チョコレート。
テキーラ。
缶ピース。
ラム(バカルディ)。
お月様。

>>>

つまりは月見酒であり、ガールがいないベランダは寒いのであり、ここは私の家ではないのである。

>>>

人格の多くは記憶によって形成されるのだと、14歳の青猫少年は思い至ったものである。

その予測は実に正しかった。

記憶が失われてもなお、生への執着が消えない人間を見ていると、どうにもやるせない感情が芽生える。

かつてのそれは、怒りに似ていた。
殺意にも似た、怒りだ。
いつしかそれは、憐れみに変わった。
拾ったところで助かる見込みのない捨て猫を見るような、憐れみだ。
同時にそれはおかしみに変わった。
もう、当人と呼べるだけの人格が存在していないように観察されるが、しかし当の本人はどうだろう。
今も自分は自分だと強く思っていることだろう。

殺意にも似たおかしみを感じて、だから僕はそばに寄り添うという選択をする。
排泄物と死の匂いがする。

>>>

もう僕は自分の2/3を生きた。
犬のように短い生命であることは最初から分かっていた。
だから、同じ時間を多重に生きようと思った。
ヒトとして、ケモノとして。
オトコとして、オンナとして。
色を持つ者として、色のない物として。
温度を時に失い、湿度を時に持たずに。

天命を知るにはまだ早いとは思うが、メトセラほど長生きできるはずもない。
なにせ僕は業が深いから。

それでも僕がこうして生きている理由は至極単純で、生きていることが楽しいからだ。

どんな悲しみも、どんな虚しさも、どんな孤独も、どんな痛みも、どんな飢餓も、どんな狂気も、僕を殺さなかった。
おそらく、僕が自分を好きにすぎるから、その自己愛のゆえに、僕は自分を生かす道を探してしまうのだろう、無意識に。

でも肉体が滅べば人格は消える。
僕たちという人格は僕を十分に楽しんだけれど、おそらく自身の死さえも、最初から楽しんでいるのだ。

>>>

多くの人は、自身が世を去る日を知らないという。
それはそれで幸せなことなのかもしれない。

人間は偉そうにあれこれ言うものだけれど、自身の生と死さえコントロールできない、未熟で不完全な存在なのだ。

終わりの分からないコースを走りながら、やれ努力だ、目標だと競い合う。
誰かに勝って、自分を誇示して、それで何かが得られるのだとしたら、たいそうおトクである。

>>>

量子論的に、この世界はヴァーチュアルなものらしい。
非常に哲学的ではあるけれど、僕も、他の多くと同じように、所詮は自分の主観にしか興味がないのだ。

客観なんてコトバは、主観しか知らない知性にしか思いつかないだろう。
なぜって最初から客観を知っていたら、それは主観として、その人格の中に生きるから。

>>>

あなたはダレを生きているの?

>>>

私は、たぶん、誰でもない。
私ですら、たぶん、ない。