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//TimeLine:20180424
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TITLE:
平面世界に落下する直線。
SUBTITLE:
~ Squared sequency. ~
Written by Bluecat


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180424

 雨。
 湿気が街をヴェールのように覆う、優しくて穏やかで、でもどこか所在なさそうな、雨。
 まぁ「はっきりしないお天気」なんていう言い方もできるわけですが。

 昨今の陽射しはあたたかさよりも日陰に隠れる怠惰を叱責するような苛烈さを感じるし、雨にしても街を行き交う人々を鞭打ち、人の建立した傲慢を押し流したいかのような無慈悲さを感じる。
 それに比べれば、この降っているのかよく分からない、上がるような様子もいまひとつ感じられない、という雨はたおやかで心地よい。
 はっきりしないこと、白黒のつかないことが悪し様に批判されることも多い日々の世相に思いを巡らせたのち、少し仮眠を取った。

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 以前、一度だけ「音声ブログ」的なものを試したことがある。
 たぶん Evernote あたりで試したのだろう。
 このブログ上にリンクを張り付けた。

 内容はいつものとおりくだらないことを羅列しているが、けものフレンズについてのくだりは表現が充分ではなかったと思うので文書化したいと思っている。

 とにかくいつものとおりエントリィに対する反響や評価、つまるところの閲覧数やらコメントには何の期待もしていないし価値も見出していない。
 どういうわけかコンテンツのメッセージや表現のクオリティが高いことによって評価の絶対数は多くなるかもしれない半面、長期的には次第にクオリティを下げる方向に作用する。
 おそらく、誰でもそうなるとは思えない。
 単に僕という人間の弱さが露呈しているのだろう。
 他者の視線を必要以上に意識してしまう自意識過剰な性格が、多くの場合、災いばかりを招き寄せる経験則から、僕はなるべく目立たないことに注力し、目立ってしまっても気にしない事を意識し、他者の視線や評価を無視することに価値を置く。
 すでにこの時点で相当な矛盾を内包していて面白いのだけれど、今回のテーマはそこにはない(今回に限らずテーマそのものが基本的には存在しないのだが)。

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 音声ブログというのは一時期、局所的に流行した。
 たとえば僕の思考の作った文章に興味を持った人間が、僕そのものに興味を持って、それが高じて(程度がひどくなる、という意味で捉えると面白い)僕の周辺情報までを希求する。
 どんな顔なのか、どんな声なのか、どんな肌なのか、どんな骨(あるいは骨格)なのか、オカネモチなのか、どんな場所に棲んでいるのか、どんな発明をしているのか、どんな料理を作るのか、どんな手をしているのか、どんな肉体なのか(ホントに猫なの?)、どんな服を着ているのか、どんな仕事をしているのか、どんな友達がどれくらいいるのか、どんな恋人が何人いるのか(27人です)、どんな家族構成なのか、どんな生い立ちなのか、etc.ETC...(誤字(綴りは一緒だが大文字にするとまったく別物になってしまう)は相変わらずわざと)

 そのニーズを満たすためのちょっとした読者サービス、あるいは書き手の「タイピングが面倒だ」という怠惰に適応したツールとして、音声ログは一定量の必要性を獲得したのだろうか。

 しかし実際のところはどうだろう。
 僕は自分で音声ログを作り公開したものの、すぐに(こりゃだめだ)と思った。
 口語かつ普段のラフな(そのうえ完全に散文的な)トークを展開できるのはいいけれど、いかんせん校正する術に乏しい。
 あらかじめ原稿か、せめてもテーマをメモしておけばよいかもしれないが「とりあえずちょっと書いてみる」というノリでレコーディングを開始すると収拾がつかなくなる(こんなことになるのは僕だけでしょうか(生徒会長立候補口調))。
 ラジオ番組でもあるまいしBGMやらジングルで盛りたてれば過剰な虚飾が興醒めだし、だからといって上記の通りテーマを決めてのソロトークには限界がある。音声的には間ができることもしばしばである。
(実のところ僕は1時間にわたる収録を一度しているのだが、容量の関係で非公開になっている。しかもそれは運転中に録音したため、途中で「あ、あいつ危ないなぁ」といった発言があったり、安全確認や右左折時にかなり長い沈黙が訪れたりしている)
 ほどよい雰囲気の収録をするには、誰かしらのゲストか、相応のシナリオを用意しておく必要がある。
(ゲストが存在しても、僕の会話はテーマが拡散しがちなので、軌道修正が得意な、あるいは紆余曲折する内容にフィットできる人物でなくてはならない)

 聞いてみても同様で、先送りが出来ないわけではないもののインデクスないから、飛びすぎたり、手前すぎたりする。
 全体像がつかみにくいから、そのときの話がどのような意味を持つのかわかりにくい。

 とにかくシーケンシャルなメディア(あるいはコンテンツ)の弱点がこれでもかというくらい露呈するのである。

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 文章というのを「文のまとまり」、文を「意味を持つ単語と接続のまとまり」と考えた場合、その記述様式は基本的にシーケンシャルである。
 あるいは条件分岐を持たせる場合の文法も(前述の「あるいは」がそうであるように)存在するが、コンピュータプログラムのように「分岐されなかった文は処理に上らず考慮されない」ということは原則として、ない。

 シーケンシャルにすべてを読み、かつそこから意味を読み取って、全体を俯瞰してはじめて文章というものは機能する。はず。ではないだろうか。という気がする。
 だんだん気が弱くなっている。どうしたものか。

 というのが僕の思考の特徴といえば特徴で、どんどん分散して横道に入ってしまう。
 左折を4回繰り返せば元の道に戻る、なんていう理屈もまったく通じることなく、いわば3次元的に、どこかあさっての方向に行ってしまう。

 さてもこのように平面的な広がりを文章の意味が持っている場合。
(その広がりに必要なのは広さではなく、深さや未踏域であるかどうかが大事だと僕は思うのだが)
 直線的な機能しか持たないメディアであるところの音声(まぁ、多くの映像もそうだが)は、メディアの次元が低い、といえる。

 要所要所でその先のコンテンツを選択することが可能なゲームは、自由度においては次元が高いが、再現能力は低いように思える。

 再現能力を持つゲーム……。
 あ。
 いわゆるエロゲですか?

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 いずれにしても、文章というのは不思議なもので、内容は(基本として)直線的なのに、読み手の再生自由度が平面的になっている。
 僕にとって文章を書くというのは(テーマが決まっているのでもないかぎり)その再生自由度に従って平面分散する。
 でも、かつてに比べると、そもそものアタマの回転が衰えてきた。
 平行分散でものを考えるのは、もう、ハード的に限界かもしれない。

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 僕は雨が好きだ。
 はっきりしないお天気というものの中にいると、本当に安心する。








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