20171012

ウィスキー、サラミ、シガー。
ときどき柿ピー。

休日といえば介護か引越し、という生活を1年半以上も送っていて、そのことは少なからず僕を底抜けにげんなりさせる。

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独りの自由で孤独な日々。

他人がどう言おうと、どう思おうと、その日1にちを自分で選びとっているという確信とヨロコビ。

私自身が許さないかぎり、自分は誰のリソースにも成りさがったりしないという矜恃。
何かと交換に手放したつもりも、売り払ったはずもない。

なのにほんの1時間ですら、のんびり、ぼんやりとした気持ちで遠い世界や、抽象的な概念に浸ることが許されない。

もちろん、そんな愚にもつかない、カネにもならないことに心血を注ぐ必要などないではないかという向きもあるとは思う。

でも本当に?

それの用途のない時代に発見された電気だって揶揄されたではないか。

四則演算が、そもそも数値の概念が、ない時代から人類は生きてきたのだ。

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医療技術の発達によって、個々人の人格が肉体よりも先に崩壊し、あるいは少なくともほころびるようになった現在、医師たちは延命治療を「しない」という選択をサゼッションするようになってきている。

やがて先進国は、生命というメディアの上に「人格」がないならば、その生命は仮にヒトであったとしても「個人」たり得ない、という自明の概念を浸透させるだろう。
「脳死」という定義がもたらされた段階で、これらはすでに起こっていたことだけれど「個人」が何に宿るのかということについては、形而の境界がいまだに不明瞭なのだろう。

だって、記憶が人間の脳のどのあたりにあるかということが分かっていても、それがどんなフォーマットで、どのように格納され、どんな手続きによって取り出されるのか(少なくとも表向きには)解明されていない以上、人間の記憶はブラックボックスのままで、記憶による定量化された価値観の重み付けと、価値観の集積による人格形成に至る関数が解明されていないのが現状で、ヒトは「個人」の個人たる根拠と境界を明確にできないがゆえに「個人」とその根底を為すはずの人格を定義できないのだから。

そうした量子的な存在である「個人」を、しかしヒトは感覚的に理解し(あるいはそのつもりになっ)て、たとえ抽象的にであっても定義しているのが現代の社会。

そして「老い」によって曖昧に境界を失いつつある個人とその成立要件である人格を保持するために支払われる、個々人、もしくは社会的なリソースは、最終的に社会そのものの定量的な物質を、社会そのものの推進力としてではなく消耗してゆく。

端的にいえば、生命倫理が旧来のカタチから変革しないかぎり、死にかけた人間を物質的に保持するためだけに、多くの人間の時間と経済が消耗されてゆき、保持された死にかけの人間が果たして人格を適切に保持した「個人」なのか、それとも単なる「生体(生命活動を続けるだけの物体)」なのかは曖昧に定義できないまま、社会そのものが疲弊して痩せ衰える運命にあると僕は思っている。

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さて。

個人とは何だろう。

人格とは何だろう。

生命とは何だろう。

倫理とは何だろう。

社会とは何だろう。

経済とは何だろう。

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いずれAIにも、人格権が認められるかもしれないと僕は思っている。
でもそのとき、人類は、人格の意味を刷新する必要に迫られる。
つまり、人格と非人格の境界とその定義を明確にする必要に迫られる。
(定量的にではなく量子的にであれ)

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死というのは、あるいは生というのは、しかし量子的に、観察上(客観的に)はディジタルな側面がある一方で、しかし主観的にはアナログなのだ。

毎日たくさんの細胞が死にながら、生命活動が維持されている。
死んだとされる個体の肉体の多くの部分は、まだ生体としては生きている。

どこからどこまでがその個体の死で、どこからどこまでがその個体の生なのだろう。

抽象的で曖昧だ。
だからヒトはそこに挑むのかもしれない。

でも、挑もうと挑まなかろうと、現象はそこにあって、社会はそれを内包しながら、時間の概念によって直線的に後戻りなどできずに進んでゆく。

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僕には、何も考えず、ただただ日々を、追われるように、ただただ生きるという選択肢も当然ながら与えられている。
おそらく抗うことなく生きる道もあるだろう。

しかし果たして、それは生だろうか。

何も生み出しはしないことを考えるのは、そんなにも役に立たず、非生産的で、愚にもつかないことだろうか。

いや仮にそうだとして。

ならば生産的で、利口な手法と道筋は、いったい誰が知っているというのだろう。
いったいだれが示してくれるのだろう。

あなたか?

それとも政治家か?

1日経つごと、社会は1日ぶん進み、僕らの寿命は減り、つまり僕らは1日ぶん、賢くあったほうが望ましい。

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どこからどこまでがその人格の生で、どこからどこまでがその人格の死だろう。

だから人格は、自らの死を、自ら定義する必要がある。

曖昧で抽象的なものにメスを入れ、2つに切り分けるのは、他ならぬ知性の能力なのだから。

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僕は今日を生きる。
あるいは今日、死ぬかどうかを決める。

生きるとは、漫然と、今日も明日も生きることを指すのではない。
生きることと死ぬことを切り分けて、どちらに自分がいるかを決めることではないだろうか。

葉巻の煙が美味しいから、今も生きているものと想像する。

ヒトがヒトを生きる必要があるように、猫は猫を生きる必要がある。
観察者が観察したときに初めて生きているか死んでいるかが決まるような生き方を、神をも恐れぬ傲慢な僕は許すことができないのだと思う。