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//TimeLine:20180308
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TITLE:
そんなに自分のことが好き?
SUBTITLE:
~ Love me much, love me ever. ~
Written by BlueCat

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 およそ1ヶ月ぶりに部屋の掃除をし、およそ2年ぶりにのんびり昼寝をする。
 昨日は数ヶ月ぶりに長風呂(およそ2時間)をしたのでコンディションはかなりよくなった。

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 僕は自分大好き人間として認識されている。たぶん。あるいはブログの上では。
 先日も自動車内で歌を歌っていて(このブログを読んでいる人の一部は知っているかもしれないが、信号待ちで停車中であってもおかまいなしのちょっとした熱唱っぷりであり、ある種の「アブナイ人」だと認識される可能性が高い)、そのとき「ああ、自分の声っていいなぁ、嫌いじゃないなぁ」と思った。
 もちろん内耳に反響する声(骨導音)と外耳でただ聴く声(気導音)は違うから、「ああ私の声はこんなふうに他の人に聞こえてるんだ……ショック!」と落ち込む類の人もいるようだが、発想を逆にすればまったくノー問題である。

「この声(骨導音のほう)は、世界でただひとり、俺しか聴けないんだ! この素晴らしい声(自分で言うかふつう)を(少なくとも僕だけは)もっと聴きたい!
 だけど他の人は聴けないんだよね、ぷぷぷー、残念でしたー!」
 といった具合に。

 まぁ、少なからず誇張はしているつもりだし、誇張の結果として少なからず病的になっていることは認めるが、おおむねこんな感じである。

 そりゃあ他の人から「君の声って軽薄だよね」とか、「あなたの声を聴いていると、すごく気分が悪くなる」とか言われたらちょっとショックだけれど、たいていの人はそんなことを言わない。
 たいていは他人の声質になんてたいして注意を払っていない。
 だからもし自分の声を録音で聴いて(うっわ、こんな声だったのかショック! もう誰にも聴かせたくない)とか思ったとしても、そんなことを思っているのはアナタしかいないのではある。
 だって前述の通り、他の人はあなたのその気導声音を聞いて「あなたの声」と認識しているのだから。
 だからその声でショックを受けるのはアナタ以外にはいない。
 ゆえにあなたは、自分自身の骨導声音を聴くことができるのは自分しかいないという事実を客観的に知るべきであり、そのとき(場合によっては)「この骨導声音を聞くことのできるただひとりの存在である自分ちょうラッキー!」とか思えるのではないだろうか。
 え、思えない?
 僕はちょうラッキーって思っているんだけど。

 ちなみにあるガールに、
「青猫様の胸に耳を当てているときに聞こえる青猫様の声は、青猫様の聴いているご自身の声と一緒なのかもしれませんね」
 と言われたことがある気がするが、ないかもしれないし、ただの捏造かもしれない。
 どっちにしても僕は自分の胸に耳を当てることが物理的に(存命中は)不可能なので「ワカラン」と答えた気がする。

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 さて。
 旧来のY!ブログがリニュアルされて、システムが変更されようとしているこのタイミングで(多くの人は意味が分からないとは思うが、僕が勝手に作ったこのブログのタグ機能は意味を為さなくなるということである)僕が文書をそれでもリリースすることにはまったくなんの意味もない。
 のだけれど、今回は性同一性障害についての話などを含めつつ、この「自分好き」の加減について話してゆきたい。ゆきたいだけで、そうはならないかもしれないし、そもそも読者がいないことは僕自身がよーーーーく知っているからそのつもりで。

 性同一性障害というのは乱暴にいってしまえば「自分の性別、おかしくね?」ということである。あえて砕け散ったような言い回しをしてみたものの、聞こえがよいものではないことは否定できないし、論点はそこにはない。なにより「くだけた」の強調の仕方が間違っている。
 一部の読者は知っているかもしれないが、僕自身は(諸般の事情により)子どもの頃から自分のことを女だと思っていたため、一種の性不一致に悩んだことがある。
 それまでは家族の中でも、友人関係も含め女性ばかりに囲まれていたものが、ある日突然「はい、青猫くんはこっちー」と、男の子と分類され、その集団に放り込まれたときの混乱と不安と恐怖。

 ちなみに当時の家族構成は父と母と3人の姉と妹である。
 父親と接する時間は少なかったし、とにかく女まみれであったことよ(遠い目)。

 けれども僕は最終的に男性である自分を「これでいいかな」と思うようになった。
 だいたい30代になる頃には自分の性別に慣れたし、半ばを過ぎると性別なんてどうでもよくなった。
 なぜなら女好きだから。しごく単純である。
 男性にも平気で恋情を抱くことはあるが、ニクタイカンケーへの欲求は抱かない。
 肉体の性別はどうやってもオトコであるから、周囲からは男性と識別されるし、仕種や言葉遣いに無意識に現れる「オネェっぽさ」もネタと考えればそれはそれでコミュニケーションツールとして使える。
 それに肉体の性別を女性にしてしまったら、ねんごろなガールとぱやぱやできないのである。
 そもそも精神的な性別が判然としているわけでもないのだから、これはこれでいいか、となった。

 客観的には「青猫は男性である」というのがスタートラインで、
 次いで「青猫はオネェっぽい(ナヨナヨしている、フニャフニャしている、何を考えているか分からない、などと評されることもある)オトコである」と認識されるようになる。
 べつにそれはそれで僕のキャラだから、いまさらマッチョな人格を持つ術もない。
 その土台がない。意識がない。価値観もない。よって継続的にそんな性格になることは困難である。
 時代の風潮も、セクシャリティについては緩くなってきた。
 性染色体異常についてはさほど認知が広がっていないと思うが、学校で「生物」という学科を習うより早くそうした情報(一時、父親が科学誌を定期購読していたので)に触れていた僕にとって、人間が肉眼で認識できる範囲は、世界のうちでもさほど大きいわけではなく、またそこで認識されることがすべて真実であるとは限らない、というのが基本だった。
(だから僕は量子力学的にネコでもありヒトでもある、という波動方程式の解を導くことができた、などと嘘をついてみる)

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 一般に人間、個々人は、その個体の視点から肉眼(あるいはまぁ、耳とか鼻とか舌とか)によって認識されたことを事実だと認識する。
 そこに錯覚や誤認、死角や誤解が含まれている可能性をきちんと把握して、検証する人はさほど多くはない。
 心理的な思い込みから妄執にいたるまで、自分の感覚や認識を離れて見ることのできない人は思ったより多く、にもかかわらずそういう人ほど物事を主張する声が大きい。

 さて、ここに青猫氏が居て(さぁ、赤いザブトンにちょこんと座った僕を思い浮かべてみよう。しっぽをときおりぱたぱたさせて、キミの瞳を凝視している)、人はそれを見て「オマエはオトコだ」と認識する。
 なぜなら僕のカラダはヒトの男のSO・RE・DA!

 人間に見える。
 男に見える。
 すなわち「青猫は男性である」と認識される。

 青猫氏は、子どもの頃の家庭環境がちょっとだけ偏っていたので、自分の性的認識の構築が他の多くの人より比較的あいまいにできている。
 だから彼の内面世界において「O・TO・KO!」としての一般認識に合致しうるキャラクタを構築できていない。
 女については大量のデータが揃っていたので、それらをもとに自分の人格を形成した結果、肉体と精神の性的意味づけが相違した。

 ちなみに僕は周囲から「オネェっぽい」といわれようと「男らしい」といわれようと「かっこいい」といわれようと「かわいい」といわれようとあまり気にしない。
 他人の評価は他人の感覚だから、僕はどちらでもかまわない。
 たとえば他人がものすごく辛いカレーを食べてひぃひぃ言っていても、それは他人が辛いのであって僕が辛いのではない。
 僕が辛いと感じるときだけ僕は辛いと認識すればいいので、他人がなにをどう認識していても、それは事実認識の判断材料になっても事実そのものとして認識すべき対象ではない。

 周囲から「オネェっぽいオッサン」と認識されたとき。
 このとき僕は自分の性的アイデンティティについて、他人に開陳すべきだろうか。
「いやぁ僕は子どもの頃から自分が女だと思っていたことがあって、今は性的にはどっちでもいいかな、って思っているんです」なんて。

 あるいは僕が自身を女性だと思っていた場合はどうだろう。
「私の性別は、あなたの言っているそれとは違うのです」と主張するのは。
 奥ゆかしい僕にはむつかしい。はっきりいって無理だ。もとより無意味だと感じる。

 もちろん誰だって自意識的な性認識は何らかのカタチで持っているものだと思うし、持っていてもいいと思う。持っていて然るべきだといってもいいかもしれない。叱るべきとはいっていない。
 でも、それを他人にも認めてもらって、そのように扱ってほしい、という意識が、僕には少々理解しがたい。
 心情的に、そういう気持ちが分からないではない。
「認識してほしい」とは「理解してほしい」であり「受け容れてほしい」のである。
 要は「愛してほしい」のである。
「ワタシという性的マイノリティを愛せよ!(命令形)」と言っているのである。

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 僕は自分が好きである。
 かなり好きであるし、それを素直に自己認識し、ストレートに周囲にも表現している。
 アタマワルイ人と思われているときもあるようだけれど、それはそれでその人の認識なので「僕には手出しができない」。

 もとより僕自身が愛されるに足るかどうか、僕自身を他の人が好ましく思うかどうかは、他人が決めることなのだ。当たり前のことである。
 だから僕を嫌いな人がいたとして、僕は気にならない。それはその人の価値観だから、それでいいと思う。
 無理をしてまで好かれる必要はないし、僕を嫌っているというだけの理由でその人を嫌う理由にはならない。

 自身が性的(あるいはその他の価値観で)マイノリティだったとして、それにたいして十全な理解や愛や寛容を求め、強制したところで、手に入るのは薄気味悪い愛想笑いだけのように僕には思える。
 同性に恋愛したことのない人にとって、同性に慕情を抱くこと自体が理解できないのと同じように。
 理解できなければ、人間は非難したり差別したり迫害したりもするだろう。
 過剰な拒否反応を示すこともあるだろう。
 それによって辛い(カレーの話ではないので、ここでは「つらい」と読みましょう)思いをすることもあるだろう。
 今はもう、ほとんどの人格/価値観に起因したマイノリティも(法に触れない限りは)「隠すべきだ」という時代ではなくなった。
 べつにオープンにしていていいと思うし、自身が抑圧する必要もないとは思う。

 ただ反動形成的に、愛や理解を強要する姿は、僕には少々滑稽で、なにより幼稚に映る。
 ガキがセックスを語るなよ。とまぁ、そんなふうに思っているわけではないのだけれど。
「聞いて、聞いて?」「わかって、わかって?」
 なんてまぁ、ねんごろなガールに言われるぶんには甘やかしちゃうぞ! なんて気持ちにもなるけれど、たかだかマイノリティな価値観に属しているだけの赤の他人(それも多くは成人だ)が、広く世間に求めるようなことだろうか。
 そういうマイノリティな価値観があるのは解るよ、認めるよ、というのも価値観ならば、そんなのは認められないし、気色悪い、と思うのだって価値観なのだから。
「これが認められないなんておかしい!」なんて一意的な良識を振りかざして、誰か(あるいは何か)を攻撃するのは、どうなのかなぁ、なんて僕は思ってしまうのね。

 そんな懸命に他人に愛されようとしなくても、他人に認められなくても、自分を認められる自分がいれば、自分を愛せる自分がいれば、スマートに生きられるのではないのでしょうか。








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