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//TimeLine:20160528

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TITLE:
メシア・コンプレクスの周延がもたらす終演と終焉
SUBTITLE:
~ The end of the distribution. ~
Written by 青猫α


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::ケンブリッジ大学教授で地球科学者のハンス・ヘンリック・ステルムは、いろいろな川の実際の長さと、水源から河口までの直線距離との比を求めてみた。
 その比は川ごとに異なっていたけれども、平均すると3よりも少し大きい値になることが分かった。
 ということは、ある川の実際の長さは、直線距離のおおよそ三倍になるということだ。
 実をいうと、この比はほぼ3.14なのである。これはπ、すなわち円周と直径の比の値に近い。




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//[Body]
 僕は善良なタイプの人間で、当然ながらかなり親切で、すべからく困った人を放っておけないという病気を抱えていたことがある。
 先日も目の不自由な人に席を譲り(現在の僕は90分ほどの電車通勤をしている)、ホームから別フロアの改札まで誘導した。

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 過ぎたるは及ばざるがごとし、などとわざわざ言うまでもなく、利他的思考や行動も、それが自己承認欲求を満たすためのエサや燃料であるならば、結局のところ他者を喰いモノにしているという点において下劣であり、弱者たる他者に依存しているという点において脆弱であり、供給が絶たれたら禁断症状まで出るともなれば醜悪である。
 もちろん何もせず批判するだけの聡明な傍観者よりは、中毒であろうとナルシスティックであろうと善行をする者の方が全体の中では有益であり、賞賛されてしかるべきではある。
 自分の利他的欲求が、利己的(かつ低俗な)欲求の上に成り立っているのではないかと躊躇し何もできずに終わるよりは、自身のメシア・コンプレクスになど気づきもせずに行動できる方が存在として有益である。
 まして単なる口ばかりの批判者になったり、利他の皮をかぶった利己であることの醜悪さを恐れ、自明の利己で自身を覆って身を守り、利己を燃料に走り続けるともなれば、愚鈍を通り越して滑稽ですらあるし、非情どころか幼稚でしかない。

 それでも、メシア・コンプレクスは少々恐ろしい病気である。
 治るまで、罹患者は不幸のループに苦しむだろう。

 理由は先に述べたとおり。
 不幸な他者をエサにすることでしか自己承認できない者は、不幸な他者を探し続けることになる。探しても見つからなければ(ちょっとしたサスペンス・ホラーになってしまうが)作るしかない。
 不幸があり、それを解決すべく助力する自分に酔いしれることは、結局のところ不幸なのだ。
 不幸な者同士が傷を舐め合う仕組みを、少々複雑にしたものでしかないのだ。

 そしてその不幸は、当然ながら罹患者当人を苦しめるだけにはとどまらない。
 救われるはずだった(あるいは救われたはずだった)他者は、やがてただの残滓として、その存在価値を失う。
 なぜといって、幸せになった他者など、救う意味がないからだ。
 救う理由のない他者など、自分の存在(の価値)を高からしめる意味のない存在で、結果として自らの存在の価値を見失ったメサイアは、己の無価値さに退屈し、救ったはずの他者を疎んじることこそないにせよ、より自己達成感に有益な(つまりはより不幸な)他者というエサが見つかれば(そしてそれは必ず探され、必ず見つかる)そちら目がけて突き進んでゆくだろう。

 いやなに、他人を救うな、と言いたいのではない。
 他人の不幸から目を背けよ、と言いたいのではない。
 ただ、他人をエサにするなよ、と思うのである。
 善行は、たしかに人からの賞賛を受けることもあるだろうとは思う。
 賞賛を受けるための善行なのか、ということだ。
 他者だけではなく、自分が自分を賞賛したりはしていないだろうか。

 誰も見ていなくても、自分は見ている。相手も見ている。
 自分が自分を賞賛するからこそ、自分で自分を賞賛できるからこそ、そしてその賞賛は誰の目にも見えないからこそ、そこで行われる善行は、その善行そのものより以上の価値を、他ならぬ当人の手で与えられる可能性がある。
 それがどれほど醜悪で、どれほど恐ろしいものか、分かるだろうか。

 恐怖政治を行う独裁者が、自分自身に平和賞を贈るのに等しい狂気が、そこには可能性として潜在する。

 もちろんその可能性は低いかもしれない。
 しかし、高いかもしれない。
 誰も自分の善行の動機をそのつど詳しく分析したりはしないものだし、仮に分析してもそれを公開したりはしないものだからだ。
 潜在された情報は、統計を取ることもできない。
 だからその善行が、はたして純粋な共同体本能としての善意によって生まれたものなのか、純粋な個体欲求を満たすための善意として生まれたものなのか、客観的には分からない。
 当人にだって、分からないことがほとんどなのだから。

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 今の僕は他者の評価をあまり気にしない。
 そして同じように、今では自己評価もあまり気にしない。

 評価ありきの行動の、それらすべてが間違っているというつもりは毛頭ない(アデラーンースー♪)(古いCMしか知らない者がこれを書いている)が、不純である可能性を常にどこかにはらんでいる。
 逡巡ののち人に親切にするたび、僕は自分を疑う。自分を恐れる。
 自分の中に、変な穴が口を開けていて、エサを求めているのではないかと。

 そして礼を言われるたび自身を恥じ入り、自分の行動を疑問に思う。
 礼を言われるほどのことを、果たして自分はしたのだろうかと。
 そして何より、いったい善行とは何なのだろうかと。

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 悪行の数々、善行のいくつかが、今日もメディアを賑わせるだろう。
 善行は賞賛されてしかるべきだし、悪行は罰せられてしかるべきなのだろう。
 共同体本能の具現として、それは正しいありようだ。

 しかしこの世のほとんどすべての存在は、より小さな組織の集合体である。
 そしてそうした要素の一部が間違っていたがために、結果的に大きな過ちが生まれないとは言いきれないのではないだろうか。

 そういう意味で、善行の陰にはささやかでも下心があってしかるべきであり、あるいはそうあって欲しいと思うし、それを可能な限り誇張して公開するくらいの勢いを持っていたいとは思う。






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::πはもともと円の幾何学に由来する数だが、これが科学研究の様々な局面に繰り返し顔を出す。川の長さの比の場合であれば、πが個々に登場したのは、カオスと秩序とのせめぎ合いの結果なのである。
 アインシュタインが最初に言い出したことだが、川はつねに曲がろうとする傾向をもっている。
 というのは、少しでもカーブがあれば、そのカーブの外側では流れが速くなって浸食が進み、カーブはますます急になる。そしてカーブが急になれば、外側の流れはますます速くなる。こうして浸食が進めば進むほど、川はどんどん曲がるという循環が起こる。
 しかしその一方で、カオスを切り詰めようとする自然のプロセスも存在する。カーブが急になるということは、元の流れに対して折り返すことだから、そこにバイパスができやすくなる。バイパスができれば川はまっすぐになり、湾曲した部分は三日月湖となって川のわきに残される。
 対立するこれら二つの要因がバランスをとることによって、川の実際の長さと、水源から河口までの直線距離との比の平均値がπに近づくのである。
 とくにπに近くなるのは、シベリアのツンドラ地帯やブラジルのような、非常になだらかな平原を流れる川の場合だ。




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[出典]
~ List of Cite ~

引用は、

第1章「ここで終わりにしたいと思います」
From「フェルマーの最終定理 ~ Fermet’s Last Theorem ~」(p.50-52)
(著作:サイモン・シン / 発行:新潮文庫)

によりました。






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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Human-





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[Cat-Ego-Lies]






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