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//TimeLine:20160710

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TITLE:
非線形の悪夢の向こうから。
SUBTITLE:
~ Nonlinear Nightmare. ~
Written by BlueCat


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::さて,微分とは簡単にいえば,部分のことである.一方,積分とは部分を足し合わせた全体のことである.ただし,である.ここで注意してほしい.微分と積分は「動作の結果」をさしているのである.
 では,動作とは何か? それは「微分する」という動作,「積分する」という動作のことである.「微分する」とは部分に切り分けるという動作をさし,「積分する」とは切り分けた部分を積み重ねるという動作をさしている.「微分」と「積分」は,こういう動作の結果として生まれるものなのである.微妙な違いだが,動作とその結果を混同しないように注意してほしい.




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//[Body]
 ゆるやかな夏。
 日々は慌ただしく、けれども穏やかに過ぎる。
 何もかもを自分の手だけで決めることのできる喜びというのを僕は知っている。
 目覚めることも眠ることも、食べることも生きることも。そして死ぬことも。

 他人がいるとこういうわけにはいかない。
 つまるところそうした自由こそが、孤独の最大の価値だといえる。
 もちろん自由には相応の制約があり、制約とは時に不自由そのものではあるのだけれど、そうした相反するパッケージを選択して入手し、あるいは作りだし、あるいは構築し、管理しながら運用し、メインテナンスしながら楽しむというのは、それこそが自由の証だと思う。

 なぜか身体がひどく疲れていて9時頃まで眠っていた。
 最近は日の出る時間には目が覚めることがほとんどで、数年前から軽い睡眠障害にもなっていたから、明るくなっても眠っていられるのは、回復の兆しだろうと考えている。

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「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉もそうだし「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉もそうだけれど、僕らの日常は、非線形特性のものがほとんどで、しかし多くの人は(おそらく)限定的な視野でしか思考できない(あるいは単にする意思を持たない)が故に、ものごとを線形的に単純化して記憶し、それだけをもって断定的に判断し、処理しようとする。

 他に「喉元過ぎれば熱さを忘れる」や「昨日の敵は今日の友」も同様。
(数学的な意味において)極限的に単純化された時空的(あるいは感覚的)領域においては、すべては直線的に変化し、推移し、それによって入り口と出口は閉ざされ、現状の把握は容易になり、未来の予測もまた確固としたものに単純化される。
 この「単純化された把握と予測」によって、多くの人は安心する。
 現状が理解可能なものであり、また予測可能であるという認識(あるいは気持ち)は、そのままそれらを自分の意思によって制御可能であるという認識(あるいは妄想)をもたらし、不確定な要素が(少なくとも自身の認識テーブルの上からは)なくなったと感じる(あるいは錯覚する)ことができるからである。

 しかしながら事象は(便宜上そう仕向けた場合を除いて)単純化などされることはないし、予定調和的に直線の(つまりは線形的な)推移をするわけでもない。
 自分自身の心理や身体特性などを比較的長期にわたって観察すれば、そんなことは自明のはずだ。
 しかし人間は、安心のために単純化し、正当化のために妄想し、予定調和のために排斥する。
 それが制御であり、それが安定だと信じる。
(バブルを含めた経済や政治の話をしているのではないけれど、理解の助けになるならばそう思ってもらっても構わない)

 国語世界において、そうした格言やことわざが長く生き残った理由は、単純にそれが「多くの事象に適合する公理」として理解されたからだろう。
(諸行無常という言葉は、その言葉単体を考えるならば普遍性を手に入れ、逆説的に無常ではないのだけれど、不思議とその言葉自体を矛盾させたりはしない)
 にもかかわらずその非線形モデルは、それの扱う領域があまりに多岐にわたる(あるいはそうなりうる)ために細分化されず、一般解から展開して特殊解を導く手法も公開されず、それゆえに汎用性があだとなって普遍化されるに留まってしまう。応用も、個別化も、特化もされないままで形骸化してしまう。

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「モテであるためにはモテである必要などない。オナゴも必要ない」という矛盾した名言を残したのは青猫氏である。
 なるほど「ガールなくしてモテは成り立たない」という考え方も決して悪くはないと思う。

 しかし刀を持たない武士は武士ではないのだろうか。
 白衣を着なければ科学者にはなれないのだろうか。
 しかめ面をしておけば誰しも思想家になれるのだろうか。
 哲学者は冗句を言わないものだろうか。
 三角耳と尻尾がなければ猫ではないのだろうか。

 すなわちお金を持たないオカネモチは存在しない(かもしれない)が、お金を持たないリッチさは存在するし、お金を持たない名士もまた存在することになり、オナゴをはべらせなくても恋人が27人くらいいればモテになることは容易いという図式が成り立つ。

 大事なことは自己変容の能力であり、その変容を自身に許容する狡猾さ(あるいは寛容さや謙虚さや柔軟さ)であったり、変容を成し遂げる的確さ(あるいは観察力や無感覚さ)だろう。
 たとえばモテたいと思う人やオカネモチになりたいと願う人、あるいは単純に誰か(もしくはすべての人)に愛されたいと考えている人は少なからずいるけれど、そうした人たちがそうなれないのは、単に「そうではないから」という単純な解答が導かれる。

 つまり「モテたい」という人が「モテない」のは、その人が「モテではない」から。
「愛されたい」という人が「愛されない」のは、その人が「愛されるに値しない」から。
「リッチになりたい」という人が「リッチになれない」のは、その人が「リッチではない」から。
「オカネモチになりたい」人が「オカネモチになれない」のは、その人が「オカネモチではない」から。

 この高低差は、本質的になだらかに推移するようなものではなく、絶対的な絶壁として、およそ直角に(場合によっては直角よりも負の角度で)、しかも人によってはかなり高い位置にそびえ立っている。
 本質的に「徐々にモテる」なんてことはないし、「だんだん武士になる」ということもないし、「少しずつ愛されるキャラになる」なんてこともないから、「着々とリッチになる」こともない。

 当然「次第にすべてが猫になる」なんてこともない。
 かろうじて猫ランジェリィなどによって猫化することはできると思うし、猫耳や尻尾的な something を装着する(装着する!)ことによって、そうした少しずつの変容、可逆的な変化を具象化することは可能だと思うけれど、それは「猫の本質」そのものにおいてはたいして関係がない状況だという冷静な気持ちを、ベッドの上でも、また猫砂の上でも忘れないでおいて頂きたい。

 とにかく「Aになりたい NotA」と「Aである」の両者は All or Nothing な、絶対的な崖によって分断されている。
 ポテンシャル的に高い方から低い方を眺望することはできるだろうけれど、逆はほとんど不可能だ。
 結果として「NotA」群は、そのほとんどが「A」群に対する憧れや羨望、妬み憎しみを抱え、それがゆえに対象を理解できないまま、その原理を知る事もなく一生を終えるのである(言い切った)。

 原理を知る上で大事なことは、それを実際に体験することである。
「百聞は一見にしかず」ともいうではないか(ちなみにこれも、非線形モデル)。
 けれど、体験しようにもありようを知らないことがほとんどで、なおかつ無駄な自意識が邪魔をして、たいていは「それ」をできない。
 そのくらい「それ」を自然にすることはむつかしいのだろうか。
 それとも「それ」をすることを何らかの要素が邪魔をしているのだろうか。
 たとえば、羨望や妬みが根底にあるがゆえに。
 あるいは「自分はこういうものだ」という確固たるプライドに邪魔をされるが故に。

 そして恐ろしいことに、人間は、年々齢を重ねるごと、自分を確固たるものとして硬化させてゆく。
 まるで身体の節々や血管や、ときにはその脳が物理的な硬化を起こすのと同調するように。

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 人が社会を構成しているとして、心というものがその個々人に備わっているのだとするならば、社会は人の心によって構成されているといえるだろう。
 心というものに関しては、人文的なものの多くがそれを非線形的なものであると断定している。
 にもかかわらず人間はその浅はかな気持ちの平安のために、まやかしの安定と直線的な未来を求める。
 そしてあたかも自分自身が直線的なものであると錯覚し、直線的なものを尊ぼうとする。
 個々人が社会や未来が直線的であれと願うように、社会もまた個々人に直線であることを望むのだろう。

 しかしそんなものは現実世界にはない。
 二点を通過して無限に続く直線などというものは、概念の世界にしか存在しない。
 現実世界のどこにも、ない。

 曲がりくねって、もつれて、絡まり、渦巻いたものが、まるで猥雑な記号のように点在している。
 直線的な雛型から生まれたネズミたちは、今日も直線の夢を見て、車輪を真っ直ぐに走り続ける。
 o地点を時速xで出発した彼らも、いずれは止まる。
 生命活動という速度はいつか0になる。
 加速度はプラスからマイナスに転じ、そしてそれさえ0に帰する。

 車輪の内側をひた走る彼らは、いったいどこへ行くつもりだろう。
 どこに行けるのだろう。

 そしてまた僕は、いったいどこにいるのだろう。
 どこに行くのだろう。








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::ところで,注意深い読者の人は気づいたかも知れないが,「積分する」という動作は,「微分する」という動作の上に成り立つ動作である.
「微分する」という動作があって初めて,「積分する」という動作ができるのである.
 なぜか? それは人間は全体を全体のままで理解できないからである.人間が物事の全体を理解するには,まず全体を細かな部分に切り分けて,その切り分けた部分を積み重ねることで全体を組み立て直す,という動作が必要になる.微分・積分の概念は,そういう人間の「ものの理解の仕方」に根ざした概念なのである.




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[出典]
~ List of Cite ~

文頭文末の引用は、
「1.短冊に切り分ける ~ 微分・積分の考え方 ~」(p.2-3)
 From
「直感でわかる微分積分」(著作:畑村 洋太郎 / 発行:岩波書店)
によりました。








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