない。
 いちばんそれに近いのは僕自身だろうけれど、その僕だって、専門家というにはほど遠い。
 困ったことがあるたび、専門家に頼るのはしごくまっとうで、とても手軽な手法だろう。しかしそれによって、自分の人生の大切なピースを手放したりはしていないだろうか。

 最短距離の正解を手に入れることで、間違うという遠回りの道を知らずに生きているのではないだろうか。
 自分の生き方の専門家を目指すなら、間違って遠回りをした方がいいと僕は思う。
 たとえ明日死ぬとしてもだ。

>>>

「およそひとり」の僕は引っ越しは業者を頼もうと思っていたのだが、BPが「メシ奢ってくれたら、俺が手伝うから2人でやろうぜ」と言ってきた。
 完全に学生のノリである。

 彼とは遊んだり、一緒にパイプ煙草をふかしたり、引っ越しの手伝いをするくらいしかない、じつに軽い友人関係である。

 しかし引っ越し先が未だに決まらない。由々しき事態である。(堂々としている、という意味ではないが、そう捉えても面白い)






// ----- >>* Escort Division *<< //

::とうとう9課もおしまいだな。せっかく今まで築いて来たもんがパーになっちまった。

::そう? 最新のメンテや最高級の装備を湯水のように使えたのは良かったけど、それだけよ。
 また新しいスポンサーを探すだけ……それとも何? バトーはあそこに何か未練でもあったわけ?

::ん? そういやねえか。まああるといえば思い出くらいなもんか。

::思い出? ずいぶん感傷的ね。



// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~

引用は、
「攻殻機動隊 ~ Stand Alone Complex ~
 第24話:孤城落日 ~ ANNIHILATION ~」
によりました。








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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
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[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]





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[Cat-Ego-Lies]





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20160710

// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
非線形の悪夢の向こうから。
SUBTITLE:
~ Nonlinear Nightmare. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Lead Division *<< //


::さて,微分とは簡単にいえば,部分のことである.一方,積分とは部分を足し合わせた全体のことである.ただし,である.ここで注意してほしい.微分と積分は「動作の結果」をさしているのである.
 では,動作とは何か? それは「微分する」という動作,「積分する」という動作のことである.「微分する」とは部分に切り分けるという動作をさし,「積分する」とは切り分けた部分を積み重ねるという動作をさしている.「微分」と「積分」は,こういう動作の結果として生まれるものなのである.微妙な違いだが,動作とその結果を混同しないように注意してほしい.




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 ゆるやかな夏。
 日々は慌ただしく、けれども穏やかに過ぎる。
 何もかもを自分の手だけで決めることのできる喜びというのを僕は知っている。
 目覚めることも眠ることも、食べることも生きることも。そして死ぬことも。

 他人がいるとこういうわけにはいかない。
 つまるところそうした自由こそが、孤独の最大の価値だといえる。
 もちろん自由には相応の制約があり、制約とは時に不自由そのものではあるのだけれど、そうした相反するパッケージを選択して入手し、あるいは作りだし、あるいは構築し、管理しながら運用し、メインテナンスしながら楽しむというのは、それこそが自由の証だと思う。

 なぜか身体がひどく疲れていて9時頃まで眠っていた。
 最近は日の出る時間には目が覚めることがほとんどで、数年前から軽い睡眠障害にもなっていたから、明るくなっても眠っていられるのは、回復の兆しだろうと考えている。

>>>

「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉もそうだし「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉もそうだけれど、僕らの日常は、非線形特性のものがほとんどで、しかし多くの人は(おそらく)限定的な視野でしか思考できない(あるいは単にする意思を持たない)が故に、ものごとを線形的に単純化して記憶し、それだけをもって断定的に判断し、処理しようとする。

 他に「喉元過ぎれば熱さを忘れる」や「昨日の敵は今日の友」も同様。
(数学的な意味において)極限的に単純化された時空的(あるいは感覚的)領域においては、すべては直線的に変化し、推移し、それによって入り口と出口は閉ざされ、現状の把握は容易になり、未来の予測もまた確固としたものに単純化される。
 この「単純化された把握と予測」によって、多くの人は安心する。
 現状が理解可能なものであり、また予測可能であるという認識(あるいは気持ち)は、そのままそれらを自分の意思によって制御可能であるという認識(あるいは妄想)をもたらし、不確定な要素が(少なくとも自身の認識テーブルの上からは)なくなったと感じる(あるいは錯覚する)ことができるからである。

 しかしながら事象は(便宜上そう仕向けた場合を除いて)単純化などされることはないし、予定調和的に直線の(つまりは線形的な)推移をするわけでもない。
 自分自身の心理や身体特性などを比較的長期にわたって観察すれば、そんなことは自明のはずだ。
 しかし人間は、安心のために単純化し、正当化のために妄想し、予定調和のために排斥する。
 それが制御であり、それが安定だと信じる。
(バブルを含めた経済や政治の話をしているのではないけれど、理解の助けになるならばそう思ってもらっても構わない)

 国語世界において、そうした格言やことわざが長く生き残った理由は、単純にそれが「多くの事象に適合する公理」として理解されたからだろう。
(諸行無常という言葉は、その言葉単体を考えるならば普遍性を手に入れ、逆説的に無常ではないのだけれど、不思議とその言葉自体を矛盾させたりはしない)
 にもかかわらずその非線形モデルは、それの扱う領域があまりに多岐にわたる(あるいはそうなりうる)ために細分化されず、一般解から展開して特殊解を導く手法も公開されず、それゆえに汎用性があだとなって普遍化されるに留まってしまう。応用も、個別化も、特化もされないままで形骸化してしまう。

>>>

「モテであるためにはモテである必要などない。オナゴも必要ない」という矛盾した名言を残したのは青猫氏である。
 なるほど「ガールなくしてモテは成り立たない」という考え方も決して悪くはないと思う。

 しかし刀を持たない武士は武士ではないのだろうか。
 白衣を着なければ科学者にはなれないのだろうか。
 しかめ面をしておけば誰しも思想家になれるのだろうか。
 哲学者は冗句を言わないものだろうか。
 三角耳と尻尾がなければ猫ではないのだろうか。

 すなわちお金を持たないオカネモチは存在しない(かもしれない)が、お金を持たないリッチさは存在するし、お金を持たない名士もまた存在することになり、オナゴをはべらせなくても恋人が27人くらいいればモテになることは容易いという図式が成り立つ。

 大事なことは自己変容の能力であり、その変容を自身に許容する狡猾さ(あるいは寛容さや謙虚さや柔軟さ)であったり、変容を成し遂げる的確さ(あるいは観察力や無感覚さ)だろう。
 たとえばモテたいと思う人やオカネモチになりたいと願う人、あるいは単純に誰か(もしくはすべての人)に愛されたいと考えている人は少なからずいるけれど、そうした人たちがそうなれないのは、単に「そうではないから」という単純な解答が導かれる。

 つまり「モテたい」という人が「モテない」のは、その人が「モテではない」から。
「愛されたい」という人が「愛されない」のは、その人が「愛されるに値しない」から。
「リッチになりたい」という人が「リッチになれない」のは、その人が「リッチではない」から。
「オカネモチになりたい」人が「オカネモチになれない」のは、その人が「オカネモチではない」から。

 この高低差は、本質的になだらかに推移するようなものではなく、絶対的な絶壁として、およそ直角に(場合によっては直角よりも負の角度で)、しかも人によってはかなり高い位置にそびえ立っている。
 本質的に「徐々にモテる」なんてことはないし、「だんだん武士になる」ということもないし、「少しずつ愛されるキャラになる」なんてこともないから、「着々とリッチになる」こともない。

 当然「次第にすべてが猫になる」なんてこともない。
 かろうじて猫ランジェリィなどによって猫化することはできると思うし、猫耳や尻尾的な something を装着する(装着する!)ことによって、そうした少しずつの変容、可逆的な変化を具象化することは可能だと思うけれど、それは「猫の本質」そのものにおいてはたいして関係がない状況だという冷静な気持ちを、ベッドの上でも、また猫砂の上でも忘れないでおいて頂きたい。

 とにかく「Aになりたい NotA」と「Aである」の両者は All or Nothing な、絶対的な崖によって分断されている。
 ポテンシャル的に高い方から低い方を眺望することはできるだろうけれど、逆はほとんど不可能だ。
 結果として「NotA」群は、そのほとんどが「A」群に対する憧れや羨望、妬み憎しみを抱え、それがゆえに対象を理解できないまま、その原理を知る事もなく一生を終えるのである(言い切った)。

 原理を知る上で大事なことは、それを実際に体験することである。
「百聞は一見にしかず」ともいうではないか(ちなみにこれも、非線形モデル)。
 けれど、体験しようにもありようを知らないことがほとんどで、なおかつ無駄な自意識が邪魔をして、たいていは「それ」をできない。
 そのくらい「それ」を自然にすることはむつかしいのだろうか。
 それとも「それ」をすることを何らかの要素が邪魔をしているのだろうか。
 たとえば、羨望や妬みが根底にあるがゆえに。
 あるいは「自分はこういうものだ」という確固たるプライドに邪魔をされるが故に。

 そして恐ろしいことに、人間は、年々齢を重ねるごと、自分を確固たるものとして硬化させてゆく。
 まるで身体の節々や血管や、ときにはその脳が物理的な硬化を起こすのと同調するように。

>>>

 人が社会を構成しているとして、心というものがその個々人に備わっているのだとするならば、社会は人の心によって構成されているといえるだろう。
 心というものに関しては、人文的なものの多くがそれを非線形的なものであると断定している。
 にもかかわらず人間はその浅はかな気持ちの平安のために、まやかしの安定と直線的な未来を求める。
 そしてあたかも自分自身が直線的なものであると錯覚し、直線的なものを尊ぼうとする。
 個々人が社会や未来が直線的であれと願うように、社会もまた個々人に直線であることを望むのだろう。

 しかしそんなものは現実世界にはない。
 二点を通過して無限に続く直線などというものは、概念の世界にしか存在しない。
 現実世界のどこにも、ない。

 曲がりくねって、もつれて、絡まり、渦巻いたものが、まるで猥雑な記号のように点在している。
 直線的な雛型から生まれたネズミたちは、今日も直線の夢を見て、車輪を真っ直ぐに走り続ける。
 o地点を時速xで出発した彼らも、いずれは止まる。
 生命活動という速度はいつか0になる。
 加速度はプラスからマイナスに転じ、そしてそれさえ0に帰する。

 車輪の内側をひた走る彼らは、いったいどこへ行くつもりだろう。
 どこに行けるのだろう。

 そしてまた僕は、いったいどこにいるのだろう。
 どこに行くのだろう。








// ----- >>* Escort Division *<< //


::ところで,注意深い読者の人は気づいたかも知れないが,「積分する」という動作は,「微分する」という動作の上に成り立つ動作である.
「微分する」という動作があって初めて,「積分する」という動作ができるのである.
 なぜか? それは人間は全体を全体のままで理解できないからである.人間が物事の全体を理解するには,まず全体を細かな部分に切り分けて,その切り分けた部分を積み重ねることで全体を組み立て直す,という動作が必要になる.微分・積分の概念は,そういう人間の「ものの理解の仕方」に根ざした概念なのである.




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~

文頭文末の引用は、
「1.短冊に切り分ける ~ 微分・積分の考え方 ~」(p.2-3)
 From
「直感でわかる微分積分」(著作:畑村 洋太郎 / 発行:岩波書店)
によりました。








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[NEXUS]
~ Junction Box ~

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//TimeLine:20160622

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TITLE:
殺意の針は胸に隠して
SUBTITLE:
~ Reliable Buddy. ~
Written by 黒猫


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::見る人のため、花ぞとも知らぬがこそ、爲手(シテ)の花にはなるべけれ。されば、見る人は、(ただ)思ひの外に面白き上手とばかり見て、これは花ぞとも知らぬが、爲手の花なり。さるほどに、人の心に思ひも寄らぬ感を催す手立、これ、花なり。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 時計を、必要とするようになった。
 今までは携帯電話で代用していたのだが、いかんせん大きいので取り回しに不便である。(それによく落とす)
 周囲のオトコたちを見回すと(いやなに、女性もそうなのであるが)およそ腕時計をしている。
 なるほど、皆、時間を確認する必要はあるのである。

 しかし僕は20年以上、腕時計というのをしないで生きてきた。

 どうにもあれは落ち着かないのである。
(要はよくあるところの「オレは時間に縛られたくない」とか気取っちゃっている、アレである)
 ガールが僕の手首を握っているのとは全く異なる感触であり、重量感もさることながら、金属製ならそのエッジの感触が、ビニル製ならその不透過感が、肌に不快である。ベルトが天然皮革なら我慢できそうだけれど、どうやっても時計本体の裏側は普通、金属である。

 試しに数年前に人から貰った腕時計があったので、それ手首にあててみたのだが、30分もするうちに痒くなり、外してみたら皮膚が赤くなっていた。
 やはり肌に合わない。

 そうなるとやはり懐中時計の出番である。
 にもかかわらず、以前持っていたそれが、見当たらない。
 自分で片付けているものは感覚に従って収納しているので(僕の場合、本を書架に収める時も感覚に依っているので、逆さになったりシリーズの番号が前後していたり、作家やサイズやテーマやジャンルで分けられてもおらず、一見雑然と仕舞われているように見えるとは思うのだが、僕は最適なときに最適な本をそこから探し当てることごできる、このメカニズムについてはいつか書こうと思っている)、仕舞うときの思考を逆算すると収納場所が分かるはずなのだが、とにかく見つからない。

 これはあれである。
 誰かが収納場所を変えたのである。
 あるいは寝ている間にコビトが運んだのやもしれぬ。
 いずれにしても、自覚的にあるべき場所にそれがないのであるから、それはないのである。

 四の五の言っていても仕方ない。
 かくなる上は、買うしかない。
 もちろん懐中時計を、である。
 といって、僕は時計があまり好きではない。
 正確には嫌いではないのだが、時計に対して僕が求めているイメージを「これだ!」というふうにきちんと具現している時計に出会ったことがないため、好きになれないのである。

 いうなれば、街で偶然ばったり眼鏡ロングヘア可憐ガールに出会ってきゅんきゅんしたことがないために「いや、ガールとか僕はべつに……」と言っているようなものであり、どうして綺麗にカッコよくまとまるはずの文章をこのように自分の手で汚すのか、僕には信じられない。

 まず、僕は秒針が嫌いである。
 時間は(僕という個体の知覚上は)常に動いているものだから、時計も常に動いているべきものではある。
 ならばなおさら秒針は気ぜわしい。
 あんなものに気分を乱されたくないし、秒単位にうるさい人間も(もちろん誰にだって秒を争う状況はあるものだけれど、だからこそ)嫌いである。

 必然、時計はアナログである。
 耳もとに当てれば、規則正しい鼓動のような動作音が聞こえて、かつその音に気ぜわしさのないものがよい。

 時針分針は、装飾のない、ストレートなものがよい。確か昔、NHKのテレビの時報であったような、飾り気のない細い長方形のものがよい。

 そして文字盤には、一切の文字や目盛りがないものがよい。
 時計とは、身体的にその上下を感覚できるもののはずで、壁掛けなどの据付けタイプはもちろん、腕時計や懐中時計においてさえ、感覚的に、かつ瞬時に上下を感覚できてしかるべきである。
(上下がわからない時計など不良品だとさえ思う)
 よって文字盤の文字で上下を把握する必要などない。

 また時針は1時間で30°も動くのだから、1時半と2時半を間違えることはない。
 ために数字の表示も必要ない。
 12分と13分の差などどうでもよいものだし、59分と0分の差がひと目でわからないような人間は、もっと「親切」な時計を使えばいい。
 ためにすべての目盛りも必要ない。

 ちなみに付け加えると、時間を知るための道具なのに、それを目にするたびにメーカ名が目に入るなど、正直論外である。
 そういう自己主張が強いものは(時計や車に限らず)人間も含めて僕は好きになれない。
 中身がないような気がするのだ。
 たとえば車なら、エンブレムなどなくても明確にメーカが分かるものは多々ある。そういうモノづくりを僕は好むし、僕という人間もかくありたいと思う。

 時計だって今の御時世、無個性にすればするほど個性が生まれるのは明白なのに、どうしてなかなかそれは市場に現れない。
(メーカかユーザか、その両方に、品位や知性が足りないのだろう)

 すなわち
 時間を知らせるためだけに存在し、
 時間を刻む以外の仕事をせず、
 時間以外の情報を排除し、
 使い手(およびその能力)を信頼している道具たる時計を、僕は好ましく感じるのである。
 愛おしむ価値があると感じるのである。

 どうだろう。

 無地の文字盤にふたつの針だけが存在し、それが動いているかどうかは耳や肌に伝わる微かな振動でしか確認できない時計。
 ファッションとして誰かに見せつける機能さえ排斥され、すなわち所有者を装飾する役目を持たず、時間を所有者以外の誰かに意識させることさえなく、普段は(可能な限り)懐のポケットの中で眠り続ける、ただただ時計として純然と高機能な時計。

 もちろん前述のとおり、これが逆説的に非常に目立つ可能性があることは承知している。
(どんなにそれについてオーナー自ら口外しないようにしていても、だ)
 しかし、それさえ計算に入れても、非常に美しい存在ではないだろうか。

 そんな機能だけによって美しさを放つ時計がいったいどこにあるというのか。
 少なくとも、僕は見たことがないのだ。

 眼鏡きゅんきゅんガールのほうがよほどありふれている。

 というわけで、僕は時計を持たないのであり、時計をさほど好きではないと標榜しているのである。
(ちなみに自宅の壁掛け時計には文字盤がない)

 が、現実は非情だ。
 上のように感じているにもかかわらず時間を確認する必要を感じる以上は、やはり時計を持たなくてはならないのである。

 そのようなわけで、時計を買った。
 2130時に帰宅し0530時に起床しなくてはならない私は、密林でポチった。
 妥協に妥協を重ねているのがおわかりいただけるだろうか。

 しかし文書の雰囲気ぶちこわしである。
(ついでにパイプ用のライターも買った。密林でポチった)

 懐中時計は確かに面倒なものだ。
 ポケットを圧迫し、服の形を崩す。
 しかし腕時計は肌に合わない。
 肌を取るか服を取るか、となれば男は服を捨てるものだ。
 これは別に肌を取った、ということではなくて、服などという装飾から捨てるのが筋だというのに過ぎない。

 それにそう。
 オトコというイキモノは、スーツやコートが少しくたびれているくらいの方が色っぽく見える年代や種類があるのだ。

 それにそも。
 自らを飾り立てることよりほかに優先すべきことがあるのがオトコであるとは、かの塩野七生女史もおっしゃっていることである。

 ただ残念ながら、今のところの私は、とうていその域に達してはいない気がする。
 いずれは自分も近づきたいものである。その領域に。








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::祕する花を知る事。祕すれば花なり。祕せずば花なるべからず、となり。この分け目を知る事、肝要の花なり。そもそも、一切の事、諸道藝において、その家々に祕事と申すは、祕するによりて大用あるが故なり。しかれば、祕事といふことを顕はせば、させる事にてもなきものなり。これをさせる事(にて)もなしと云ふ人は、未だ、祕事と云ふ事の大用を知らぬが故なり。先づ、この花の口傳におきても、ただ、珍しきが花ぞと皆人知るならば、さては珍しき事あるべしと思ひ設け(たらん)見物衆の前にては、たとひ珍しき事をするとも、見手の心に、珍しき感はあるべからず。




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~


文頭文末の引用は、

「花傳第七別紙口傳」From「風姿花伝」 文頭部(P.104)文末部(p.103-104)
(著作:世阿弥 / 校訂:野上 豊一郎・西尾 実 / 発行:岩波文庫)

によりました。




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//TimeLine:20160529

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TITLE:
性感帯のこと
SUBTITLE:
~ Over-ride. ~
Written by 黒猫


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::「なにか、人に言えない秘密があるんだね?」
 「あのね」歩いていたチャフラさんは、立ち止まって、短い溜息をついた。「秘密っていうのは、普通、人に言えないものなの。人に言える秘密なんてないの。わかった?」




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 5月半ばより、ようやく大豆製品が僕の家計の上で解禁された。

 なにせ僕の好物であるところの豆腐などは費用対カロリィが低いため、エナジィ効率が悪いと見なされて摂食対象リストから外され、代わりに揚げ物を大量に食べていたのである。
 だからといって、出来合いの総菜やレンジ調理で済むような冷凍食品は酸化した油脂やら添加物の味がひどくて食べられたものではない(正確には食べられるが、食べたい気持ちにはならないし、食べたら食べたで体調を悪くする)ので、業務スーパーなどに行き、ちゃんと揚げなくてはならない揚げ物を買って、揚げていた。揚げまくっていた。週6日揚げ物なんて事はざらだったが、それでも体重を維持するのが容易ではないのは、僕が末期ガンだからである。
(いま、テキトーな嘘をつきました。この場を借りてご報告申し上げます)

 今月に入ってからは、豆腐、煎り大豆、枝豆と、大豆製品のオンパレードである。
 どうにも大豆製品が大好きだ、ということをしみじみと再認識している。
 それだけが要因だとは思わないが、肌も綺麗になってきた。
 自分で撫でてごわつく肌というのは精神衛生上もよくないので、たいそう嬉しいことである。

 平日は帰宅が遅めで朝がかなり早いため日記を書くのもままならないものの、土日は湯船に浸かることができるようになった。
 なおさら肌が綺麗になった。嬉しいことである。

>>>

 これまでざっと周囲を観察し、ときにはヒアリングなども重ねて分かったことなのだけれど、多くの人は比較的鈍感にできており、僕はそこから比較すると敏感にできているようではある。

 たとえば味覚。
 多くの人が無意識的に摂食している食品に含まれる、保存料、着色料、香料、調整物質(ph調整剤や乳化剤、増粘多糖類)、人工甘味料(特にカロリィゼロを謳うもの)の多くを僕は「石油のように不味い」と認識するので口にしないように心がけている。
 単調で大味で奥行きを感じられない科学調味料の多くも、まぁ不味くはないが格別美味しいと思うわけではない。

 たとえば塩だけで煮出したポトフ(コンソメを入れるのは本末転倒な邪道である)や塩茹でしたばかりブロッコリーやほうれん草、空豆であるとか枝豆であるとかなどは、もうそれだけで格別に美味しいと感じる。
 新鮮なものは素材の味を楽しめばよいし、熟成したもの(燻製であるとか、塩漬け肉であるとか)はそれだけで複雑な味わいを持っている。
 だいたいの食べ物は塩と胡椒、少量の醤油でおいしくいただけるのだ。

 もちろん、もちろん。
 めんつゆだって焼き肉のたれだって持ってはいる。ただ、その消費は以前に比べるとはるかに少なくなった。

 しかしそんな僕も、子どもの頃は身体能力に負けず劣らず身体感覚能力が致命的で(親の料理が不味かったわけではないと思うのだが、いかんせん記憶に乏しい)、ために食べることが好きではなかった。
 実際によく覚えているのが、生のイカや肉の脂身を嫌っていたことである。

 僕の周囲にいる「食べることが子どもの頃から好き」という人たちはたいてい「初めて肉の脂身を食べたときの感動」について語る。
 肉の脂身を初めて食べたときに感じたことは僕もよく覚えているが、記憶にあるのは猥雑な舌触りと噛み切りようのない不気味な歯ごたえでしかなく、つまりは味も匂いも感じていなかったのだった。

 僕が食べていたのはよほど安くて不味い肉だったのだろうか。
 可能性は否定できないものの、その後いついかなる時に食べた肉にも僕は辟易していたから、おそらくは体質の問題だろう。
 イカについても同様、刺身で食べたそれについて、味も匂いも感覚できなかったために、つかみ所のない舌触りと、噛み切るのに苦労するだけの消しゴムのような食べ物だと感じた。
 それ以外にも、野菜を含めたほとんどの食べ物にたいして美味しいと感じることはなくて、要するに「生きるのに不向き」な体質だったことは否めない。

 体質が変わったのは20代半ばのことで(この頃、僕の体質は大きく変化した)、以来、納豆も食べるようになったし、生イカや生タコの、淡くもみずみずしいアミノ酸系の味わいも分かるようになったのである。
 肉の脂身の美味しさは、ベーコンを自作するようになってから繊細に感覚できるようになったし、鶏の胸肉をソテするときには皮の下の脂身などわざわざ取り除いたりせず、そのまま皮目からじっくり焼き付けて溶かし出すという横着ぶりである。
(モノが悪いと鶏臭いが)

 そのようなわけで、30代までは、僕も添加物まみれの食べ物を美味しいと思って食べていたし、料理の味付けには大量の調味料を(化学調味料バンザイ!という勢いで)使っていた。

>>>

 さても性感帯の話であるのだが、これらについてざっくりとサンプリングした結果、僕の収集した範囲におけるほとんどの人は、主に性器によってしか性感を得られず、ためにそれを使ったセックスしかしないようであるのだ。
 それどころか性器のみでしか性感を得られないという極端なものは少なからぬ割合を占め、ほかには一般によく知られる性感帯(たとえば耳であるとか、膝の後ろであるとか、足の指であるとか、背中であるとか)以外についての部位において性感を感覚できるという人については23人というサンプリング対象のうち、わずかに1人にとどまった。僕自身を入れても、2/24。

 あれ、いきなり1割近くなった。
(これを「大数の法則が成り立たない」という)

 実に、僕のこれまでの恋人のおよそ2/3(つまりおおよそ18/27である)もそんな状態であり、まして男が性器以外の性感帯を有している率が格別に低いらしく、結果として彼女たちはオトコというイキモノの性感帯は性器にしかないと勘違いしているフシさえあるし、それがそのままストレートに反映した結果、実に性器以外では性感を得ることもできないような状況が少なからずあったようにも思えなくもない(すごく言葉を濁してみました)。

 僕の身体で1、2を争う性感帯は、実のところ性器ではないのだけれど、しかし少々やっかいなことに、世間一般には(男女を問わず)白昼堂々露出していても特に不思議ではない部位なのである。
 たとえば手や耳のようなものであり、つまりは皮膚である。粘膜ではないのである。

 仮にこれが腕だと仮定しよう。
 夏場ともなれば、腕が露出していること自体は男性ならなんら不思議はないし、女性でもさほど不思議ではない。
 しかし露出していれば、これはこれで(それが性感帯と仮定された)僕としては心もとないことであり、まして恋人と一緒に歩いているときなどに、まかり間違って腕を組まれたり、腕を掴まれたり、掴まれたついでにもう少し奥の方に指が到達しようものなら「ひゃっ」と声を上げて座り込んでしまうほどのあやうさになる。
 なにせ相手は僕の恋人であり、彼女の触れている場所が(一般の人には何でもない場所であろうとも)僕には一番の性感帯であるのだから。
(僕は自分の好きでもない人に身体を触られても何も感じないために性風俗を利用する機会がないものの、好きな人に対しては感覚器を開きすぎている可能性が否定できない)

 そのようなわけで僕はなるべく肌を露出しない。
 毛の生えたすねなどは獣っぽくて見目麗しくないし、首から胸にかけての鎖骨付近などは人によってはセクシャルな(あるいはセンシティブな)部位なので、やはり露出したくない。
 肌が綺麗であればあったで、自分の身体に劣等感を持っている人に誇示するようなことをしたくない。
(見たいと思う人が僕を見るぶんには好きにしたらいいと思うけれど、相手の反応おかまいなしにこちらから誇示するのは、夜道にコート一枚で下半身を晒す変質者と変わらないではないか)
 で、僕にとって腕や肩や手首が性感帯であるならば、当然これは露出できない。
 それは僕には性器みたいなものだから。

 スーツを着用していると、非情に心持ちが落ち着くのは、そういう作用もあるようだ。
 あれはユニフォームではなく、僕にとっては身を守る鎧である。

>>>

 個人的に他人の身体を観賞するのは(老若男女問わず)楽しめるので、僕は普通にそのへんの人を観賞する。
(性的な目的ではなく、造形やその成長原理を推察するのが楽しいのである)
 若い身体も、老いた身体も、痩せた身体も、肥えた身体も、筋肉質なものも、のっぺりしたものも、それぞれの造作に表情があり、積み重ねたものがあり、疵は疵で、珠は珠で、相応に味わい深いものである。
 もちろん、相応の手入れがされていてこその味わいではあるけれど、それは盆栽などをはじめとしたすべての動植物にも当てはまることであり、あるいは使い込まれた工具や調理器具、革靴のような非生命にさえ当てはまる。

 しかし世の人々は鈍感である。
 ステレオタイプな美景にしか、美しさや調和や摂理を見いだせない。
 分かりやすくて決まりきった幸せしか自分自身に許すことができず、すぐに不幸を気取る。
 擬音語ばかりの少年漫画のように広く流通した、大味な性感しか感覚できず。
 今日も美味しく添加物にまみれた美辞麗句には酔うのである。

 では敏感なら良いのかといえば、そうとも限らない。
 自分の汗に含まれる成分で、肌にちくちくした刺激を感じたり、かぶれたりするような私は、やはりこの世界で生きるのには不向きなのではないのかと自問するのである。

 恋人が不潔な場合も、同様に僕の身体は爛れる。
 こうなると、鈍感が悪いのか、敏感が良いのか、分からなくなる。
 それでもまぁ、鈍感よりは敏感な方がよいし、不潔な恋人よりは清潔な恋人の方がよいようには思う。








// ----- >>* Escort Division *<< //


::「探偵は、そういう人の大事な秘密を絶対にもらしてはいけないのだ」
「探偵じゃなくても、もらしたら駄目だと思うよ」
「探偵じゃない人間は、そもそも秘密を知らない」




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~

引用は、
「探偵伯爵と僕 ~ His name is Earl ~」
 文頭部(p.76)文末部(p.24-25)
(著作:森 博嗣 / 発行:講談社ノベルス)
 によりました。






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[NEXUS]
~ Junction Box ~

[ Traffics ]
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[Engineer]

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  -Transistor-

[Object]
  -Night-





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[Cat-Ego-Lis]







//EOF
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//TimeLine:20160620

// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
おバカさんたちの金メッキの神様
SUBTITLE:
~ Midas. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Lead Division *<< //


::バートランド・ラッセルはこう指摘した。
「逆説的に見えるかもしれないが、精密科学はどれもみな近似に支配されている」
 広く受け入れられている科学的“証明”でさえ、つねに小さなあいまいさを含んでいる。
 このあいまいさは完全にはなくならないにせよ、小さくなることもある。しかしその一方で、結局は証明が間違っていたことが明らかになる場合もあるのだ。
 科学的証明が持つこの弱点が科学革命をもたらし、正しいと思われていた理論が別の理論に取って代わられることになる。こうしてできた新しい理論は、もとの理論を改良しただけのこともあれば、まったく逆の主張をすることもある。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 新しい会社に入社してからというもの、5:30起床、19:30帰宅が標準になった。
 ために、従前のように月曜がもっともポテンシャルが高く、金曜の夜ともなるとボロ雑巾も斯くやあらんというほどぐだぐだだ。濁点ひらがなが6文字続くなんてちょっとすごい。

 銀行の関連会社に入社したという事実をして叔母は「アジアの奇跡だ」とのたまい、妹にいたっては「かわいそう……。ここで運が尽きたね」と言い放ち、友人においては「お前は来週クビになる」と宣言し、弟子に至っては鼻で笑った(冗談だと思ったらしい)。

 驚くべきはその組織の組成であり、役職のない平社員というものが全体の1割に満たない。
 名前なしで「部長」と呼びかけると、全体の4割程度がこちらを向くかもしれないが、多分見向きもしないと思う。
 しかしまぁ、そんなことには2週間で慣れた。

 そして今では毎晩何時に寝ようとも、5時には一度目覚める体質になってしまった。
 厄介なのは、まともな夕食を食べようものなら平気で21時を回ること。
 ために「ワークアウト、ビタミン剤、豆腐、枝豆、日本酒」あるいは「ワークアウト、ビタミン剤、豆腐、玄米、煎り大豆、日本酒」「ビタミン剤、豆腐、玄米、鶏胸肉、日本酒」というような、プログラムがこなされたのち、シャワーを浴びて眠るのである。
(平日に入浴は不可能である)

 本を読んだり、TVゲームをしようものなら就寝は0時を回る。
 時間を忘れようものなら、2時近くになる。
 しかし睡眠不足を補おうと、電車に乗って眠ろうものなら、電車酔いをする。
(どういうわけかは分からないが、最近の僕は電車酔いをするのだ。それとも更年期障害だろうか)

 兎にも角にも(うさぎにもつのにも、と読む)銀行で相応の役職にいた人(僕からすれば立派なエコノミストである)たちに多く囲まれる職場であるため「OAP(オカネモチ・オートメーション・プログラム)」の構築においてその存在とそこから得られる情報は重要なものとなったのであった。

>>>

 彼らの多く(むしろほとんど)は文系である。
 なぜなら経済という現象(あるいは行為)はそもそもが人工的だから、純粋数学のような数学的(あるいはせめてもの科学的)厳密性(あるいは完全性)をそれは要さない。
 公式や変数に規定どおりの対象数値を当てはめればそれで答えが出てくるという、学校数学の延長線上のようなことをするのがエコノミストの正体である、と僕は思っているのね(口調が変)。

 理系が文系の上位互換であるならば(実際にそうだけれど)、経済的数値演算や経済的微積能力(時間による変位を解析すること)は文系でも十分に対応できるという証左(公式に数値を当てはめるだけだから)であり、同時にその限界は現状のいろいろを見るだけでも充分に理解できる。

 経済はいつまでも発展したりしないという、ごく当たり前のことを見失っていた時点で、あるいは経済という現象がこれだけ複雑化した実存世界の中で未だにコントロールできると幻想している時点で、もはやその能力の限界は明らかであり、そもそもの無理も明白である。
 にもかかわらず「経済という信仰」にすがることしか知らない者ばかりであるがゆえに、迷走は続くのだろう。

 経済に限らず、もっともらしく数字を展開して、アタマワルい人たちを煽動しようとする仕組みはどこにでも存在している。
 だからバカが増えれば彼らは得をする。
 幸い、世はバカが増え続けている。ひょっとしたら誰かが仕組んでいるのかもしれないし、仕組まなくても、自然発生的な数学的法則に基づいて、一定割合のバカが発生するのかもしれない(僕は後者だと思っている)。

 数字を展開することは、数学などではない。
 統計も、あるいは統計学も、現象を数値換算する仕組みに過ぎない。
 だから現象がドラスティックに、あるいは未知的な状況で変化するとき、統計学によって作られていた公式は、統計によって算出されていた解は、何の意味も持たなくなる。

 文系の人間達は無力で、しかし理系の人間と違って謙虚さに欠けるから(なぜなら理数を理解する人間は完全の意味を知っていて、文系の人間は完全という言葉の意味しか知らないから)自分やその理解しているものを完全なるものと勘違いして、ときに理系の人間を平気で虐げるし、理系の人間は自分の不完全性を理解しているからときに平気で虐げられてしまう。

>>>

 会社でPCを分解していたら(たまたまそういう役回りが巡ってきたのだ)他にそんなことにチャレンジした人間も、できる人間もいなかったらしく、「もしかして猫さん、理系ですか?」と尋ねられたので、まともに答えるのが面倒くさくて、つい「はい」と答えてしまった。

 実のところ僕は文系寄りである。

 けれどもどうやら(僕の周囲に対する観察の結果)絶対値的には多くの人よりは理系的傾向が強いらしく(要は、僕が理系3文系4程度の配分だったとして、多くの人は理系1文系3くらいの配分なのだろうという意味)(そもそも文系的傾向なんてものは、なかなか絶対的には評価しづらいものだとは思うが)文系的素養についても、記憶を頼りにしない能力においてはあまり負けることがないように感じている。

 以前、僕のことを「情緒的に過ぎる」と嗤った人間がいたのだけれど、確かにその人は情緒的には欠ける部分が非常に多く、つまるところ文系的素養も、理系的素養についても僕より圧倒的に劣っていたので、あれは褒め言葉だったのではないかと今は反省している。

 エコノミストの多くもこれと同じで、つまるところ理数的素養が優れておらず、もっとはっきり言うと理数的素養が劣っていて(先の例に従うならば謙虚さにも欠け)、にもかかわらず文系的素養も(歯に衣着せず申し上げるならば)たいしたことのない人間が、もっともらしく数字をいじることで、なんとなく「ほら、僕ってほら、こうね、こう、ほら、デキる感じじゃない? 感じじゃない? だからさ。ほら。こうね、ほら。この数字の意味するところはさ(クイクイ)(眼鏡を持ち上げる)……」みたいな「ほらね系」を演出しているだけなのではないだろうかと僕は思っている。

 たとえるなら、ビル・ゲイツはもれなくエコノミストかもしれないけれど、エコノミストがもれなくビル・ゲイツではないし、もれなくビル・ゲイツにはなれないし、もれなくビルゲイツのようにもなれない。というような感じだろうか。え、なに、集合論が分からない?

 いずれにしても、天に届く塔を作ったのは、間違いなく文系の人間だろう。

>>>

「PEACE Classic」なる限定品が発売されたということで、会社のそばの煙草屋でこれを買い求める。
 いくつか付録もついているが、専用缶ケース20本入り1500円という、高級品であった。
(でも、葉巻より安い)

 封を切った瞬間から、チェリー系の良い香りが漂う。
 ヴァージニア葉(おそらくかなりの高級煙草葉だ)のやわらかな甘やかさ。
 会社で一本火を着けたが、これは自宅で吸うべきシガレットだと判断した。

 最近は、シガレットを吸うときは(といっても半年にひと箱くらいしか買わないが)Peace のアロマロイヤルを買う。

 そっと火を着けて、ゆっくり(あまり高温にならないように)煙を喫むと、たいそう甘やかなよい煙である。
(そしてしっかりニコチン酔いもする)

 肺喫煙をしなくなってから、喉を痛めることがまったくない。
 これはよいことである。

>>>

 OAPの初動ルーティン(就職のことではない)はすでに僕の手を離れて稼働し始めた。
 モテと同じで、やっぱり基礎の部分は同じだった。
 そしてやはり、モテと同じように「それを何に使うのか」がもっとも重要なポイントなのだとは思う。








// ----- >>* Escort Division *<< //


::しかし、科学理論を数学理論と同じレベルで完全に証明することはできない。手に入るかぎりの証拠にもとづいて、「この理論が正しい可能性はきわめて高い」と言えるだけなのだ。いわゆる科学的証明は観察と知覚とをよりどころにしているが、そのどちらもが誤りをまぬがれず、そこから得られるものは真実の近似でしかないのである。



// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~


文頭文末の引用は、

第1章「ここで終わりにしたいと思います」(p.58)
From「フェルマーの最終定理 ~ Fermet’s Last Theorem ~」
(著作:サイモン・シン / 発行:新潮文庫)

によりました。







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[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]





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[Cat-Ego-Lies]






//EOF
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//TimeLine:20160612

// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
お酒は20歳を過ぎてから。
SUBTITLE:
~ This site recommends for adult only. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Lead Division *<< //


::現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大な努力によって全く粉砕せられている。
 世は利己、俗悪の闇に迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利のために行われている。東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜のごとく、人生の宝玉を得ようとすれどそのかいもない。この大荒廃を繕うために再び女媧を必要とする。
 われわれは大権化の出現を待つ。まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 新しい喫煙パイプを一つ購入した。
 オークション購入したものの、定価を知ったらびっくりするほど安く入手していた。
 新品同然だったので申し訳ないくらい。運が良かったのだろう。

 TORBEN DANSKのロタも同じような形状をしている(持っていないが)。
 僕が持っているのは基本的にビリヤードタイプ(形状)ばかりで、ベント型は一本だけ。

 この加賀、一見重そうだし、チャンバーからリップまでの距離も短い。
 僕のようなヘタクソでは、口の中を火傷すること間違いなしかなぁ、と思って吸ったら驚いた。
 この陽気なのに過燃焼はしないし、といって火持ちもいいし、さらには火傷もしにくい。
 熱管理がしやすいのだ。
 ボウル本体の蓄熱性が高く、シャンクとマウスピースの放熱性がそれを補うのだろう。
 ボウル下部(シャンク付け根)がいちばん熱を感じさせるのも上手くできていると思う。
 パイプを手持ちするときは必ず指が触れる部分で、加賀はここだけ極端に熱を感じさせるため、火種の位置が分かりやすいし、呼吸のコントロールの目安としても秀逸だと感じる。
 重量も下手なビリヤードより軽く感じるほどで、2000円のエステート(中古)パイプとはわけが違うな! といった感じ。
 もっともTSUGEのEsterdは2000円ほどで入手したエステート・パイプだけれど、手持ちの中では煙草の種類を選ばず一番美味しく吸えるので、単なる誇張表記ではある。
(ちなみに、このEsterdというパイプは昭和30年頃の製品らしい。僕の生まれるずっと前である)
 
 大きい気がしていたボウルの、その丸みは心地よく指になじむし、銜えた姿も特にアンバランスになることはない。
(あまり人前では吸わないが、隠れて吸うと決めているわけでもない。ただパイプを吸っていると、それだけでとにかく人目を引くのだ)

 TORBEN DANSKといえば、今通っている会社の本社の近くにパイプ煙草を取り扱っている店舗があり、そこで買ったラタキアシリア(ブレンド)がたいそう美味しい。
 シリア煙草は現在、ルートが不安定だ、なんて店主が言っていたので、早めにあるだけ買ってこようかとさえ思う。紛争やテロなんていうのは、つくづく不幸なものだと思う。

 最近は、ほぼ毎日2ボウルくらいの煙草を喫むようになった。
 先日はBPが久しぶりにやってきたので(そしてなぜか私の家に船を置いていったので)、着香系のほとんどをあげてしまった。
 今の僕が吸うのはラタキア系7割、ヴァージニア系3割なので。

 それでも在庫が増えてしまうのは、パイプ煙草のランニングコストの圧倒的な低さと、煙草葉のパッケージの魅力によるものだろう。
 パウチでも缶でも、とても魅力的なパッケージのものが多い。
 ネーミングもさまざまで、ダイレクトなものから数字のついた機械的なもの、詩的なものまで多彩である。

 シガレットスモーカの人のうちニコチン摂取が好きな人は、(僕の場合)パイプは口腔喫煙であり、肺喫煙でないと知ると「吸った気がしないんじゃない?」なんて言われたりするものの、パイプ喫煙と同じくらいの時間、通しでシガレットを数本吸ったのと同じくらいにはニコチンが摂取できる気がするので、僕は時々ニコチン酔いを起こす。
(だいたい1時間近くは吸い続けている)
 もっとも、心地よい程度であって、吐き気やめまいに襲われるわけではない。僕は10代の坊やではないので。

>>>

 今の僕は愛煙家である。煙草が好きだ。
 パイプ煙草を知らなかったら、煙草の本当の味も香りも知らずに終わっただろうし、愛煙家を標榜することもなかった。
(そうなのだ、煙草なんて嫌いだったし、愛煙家も嫌いだった)

 パイプ煙草は不思議なことにシガレットでいう吸い殻にあたるところの灰が、まったく臭くない。
 部屋の中に放置しておいても、シガレットのようなイヤなタバコ臭さが感じられないのだ。
 喫んでいて、味も香りもシガレットの比ではないと感じられるし、着香系ともなれば、煙草嫌いの人でさえその香りを楽しんでくれることもある。

 煙草は(シガレットの煙を嗅いでいる限りはとてもそんな風には思えないが、元を正せば)香の一種であり、ルーツをたどればインディアンの神聖な儀式に使われるものだ。
「大いなる神秘」(あるいは「偉大なる祖父」「神霊」「精霊」などとも言われる)に捧げる煙草の煙は、それら神聖なる存在と、自分たちが繋がるためになくてはならないものだったと言われている。

 なるほど美味しい煙草を喫んでいると、それは確かに信じられる。
 そのとおりのように思えるのだ。

 唯物的に偏りすぎて歪んだ価値観の人を多く見てきたし(引力偏差でもあるのだろうか)、この国のこの時代に生きている以上、これからも見ることになると思う。なにより僕自身、何らかのおかしな価値観に毒されていないとは誰にも言えない。
 それにそもそも、自分以外の誰かのの価値観がおかしいだなんて、一体誰に言えるのだろう(言う人は多いが)。

 たった3gほどの葉が灰に変わるまでに2時間近くもかかった。

>>>

 酒も煙草も男も女もそうだけれど、酔えないものはつまらないものがほとんどだ。
 ほかには、夢、指導者、理想や思想、などもそうだろう。

 もちろん酔えればなんでもいい、というわけではない。
 それに、酔いというのは少なからず毒性を持つものでもある。
 そしていずれも、熱を感じさせる。

 クールであることが時代の潮流であるならば、それはそれで結構。
 ただ副作用であるかのように、隠してくすぶった熱を、異様なカタチで放射する人たちのニュースが後を絶たないのはなぜだろう。
 毒もなく健全に生きるだけの機械になっても、何のおもしろみがあろうかと、誰もが心の中では思っているのではないだろうか。

 せめて自分くらいは、熱を隠し持って、誰かを酔わせられるようでありたいとは、いつも思っている。

 とはいえ下戸ならまだ可愛げもあるが、呑まれて他人に迷惑を掛けるガキなどはつくづく御免蒙りたい。









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::ほんとうの茶人チャールズ・ラムは、「ひそかに善を行って偶然にこれが現れることが何よりの愉快である。」というところに茶道の真髄を伝えている。というわけは、茶道は美を見出さんがために美を隠す術であり、現すことをはばかるようなものをほのめかす術である。この道はおのれに向かって、落ち着いてしかし充分に笑うけだかい奥義である。従ってヒューマーそのものであり、悟りの微笑である。すべて真に茶を解する人はこの意味において茶人と言ってもよかろう。たとえばサッカレー、それからシェイクスピアはもちろん、文芸廃頽期の詩人もまた、(と言っても、いずれの時か廃頽期でなかろう)物質主義に対する反抗のあまりいくらか茶道の思想を受け入れた。たぶん今日においてもこの「不完全」を真摯に静観してこそ、東西相会して互いに慰めることができるであろう。




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[出典]
~ List of Cite ~
引用は、
「第一章 人情の碗」 文頭部 (p.30-31) 文末部(p.29-30)

From
「茶の本 ~ THE BOOK OF TEA ~」
(著作:岡倉 覚三 / 訳:岡村 博 / 発行:岩波文庫)
 によりました。







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~ Junction Box ~

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//EOF
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//TimeLine:20160605

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TITLE:
「今に生きる」はいいけれど。
SUBTITLE:
~ Was hate to hallucination hidden? ~
Written by 黒猫


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::「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。これもまた禅を通じて道教の理想の現れた結果である。儒教の根深い両元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。
 実際、もしシナ古代の青銅器具または唐代および奈良時代の宗教的美術品を研究してみれば均斉を得るために不断の努力をしたことが認められるであろう。わが国の古典的屋内装飾はその配合が全く均斉を保っていた。
 しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。人生と芸術の力強いところはその発達の可能性に存した。
 茶室においては、自己に関連して心の中に全効果を完成することが客各自に任されている。禅の考え方が世間一般の思考形式となって以来、極東の美術は均斉ということは完成を表すのみならず重複を表すものとしてことさらに避けていた。意匠の均等は想像の清新を全く破壊するものと考えられていた。このゆえに人物よりも山水花鳥を画題として好んで用いるようになった。人物は見る人みずからの姿として現れているのであるから。
 実際われわれは往々あまりに自己をあらわし過ぎて困る、そしてわれわれは虚栄心があるにもかかわらず自愛さえも単調になりがちである。
 茶室においては重複の恐れが絶えずある。室の装飾に用いる種々な物は色彩意匠の重複しないように選ばなければならぬ。生花があれば草花の絵は許されぬ。丸い釜を用いれば水さしは角張っていなければならぬ。黒釉薬(くろうわぐすり)の茶わんは黒塗りの茶入れとともに用いてはならぬ。香炉や花瓶を床の間にすえるにも、その場所を二等分してはならないから、ちょうどそのまん中に置かぬように注意せねばならぬ。少しでも室内の単調の気味を破るために、床の間の柱は他の柱とは異なった材木を用いねばならぬ。




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//[Body]
 久しぶりにスーツを買った。
 1年以上スーツに無縁の仕事をしていたので、最低でも2年は買っていなかったように思う。

 ついでに靴も買った。
 10年以上(直しながら)履いている一足しか革靴の手持ちがなくなってしまったため、予備をそろえるのは急務だったのではある。
(ちなみに僕は、スーツも2着、靴も2足ずつ買う。これは普通のことだと思うけれど、僕以外の人がどうだかは知らない)

 どういうわけか、日本の靴は僕好みのデザインのものがほとんどなくて、目につくのはイタリアメーカばかり。
 微妙なラインだけれど、形が全然違うと僕は感じる。
 シャープなだけのフォルムの靴は好かないし、鈍くさい印象にしかなれないソフトフォルムも嫌いなのだが、どういうわけか日本の有名メーカはいずれかの分かりやすいデザインがほとんどに見える。
 そういえば僕の乗っている自転車もイタリアメーカだったと思う(何か関連があるのだろうか)。

 僕が好むのは革底の製品だけれど、最近、革底の靴を探すのはむつかしい。
 アメ底のものが本当に多くて、これには辟易している。
 今回はその点はすっかり諦めていて、最悪、リストアを頼むときに革底にしてもらえばよいと考えることにして、それでも作りのよいものを選んだ。

 こんなふうに書いていると、さぞや猫氏という人間はファッションにうるさい人間なのだと誤解されることがある。
 が、実際はまったくそんなところからはかけ離れていて、ファッションを楽しむなんて感覚はあまりない。
 自分という存在の外観が他人様の不快にならないようにと考えるのがせいぜいだし、自分のスタイル(フォルムではなくフィロソフィ)を外観で表現しようとも考えていない。
 外観というのは、僕にとっては他者に見せるためのものではなく、むしろ隠すべきものを隠すための物だ。
 たとえば僕は様々な理由から肌を隠す(以前に述べたとおり宗教的な理由ではなく、単なる配慮の部分も大きい)。
 性格についても、本来の破天荒で不誠実で非常識で不真面目な部分を隠すべく常識的なフリをしているし、仕事では昼行灯につとめて役に立たない無能なフリを極力心がけている。
 実物よりも良く見せるよりは悪く見せる方が、有るものを無いものと感じさせる方が、長期的には戦略上有利であり、逆(すなわち自らを奮い立て、過剰に飾り立てる)よりもはるかに上品で美しいと僕は感じる。特に男性であればなおさらだろう。

 男というものは、特に若いうちは図体も大きく、動きも俊敏で、精神的にも活発で、全体に力が溢れていて、怜悧で機転も利く。
 もちろん例外も多数存在し、すべてを兼ね備える逸材は少ないかもしれないが、男性という性差がわれわれオトコにもたらしたものは、つまるところ単純な暴力と死だ。
(時代の変化に伴って、このあたりの性差も本当に混交している気はするが、少なくとも他の動物を見るかぎりは分かるだろう)

 そうしたすべての力をありのまま発露することをこそ良しとする向きもあるとは思う。
 しかし多くの力は、暴力と死に向かっている。
 仮に一時的にでも生産や創造に使うことはできても、それらも生を受けたがために破壊と死を迎える。
 これは避けられないことで、永続的かつ恒久的な生産や誕生は本来的に不可能だ。
 動物的であればあるほど、文明的であればあるほど、ためにそれらは隠されてしかるべき特質であり、そこに良さを感じるのは単なる劣情だと僕は思う。

 劣情が悪いと言っているわけではない。
 暴力と死の雰囲気を発散せずにはいられないタイプの「強い男」に魅力を感じる女がいたとして、それは不思議ではないし、動物的で本来的な意味で女だと感じられるし、あるいは女として魅力的でさえあるだろう。
 ただただ、それは動物的な劣情ではある。

 劣情は劣情で悪くはない。
 同じように若いことは若いことで悪くはない。強いことは強いことで悪くはない。
 しかし、それだけが褒め称えられるべき人間の特質だというわけではないし、それらに適合しないもの、つまりは力の衰えたものや、もともと力の弱いものを蔑視し、排除し、そこから搾取するような社会を形成してはいけないと思う(そして同時に逆搾取が行われてもいけない)。
 文明的であり、あるいは知性的であり、あるいは生産的であり、そして永続的であるために必要なことは、つまりそうした相反するものを適切にパッケージしてコントロールできる有能な個体をいくつ内包できるか、ではないだろうか。

 マッチョなものがマッチョなだけでは生きられないくらいには人口が増えてしまった。
 力を使って短期的に物事を集約させてしまったら、長期的に存続しうるはずのシステムであっても、その寿命は短くなることが自明になっている。
 どこかの国の大統領候補に、ずいぶんとマッチョな男が登場していて面白いけれど、見るからに陰陽のバランスを欠いた(つまりは適切なコントロールのできない)、知的とはほど遠い人物に見える。
(それともそれこそが狙いだろうか)

 力は偉大だ。
 しかし憧憬した末にそれを手に入れ、その猛威を振るって悦に入ることの恐ろしさを知らない者がそれをしたらどうなるだろう。

 若さも、強さも、(あるいはそれらを含めたすべての)力も、それはそれは恐ろしいものだと僕には思えるのだ。子どもの頃からずっと。

 もちろん、いずれは僕の肉体も精神も衰え、奮い立て飾り立てなければ「いっぱし」にさえ見えなくなるときが遠からず来るだろう。
 つまるところ自らを奮い立て、飾り立ててまで「いっぱし」のフリをするのはそれからでいい。もっとあとでいいのだ。

 ……なんでこんな真面目な話になってしまったのだろう。

>>>

 会社でたびたび、あるいはスーツを見立てているときに店員さんから「脚が長い」「背が高い」「顔が小さい」と言われた。
 そうした外見の評価を聞いて、特に嬉しいと感じたことはない。
 これからも多分ないだろう。

 自分で見ても確認できるし、それは単なる外形であって、僕のソフトウェアの機能にはあまり関係がなく、影響もないからだ。
(転びやすいとか、蜘蛛の巣にかかりやすいとか、そういう身体上の不利な点も僕は熟知しているから、外形のアドバンテージに対する見積りは低い)

 スーツでも靴でもそうだけれど、大事なのは外観よりも素材だ。
 素材を短命に終わらせないためにはメインテナンスが必須である。

 今そこにあるカタチしか見えない連中というのは、どうも中身を評価できず、長期的変化を制御できないバカのように感じるのだがどうだろう。

>>>

 朝起きて、洗濯をし、これを書き、2年ほど破れたまま放置していた網戸を張り替え、昼過ぎに買い物。
 帰宅して料理の下ごしらえをし、靴を磨く。
 買ったばかりの靴は底の縫い糸にワックスを大量に塗りつけないといけない。
 それから買ってきた靴の一つはライトレッドだったので、黒いクリームで茶色に近づけ、靴紐をレッドからオリーブに変えた。とても良い感じである。
 知っている人もいるとは思うが、僕は靴の手入れが好きである。








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::芸術と同じく、茶にもその時代と流派とがある。茶の進化は概略三大時期に分けられる、煎茶、抹茶(ひきちゃ)および淹茶(だしちゃ)すなわちこれである。われわれ現代人はその最後の流派に属している。
 これら茶のいろいろな味わい方は、その流行した当時の時代精神を表している。と言うのは、人生は我々の内心の表現であり、知らず知らずの行動はわれわれの内心の絶えざる発露であるから。
 孔子いわく「人いずくんぞ廋(かく)さんや、人いずくんぞ廋さんや」と。
 たぶん我々は隠すべき偉大なものが非常に少ないからであろう、些事に自己を顕すことが多すぎて困る。日々起こる小事件も、哲学、詩歌の高翔(こうしょう)と同じく人種的理想の評論である。




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭の引用は
「第四章 茶室」(p.64-65)

文末の引用は、
「第二章 茶の諸流」(p.32-33)

ともに
「茶の本」(著作:岡倉 覚三 / 訳:岡村 博 / 発行:岩波文庫)
によりました。

 なお引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。





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[Cat-Ego-Lies]







//EOF
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//TimeLine:20160528

// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
メシア・コンプレクスの周延がもたらす終演と終焉
SUBTITLE:
~ The end of the distribution. ~
Written by 青猫α


// ----- >>* Lead Division *<< //


::ケンブリッジ大学教授で地球科学者のハンス・ヘンリック・ステルムは、いろいろな川の実際の長さと、水源から河口までの直線距離との比を求めてみた。
 その比は川ごとに異なっていたけれども、平均すると3よりも少し大きい値になることが分かった。
 ということは、ある川の実際の長さは、直線距離のおおよそ三倍になるということだ。
 実をいうと、この比はほぼ3.14なのである。これはπ、すなわち円周と直径の比の値に近い。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 僕は善良なタイプの人間で、当然ながらかなり親切で、すべからく困った人を放っておけないという病気を抱えていたことがある。
 先日も目の不自由な人に席を譲り(現在の僕は90分ほどの電車通勤をしている)、ホームから別フロアの改札まで誘導した。

>>>

 過ぎたるは及ばざるがごとし、などとわざわざ言うまでもなく、利他的思考や行動も、それが自己承認欲求を満たすためのエサや燃料であるならば、結局のところ他者を喰いモノにしているという点において下劣であり、弱者たる他者に依存しているという点において脆弱であり、供給が絶たれたら禁断症状まで出るともなれば醜悪である。
 もちろん何もせず批判するだけの聡明な傍観者よりは、中毒であろうとナルシスティックであろうと善行をする者の方が全体の中では有益であり、賞賛されてしかるべきではある。
 自分の利他的欲求が、利己的(かつ低俗な)欲求の上に成り立っているのではないかと躊躇し何もできずに終わるよりは、自身のメシア・コンプレクスになど気づきもせずに行動できる方が存在として有益である。
 まして単なる口ばかりの批判者になったり、利他の皮をかぶった利己であることの醜悪さを恐れ、自明の利己で自身を覆って身を守り、利己を燃料に走り続けるともなれば、愚鈍を通り越して滑稽ですらあるし、非情どころか幼稚でしかない。

 それでも、メシア・コンプレクスは少々恐ろしい病気である。
 治るまで、罹患者は不幸のループに苦しむだろう。

 理由は先に述べたとおり。
 不幸な他者をエサにすることでしか自己承認できない者は、不幸な他者を探し続けることになる。探しても見つからなければ(ちょっとしたサスペンス・ホラーになってしまうが)作るしかない。
 不幸があり、それを解決すべく助力する自分に酔いしれることは、結局のところ不幸なのだ。
 不幸な者同士が傷を舐め合う仕組みを、少々複雑にしたものでしかないのだ。

 そしてその不幸は、当然ながら罹患者当人を苦しめるだけにはとどまらない。
 救われるはずだった(あるいは救われたはずだった)他者は、やがてただの残滓として、その存在価値を失う。
 なぜといって、幸せになった他者など、救う意味がないからだ。
 救う理由のない他者など、自分の存在(の価値)を高からしめる意味のない存在で、結果として自らの存在の価値を見失ったメサイアは、己の無価値さに退屈し、救ったはずの他者を疎んじることこそないにせよ、より自己達成感に有益な(つまりはより不幸な)他者というエサが見つかれば(そしてそれは必ず探され、必ず見つかる)そちら目がけて突き進んでゆくだろう。

 いやなに、他人を救うな、と言いたいのではない。
 他人の不幸から目を背けよ、と言いたいのではない。
 ただ、他人をエサにするなよ、と思うのである。
 善行は、たしかに人からの賞賛を受けることもあるだろうとは思う。
 賞賛を受けるための善行なのか、ということだ。
 他者だけではなく、自分が自分を賞賛したりはしていないだろうか。

 誰も見ていなくても、自分は見ている。相手も見ている。
 自分が自分を賞賛するからこそ、自分で自分を賞賛できるからこそ、そしてその賞賛は誰の目にも見えないからこそ、そこで行われる善行は、その善行そのものより以上の価値を、他ならぬ当人の手で与えられる可能性がある。
 それがどれほど醜悪で、どれほど恐ろしいものか、分かるだろうか。

 恐怖政治を行う独裁者が、自分自身に平和賞を贈るのに等しい狂気が、そこには可能性として潜在する。

 もちろんその可能性は低いかもしれない。
 しかし、高いかもしれない。
 誰も自分の善行の動機をそのつど詳しく分析したりはしないものだし、仮に分析してもそれを公開したりはしないものだからだ。
 潜在された情報は、統計を取ることもできない。
 だからその善行が、はたして純粋な共同体本能としての善意によって生まれたものなのか、純粋な個体欲求を満たすための善意として生まれたものなのか、客観的には分からない。
 当人にだって、分からないことがほとんどなのだから。

>>>

 今の僕は他者の評価をあまり気にしない。
 そして同じように、今では自己評価もあまり気にしない。

 評価ありきの行動の、それらすべてが間違っているというつもりは毛頭ない(アデラーンースー♪)(古いCMしか知らない者がこれを書いている)が、不純である可能性を常にどこかにはらんでいる。
 逡巡ののち人に親切にするたび、僕は自分を疑う。自分を恐れる。
 自分の中に、変な穴が口を開けていて、エサを求めているのではないかと。

 そして礼を言われるたび自身を恥じ入り、自分の行動を疑問に思う。
 礼を言われるほどのことを、果たして自分はしたのだろうかと。
 そして何より、いったい善行とは何なのだろうかと。

>>>

 悪行の数々、善行のいくつかが、今日もメディアを賑わせるだろう。
 善行は賞賛されてしかるべきだし、悪行は罰せられてしかるべきなのだろう。
 共同体本能の具現として、それは正しいありようだ。

 しかしこの世のほとんどすべての存在は、より小さな組織の集合体である。
 そしてそうした要素の一部が間違っていたがために、結果的に大きな過ちが生まれないとは言いきれないのではないだろうか。

 そういう意味で、善行の陰にはささやかでも下心があってしかるべきであり、あるいはそうあって欲しいと思うし、それを可能な限り誇張して公開するくらいの勢いを持っていたいとは思う。






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::πはもともと円の幾何学に由来する数だが、これが科学研究の様々な局面に繰り返し顔を出す。川の長さの比の場合であれば、πが個々に登場したのは、カオスと秩序とのせめぎ合いの結果なのである。
 アインシュタインが最初に言い出したことだが、川はつねに曲がろうとする傾向をもっている。
 というのは、少しでもカーブがあれば、そのカーブの外側では流れが速くなって浸食が進み、カーブはますます急になる。そしてカーブが急になれば、外側の流れはますます速くなる。こうして浸食が進めば進むほど、川はどんどん曲がるという循環が起こる。
 しかしその一方で、カオスを切り詰めようとする自然のプロセスも存在する。カーブが急になるということは、元の流れに対して折り返すことだから、そこにバイパスができやすくなる。バイパスができれば川はまっすぐになり、湾曲した部分は三日月湖となって川のわきに残される。
 対立するこれら二つの要因がバランスをとることによって、川の実際の長さと、水源から河口までの直線距離との比の平均値がπに近づくのである。
 とくにπに近くなるのは、シベリアのツンドラ地帯やブラジルのような、非常になだらかな平原を流れる川の場合だ。




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[出典]
~ List of Cite ~

引用は、

第1章「ここで終わりにしたいと思います」
From「フェルマーの最終定理 ~ Fermet’s Last Theorem ~」(p.50-52)
(著作:サイモン・シン / 発行:新潮文庫)

によりました。






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