::誇り? そんなものが何になる。
誇りが空腹を満たすか?
誇りが屍人を蘇らせるか?
生者にも死者にも役に立たないものを依りどころにすることに、いったいなんの意味がある。





>>>

集団には穴がある。
その穴は必ず発生してしまうもので、そして途方もなく深い。
その穴に、ときどき、個体は落ちてゆく。
落ちた個体が助かることは、まず、ない。

>>>

人が2人手を取り合えば、最低でもひとり、多ければ2、3人の人が中に入ることのできるスペースができる。
多くの人が手を取り合えば、その中に、より多くの人が入ることができるだろう。

その囲いは人を守るために使われる防壁かもしれない。
団結は集団の発展に使われる能力かもしれない。

そしてその輪は、誰かを飲み込む、穴かもしれない。

>>>

人間が集団を作るのは、あるいは社会性を持つ生物(昆虫や菌類も含まれる)がコロニィを構築するのは、それが生存に適しているからだ。

コロニィともなれば、集団が1つの個体としての生態を持ち、発生、成長、死までの時間的変化を持つ場合が少なくない。

とくに成長(発展)段階では様々な機能や能力を新たに獲得し、あるいは既存の能力を発展させ、単一の個体が集まっただけではとうてい不可能な影響力を持つこともある。

>>>

では社会が、あるいは集団が衰退してゆくときはどうだろう。

互いに手を取り合い、足りないものを補い合い、相互に補完していたはずの集団が、それまで抱え、処理しきれていたタスクが過重になる。
包括的な視点を持つものが少なければ、タスクと能力の差を見極めることはむつかしい。

集団の補完能力によって保護されていた弱者としての個体は、集団の能力の低下によって保護されることなく最終的に死を迎える。
情緒的にいうならば、死よりひどい状況も存在するだろう。

>>>

家族や会社、地域社会や国家は、衰退期になれば必然的に大きな穴を作ることになる。
手をつないでいた人が多ければ多いほど。
輪が大きければ大きいほど。
そこに呑み込まれる人は多くなる。

管理のためのムダなタスクはないだろうか。
新しい機能を作るのではなく、既存の機能を統合して、組織の触手をスリム化できないだろうか。

そして弱者は、本当に守る価値があるのだろうか。

>>>

なぜ弱者を守るのだろう。
なぜ弱者を守る必要があるのだろう。
誰のために。
何のために。

その根底にあるのが倫理観や道徳観だとしたら、それはあなたが本当に持っているものだろうか。
自分の中から、生み出された情緒だろうか。

もしも社会が衰退してゆく中で、それでも社会を存続させたいと思うなら、弱者は自ら身を引く必要があるだろう。
かつて社会の発展に帰依したことがあろうとなかろうと、その社会を生かすためには、社会を活用しない選択が必要なのではないだろうか。

>>>

僕は遺伝性の持病で、80代まで生きるのがやっとである。
通常は60代で死ぬし、社会的リソースとしての役割を果たせるのは50代までの可能性もある。

仮に60代から20年間、社会に養ってもらって生きる意味(あるいは価値、目的)が僕にはない。

そういうものを持たないように、つまりは生きることに過剰に執着しないように、これまで生きてきた中で選択してきた結果だともいえる。

もちろんヒマの潰し方はいくらでも心得ているし、長期的に達成したい目標のようなものもある。
しかし僕の目的が達成できたからといって、社会に劇的な変化を起こすことはまずないと思うし、ヒマを潰すだけの余生というのは、無価値とはいわないまでも退廃的ではある。

社会から、自由意志のもと、自ら身を引く選択があって然るべきだと僕がよくいうのはそのためである。

自分の為でもあるし、それは社会のためでもあると思っている。

>>>

弱者を守る必要が、僕は倫理観や道徳観ではなく、あると思う。
社会発展の機能として考えれば、弱者はリソースの消耗をより多く招く存在ではある。

必要とは、言いかえれば義務のことだ。

人がもし、自分の自由意志において弱者を守るとき、守る者自身の高貴さが守られる。
弱者に限らず、利己を最優先し、他者をかえりみない行為は結局のところ、そのものの品位をただただ落としてゆく。

>>>

結果的にそれは、自傷行為と同じなのだ。
他者を犠牲にすることに無神経でいられるのは、ある種のステータスかもしれない(それらを周囲から許されることに甘んじていられるだけの、何らかの価値を持っているという意味で)。

しかしそうした人から、僕は下品さを強く感じる。
(隠し子がいるという噂のある人物がこれを書いています)

品があるというのは、他者に譲る気持ちや慮る気持ちがあるということだと僕は思う。
品がないというのは、それらがないということになるだろう。

他人に譲らなければ、場合によっては、奪われ、傷つけられたと相手が感じる場面もあるだろう。

そういう気持ちや行為は、伝播するものだ。

あの人もしているから。
私がされたから。

そんな基準で、自身の品位を貶めている人も少なくはないと思う。
いちばんの問題は、それらが、無自覚に行われ、正当化されていることだ。
(もしかしたら僕は、品位に対して過敏にすぎるのかもしれないが)

見目が悪いだけではない、それこそ荒んだありようが、そこには展開されるだろう。

>>>

弱肉強食の世界。
一個の人体をしてもそうで、もっとも弱い部分から綻び、朽ちる。

再生能力がない、あるいは弱い部分であれば、その部分の機能はまず再生することのないまま、個体は永らえることになる。

おそらく朽ちゆく個体はそれでよいのだろう。
朽ちゆくコロニィはそれでよいのだろう。

しかし、もし人為的にコロニィの寿命を永続、あるいはせめても延命したいとするならば、相応の制御を、誰かがしなくてはならない。
あるいは恒常的なモデルを、そこに内包される各要素が自覚的、自発的に具現できるなら理想的ではないだろうか。

>>>

文明の発達によって、欠けた部分のある者でも、それなりに生きられる社会ができた。
その社会に甘えることによって人は、欠けていることが当然で、それによる不具合など感じない存在になったのかもしれない。

自然治癒力が低くても生きていける。
動植物を狩ることができなくても生きていける。
自分が知らない誰かを守らなくても、誰かがその人を守り、あるいは社会が、自分のことも守ってくれる。

くれるはず。

だから。
欠けていても問題などない。

自分に欠けているものなどあるはずがない。
自分が間違っているわけがない。
自分は常に正しくて、だから十分に価値がある。
コロニィの仕組みなんてブラックボックスのことなど、考えもしない。

そんな、欠損を持つものが輪を作る。
欠損を内側に向けて。
自分の目的と都合だけを考えて。

そのときできる穴は、本来よりも大きな穴だ。

>>>

集団には穴がある。
その穴は必ず発生してしまうもので、そして途方もなく深い。
その穴に、ときどき、個体は落ちてゆく。
落ちた個体が助かることは、まず、ない。

私が皆と同じ方向を向いたとき、その背後には、私の欠損が作った穴が口を開けていることだろう。

あなたはどこを向いているのだろう。

視野から外れた背後の、微かな咀嚼音が聞こえるだろうか。
その口は、誰の口だろう。





>>>

::うぬらに誇りはないのか。
名もなき弱き者たちを、守り助ける義務を忘れたのか。
自らの存在する意味を、役割を、忘れたのか。
私利私欲と他者の血にまみれた獣に成り下がったか。